ヨーガの実践

誰もの中にある真実


瞑想ワークショップ「芽吹きの春 瞑想会(ヨーガ・ヴィハーラ)での体験談より
(2010年3月22日)

ヨーガとの出会い(発心)

私がヨーガに出会ったのは十年前です。その頃の私は、生きることに迷っていました。この世の中に頼りとするものを見いだすことができなかったからです。二十代半ばで大きな手術を受け、三カ月の入院生活の間に病で死にゆく人に多く出会いました。誰もが精一杯生きている、けれど、あっけなく死んでいく。生まれて初めて生と死に直面し、それまで自分が握りしめていた、愛する人々とのつながり、将来への理想などはどれもこれも、時間と状況の中で変わり、いつかは失うものだと気付かされます。私は退院してから、「頼りになるもの」を求め始めます。

そんな時にふとしたきっかけで出会い、習い始めたインドの古典舞踊は、私に一つのヒントを与えてくれます。今思うと真実を悟られたブッダ、お釈迦様の生まれたインドの踊りを選んだのは、意識せずともそこに大きな不安への解決を見いだそうと思ったのかもしれません。私が習ったのはインドの寺院で踊られる巫女舞が発祥の踊りです。踊りは神に捧げるためにだけありました。私はこの世の中にではなく、神だけを見て、神だけを愛し、それに一生を捧げる人がインドに数多くいることを知ります。私は踊りに魅せられ、練習を重ね、踊りが目指すものを知りたいと思いました。

その中で何ものにも影響されない絶対である真実の存在、それが神だという、確信が生まれるようになりました。そして、真実の存在は目に見えなくとも、私たちも見守ってくれている、神の声はきっと胸の奥で聴くことができる、と思い始めたのです。真実に触れたい! その存在を確かめたい! 私は神の声を聴こうと努力しました。めまぐるしい日常生活の中では難しいと思ってからは、月に一度は神社やお寺に出かけていき、静かな場所で神の呼びかけを待ちました。滑稽なことと思われるかもしれませんが、当時の私は真剣でした。目を閉じて一時間、二時間座っていると、木々が葉を揺らす音、鳥のさえずりが心を静めてくれますが、神は呼びかけてくれません。「こんなことをしていても無駄なんじゃないか」、落胆の中にいたちょうどその頃、意図せずして踊りを止めました。

ある時、ランチに出かけたレストランでこちらの「アーサナ・瞑想クラス」のチラシを見つけ、身体に良さそう、という気軽さでクラスに通い始めます。そして間もなく、ヨーガは健康を目的にした身体のトレーニングではなく、真理を実現するためにあるものだと知ります。真実の存在を渇望していた私はヨーガに魅せられる一方、とまどいを感じます。どこかにあると思っていた真実を自分が「実現する」という事が理解できなかったのです。数カ月経った頃、まだお会いしていなかった、私たちの先生シュリー・マハーヨーギーの言葉を、目にすることになりました。そこにはこう書かれていました。「私はあなたです。あなたは私です」

その言葉は私の胸にすとんと落ちました。目から鱗が落ちるとはああいうことをいうのでしょう。どこかにあると思っていた真実は私の中にもある、そして誰もの中にもあるということが、その瞬間に理解できたのです。私がずっと求めていたものがここにある。私は本当に歓びました。これが、私のヨーガとの出会いでした。


学びと体験

日々行なうことの大切さ
ヨーガに出会う前からの真実を求める気持ちは、今でも私のヨーガへの熱意となり、大きくなっています。迷いが出てきた時、その発心といえる、求め続けてきた気持ちが私を後押ししてくれます。ヨーガを学び始めた頃、特に瞑想はどうすればいいのか、全く分かりませんでした。瞑想に座っても、いろんな思いが湧いてきて心はくるくると忙しく絶えず動き回っています。よく分からない中で最初に私が決めたことは、とにかく毎日アーサナと瞑想を行なうことでした。毎日続ける中で効果が現れてきます。アーサナ中から集中が訪れるようになり、時には言葉にできない歓びが湧き上がるようになってきました。そしてそのまま瞑想に座った時、心は静まり胸の奥に集中し、終わってからもずっと集中感が続くようになりました。それとともに身体は軽くなり、それまで日常で思い煩っていたことにあまりこだわらなくなっていました。

その中でも、日常の問題に心がかき乱されることはもちろん出てきます。そういう時こそ、自分を試すチャンスだと思います。瞑想を終えると、抱えていた問題への、決して自分では思いつかない解決策をもって帰ることがあります。それまで悩みや問題があると、友達に電話をして話を聞いてもらったり、食べたり買い物をすることでストレスを発散していたことは、単に自分の気持ちをごまかして見ないようにしているだけで、本当の解決にはならないことにもすぐに気付きました。そうした一つ一つの手応えから、教えてもらうことを、素直にやってみようというヨーガへの信頼が育まれ、絶対のものとなっていきました。

心が日常生活の中で何かに執着し、波立っていると、アーサナも集中できず、瞑想もただ考え事をしているだけの、空しい時間となってしまいます。毎日の心のあり方がどれほど大事か、そのために行ないを丁寧に良くしていくことがどれほど大事かということが分かります。アーサナ、瞑想はただそれを行なう時だけでなく、二十四時間ずっとつながっています。アーサナ・瞑想で心を静め、日常を良くする、日常を良くしてアーサナ・瞑想を集中して行なう、それら相互関係で成り立つヨーガの生活は、本当に心地よい軽やかなものです。私たちは寝る、食べるは生きるために必要だと身体が知っているから、毎日それをします。それと同じように、日々心を真実に向けて過ごすことは、生きるために必要だとヨーガは教えています。

瞑想の体験
私は、真実が誰もの中にあり、万物の本性が真実だということを、本当に知りたい、そしてせっかく与えられたこの命ですべての存在を愛したいという理想をもって、ヨーガを学び、瞑想しています。その思いから、自然にそれを知っておられる聖者に集中することが多いです。かのお方はどのような心でおられるのだろうか、こういう時にはどのように行為されるのだろうか、と考え、その姿に集中します。

ある時、私はお土産にインドのアジャンター遺跡の壁画の絵はがきを頂き、瞑想でその中の、泣いているブッダの一枚が浮かびました。心はブッダに注がれ集中していきました、すると言葉にできない深い深い愛に満たされていきました。それはそれまで感じたことがないものでした。日常生活で実際に見たり、聞いたりする体験よりも遙かに生々しい体験であり、とても大きな印象を残す出来事でした。それはまだまだ瞑想の入り口ですが、ブッダの愛の片鱗を感じたことは、瞑想の大きな体験となりました。それを感じることができたことは、私の中にも真実があるということの証が与えられたと思います。そして、本当の自分はこうだと思っている私ではなく、輝かしい存在であり、誰もがその輝きをもつ尊い存在であるということ、そしてそれを感じる瞑想は歓びに溢れているということを知ることになりました。

ヨーガを学ぶ中では、自分が本当に何を求めていることが問われます。自分はどうありたいのか、そのためにどう生きるか。その時、無知であり自分に不必要だと分かりながらも放すことができず、心が慣れ親しんだ、握りしめているものを棄てることを迫られ、心は苦しみます。その時に瞑想は、必ず心の欲望に負けない勇気と希望、強い意志を与え、導いてくれます。求めれば必ず、ヨーガは応えてくれます。必要なのは特別な才能ではなく、情熱だといわれます。

真実は誰もの中に、すでに存在する。あるのに私たちが気付いてないだけだとヨーガは教えています。真実がここに、そしてすべての中にあることを胸に刻み、すべての存在を本当に尊び愛することができるために、これからもヨーガを、瞑想を学んでいきたいと思っています

サラニー

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