ヨーガの教え

自由への道

「カルマと行為」

ヨーギーの正面、最前列には縁あって大阪のクラスに参加し始めた若いカップルが座っている。奥さんはメモを取り、二人とも熱心に話を聞かれている様子。
男性「先ほどの善い行ないということについて、自分はいいと思っても、たまに人を傷つけることがあったりすると思うんですけれど。例えば職場で上司から何か言われて、全体を見れば明らかにそれが間違っている時、否定をしてしまうと逆にその人を傷つけるというか……。そういうことが生きていく中で多々あると思うのですが、人とかかわっていく中での善い行ないとは何かというのを教えていただければ」

ヨーギー(力強い口調で)「善悪の問題というのは、古い時代から非常に微妙な問題で、一面から見れば善であっても、別の面から見れば、それは悪になるというようなこともしばしばあります。しかし、今はそのようなことに立ち入らないで、簡単にその善悪を見分ける方法を言いましょう。それは利己的な結果を求めるものは悪であり、利他的な、他者にとって良いという結果を求めるものは善。他者の幸せになるものですね。それを善というふうにおおまかに分けることができます。
けれども今の職場でのお話のように、一方から見れば善でも、もう一方から見ればそれは傷ついてしまうというようなこともあります。これはやむを得ないことなのです。この世の中はそういう意味では善悪、あるいは清濁併せもっているというふうに思うしかありません。
つまり全面的な善のみの世界、反対にまた悪のみの世界ということは、あり得ないということです。だからそのような善と悪の狭間でさまざまなものを感じながらも、それらを糧として、あるいは何らかの教訓としてより良いものを目指していく、そういう道具というか、そういうものとして捉えるべきですね。それはその職場での人間関係があるとするならば、それぞれがお互い同じような状況でもって、同じように経験していくものだと思います。しかしそのことに気付き、つまりできる限り他者を傷つけないでおこう、そうしてできるだけ他者に喜びがもたらされるようにというふうに、自らが行為を改善していくのが望ましいです。そのように行なってください。

それから、ついでながら『ヨーガ・スートラ』という古いヨーガの権威ある聖典の一節にこういうものがあります。『ヨーギーのカルマ――ヨーガ行者のカルマは白くもなく黒くもない。しかし、一般の人々のカルマは白か黒、あるいはそれが入り交じっているものだ』。白か黒というのは白は善、黒は悪を意味しています。だからヨーガを行なっていけばカルマを超越する、ということがそこに示されているわけです。
これも理にかなっているのです。つまりカルマというものは、エゴという主人公、そしてその心棒のあるところから生まれていく、そしてそこに返っていくというわけなのですね。つまりヨーガを行なって深めていって、エゴが薄らいで無くなっていけば、もはやカルマは生じない。どんな行為をしても、行為というカルマを行なっても、それの結果を受け取ることがない。善も悪も超越しているからといえます。
(しばらくの沈黙の後、軽快に)これが最も――ベストウェイです」
ヨーギーは質問者の男性を優しく見つめながら、何度もうなずかれる。

サナータナ「そうしたら自分のエゴではなく、他者のために良かれと思ってすること……例えば両親にとってはこうするのがいいだろうと、往々にしてこちらが良かれと思って言ったにもかかわらず、喧嘩になってしまったりとか、結果としてはあまり善と思えるような結果が訪れなかったりというのは、どうしていったらいいのでしょうか」

ヨーギー「それは単に、親が望む善と自分が望む善のヴィジョンの食い違いのせいです。またそれは親子であろうと、あるいは夫婦、兄弟であろうと一人ずつカルマは違う。したがって、そこに見るヴィジョンも微妙に異なっているかもしれない、ということを意味しています。
だから親に対して善を行なう時には、その親の願っている善のヴィジョンを事前にチェックしておくべきです(皆笑)」

サナータナ「そういう時には、相手にとって良かれと思っているけれども、まだ自分が良いと思っていることをしているにすぎないということでしょうか」
ヨーギー「そうですね……残念ながら(皆笑)」

 

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