ヨーガの教え

ヨーガの真髄

「本当の幸福とは」

昨年十月頃より、大阪クラスに熱心に通っている高木さん。アーサナ(体位法)の実践とともに、日頃から真理を学び、理想をもって生きたいと努力している。

高木「私自身ヨーガをがんばってやろうとしていますけれども、実際に本当の神は知らないですし、アートマン(真我)自体も、イーシュヴァラ(自在神)も分かっていないですし、何も分かっていないと思うんです。常日頃、生きていく中でそういう感覚をもって生きていきたいと思っているのですが、どういうふうにしていけばいいのかを教えていただきたいと思います」

ヨギ「誰もがこの人生に願うものといえば、幸福だと思います。どういうかたちが幸福なのかというのは人によって違うかもしれない。だけどその幸福であるという内容には、共通した普遍的なものがあるはずです。じゃあ、どういうものにそれが見つけられるのか。およそ自分で考えられる理想をすべてテーブルの上に出したとしても、果たしてそれで本当に幸福が得られるかどうかということを、吟味してみることです。同時に古今東西のすべての幸福のサンプルというものが、いったい見つけられるだろうか。どんな英雄も、富める者も、美貌も知恵も、永遠の幸福を与えてくれただろうか。幸福を求めた度合いが大きければ大きいほど、不幸の度合いも大きいというような伝説を、数多く歴史は語っています。

そのような探求を限りなく行なっていけば、結論はこうです。幸福を求めないならば、それが幸福なのかもしれない。ちょっと皮肉に聞こえますけれども、心が何かを願う時、それは心というこの器の中にいわば夢が充満するようなものです。そしてそれを少しずつ具体化していこうと必死になって、この人生をもがきます。少しずつ、その幸福がパズルのように埋められていく。そしてそれがいっぱいになっていったら幸せでしょう? だけどそれは次の瞬間から崩れていきます。それが心というものです。なぜならこの世界、宇宙も刻々と変化をしていますし、当然その状況も変わっていきます。また心も同様に変化していっているものです。昨日幸せだなぁと思っていたことが、今日は不幸になるかもしれない。小さなことから大きなことまで、すべてがそのようなカラクリになっています。

一方、そういった想念が何もない時、熟睡している時、その時は気付かないかもしれないけれど、朝起きたら、あぁよく寝た、あぁ幸せだった、そんな感覚に襲われる時があります。その熟睡状態というのは思いがない状態、正確に言えば、空無という―何もないようなところに心が埋没しているので、心がそのことを認識できない―そんな状態というふうにヨーガでは理解していますが、ともあれ、そのように心の想念が止まっている時が本当は幸せなのかもしれません。だからこの世の経験の中でも、例えば恋愛の中で、あるいは他のことでも我を忘れて陶酔している時が、幸せの絶頂感を与えてくれるかもしれません。

でもヨーガでは、その一時的な幸福というものには我慢ができない。もし幸福が真実ならば、(力強く)それは永遠にそうあってほしいし、壊れないでほしいし、なくならないでほしい。でもこの世の経験ではそれが不可能です。そういうわけで偽りの幸福のようなものを少しずつ無くしていく、それらに対する執着とか思いを無くしていく作業がヨーガというふうにもいわれます。それはあたかも玉ねぎの皮をむいていくようなものです。玉ねぎってむいていけば、もう最後は何も残らなくなるじゃないですか。その時は本当の幸せだよと、そんなふうに例えられます」

高木「それは識別という言葉があると思うんですけれど、そういうことなのですか」

ヨギ「その通りです。そしてまた同時に、初めにお話ししたように決して家族や友人やこの世の中に対して虚無的になるのではなくて、反対に本当の愛というのがそこにありますから。むしろもっといい相対し方ができていくと思います。それを理想としてください」

高木「はい。ありがとうございます」

 

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