ヨーガの教え

ヨーガの真髄

「真の自己の実現法とグルの必要」

『悟り』を読んだ東京の友人に紹介されて参加した女性。ご自身も真理を学んでいるという。

女性A「真の自己というものを知りたいと思いまして、それにはどうしたらいいのかアドヴァイスをお願いします」

ヨギ「真の自己―通常、私たちは自分のことを第一人称として、私と言っています。この私の意味するものというのは、やはりこの身体であったり、あるいはまた心であったり、そういうものが私の指し示すところでもあります。でも真の自己という時には身体や心ではなく、その本質として存在しているもの、つまり意識のことなのです。それは純粋な意識です。それは光に例えられて、その純粋な光の外側を心が覆っている。そしてさらにその外側を身体というこの物質、肉体が覆っているというふうに理解されます。

しかし私たちが何かを思い、感じるのは心ですから、どうしてもその覆いの部分であるフィルターを通してさまざまなことを思ったり、感じたりしてしまう。それは光ではないので、光を見ることができない。心は光によって見られるものである。心はいつも知られている。心はその純粋な意識の意識性という、意識の性格というものを与えられることによって、さまざまなものを認識したり、理解したりすることができるわけです。でもそこには経験やさまざまな思いから、煩悩や欲望、執着という汚(よご)れというか汚(けが)れというか、そういうものが付着しているので、その純粋な本質をなかなか見ることができない。

ですから一方では真理を学ぶことによって、識別ということをしていきます。これは心をいわば掃除するという、心の浄化という役割をします。そしてもう一方では、本当の私とは何なのだろう、私とは誰か―そんな問いかけをもって進んでいきます。それは具体的にはこの肉体は私ではない。この心は私ではない。こういう境遇が私を私たらしめているのではない―そんなふうにして私ではないものが、どんどんどんどん剥ぎ落とされていきます。そして心がより純粋に浄化されていった時、その奥に在る本当の自己というものを悟ることになります。それは本当の自己自身が目覚めるという、そんな状況です。その時心は無くなっています」

女性A「宇宙意識と一体になるということでしょうか」

ヨギ「うーん、また違うんですね。宇宙意識というのもその前段階にある、まだ心が活動している時に味わう一つの体験なのですけれども、それは普遍的な意識であったり、統一的な体験であったりもしますが、宇宙という言葉があるように、まだ宇宙内の出来事なんですね(笑)。そうして完全な自己の意識というところを経験する時には、そういった宇宙意識でさえもがなくなってしまうのです。だけど間違いなく言えることは、その本当の自己という魂が誰もの中に、誰もの本質として在るということです。今も! どこにいても。それはたとえ肉体がなくなっても在るのですよ。ここにも在るし、そこにも在るし、どこにも在る、どこでも在る」

女性A「今ここであって、未来も過去も現在もすべては一切ないということ」

ヨギ「それにおいては時間とか空間というものも一切ない。しかし、それだけが本当にリアリティとして在るというものです」

女性A「悟りに至るには瞑想しかないのでしょうか」

ヨギ「まず、これへの道は聞かされ、考えられ、そして瞑想されるということになっています。聞かされるということは、こうして言葉によって聞かされる、あるいは正しい教えを学ぶということですね。そして自分の中でよくよく考えていく。それが次第に瞑想という領域に入っていきます。それによって実現します」

女性A「瞑想といいますといろんな方法が世間にはありますが、どれがいいのでしょうか」

ヨギ「いえ、世間で(笑われながら)、まるでコンビニエンスストアで売っているようにいろいろあるのは単なる子供騙しというか、あるいは単なる練習法の問題であって、何ら意味はないのです。瞑想の対象は、本当の自己―私とは誰かという自己、もしくは神―神というのは一宗一派に限定されたものではなくて、この宇宙万物の根源としての存在、その名称としての神、そして三つ目は真理の言葉。これは識別なんかによく用いるものですけれども、この三つの対象に絞ってください」

女性A「真理の言葉というのは?」

ヨギ「それは今も言ったように聞かされ、あるいは学んだ言葉を瞑想していくわけです。そうすると自分の心の中に、相反するものがもしあれば、それが識別されて心の浄化というものが施されていきます」

その女性は、禅僧は断食、不眠に追い込まれた上で悟りに至るが、一般の人はそこまではできない。しかしマントラ(真言)を使う瞑想では初心者でも空という境地に至ることができると聞いたことがあるそうだ。

「一般の人が真の自己に至るにはどうしたらいいのかをもう一度お聞きしたいです」とさらに尋ねる。

ヨギ「やはり正しい教えを学ぶということが、まずもって大事なことです。『めくらがめくらの手を引く』の例のごとく、やはり間違ったものを学んでいくとどうしても危険なところに行ってしまいますから、まず正しいものを選ぶということ。そして情熱をもって、真剣に行なうということがとても大事です。さらに一方では心の浄化という、心をきれいにしていく作業。もう一方では真実に集中していくという瞑想。瞑想というのはぼんやりしたものではなくて、何らかの対象に集中していくことから始めるのです。その集中が深まっていった境地が瞑想という、厳密に言うとそういうことになります。さらにその対象と集中する心が一つに溶け合った状態のことをサマーディ、三昧とか、あるいは本質を知る、本質と一つになった状態というふうに名付けられます。心理的に言うとその三つの状況があるのですけれども、一口にそれらを瞑想と呼び慣わしているきらいがあります。ですからそのあたりの手順を正しく学んで実行していくことが求められます。

今の禅宗のお話にしても、何日間か不眠不臥(ふみんふが)でやられたか知らないけれど、仏教の僧侶たちは皆、仏教を学んでいますから、そういう仏教的観念というものをまずもってしまっているわけですね。だからその上で、こういう行法があるということになればそれは可能でしょう。だけど一般の人でもそれなりの準備をすることができれば同様のことができます。またヨーガにもマントラ・ヨーガというものもあるのですけれども、それも一つの方法には違いありませんが……。ただ誰に与えられたマントラかというところで、その効力は異なります」

女性A「そのおっしゃっている意味を詳しく……」

ヨギ「つまりマントラというのは小さな音の音節のことなのですね。それを繰り返すことですけれど、そこには力があるとされています。しかし、こんなマントラはいい、あんなマントラはいいと、本ではいろいろと紹介もされていますが、それではなかなかその力は発揮されない。つまりその能力をもった師匠なりから与えられることによって、その音節が生き生きと力をもっていくわけです。そこのところがとても重要で、誰に与えられるかということによって結果は異なります」

女性A「そうですか。別にその方法を使ったからといって悪いということではないのですか」

ヨギ「はい。ただそれによって真実の悟りまでいくことは不可能です。ただ心を休める、静めるという役割はしてくれます」

女性A(驚いたように)「そうですか。真実への方法というのは……」

ヨギ「先ほども言いましたように、正しい教えを学び、情熱をもって真剣に実践していくということですね。また最近はそういった書物なんかもたくさん出ていますから、手軽にそれが実行できたらいいんですけれども、それも先ほどのマントラの話と同じで、なかなか本だけではその力は与えられない。やはりそこには生きたグルという、師匠が必要になってきます。やはり魂は魂から伝えられるという―鉄則ですね」

女性A「はい。ありがとうございます」

ヨギ「インドではヨーガも何千年という歴史をもっていますが、子供のうちから霊的なこと、あるいは人生の目的というものや悟りというものに対して、聞いたり考えたりして育っていくんですね。その中で本当にそのことに夢中になっている子がいたら、熱心にそういった書物も読み、そういうことを知っている年上の人に尋ねたりして、憧憬を深くしていきます。でもそれは単なる知識なのです。つまり何の意味もないのです。ありとあらゆる図書館にある本をすべて読んだとしても、悟りが得られるわけではない。

そこで彼は、あるいは彼女はそれらの書物をすべて棄てて、その悟りを実現している人を探し求めるのです。つまり師匠が必要だということです。心というのは、いわば暗闇の森に例えられます。何も分からない者がそこに入ったならば、たちまちにして迷い込んで命を亡くしてしまう。その森に熟知しているガイド、そのガイドに導かれて初めて、その暗い森を無事に脱出することができるわけです。だから真剣に求めるでしょうし、またその準備が調った時、師匠は現れるということわざもあります」

 

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