3月21日は春分の日ですね。昼と夜の長さがほぼ同じになり大気のプラーナ(気)が整い、私たちもその恩恵を受けヨーガの修練も行ないやすくなるといいます。また、春分の日は、自然を称え、生物を慈しむ日だそうです。
電信柱の上にある雀の巣に、代替わりした新しい雀たちがやってきたようで、朝からチュンチュンチュンチュン・・・と可愛らしい声が聞こえてきます。私がよく通る道にはたくさんの街路樹があり、中でも多いのが桜の木。枝先の花芽が日に日に膨らんでくる様子がよく見えます。
バス停までの道すがら、その桜の枝を見て、もうすぐ春だなぁ~とホッとして嬉しくてスキップぎみで歩いていました。すると、やけにきれいさっぱりと明るい場所があり、あれ?こんなんやったかな?と立ち止まりました。下に目を落とすと、地面ギリギリに大きな切り株が幾つか残されていて、大きな木々がすべて伐採されたことに気がつきました。
でも木は、そんな姿になっても、じっと沈黙を守っているように見えました。この世界に次々と出来事が起こっても、いつも木々が同じようにただ在ることに私は安心を感じてきました。季節が巡り、鳥が歌い、虫が蠢き、木は葉を付けたり落としたりしながらも静かに佇み、変化する中にあっても一定の同じで在る何か、たった一つの絶対的なものが続いているということを教えてくれます。それがどれほど尊いものか……。切り株を見ていると、幹が無くなっても、やっぱり木は、あなたは同じだ、と思えました。姿、形が無くなっても無くならない、ずっと在る、と木が無言で教えてくれた気がしました。子供たちや生き物にはどんぐりを、鳥たちや虫たちには住処を、また真夏の暑い日には木陰を提供し、時々そこで腰かけて休憩しているおばあさんもいました。一本の木の存在に、どれほど私たちは恩恵を受けてきただろう、ありがとう!と思いました。
そんなことを考えながらバス停に着き、乗車した市バスの窓から景色をボーっと眺めていると、一軒のお家の庭に、赤と白の見事な梅がぱぁ―っと咲き誇っているのが目に飛び込んできました。あまりにも元気いっぱいに咲く力強さに圧倒され、その生命の力に感動しました。次はお葬式をする会館があり、前には黒光りした長い霊柩車が停まっています。こんなうららかな春を予感させる日にも・・・当然ながら死も生も同じようにあると思いました。すると今度は、保育園のまだ2歳か3歳くらいの子供たちがぞろぞろと先生に連れられて、子供同士で手をつなぎ合いながら、おぼつかない歩き方でニコニコ「バチュ(バス)バチュ~」と無邪気に手を振ってきます。思わず満面の笑みになりました。そしてバスが終点の駅に到着すると、少し離れた所に総合病院の送迎車が来ていて、大勢のおじいさんおばあさんたちが、ぞろぞろと送迎車に乗り込んでいくのが見えました。バスの窓を通して、自然の営みという一つの映画でも見たような気分でした。
バスを降り歩きながら、これが自然の様相なんだと思いました。季節は止まることなく進み、そして世界も変化し、生まれる命があって、成長する命の育みがあり、死にゆく命もある。すべてが神の顕れ。どれも本当に同じなんだなと思いました。
最近、悲惨な出来事を目にしてから、胸の奥で騒めきが静まらないことを自覚していました。でも、そうやって感情的になることで、それで私は正しい判断や何かより良いことができるのか?と歩きながら自分に問いました。感情が際立ってしまったら肝心なものを見失ってしまう、平常心でいられない時こそ平常心で、と自然の様相を通してなぜかその時、思いました。そして万物の背後にある見えざる存在を思い、そうだ木のように不動でありたいと思いました。
師から教えていただいたことがあります。
「悟りとは不安や苦悩の無い安心。平安な満ち足りたムードが壊れないようにすれば、それが悟りとも言える。だから悟りを頭で難しく考えないように」
常に安らぎにあり、常に同じである存在は他者にも安心を与えることができる。木のように。
いつか師が仰っていた、ヨーガとは真人間になることーー正直で、人に優しく、慈悲深く。
それこそが悟りにある人の姿であり、私にとって単純に人間としての理想です。
私たちは人間として生まれました。だから、誰もが真の人間、真人間になれると思います。正直で、人に優しく、慈悲深く。
野口美香