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心躍る新緑〜松山特別サットサンガ 振り返り

新緑が輝き始める季節になると体と心が自動的に松山特別サットサンガを連想し、喜びと感謝に満たされます。6年前のちょうどこの季節、2016年5月21日に私たちの敬愛する師は愛媛を訪れ、松山・今治で3日連続で特別サットサンガを開催してくださいました。
(当時の記事はこちら⇨1日目2日目3日目
松山のスタッフはゴールデンウイーク中、ほぼ毎日集まり、家族以上に長く一緒にいて無我夢中で準備をしました。真剣さの中にも常に喜びがあり、スタッフの絆がさらに強くなりました。真のヨーガを一人でも多くの方と分かち合いたいと願い、師を松山にお呼びしたくて地道な活動が始まって11年越しで特別サットサンガが叶いました。


そのサットサンガで印象に残っている質疑応答の一部を要約してご紹介します。
質問者が「以前、本質を見ることが問題の解決になると教えていただいたのに、つかめない。本質を見られるようになるには今の自分の心をしっかり見て、何が本当なのかを徹底的に理解していくことでしょうか。その他にはありますか」と問い、師は次のようにおっしゃいました。

他にはありません。自分自身の本質、あるいはこの世界、宇宙の本質と時々いいますが、この本質が意味するところは真実のもの。真実のものということは、永遠に不滅の存在のことをいっています。昔から、この体の中にあっては魂と呼んでいたり、またこの宇宙にあっては神と呼んでいた存在、それらは架空のものではないのです。実にありありとした、まぎれもない存在としてリアリティをもった唯一のものです。それに比べれば、この体や心は生まれてきて変化をしながら、やがてなくなります。心も幼少の頃から成人し、やがて年老いて、そのさまざまな状況の中で考えたり感じたり、いろんなことを、いろんな働きをしますけれども、それらはその状況に応じて働いている、そういうものです。いわば、この世界の中で生きていく上での道具のようなもの。それが体と心の役割なのです。
ただ間違いが生じて、心の中にあるエゴイズムというエゴ意識ですね、これをあたかも自分だと思ってしまう。そうすると他者との距離が生まれ、そこに差別が生まれ、隔たりが生まれて、またさまざまな問題が生じてしまう。これが人生におけるすべての問題の原因にもなっています。言い換えれば心が心自身を知ること、本当の心のあり方を知ること、本当の主人は心ではなく、その奥に在る純粋な意識、魂、あるいは神の存在、そういうことが体験できたら、すべての過ちはなくなります。
(中略)
このことを学び、そして今まで間違っていたエゴが主人であったならばそれをただ正しめるという、本来の心そのものの役割に回帰させる、そして本当の自分を知ること、これが本質という言葉の意味するところなのです。

すべてを優しく包み込むような師の慈愛に満ちた口調が会場に静かに響き渡り、言葉を超えた細やかな振動が私たちの心を真実へと向かわせました。言葉の意味を頭で理解するのではなく、真実を体感する。これこそがサットサンガの醍醐味です!
「リアリティをもった唯一のもの」への憧れはますます高まり、師に励まされた一人一人は今も弛まず力強くヨーガを邁進しています!
コロナ禍で師にお会いすることはできませんが、常に真理に心をぴたっと貼り付けて、師に再会したとき、師に喜んでいただける自分でありたいです。毎日が心を清らかにする準備だ!と熱意をもって軽やかに精進していきたいです。

アーナンディー


真理を実現する道〜アーサナ

「ヨーガのアーサナ(体位法)や内容は、すべて生理的にも心理的にも哲学的にも科学のように説明が可能です。いつでも簡単にできます。しかし大事なことは、それらを知的に理解するよりも、体験によって良い変化を身体と心に与えてやることです。悟りとは単に知ること(知識)ではなく、成ること(体得)なのです。これが何千年にもわたる東洋の霊的修行なのです。真理はすでにあなたの中に在ります」——『悟り』より

思い返せば、アーサナの体験によって良い変化を身体と心に、ずっと与えられ続けてきたのだと思います。

七年前、ヨーガへの信頼はすでにありましたが、ヨーガを生きるということに対して、難しいから私には無理なのでは? 何かを失うのではないか? という思いも同時に抱えていました。度々、表面的な心の動揺に心が占められてしまい、苦しくなることがありました。
そのような中、京都でのアーサナのデモンストレーションに参加する機会をいただきました。いつもより自然と集中した中、アーサナを行なっていると、「真理の道とそうでない道」という言葉が浮かんできました。その瞬間、師から伝えられたアーサナは「真理を実現する道」であると直観的に感じました。真理に反する思いがあれば、抗うような力が内にあり、もうすでに私の身体と心は真理の道を歩むためのものに大きく変化させられているということが分かったのです。私自身、本当は真理の道を歩みたいと強く思っていることにも気付かされ、涙が溢れました。

今、私はアーサナを行なうことで心が内向きになり、すでに在る真理に近づいていけることを実感しています。このような具体的な方法を教えられ実践できることは、何と恵まれていることでしょうか。そして、真理の道を歩みたいと心から願うようになりました。それだけが本当の幸せになれる道だと確信しています。
師への感謝を胸に、日々実践を続けて深めていけますように。

師が歩かれた松山の大街道。私にとっては真理の道!

りょうこ


スワーミー・アドブターナンダ

私の理想の聖者は、シュリー・ラーマクリシュナの直弟子で無学でありながら最高の叡知を悟り、「シュリー・ラーマクリシュナの最大の奇跡」と言われたスワーミー・アドブターナンダ(ラトゥ)です。

彼は幼くして孤児となりましたが、シュリー・ラーマクリシュナにお会いすることで人生が一変しました。ラトゥは疑うことを知らない純真さで師の教えを忠実に守り、心の清らかさを保つようひたむきに努力し続けました。文字の読み書きは全くできず、聖典も読めなかったのですが、夜は一睡もすることなく瞑想を深め、神の御名を繰り返し唱える修行を熱心に行い、神に憧れ、神のために泣き、肉体の快不快に心を乱されなくなっていきました。

ラトゥの心にあるのは神だけでした。ラトゥに出会った人々は彼の独特の言葉に驚き、その清らかさに感化されました。たとえ多くの聖典を読まなくても、豊かな霊的叡智は内的な悟りから生まれることを彼が教えてくださっています。

 「心の性質は神の御名を唱えることによって変えることができる。次第に欲望と疑いは消える」

後年のラトゥ・マハーラージの言葉で、私の大好きな教えです。どうかラトゥ・マハーラージのように一心に神を求め、神の御名の深遠さに触れ、心が神だけになりますように。

 ※『スワミ・アドブターナンダ―教えと回想―』を参考にしました。

アーナンディー 


真実という宝

松山のヨーガ・サーラ・スタジオに通う太宰さん。昨年より松山のスタジオだけではなく、MYMのオンラインクラスを最大限に活用され、誰ヨガ、瞑想専科バクティ・ヨーガ編、バクティ・サンガムなどにも熱心に参加されています。実は最近、太宰さんに大きな心境の変化があったとのこと。今回はそんな太宰さんにインタビューをしてみました。

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Q: 最近はよく日常でキールタンを歌われているそうですね。歌われていてどうですか?

太宰さん: (笑顔で)キールタンはすごいですね! 元気になる。楽しい! 今は日常生活において、掃除、洗濯、食事の用意の時もとにかくずっとキールタンを歌っていて、それが自然となっています。嫌なことがあってもキールタンを歌うようにしたら、自然と笑顔になるんです。とにかくキールタンが好きになって、めちゃくちゃ楽しいです!

 

Q: 何かきっかけがあったのですか?

太宰さん: 昨年、瞑想専科バクティ・ヨーガ編に参加しました。そこで、「信じることができればそれでいい。これ以上のものはない」というラーマクリシュナの教えが紹介されたんです。それを聞いて理解はできるけど、では自分はどうしたらいいのかなって思って。講座では実践方法や体験談も紹介されていたので、私にもできるかなと思って、二つのことを実践しようと思いました。一つは、キールタンができるかなと思いました。

Q: そうなんですね、あと一つは何を実践されているのですか?

太宰さん: 信じるということはどういうことかと思った時に、真剣さが一番だけど、信じることに対しても(自分には)謙虚さがない。そう思って、とにかく(瞑想に)座る、ということを決めました。「純粋で素直な信仰心をお与えください」ってお願いするだけなんですけど、まずそこからと思っています。最初からはできませんでしたが、回を重ねて講座の終わり近くになって、もっと真剣に頑張ろう!本当に変わりたい!変わらなければいけない!と強く思いました。

 

Q: 実践を続けてこられた中で、何か気付きや変化などはありましたか?

太宰さん: 以前、ヨギさんが松山に来られた時のサットサンガで、いろんなことに執らわれている悩みを相談した時に、「目の前に宝物があるのに、もったいない!」と言われたことがあるんです。それで、目の前の宝がどういう意味なのか分かりませんとお聞きしたら、「至福という――壊れない幸福のことを至福といいますが――そういう歓びに満ちた状態、それがその宝の山の正体なんです。それはどこに在るのかといえば、自分の中に、胸の中に在るんです」と言ってくださったんです。ただ、言葉上は理解していたんですが、本当の意味では理解できていなくて。

それで、瞑想専科の最後の方なんですが、座っていた時にやっとその宝の意味を理解できて、あぁ、これと同じことをヨギさんは教えてくださっていたのかなと思いました。宝というのは、真実であったり、真理のことです。瞑想専科で学んだ神への愛ということと自分はマッチして、同じことなのかなと捉えました。私はこれまで非実在のことでいっぱいで、たくさんの時間を費やしてきて、本当にもったいなかったなぁと思いました。
まだまだ、これまで積み重なってきたものがふつふつと出てきたりするんですが、今は「もったいないからやめよう。ここに真理があるんだ!」というふうに言い聞かせて、そのように思いを変えていくというようにしています。
やっと、スタートに立てたかなと思っています・・・こんなこと話したら、いいようにばっかり言っているように思うんですけど笑。

Q: それは本当に良かったですね! 今後の目標はありますか?

太宰さん: 今、していることを頑張って実践して、体得して、心が穏やかになりたいです。そして神を感じて、神で(身も心も)パンパンになりたいです! そして、次にヨギさんにお会いする時には、「目の前の宝、頑張ってつかんでいます!」というふうに言えるようになりたいです。

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 インタビューの間も、真剣でありながらも、終始とても楽しそうな笑顔を見せてくださった太宰さん。本当に心が軽やかになられた様子と実践の大切さが伝わってきました。

目の前にある宝を、私たちもつかんでいくことができますように!

MYM京都 


アーサナへの姿勢

アーサナ(ヨーガのポーズ)は身体の柔軟性を競うものではなく呼吸の深まりと安定をもたらし、その影響を受けて心も強く穏やかな状態に変化します。今回のブログは、愛媛県松山市で熱心にヨーガを実践されている大森みさとさんのアーサナについての記事です。彼女のアーサナの真摯な取り組みによる呼吸と心の変化が紹介されています!


2年と少し前、ヨーガを学び始めた頃の私は、あまりアーサナを重要視していませんでした(!)。クラスに通い、自宅でもしていましたが、なんせその頃の私はヨーガに巡り合えた喜びで無敵のイケイケ状態だったため、この情熱さえあればオールオッケー!!と言わんばかりに舞い上がっており、アーサナは2の次3の次のような気持ちでいたように思います。
ちょうどその頃、師がNYへご布教のために約3か月渡米されることになり、幸運にも10日間ほど滞在を共にさせていただく機会に恵まれました。滞在中に私は、「アーサナは何呼吸すればいいですか?」と師にお尋ねしました。それに対する師のお答えは、

「20呼吸。」

頭が真っ白になりました。その時の私にとって20呼吸は未知の回数で、果てしなく長いように感じられたからです。に…20呼吸…この先毎回20呼吸……
私は抵抗する心のままにアーサナから逃げました。でもずっとそうしているわけにはいかないし、嫌だという思いがあることは自分に必要なことなのでは…とも感じていたので、日本に帰ってしばらくしてから腹をくくってアーサナに取り組むことにしたのです。
(※反るポーズなど、アーサナによっては20呼吸していないものもあります。また、ひとりひとりの体調や状況があるため、誰にとっても20呼吸が必要ということではないと思います。)

初めはアーサナが終わらないかのように長く感じられました。しかし、毎日続けるうちに、気が付くと20呼吸のアーサナが日常の一部になっていました。
それまでの私は、クラスではポーズが苦しくなると、「いつ解除の声がかかるんだろう」といった雑念がよく湧いていましたし、自宅でも、何となく辛くなったら保持をやめるというやり方だったので、自分に都合のいい範囲内で取り組んでいたと思います。でも20呼吸すると決めてからは、積極的にアーサナに向かっていく感覚が生まれ、それまで感じたことの無かった肉体や呼吸の苦しさに直面しても、呼吸が終わるまではじっと耐えるという状況が自然と出来上がっていました。師の教えがなければ、自分を追い込むこともなく、そこでの苦痛に耐えるということもできなかったと思います。

マッチェーンドラ・アーサナ(ねじる形)

私はこの教えをきっかけにアーサナに向き合うようになり、今、アーサナに対する姿勢の大切さを感じています。自分の意志で積極的にすること、ごまかさず誠実に行うこと、苦しくても忍耐すること、ひとつひとつきちんと終わらせることを特に心がけているのですが、どれもそっくりそのまま日常生活でも大事なことだと気が付いたからです。これらの心がけがやがて自分の性質になり、自然と日常の中にも表れるようになるよう、これからも日々実践を続けていきます!

ブジャンガ・アーサナ(コブラの形)

大森みさと


ヨーガは喜びへの道

ヨーガ・サーラ・スタジオではクラス後、自然に参加者の皆さんと円になってヨーガの話で盛り上がることがあります。皆さん、お互いをよく知っていて、ヨーガの実践についても相談しやすい環境です。最近は京都のオンラインでのバクティ瞑想専科で教わったことや「常に神の御名を唱える」についての話題が多く、誰かの実践がまた別の誰かを鼓舞するという情熱の輪が広がっています。こんな嬉しい話もありました。一人の方が「いつも自転車でクラスに来る時キールタンを歌っているけど、あれ?こんなに楽しくていいのかなって思ったんです」と。楽しくていいに決まってます! ヨーガは喜びへの道です! その朗らかな笑顔は日々の地道な実践の積み重ねによって心が変容してきたことを物語っています。

月曜の朝のクラスのみなさん

さて、昨年久々にクラスに復活してくださった子育て中の女性から新年の抱負が届きました。

・クラスに通うようになって、心も体も穏やかになっていくのを日々実感しています。わんぱく盛りの双子の男の子を育てていると、まだまだ心が巻き込まれてしまうこともあるのですが、そんな時は、ハートの奥に問いかけてこれは真理なのかどうか、徹底的に分析していきたいです。今年もクラスでアーナンディーさんやヨーガを学ぶ先輩たちにお会いできるのをとても楽しみにしてます。

さらにバクティ(信愛)・ヨーガを深めているお二人からも!

・神の御名をとなえて同時にあなたを愛することができますようにと祈ること。富、名声、および快適な生活のようなかりそめのものに対する執着が日に日に少なくなりますように、と祈ること。神が喜ばれるよう行為すること。

 ・周囲の人々に喜びと笑いをもたらすよう、お話ができる人になりたいです。そして、常に神を想い、神の御名に神を見ることができるようになりたいです。

師はおっしゃいます。「自分の中に尊い存在があるということを信じてください。神は雲の上にいるのでも、宇宙の果てにいるのでもない。あなたの胸の中にいます。それが誰もの本質です。そのことを知らないから、人々はみな苦しんでいるのです」と。「尊い存在が胸の中にある」、この言葉に胸の内側から力が湧いて瑞々しい喜びに包まれます。一人でも多くの人がこの真実を知ることが、周りの人の平安につながっていくと信じています。なぜなら「尊い存在が胸の中にある」と知ると心は満たされ、動じなくなり、その影響を受けた周りの人の心も穏やかになるからです。どうか真の喜びが広がっていきますように。

2021年最後の瞑想会の様子。みんなと座ると「長時間座れる」と好評です。

アーナンディー


一歩一歩

私は今の職場に勤めだして三年目になりますが、忙しさといい人間関係といい、今までに経験がないような過酷な環境に感じました。
 働き始めてすぐの頃、ヨギさんが特別サットサンガで松山にきてくださいました。私は、仕事の辛さをご相談させていただいたのですが、ヨギさんはなぜか満面の笑みで「頑張ってね!」とおっしゃいました。こんなに辛いのに、なぜヨギさんは笑顔で頑張れとおっしゃるんだろう?と思いましたが、きっとこれは仕事を通してヨ―ガの実践の場を与えてくださったのだ!と思うようになり、そこからは何が何でも頑張ろう!と心に決めました。

 それから今もずっと心がけていることは、全ての人の本質は神であると信じること、目の前で何が起きても、現象だから執らわれないこと、自分は神の道具なのだから、一切の自己主張(エゴ主張)は捨てて、役割に徹すること、どんな仕事も神に捧げる物として誠実にベストを尽くすこと。と、目標は立派なのですが、失敗ばかりです。

 でも、失敗しても失敗してもトライし続けていたら、どんどん目の前の景色が変わっていって、小言ばかり言う先輩だと思っていた人がフォローしてくれたり、誰とも挨拶を交わさないと思っていた人が挨拶を返してくれたり、怒った顔しか見なかった人が微笑んでくれたり、あれ?こんなんだったっけ?と思うことが増えていきました。やはり全ては現象なんだなぁ!と実感しています。

 今も、毎朝起きたらヨギさんのお写真にお祈りをしてから家を出て、自転車を漕ぎながら「全ては神の表れ、私の命も神様に生かされている。神様の思し召しだけがある。どうかヨギさんの教えを生きる弟子であれますように」と、唱え続けています。

 ヨギさんが灯してくださる光に向かって、一歩一歩、歩んでいきたいです。

通勤途中の松山城のお堀にいる白鳥です。
白鳥を見てはヨギさんを思っています。

小野稚小(おのちさ)


母なる神像

私の部屋の祭壇にはカーリー女神の神像があります。とあるきっかけで、先日その神像を初めて磨きました。真鍮製の像を専用の研磨剤と布を使って磨くのですが、これがまぁ驚くほどに汚れが落ちるんです。(どれだけほったらかしていたの…!)あっという間に布が真っ黒になっていきました。それでも一通り磨いたくらいでは汚れは落ち切らず、何度も何度も、お顔、胴、手、脚、土台、と細かい部分まで目を凝らしてきれいにしていきます。

そうして磨いていくうちに、今までカーリーのことを見ていたようで全然そうではなかったのだと気が付きました。瞳が真ん丸でキュートなこと、お鼻が立派なこと、後ろから見ると髪の毛の筋があること、足の爪もちゃんとあること。なんてかわいいんだろう!手で触れ、近くで見つめ、きれいになりますように、と磨いていくうちに、赤ん坊の世話をする母親のような気持ちになりました。宇宙の母であるカーリーに対して、私が母親のように感じるとはどういうこっちゃ?!と思いましたが、すべてを展開されたカーリーは、私が思う役割の枠になんて収まるはずがありません。今回の出来事で私は、カーリーによって、目の前の存在を大事に思い、愛おしむという気持ちを呼び起こしてもらったように思います。

きれいにしてからというもの、自然とカーリーに目を向ける回数が増え、眺めては胸の奥が愛おしい気持ちでいっぱいになるのを感じました。そして、カーリーだけでなくほかのすべての存在に対しても、同じような気持ちをもって接したいなぁと思うようになりました。大事に思う気持ちは、たとえまた薄れてしまったとしても、祭壇で変わらず輝くその姿を見つめていればきっと大丈夫なように思います。目の前の人、もの、すべての中にカーリーを見ることができれば、なんて素晴らしいだろう!そうなるために、私自身のハートもヨーガという研磨剤を使って根気よく磨き上げているところです。必ずきれいにできると信じています。なぜなら私の本質も、ピカピカに光ったカーリーと不異(同じ)だからです!

愛媛(今治)と広島(尾道)を繋ぐしまなみ海道です。秋晴れの中、穏やかな海と無限に広がる空がとても清々しく感じられました。

大森みさと


本当の優しさ

先日、先輩グルバイに質問できる機会があり、「本当の優しさ」とは何なのかを伺いました。優しくするって、ニコニコ笑って何でも「いいよ、いいよ」と聞くこと? 利己的な思いを全く無くして接するということ? と小難しく考えてしまっていた私に対し先輩は、「もっと単純に、相手を大事にするということじゃないかな。大事で、愛しいがゆえに優しくする」と答えてくださいました。考えてどうにかしようとしていた私の根本に衝撃を与える言葉でした。さらに続けて、次の師の教えも話してくださいました。

「愛は優しさでしか表現できない」

師は本当に私たちひとりひとりのことを大事に思ってくださっていて、だから私たちがより良くなることだけを考えて、必要な教えを最も良い方法で授けてくださいます。時には穏やかに、時には厳しく。それはすべて師の優しさであり、愛の表れでしかありません。

以前、師は私に「人に優しくすること」という教えを授けてくださいました。(「本当の優しさ」について考えていたきっかけでもあります。)この教えも、私がより良くなるためだけに師が授けてくださったものです。
今回の出来事によって、師にあらためて「あなたの愛を表しなさい」と言われたように感じました。愛を表し、そのように生きる。教えを授けるということも、弟子を想う師の愛なのだと思うと胸がいっぱいになり、その教えを生きることで応えたいという強い意志が湧いてきます。

一斉に花を開いた彼岸花が赤い絨毯のようでした!松山市窪野町の窪寺閑室跡周辺の彼岸花です。ここは一遍上人が修行された場所だと伝わっています。

冒頭の先輩への質問の場(オンライン)には、他にもたくさんのグルバイがいて、私と同じように日常生活やヨーガの実践の中で湧いてきた疑問を質問していました。それに応える先輩の態度や言葉、すべてから、私たち後輩ひとりひとりのことを大事に思ってくださっていることが自然と伝わってきて、まさに、「愛は優しさでしか表現できない」という師の教えを生きている様を見せてくださっているかのようでした。

師や先輩の姿を見ていると、人に優しくするということは、何か特別なことをするわけではなくて、誰に対しても分け隔てなく、ほんの小さな行為にも相手を大事に思う気持ちを込めることなのだと感じます。お手本を示してくださっているその姿に倣い、「本当の優しさ」を体現して生きていきたい。そう決意をあらたにできた出来事でした。

部屋からの見えた優しい色合いの朝焼け。

大森みさと


English

約30年前、中学2年生の時に同級生全員で英検4級の試験を受けました。

その頃使っていた英和辞典

この英検4級は、60~70%という合格率をもって思春期真っ只中の少年少女の明暗を分け、合否判明直後の教室をちょっとしたお祭り騒ぎにします。さらに、合格者の遠慮のない浮かれっぷりが不合格者にとっては酷なものであるということも教えてくれ、私はそれをつらい方の立場から思い知ることになりました。

英語教師が生徒を一人ずつ部屋に招き入れ合否を告げていく中、どちらかというと学校の勉強はこなせる方だった私に『不合格』の通知がなされました。その瞬間もそれなりにショックだったのですが、その直後に英語教師が放った一言をきっかけに、私は大の英語嫌いとなり、以後、頑なに英語を拒絶するようになったのです。
落ち込む私を慰めようとしてか、あるいは鼓舞しようとしてか、教師はこう言い添えました。
「惜しかったね~。あと一問正解していれば合格だったのにね。」

⁉ ……あと一問?

この言葉を聞いた瞬間ショックが何倍にも膨れ上がり、急激に口惜しさがこみ上げてきました。というのも当時の英検4級の問題は、4つの選択肢から一つを選ぶ択一式がメインだったので、少なからず運の要素があったのです。「あと一問…」が頭の中でこだましている私は憤懣(ふんまん)やるかたなく、こう思いました。「軽く10問以上はあるとおぼしき誤答のすべてが、一問たりとも4分の1の確率に引っかからなかったのか」と。このエゴ丸出しで意味不明な確率論を振りかざしたあげく私は、英語から不当な扱いを受け、英語にひどく傷つけられた被害者の立場を採ったのです。そして英語に対して、被害妄想という言葉では追いつかないほどの逆恨みを募らせ、結果、私は見事にふてくされました。
その後、大学卒業まで10年ほど怨憎会苦を味わい続けましたが、二十代前半でようやく英語教育から解放され、以後は、もう今生で英語と関わることはあるまいと高をくくっていました。

しかし、このとき私は知らなかったのです。後に私を救ってくれるヨーガ、その兄弟姉妹弟子が世界中に(当然英語圏にも)存在していることを。

MYM NEW YORKのホームページ。当然全部英語。

2019年の4月、春の祝祭サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラーに初めて参加した時、祝祭の前日、はるばるニューヨークから来日したレバノン人のグルバイ、プラパッティーさんとシャーンティ庵で共に過ごす機会が与えられ、私はおよそ20年ぶりに英語と再会したのです。(プラパッティーさん来日のブログ記事はこちら→ニューヨークの弟子プラパッティーの滞在🇯🇵🌸

春の祝祭後の交流会にて、NYミッションのプラパッティーさん(シャーンティ庵、2019.4.7)

長年疎遠だったとはいえ、色濃く根付いた英語への苦手意識は全く色あせていませんでした。少しでも聞き取りたいという仄(ほの)かな望みは、聞き取れるはずがないという諦めの前に儚く霧消し、通訳を一手に担っていたゴーパーラさんが席を外している間は、その場にいた日本人グルバイのコミュニケーションに頼って、微妙な笑顔で相槌を打つのが精一杯。結局、遠路はるばる来日されたグルバイに対して、終始私の心は逃げ腰だったのです。
自分が学んでいるのと同じヨーガを、生まれ育った環境も触れてきた文化もまったく違うグルバイが実践してきた体験談を直接聞けることは、そのヨーガの普遍性を学び取り信頼を深める絶好のチャンスだったのに、英語の苦手意識に執らわれて、それを丸々逸したような気がしました。


このことがきっかけで、私は英語への苦手意識を何とか克服したいと思ってしまいました。でもそれは、ふとそういう願望が湧いてきた程度のことだったのです。しかし、望んだ瞬間からその実現に向けて全面協力してくれるというのがこの世界のありがたくも恐ろしいところで、すぐに英語の教材やテレビ・ラジオの番組、ネット動画等の英語関連の情報が、続々となだれ込んでくるようになりました。試しに注文した教材が家に届くまでの間に若干熱が冷めてきたことなど、今さら言えるような雰囲気ではありませんでした。

ならばもう今度こそやるしかないと、家に届いた「1日●分聞き流すだけで、驚くほど英語が…」的な教材で克服しようと目論んでいましたが、「だいたいこのくらいの期間聞き続ければ…」という期間をはるかに越えて聞き流しても一向に進歩を感じません。

その時ふと私は、このままでは、覚悟なく欲したことに中途半端に時間を取られ、何の成果も上げられず、未収穫のまま残り続けるカルマに苦しむという愚を繰り返すことになると予感しました。それで、一旦立ち止まって、真に刈り取らねばならないものは何かを明確にする必要があると感じました。

これまで生きてきた中で、たびたび苛まれてきた覚悟のない衝動的願望と忍耐不足や怠惰との不協和音が、ヨーガと出会った後に再び英語と関わることで浮き彫りになりました。わかりやすく言えば、三日坊主というやつですが、私のは、三日坊主という評価を避けるための中身のない努力の継続を伴った、いわば『隠れ三日坊主』ともいうべきものです。プラパッティーさんを通して英語との再会によって私が真に与えられたのは、この隠れ三日坊主の悪癖の原因を断ち切るための絶好の機会であると捉え、その原因にしっかり焦点をあてて、今度こそ根こそぎにしようと決意を新たにしました。

中学生の時、英語教師の何気ない一言に過剰に反応してしまいました。「不合格? ……この私が?」という反応、その不合格の原因を何としても自分以外に見出そうとする姿勢、すべては己の傲慢さが原因です。必要なことは、不合格の結果を謙虚に受け止め、余計なことを考えずに真摯に勉強をすることだけなのに、謙虚と対極にある私の傲慢さは、自分がすべき努力を他人のしりぬぐいのように感じ、行為し始めるや否やすぐに苦手意識を生んでしまいます。そして自分自身に三日坊主という烙印を押さないために、早々にやる気の失せた中身のない努力、すなわち努力するふりに時間を費やすのです。必要な覚悟や決意をせず形だけにこだわる悪癖に気づいたとき、私は、英語の克服という美名で着飾った努力するふりをやめることにしました。そんなことに費やす時間があるのなら、サーダナ(ヨーガの修練)にあてた方がはるかに有意義です。私が知る、悪癖を根こそぎにする唯一の手段はヨーガであり、それは同時に目的でもあるのですから。

だからといって今現在、英語との関わり自体を完全に断ったわけでもありませんが、特に形にこだわったり惰性で努力を装うようなことだけはせず、自然に入ってくるものや現在縁のあるものを活かせる範囲内で英語と関わろうと心掛けています。そう心掛けることで自然と、頑なだった苦手意識が徐々に薄れていっているような気もします。

毎週縁がある(?)英語のアニメ。主人公の精神性に倣うところが多い。

英語への逆恨みを募らせた学生時代。私を苦しめている犯人は英語(と歴史と古文)に違いないと、あらぬ疑いをかけて忌避し続けてきました。その英語が、時を経ても霊性の向上が見られない私に気づきを与えるべく、慈悲でもって再び私の前に現れてくれたのでしょうか。あだを恩で返されたような私には立つ瀬がありませんが、せめて、今度はより深いところにも目を向けて、英語との関わりの中でもヨーガの態度を堅持しつつ、ついでに、英検4級レベル程度の英語力もこの身に備えてみたいものです。

Hey, English. I’m sorry for my rudeness. And thank you very much.

深水晋治