日常のヨーガ」カテゴリーアーカイブ

笑顔になりますように!

師がヨーガを教えてくださるようになって40年以上が経ち、その間、真理にそって生きていきたいと真剣に求める弟子が年々少しずつ増えてきました。住んでいる国、性別、年齢、職業とさまざまな弟子がいる中で、師に会いに京都に来るのが難しい弟子も大勢いますが、皆、それぞれの形でヨーガを深めています。
その中の一人、現在東京で暮らしている佐野さん。数年前までは大阪に住み、中央公会堂のクラスには毎週通い、クラスのムードメーカー的存在でもありました。

最近の佐野さんの近況をお聞きすることがあったので、ここに紹介させていただきます。

(東京に移ってから、仕事もお忙しく以前ほどクラスに通えていないとのことですが)
Q「佐野さんにとってヨーガとは何ですか?」
佐野さん「軸。何においても、はっきり正しいと言えるもの」

Q「何を拠り所としていますか?」
佐野さん「愛です。大阪クラスで『ヨーガを深めていくと、すべては愛につながる』と聞いてから、心の中で愛を連呼しています。

今でも、皆の前でヨーガの取り組みについてお話をさせてもらった際に、『ミッションのクラスは、ヨーガを通して愛を教えるクラス』と表現したことを思い出します。雑巾がけされた会議室に行くと、笑顔でシャチーさん、マーダヴィーさんが迎えてくれる。人知れず相手のためを思って行なうその行為こそが、あのクラスで学ぶべきものであったことを痛感しています。
今、私も会社に早朝に行き、皆が仕事がしやすくなるような環境づくりを行なうようにしています。それが私のヨーガです」

佐野さんは今までのご自分の失敗を学びに変え、自分にとっても周りの方にとってもより良くなるようにとヨーガを実践していることを話してくれました。

佐野さんが常に意識しているというマザーテレサの言葉を紹介します。

想いに気をつけなさい。
それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい。
それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。
それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。
それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい。
それはいつか運命になるから。

2カ月ほど前だったか、大阪の朝クラスに佐野さんの元同僚が来られました。彼女は、ヨーガを始めてから佐野さんが本当に変わったことが印象的だったそうで、何年も前のことなのにミッションの名前を覚えていて参加してくださったということでした。
佐野さんはその報告を聞いてとても嬉しかったそうです。そして自分の何が変わったのか考えてみたということでした。
「あの当時は、自分の主張が先にあったと思います。今は『(相手が)笑顔になりますように』が先になっていると思います。それによって、私も嬉しくなり、幸せを感じます」

私と佐野さんとは、クラス終了後の駅までの道のりを、よくご一緒し、ヨーガについて語り合ったものです。ヨーガの効果は日常に現れるといわれますが、佐野さんのヨーガは着実に彼の日常に浸透していることを感じ、私もとても嬉しかったです。


*大阪在住だった頃の佐野さん(白シャツ)。佐野さんのキールタン好きは私たちの間では有名で、今でも東京バクティ・サンガムでキールタンを熱唱しているとか・・・。

シャチー

 


夏休みの思い出〜神と一つになる〜

ある時、師であるヨギさんがもっと神と一つになるようにと私におっしゃられたことがありました。神と一つになる、か・・・・・・と考えていた時、インドの大聖者シュリー・ラーマクシュナが弟子であるヴィヴェーカーナンダに授けた次のような教えが心に留まりました。

「愛のネクター(甘露)がビンの中に入っているとしたら、お前はどのように楽しもうと思うか」とおたずねになり、ナレーンドラは「私はネクターの入っているビンのふちに座って、そこから吸いましょう」と答えた。師は微笑され「なぜ中に入って吸わないのか。ビンの真ん中に入って吸えばよいではないか」とおっしゃった。「いいえ、そんなことをしたら死んでしまいます」シュリー・ラーマクリシュナは「そういうものではないのだよ。人は愛に溺れてもけっして死にはしない。それはアムリタ、不死そのものなのだから」と笑いながらおっしゃった。

ひとたびこの愛の味がわかると、魂にとってこれ以上ほしいものは何にもなくなる。この歓びは無限であり、何ものによっても増やすこともできなければ滅することもできない。

この教えに触れて、私の中で「神の愛に溺れたい!神と一つになりたい!」という思いが強くなっていき、しばらくは甘美なムードに浸っていたのですが・・・・・・。そのムードは小学校4年の娘が、夏休みに入るとともに消えていきました。

夏休みに入るといきなり、「学童に行きたくない!」と娘が泣き出したのです。事情を聴くと、仲の良い友だちが一緒に行ってくれなくなり、学童で一人ずっと過ごしているようでした・・・・・・。それからは家で一日どのように過ごさせるかや、お昼ご飯の準備などで頭の中はいっぱいになり、神よりも娘に集中する時間の方が多くなっていきました。娘と友だちの関係で気をもみ、一緒に遊ばせる段取りを組んだり、娘にこういうふうに考えたらどうかなとくどくど話したり、どうしてこんな簡単なことが理解できないのだろう・・・とイライラして感情的になったり、お世辞にも娘と調和がとれたようなものではありませんでした。

これではいけないと思って考えていると、娘が生まれた時、ヨギさんから「大らかに育ててください」と言われたことをふと思い出しました。私は自分の経験や価値観という小さな枠で彼女を見ている。物差しを当てず、常に自分を空っぽにする努力をして、彼女と向き合おうと思いました。

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そうして幾日が過ぎ、地蔵盆(※関西地域で行われる子どもたちの幸せと健康を願う行事)の日がやってきました。お布施をもって会場に行くと、先に行っていた娘が他の子どもたちと離れ、一人でポツンと寂しそうに遊んでいるのです。娘は私に気付くと(みんなで楽しく遊んでいるよ)と気遣って気丈に振る舞っているように見え、居たたまれない気持ちになりました。

その夜、娘の寝顔を見ながら、私は申し訳ない気持ちになって泣きながら謝っていました。この子の存在を自分は本当に尊んできたのだろうか、この子が友だちと楽しく過ごせるような環境を整える努力が、もっと必要だったのではないだろうか・・・・・・。・・・・・・でも・・・・・・友だちと仲良くなれるようにできるだけ努力をしてきたし、考えても、考えても、もう何をどうすればいいのか分かりませんでした。

シュリー・ラーマクリシュナの弟子であるトゥリヤーナンダは、『すべてのなやみを母(女神)のもとに持っていけ。彼女は一切の誤りを正して下さる、母を知れば、他の問題はなくなる。あなたが、自分を彼女に捧げ切ったとき、一切のものを新しい光の中で見るようになる。そして、この世の生活を問題にする必要のないことを知るのだ』と言われます。

もう神に祈るしかできない!という切羽詰まった思いで、ヨギさんとトゥリヤーナンダのお写真を前におき、瞑想に座りました。瞑想の後寝床についた時、突然聖なる力が私を押し上げ、ヨギさん、トゥリヤーナンダ、私、3つの意識が一つとなって、万物が展開していくビジョンが見えました。

意識が肉体に戻ったとき、すべては私が神から目をそらさないように神がなされていたんだ、と思いました。そして自分がすべきことは神だけを思うこと、という確信がありました。甘美なムードに浸るという漠然としたものではなく、日常としっかり向き合うことで神と一つになれるということが分かりました。

そして娘にとっての人生の目的もやはり、神と一つになること。友だちと楽しく過ごせるに越したことはないですが、友だちと一緒にいて安心することではないのです。親としてしっかりとそのことを踏まえ、関わっていきたいと思いました。

その出来事のあと、不思議と娘の状況はどんどん良くなっていきました。近所の子とまた自然に家を行き来するようになり、同級生が遊びに来たりするようになりました。また、他のお母さんたちと話すと少なからずどの子も同じようなことで悩んでいて、そういう多感な時期であることが分かりました。

こうして娘の夏休みは幕を閉じました。そして私の信仰をより強くしてくれたのでした。

amara


ヨーガを続けてきて今、感じること—烏丸ヨーガ・瞑想クラス インタビュー②

ヨーガ・瞑想クラスに参加されている方へのインタビュー第二弾!(前回の記事はこちら

5年ほど前には、インドの北から南まで旅をしてアーシュラマ(道場)に滞在したこともあるという藤井かおりさんにお話を伺ってみました。クラスに来られて3年が過ぎましたが、彼女を見ていると姿勢が美しく変わり、体の軸がしっかりしてこられたのがよ〜く!わかります。 


——ヨーガと出会いどのような変化を感じていますか?

以前は呼吸が浅く、息苦しくなることもありましたが、今は日常で気持ちのよい呼吸ができているように感じます。
また、物事を自分のいいように解釈したり、都合の悪いことは見ないようにしていた部分があったのですが、ありのままを受け止めて、前向きに捉えられるようになってきました。

——藤井さんにとってクラスはどんな場所ですか?

心が落ち着く場所です。クラスの後、何日かはその余波が続きます。
みんなでアーサナをするとすごく集中できるし、穏やかな気持ちになるので、やっぱり行くとぜんぜん違うなあと感じます。

——ヨーガを続けている理由は何でしょうか?

ヨーガは、私にとって一生学んでいられると感じる大切なものです。その時々で自分に必要な新しい気づきのようなものがあるからです。
例えば、日常のふとした時にヨーガの教えや、ブログに書かれていたことが腑に落ちたり、悩んでいることの解決法が見えてきたり、本当に大事なものはこっちだと、教えてもらっているように感じます。

——ヨーガを通してどのようになりたいですか?

女神を母として信仰し、信じて生きていくという境地に憧れます。神様のこと、その中にある純粋な愛をもっと知りたいです。

以前、人のためにと思ってしたことで、自分のことしか考えていないと言われたことがあり、それに対して相手を責めるような強い感情を持ったことがありました。
その時に、知らず識らずのうちに見返りを求めていた自分に気づき、考えされられました。ヨーガを通して教えを学び、本当の意味で強く温かい、愛のある人でいられたら…と思います。


軸がしっかりしてきたと感じたのは、確かなものを藤井さんが感じていて、自分の中に理想とするあり方をきちんと据えているからなのですね。納得です〜。

今回お二人からお話を伺ってみて、あぁ、こんなふうに感じてくれていたんだ〜!と初めてお聞きする内容に驚いたり、また頼もしくも感じたり、とっても楽しいインタビューとなりました。

呼吸が変わり、心が調い、そこにヨーガの教えがすーーっと入っていく。生きるということとヨーガが結びついてきて、今の実践の先に「こうなりたい自分」というものが持てるようになるんだなあと、やっぱり続けてきた中で培われていったものは大きいと感じました。私自身もとっても貴重な贈り物をいただいたような気持ちになりました。

これからも一緒に学び、励んでいけますように!

マードゥリー

烏丸スタジオにて

クラス後に。サティヤー、二宮さん、藤井さん、マードゥリー(左から)


ヨーガを続けてきて今、感じること——烏丸ヨーガ・瞑想クラス インタビュー①

烏丸御池で行なっている火曜日の夜クラス。参加者は今年になって来始めた方から、中には10年近く(!)熱心に学んでおられる熟練者までおられ、経験はさまざまです。今回はその中から二人の方にインタビューし、ヨーガと出会っての変化や今の心境などを聞いてみました〜!

駅近のスタジオ サンゴッホにて

まずお一人目は、仕事もしながら、銅版画の製作にも取り組んでおられるという二宮さち子さん。クラスに通うようになって3年半ほどになりますが、久しぶりに会った友人からは「人相が変わったね」と言われたとか。確かに〜〜〜!はじめてお会いした頃よりも表情がいちだんと柔らかく優しくなったように思います。いったいどんな変化があったのでしょうか。気になりますね〜。


――アーサナを続けてきた中で感じていることは何でしょうか?

呼吸が調うことで、心が穏やかになってきたことを実感しています。
またアーサナをしないと翌日身体がだるくなってぜんぜん調子が違うので、何ポーズかでも毎日続けるようにしています。今となっては生活の一部です。
それから、アーサナをすることで『ヨーガの福音』などに書かれている教えの理解が深まっていくように思います。アーサナと教えについての読書には相互作用があると思うので、この二つを続けていきたいと思っています。

――ご自身の課題や目標としているものはありますか?

近い目標としては今練習しているシールシャ・アーサナ(頭立ち)とナウリ(浄化法)ができるようになること。
それから聖者の思想から学ぶことです。今はマザー・テレサの残された言葉が載っている本を読んでいますが、聖者の方々は皆すごく謙虚で、自己犠牲の精神をもっておられますよね。爪の垢でも煎じて飲みたい気持ちです。
最終的には瞑想ができるようになりたいです。以前に瞑想では本を読むよりも、世界のことを本当に理解できると聞いて、そういった状態を体感したいと思い、憧れています。

――関心の高まっていること、もっと知りたいことは何ですか?

ニュースを見ていると、ひどい事件や、紛争が絶えないことにいたたまれない気持ちになります。幼くしてなくなる命の意味や、なぜそういうことが起こるのかを考えたりしますが、社会問題として捉えると不条理ですが、カルマという視点で捉えるとまだしも受け止めやすくなりました。

生きている意味をもっと理解したいと考えたとき、リーラー(神の遊戯)*という、ただ遊ぶということ、世間一般的な楽しみではなくて、生きていることが遊ぶということになるなら、リーラーに身を委ねる、そんな境地を知りたいと思うようになりました。


もともとはスピリチュアルなことに関心がなかったという二宮さんですが、アーサナをコツコツと続けていく中で、身体を通してどんどんヨーガの教えや聖者のスピリットが入っていったようですね。今は、ますますヨーガが楽しくなってこられているようで、何より嬉しいです。

次回はもう一人のインタビューをご紹介します。お楽しみに〜。

(マードゥリー)

シールシャ・アーサナ練習中の二宮さん

*リーラー:この世界は一なる神の遊び戯れであるという真理を表す言葉。心が主人であると誤解し、利己的な思いをもって世界に執着すれば、そこで苦を味わうことになる。しかし、その幻影(マーヤー)を破り、真我を悟った境地から見れば、この世界万物は、愛そのものである一なる神がさまざまな形を取って顕れ、純粋に自ら遊び戯れているにほかならない。(『悟り』より)

■ クラスからのご案内
9/28(金)、烏丸御池スタジオサンゴッホにて秋の特別クラスを開講します! この日はアーサナに加えて瞑想の学びと実践の時間を長めにとって行ないます(チャイ付きです!)。初めての方もこの機会にぜひご参加ください。>> 詳しくはこちら

 


虫の音

猛暑を抜けて、やっと秋らしい気配が感じられるようになってきました。一日の仕事が終わる夜更けには、美しい虫の鳴き声が聴こえてきます。

伸びやかな虫たちの声を耳で愛でながら、ふと、虫たちはただ命を全うしているのであって、こちらに声を届けようなんて、これっぽっちも思っていないんだな・・・と思いました。

ベランダの外に出て空を見上げると、漆黒の中で小さな星が絶え間なく輝き、大きな雲の切れ間からは柔らかい光が放たれています。

計らいのないみずみずしい生命がこの世界を美しく彩って、誰かのために当たり前のように存在している。自分もその煌めく1つの命なのだ、と思うと胸が熱くなるのでした。

amara


誰ヨガの夏 ☀︎ ヨーガを歩む!

今年の夏はいろいろありましたけれど、少しずつ季節は移り変わるものですね。いつの間にか朝夕は秋の気配を感じるようになって来ました。

さて、誰もが実践できるヨーガ・夏の特別3回シリーズを、長岡京市で7/1, 8/5, 9/2に行ないました。各回ともに20名前後の方が参加されました。毎回アーサナをして呼吸を調え、講座や実習を行ない、ヨーガの実践的な歩み方を学びました。

  1. 心を知る(7/1)
  2. 理想を育む(8/5)
  3. 確かな道を見つける(9/2)*9/1 補講を実施

今回、1回目と3回目に参加された東京の早川さんが感想を寄せてくださいましたので、ご紹介したいと思います。早川さん、ありがとうございました。       (サーナンダ&シャチー)


この夏、 誰もが実践できるヨーガ・夏の特別3回シリーズ(通称誰ヨガ)を受講しようと思ったきっかけは、以前から伝説のように「誰ヨガで〇〇と言っていた」とか、「誰ヨガでは、、、」とか「あれは本当に良かった」と言う先輩方の話を耳にしていたからです。また、色々なヨーガの本を読むものの、言葉を覚えているだけのような気がしてなかなか実感が伴わずにいました。知識に囚われてしまって、知識に行為を当てはめて納得するような、何とも言えないつまらない苦しい感じがありました。そこで、「誰もが実践できる」と言うタイトルにすがるような思いもありました。

1回目の講座は、講師であるサーナンダさんとシャチーさんのお二人のヨーガの実践体験談を交えながら、ヨーガの教えを学び、実習しました。その中で、どのようにしてこれまでヨーガの道を歩み今日に至ったかを聞くことができ、自分と照らし合わせて考える事ができました。例えば、ヨーガに出会って3ヶ月くらいの時はこうだった、1年半後にはこうなった、と具体的なエピソードを伺うことができ「今の私はこんな感じ」と共感したり、「もう少ししたらそれを体験できるのかな」と期待をもったりしました。

中でも印象に残ったのは、ヨーガを始めてから1年半後のエピソードです。
まだまだ心と闘っていたということ。原因を考えてみると、どうやら「私」を認めてほしい、「私」を愛してほしい、と、エゴなる「私」があることで苦しむのだと気付き、「真理の教えを心に言い聞かせる」作戦をとったそうです。
「この心や肉体は私ではない。ではなぜこの私を認めてもらわないといけないのか。本当の私はすでに喜びに満ち溢れた存在だ」
最初は全く理解しなかった心も、何度も何度も言い聞かせていくことで、ある日「そうかもな」と言い始め、心は少しずつ楽になっていったそうです。
また何年か後には、他者の評価を受け取らないように意識していった、悪い評価はもちろん、良いことも受け取らないようにすることで、心は振り回されることが少なくなっていったとのこと。「ヨーガは自立」という師の教えも紹介されました。今の私はまだ、手放せない観念や頼りにしているものがあり、それらを失うことに不安を感じています。ヨーガの実践は、その頼りにしているものを怖いけれど手放して、立っていられるようになることなんだなと、深くうなづくことができました。

3回目の講座では、4つのヨーガの実際的な歩み方について学びました。実は私は、そのあたりの区別がごっちゃりとしていたのですが、それぞれについての参考図書も紹介され、分かり易く理解できました。
どのヨーガにしても、やったことがないから難しいと思うだけで、実践していけば、誰もが真実を実感できるようになると話されていました。今、目の前で、手の届く人がそう言っているのだから、これは実際のことなんだな、私も実感できるようになれるんだなと思いました。
ただし…バターができるまでヨーグルトを混ぜ続けるような(生クリームとヨーグルトで発酵バターを作る時、バターができるまで根気よく混ぜなければならないという、シュリー・ラーマクリシュナの例えから)、根気と忍耐が必要ですよ、とにこやかに話されていた顔が真剣な鋭い眼差しとなり、じっと眼が合いました。その時、「誰もが実践できる」のだけれど、それには目標をもって、根気良く歩み続ける忍耐が必要なんだと、この誰ヨガの本当の意味を知りました。
すると、ここ最近のもやもやしたつまらなさはすっきりと晴れ、簡単なことだったんだなと思うと同時に、やり続けられる忍耐はあるのかな、いや、続けるしかないだろうと思いました。

初めて参加した誰ヨガは、お笑いもたくさんあり、本当に楽しかったです!

早川千茶


二元性を超えるーー夏の暑さを乗り越えようとした奮闘記(2)

最高気温38.7℃の日中、私はあえて暑い部屋でアーサナをして熱中症になった。(前回のブログはこちら☜
身体が火照って頭痛がひどく、一睡もできず夜勤に行く。職場は行事の後で酒盛りをしていて、多くの人で賑わっていた。「オー・マイ・ゴット!もう終わった……」酔った職場のオーナーからいろいろ話しかけられる。「おい、死んだらどうなる? 人生って決まってんのか? お前の人生のゴールは何や?」などなど。でも不思議だった、会話中、呼吸が止まっている自分がいた。何を言われようが動揺しない自分がいて、何だか口調も穏やかになっているのを感じた。そして熱中症はどこかにいって、その後は楽しくW杯決勝戦を観て、無事に仕事を終えることができた。

この出来事は、師の恩寵としか言いようがなかった。しかしながら、私の心はその「結果」を受け取っていた。
私は呼吸が止まった経験を機に、アーサナでは吐き切る呼吸を心掛けた。しかしその後のアーサナクラスでは2週続けて「アーサナを丁寧に形作ること」「基本ポーズのポイントをしっかり押さえてアドバンスに移行すること」という指導を受けた。クラス指導者の方から言っていただくことはいつも納得いくのだが、素直に受け入れられない思いが湧いていた。だが自分のアーサナを自宅で確認すると、それらができていないことが分かった。そのことから、私は知らず知らずの内に「アドバンスができる」「呼吸が止まった」などの慢心が湧いていたことに気付かされた。
心のエゴは結果だけを受け取り、それに執らわれてしまう——呼吸の停止はあくまで結果であり、どのようにすればそれができるようになるかという過程が大切であったのだ。
ミラバイ著『真実を求めて』には次のようにある。

「アーサナは肉体を扱っているようで、本当は自分の心と向き合うこと」

とても暑かった夏を振り返り、テーマであった快不快・寒暑の「二元性を超える」とはどういうことかと考えてみた。「呼吸の停止」「結果への無執着」がそうだと言えるかもしれない。でも、「神」という唯一の存在に憧れ、近づいていこうとすること、それだけなのかもしれない。それさえあれば、どんな状況も超えられる。否、超えさせてくださる——
そのように感じた、この夏でした😇 

トンネルを越えると、「桃源郷」をテーマにした空間が広がっていました。8/1 @MIHO MUSEAM

ゴーパーラ


二元性を超えるーー夏の暑さを乗り越えようとした奮闘記(1)

皆さま、先日に台風21号が過ぎましたが、大丈夫だったでしょうか? こちら京都では停電や建物損壊の被害がありました。また、北海道では地震により甚大な被害が発生しているとのことで、災害に遭われた皆様が1日も早く平穏な生活に戻られることを心からお祈りいたします。

ところで、この夏は本当に暑かったですね。皆さま、いろいろな暑さ対策をされたことと思いますが、ヨーガの根本経典『ヨーガ・スートラ』には、

「アーサナ(座法)によって快不快、暑い寒いの二元性を超える」

と説かれています。えっ、ヨーガで暑い寒いを超えるってどういうこと?そんなの無理でしょう〜と普通は思ってしまいますが、でもこの夏、私は「二元性を超える」ということをテーマに、ちょっとばかり暑さと闘っていました。以下、その奮闘記のようなものを書いてみました😤✏️


梅雨明け間近の7月前半、私はヨーガ・ヴィハーラの夜の瞑想会に遅れて参加した。この日の最高気温は34℃、クーラーがかかっているだろうと思って部屋に入ると、クーラーはかかっていなかった。そこにはタンクトップと短パンという最小限の衣服で、涼しげに瞑想する先輩ヨーガダンダさんがいた。この暑さなのになんとも涼しげなご様子、というかご格好!私はというと、瞑想に座るもムッとした暑さで集中できない。。こういう時、どうすればいいのか?

「まず、捉えやすい身体に集中したらいい」

他の先輩の言葉が思い出され、それに伴って聖典『ウパニシャッド』の一節の言葉が蘇ってくる。

「胸と頸と頭とを真っ直ぐに保って正しく坐り、外に出ようとする感覚器官を内に向けよ」

私は姿勢を正し、呼吸を調え、内側に意識を向けていった。その後瞑想では、暑さのことは忘れていた。この日私の心には「アーサナ(座法)によって快不快、暑い寒いの二元性を超える」という『ヨーガ・スートラ』の一文が浮かび上がっていた。

それから1週間ほど経った日、師ヨーギーさん唯一のTV映像である『あどりぶランド』の上映会があった。この日は松山や名古屋からもグルバイ(兄弟姉妹)が京都に来ていて大勢でその10分ほどの映像を見たが、いろんなことに驚かされた。
まず、師の妹さんのシャーンティマイーさん。長い黒髪を後ろで結んで軽快に動き、アドヴァンスのアーサナをされたりしていて、それはまるで「くのいち」のようだった。その隠密さ漂う凛としたお姿に驚愕。
そしてヨーギーさん。何といっても、インタヴューされている時のお声がとっても美しい。声色もそうだが、独特の間合いというか、静かで穏やかな口調。この番組の司会担当をしていたヨーギーさんの同級生アナウンサー野村啓司さんは「彼の話の間合いにイライラする」と冗談めいて言っていたが、やはり普通の人の話し方とは異なる特有のものがあった。
客観的に映像で見る二人のお姿は、何か「超越したもの」が感じられた。それは言葉ではない、その存在から醸し出される「隙のなさ」のようなものでもあった。師は夏でも冬でもクルター(インドの民族服)一枚で過ごされていたという話や、当初アーシュラマ(道場)では扇風機もなく、先輩たちは汗だくでアーサナをしていたという話も聞き、私は姿勢を正される思いになった。

「暑いとか寒いとかそんなこと、言ってられないな!」

そう思った翌日、私は『あどりぶランド』に影響され、涼しい部屋でアーサナはせず、あえて暑い部屋でアーサナを行なった。ヘロヘロになりながら何とか一連のアーサナを終えるも頭がガンガン、熱中症になっていた……それもそのはず、その日の最高気温は38.7℃だったのだ?!(続く)

@MIHO MUSEUM。このトンネルを超えると……

*『あどりぶランド』は、1984年1月25日から1998年3月18日までMBSテレビで放送されていた同社アナウンサーの企画・出演によるバラエティ番組。ちなみにヨーギーさんは野村アナウンサーとは中学時代の同級生であり、同窓会で再会したことがきっかけで、この番組企画「野村啓司の私の同級生は今!」に出演することになったそうだ。

ゴーパーラ


執らわれをなくす。

まだまだ残暑厳しいですね。
今年の夏は危険な暑さが続きました。
 
京都で39.8度の観測史上最高を記録し寝苦しい夜が続くなか、一旦気温が35度の日がありました。それでも猛暑日と言われる気温ですが、その頃には身体が連日の38度超えに慣れていたのか、涼しく感じたものでした。
 
おかしなもので、人間の身体も心もちょっとした変化で捉え方がまるっきり変わったりするのだと改めて感じました。心の印象なんて本当にあてになりませんね。
 
夏は暑い。冬は寒い。考えてみれば当たり前のこと。それ以上の感想は余計な思いです。ついつい口に出して誰かに不満を聞いてもらいたい、愚痴を言って少しでも気を紛らわしたい。でもそうするとそこから余計な執らわれが心に湧いてきます。
 
先輩グルバイ(兄弟・姉妹弟子)から教えられた言葉です。
 
人にはどうにもしようのないことに、いつまでも心を執らわれているよりも、そこで切り替えて、それを受け入れて、何ができるか、どう過ごしてより良くしていけるかを考えればいいだけ。
 
暑いなぁ…から先を言い出しそうになった時、いかんいかん、師は「暑いな」と相槌をうつだけで終わらはるんやった!!と思い出して心にストップをかけています。
気候に限らず日常のあらゆる場面に考え方の癖は見え隠れしています。
余計なものはたとえ思いであっても持たない。軽やかに自由でありたいです。
チャイタニヤ
 

マウナ(霊的沈黙)

4月8日、ブッダ御聖誕の日、マハーヨーギー・ミッション春の祝祭「サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー—神性示現大祭―」が開催された。
祝祭前日に行なわれたサットサンガ(真理の集い)では、「十二因縁の瞑想よりも大事なことがある」と示された師。(前回のブログはこちら⇨『十二因縁』
では、十二因縁の瞑想よりも大事なこととは何か?

昨年から始まった春の祝祭は今年、「ブッダ」に焦点が当てられた内容となった。
会はプージャー(礼拝の儀式)で幕を開けた。幸運にも私はプージャーで師シュリー・マハーヨーギーにマーラー(花の首飾り)を献上させていただき、そのまま師の御前に座らせていただく恩恵をあずかった。しかしながら、師と目が合うことはほとんどなかった。90名近く参加者がいたので仕方がないとも思っていた。
祝祭は、祝辞者がそれぞれに迫っていったブッダやサナータナ・ダルマ(永遠の真理)について語り、会場は歓びと祝福のプラーナで満ち満ちていく中、自然と私の心は静まっていった。
するとある瞬間、私は心が止まったように感じると、師がこちらを見られた。再度、心が止まったように感じると、また師と目が合った。それが数度、繰り返された。本当に不思議だった、私の心が止まったら止まった分、師のダルシャン(霊的一瞥)が注がれたのだった。

そして1カ月が経った頃、「それ」は突然やってきた。胸が締め付けられ、苦しくて何もできない状態が私を襲った。「それ」に心は占領され、「それ」以外のことが思えない、「それ」への渇望で胸が焦がされるような感覚――「それ」は「バクティ」の感情であった。

期せずして、新年の始めに私は「パラー・バクティ(至高のバクティ)に至るために最も大事なことは何ですか」と師に質問していた。師は一言、次のようにおっしゃられた。

「マウナ(霊的沈黙)」

祝祭前日の4月7日、師は「十二因縁の構造が知られて、その根本的な原因の無知というものに辿り着いたら、もうそれらすべてを棄てるということは大事です……心が理解できないのは無知。だからそこのところは、真理というものをもってきて、無知をなくすようにしないといけない」とおっしゃられ、それを受けて私は十二因縁の心の構造を見るより、真理そのものに瞑想する大切さを改めて感じていた。
真理への瞑想が最終的に到達するマウナの境地「ニルヴァーナ(涅槃寂静)」とバクティの目指す「神との合一」が同じ境地ということや、ヨーガの修行の歩みはその「両輪」で進む方がよいということは知っていた。
しかし今、私の中では過去の重荷は棄て去られ、新たにバクティの車輪が回転し、その歩みにドライブがかかり始めたように感じている。
マウナとバクティ——「真理を渇望しないといけない!」と言われたあの台北の夜から今日に至るまで、この両輪を身をもって教えてくださった師の導きに、心より感謝を捧げ、礼拝いたします。(終)

ゴーパーラ