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京都 ヨーガ・瞑想クラス 交流会

京都ヨーガ・瞑想クラスの合同交流会がありました!

プログラムの初めにはアーサナのデモンストレーションがありました。今回はどのクラスでも人気もののゴパーラと土曜日のクラスに通い、最近とても熱心にヨーガと向き合っているMさんがアーサナをしてくれました。気迫に満ちたとても素晴らしいアーサナで、私自身は息を飲むような集中感にとても感動しました。

参加した皆さんも、食い入るようにデモンストレーションを見ておられました。「2人のアーサナを見て、集中間というものはこういうものかと感じた」「自分たちが普段しているアーサナの完成形が分かった」「いいものを見せてもらった」といった感想をいただきました。

その後、さまらさの食事を食べながら、自己紹介を兼ねて、皆さんがヨーガを始めたきっかけや、ヨーガをしてから変わったことなどを話していただきました。

クラスに通うようになって2年になる方が数人おられましたが、皆それぞれに2年前と比べて明らかな変化を感じておられるようでした。

ある方は数年ぶりに会った友人に「人相が良くなった!」と言われたようです。確かに最近の彼女は表情が明るく(昔が暗かったわけではないですが)とても軽やかな印象があります。

毎日アーサナをしていると言われた方は体にしっかりとした軸ができたと言われていました。確かに、最近の彼女からは芯の通った強さを感じます。

またある方は、仕事場でうまくいかなかった同僚と真理を学び瞑想していく中で怒りや不満の感情なく普通に話ができるようになったと言われていました。きっと瞑想によって心が変化し、動揺しなくなっていったからでしょう。

皆さんが日常生活の中で変化を感じながらクラスに通ってくださっていることを知り、とても嬉しかったです。

一方でアーサナの実践にムラがあり、甘いものがやめられない…と話されている方もおられました。それはそこにいる誰もが多かれ少なかれ経験があること、それぞれの体験を話しながら、みんなで自然とアドバイスしあいました。

みなさんの話を聞いていて感じたことは、調子が良い時も、悪い時もあり、状況は色々変わるし、誰もがトントン拍子でうまくいっているわけではないということ。人と比べる必要はなく、それぞれに道があり、コツコツと実践していくことで必ず進歩しているのだということです。
同じヨーガをしている仲間とこのようように話し、励まし、刺激しあえる機会はとても貴重だと思いました。

最後に話をしてくれたSさんは、熱心にクラスに通う中、自分の内に歓びがあることを体感し、自分自身も人に歓びを与えられる存在になりたいと話してくれました。彼女の話している言葉や姿、発しているプラーナ(気)から歓びが溢れ出ているのを感じ、こちらまで歓びが伝わってきました。そんな彼女も、ヨーガをする前は仕事のストレスで体調が調わないことがあったようですが、今ではそのようなことはなくなったと話されました。

改めて、ヨーガって本当にすごい!!一人の人の人生を大きく変化させる、なんとすごい力でしょう!!!!是非またこのような機会が持てたらと思います。


夏の松山瞑想特別クラス

また7月も行ってきました夏の松山に!サーナンダです。
瞑想特別クラスでは累計14回目の訪問になり、随分と松山にも行き慣れてきました。松山のたくさんのヨーガを学ばれている皆さんともすごく顔なじみになってきて、顔を見かけると嬉しくなります。
さて、そんな瞑想特別クラスの感想が松山のアミティさんから届いたので、掲載させていただきます。相変わらずヨーガに熱い松山の皆さまでした!


今年2月から7回シリーズで始まった松山瞑想特別クラスとサットサンガ。その4回目が7月15日(土)16日(日)に開催されました。講師のサーナンダさんは、松山ではすっかり顔なじみになり、いつも多くの人が心待ちにしています。サーナンダさんが定期的に来てくださることで、その度毎にインスパイヤされ、ますます皆さんのヨーガの熱が高まってきています!

今回のテーマは「食と言葉を調える」でした。「食」も「言葉」も私たちの日常生活と切り離す事ができないとても身近なテーマです。具体的な実践のヒントをたくさん頂いて、さっそく日常の中で実践していきたいという声が多く聞かれました。

この2日間で私が感じたことは、真実を悟った人は、どのように行為をするのだろうかということでした。その行為を学び、日常で実践していくことによって心が調えられ、真実を悟ることへとつながっていくということです。

食事について言えば、「すべての存在は等しく尊い存在である」ことが本当にわかったならば、自分の体を維持するための食事は、食物の尊い命を頂くわけだから、旬のみずみずしい良質のものを必要最低限の量で十分だということになり、食材やそれを育てた人や自然に対する感謝の気持は自ずと起こり、他者を思いやり集中して調理するということも自然な行為として行われることになるでしょう。

言葉についても、心の波がなくなったときに真実の自己が輝き出ると教えられるように、真実を悟ったならば、心の思いがないのだから、愚痴や不平不満などあるはずがないし、すべてが等しく尊い存在であるとわかったなら、相手を傷つける言葉を発することなどあり得ない。常に心は沈黙しているだろうから、自分が話したいから話すということもなくなるでしょう。言葉はただ他者のためにあり、相手の話をよく聞き、相手の必要としていることを話し、時には、相手の心を解きほぐすために会話を楽しむこともあるでしょう。

2日目のサットサンガでは、「傲慢な自分を直したい。謙虚さについて教えてください」という質問があり、サーナンダさんは次のように答えられました。
「ヨーガをやって行くと、自分がどれだけ偉いのかということを考えた時に、自分が人より優れていることとか、傲慢になったり、威張ったりする理由が見つからなくなる。この自分の命、生きているっていうことそのものが、自分の力で支えているわけではないから、謙虚にならざるをえない。
才能や、社会的な地位や人より知識があるとかないとか、それで優劣をつけるとかは、本当に些細な事。原点に立ち返って、ここにこうして尊い一個の命をもって存在している、生きていることの神聖な意味を感じることができたなら、自然に傲慢さがなりをひそめて謙虚な思いになって来ると思う。
訓練としてやる時は、徹底してへりくだるということを実践して行くべき。態度、言葉遣い、姿勢、徹底してへりくだる。行動も常に相手を尊重、敬うような行為を無条件にやって行く。」

真実を悟り、真実に生きているヨーギーの生活のあり方はどのようであるのか?それを学び、理想、目標とすること。そして、日常の食事を気をつけたり、言葉に気をつけたり、徹底してへりくだる実践も、何のためにやるのかと言えば、その理想に向かっていくため。
サーナンダさんは、真実、真理は自分の一番身近にあるもの。目の前にある日常にこそそれがある。だから日常が大事、と言われていました。
理想を見失わないようにしっかりと見据えて、目の前の日常を調えていくこと。
ヨーギーは、いつも軽快で大らか。私たちは、その理想の姿になろうとしているのだから、細かいことにこだわりすぎることなく、大らかに軽快に実践して行けたらいいなと思います。

アミティ


人を見るとき

 

京都は祇園祭の最中ですが梅雨が終わったかのように毎日猛暑日が続いていますね。
熱中症にご注意を!!さて、クラスの報告が続きましたが、久しぶりに日常(仕事)の中で良い気づきを与えてもらった真理の教えをご紹介します。

(私は介護の仕事をしています)
先日のこと、支援に入っている方(精神障害のある方)は調子が悪かったのですが、ご自身では自覚がなく、出かけたい!と言われるので、お供しました。途中、道端で何度もバッタンバッタンと倒れられました。時々あるので、ゆっくり休みながら行きと帰りをお供しました。家に帰ってからは、精神状態がさらに悪くなったようで、幻覚が見えたり、幻聴によって外に飛び出しそうになったりと、いろいろありました。本人も自分自身の行動が手に負えないようで、時々正気に戻ったように「アーーーしんどい・・・」と言われます。でもまた幻覚や幻聴の方に引き寄せられていく・・・・私もどうしたものかと悩みましたが、とにかく彼女の安全だけは確保しようと努めました。

家に帰って見つけた真理の教えを読み、改めて感じることがありました。

「いろんな人にはいろんな事情や状況があると思いますけれど、そういうことを無視して、ただその人の存在と命だけを見つめるようにすればよろしい」(シュリーマハーヨーギー)

病気と、存在と命とは全く別物だということ。私はそれだけを見つめて仕事に励めばいい。
この世の中には本当にいろんな人がいるけれど、ただその人の命だけを見つめるよにすればいいのだなと思いました。


ヨーガの料理クラス なぜ旬をいただくのか!

6月4日(日)、パラマハンサ会員向けさまらさの台所を開催しました。今回は、担当のゴパーラの「日常の料理にもっと旬を取り入れたい!」という思いから会のテーマを「旬をいただく大切さ」として、2種類の旬野菜を使って彩りも豊かなお弁当を2班に分かれてそれぞれ作りました。

竜田揚げのお弁当(左)…しいたけとかぼちゃの竜田揚げ、ねぎとわかめの卵焼き、モロッコいんげんのかつお和え、きゅうりのきゅーちゃん、みょうがと大葉の混ぜご飯
春巻きのお弁当(右)…アスパラとチーズの春巻き、スナップエンドウと卵のサラダ、焼きパプリカ、大根の梅和え、わかめご飯

おかず作りのポイントやお弁当の詰め方、ライフスタイルに応じた工夫など、明日のお弁当作りからすぐ実践できる内容に参加者のみなさん、興味津々でした。
また、旬野菜の特徴や自然の力によって育った野菜をいただくことによって私たちの身体にどのように影響するのかを学びました。

「なぜ旬をいただくのか?」
担当のゴパーラは、理解を深めるために瞑想し、気付いた内容をクラスで話してくれました。
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旬をいただくとは、どういうことか?私自身、毎日の自炊はしていましたが、料理は作り慣れたメニューでさっと済ませて二の次といった具合で、旬をいただくということが何だか希薄だと感じていました。そこで昨年の冬から、少しずつですが旬を取り入れた料理に取り組んでいきました。そんな中感じたこと、それは、旬の食物は大いなる力を宿していること、つまり「大地のエネルギー」を宿しているということでした。

冬に大根やごぼうをいただくと、それらはとても甘くて身体の芯から温まる感覚があり、春にいただいく空豆やエンドウ豆は、小さな中にもすべてが詰まった濃厚な味わいとエネルギーが感じられました。その旬の大いなる力をいただいていると実感した時、自然と食べ物に対する向き合い方、接し方が根本的に変わっていきました。

何が変わったかというと、「命をいただいている」――単純ですが、そのことが自分の中から湧いてきました。そうすると食物が愛おしく、丁寧に調理する自分がいました。旬をいただくことが希薄だったのは、命をいただくことが希薄だったのだと気付かされました。命の恵み、それをいただいていると感じたら、料理は二の次なんて絶対に思えない。この大地の恵みに支えられて、自分は生かされている。
その気付きがあってからは、料理をすることが楽しく、作られた料理がとても美味しく感じるようになってきました。そして、何度も聞いていたウパニシャッドの一節が思い起こされました。

「アートマンは1人では楽しめなかったので、自らを2つに分けた。そして男と女が生まれ、

動物、食物が生まれ、万物が展開された」

この食物は、どこから来たのか? 誰が作ったのか? そして食べている者は誰か?

すべてはあなたが種を撒き、耕し、太陽を照らし雨を降らせ、そして収穫し、その恵みを私たちにお与えになられている。大宇宙というこの大農園、あなたこそがさまらさファームであり、耕作者、そして地主!!!

何ということ!!!

その不死の甘露をいただくこと、それは最高の歓び!!!

あなたの大いなる御足の地に礼拝し、毎日の食事ができることを願います。

参加者からは、「旬について考える機会をもらって、自分も野菜も共に生かされているのだという喜びがあり、さまらさの本当の意味を学んだと思う」という感想も頂きました。

次回は8月13日(日)を予定しています。詳細は後日WEBにてお知らせしますので、ぜひぜひご参加ください〜

サティー&ゴパーラ


ヨーガの秘訣・北海道編 神は私を待っておられる!

シュリー・マハーヨーギーの弟子には、遠方に住んでいて、容易に師に会えない方もいます。京都に住む弟子たちは、直伝クラスに通ったり、サットサンガなどで、よく師にお会いすることができますし、ブログでもご紹介させていただいているように、昨年からは台湾や松山、京都など各地で特別サットサンガも開催していますが、それでもなかなか会えない人はどのようにヨーガへの思いを高め、日々実践していけばいいのでしょう。

それについて、遠く北海道に住んでおられる三井さんが、ご自身の思いと日々の実践について投稿してくださいました。北海道から京都まで容易く来られませんから、三井さんはブログやパラマハンサに掲載される師のお言葉を何回も読まれているそうです。そして、年に一度ヨギさんに会いに来られた時の三井さんの、実に濃密な師との交流シーンが目に焼き付いている方も多いと思いますが、この記事を読むと、物理的な距離や回数ではないということが実証されているように感じます。


まだヨーガに出会っていない頃、よく見る夢がありました。
夢の中で私は、とっても大事なことをしていないことに気づき、これをちゃんと覚えておいて毎日やらなきゃ!と決意するのですが、目覚めた時には、その大事なことが何だったのか全く思い出せないのです。
私は何か、とても大事なことをしていない・・・・・。
そこで、今までよりも注意深く意識しながら生活してみることにしました。大事なことをしていないはずなのに、日々の生活は何の支障もなく過ぎていきました。そしてまた同じ夢を見るという繰り返し。

私は一体何をしていないのだろう?

ヨギさんの下に導かれ、ヨーガを学び、毎日アーサナと瞑想をするようにな ってから、あの夢を見ることはなくなりました。
毎日続けるに値する確かなものを得て、心はようやく安堵しました。私の魂は、ヨーガを渇望していたのだと思います。
ご飯を食べたり、お風呂に入ったり、歯を磨いたりするのと同じようにアーサナと瞑想も当たり前の習慣になり、何をしていても時間になれば2階の修行部屋へ向かいます。階段を上りながら思うことはただ一つ。

「神は私を待っておられる。もっともっと深い瞑想を捧げよう!」

どんなに離れていても、どんなに会えなくても、心から尊敬できる師と、同じ志を持つ仲間に巡り会えたことは大きな喜びです。
京都に伺い、ヨギさんにお会いした時に伝わってくる神聖なバイブレーションや、慈愛 に溢れた眼差しや、とろけるような笑顔や、ぬくもりのある声は、言葉や文章ではとても伝えられず、実際に味わってみなければ決してわからないことです。
そして、謙虚で穏やかで親切なお弟子さんたちに接すると、頭が下がる思いになります。ヨギさんの教えが深く浸透し、ヨギさんの存在が心にも身体にも染み渡っていると感じます。ヨギさんのお側にいるということは、こういうことかと思わずにはいられません。
ヨギさんのお側でグルバイと一緒にヨーガを学べたらどんなにいいだろうと思う時、頭に浮かぶのはパラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』の中の一節です。

私はカラ・パトリに、彼の放浪生活について尋ねてみた。
「あなたは冬でも、ほかに着物を着ないのですか」
「着ません。これで充分です」
「あなたは本をお持ちですか」
「いいえ、ひとに物を尋ねられたときは、記憶の中から答えます」
「ほかにはどんなことをなさいますか」
「ガンジス河のほとりを散歩します」
この淡々たる答えを聞いたとき、私の心に、彼の素朴な生活に対するあこがれが強く湧いてきた。私は、アメリカと自分に負わされた重い責任の数々を思い起こした。『いけない!ヨガナンダ』私は一瞬さびしく自分に言いきかせた。『この生涯では、ガンジス河の散歩はお前には許されていないのだ』

この生涯では、ヨギさんのお側でグルバイと一緒にヨーガを学ぶことは私には許されていない・・・・・。
パラマハンサ・ヨガナンダの崇高な使命とは比較にならないとわかっていても、そんなことを考えて寂しくなる時、私を励まし力づけてくれるのは、機関誌『パラマハンサ』に掲載されているサーナンダさんの文章です。

インドの山奥で瞑想行に勤しむヨーギーたちも、社会において多忙な仕事に勤しむ世俗人も、等しく神の思し召しによってその境遇が与えられている。私たちを神の御下に導くための道筋がその境遇にある。
今ある状況は、カルマが要請したものであると同時に、カルマを果たすためにはなくてはならないものであると理解できる。
自分の前にやってくる状況は、すべて神が私たちに与えられる素晴らしい導きなのかもしれない。
肝要なことは、現状に不満を言わず、知足し、淡々とヨーガを実践していくことである。
私たちの真剣なヨーガの実践は必ず神に届き、神はそれを見て慈悲深くもヨーガの道を歩むに必要な熱意と力を与えて下さる。これは真実である。

振り返ってみれば私はずっと、本当のことだけが知りたいと願い、探し求め、これも違う、これも違う・・・と彷徨っていました。もう探し回らなくていいと思うと、深い安心感に包まれます。
お導きくださったヨギさんには、感謝の気持ちでいっぱいです。

サーナンダさんは、「私たちには、戻ることのない長い旅路の覚悟が必要です。」と書いておられます。途中下車することなく最終目的地だけを目指し、風景を楽しみながら長い旅を続けていこうと思っています。

三井


ヨーガはライフワーク

シュリー・マハーヨーギーは昨日台湾からご帰国されました!初めての師の台湾ご訪問でしたが、実にたくさんの道を求める台湾の人々が真実の師に巡り会えたことに歓喜し、師の存在と教えに魅了され、ヨーガの道に一歩足を踏み出そうとしているようです!彼の地に新しいたくさんの仲間が増えることを、心から嬉しく思いますし、これからが本当に楽しみですね!師との吉祥な縁によってヨーガが一層台湾に根付いていくことでしょう!すぐにブログでもご紹介できればと思います。

そして、師は今週末は松山での特別サットサンガに向かわれます。松山ヨーガ・サークルにて、5月20日(土)14:00〜16:00、5月21日(日)14:00〜16:00の2回行なわれます。とても貴重な機会ですので、皆さん、ぜひご参加ください!

さて、その松山に17年前に師と共に初めて訪問した際、師から「ヨーガはライフワークです」と言われたことを鮮明に覚えています。実はその時はよくわからなかったのですが、最近はその意味を実感します。今日はそのことについて書いてみたいと思います。

ライフワークとは、生涯をかけて成し遂げる仕事という意味です。畢生(ひっせい)の事業です。師はヨーガを成そうとすることは大事業だと言われます。

この社会のどんな事業も人の心が欲して成し遂げられ、人々に影響を与えますが、その心そのものを浄化し、人間を完成させるヨーガは、時を越えて多くの人々に恩恵をもたらす大事業になるということです。ブッダが成し遂げられたことは2500年経った今なお人々に恩恵をもたらし続けています。

それに気づいたのは、ナーグ・マハーシャヤというシュリー・ラーマクリシュナの直弟子の生涯を記した伝記『謙虚な心』を読んでいる時でした。ナーグ・マハーシャヤの生涯は、神への信仰とはどういうものなのか、そして謙虚さとはどういうことなのかを、人々に伝えるために捧げられたものだと思いました。神への純粋な信仰に生き切ったナーグ・マハーシャヤの生涯は、不滅の力をもって、私たちに真理を伝える力を持っています。その力は衰えることなく、未来に渡って道を求める多くの人間の魂を呼び起こし、心を変容させる力を持ちます。


ナーグ・マハーシャヤ

誰でもが、神への信仰や謙虚さを語ることはできるし、パートタイム的に行動することもできるけれど、その本当の意味は、生涯をかけて生きることで初めて伝えられることなのだと思いました。思いや言葉、行動の全てが100%それになって初めて、存在そのものが純粋な信仰となり、謙虚さそのものとなり得るのでしょう。それは生涯を捧げることによってしか成し遂げられないことなのだと思いました。それまではどれほど言葉巧みに語ろうと、単なる戯言に過ぎないのかもしれません。

ナーグ・マハーシャヤの生涯は、どこまでも神の僕であり、謙虚さが人の姿をとって顕れた存在だったのです。何の説明がなくとも、人は彼に会っただけでそれを感じざるを得なかったのです。

聖者と呼ばれる方々の生涯は、まさに真理の中に、神の中に生きた生涯であり、その尊い足跡は、永遠に輝き続けるのだろうと思います。ヨーガとはそのようなものであり、ライフワークとして、生涯をかけてやり遂げる理想と志を持つことがとても大切なことだと思いました。

サーナンダ


コツを持たないコツ

春から担当が変わり新しい方の支援に入っています(私はヘルパーの仕事をしています)

私の事務所は身体に障害がある方の支援を主に担当していているのですが、今回新しく入ることになった方は知的に障害があり、精神的にも少し不安定なところがあります。私もですが、事務所としてもあまり経験がない仕事内容です。

先日、その方を担当しているヘルパー同士で集まり、支援の情報交換をしました。みなまだ慣れず、それぞれに不安と悩みがありました。

私も担当してわずかですので、その方を理解しているとは到底言えないのですが、比較的上手く支援に入っていると思われているようで(私はそうは思わないのですが……)「何か支援のコツはありますか?」と聞かれました。いろいろと考えたあげく出てきたのは「分かりません……」という言葉でした。

本当に分からなかったのです。なぜなら、その方の様子は支援の度に違います。気分も体調ももちろん違うのです。ある時はイライラしている。ある時はとても親しげにくっついてこられる。一日に何度も機嫌が変わることもあります。そのどれをとっても、私が原因なのかどうかは分かりません。私が支援に入る前に何か良いことがあったのかもしれないし、何か嫌なことがあったのかもしれない、そのような条件の中から人のことを断定することはとてもできないと思ったからです。

毎回変わることに対して支援の側だけが「このようにすれば上手く入れる」というひとつのコツを出すことはできないと思い、思わず正直に言ってしまった言葉が「分かりません」でした。

でもそれではあまりにもいい加減だな〜と思い、終わってからまた考えていました。それで出た答えは「こちら側の心を空っぽにしておくこと」(心に一物もないようにしておくこと)でした。ころころ変わる心に対応するには、こちらの心を空っぽにして、相手がどういう態度に出てもそれに順応して対応できるようにしておくことかなと思いました。

コツというのは時として断定的なもので、コツを作るとそれに縛られてしまうこともあります。コツを持たないことがコツということもあると思いました。

今のところそれ以外にコツはないなと思ったのですが、「今のところ」ではなく、これは本当はどんな仕事のコツでもあるのではないかと思いました。

新しい仕事に就くと、慣れるまでいろいろ大変ですが、このように新鮮な気付きをいただくこともあり、とても感謝しています。


ヨーガの秘訣・大阪編 ヨーガの宝物!

多くの方が、仕事や家事、育児、あるいは介護に忙しい毎日を送っている中で、どのようにヨーガを実践していけばいいのか、悩む時があります。忙しい日々に追われ、ヨーガや理想を忘れてしまうことすらあるかもしれません。
大阪でプレーマヨーガサークルを運営するニルマラーが自らの経験を寄せてくれました。


グルバイ…真理を求めて同じ師のもとに辿り着いた仲間(兄弟姉妹弟子)、その存在がどれほど私を支えてくれているか。昨年度はその存在の大きさを特に実感する1年だった。

この春から、任される仕事の内容が増えたり、子どもの進学があったりと忙しさは続いているが、昨年度は特に、日常生活において次から次へとやらなければいけないことがきて、本当に慌ただしい日々だった。内容は家事・育児・仕事、文字にするとたったこれだけなのに。
目の前にやってきた仕事に対して、感情に振り回されずに淡々と、しかしそれがより良くなるよう誠意をもって一所懸命行う。ヨーガで学んだ仕事に対する姿勢をもって一つ一つのことに向き合うようにしていても、許容量の少ない私は、時々糸が切れたかのように「もう無理!」と叫びだしたくなることが何度もあった。自分の不甲斐なさに涙が出ることもあった。
それはヨーガの実践にも及んだ。1日の終わりにはもうクタクタで、アーサナも瞑想もせずに気づいたら眠っていたという日も多かったし、何より神への思いを忘れてしまいそうになっている自分に失望したこともあった。
しかし、雑多な日常生活の大波にのみ込まれそうになるたび、ヨギさんが使者を送ってくださっているかのように、先輩グルバイとの交わりの機会が与えられた。
プレーマヨーガサークルの活動を通してだったり、御聖誕祭の祝辞を書くということだったり、様々な形で普段はなかなかお会いできないグルバイの皆さんとお話をする機会に恵まれた。
そこでいただいた言葉の数々、それらが私にとってはヨギさんからの叱咤激励のように感じられた。

ある時は、ミラバイさんが「もし神を忘れてしまったと思える時でも、神はあなたを忘れることはない」というヨギさんの言葉を教えてくださり、あまりにタイムリーな言葉に驚き、瞬時に涙腺が崩壊した。
ミラバイさんが教えてくだるキールタンもまた、忙しい日々の中でいつでもどこでも実践できることとして、私の生活には欠かせないものになっている。
初めて歌ったのは確か10年ほど前だったと思う。神の御名を唱える、そのシンプルな行為によって、彷徨っていた心があっという間に神のもとへと戻っていく。生活をまわすだけで精一杯な時、とにかくキールタンを歌うことでなんとかヨーガと繋がってきた。

また、NYのアーナンダマーリーさんからご連絡をいただいたこともあった。
御聖誕祭での祝辞に、NYやクロアチアのグルバイの方が共感してくださっているという内容だった。そのことを聞いて私の方が励まされた。何より、1年前はご挨拶するだけでもすごく緊張していた大好きなアーナンダマーリーさんとメールのやり取りをするだけで、神聖なバイブレーションが伝わってくるようだった。
週に1回行なっているプレーマヨーガサークルも、グルバイと交わる貴重な時間だ。お互いがそれぞれ忙しくなっても、この活動だけは大切にしている。
それはヨギさんが与えてくださった大きなプレゼントなのだと感じているから。

そう、グルバイの方々はそこから発せられる言葉はもちろん、その存在の中にヨギさんを見ることができるのだ。だからその在り方に触れることで、こちらを奮い立たせてくれたり、神聖なものへと思いを馳せるきっかけになったりと良い刺激を与えてくださるのだろう。それが、ヨーガを実践し続けていく大きな力になっている。

世間の大波の中にあっても、神だけを見て歩んでいけますように。
神への思いが溢れ出て止まらない、そんなグルバイの一人となれますように。

ニルマラー


大切にしている言葉

「一枚の草の葉よりも謙虚で、木のように忍耐強く、逆風に耐えるものであれ。人から名誉を受けることを拒み、すべての人を心から敬うものであれ。主の御名を絶えず唱えよ」

今日で8年努めてきた利用者さん宅での仕事が一旦終了しました。(私はヘルパーの仕事をしています)8年間、多い時で週に2日は一緒に夕食を食べ、並んで寝て、朝の時間を過ごしてきました。お昼勤務の時は車いすを押していろいろなところへ行きました。旅行にも行きました。考えてみるとお互い半分は家族のような存在になっていたように思います。

若い頃、障碍者自立運動をしていた彼女はヘルパーにとても厳しい人で、勤務が始まって何年かはよく怒られました。でもそれによってヘルパーとしてのあり方を教えてもらったように思います。教えられた数々のことにより、私がこれまでヘルパーとして仕事を続けてこられたといっても良いと思います。

さて、冒頭に書いた詩は中世の聖者、シュリー・チャイタニヤが残した詩の一節です。
いろいろなことがあった8年間でしたが、心に葛藤が起こるたび、思い起こされた一節です。
実際、このようであることを強く望まれる現場であり、このようでなくては耐えられないような現場でもありました。でも今では、どのような現場でも、どのような仕事でも、常にこのようにあれば良いのだと理解できます。その理解はまだ頭の理解なので、常にそうあるようにトライし続けているという状態です。

初めて読んだ時は、到底できるものではないと拒否反応すらありましたが、少しずつ、少しずつ心に浸透させていくことで、今ではこの世界の中に生きる上で、心の苦しみから逃れる唯一の手だてだと感じています。担当する現場が変わっても、同じ思いで仕事を続けていこうと思っています。


ヨーガの秘訣・大阪編・・・ヴィヴェーカーナンダの詩

めっちゃ忙しい人がどうやって日常でヨーガを行なっていくのか。
その実践的秘訣を、大阪で家事に仕事に忙しくしながら、プレーマヨーガサークルをされているスディーティが寄稿してくれました。


この数年、私の周囲は何だか忙しい。それは、今までの生活を突然大きく変える必要に迫られるようなことでもあり、一般的に言えば「次から次へと大変やね~」みたいな状況でした。実際、もし自分がヨーガに出会っていなければ、いちいち大パニックになって悲劇のヒロイン気取りになっていたかもしれません。
そう、その時、確かに私はヨーギニーとして、やってくる出来事を淡々と受け止め、その時最善と思われる方針を決め、一つひとつ行動に移していったのです。すると、色々と困難なことが起こっているとは思えないほどスムーズに事が運び、「は~、ヨーガのお陰やわ。私も結構成長してるやん~!」といい気になっていました。

しかし!出来事を受け止めて方針を決めるのと、実際に一つひとつ実践していくのは大違いなのです。「ちょっと~!わかってたけど、やってみたらめっちゃ大変や~ん」なのです。まず時間がない、家族は色々と問題を起こしてくれる、慣れない仕事では自分の無能さに改めて気づかされる、毎日へとへとになって1日を終えることで精一杯と感じていました。いつも何となくイライラして不機嫌で、アーシュラマでヨギさんにお会いできる時だけがすべてを忘れ満たされている時間でした。ヨギさんは、いつも私たちと一緒にいると言ってくださっているし、それが真実だと分かってはいるけれど、その時の私はそれを感じることができず、「余裕がないんです!もう目いっぱいなんです!」と叫び出したくなるときが度々ありました。

それでも私がヨーガから離れてしまわずに済んだのは、一つには〝プレーマヨーガサークル〟があったからです。私には、サークルに来られる方にヨギさんのお言葉を間違いなくお伝えする責任があったし、何よりそこには仲間がいました。心おきなくヨーガの話ができる仲間との時間は、私にとって大きな支えとなりました。元々は一人でも多くの人の助けになるためにヨーガをお伝えしなくては!という思いで始めたサークルでしたが、助けられているのは私のほうだったのです。

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プレーマヨーガサークルでのバクティ・サンガムの様子

もう一つには、グルバイである先輩ヨーギー・ヨーギニーの存在がありました。先輩たちに私の状態を話すことはなかったし、頻繁にお会いできるわけではなかったけれど、知ってか知らずか、いつも少しの会話の中に〝はっと〟させられることが何度もありました。また、何も会話をすることがなくても、直接お会いするわけではなくても、その在り方を見るだけで心がリセットされまた新たな気持ちでやり直そうと思わせてくれる存在でもありました。

そして、上の二つの理由にも増して大きな一つが、師であるヨギさんの存在です。
私は、ヨギさんにお会いして弟子にしていただいて以来、ただひたすらヨギさんの喜ばれる様子が見たくて熱心にヨーガに取り組んできました。ヨギさんが最も喜ばれること、それは私たちが〝本当の自分に目覚める〟こと。そのために、ヨギさんが私に言われたことは「常に神を思う」ということです。それは私にとっては本当に進みやすい道で、いつも胸の奥のヨギさんを基準に物事を決断し、歩んできました。ヨギさんの弟子であるということは、私はヨギさんのものであるということだと思いました。ヨギさんのものである私の面倒はすべてヨギさんが見てくださっているのだから、何がやってこようとそれは私にとって必要なことだし、そのことについて私は何一つ余計なことを考える必要なんてない。ただその時その時最善を尽くせばよい。その考えは私を強くし、目の前で起きる出来事に振り回されることなく進んでくることができたのです。それがどうでしょう!ここ数年、押し寄せてくる出来事に踏ん張りがきかず、たった一つのことさえままならなくなっていたのです。それは本当に苦しい時間でした。ヨギさんにお会いしたい!と思う反面、今の自分ではヨギさんを喜ばせることができない……という思いが湧いてきて、お会いすることをためらう自分がありました。

そんな悶々とした時間を過ごしていたある頃、私にとって大きな出来事が起こりました。それは、私がヨギさんのものとして相応しく生きているかどうかを問われるような出来事でした。その時も、私が自分自身の行く末を心配する気持ちは少しも起きなかったのですが、その問題を起こした人に対してどう対応すればよいか、その対処の仕方を間違えてしまえばその人の今後に大きな影響を与えるかもしれない、という思いもあり本当にどうしていいかわからず途方に暮れました。最初は腹立ちや悲しみのような感情もあり、数日間そのことが頭から離れず、「ヨギさんのものとして相応しくあれますように」と祈りながら、必死でヨギさんに問いかけ、すがり、答えを待っていました。

すると2日後、急に「みんな苦しんでいるんだ」という思いがやってきました。それと同時に、ヨギさんならこの人たちの暗闇に光を投げかけてあげることができるのに、私はヨギさんの弟子でありながらこんなに近くにいる人たちを助けてあげることもできないんだ!という事実に気づかされたのです。それは言い換えれば、一刻も早く苦しんでいるこの人たちのために、私はヨギさんと一つにならなければならない、ということなのです。一刻の猶予もない!という焦りを感じ、自分のことを情けないと思っている時間さえないのだと思いました。
そうして改めて気づいたことは、ヨギさんは「〝常に〟神を思いなさい」と言われたということ。〝常に〟はあくまで〝常に〟であって、〝できる範囲で〟とか〝都合の良いときだけ〟ではないのです。そうして振り返ると、今までの自分は熱心に実践しているようでいて、隙だらけだということにも改めて気づいたのです。もっと隙なく、もっと注意深く、もっとやれる……と。

それ以後も私の状況は特に変わることなく、むしろ叫びだしたくなっていた頃より忙しくなり、周囲の人たちも相変わらず問題を起こしてはくれますが、それらのことは以前のように私を苦しめる力を失ったようです。そんなことよりも、私は周囲の人たちの苦しみを取り除くために、一刻も早くヨギさんと一つになり、ヨギさんを愛するように、ヨギさんが私たちを愛してくださるように、この人たちを愛したいのです。

われ汝について何も知らず
知れるはただ われ汝を愛すということのみ
汝は美し おぉ 汝は美し!
汝は美そのものなり

おぉ 愛しき者
汝の唇のひとつのくちづけよ!
汝のくちづけを受けし者は
汝を慕う心 とこしえにいやまさん!
すべての悲しみは消え
来し方
今 行く末を忘れて ただ汝のみを思う

誰が救いを願わん
誰が救わるることを願わん
解脱をも誰が願わん
われ富を欲せず 健康さえも欲せず
われ美しからんとも 賢からんとも願わず
数多度(あまたたび)生まれさせ給え
この世の諸々の悪の只中に
われつぶやくことなからん
ただわれをして汝を愛させ給え
愛のための愛もて

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ
『愛の叡智』より

この詩は、5年ほど前にミラバイさんがスワーミー・ヴィヴェーカーナンダの美しい写真と共にカードにしてくださったものです。それ以来、毎日仕事に出かける前にこの詩を唱えています。最初はその美しい詩を唱えることで心を静めようとしたのか、集中させるために行なっていたのか、はっきりと覚えてはいないのですが、いつの頃からかこの詩は私の生きる理想になっていました。「どうか、こうして外から内に向かってこの詩を唱えるのではなく、止めようとしても内から溢れ出す私の言葉となりますように!」と。
そして、今、また新たに強く決意するのです。それを遠くない未来に必ず実現するのだと。

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スディーティ