死に近づくと人の顔貌は変わります。顔色が悪くなるとか、見ていられないくらい痩せてしまうとか、そういうことではありません。意識がなくなるにつれ、焦点の合わない独特の表情になっていきます。生命力のない、弱々しい目のように映るかもしれない。ある医師は、それを「仏様の目」だと表現していました。私は、何とも言えない美しさを感じます。それは、息をするのを忘れるほど美しいのです。あまりに美しすぎて、ため息も涙も出ません。ただ、ちっぽけな自分が偉大なものの前に立ちつくし、その美しさを茫然と眺めるしかないのです。自分が手を入れられる領域ではないこと、ただ偉大な者の手に委ねるしかないことを思い知らされるのです。誰もが同じように感じているわけではないと思います。違う表現をする人もいるでしょうが、多くの人が神聖な何かを感じているはずです。
人は死を宣告された後も希望は持ち続けると言われます。希望というのは、明日にでも新薬が発明されて病気が治るかも知れないとか、パリで個展を開こうとか、こんな料理に挑戦しようとか、大小さまざまな希望です。でも、体は徐々に思うようにいかなくなる現実を見せつけられます。そうすると、希望はどんどん剥ぎ取られ、死が現実のものとして見えてきます。ある医師はその状態を「剥ぎ取られるというよりも、自ら手放していっている」と表現していました。そしてもう何かを欲したり感じたり、そんな余裕すらなくなった時、人は呼吸の一息一息がすべてになります。一瞬一瞬を生きるだけになります。心のいらないものが捨てられ人の本質に最も近くなった姿、それが死に逝く人の姿なのです。だから美しいのです。
神は、人が死に逝く時のために神秘的な体のシステムを作られたようです。それは、死に近づくに従って、人は苦痛を感じなくなっていくのではないかというものです。これはある医師が著書の中で書いていた彼自身の考えのようですが、医学的にもある程度説明がつくとされています。呼吸機能が低下すると二酸化炭素が吐き出せなくなり、体内の酸素と二酸化炭素の割合は逆転します。この状態になると、意識が朦朧として痛みが感じなくなるということが証明されています。また、脳の中で強い鎮痛作用と多幸感をもたらす脳内モルヒネと呼ばれる物質が増えるという報告もあるそうです。見た目は苦しそうに見えても、その人の中で本当に起こっていることは、計り知れないのですね。こうして人は死に向かうと共にそのための準備を進めているそうです。
しかし、肉体的な苦痛が和らいだだけでは死の恐怖からは救われません。ある癌を患った患者が死に直面してその苦悩を書いています。「死に至る病の苦しみさえなければ、と人は考える。それさえなければ死もそれほど怖いものではない、とすら思う。しかし、その考え方はまだまだである」。医学では、死に逝く人の痛みは肉体的なものだけでなく、精神的な痛み、社会的な痛み、そして魂の痛みというものがあるとされ、数年前からこの魂の痛みに対するケアが行われるようになってきました。魂の痛みは、スピリチュアルペインとも呼ばれ、生まれた意味、病気になった意味、死にゆく意味を自らに問うものです。ただ、これは外からのアプローチでは答えを見出しにくいと言われています。 医療では、長年死は敗北だとみなし、救命に力を注いできましたから、この分野は不得意なのです。
それを担うのは宗教の役割だと言われます。かつて、生老病死に寄り添うのは宗教者の役割でした。それが多くの人が病院で亡くなるようになると、医療者が担うようになってきた。しかし、現場は忙しく、また医療者自身が答えを見出すよう導く術を知りません。
宗教も医学も行きつくところは同じ問いであると言われます。それは「人の本質は何なのか」ということです。自分は一体何者なのか、この問いに自らの内に答えを見出すことができた時、生きる意味、死ぬ意味、すべての謎が解き明かされ、私たちは自分自身だけではなく、他者をも死の恐怖から救い出すことができる。そしてその時、本当の意味で生きることも死ぬこともすべてが美しいのだということができるのだと思います。
ユクティー