ものごとの真正面

久しぶりに会えた7歳の姪っ子と、簡単なフラワーアレンジメントの会に参加しました。早くお花を触りたい姪っ子は、先生の説明に集中できないようでした。勝手にやろうとするので、私はヨーガの『お花を生ける会』で昔に先輩から教わったことを伝えました。

私 「お花にもお顔の正面があるねんて。私たちも正面からのいちばんいいお顔を見てほしいやん?お花がどの角度から見たら正面のいいお顔かを探してあげて、いいお顔が見えるように立ててあげよ」
姪っ子の顔は半分以上マスクに覆われていましたが、そこからのぞく濁りのない瞳は真剣そのものでした。
姪っ子 「わかった!」
そして直ぐさまお花を一本ずつクルクル回しだし、正面を探して、あっという間に生けてしまいました。子供は迷いがないようです(笑)。
私 「テーマとかあるの?」
姪っ子 「お花畑!」

無為自然な感じでお花も伸び伸びと嬉しそうです。作品として綺麗に見せたいという意図が全く無いからか、単純にただお花の正面探しだけに夢中だったからなのか?? 意図が無いほうがそのものが生きる、という真理を、姪っ子を通して教わった気がしました。そして、先輩からのヨーガの教えは、こんな小さな子にもバッチリ分かる真理なんだと感動しました。師が、「真理とは難しいものではなく、小学生にも分かるようなもので、またそうでなければそれはおかしいからね」と最初にお会いした時、教えてくださったことをふと思い出しました。

同じく先輩から料理の時、こう教わりました。
まな板で野菜を切っている時、ちょっと別のことを考えていたりすると手を切ることがあるでしょう。やっぱり正面から真っ直ぐ見ていないとね
何気ない言葉ですが、この真理の言葉を私はよく思います。

また、師がニューヨークミッションにご滞在中、そのお部屋を掃除する機会を昔いただきました。トゥリヤーナンダの本にも載っている「物を正しい場所に置く」ことについて意識しました。彼の師であるラーマクリシュナは、「どんな物でも、それのあるべき場所に置かなければいけないのだよ」と教えられたそうです。だから私は、師がその場所に置かれている物は必ず元あった場所に戻さなければ!とガチガチに気を張り、掃除をしました。
暖房器具の上に、観葉植物が置かれていました。掃除のためにその植物を移動させ、掃除した後、注意深く元あった位置に戻しました。しばらくして師が音もなくスッと立ち上がられ、植物をわずかに動かされました。しまった!!と思い、即座に師に謝りました。位置が少しズレていたと思いました。スラっとした佇まいの長身の師はこちらを振り返り、優しく葉っぱに触れられながら微笑まれて穏やかにおっしゃいました。
「ううん~、違うねん、植物に暖かい空気があたったらかわいそうだしねぇ~」

優しさに胸がギュッとなり、と同時にラーマクリシュナの教えの真意をも教わったようでした。植物は生き物。私は本質的な大切なところを見られていませんでした。師のあたたかい背中から学んだ忘れられない出来事です。

ものごとを真正面から見れたら、そのものを生かし、大切に扱うことができるのかもしれません。それは物をあるべきところに置くことにも繋がる気がします。子供のような曇りのないピュアな目で、素直に見たいものです。

今、自宅の観葉植物を見ていると、師が優しい手で植物をそっと動かされた印象が蘇ります。師や先輩のように、万物を大切に扱える人に憧れます。植物も人間もみんな同じだからです。

お花畑

畑の一角の小さなお花畑

 野口美香 


母なる神像

私の部屋の祭壇にはカーリー女神の神像があります。とあるきっかけで、先日その神像を初めて磨きました。真鍮製の像を専用の研磨剤と布を使って磨くのですが、これがまぁ驚くほどに汚れが落ちるんです。(どれだけほったらかしていたの…!)あっという間に布が真っ黒になっていきました。それでも一通り磨いたくらいでは汚れは落ち切らず、何度も何度も、お顔、胴、手、脚、土台、と細かい部分まで目を凝らしてきれいにしていきます。

そうして磨いていくうちに、今までカーリーのことを見ていたようで全然そうではなかったのだと気が付きました。瞳が真ん丸でキュートなこと、お鼻が立派なこと、後ろから見ると髪の毛の筋があること、足の爪もちゃんとあること。なんてかわいいんだろう!手で触れ、近くで見つめ、きれいになりますように、と磨いていくうちに、赤ん坊の世話をする母親のような気持ちになりました。宇宙の母であるカーリーに対して、私が母親のように感じるとはどういうこっちゃ?!と思いましたが、すべてを展開されたカーリーは、私が思う役割の枠になんて収まるはずがありません。今回の出来事で私は、カーリーによって、目の前の存在を大事に思い、愛おしむという気持ちを呼び起こしてもらったように思います。

きれいにしてからというもの、自然とカーリーに目を向ける回数が増え、眺めては胸の奥が愛おしい気持ちでいっぱいになるのを感じました。そして、カーリーだけでなくほかのすべての存在に対しても、同じような気持ちをもって接したいなぁと思うようになりました。大事に思う気持ちは、たとえまた薄れてしまったとしても、祭壇で変わらず輝くその姿を見つめていればきっと大丈夫なように思います。目の前の人、もの、すべての中にカーリーを見ることができれば、なんて素晴らしいだろう!そうなるために、私自身のハートもヨーガという研磨剤を使って根気よく磨き上げているところです。必ずきれいにできると信じています。なぜなら私の本質も、ピカピカに光ったカーリーと不異(同じ)だからです!

愛媛(今治)と広島(尾道)を繋ぐしまなみ海道です。秋晴れの中、穏やかな海と無限に広がる空がとても清々しく感じられました。

大森みさと


イーシュヴァラ・プラニダーナ

「イーシュヴァラ・プラニダーナとは、主(始原のグル・真理・悟り)への揺るぎない熱情」

シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

11月は日本人の主食のお米の収穫と献上の季節であり、そして私たちの主(グル)であるシュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの御聖誕月でもあります!

先月私は介護の仕事の一環で、稲刈りと天日干し、脱穀のお手伝いをさせていただきました。脱穀をした小金色のお米の一粒一粒は光り輝いていて、とても感動しました。

私たちの命は食物によって生かされ、その命の源は、古来より「神」と呼び慣わされてきた大いなる存在です。すべての命は神によって光り輝いています。そして真正のグル(師)は、その存在そのものーー

11月23日は新嘗祭の日であり、師の御聖誕日です。この吉祥な日に向けて、大いなる師の存在と導きに感謝を捧げ、真理・悟りへの熱情を大いに高めていきましょう!!

ゴーパーラ


マハーヨーギー・ミッション ロングTシャツが到着!!

 10月23日、待ちに待ったマハーヨーギー・ミッションのロングTシャツが届きました。写真はアーサナクラスの後にグルバイと撮影したものです。皆笑顔で喜びに満ちあふれていますね。

撮影時のみ、マスクを外しています。

 この春夏と半袖Tシャツを着られた方も多いのではないでしょうか。私も師のヨギさんがデザインされた神聖なTシャツを着て、クラス、仕事、趣味の場など色々な所に出かけました。このTシャツを着る時はいつも心強い気持ちになりましたし、幸せな気持ちで一杯でした。
 ある夏の日、職場でオレンジ色のTシャツを着ていて、「いい色ですね。よく似合いますね」と声をかけて頂き、話に花が咲きました。出張に出かけた先のホテルで何気なくTシャツを壁にかけると、夕方その部屋はアーシュラムの雰囲気になりました。クラスで皆同じTシャツを着てアーサナをした時の一体感と集中感は、まるでヨギさんの直伝クラスに出ているようでした。このTシャツにより、色々な出来事が起こりますが、それらは皆ヨギさんの恩寵だったと後で気付きました。ヨギさんはいつも、気付かぬうちに私達の人生に喜びを届けて下さり、痕跡を残さず出て行かれます。真のヨーギーの働きはこのような目に見えないものなのかもしれません。
 私は研究を生業としており、そのメカニズムについて疑問を持つのがヴァーサナー(心の傾向・性質)となっています。なぜこのTシャツにはこのような効果があるのか。何か仕掛けがあるのではないかと思い、他のTシャツとも比較しながら、その性質を調べてみました。やはり胸の中心にあるアートマンのデザインに何かあるのではないかと思います。このシンボルを見ると胸の中に何かがグーっと入り込んで集中が高まる気がします。これをデザインされたヨギさんの大切なメッセージが込められているのではないかと思いました。

「本当の主人はその(心の)奥にあるアートマン、真実の自己、あるいは神なのです」
『ヨーガの福音』36ページ

という「アートマン/すべてはそれだけのために」の教えが自然と思い出されます。
 この冬も胸のアートマンを意識しながら、アーサナ・瞑想を頑張りたいと思います。ロングTシャツの周りでどんなことが起こるのか楽しみです。

島本廉


聖典を味わう

10月から始まった瞑想専科バクティ・ヨーガ編。

誰もの中にある純粋な存在のことを、真理、アートマン、神、など、様々に言い表しますが、私は「神」という言葉に対してなかなか馴染めないままでした。しかし、ずっと抱えていた問題と向き合う中で「神」への愛を感じる出来事があり、もっとバクティを深めたくて受講を決めました。

その課題として『不滅の言葉(コタムリト)』を読み進めていますが、聖典を味わうとはこういうことか!と今更ながら実感しています。
今までも、聖典は味わうように意識して読んでいたつもりでしたが、これまでとは全く異なる感覚に驚きました。

まず、ラーマクリシュナがとても近くに居られるような感覚になりました。どのエピソードからも、ラーマクリシュナがどんなに情熱的に神を求めて、神と共に生きておられたのかが感じられ、実際にはお会いしたことがないのに、その表情や仕草まで目に浮かぶようでした。
また、弟子との交流が描かれているところでは、それぞれの弟子の性質を的確に見抜かれて導かれるご様子に胸が熱くなりました。
すでに読んで知っているはずの内容なのに、初めて触れたような新鮮さとリアリティを感じました。

同時に、著者であるMの師であるラーマクリシュナへの想いがひしひしと伝わってきました。
これまではMに対して、膨大な記述を人生をかけて書籍という形にまとめ上げたすごい人という印象を持っていました。しかし今ほどMを身近に感じたことはありませんでした。師であるラーマクリシュナに出会った瞬間から彼の虜になり、師だけを見つめて慕うバクタの姿を見たように感じました。

それから毎日ページを読み進めるにうちに気持ちがどんどん晴れやかになるようでした。

これまでは慌ただしかった日はもう読まなくていいか、と聖典を手にすることなく寝ていたことも度々でしたが、受講している他の人たちも同じように取り組んでいる、ということも大きく後押ししてくれました。一度習慣になってしまえば特に努力しなくても自動的に実行できるようになりましたし、1日の終わりに1ページでも読むことで本当に心が洗われるので、欠かせないことの一つとなりました。

今読んでいる『不滅の言葉(コタムリト)』。毎日就寝前に読んでいます。

 

なぜ急に聖典を味わえるようになったのか、自分でも不思議だったのですが、今までで1番強く神に近づきたいと願うようになっていたからなのかなと思います。

第1回目の中で、特に印象に残った言葉、
”バクティ・ヨーガで大切なことは、熱心に神を求めること!”

私はこの瞑想専科を受講することで、自分が囚われていたものから少しずつ解放されていくような感覚になっています。
もっと熱心に神を求めて、素直になって、神に全てを差し出したい。
それを目標として、さらに聖典に親しみ、今後の瞑想専科で学びを深めていきたいと思います。

高川山(山梨県)山頂からの富士山。雪化粧した姿を見るのはとても久しぶり。
いつまでも眺めていたくなるような美しさでした。

ハルシャニー


台湾瞑想専科を受講して

ヨーガを学ぶにつれ、もっと瞑想ができるようになりたい!と多くの方は思うでしょう。この度、本当に幸運なことに、サーナンダさんが台湾のグルバイのために瞑想専科を行なってくださいました。
6月4日から10月1日までの合計16回のクラスで、瞑想の基礎から、呼吸、心の仕組み、自分の理想、識別やバクティなどを学びました。みんなはヨーガの教えを学ぶことによって、あやふやな概念を明確にしたり、実習によって教えの内容をより深く理解したりしました。
今回、クラスで正しく学ぶことができて、参加者たちは本当に喜んでいて、感謝の気持ちでいっぱいです。その中の二人の感想をご紹介します。

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フェイジュン

以前からヨーガや禅に興味があり、それらに関する書籍をたくさん読んできました。しかし、次第に学びが進まなくなり、もう読みたくないと思うような状態がやってきました。

クラスでは、宇宙にはプラーナが満ちているので、人と人の間がどんなに遠く隔たっていても、繋がって触れることができると、サーナンダさんが話されました。そして瞑想する時、ヨギさんが側におられるように感じたことはありますかと聞かれました。それを聞きながら、心が揺さぶられました。プラーナは常にあり、幸福や愛というさまざまな形で空間に遍満しているように突然感じました。それと同時に、本をたくさん読んでも実感できなかった理由が分かりました。それはグルや先輩、仲間がいなかったからです。

講義ではみんなの質問や先輩の答えを聞くうちに、知識が増えたことはもちろんですが、自分のエネルギーが先輩や他の参加者のエネルギーと繋がったように感じました。教えの内容の真意が分かるようになって、瞑想も実践できるようになりました。仲間と一緒に学ぶことや、グルや先輩の言葉を聞くことが大事だと感じました。それによって、真理は書籍やスクリーンを通してありありと現れてきます。

予想以上の収穫をいただきました。参加できて本当に良かったです。とても感謝しています。

 

プラサーディニー

瞑想でよく眠くなる自分に悩んでいました。いい経験もありましたが、ほとんどが眠気との絶え間ない闘いでした。眠気がなくても、瞑想の深まりや進歩を感じることができませんでした。瞑想専科で、瞑想は努力で達せられるものではなく、信仰が必要になるということを聞いて呆然としました。私は教えに対する信仰が足りないのだろうか? 情熱が足りないのだろうか?

クラスが進んでいくに従い、幸福とは何なのか、自分がどのように生きていきたいのか、アートマン、愛や神についてなど、話が展開していく中で、私は自分の気付きに驚きました。教えを理解していると思っていましたし、至福に憧れを持っていると思っていましたが、よくよく見れば、心の奥にはこの世の幸福を強く掴みたいという思いがありました。何と、自分の中の一部はこの世の楽しみと苦痛を楽しんでいました。そのために、これまでたくさんの無駄な力を使ってきたということも。

一連のクラスは、一つの識別瞑想の過程のようでした。これまでこの世界に求めていた幸福は、もろくて価値がないものだと気付いてきました。自分がヨギさんの教えを信じ切っていなかったことが分かり、自分の内面がヨギさんから離れているということに、大きな苦しみを感じました。

でも、その後瞑想した時、自分の心がヨギさんでいっぱいに満たされたように感じて、自分の信仰はもっと堅固で確実なものになったと感じました。以前は、瞑想を学ぶ時、いつも具体的な方法を知りたがっていました。しかし、大事なのはテクニックではありませんでした。集中ができないのは、信仰が足りないからです。これからもっと信仰を深めて、瞑想も深まるように努力し続けていきたいです。

MYM台湾 MYM Taiwan


小さな幸せ

私は月に1、2度ほど、介護の仕事で畑仕事をします。
先日は収穫した新生姜をお裾分けいただき、甘酢漬けにしました。
10月に入っても暑い日が続いていたので、調理中に漂う新生姜のフレッシュな香りとその爽やかな味わいによって、とても清涼な気持ちになりました。

野菜の収穫を目にし、それを調理していただくのは大変味わい深く、身体の内側から感謝の気持ちと喜びが自然と湧いてきます。
大袈裟かもしれませんが、満たされた気持ちになります。
以前、料理やヨーガの実践について姉弟子の方とお話した際の「小さな幸せの積み重ねだと思うよ」という言葉が蘇りました。

ヨーガの目的は「サット・チット・アーナンダ(存在・意識・至福)」の真実に目覚めることです。
アーナンダ(至福)は、快楽や所有などの一時の幸せではなく、すでに私たちの中に在る尽きることのない幸せだといわれています。
内側から湧いてくる小さな幸せを感じながら、その本源の至福に目覚めていきたいですね😊

蕎麦畑。幻想的で美しい花々! 

ゴーパーラ


誰もが実践できるヨーガ2021を通して

自分が人生で一体何を求めているのか、どう生きたいのかを真剣に考えるということが、ヨーガをこの先も実践し続けていくためには大切なことだ、ということは分かっていましたが、確固たる答えを自分の内に見つけられずに探していました。

そんな時、誰もが実践できるヨーガ2021のオンラインクラスが始まりました。4月から9月までの半年間、サーナンダさんが日常の身近なテーマからヨーガの教えを一つ一つ分かりやすく説明してくださり、その教えを元に日々絶え間なく自分と向き合う、心を見つめて瞑想をするという実践をしていきました。初めは、心を見つめるということがどういうことか分からなくてうまくできませんでした。サーナンダさんに伺うと、「今まで心というものを知ろうとしてこなかったから、心自身は心がどういうものかを知らない。そういうものです。これからクラスでヨーガの教えを学び、学んだ教えを自分の心に当てはめて、じっと見つめていきながら心の働きを感じ取っていったらいいですよ」と優しく教えてくださり、自分の心がどう思っているのか、どういう反応をしているのかをじっと見つめる、ということに少しずつ慣れるようにしていきました。
そして、クラスの瞑想ではパソコンを付けたままで、クラスの仲間と一緒にそれぞれの部屋を暗くして行ないました。目を閉じると、まるでアーシュラマに来させていただいたような、ヨギさんがそこにいてくださるような感じがして、いつもより深く自分の中に潜ることができ、空間や時間を超えた歓びに包まれていました。サーナンダさんの講話を通して改めてヨギさんの存在の尊さや素晴らしさ、その意味を強く感じさせていただき、言葉では言い尽くせないほど感謝の気持ちでいっぱいになっていました。

 たくさんの学びがあったクラスが終わり、部屋でゆっくり過ごしていたある日、突然「永遠の実存がほしい!」「永遠のもの以外ほしくない」「永遠でないものなんて、もうたくさん!」と、とても強い叫びと衝動が自分の魂の奥底から湧き起こり、「ガタガタ」と積み上げていたブロックが壊れるような音がし、しばらくの間涙が溢れ出て止まらず、呆然としていました。その後は、安堵感と爽快感で満たされました。今もなお、自分が人生で求めているものは永遠の存在であり、その実現のためにヨーガを実践していくんだ、という確固たる思いが、自分の胸の中にあり続けています。

クラスでの実践のおかげで、自分が探していた答えに気付くことができました。これからもマハーヨーギー・ミッションのクラスに積極的に参加し、永遠の存在の実現に向けて実践を続けていきたいです。

大文字山の頂上からの景色です。
ヨーガの実践の先にある素敵な景色を楽しめるように日々実践していきます!

 

桜井晃己  桜井みき

 


夢の中でも消えないもの

穏やかな光の中で、木や花々たちが呼吸しやすそうに見えます。大気が安定するこの季節は人間の私たちも、その恩恵を受けることができるそうです。

空気がピタッと止まっているようなある日、つかみたいものなどないはずなのに、心が何かをつかもうとする動きをポッと感じました。
瞑想専科で「心は空白に耐えられないもの、常に何かをつかもうとする」と学んだのを思い出し、この世界の中にずっとつかめる永遠のものがあるか?改めて瞑想の中で考えました。どれにも永遠を感じられませんでした。その時、すべてに実体がなく夢の中にいるような不安定感を覚え、心もとない気分の方に気を取られました。そして、本当に夢から目覚めて「本当の自分」を知りたいのか?と自問し立ち止まりました。

すべては消えて変わっていくもの。本当に何が不滅の存在なのかもっと突き詰める。突き詰めが足りない。
いつか師に教えていただいたこと。

識別が上手くいかないまま、泣きつくように師を思い、数日が過ぎました。仕事ではミスばかりしましたが、妙なことにミスさえも実体がない変な感じで、その代わり師の導きや神の存在を身近に感じました。かと思うと、ふとした隙に神から離れているような気持ちになって感傷的になってしまったり、よく分からない不安定感の方にもやっぱり気を取られていました。

そんな頃『誰ヨガ』のオンラインサットサンガ(ヨーガの教えを問答形式で直接学べる真理の集いの場)があり、講師のサーナンダさんへ不安感のことをお尋ねできる機会に恵まれました。サーナンダさんは、「ヨーガは空っぽになること、その空白に耐えなければならない。諸行無常を感じても虚無の方へは行かず、そういう時こそ真実を命綱にもう一段超えていく。そこは必ず通る道」というふうに識別の大切さを教えてくださいました。居眠り運転して脇道に入りかけていたところ、ドスン!「そっちは進入禁止!」とサーナンダさんが立て看板を置いて方向を元に戻してくださったような瞬間でした。真実、神だけを見る、もっと求めよ、と喝を入れ鼓舞してくださったように思います。

数日後、ふと調べたい事があり、無作為に手に取った過去の『パラマハンサ』の冊子をパラっと開きました。調べたかった事は見つからず、そこには師のお言葉がありました。

本当の自分は「永遠の存在」です。絶対的に変化することもなく、壊れることもなく、無くなることもない「絶対の存在」――それが私たち各自の、万物の本質です。それ自身で満ち足りていますから、一切の不自由はないし、苦の影も寄りつかない。そこに至福の源泉があります。
この世の中に託している心の夢は見誤っているものだから、方向を変えて、内に向けることによって、自分の中に本来の壊れない不滅の幸せがある。本質が「不滅の存在」であり、「純粋な意識」であり、そして「至福」なんです。だからつい心は、この世界という変化する目の前に広がったところにも永遠の存在を見ようとしたり、そこに永遠の幸せを見いだそうと誤ってしまったのかもしれませんね。本質がそうなんです。本質は「リアリティ」として。

優しく力強い師の声が体中を駆け巡りました。ずーっとつかんでも消えないもの、その唯一のもの・・・。外からはリーンリンと清らかな秋の虫の声が響き、果てしなく高い空は水のように澄み渡っていました。手につかんでいたパラマハンサを、嬉しくて泣きながら抱きしめた日でした。

コスモス

柔らかな陽の光

 野口美香 

 


本当の優しさ

先日、先輩グルバイに質問できる機会があり、「本当の優しさ」とは何なのかを伺いました。優しくするって、ニコニコ笑って何でも「いいよ、いいよ」と聞くこと? 利己的な思いを全く無くして接するということ? と小難しく考えてしまっていた私に対し先輩は、「もっと単純に、相手を大事にするということじゃないかな。大事で、愛しいがゆえに優しくする」と答えてくださいました。考えてどうにかしようとしていた私の根本に衝撃を与える言葉でした。さらに続けて、次の師の教えも話してくださいました。

「愛は優しさでしか表現できない」

師は本当に私たちひとりひとりのことを大事に思ってくださっていて、だから私たちがより良くなることだけを考えて、必要な教えを最も良い方法で授けてくださいます。時には穏やかに、時には厳しく。それはすべて師の優しさであり、愛の表れでしかありません。

以前、師は私に「人に優しくすること」という教えを授けてくださいました。(「本当の優しさ」について考えていたきっかけでもあります。)この教えも、私がより良くなるためだけに師が授けてくださったものです。
今回の出来事によって、師にあらためて「あなたの愛を表しなさい」と言われたように感じました。愛を表し、そのように生きる。教えを授けるということも、弟子を想う師の愛なのだと思うと胸がいっぱいになり、その教えを生きることで応えたいという強い意志が湧いてきます。

一斉に花を開いた彼岸花が赤い絨毯のようでした!松山市窪野町の窪寺閑室跡周辺の彼岸花です。ここは一遍上人が修行された場所だと伝わっています。

冒頭の先輩への質問の場(オンライン)には、他にもたくさんのグルバイがいて、私と同じように日常生活やヨーガの実践の中で湧いてきた疑問を質問していました。それに応える先輩の態度や言葉、すべてから、私たち後輩ひとりひとりのことを大事に思ってくださっていることが自然と伝わってきて、まさに、「愛は優しさでしか表現できない」という師の教えを生きている様を見せてくださっているかのようでした。

師や先輩の姿を見ていると、人に優しくするということは、何か特別なことをするわけではなくて、誰に対しても分け隔てなく、ほんの小さな行為にも相手を大事に思う気持ちを込めることなのだと感じます。お手本を示してくださっているその姿に倣い、「本当の優しさ」を体現して生きていきたい。そう決意をあらたにできた出来事でした。

部屋からの見えた優しい色合いの朝焼け。

大森みさと