焦らず気長に、優しさを持って

愛は優しさでしか表せない。

私が大切にしている、師から教えて頂いた言葉です。
日常の中でつい忘れてしまっている時もありますが、繰り返しこの言葉を思い出すようにしています。特に仕事をしている時はこの言葉を胸において働くようにしています。

鍼灸師として日々様々な方の治療にあたっていますが、ある患者さんとのやり取りで気付きがあり、今回はそのことを書こうと思います。
その患者さんは、毎回ほぼ同じ症状を訴えられます。そして辛く感じる所が幾つもあります。治療する度により良い方法を考えて施術をしますが、次に来た時にはまた同じように辛いと言われます。
話に耳を傾け、時に具体的なアドバイスをしたりもしました。しかし、例えば治療をする中で生活習慣によって症状が出ていると気付く事があり、それを指摘すると抵抗する感じで黙ってしまうようで、こちらが話を変えるまで一切口を開こうとはしなくなるのです。毎回肝心な話ができず終いになっていました。

そんなことを繰り返すうちに5年以上が経ち、万策尽きたと感じた私は、自分の考えや思いを素直に患者さんに打ち明けてみる決意をしました。そうして、なるべくその患者さんが落ち着いている時に話そうとタイミングを伺っていましたが、なかなかその機会は訪れず、結局様子を見るしかない状態になっていました。

そうして迎えた今年の師の御聖誕日。『パラマハンサ』NO.142を読んで、グルバイ(兄弟姉妹弟子)の祝辞から、師に倣い他者のためにどう行為するかという一貫した想いを感じました。

愛ゆえに捧げる、ということ。

私はその患者さんのためにと真剣に考えてはいたけれど、その人そのものを愛しんで思いやれていたか、というと、そうではないとハッとしました。その人のために真剣に考えていたとしても、それが正しかったとしても、相手のことを本当に尊重して慈しみを持っていなければ、相手を追い詰めてしまう可能性も出てきます。

これまで師から、一度たりとも真理の教えを強要されたことはありません。もっと真理を学びなさいと急かされたこともありません。いつでもこの上なく優しく接してくださいます。パラマハンサから溢れ出る愛を感じたことで、自分が患者さんに対してしようとしていたことが、優しさとは正反対の行為になりかねないことに気付きました。

ヨーガの道を歩んでいるとはいっても、一足飛びに成長できるわけではありません。私は他者に愛を持って接することに憧れているものの、後から振り返るとそこから程遠い対応をしてしまっていることがあります。それでも気持ちを入れ替えて少しでもそうなれるようにと足掻いたこともありましたが、それは苦しいばかりでちっとも純粋ではない。師はそのことに気付かせてくださいます。同じことを繰り返してしまったとしても、またか、と呆れられることなく、軽やかに純粋な状態へと引き上げてくださいます。私の中の本質だけを見て、本当に気長に見守りながら導き続けてくださっています。それは何の計らいもなくただただ純粋な行為です。

私が今この患者さんにすべきことは、患者さんがより良い状況になれるよう接すること。焦らず気長に、自分がそうしていただいていたことと同じことをやっていくだけだという答えに辿り着きました。

その後、その患者さんは変わらない様子で来院されますが、私の心境に変化があったためなのか、少しずつ関係性にも変化が起きてきています。治療後、以前よりも笑ってくださるようになったのです。

これからも、少しでもより良くなれるように寄り添っていきたいと思います。少しずつ凪いだ状態を持続できるように。

治療院の玄関に飾っているヒマラヤ杉。ヒンドゥー教では聖なる樹木とされています。古代インドでは賢者が好んでこの木の元に住んでいたそうです。花言葉は「あなたのために生きる」です。

今年からこのブログ『ヨーガに生きる』で文章を書かせていただくようになりましたが、読者の皆さんに力を頂き、支えられて続けることができました。ありがとうございました。師に倣い、これからも一層より丁寧に真摯に行為していけるように精進していきたいと思います。

いつでも愛ゆえに捧げることができますように。

ハルシャニー


東京・代々木クラスのメンズチームをご紹介します!

“ヨガ”といえば女性をイメージする方も多いのではないかと思いますが、各地で開催されているマーハーヨーギー・ミッションの「ヨーガ・瞑想クラス」には男性も多く通われています。そこで、今日は東京・代々木の土曜日クラスに通われている男性陣をご紹介したいと思います!!

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数年前からご自分の人生を真剣に見つめ直すようになったと話される小菅さん。初めは「瞑想専科」に参加され、その後ヨーガ・瞑想クラスにも熱心に通われるように。ご自宅でもアーサナ(ヨーガのポーズ)を続けていらっしゃるそうですが、最近、急にアーサナが深まってこられたなぁと感じ、アーサナを始められてから現在の変化についてうかがってみました!

マハーヨーギー・ミッション(MYM)のアーサナを本格的に始めたのは還暦が近づく頃でした。YouTubeなどで様々なアーサナ向けの筋肉や腱へのアプローチが紹介されているのを見たことがありますが、私はMYMのアーサナを繰り返し練習しているだけです。MYMのアーサナは各ポーズが相互に連動していて、それだけで十分にポーズが深まるように考えられていると思います。ポーズの最中にもう限界!と思う時、呼吸に集中して心を鎮めると、スッとポーズが深まる時があります。ポーズの限界は、実は自分の心が決めているだけで、心をコントロールすると限界がぼやけてくるのを感じます。日常生活でもこの学びを忘れないようにしたいと思います。

いつも穏やかで物事をとても素直に受け止められる小菅さんを拝見していると、いくつになっても心の素直さや柔軟さを持つことの大切さに気付かせて下さいます。私もそうありたいなと思います。

続いて、昨年の春からクラスに参加されている星野さんです。星野さんは、以前からブッダにとても興味があり、ブッダの教えをベースに瞑想をされていたそうです。MYMのクラスに通われるようになったきっかけや今の心境をうかがいました。

ブッダの教えを色々調べていた時、マハーヨーギー・ミッションのWebページを見つけ、釈迦牟尼を含め、古の聖者の教えにとても造詣が深いヨーギーさんの組んだレッスンが近くで受けられるという事を知り、軽い気持ちで申し込みました。
はじめてアーサナに挑戦した当時、体中が痛くてポーズによっては拷問のように感じました。終わった翌日は全身筋肉痛になっていたのをよく覚えています。
ここ1~2年ほど、アーサナを続けて変わったと感じるのは「心と呼吸の変化、感覚への気付き」「基礎体力、忍耐力、集中力の向上」です。はじめは痛くてたまらなかったアーサナも今ではだいぶ慣れ、週に1回のクラスは拷問ではなく楽しみになりました。「毎回、自分の限界を少しずつ破ることを意識する」「どんな時にも呼吸へ集中し、息は常に吐ききる」を心がけてアーサナに励んだ恩恵だと思います。
そのおかげか、最近、瞑想中に痛みに負けて足を崩してしまうなどは少なくなり、深い集中状態にも入りやすくなりました。瞑想中に挫ける事がだいぶ減ったなぁと感じます。また、呼吸が一定で落ち着いていると雑念にもすぐ気づくようになり捕われなくなります。“アーサナは瞑想の為にある”という教えは本当でした。

星野さんはこれまでも毎日一時間以上瞑想されていたそうですが、眠気や雑念に捕われたり体の痛みで中断することが度々あったそうです。普段はあまり多くはお話されない方なのですが、今回お話をうかがって、クラスを続ける中で様々な変化を感じておられるのだなぁと嬉しくなりました!

最後は、転勤で東京に来られる前には大阪のクラスにも長年参加されていたSさんです。仕事がお忙しい中で長くヨーガを続けていらっしゃる理由をおうかがいしました。

本来、毎日アーサナを行うことが推奨されますが、私はクラスに通い始めた頃、週一回のクラスに出来るだけ参加するのを意識していました。クラスに参加した後の心身の変化は十分に実感していましたので、どこかで長く続けていきたいと考えていました。振り返ってみると、心身一如の言葉通り、今をより良く生きていく秘訣がヨーガにあると当時から認識していたのだと思います。

Sさんとお話をするといつも職場の皆さんが気持ちよく働けるように心を配られたり、環境を整えることを進んでされている様子が伝わってきます。ヨーガの成果は日常生活にあらわれるといわれています。継続は力なり。ヨーガの学びを身近な日常の中で実践され、しっかりと生かされていらっしゃるのですね。

クラスの後にパシャリ。左から小菅さん、星野さん、Sさん。クラス中の真剣な様子とは打って変わり、皆さんとても爽やかないい表情ですね!

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皆さんお忙しい中、丁寧に答えて下さり本当にありがとうございました!
週に一度クラスに集まり仲間とともにサーダナ(ヨーガの修練)を行ない、また一週間それぞれが一人で自宅や職場でヨーガの実践や学びに向き合い、またクラスでともに学び合う。とても地道な繰り返しかもしれませんが、それを両輪のように続けていくうちに気が付くと身体や呼吸、心に変化があらわれ、それが日常生活や生き方にまで反映していくのだなぁと、今回お話をうかがってみて改めて感じました。そして、私自身いつもヨーガの仲間に支え助けられていて、クラスでは毎回皆さまから貴重な学びをいただいていることに、また心から感謝と喜びと力が湧いてきました!
東京はコロナ禍の中、さらに困難な状況が続いていますが、最大限感染予防対策に努めながら楽しく元気にクラスを行っています。
このブログを見たメンズ諸氏、ぜひお気軽にクラスにご参加くださいね!!

※今後も感染状況を鑑みてのクラスの開催となりますので、スケジュールについてはHPでご確認下さいます様お願い致します。

シャルミニー


銭湯の帰り夜空を見上げて思ったこと。

機関誌『パラマハンサ』11月号を読んでとても感動しました!

11月23日の師の御聖誕日はコロナ禍のため、残念ながら弟子一同が京都に集まることはできませんでしたが、『パラマハンサ』を通じて世界各地のグルバイ(兄弟弟子)たちから師への感謝とヨーガへの熱い思いが捧げられたのです!

当日『パラマハンサ』を読むと、遠くに住むグルバイたちがこの過酷な状況の中、師から与えていただいている愛を存分に感じながら、それを道しるべに懸命に生きているのが伝わってきて胸が熱くなりました。読み進めていくうちにどんどん師への思いが増して、歓びが大きく大きく膨れ上がっていきました!!!師やグルバイたちに会えない状況が続いていたので、本当に嬉しかったです。ありがとうございます。

歓びの余韻が続いている中、師走に入り京都の朝晩はずいぶん冷え込んできて、身体を温めようとある晩家族で銭湯にやってきました。ここの銭湯、源湯はアーシュラマからも近く、師も昔入られていたそうです。

源湯。数年前にオーナーが代わったそうです。入り口にはご当地サイダーや駄菓子が販売され、休憩所にはこたつや自由に読める漫画、マッサージ機などが置いてありました〜。

ノスタルジックな雰囲気が漂う浴場で湯船に浸かると、身体が手足の末端からじんわりと温められていき、師の愛に包まれているのを思わず想像しました。

そしてゆっくりとお風呂に浸かったあと、外に出てふと空を見上げると、空気は澄んでいて星がたくさん見えました。

キラキラと輝いている星たちを眺めていると、まるで世界中でヨーガに生きているグルバイたちのようだと思いました。太陽のようなヨギさんの愛の光に照らされて、キラキラとそれぞれの場所で光輝く弟子たち。その輝きはどんどん大きくなって、周りに慰安と勇気を与え、やがて宝石箱をひっくり返したような美しい星空へと広がっていくに違いないと思いました。私もその中の1つとして輝けるように頑張ろう、そんなことを思った夜でした。

                                 アマラー


おのれこそ おのれのよるべ

コロナ禍は収束の気配を見せず流行の第三波とも言われる状況になっています。不都合を感じながらも、いわゆる「新しい生活スタイル」に沿って人との距離を出来るだけ取る生活に慣れ始めている自分がいます。しかし昨年の暮れ、来る東京オリンピック・パラリンピックに心躍らせながら社会生活を謳歌していた頃、このような時代が来ると誰が想像していたでしょうか。

部屋から見えた朝焼け。炎と輝き大空を羽ばたく神鳥ガルダのようでした。

微塵も考えなかったことは人生の様々な場面である日突然起こります。一瞬の気の緩み、コンマ数秒のタイミング、そして神の計らいやカルマとしか考えられないことなど、まるで大きな変化の歯車が冷徹に表情ひとつ変えずに廻っていく感じがします。さらに事故や大災害などによって、人生が激変した方々に思いを馳せると表す言葉さえ見つかりません。

名前あるもの。形あるもの。始めと終わりがあるもの。この世の粗大なものも微細なものもすべて変化し、思い通りにならない。私たちは20世紀初頭のスペイン風邪流行を、歴史上の出来事として知っていましたが、思いもしなかったコロナ禍は、くしくも聖典で学んだ知識を私たちに実体験させることになりました。想像もつかない出来事は人間の計らいなどお構いなしに起きる。なぜならこの世はマーヤー(神の幻影)だから。コロナで痛感させられたことです。

それでも私たちは変化に驚き、慄き、悲しんでばかりいるわけにはいきません。それは変化する対象物に依存しているのだと、ブッダは教えてくださいました。「おのれこそ おのれのよるべ おのれを措(お)きて誰によるべぞ。(法句経160)」ブッダは人間の一生における依存の対象の移り変わりを挙げながら、真に頼るべき対象について教えています。赤ん坊は一心に母親を目で追い、小学生になると先生の言葉に目を輝かせます。青年になれば恋人を昼夜想い、社会に出ると地位や財産、中年以降は健康や美への執着も加わるかもしれません。でもそれらは時が来れば消えてしまい何ひとつ残りません。

続けてブッダはこの経で、よるべとなるのは「よくととのえし おのれ」であると教えています。私が読んだ訳本では「自己の中に一切の『他』を見出した偉大な自己」と解説していました。私なりの理解では、それは「アートマン」(真の自己)であり、「真理」であり、「私の中にある神」ではないかと思います。名前も形も始まりも終わりもないアートマン。それは自分を取り巻く世界に遍満しています。自分はアートマンと悟ること。それこそが受け入れ難い変化を受け止めていく究極の方法なのだと思います。

私は執着を捨てるために、本当の自分への瞑想を進めています。瞑想は少しずつ深まっていると感じますが、同時に自分の執着の根深さを垣間見て、恐ろしささえ感じ無力感に苛まれることもしばしばあります。「わかっちゃいるけどやめられない。」昭和の頃の歌謡曲で聞いたことがある様な文句ですが、飛び跳ねる猿のように狡猾な心の正体を知ったからには、絶対に負けられないと日々気持ちを奮い立たせています。

前述の経はブッダが入滅を目前にして、嘆き悲しむ弟子の阿難に語った言葉だそうです。「お前は自分自身に燈火を抱いて、自分の足もとを照らし、ゆく手を照らし輝かせ」と力強く教えられたそうです。ブッダはこの時こうも語ったそうです。「私の肉身を見る者が私の弟子ではなく、私の教えを知る者が私の弟子である。(ヨーガの福音)
今、コロナ禍のために師であるヨギさんにお会いできないという試練に直面しています。私がそれを悲しみ嘆いてばかりいたら、それは私がヨギさんに依存しているのであり、師の教えとは相容れないことなのだと思います。師に依存するのではなく「私は師とひとつである」という揺るぎない事実。その教えを燈火として、ただひとり歩んでいきたい。師はコロナ禍を通して私にその経験をさせて下さっているのだと思います。

最後に一言。でもやっぱり早くヨギさんにお会いしたいです。

昨年の暮れに訪れた足摺岬。自らの足下と行方を照らす灯台の如くありたいです。

小菅 貴仁


制限された世界、溢れ出る人々の尊い思い!

秋の青い空が広がり、草木がほんのりと色づき始めた頃、とある小さな集まりに参加する機会があった。その会館はにぎやかな街なかにあったが、今はコロナの影響で辺りはひっそりと静まり返り、そばに佇む木々が伸び伸びと存在感を放っていた。

一本の幹から広がる美しい枝葉 。

会館に入ると、まず受付で手の消毒、そして体温を測られた。参加者は高齢の方が多く、感染対策のため座席数は少なくされており、座席間隔も広くてガランとしていた。換気のためにすべての窓は開け放たれ、マスクの着用、順次消毒、検温という流れを見ていると、やっぱり少し緊張感をもった。みんなの顔も笑顔が少なかった。

最初のプログラムは音楽演奏で、本来なら和気あいあいとみんなで口ずさむようなものだった。でも今回は、音楽に合わせて高揚し大声で歌を歌うと飛沫が飛ぶので、歌うことはできません、とアナウンスがされる。そして会が始まり、演奏者がヨーロッパの陽気な楽曲を次々と演奏され、緊張感の漂っていた部屋に明るい雰囲気が広がっていった。みんなの表情もマスク越しではあったけれど、少しずつ柔らかくなってきていた。
窓が開いているおかげで時折、爽やかな風がヒューっと吹き込んでくる。外の大きな木の葉が風でサラサラ~と揺れ動く音や、木々の間から差し込む木漏れ日が部屋の中にも届き、床には影絵のような模様がキラキラと煌めく。マスクをして忍者のように(?)じっと息を潜めているせいか、いろんなことがいつもより繊細に豊かにも感じられ、それは思わぬ恩恵だった。もしかしたら鼻と口を封じていることで、その分、感覚器官が限定されて研ぎ澄まされるのかな? マスク生活も悪くない。

秋風に揺れるコスモス。

みんな目を閉じたり、じっと聴き入ったりしながら、思い思いに楽しまれている様子だった。演奏者は全身を使ってさらに懸命に演奏され、曲の説明も朗らかに弾む。ただ、やむを得ないことだけれど、こちら側の参加者はマスクを着け、歌うことは禁じられているので、音楽で共に盛り上がるという点においては何となく制限というか窮屈感も無きにしもあらず…。参加者と演奏者はいわば静と動で、音楽が素晴らしいだけに、ある種の隔たりのようなものも少し感じた。それでもこのコロナ禍で、こんな夢見心地にさせてもらえる音楽の力ってすごいなぁ~と思いながら聴き入っていた。

曲は、次に日本の童謡へと変わった。さっきのヨーロッパの曲も誰もが知っているような曲で楽しかった。でも童謡は、何かが違った。音楽が奏でられると、徐々に会場の中から、かすかな小さな音が聞こえ始めた。歌うことは禁止されている中で、皆さんの中から抑えきれない何かが溢れ出てきた。

その童謡は、故郷を題材としたものだった。歌っているのではなく、皆さんがマスクの下で口を閉じたまま、かすかにハミングをされているのが分かった。それは、今できる精一杯で、とても素敵だった。
次第にその音色は、故郷、ふるさと、父、母……、そういう枠を超え、普遍的な同じ一つの源へとまとまっていくようだった。何本もの糸が一つの束になっていくように皆さんそれぞれの思いが一つの尊い思いとなり、部屋中に満ち、屋根を突き抜け、大空へ高く高く、伸びやかに昇っていくようだった。そこの人も、あちらの人も、おじいさんもおばあさんも、なぜか小さな子供に見えて、純真な子供のような、みんながそれだった。会場は一体になり、もう何の隔たりもなかった。小さな音だった。でも荘厳で尊いその振動は、みんなを包み込み、命の原点、誰もの源へと響き合っているようだった。胸の奥でじんわりと温かいものが広がっていった。

目を細めている人、笑顔の溢れている人、目元を拭っている人。
隣の人との距離は遠く、今は自由におしゃべりも出来ない、でもお互いに何も話さなくても、みんなの中に同じものがある、ということをそれぞれが知っているような美しい瞬間だった。ふと師が、すぐそばの椅子に腰かけられ、足を組まれて目を細められながら、みんなを見てくださっているお姿がよぎった。みんなの中にある根源的なもの、それは決して見失うことはないものなんだと思った。世界には未知なウィルスが蔓延っていて、いろんな事も起こるけれど、でも世界がどうなっても、人が生まれた時からごく自然に感じ、包まれ、無意識に求めているもの、その真実は常にずっと本当は在る。人の中に息づいている。いつでも還れる場所、命の根源への思いは、きっと誰もの中でずっと変わらないんだなと思った。こんな時だからこそ、より強く、皆の中からそれが溢れ出したようにも思えた。
なんて素敵なんだろう、師の笑顔と同じ、みんなの優しい温かな笑顔を見ていると、嬉しくて、熱いものが込み上げ、自分も笑顔になっていた。それさえあればいいと思った。何があっても、笑顔がいちばん!

師の御聖誕の日に。黄昏時に光輝く半分の月。

野口美香


2020ジャヤンティー in 東京

2020年11月23日。東京では、今年は弟子1人1人がそれぞれの場所でこの吉祥な日を迎えました。私たちにとっては、師が御降誕されたとても大切な特別な日です。

東京は朝から澄み切った青空が広がる気持ちの良い天候で、例年のようにみんなで集う形ではないものの、私は歓びに湧き立つ想いで『パラマハンサ NO.142』を封筒から取り出しました。今年は『パラマハンサ』誌面を通して、弟子から師への感謝の想いを祝辞として献上しています。
先輩グルバイが描かれた表紙の絵「師とともにある歓び」を観て、より一層歓びが大きくなりました。

『パラマハンサ』142号ジャヤンティー特別号

ページをめくると、弟子からの祝辞が掲載されており、どのメッセージからも師への想いが溢れ出ていて、読んでいると胸が震えるものばかり。読み進めるたびに師への想いで胸がいっぱいになり、歓びの涙が次々と溢れました。みんなが一堂に会したジャヤンティーと同じような感動がありました。読み終えた後に「シュリー・マハーヨーギ・ストートラム」を捧げ、時が経つのも忘れて師のお写真を眺め続けていました。

ちょうど翌日はヨーガ・瞑想クラス。たまたまグルバイだけだったこともあり、ジャヤンティーの過ごし方や感想を報告し合いました。
みんなそれぞれの自宅で場を調えて、例年と変わらず気持ちを高めて『パラマハンサ』を開いたようです。中には気持ちが高まりすぎて、開くまでに何度もストートラムを歌ってしまった、という人も!
台湾のグルバイがYouTubeにアップされた「TANTROKTAṂ DEVISŪKTAM/タントローキタム デーヴィースークタム(女神への讃歌)」を聴いて気持ちを調えた人もいました。
実際には行かれなくとも、京都の方角に向かって過ごした人もいました。
いつも暮らしている自宅という空間が、神聖な喜びに満たされて特別なムードだった、歓びがこみあげて自宅にいることを忘れた、との声もありました。
きっとこの日は日本各地で、N.Y.で、台湾で、それぞれの家がアーシュラマとなったことでしょう。

弟子一人一人の祝辞から、共通したものを感じたという感想もありました。
それは、どこにいてもみんな同じように師への言葉に尽くせない感謝の想いが溢れていて、私たちが師から与えて頂き続けているものを一人でも多くの人に伝えていきたい、行為していきたいという強い願いです。
師の行為は常に優しく慈愛に満ちています。私たちはそれぞれに様々な悩みや苦しみを抱え、師の下に辿り着きました。師は私たちの中にある純粋な本質のみを見て、絶妙なタイミングでヨーガの道を歩めるように導き続けてくださっています。そこには何の計らいもありません。

私はサーナンダさんの祝辞に特に胸が熱くなりました。
”ヨギさんは本当に根気良く、時には何年もかけて導かれることもあります。いったい一人の人間の事をそこまで親身になって考えてくださる存在が他にありましょうか。単に大変だと同情するだけでなく、救いを求める人を抱きしめるだけでなく、具体的な解決の仕方を考えてくださるばかりか、弟子に対しては、未来にわたって真実に目覚めるための道筋すら敷いてくださるのです。そのような存在がサットグルと呼ばれる存在です。
ヨギさんご自身にとっては何の益もございませんし、働く義務すらない。それでもヨギさんは人々のために、ただ愛ゆえにその尊いお身体を保ってくださり、私たちにまるで奉仕してくださっているかのように接してくださいます。その尊い行為に触れて、心が動かされない者がいましょうか。そのようなグルの愛と叡智に触れて、心が変容しない者がいましょうか。本当にありがとうございます。”

この感謝の想いを具体的に表すのが、他者への行為だと思います。私たちがして頂いた事を同じように誰かに対して行為していくということ。
こうした 想いを互いに確認しつつみんなと話していると、現在クラスに通ってきてくれている人たちにとって、どうしていくのが良いかという話になりました。

オンラインでもっと工夫して何かできないか、こうしたらもっと良いかも、と話は尽きず。そして、『パラマハンサ』を読むことで過ごしたジャヤンティーも素晴らしかったけれど、やっぱり少しでも師にお会いしたい!!!と一層想いを熱くしました。

アーシュラマ近くの北野天満宮が懐かしくなり、自宅近くの谷保天満宮(国立市)に行ってきました。

ジャヤンティーの余韻に酔う中、こうして話ができる機会を頂けたことにも本当に感謝です。
まだ先が見えない状況だからこそ、どこかにヨーガを必要としている人が以前にも増していると思います。今ヨーガを学び実践している人たちのためにも、これから出会える誰かのためにも、みんなで今できることを考えるだけでも力が湧いてきます。

東京のグルバイの一人で、なかなか会う機会のないサルヴァーニーさんからはメールで感想をいただきました。

ヨギさんへの愛と信仰で輝く弟子の祝辞と弟子を導くヨギさんの姿から、ヨギさんはどれほどに働かれているかを感じました。
今年は様々な変化がありましたが、その渦中でも相応に落ち着いて過ごせているのは、心の中にヨギさんがいらっしゃるからだと思っています。
どれほど思っても足りることはありませんが、ヨギさんの誕生と存在に深く感謝いたします。

みんな同じ空間でともにお祝いをすることができなくても、溢れる感謝の想いは師へと注がれてます。

私たち一人一人が、それぞれの身体が置かれた場所で、師のように愛ゆえの行為ができますように。今日という1日1日を最善を尽くして過ごすことができますように。それを真摯に淡々とやっていくうちに、少しずつでも師の行為に近づいていけると信じています。

ハルシャニー


サットグル・ジャヤンティー2020!

最愛の師が御聖誕された11月23日は、私たち弟子にとって一年の中で最も大切な特別な日です。しかし、今年はとても残念ですが、弟子が一堂に会して祝祭を開催することができず、機関誌『パラマハンサ』にて感謝の思いを祝辞として捧げさせていただくことになりました。

ジャヤンティー当日は、師の恩寵により、マハーヨーギー・ミッションを代表して近隣の役員が師にプージャーを捧げさせていただきました。そして、師への感謝とともに、京阪神、東京、松山、台湾、ニューヨーク、各地の弟子たちの活動や実践の様子、メッセージなどをスライドショーでご報告させていただきました。

ご覧になられた師は、「今日のこのヴィデオをはじめ、『パラマハンサ』も読ませていただいて、みんなの深まりと信仰と、それから誓願というものがすごく感じられて、すごく歓んでいるところです」とおっしゃられ、一日も早くこの事態が収束することを願われていました。また、このような状況下においても、「一人一人のあり方が大事であり、一人でも二人でもが勇気をもって(真理に基づいて)生きていくということしかない」とおっしゃられました。

今年は略式でのジャヤンティーとなりましたが、たとえ遠く離れていても、師の存在と教えを拠り所とし、真理に生きていこうとする世界各地の弟子たちの純粋な信仰と誓願が捧げられた、誠に浄らかな祝福されたジャヤンティーであったと感じました。

またたくさんの弟子たちはそれぞれの場所で、師への思いとともに、ストートラムを歌い、献上したようです。

このような場を与えてくださった師に深く感謝を申し上げます。

ジャイ、サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ キ ジャイ!!!

オーム・タット・サット オーム!

 

マハーヨーギー・ミッション


本日はサットグル・ジャヤンティー🍁

11月23日は、私たちの師シュリー・マハーヨーギーの御聖誕日「サットグル・ジャヤンティー」です。

無形の真実在が人の姿をとって御聖誕された最も吉祥な日ーー

残念ながら、本年は一同に会して祝祭を開催することはできませんが、本日京都の弟子数名が略式という形で師に感謝と礼拝を献上します。
また、11月20日に発行された『パラマハンサ』は「サットグル・ジャヤンティー特集号」ーー師の御聖誕と導きの感謝、弟子の悟りと献身奉仕の誓願ーーその祝辞が掲載されています。
会員の方は、御聖誕日にこの『パラマハンサ』を開くことになっていますが、もうお読みになられたでしょうか?

今年はとりわけ多くの祝辞が献上され、すべての祝辞が師への感謝と愛に溢れ、その純粋な思いが輝きを放って反射し合い、私には『パラマハンサ』が熱く光り輝いているかのように見えました。

無形の真実在が人の姿をとって顕現された師の存在は「奇跡」としか言いようがありません。
そしてまた、人が本気で真実・神を目指そうと決意し、その道を歩んでいること、これも同様に「奇跡」としか思えません。
師は以前、次の言葉をおっしゃっています。

「ヴェーダ(天啓聖典)の権威によって至高の存在が輝くのではなく、

至高の存在によってヴェーダが輝くのである。

それは抽象的概念や空想の産物ではなく、

具体的にこの地上に身をもって顕れた存在のことなのである。

ゆえにグル・ジャヤンティーの真意はここにある」

師に出会わなければ、聖典の1ページも理解できなかったと思います。
また、私たちの人生には常に不安と苦しみが付き纏っていたことでしょう。
しかしながら、私たちを照らす「光輝く存在」がこの地にお生れになったのです!!!

昨日、「シュリー・マハーヨーギ・ストートラム」が期間限定でYouTubeにて公開されました。
場所は違えど、師の御聖誕されたこの祝福された日に、ハートの内でその歓びを分かち合い、師に最大の感謝を捧げましょう!!!
お天道様も祝福されています!!!

23日、東の空には朝日が昇り、西の空には虹が架かっていました🌈 奇跡!!! 

ゴーパーラ


ヨーガの仲間と分かち合うサットグル・ジャヤンティー!

11月14日(土)、秋の高く澄み渡った空の下、東京でともにヨーガを学ぶ仲間が久しぶりに集いました!
東京で3月に外出自粛要請が出されて以降、オンラインでの自主瞑想会などで定期的に顔を合わせる機会はありましたが、クラス以外で大人数で集まることは控えていたため、皆で集まるのは数ヵ月ぶり。今回、残念ながら仕事や家庭の都合で参加できなかった方もいましたが、久しぶりの再会を喜び合いました!
この日の集いの目的は、なんといっても11月23日に迎える私たちの師サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサのジャヤンティー(御聖誕祭)の歓びと師への感謝の気持ちを皆で分かち合うため。古来、ヨーガでは一生をかけて師を探し求めたといわれています。常に私たちを大きな慈愛によって真理へと導き続けて下さっている師。私たち弟子にとって師は闇を照らす灯明そのもの。その最愛の師の御聖誕日は歓びに満ちた一年で最も大切な日です。

この日のノアスタジオ代々木でのヨーガ・瞑想クラス。皆さん真剣に瞑想に取り組まれています。

クラス終了後、皆でスタジオから徒歩5分ほどの場所にある新宿御苑へ。
穏やかな秋の日差しの中、ソーシャル・ディスタンスに気をつけながら気持ちの良い芝生の上で円座に。大空の下で体も心ものびのびと広がっていくようです。

みんな楽しそう!時間を忘れるひと時を過ごしました。

皆それぞれが大切にしている師の教えやエピソードなどを飾らない言葉で思い思いに語り合いました。
忘れられない師との出会い、ニューヨーク・ミッションで師と一緒に過ごした日々のこと、毎年の御聖誕祭の役割で学んだ大切なこと、日々の実践に生かされている師から授かった言葉…。また、まだ師に会われていないSさんは私たちを通じて感じている師のイメージをお話して下さり、嬉しさとともに身が引き締まる場面もありました。
皆の話を聞くたびに、一人一人が師との特別な結びつきを持っているのだなぁと思います。そして、師が端的に弟子の性質を見極め、いかにその時々に一番必要な導きをされているのかということを感じ、改めて感謝の思いと師の計り知れない偉大さを思わずにはいられませんでした。
皆で笑ったり、泣いたり、真剣に聞き入ったりしていると、まるで師が私たちと一緒に円座に加わり、あの子どものような純粋な笑顔でお話を聞かれているように感じました。

それぞれの場所で迎える今年のジャヤンティー。一人一人何処にいたとしても、師への愛と感謝を捧げ、師とともにある歓びと真理の光で皆が満たされる日となりますように!!!

ジャイ!!!!!!

最後にマスクを取って、とってもいい笑顔!!(撮影ターリカー)

シャルミニー


御聖誕の日に思いを寄せて

一年と少し前、初めて師にお目にかかったその日、師は私の命にヨーガの光を灯してくださいました。その日から私の生活はすっかり変容してしまいました。常にヨーガが中心にあるのです!お会いする前までどうやって生きていたのか不思議に思うほどです。そして私のハートは、その光の源を求めるように、師であるヨギさんという果てしなくてまばゆい存在にどんどん惹きつけられていきました。

海を見ると、師の「この世界は、ちょうど海の波のように変化はしていても、そこには海(真理)だけがある」という教えを思い出します。

今年の初めにニューヨークに滞在し、師の懐に飛び込み、ヨーガを学ばせていただきました。その数日間は奇跡だったのかなと思うほどに尊い時間でした。小さな自分と対峙しては、もうだめなのかもしれないと真っ暗闇の中にいるように感じた夜もありましたけれど、朝目が覚めてそこに師がいてくださったことで、「あぁ、大丈夫なんじゃないかな」とただ安心したことを覚えています。私がそこに存在していることを喜んでくださっているような、そんな安心感をずっと感じていました。懐に飛び込みたい!という私の願いを受け止めてくださった、師の大きな愛情に包まれていたのだと思います。そしてその愛情は今も、誰ものそばにあるのだと信じています。

なぜ生まれてきたのか、どう生きるのか。私たちの命の秘密―――。
本当に知りたいことは学校では教えてくれなかったし、誰かに聞いたところで確かな答えが返ってくる気はしなかったけれど、師はすべてにまっすぐ答えてくださいます。
私は今生きています。生きているということは、その命を動かす大いなる存在と常に一緒であるということ。昨年の御聖誕祭に参加したとき、降って湧いたように「生まれてきてよかった」と感じました。きっと、五感では感じることのできないその存在と共にある喜びを、師がハートに直接味わわせてくださったのだと感じています。

今年も一年で最も大切な日が近づいてきています。大切な人には喜んでほしい、笑った顔が見たい、そう思います。では、師は何を喜んでくださるのだろう。―――以前、師は誰よりも弟子の幸せを願ってくださっていると伺ったことがあります。真実を実現し、私自身が至福の境地にとどまることで、その愛に応えることができるのではないかと思います。それは私個人の幸せではなく、すべてのための、もっと普遍的な幸せです。大切な人が大事にしているものは、同じように大事にしたいと思います。師が慈しまれる、この世界のすべての存在を、私も優しく愛することができますように。

秋と冬の間の澄み切った空気も、色づき始めた木の葉の一枚一枚も、近づきつつあるその吉祥な日を祝福しているように感じて胸が高鳴ります。こうして喜びの中で御聖誕の日を迎えられることにも、師の恩寵を感じずにはいられません。いつも見守ってくださっている師に、心から感謝いたします。

大森みさと