コロナ禍は収束の気配を見せず流行の第三波とも言われる状況になっています。不都合を感じながらも、いわゆる「新しい生活スタイル」に沿って人との距離を出来るだけ取る生活に慣れ始めている自分がいます。しかし昨年の暮れ、来る東京オリンピック・パラリンピックに心躍らせながら社会生活を謳歌していた頃、このような時代が来ると誰が想像していたでしょうか。
微塵も考えなかったことは人生の様々な場面である日突然起こります。一瞬の気の緩み、コンマ数秒のタイミング、そして神の計らいやカルマとしか考えられないことなど、まるで大きな変化の歯車が冷徹に表情ひとつ変えずに廻っていく感じがします。さらに事故や大災害などによって、人生が激変した方々に思いを馳せると表す言葉さえ見つかりません。
名前あるもの。形あるもの。始めと終わりがあるもの。この世の粗大なものも微細なものもすべて変化し、思い通りにならない。私たちは20世紀初頭のスペイン風邪流行を、歴史上の出来事として知っていましたが、思いもしなかったコロナ禍は、くしくも聖典で学んだ知識を私たちに実体験させることになりました。想像もつかない出来事は人間の計らいなどお構いなしに起きる。なぜならこの世はマーヤー(神の幻影)だから。コロナで痛感させられたことです。
それでも私たちは変化に驚き、慄き、悲しんでばかりいるわけにはいきません。それは変化する対象物に依存しているのだと、ブッダは教えてくださいました。「おのれこそ おのれのよるべ おのれを措(お)きて誰によるべぞ。(法句経160)」ブッダは人間の一生における依存の対象の移り変わりを挙げながら、真に頼るべき対象について教えています。赤ん坊は一心に母親を目で追い、小学生になると先生の言葉に目を輝かせます。青年になれば恋人を昼夜想い、社会に出ると地位や財産、中年以降は健康や美への執着も加わるかもしれません。でもそれらは時が来れば消えてしまい何ひとつ残りません。
続けてブッダはこの経で、よるべとなるのは「よくととのえし おのれ」であると教えています。私が読んだ訳本では「自己の中に一切の『他』を見出した偉大な自己」と解説していました。私なりの理解では、それは「アートマン」(真の自己)であり、「真理」であり、「私の中にある神」ではないかと思います。名前も形も始まりも終わりもないアートマン。それは自分を取り巻く世界に遍満しています。自分はアートマンと悟ること。それこそが受け入れ難い変化を受け止めていく究極の方法なのだと思います。
私は執着を捨てるために、本当の自分への瞑想を進めています。瞑想は少しずつ深まっていると感じますが、同時に自分の執着の根深さを垣間見て、恐ろしささえ感じ無力感に苛まれることもしばしばあります。「わかっちゃいるけどやめられない。」昭和の頃の歌謡曲で聞いたことがある様な文句ですが、飛び跳ねる猿のように狡猾な心の正体を知ったからには、絶対に負けられないと日々気持ちを奮い立たせています。
前述の経はブッダが入滅を目前にして、嘆き悲しむ弟子の阿難に語った言葉だそうです。「お前は自分自身に燈火を抱いて、自分の足もとを照らし、ゆく手を照らし輝かせ」と力強く教えられたそうです。ブッダはこの時こうも語ったそうです。「私の肉身を見る者が私の弟子ではなく、私の教えを知る者が私の弟子である。(ヨーガの福音)
今、コロナ禍のために師であるヨギさんにお会いできないという試練に直面しています。私がそれを悲しみ嘆いてばかりいたら、それは私がヨギさんに依存しているのであり、師の教えとは相容れないことなのだと思います。師に依存するのではなく「私は師とひとつである」という揺るぎない事実。その教えを燈火として、ただひとり歩んでいきたい。師はコロナ禍を通して私にその経験をさせて下さっているのだと思います。
最後に一言。でもやっぱり早くヨギさんにお会いしたいです。
小菅 貴仁
Thank you so much, the really impressive phrase “self is our beginning/resources of the life,” and I agree absolutely. (Sorry, I’m not sure the translation is appropriating!).
And, I’m delighted to celebrate Buddha’s enlightenment on 8 December, in 2020.
山田さん〜以前に吉祥寺クラスでお会いしましたね。コメント有り難うございます。またオンラインなどで宜しくお願い致します。
ありがとうございます!オンラインでお会いできるのを楽しみにしております。よろしくお願いします。