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サットサンガより どうすれば恩寵を得られるか?

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

神の恩寵と聞くと、みなさんはどういうことを連想しますか? 病気治癒や良縁に恵まれるなどのご利益的なものでしょうか? また、神への信仰をもっている人は、良き出来事に遭遇したり状況が改善されると、神の恩寵だと感じることがあるかもしれません。

神は恩寵を与えるのでしょうか?  それはどのように与えられるのでしょうか?  先日行なわれたサットサンガで私は師に質問しました。

チャイタニヤ:純粋意識である真我(アートマン)は、ただ見ているだけの存在で何かを語りかけたり、働きかけたりしないと教わっています。では、真我とイコールの神が恩寵を与える意味とは何なのでしょう? またどういう時でしょう?

師:神なるアートマンは常に恩寵を与えています。しかしエゴや煩悩に穢されている心はそれを知らないし、また受け取ることができない。恩寵を受け取る、あるいは感じるときは切羽詰まっているときであったり、限界のとき、そしてヨーガによって心の浄化が施されていった中で恩寵を感じることができる、そういうものです。恩寵は常に、まるで太陽の光のように与えられている。

チャイタニヤ:自分にとって好ましいことや都合の良いことを恩寵と考えると、現世利益的な神の崇拝に繋がっていきませんか?

師:それは厳密には恩寵とは呼ばない。恩寵とはもっと神聖で穢れなき祝福、あるいは霊感というものです。

神は太陽のように常に恩寵を与えている。心はその真実を知らないだけで、大事なことは、エゴや煩悩という心の雲を取り払えるかどうか。つまり「識別」できるかどうか――

10月のサットサンガで、師は心の浄化に不可欠な識別について説いておられました。

師:やるべきことというのは、自らの心を観察して、そうして自分にとって心にとって、どんなこの世に対する執着や、あるいは未練があるのだろうか、それをもう徹底的に行なうということです。これは識別です。本当はこれをまずやらなきゃいけない。でもその大原因が無知ということなので、なかなか目に見えない相手だから、完全にこれをなくしてしまうのは難しいようにも見えるかもしれない。しかし一方でサーダナ、つまり修行を深めること、怠らずに行なうことをやっていけば、それらが浄化の力となって、また聖典や真実の言葉を聞きながら、その識別力も高まってくるに違いない。目に見える物質的な執着というのは、簡単に識別もできていくかもしれない。でも根本は無知といわれているエゴを真我だと錯覚していることであったり、この複合的な世界があたかも永遠であるかのように思っていたり、その中で幸福を見つけようとどこかに思っていたり、そのような漠然としているけれども、しかし心の奥底に根付いてしまっているような間違った思い、これを完全になくしてしまうことが放棄ということになります。だからこの識別的瞑想というのは、力強く積極的にやっていかないといけないものです。そうすればおよそ思いつくさまざまな事柄について、もう未練がない、執着がないとしっかり言えるような時がやってくる。

穢れなき恩寵を受け取るには、穢れなき心をつくり出す徹底した識別あるのみです!!!

チャイタニヤ

 


サットサンガより バクティ・ヨーガの態度

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

神を愛することで神と一つになるバクティ・ヨーガには、5つの態度があると教えられます。

シャーンタ(平安な心の態度)、ダースィヤ(召使いの態度)、サキヤ(友人の態度)、ヴァーッツァリヤ(子を思う親の態度)、マドゥラ(愛人の態度)。

先日行われたサットサンガで、私はマドゥラ(愛人の態度)について師に質問しました。

チャイタニヤ:私は自分の身体が男性だというところで、愛人のように神を想うマドゥーラの態度が理解できないです。そういう態度を示している弟子を見ていると、ためらいや遠慮とかが無くなっている。私はそういう女性的な態度をとることがきないです。

師:まず、自分が男の身体を持っているという肉体のことは忘れないといけないです。神だけが男性であって、男女ということで言えばバクティにおいては、バクタはすべて女性としてみなされる。そのことをまず整理して、ただ神に飛び込むようにするのがいいです。

チャイタニヤ:私には躊躇というか遠慮というか、畏れ多いと感じるのです。でも本当に神と一つになりたいと思って近づいている人には、そういう思いは全く見えません。もう放棄が済んでいる、明け渡しているということですか?

師:ええ、そういうことを意味します。誰もが初めから完全な放棄ができているわけではないかもしれない。それでもバクティを深めるうちに残されている放棄も速やかに行なわれていくはずです。

神の愛人として神だけを激しく求め、一つになろうとするうちに他の一切余計なものが振り落とされる。最愛の神以外に何もいらない。たとえ自らの命であっても……最も強烈な究極の愛の形。マドゥラ・バーヴァ(愛人の態度)はただ愛ゆえに愛するのです。そこには自分という痕跡が跡形もなく消え去っています。

サットサンガ終盤にある弟子が識別について質問しました。「先月のサットサンガでボートを漕ぐ前にロープを外すことを教わりました、でも私は神様を思うことで、別に自分で外そうと思ったわけではなくても勝手に外れていたと思うんです!」とキラキラした笑顔で話していました。

純粋で喜びに溢れた彼女を見ていると、愛に勝る力は無い。神を愛すること以上に為すべき事など本当は無いのだと感じました。

チャイタニヤ


サットサンガより 「ロープを外せ!」

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

ヨーガを深めていくと、肉体の変化や呼吸の変化を感じることはよくあります。しかし私の場合、瞑想における深まりはというと、もどかしいばかりの日々が続いています。

瞑想の最終到達点はサマーディ。悟りです。憧れをもってそこへ行きたい。その境地を味わいたい。真理を実現するためにすべきことも、すべきでないことも一通り学んできたつもりです。しかし依然として悟りへの道は果てしなく遠く、目標に近付いている気配すらありません。

先日行われたサットサンガで、ニューヨークから三ヶ月ぶりにお帰りになったばかりの師にその事を質問しました。

師:今回、ニューヨークでも似たり寄ったりの弟子たちの心情を聞くことがありました。彼らは一所懸命、聖典を学び、そしてサーダナ(霊的修行)も行ない、ヨーガを深めているようなのですけれど、しかしまだ安らぎには達していない。なんとか本当の幸せ、自由というものを望みます。そんな時、真理の教えがやってきて、本当はこうだよと教えてくれる。例えればそれは彼岸というか、あの向こう岸に達すれば、そういった幸せな世界があるよと教えられるようなものです。そして、みんなは熱心にボートを漕ぎ出す。一所懸命漕いで、一日中漕いでーー翌朝目が覚めれば、まだこの岸の一寸たりとも動いていない。なぜなら、ボートを繋いでいるロープを外していなかった。だからいくら漕いだって進むわけがない。やるべきことは、まずロープを外すことです。船を杭に止めているロープですよね。これがこの世における執着、あるいは煩悩とか無知といわれているものを象徴しているわけです。それが繋がっていたらいくら漕いだって動きもしない。だからまず、それを外しなさい。そうすれば、軽やかに向こう岸に辿り着くことができる。

では、どうすればロープを外せるのでしょう?

師:まず識別をして、この世を正しく見ること。そうして識別をするならば、その中で自分の心がどれほどこの世に執着をしているか、あるいは何が残っているかということが見つけられ、もっと識別を深めることによって、その原因である無知や煩悩が見つかる。さらに識別をすれば無知は間違っているということに気付かされ、心から無知が滑り落ちる。これが放棄という状態になる。あるいは無執着という状態になる。ロープが外れる瞬間のことです。

心から無知が滑り落ちる!!!それが放棄……放棄というと、頭を丸めて世俗の楽しみに背を向けて耐えることのように感じていました。

悟りのために行なっているサーダナ(霊的修行)が深まっていかないのは、この世における心の煩悩や無知が絡みついているからーまず正しい教えを学び、この世を正しく見る。識別によって自分の心に絡みついた結び目を一つ一つ解いていくしかありません。

ボートを漕ぎ出せ!しかしその前にロープを外せ!!

チャイタニヤ


執らわれをなくす。

まだまだ残暑厳しいですね。
今年の夏は危険な暑さが続きました。
 
京都で39.8度の観測史上最高を記録し寝苦しい夜が続くなか、一旦気温が35度の日がありました。それでも猛暑日と言われる気温ですが、その頃には身体が連日の38度超えに慣れていたのか、涼しく感じたものでした。
 
おかしなもので、人間の身体も心もちょっとした変化で捉え方がまるっきり変わったりするのだと改めて感じました。心の印象なんて本当にあてになりませんね。
 
夏は暑い。冬は寒い。考えてみれば当たり前のこと。それ以上の感想は余計な思いです。ついつい口に出して誰かに不満を聞いてもらいたい、愚痴を言って少しでも気を紛らわしたい。でもそうするとそこから余計な執らわれが心に湧いてきます。
 
先輩グルバイ(兄弟・姉妹弟子)から教えられた言葉です。
 
人にはどうにもしようのないことに、いつまでも心を執らわれているよりも、そこで切り替えて、それを受け入れて、何ができるか、どう過ごしてより良くしていけるかを考えればいいだけ。
 
暑いなぁ…から先を言い出しそうになった時、いかんいかん、師は「暑いな」と相槌をうつだけで終わらはるんやった!!と思い出して心にストップをかけています。
気候に限らず日常のあらゆる場面に考え方の癖は見え隠れしています。
余計なものはたとえ思いであっても持たない。軽やかに自由でありたいです。
チャイタニヤ
 

レッテルを貼らない

最近、自分のある執らわれに気付かされることがありました。

ヨーガを始めて八年。ヨーガが深まっているかどうかは、日常に表れると言われています。

私はというと相変わらず同じものに執われ、手放せないでいるような気がして、まだヨーガが全然深まっていないのかなぁと、正直焦りとジレンマがありました。二十一世紀の日本に暮らす一介のサラリーマンが普通にヨーガをやっていて、本当に悟りを実現できるんだろうか?と思ってしまいます。

でも、自分の状況を憂い嘆くばかりだったそんな時、ちょうど瞑想の進め方も壁に突き当たり、先輩からアドバイスを受けて、自分の中のある執らわれに気づかされたのです。

「真理においては、世俗も出家もないし、聖も俗もなく、男も女もない、一元の無分別の境地だと教えられます。つまり本質は同じであって、差別や違いは心が作り出した観念に過ぎないということです。自分が世俗にあると思うから出家を願うし、自分を俗だと思うから聖なるものを欲するというわけです。最初の起点がそもそも誤っているのです。だから、その原因をこそ識別しなければならないのです」

ヨーガをしていたらこういうふうになって、こんなふうに進んで行くものだ。それができていないのは、これこれこういう理由だからだ。理想はこうなのに、自分の現実はこうだ。とか……その思い込みがヨーガに対するこだわりを生んで、観念に束縛されてしまっていました。まさに自由を求めて不自由になっていたことに気づきました。

「二十一世紀の日本に暮らす一介のサラリーマンの自分」「自分は俗なるもの」「ヨーガが全然深まっていない」「ヨーガはこうあるべきだ」というレッテルを貼ってしまっていたのですね。レッテルを持たない純粋な心を求めているはずだったのに、いつのまにかレッテルだらけになってしまっていました!

自分にも、他の人にも、ヨーガにも、レッテルを貼らないようにしたいものだとつくづく思いました。

この青空のように澄んだ心でいれますように。


師 グルとは

人間何をするにしても一人で全て切り開いてきたという人はいないでしょう。産まれた瞬間から親に育てられ、就学して先生に教わり、働いて上司に指導され。

習い事も師と仰ぐ人を敬い、教えを授かる事で上達します。

ヨーガでもグルという師から、日々の修行法や生活における心構え、そしては最終的に悟りに至る道を教わります。

グルとはどんな存在なのでしょうか?また、グルと弟子の関係とはどういったものなのでしょうか?

私が大好きな聖者ラマナ・マハリシのグルについての、とても興味深い教えがありましたのでご紹介したいと思います。

「神・恩寵・グルはみな同義語です。すべてに遍在する神は愛する帰依者を哀れに思い、自らを帰依者の次元に相応させた姿で現れ真理を説くのです。そして教えと交流によって帰依者の心を浄めます。ところが帰依者は彼を人間だと思い、二つの身体の間に何らかの関係を結ぶことを期待します。あなたは自分を身体だと思っているため、グルもまた身体を通して何かをしてくれると思うのです。しかし神であり真我の化身であるグルは帰依者の内側に働きかけ、彼が道を間違っていることに気づかせ、内なる真我を実現するまで正しい道へと彼を導きます。グルは内面と外面の両方に存在しています。外面からは心が内面に向かうように後押しをし、内面からは心を真我に引き込み静かになるように助けます。」

いかがでしょうか?思っていたグルのイメージを遙かに飛び越えていませんか?

私がヨギさんとお目にかかれた経緯を思い起こしても、もはやたまたま縁あって京都にいらした先生と生徒の関係などではなく、もっともっと深遠なそれこそ恩寵としか言いあらわせない絆、巡り合わせを感じてしまいます。

なぜ私はグルと出会ったのだろう?

私は幸せになりたかった。時間やお金、他者との関係で変化するような幸せでなく、決してなくならない永遠の自由と安住をもとめていた。はたしてそんなものがあるのか?と思いながら。これは辛かった当時の状況から逃げたかったという反射の対応であると同時に、私という存在の本質からあふれる、原点への回帰願望だったのだと思います。

そして時期と準備が調ったタイミングで、私はヨギさんにお目にかかりました。

真理への願望が生まれたとき、グルが現れた。真理を実現するのにグルは不可欠だから。

以下太字は『悟り』の中での、シュリー・マハーヨーギーの御言葉です。

グルと弟子の関係は一般的な社会における教師と弟子の関係でもなければ、取引でもありません。ただ、真実の愛によってのみ成立するものです。(愛とは他者に自らを捧げるという行為でしたね!)

グルの直接的な意味は、闇を取り除く光、つまり無知を取り除く真実という意味です。すでに真実の光は、それぞれ皆の中に在ります。ただちょっと邪魔をしている影があるだけ。そのために外からの光が必要な時もあります。その闇が取り除かれるまでの間を弟子と呼びます。それが実現すればグルと弟子に違いはありません。不異(おなじ)・一(ひとつ)です。(私の真我実現に必要な無知が取り払われたなら、ヨギさんはもうグルではなくなるの?……)

まず弟子は、悟りを求めなければならない。そして真実の教え、正しい教えを、真実のグルから学ばなければならない。さらに真剣さと情熱をもって、学びと修行を実行しなければならない。これらは最も中心的な心と行動のあり方です。さらにもう少し繊細なことを言えば、素直であること。素直な心、謙虚。(これに関しては、常に常に念を入れながら日々精進しています!)

自分の体験を一つ一つ検証しながら、ラマナ・マハリシとシュリー・マハーヨーギーの御言葉を読み解くと、私達と同じ現代の日本に住まわれ、私達と同じものを食べ、同じ楽しみを喜ばれるヨギさんの存在と、八十数年前にインドで語られたラマナ・マハリシの教えで明かされるグルという存在の驚くべき一致に改めて平伏してしまいます。

どちらも、“知っている側”から語られた事実としての真理の手触りが感じられます。同時に、私達のグルという存在が、どれほど崇高な顕れであるかということに畏敬の念を禁じえません。

私が肉体という粗大な身体をまとって、この現象世界に生まれ落ちた末にどういう因果か真理を求めた。そうしたら、神は自らを人間の形に顕してグルとして目の前に現れた。行く先々で愛という無償の働きで私に教えを授け導かれるグル。ともに歩む沢山の素晴らしい兄弟姉妹も授けてくださった。かたや真我という自らの本質に自分の力では気づけずに何度も何度も転生を繰り返す私。

これは冷静に考えるとそら恐ろしいことです。もしこのチャンス(今生)に、この期に及んで言い訳や、迷いを口にして進まなかったら、果たしてまた何生涯私は転がり続けるでしょうか?

神は一切取引をしません。神にはただ、愛し、近づくことだけを考えなさい。すべてを神に任せるのです。あなたの痛みも苦しみも、喜びも楽しみも、命も!できますか?神に接する時はそのような真剣さをもたなければいけません。(はい。師よ、もちろんです。とっくに覚悟は決めています。どうぞ受け取ってください。)

Caitanya


サットサンガより 目的と方法

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

毎日のサーダナを実践する上で、しんどいなとか面倒だなと感じる日は誰にもあると思います。

私もヨーガに出会う以前に、仕事が忙しすぎて帰って眠るだけという生活が数年間ありました。その時の自分に、サーダナをする時間と余裕があったかと考えると、できなかったと思います。

そういう環境の中では、ヨーガを中心にした暮らしは、簡単に望めそうにはありません。思い切ってガラッと生活を変えることができればいいのですが、家族や周りとの調和を大事にすると、あるいは自分自身今のこの生活を捨ててヨーガに飛び込めるか?と揺れてしまうと、何年も場合によっては何十年も我慢しなければならないかも知れません。

今の境遇は自らのカルマにしたがって有るのだとすれば、今の環境でできることをするしかありません。

日常がとても忙しく、ついサーダナができない日があります。そうすると、「今日はできなかった」とか、「さぼってしまった」という罪悪感や後悔の念が起きてしまいます。自由に軽やかになる為にヨーガをしているはずなのに、これでは反対に苦しいばかりですよね。

先日サットサンガで弟子の質問に師はこう説かれました。

質問者「状況とか場所が変わって、その中でサーダナを試みてもなかなか集中して行えない自分の弱さがあります。サーダナをやっても途中で疲れて寝ちゃったりして、罪悪感というか……。でもその気持ちをもっと前向きに望みたいんだけれども、なかなか自分で壁を作っているところがあります。そこを突破する、やれるようになるにはどのようにしていったらいいでしょうか」

ヨギ「サーダナは目的ではないんですよね。だから目的と方法というものを混同してはいけません。サーダナはあくまでも方法にすぎないわけで。それは目的ではないんですよ」

質問者「何のためにするか、ということですよね」

ヨギ「そうです。目的が真理を実現することであるならば、もちろん、このヨーガのサーダナはそのためにあるわけですから。それは結局のところは心を浄化する、きれいにするということ。サーダナというのはそのためのものですよね。じゃあ、それにはサーダナはいくつも色んな方法があります。アーサナや瞑想だけではない。信仰もそうだしね。だからもっと目的に直接的なところを踏まえて、心に持っていないとだめ。常に真理を持っている。神を思っている。そういうふうにして信仰を高めていくこと。それが大事です」

サーダナとはアーサナだけではない。日々の他者との関わりの中で積極的に奉仕を行うカルマ・ヨーガ。常に真理を物事の判断基準として生きる。そして境遇が例えどんなに荒れ狂う嵐の中にあっても、心は常に神の中に留まる境地、信仰という強いよりどころを持つこともサーダナなんですね。

人それぞれカルマにしたがって与えられた境遇は違いますが、ヨーガに出会って発心がおこり、この道を進もうと決めた。と言うことは既にヨーガの道に向いて進んでいるということだと思います。停滞や挫折を感じても、確実にカルマの道からヨーガの道に舵を切って進んでいる。だからこそ、残っている心の習性や習慣との格闘があるのだと思います。

カルマの世界で心に支配されるのが嫌なら、心の声は聞くべきでは無いですね。真理の存在を信じられないと思っているのも心だからです。本当に求めるものは何なのか?自分はこれからどう生きたいのか?目的をしっかりと見すえて、その為の方法を淡々と実践することが一番確実で早道なんだ…それ以外に道は無いと改めて思い知らされました。

器官を統御して貪欲という難敵を滅ぼす力が、自分にはないとおまえが考えるならそれは間違いだ。なぜなら肉体より器官、器官より心、心より知識、知識より魂の方が格段にすぐれ、精妙、かつ強力でもあるからだ。 『バガヴァッド・ギーター 三章 四十二』

Caitanya


信仰を持つということ。

突然ですが、貴方は信仰をお持ちですか?

熱心に神社に参るとか、毎日仏壇に手を合わせるとか、意識せずとも信仰が日常に溶け込んでいる人もおられます。また、お願いごとや困りごとの時だけは、心の底から神様仏様を信じてすがるというのもありますよね。憧れる人、尊敬する人など現存する人間に対して信仰を持つ人も、亡くなった近しい人を心に想う人もいます。

私も信仰を持っています。ですが信仰の具体的な対象というと実はこれが説明しづらいのです。

名前を呼ぶと何故だか心がギューっとなるクリシュナ。絵で見たことしかない異教の神でしたが、キルタンで御名を歌ううちに、理屈ではない“何か”に触れて、バクティ的な信仰がいつの間にか沸いてくるようになりました。それは自発的では無い作用で、突然圧倒されるような、思いも寄らずに感情が崩壊するような。それはそれでとても幸せなものです。でも、私の場合、姿形を見るだけで愛しいとか、驚くような物語を読むだけでウットリするとか、そう言う想いとは少し違うんです。何千年も昔の伝説はもはや神話の世界で、御伽噺の様です。

それよりも「晩年は何々という病を患いながらも、生涯を通して何処何処で人々に教えを示されていました。」という様なリアルで史実のはっきりした方に心を惹かれます。写真が残っているとなお良くて、そうなると自ずと近代以降の聖者・覚者により親しみを感じてしまいます。彼等を経由してクリシュナやシヴァ、カーリーに想いを巡らせる感じでしょうか。

それはきっと私の“心”が、根本的には目に見えるものしか信じていないからで、(本当は信じたいんですよ!)もし世間の常識がまるで通用しないような世界をこの目で見たなら、あるいは心底認めたなら、私も神話や魔法の世界に没入し、そこで神と一つになることだけを、焦がれるようになるのでしょう。でも、そうなるにはまだ私の“心”は理屈っぽ過ぎるし、足りない頭にもかかわらず、余計な知識が邪魔をしてしまいます。裏を返せば科学の常識がブッ飛ぶような体験を、人知れず味わいたいという思いが強くあるのかも知れません。

しかし聖者・覚者はその世界を知っているのです。

私の信仰は、愛することや憧れよりも「この人には敵わない!」と降伏の末に服従せざるを得ない、圧倒的な能力や徳、そして慈悲を持っている方に対する態度かもしれません。平伏し従い、教えを請う内に、尊敬と愛が生まれる。私の大切な師に、私自身を明け渡そうと決めたのもまさにこの通りです。

信仰の態度は人それぞれですが、全ての信仰の動機は、その御方が見たものを自分も見たい、知りたい、感じたい、だと思います。そして正しいグルはそれを認め、忍耐強く導かれます。

人間にとって信仰は大きな宝物だと思います。ただし、それを得るにはそれなりの手順が必要なようです。最後に私の大好きな師の教えをご紹介させて下さい。

「もし貴方が宝物を受け取りたいと思うなら、今手に持っているガラクタを手放しなさい。」

Caitanya


心に効くアーサナ

最近、心について考える日が続いています。

でも「心はこう考えている、感じている」と自分と心を切り離して考えることは、今までありませんでした。たいてい「自分がこんな風に考えた、感じた」と思っていました。識別という習慣が出来てからは、心を俯瞰して見れるようになってきたと感じます。

ヨーガで心の仕組みを教わって、理解して、納得して、識別して。「よし、もう大丈夫!」と思っていても、日常で予期せぬ事態に直面したら、ボロボロと出るは出るは自分の心の癖や傾向、そしてその原因の執着。ぜんぜん大丈夫じゃなかった…

調子良く前向きにみえた心は、自らを欺いて見えない形で苦しみの元になる色々なものを掴んでいたのです。あるいは過去の潜在印象(サンスカーラ)が消えていなかった。

本当に心は手強いです。

過去の自分を認められず、変わろうと決心させたのも心なら、その同じ心が頑張ってる自分を欺いて、知らぬ間に新たな執着の根を張っていました。それに気付かないということは、識別が甘かった証拠です。頑張ったという思い上がりが、頑張り足りてなかったという結果で現れたのです。

こうなるともう、自問自答することすら信用ならない。大抵そういう時は、過去か未来のどちらかをあれやこれや考えすぎているからで、これじゃどこまで行ってもキリがないなと思いました。季節によって、日によって、時間によってもコロコロ変わる心の状態。コイツを黙らせるのは簡単じゃありません。

バクティも識別も、それだけでは足りないのなら、今一度サーダナ全般を見直そう。考え尽くして出た答えは、アーサナでした。もう一度、初めてクラスに来た時の気持ちに返ってヤマ・ニヤマ、アーサナというラージャヨーガの基本に戻ろう。そう決めて、毎日のアーサナを大切に行うようにしています。みっちり、きっちり、何も考えられなくなるまでしっかりアーサナをやる。

私のアーサナは、しなやかで軽やかで美しいものではなく、カチコチの身体がギシギシ悲鳴をあげる様な、タパス(熱)そのものです。でもそれが私には一番効きます。調子に乗ってたり、ぐずぐず怠けている心を捕まえて焼きを入れる(タパス)と心は暫く黙り(マウナ)ます。

アーサナと瞑想で二時間。その余韻が続いて二時間。睡眠が七時間として合計十一時間。あとは残りの十三時間を、心が喋らないようにすればいいわけです。暇を見つけては聖典を読んで(スヴァーディヤーヤ)、好きな神の御名を唱えて想い続ける(イーシュヴァラ・プラニダーナ)。でも、日常はそればっかりはできませんよね。仕事中も、家にいる時も目の前の義務に集中。ただ集中!結果も感想も受け取らない。こうすると、心の思いに振り回されることなく、今という瞬間を生きることができるはずです。

巷ではアーサナは美容やダイエットに効果あると言われています。でも実のところ心に一番効きます!!

Caitanya


ブッダの御聖誕日 春の祝祭

今年は例年より桜が早く咲きました。
桜舞い散る中、遊歩道をのんびり歩くのもまた何とも趣のあるものですね。

いよいよ今週末、四月八日は、第二回目をむかえるマハーヨーギーミッションの春の祝祭、「−神性示現大祭–サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー」が御室にあるプレーマ・アシュラマで開催されます。

人は何故生まれ、何故死んでいくのか、人生の目的、意味とは何か?この世界は何の為に存在するのか?

誰もが一度は考えたことのある、あまりにも普遍的で大きな疑問。
人類が誕生して以来、途切れることなく投げかけられた疑問に真正面から挑み、答えを見つけた人がいました。
古代から覚者、聖者と呼ばれたその人たちが、自らの生涯をかけて解き明かしたこの世の理。
彼等は絶対的な揺るぎない真理を悟りました。
それは始まることもなく、終わることもない、純粋で永遠の、唯一それだけが在るという不滅の存在だと言われています。
形ない存在であると同時に、この世の全て、万物に遍満している永遠の真理。

その大いなる存在を悟った覚者をお祝いし、感謝の意を捧げ、生き様やエピソードに触れながら、彼等が悟った永遠不滅の真理そのものに迫る。世界でも他に類を見ない壮大なテーマのお祭りです。

今回のテーマはブッダ!奇しくも四月八日は偉大な覚者、ブッダの御聖誕日ですね!
ブッダのことならこの人に聞け!と言われる先輩が、ブッダについて話されます。
そして日々MYMで実践をつむヨーギー、ヨーギニー達がそれぞれの想いを込めて、ブッダについてのメッセージを送ります。
皆が永遠不滅の真理にどのように切り込むのか?どんなインスパイアに満ちたメッセージが轟くのか!どんな喜びの波が押し寄せるのか!そしてどんな祝福が与えられるのか!

もうすでに祝祭ムードが高まって、参加者の一人として当日を待ちきれない思いでいっぱいです。きっとそこにいる参加者全員が、アヴァターラのハートに触れる経験ができるような、帰り道に誰もがおもわず、「よーし、やるぞ〜!!」と叫ばずにはいられないような、感動的でズッシリと中身の濃い、そして華やかな会になりそうです!!

チャイタニヤ