ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。
神の恩寵と聞くと、みなさんはどういうことを連想しますか? 病気治癒や良縁に恵まれるなどのご利益的なものでしょうか? また、神への信仰をもっている人は、良き出来事に遭遇したり状況が改善されると、神の恩寵だと感じることがあるかもしれません。
神は恩寵を与えるのでしょうか? それはどのように与えられるのでしょうか? 先日行なわれたサットサンガで私は師に質問しました。
チャイタニヤ:純粋意識である真我(アートマン)は、ただ見ているだけの存在で何かを語りかけたり、働きかけたりしないと教わっています。では、真我とイコールの神が恩寵を与える意味とは何なのでしょう? またどういう時でしょう?
師:神なるアートマンは常に恩寵を与えています。しかしエゴや煩悩に穢されている心はそれを知らないし、また受け取ることができない。恩寵を受け取る、あるいは感じるときは切羽詰まっているときであったり、限界のとき、そしてヨーガによって心の浄化が施されていった中で恩寵を感じることができる、そういうものです。恩寵は常に、まるで太陽の光のように与えられている。
チャイタニヤ:自分にとって好ましいことや都合の良いことを恩寵と考えると、現世利益的な神の崇拝に繋がっていきませんか?
師:それは厳密には恩寵とは呼ばない。恩寵とはもっと神聖で穢れなき祝福、あるいは霊感というものです。
神は太陽のように常に恩寵を与えている。心はその真実を知らないだけで、大事なことは、エゴや煩悩という心の雲を取り払えるかどうか。つまり「識別」できるかどうか――
10月のサットサンガで、師は心の浄化に不可欠な識別について説いておられました。
師:やるべきことというのは、自らの心を観察して、そうして自分にとって心にとって、どんなこの世に対する執着や、あるいは未練があるのだろうか、それをもう徹底的に行なうということです。これは識別です。本当はこれをまずやらなきゃいけない。でもその大原因が無知ということなので、なかなか目に見えない相手だから、完全にこれをなくしてしまうのは難しいようにも見えるかもしれない。しかし一方でサーダナ、つまり修行を深めること、怠らずに行なうことをやっていけば、それらが浄化の力となって、また聖典や真実の言葉を聞きながら、その識別力も高まってくるに違いない。目に見える物質的な執着というのは、簡単に識別もできていくかもしれない。でも根本は無知といわれているエゴを真我だと錯覚していることであったり、この複合的な世界があたかも永遠であるかのように思っていたり、その中で幸福を見つけようとどこかに思っていたり、そのような漠然としているけれども、しかし心の奥底に根付いてしまっているような間違った思い、これを完全になくしてしまうことが放棄ということになります。だからこの識別的瞑想というのは、力強く積極的にやっていかないといけないものです。そうすればおよそ思いつくさまざまな事柄について、もう未練がない、執着がないとしっかり言えるような時がやってくる。
穢れなき恩寵を受け取るには、穢れなき心をつくり出す徹底した識別あるのみです!!!
チャイタニヤ