投稿者「ダルミニー」のアーカイブ

ラーマクリシュナの福音 〜グルの言葉への信仰〜

ダクシネシュワル寺院

ある日の午後、シュリー・ラーマクリシュナは、ダクシネシュワルの寺院境内の自室で、信者たちに信仰の話をしておられます。 

信仰だ!信仰だ!信仰だよ。ある時、あるグル(師)が弟子に言った。「ラーマだけがいっさいのものになっておられるのだ」と。イヌが来てその弟子のパンを食べ始めたら、彼はそのイヌに「おお、ラーマ、ちょっとお待ちなさい、バターをつけてあげましょう」と言ったそうだ。グルの言葉への彼の信仰はそれほどのものだったのだ。つまらぬ人びとは、信仰というものをまったくもたない。しじゅう疑ってばかりいる。
神への愛が唯一の大切なものだ。真の神の愛人は、何ひとつ恐れるものはない。何ひとつ悩むことはない。彼は、母なる神がいっさいをご存じなのを知っている。ネコはネズミを扱うのとはまったく別のやり方で自分の子は扱うだろう。

 グルの言葉への信仰というところを読んで、私はヨーガを始めたばかりの頃を思い出しました。「自分の心を変えたい。このままの自分ではいやだ」と思い、私はいろいろな本を読んでいましたが、その方法を教えてくれるものは一つもありませんでした。そうしてヨーガとヨーガの師に出会い、「ヨーガのアーサナ(ポーズ)によって呼吸を変えれば、心は変わります」という教えをいただき、本当に驚きました。「この心を変えることができるのなら真剣にヨーガをやっていこう」、そう決意し、私は仕事を辞め、師の下に引っ越してきたのでした。
しばらくしてから私は、毎日アーサナができること、ヨーガのクラスとサットサンガ(真実の集い)に必ず参加できるということを条件に、仕事を探し始めました。しかし、その条件に合うところはそうそう見つかりません。そうこうしていたある日、師は「仕事は見つかりましたか」と私に声をかけてくださったのです。「いいえ、なかなか見つかりません。でもヨーガのことだけ考えていたらいいんですよね」「その通りです」と師は大きく頷かれました。私は、もうすぐ仕事が見つかるのだなと思いました。すると本当にすぐに今の職場が見つかったのです。その時私はその職場は神様が与えてくださったものだと思いました。そして、この出来事を通して、グルの言葉への信仰を強く意識しました。
それから毎日アーサナをする中で、今度はクラスを担当したいという思いが湧いてきました。正しく伝えられるようになるためにも、アーサナをきっちりやっていこう、そう思い、ますますアーサナの修練に熱心になっていきました。それから何年かして、クラスをまかされるようになってきました。そんな時、友人からいいスタジオがあるからやってみないかと誘いを受けたのです。そのスタジオは朝の日の光が入る、サットヴァなスタジオでしたので、すっかり気に入りました。今、そこでもクラスを担当させていただいていますが、そこもまた神様が私に働くところを与えてくださったのだと思っているのです。

さて次の私の働くところはどこでしょうか?それもすべて母なる神がご存じなのでしょう。私は、グルの言葉への信仰を軸として、神様への信仰を少しずつ深めていっているのだということに気が付かされたのでした。

                                      ダルミニー


ラーマクリシュナの福音 〜ウシガエルのお話〜

この小さな部屋で不滅の言葉が語られたのです。

自室の小さい寝台の上に東を向いて座っておられるシュリー・ラーマクリシュナが、床に座っている信者たちに主ラーマの物語から教えられました。 

苦痛と快楽は肉体にはつきものだ。神を悟った人は、心も生命も、肉体も魂も神に捧げる。
ラーマとラクシュマナが沐浴をしようとパンパ湖に入った時、彼らは弓を地面に刺しておいた。ラクシュマナが自分の弓を引き抜くとその先が血で汚れているのに気が付いた。ラーマは彼に言った。「ごらん、弟よ。たぶん何か生き物を傷つけたのだろう」。ラクシュマナは地面を掘り、大きなウシガエルを見つけた。それは死にかけていた。
ラーマは悲しみにみちた声でカエルに言った。「どうして鳴かなかったのだ。私たちはお前を助けようとしたはずだ。お前はヘビにくわえられた時でも、元気に鳴くではないか」。するとカエルが言った。「おお、主よ。私はヘビに襲われたときには『おお、ラーマ、お助けください。おお、ラーマ、お助けください』と言って鳴きます。この度は、自分を殺そうとしていらっしゃるのがラーマであることを知りました、それで黙っておりました」。

私は以前、命を投げ出してでも悟りを得るということはどういうことなのかと師に質問をしたことがあります。師は「私たちの心が最も執着しているのが命です。その命を投げ出す、捧げるということは完全に心が開け放たれた状態、まったく執着のない状態を表しています」と教えてくださいました。
このウシガエルは何の執着もなく、完全にラーマ神のみを信じ、愛し、頼り切って生きていたのだと思いました。神に命を捧げると、自分のことをすっかり忘れ、すべてのすべてが神だけで充満してしまう、そして神以外の一切の思いが消え去ってしまうのだと思いました。

自分のすべてを神に捧げ、行為することができますように。

                                       ダルミニー 


ラーマクリシュナの福音

みなさん こんにちは

七月も半ばですね。七月にしては暑すぎるような気もします。七月は文月(ふづき、ふみづき)と呼びますが、由来は、七夕の詩歌を献じたり、書物を夜風に曝す風習があるからという説と、稲の穂が含む月であることから「含み月」「穂含み月」の意であるとする説もあるそうです。今年は暑い文月になりましたね。

さて、今回も『ラーマクリシュナの福音』からご紹介いたします。

ある日曜日、シュリー・ラーマクリシュナは朝、カルカッタに近いカンクルガチの村の、彼が愛しておられる在家の弟子たちの一人、スレンドラの別荘にお着きになった。スレンドラがある祝祭に、彼と大勢の信者たちを招待したのである。部屋の床は敷物でおおわれ、その上に白布が敷かれていた。いくつかの長枕やクッションがあちこちに置いてあった。ラーマクリシュナが信者たちに向かってお話になっている。

ラーマクリシュナ「『私が』とか『私のもの』とかいう感情は無知からくる。人々はラーニ・ラシュマニがカーリ寺院を建立したと言うが、誰もそれは神の御わざであったとは言わない。誰もそれは神の思し召しによってつくられたとは言わないのだ。この『私が行為者である』という感情は無知である。反対に『おお神よ、あなたが行為者であられます。私はお道具にすぎません。あなたが運転者、私は機械なのです』という思いが知識である。知識を得ると、人は『おお神よ、なに一つ私のものはありません。これらは全部あなたのものです。妻も息子も家族も、私のものではありません。すべてあなたのものです』と言うようになるのだ。これらのものを自分のものと思って愛するのはマーヤーだ。しかしすべてのものを愛するのは、ダヤー、慈悲である。自分の家族だけを愛するのはマーヤーだ。自分の国の人々だけを愛するのはマーヤーだ。だがすべての国の人を、すべての宗教の信者を愛するのはダヤーである。そのような愛は神への愛から、つまりダヤーから生まれるのだ。マーヤーは人を巻き込み、神に対してはそっぽを向かせる。しかしダヤーによって、人は神を悟る。シュカデヴァやナーダラのような信者たちは、常にハートにダヤーを抱いていたのだ」

ダヤー、慈悲という言葉からは、ブッダの行為がすぐに頭に浮かびます。清貧に中に生き、生きとし生けるものすべてを、生涯をかけて救い続けたブッダ、その慈悲の行為を思い出すことができます。そしてシュリー・ラーマクリシュナは、すべてを神として愛する、神への愛、それはダヤーであると教えられています。

私たちの師もまた、こう説かれています。
「愛は、心が主人公の間は愛着として所有とか支配とかに基づいた、限定的で偏った愛の姿をしていますが、心が純化されて、純粋な意識というアートマンの普遍の意識に目覚めてくれば、その愛そのものが喜びに変わってくる。喜びというのはもちろんエゴがないから利己的な喜びではないし、普遍的な宇宙的な喜びという至福という姿に変わる。そして他者の喜びを見ることが愛の姿となっていく。それは元々、純粋な本質として私たちの中にあるから、無条件に出てくると思う。愛というのは、神そのものがこの万物に現われた原理そのもの、万物宇宙がお互い引きあい、あるいは離れあい、育んでいっている姿そのものも愛の基本。あのクリシュナとラーダーのストーリーでは、あまり慈悲という言葉は出てこない、むしろ愛という言葉が非常に多い。古い時代のブッダに遡る頃は、慈悲という言葉がさかんに使われたと思うんだけれども、よくよく見てみるとそれは非常に同質のもの。時代によって、あるいは時代の思想の影響によって多少言葉が違ってきているかもしれないけど、その本質においては同じようにみえる」

私たちの師もまた、神への愛、真実の愛と慈悲とは同じものだと教えてくださっています。師はその慈悲もまた私たちの中に、もうすでにあるのだと教えてくださいました。ヨーガは私たちの忘れている故郷に帰るようなもの、愛深くあれるよう、慈悲深くあれるよう、少しずつ実践しながら、その理想の姿を目指し、諦めず歩んでいくことで、この生を価値のあるものにしていくことができるのだと思いました。

ダルミニー

 


ラーマクリシュナの福音

みなさん、こんにちは

今回の地震で被害を被った方々にお見舞いを申し上げます。
京都は比較的、台風とか災害もよけて通るようなところなのですが、今回の地震は、さすがに京都のみなさんも驚かれたと思います。天変地異に際しても、さまざまな場面でも正しい判断ができる自分でありたいと改めて思いました。

 さて今回も『ラーマクリシュナの福音』からご紹介いたします。
今日もまた、シュリー・ラーマクリシュナは神を愛することについてお話になっています。

シュリー・ラーマクリシュナは自室の小さい寝台の上に、東を向いて座っておられる。信者たちは床に座っている。Mがここに着いて師に礼拝をした後、席についたのは昼頃だった。次第に他の信者も集まりはじめた。
ラーマクリシュナ「もし、人が神を愛するなら、ごく細やかなことが彼の霊的感情に火をつける。そのときにラーマの御名をたった一度唱えれば、彼は一千万回のサーディヤー(上位三階級の聖糸を受けた男子が毎日行なうことになっている礼拝)と同じ効果を得るのだ。一片の雲を見ると孔雀の感情が目覚める。彼は尾を広げて踊る。ラーダーは同じ経験をした。雲を見ただけでクリシュナを思い出したのだ。チャイタニヤデヴァがある村を通り過ぎた。彼はその土地の土からドラムが作られるということを聞いた。たちまち彼は恍惚感に圧倒された。ドラムはキルタンに使われるからだ。だが、誰がこのような霊の目覚めを感じ取ることができるのか。世俗の物ごとの執着を放棄した人だけだ。もし執着という液が、ある人の内部で完全に干上がれば、ほんのわずかのヒントが彼の霊的感情に火をつける。湿ったマッチを千回こすっても火花ひとつ出はしない。だが、乾いていれば、ちょっとこすっても燃え上がるだろう」

 シュリー・ラーマクリシュナは神を愛することができる人は、この世の中の物ごとの一切を放棄した人だけだとおっしゃっています。
私たちの師もまた、心が何かを掴んでいる、所有しているという、心の執着をなくした状態でないと、悟りという真実の智慧は生まれないと教えてくださっています。ヨーガを学んでいくにつれ、心は、神を真実を思いながら過すことが多くなってきましたが、なかなか神を真実を愛することができない自分に気がつかされました。聖典を読むと、神を愛すること、一切の執着を放棄することは、主にグルの導きや神の恩寵によって得られると書かれてあります。私たちの師は恩寵についてこのように説かれています。

「恩寵は、その真実、もしくは神と魂との間に生まれる贈り物です。それが生じるのは、魂たち、つまり人間としての純粋な信仰が生まれた時、その真実の存在は恩寵をもたらします。具体的には祝福、そして霊感、正しい智慧、真実の愛、そのようなこの人間の世界では得られないものがやってきます」

ヨーガを学び、純粋な信仰を育んでいくことが、私たちに必要なことなのだと思いました。純粋な信仰とは、神や真実を信頼し、その教えを誠実に生きていくこと、そして見返りを求めず、ただ愛していくことなのだと思いました。しかしみなさん、私たちは、この人間の世界では得られない、祝福というものをもういただいていますよね。師の教えを守り、誠実に、このヨーガの道を歩んでいけば、真実の愛に辿り着けるのだということを確信し、嬉しくなりました。湿ったマッチのままじゃ嫌だ、諦めず歩んでいこう、そういう覚悟を今回さらに固めたのでした。

 ダルミニー


サットサンガより そのとき見る者はそれ本来の状態にとどまる

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

みなさん こんにちは
前回、台湾訪問の報告がブログにもありましたが、本当に台湾のグルバイの人たちの笑顔が幸せそうでしたね。彼ら、彼女らの真剣さ、素直さ、大らかさがひしひしと伝わってきました。この世界の中で、ヨーガを求める思いは同じ、お互いに切磋琢磨して歩んでいきたいと思いました。
さて、私たちの師は台湾ご訪問に引き続き、今年もまた愛媛県松山市の地に赴かれました。師は京都に留まらず、教えを乞う求道者たちがいるところにはどこにでも足を運ばれ、尊い真実の教えを説かれ続けておられるのです。

さて、今回のサットサンガは『ヨーガ・スートラ』という教典にある「見る者」についての教えがありました。ではまず、『ヨーガ・スートラ』をご紹介いたしましょう。

  1. これよりヨーガを明細に説く。
  2. 心の作用を止滅することがヨーガである。
  3. そのとき、見る者【自己】は、それ本来の状態にとどまる。
  4. その他のときは【自己】は心のさまざまな作用に同化した形をとっている【ように見える】。

私たちはこの身体でも心でもない、その奥にある純粋な意識、それが本来の私という自己である、それを見る者という、そして心は見られる者であると教えていただいています。その見る者について、師は分かりやすく教えてくださいました。

質問者「見る者と見られる者のことなのですが、例えばそれは瞑想の中で考えていくのか、私は日常の中でそういう感じがあったりするのですけれど、そのことをもうちょっと教えてください」
師「これは『私は誰か』というね、本当の自分というのは何なんだろうというところから出発した話で、通常は心というものを私だと思ってしまっている。でも本当に心というのは私なのだろうか、その私が私といっているところの第一人称であるその存在は一体何なのだろうというものが、この探求の出発点になります。
そうして心を見つめていくと、心は常に変化をしているし、どう見ても完全円満な存在とは言いがたい。いい時もあれば良くない時もある。成功すれば失敗もする。有頂天になる時もあれば傷付くこともある。もうどうにもこうにも心というのは変化の中で動揺している確実性のないものとして理解されます。その中心にあるのが私(わたくし)という、意識付けられた思いですね。
この私という、私が指すところの私というのは何なのだろうというところを探求していくことによって、心というものはその働きの動揺が激しい時もあれば静かな時もある。静かな時というのは、心がいわばサットヴァ性になっているというふうにいえます。反対に激しく動き回っている時はラジャス性が中心になっていて、それがもっと極端な落ち込みとかになれば、タマス性ということになってしまうわけですね。この心の様子に私というものが常に引きずられてしまって影響を受けてしまっている、ということは、この私というものもそういう変化の状況に支配されている、つまりは主体性がないということになっていきます。それでも私という意識はなかなか無くならない。
そこで、ここからはヨーガ的な本当に瞑想とかいうものを行なっていくほかないんですけれども、その瞑想を進めていった時には、心というものがその静かな状態から、もっと無くなったかのような状態、つまり心が働きをしなくなる、活動をしなくなるようなところがやってきます。同時にそれはその中心である私(わたくし)意識というエゴ意識も活動しなくなっていく時があって、いわば幕間(まくま)が変わるように全く別次元の様子というか、別次元のものがそこに訪れることになるんです。
本当の私というものが顕れる、それが見るものであって、その時にはじめて心は見られているものである、見る者によって見られているものであるということが客観的に分かる。そうすると心で思っていた私というものが、いわば本当の私を騙って(かたって)いたというか錯覚をしていた、間違っていた、本当の私がその奥に在るにもかかわらず、心がそれを主張していたというふうに改められる。それが見る者と見られる者の関係になるわけです。
だから、ヨーガは徹底的に真実というものが何なのかということを探求する智慧でもあるし、その道でもあるわけですけれども、その本当の私というものが知られた時には、知られるというよりは本当の私になった時には、それは、もはや本当は私という言葉もいらない。もうあなたもいらない。なぜなら、それだけしかないんですね。それは名付けようのない存在なんです。しかし、それだけがリアリティとしてね、実存として在る。それだけが本当は在る」

心の作用を止滅することがヨーガであると『ヨーガ・スートラ』にもありますが、心の中心にあるエゴ意識が活動しなくなっていくと、本当の私が顕れてくる、それが本来の自己である「見る者」であると、師は分かりやすく教えてくださいました。

師「この世界には、さまざまな出来事、経験、見るもの、聞くもの、すべては心がつくり出した、いわば夢のような世界のように理解されることになります。それでも夢の中では、それが現実だと思ってみんな夢の中で楽しかったり苦しんだり、びっくりしたりとか、いろんな冒険をしているわけですけどね。それがこの現実の世界ということにもなるわけです。だからやっぱり本当の見る者という存在、これを知ること、それになることがとっても大事なことです。
心は見られているものであるということを瞑想の時には思い起こしてください。なぜなら今でもそうだけれども、心というものを見た時、心って見えるでしょう?心が何を思っているかとか、心を知ることができるでしょう?『誰が知っているんですか?』って、『はい、私』とは言わないけれど、その本当の私というものはそこに在るという確実な証拠なんですよ。
でもついつい習慣的に心が心を見ているとか言ってしまいがちですけれども、それは大いなる錯覚なんですよ。なぜかというと、そこには時間のずれが起こっていますから。一瞬ということは、一説によれば六百分の一秒とか、もっとミクロの時間単位のことを一瞬といいます。一秒にも満たないんです。その一瞬の心の働きを一体どうやってその心が把握することができるのか、心は自分を二つに分けることができるのかといえば、できないです。でも心は心を知っているというのは、時間のずれによって『こう考えた』とか『ああ考えた』とか『こう思った』『こう感じた』という過去の心の働きを記憶しているにすぎない。これが厳密なヨーガの心理学でもあります。だから見る者というものは常に変わらずそこに在りますし、すべてを知っているし、すべてを見ています。神と一緒でしょう?だからその存在というのは神とも呼ばれるわけです」

見る者とは、私たちのことをすべて知っている意識、私たちと共にいつも在る意識、私たちはいつも神と共にあったのだ。そして私たちは神であったのだ。師の教えは本当に私たちに平安と勇気と感謝をもたらせてくださいます。その存在こそが本当の自分である、その見る者に留まり続けること、それがヨーガである。『ヨーガ・スートラ』を深く理解することのできたサットサンガでした。

ダルミニー


サットサンガより 今を生きる

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

みなさん こんにちは
桜も早々と葉桜となってしまいましたね。でも今度は、色とりどりのハナミズキが私たちの目を楽しませてくれています。移り変わる季節のように、この世の中も常に変化し続けています。変わることのない、永遠の真理を求める求道者たちが、この日も集まり、サットサンガが行なわれました。

仕事をする上で、また日常の中で、いろいろな問題が起こってきます。過去の失敗に執らわれて萎縮してしまったり、不安を感じたり、その環境に居心地の悪さを感じてしまう時には、どうしたらいいのかという質問がありました。
師「これも一つのヨーガを深め、進めていく大事なところなんですけれども、ヨーガが考えている時間論というのがあるんですよ。時間というのは普通、流れているように、つながっているように見えているかもしれないけれど、実はそうではない。それは心の錯覚であると。あるのは、その一瞬一瞬のつながりにすぎない。つながってはいない。その一瞬前に過ぎ去ったことと今の一瞬が同じものをもっているから、つながっているように見えるだけ。だからやがて来る未来的一瞬にしても、今の一瞬と未来的一瞬のニュアンスが似ているかのような錯覚を起こしてしまうからつながっているように見えるだけで、実は全く独立している。
瞬間瞬間は独立しているという考え方なんです。だから時間なんていうのはない。時間は単に心が造り出した幻想にすぎないというのが、私の考え方です。つまりヨーガの考え方なんです。
ということはね、グナというヨーガの考え方があるでしょう?このサットヴァとラジャスとタマスというグナによって万物、それから世界、すべての宇宙すらもが活動している。このグナの三つ巴になったような様子というものが、一瞬一瞬激しいダイナミックな動きをしている。つまりラジャスの力によって、激しい変化の連続にすぎない、だから一瞬というものをとってみれば、この一瞬とちょっと前の一瞬とこれから来る一瞬とは、全くそのグナの様相が違うということがいえるわけです。
でもこれはものすごいヒントなんですよ。つまりもう過去はない、ね、つながっていないんだから、ないんだと。未来もこれもまた、未来に思いを馳せれば、これは取り越し苦労とか心配性とか鬱とか、やがて病気の名前を付けていくようになるわけでね、これも幻想なわけです。あるのは、今のこの一瞬だけ。これが済んだとしても、次に来ているこの一瞬だけ。つまり一瞬一瞬、この目の前のこの一瞬だけしか勝負できない。
ということは、この一瞬において、心を心機一転させることができる。これをやっぱり訓練していかないとだめ。過去は今言ったように時間論的にみてもないんだから、記憶というのも同じこと。その時間というこの装置に育まれた単なるメモリー。だからそんなものは、もうセンチメンタルに、感傷的になる必要はない。
いいも悪いも、あるのは今だけ。だから今を良くしていくこと。だからヨーガ・スートラには『無くすべきは未来の苦である』という名文がある。未来の苦を無くすには、今を良くするしかないわけですよ。今が未来を作るわけだからね。だからこそ、これはできるの。変化は作れる」

時間は単に心が作り出した幻想にすぎない、時間論的にみれば過去はない、ただ今を良くしていくだけであると、師は説かれます。思えば時間とは一体どんなものなのでしょうか。たったの五分しかない時もあれば、この上もなく長い五分もあるわけで、時間は完全に私たちの心の状態に依存しています。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは『ギャーナ・ヨーガ』の中で、「すべての奮闘努力は、常に我々の道の障害物である、時間、空間及び因果律へのこの強い執着から脱するためである」と説かれています。

質問者「カルマとかの過去とか過去生は時間的にはどういうことになるんですか」
師「カルマというのは、やはり心が無知に覆われた中で活動をしているわけで、だから幻想的時間というものも設定されているわけです。つまりカルマも時間と空間とその因果律によって構成されるわけですね。だから真実から見れば……カルマも幻想なんですけどね、カルマなんて本当は無い。カルマも無ければ、無知も本当はない。それは真実から見た場合はもう全くそうなる!ただ心がその真理を見られなくて、無知に覆われてしまっているから、そういう幻想的空間に放り込まれてしまって、その中で活動を右往左往しているというような滑稽な状況なんです」
質問者「ということは心が空間も時間も因果律もカルマも造って……。自分たちで造ったものを自分たちで一所懸命理解してということをやっている」
師「そう!一人芝居(笑)。究極の一人芝居」

師の教え、ヨーガの教えによって、この世界の謎が一つずつ解き明かされていきます。ただ今をより良くしていく、この単純なことを素直に行為していくこと、それがこの夢の世界から目覚め、カルマから解き放たれる、永遠の真理へ続く道なのだと思いました。

ダルミニー


ブッダ 梵天勧請

みなさん こんにちは

前回のブログにもありましたが、私たちの師は、台湾のグルバイの熱意に答えられ、3月22日に台湾ご訪問の旅に出られます。師の教えがどれだけ多くの人々の苦しみを救っているのか想像もつきません。こうやって世界のあちこちに真実の光が届けられている今の時代に、共に生まれてくることができたことに深く感謝し、師の台湾ご訪問をお祝いいたします。

さて、四月八日のブッダの御聖誕日を控え、そのお誕生をお祝いし、久しぶりに本願寺出版社の「ブッダ」よりご紹介したいと思います。

 

完全なる解脱に至る法を見出すまでこの坐を動かない。
そう決意して、沙門ガウタマはアシュヴァッタ樹の下に坐を組んだ。生と死、苦の根源へと思いを深め、徹底的に苦の原因をみきわめ、本質を暴き出す、沙門ガウタマ。
明け方近く、沙門は静かな瞑想の中で完全なる解脱に至る道を見出した。それからガウタマは七日間、瞑想を続けた。
これから何をすればいいのだろうか。
「速やかに涅槃に入るがいい。シャカ族の王の子よ」「お前は完全な解脱への道を得た。お前の願いは満たされた。もう娑婆にいる必要はない」マーラの声が虚空から聞こえてきた。
この法は世の中の常識からかけ離れすぎている。誤解され、かえって人を惑わし、迷いを深める原因になってしまったなら、それは本意ではない。ガウタマの心は沈黙を守ることに傾き始めていた。
このままではいけないと梵天は急いで天空から降り立った。「ブッダよ。あなたは完全な解脱への道を得られた。どうか、その法をこの世の生きとし生けるものに説いていただきたい」
ブッダはしばし沈思し、静かに現世を見回した。たしかに梵天の言うとおり、この世にはさまざまなものが生きている。法を聞いて共感し、理解するものもいるかもしれない。しかし、それは本当にわずかな人々だろう。しかも解脱に至るのは容易ではない、堅固な意志とひたむきな精進が必要だ。
「ブッダよ。ほんの少しでも望みがあるなら、あなたはこの法を説くべきだ。この世に生きるものたちは迷い、苦しんでいる。それを教えるのが、あなたの得た道ではないか。そうであるならば、ブッダよ。あなたはどんな困難があろうと法を説くべきではないか」
沈黙のあと、ブッダの口元に慈悲にあふれた微笑が浮かんだ。
私は法を説こう。ブッダの耳に歓喜の声が届いた。ブッダは座を解き、ゆっくりと立ち上がった。清浄な光が射して、ブッダの歩く道を明るく輝かせた。

梵天様の説得がなかったら、そしてブッダの慈悲の思いがなかったら、今のこの世の中はどうなっていたのでしょうか。時空を超え、私たちはブッダから、そして私たちの師から、苦を滅する道を授けられ、この暗闇の世界の中、まっすぐに光に向かって歩んでいる実感があります。この幸運をどう表現したらいいのでしょうか。このご恩を、身をもってお返ししたい、ブッダや師を見倣い、真実を見続け、実現したいと願うのです。

シュリー・ラーマクリシュナは、私たちを苦しみから救うべく顕れた神の化身についてこうおっしゃっています。

ダッタートレヤやジャダバラタのような賢者たちは、ブラッマンのヴィジョンを得た後、相対界には戻って来なかったといわれている。ある人々によるとシュカデヴァはブラッマン意識のあの大海の、たった一滴を味わっただけだそうだ。彼はあの大海の波を見、かつその轟音を聞いた。しかしその中に潜りはしなかった。高い塀の向こうに無限の原野があった。四人の友達が、塀の向こうに何があるかを見たいと思った。その中の三人は、次々と塀をよじ登り、原野を見ると大声で笑い、向こう側に転げ落ちた。この三人はまったく、その原野について情報を伝えることができなかった。第四の男だけが帰ってきて人々にその情報を話して聞かせた。彼は、他の人々を教えるためにブラッマジュニヤーナを得た後にも、自分の肉体を保持する人々に似ている。神の化身はこの類に属する人々である。

私たちのために戻ってこられた神の化身の方々、そのことを私たちはどれだけ理解できているのでしょうか。みなさんだったら塀の向こうに行ってしまいますか?自分のためではなく、他者のためだけに生きる神の化身の生き方を見倣って生きていきたいと思いました。

ダルミニー


ラーマクリシュナの福音

みなさん、こんにちは
もうすぐ桜の季節ですね。桜といえば、「花祭り」、四月八日はブッダの御聖誕日です。ブッダはインド北部のルンビニ園でお生まれになりました。そこはたくさんの花に囲まれた美しいところであったということで、御聖誕日にお花をお供えするようになり「花祭り」と呼ばれるようになったといわれています。そしてその日は、「サナータナ・ダルマ アヴァターラ・メーラー 神性示現大祭」がプレーマ・アーシュラマで開催されます。アヴァターラとは神の化身、神人であります。この世で苦しんでいる私たちの救世主として、慈悲深くもこの世に顕れてくださいました。その時代時代に顕れた神の化身の方々の顕れをお祝いする大祭です。このお歓びの日が待ち遠しいですね。

 

さて今日も「ラーマクリシュナの福音」からご紹介いたします。

ある日の土曜日、Mがダクシネシュワルに着いたのは朝八時ごろだった。シュリー・ラーマクリシュナは自室の小さい寝台の上に座っておられた。床に数人の信者が坐っている。
ラーマクリシュナ「お前は巡礼に出るつもりなのか」
ゴパール「はい、少し遍歴してまいりたいと思います」
ラーム「師は、人はさまざまな聖地を訪れるサドゥーであった後に、旅への願望が十分に満たされると、一カ所に坐っているサドゥーになるのだとおっしゃっています」
ラーマクリシュナ「神は『そこに』おいでだと感じるあいだは、その人は無知だ。しかし神は『ここに』おいでだと感じると知識を得るのだ。ある男がタバコを吸いたいと思った。炭に火を付けてもらおうと隣の家を訪れた。真夜中のことで家人はもう眠っていた。さんざん戸を叩いた後、誰かが出てきて扉を開けた。そして、『おや、どうしたのか』と尋ねた。『分からないかね、私のタバコ好きは君も知っているだろう。火をもらいにきたのだよ』と男が言うと、隣人は『ハハハ!君はまったくりっぱな御仁だ。わざわざここまでやってきて、戸を叩いて。まぁ、自分の手に火のついたランプをさげているではないか』と言ったという。(みな笑う)人が探し求めるものは彼のすぐそばにあるのだ。それでも彼は、ここかしこさまよい歩くのだよ」 

現代でも「自分探しの旅に出る」という人の話をよく聞きます。そして私たちも長い心の旅を続けてきました。旅に出て、どこまで本当の自分を知ることができたのでしょうか。本当の幸せや自由はそれによって得ることができたのでしょうか。旅の終わりに私たちはヨーガと生涯の師に出会うのだと思いました。ヨーガは真実を実現させるもの、自分自身に内在する本当の自己を目覚めさせるものであると師から教えていただいています。 

真実を知った存在がインドには連綿と顕れてきました。そして彼らの達した、あるいは彼らが目覚めた真実の証言はこうです。『かつて、この全宇宙の背後にあって、偉大なる存在として昔から求められていたものと、この体の中にあって、私という真実の存在とは同じである』。その真実は言葉も届きませんし、形もありません。神という言葉さえ届きません。言えることは、それは『ただ在る』というものです。それだけがリアリティです。それがあなたです。真実は既に私たちの中に在ります。ただちょっと心がそれを覆い隠して邪魔をしているようなものです。無知という暗闇を払い除けなければいけない。そうすれば、もう既に在る真実は独りでに輝くでしょう。

               サット・グル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

本当の自分、本当の幸せや自由はここかしこを探さなくても、もう既に自分の中にある。それを思い出すために私たちは生まれてきたのだ。この教えがどれだけ、私たちを勇気づけ、前に進ませてくれていることでしょう。

時空を超え、真実の教えに触れる、このありがたさ。
人間の魂を揺さぶり、目覚めさせる、神の化身(アヴァターラ)に勝利あれ! 

ダルミニー


ラーマクリシュナの福音

みなさん こんにちは
もうすぐシュリー・ラーマクリシュナの御聖誕日です。

近代のインド最大の聖者と仰がれる、シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサは1836年2月18日に、インド西ベンガル地方のカーマールプクルにお生まれになりました。幼い頃より、高い霊的ムードに没入していた彼は、やがて最愛の聖母神カーリーを見神します。その後すべてのヨーガを実践、不二一元を大悟し、イスラム教やキリスト教も悟り、「万教は一なる真理への多様な道である」ことを説かれました。慈愛に満ちた神の化身によって顕わされた永遠普遍の真理は、愛弟子ヴィヴェーカーナンダによって世界中に福音となっていったのです。


シュリー・ラーマクリシュナ

シュリー・ラーマクリシュナは福音の中で、微笑しながら、少しどもってお話しになったり、若い男の子たちと友達のように大はしゃぎされたり、腹を抱えるほど爆笑されたり、歌を歌いつつサマーディーにお入りになったり、分かりやすい例え話を挟んで、さまざまなグルの面を弟子たちや訪問者にお見せになりながら、神の話をなさっています。

そしてシュリー・ラーマクリシュナはグルの恩寵について、こう説かれています。
「人には八つの足かせがある。しかしそれが何だというのだ。これらの足かせは神の恩寵によって一瞬のうちに落ちてしまうのだよ。それがどういうものか分かるか。ある部屋が一千年の間、真っ暗だったとする。誰かが灯火を持ち込んだら、その瞬間に闇は消えるのだ。少しずつではない。お前、魔法の早業を見たことはないか。彼はたくさんの結び目のあるひもを手にしている。その一方の端をなにかに結びつけ、他の一方を自分が持つ。そして二、三回そのひもを振り回す。するとたちまちすべての結び目は解けてしまうのだ。しかし別の男がどんなに試みても、それらの結び目を解くことはできない。無知というすべての結び目はグルの恩寵によって瞬く間に解けるのだ」

インドでは生涯をかけてグルを探し出すといわれています。グルと巡り会うことは本当に希有な吉祥な縁ゆえだといわれています。『ラーマクリシュナの福音』の筆者であるM(マヘンドラナート・グプタ)は、初めて自分のグルであるシュリー・ラーマクリシュナに出会った時のことをこう書いています。

「なんという美しいところだろう! なんという魅力のある人だろう! なんという素晴らしいことを言うのだろう! もうここから動きたくない!」

聖者との出会いは、人がその意味を知ろうと知るまいと、その人の心に神聖な印象を残します。
みなさんも師との出会いの時を思い出されましたか?
『ラーマクリシュナの福音』の中には、師と弟子の美しい物語もまた繰り広げられていると思います。ここでシュリー・ラーマクリシュナの弟子の中でも、そしてラーマクリシュナ僧団の中でも、スワミ・ヴィヴェーカーナンダと双璧をなした人物、スワミ・ブラマーナンダが残した祈りの言葉をご紹介いたします。

「私は主に、物質界の意識から完全に解放してくださいと祈ります。グルの蓮華の御足の中に浸りきりでいられますよう、どうぞお恵みください。これが心中の、たった一つの願いです」

 グルこそすべて!

ジャイ シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサ キー ジャイ

ダルミニー

 


ラーマクリシュナの福音

みなさん、こんにちは
今年はいつにも増して寒さが厳しいように思いますが、いかがお過ごしでしょうか。
もう一月も終わりですね。一月は睦月といいますが、これはお正月に家族とか親類が集まり、睦み合う、親しくする、仲良するという意味で「睦み月」が「むつき」になったという謂われがあるそうです。なんともいい響きで優しい心持ちになりますね。

さて、今日も「ラーマクリシュナの福音」よりご紹介いたします。

冬であった。太陽は昇ったばかりで、河は上げ潮で北に流れていた。朝八時、シュリー・ラーマクリシュナとM(マヘンドラナート・グプタ)は境内北端の松林で話し合っていた。
ラーマクリシュナ「ナングターがトラとヤギの話をしてくれた。ある時、雌のトラがヤギの一群を襲った。漁師が遠くからそれを見て、彼女を撃ち殺した。トラは妊娠していて、いまわの際に子トラを産み落とした。子トラはヤギの仲間に入って成長した。最初は雌ヤギの乳を飲み、メエメエと鳴いた。徐々に子トラは大きなトラになったのだが、相変わらず草を食い、メエメエと鳴いていた。ある日、恐ろしいトラがこの群れを襲った。群れの中に、トラが一匹、草を食い、自分が近づくとヤギたちと一緒に逃げるのを見て驚いた。このトラは草を食べているトラを捕まえ、水辺まで引っ張っていき『さあ、水に映っている自分の顔を見てごらん。ね、お前も私と全く同じ丸いトラの顔をもっているだろう』と言った。次に、一片の肉をその口に押し込んだ、草を食ってきたトラは肉を食うことを拒んだが、やがてそれをうまいと思った。恐ろしいトラは『なんと恥ずかしいことだ、ヤギと一緒に草を食べていたとは』と言った。するとそのトラも本当にそれを恥ずかしいことだと思ったという。
草を食い、メエメエと鳴くというのは、『女と金』を楽しみ、普通の人間のように振る舞うということだ。新しいトラと共にそこを去るのは、自分の霊意識を目覚めさせてくれるグルと共に避難し、彼のみを我が身内と見るというのに似ている。自分の顔を正しく見るというのは、自分の真の自己を知ることである」

 シュリー・ラーマクリシュナの例え話はとても分かりやすいですね。ついつい話に引き込まれてしまいます。私たちは自分のことをこの身体や心だと思っています。ヤギだと思っているんですよね。でも、私たちはこの身体でも心でもない、その奥にある純粋な意識、絶対不滅の存在だと、師はいつも私たちを励まし、導いてくださっています。

心は常に動揺し、それによってまた心はかき乱されます。真理を学ぶことによって、真理への熱望によって心の波を静めてください。その状態が堅固に持続するなら、その時あなたは真実の自己に目が覚めるでしょう。
                                                            サット・グル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

真理を学び、ヤギではなく、トラとして一緒に生きていこうではありませんか。

ダルミニー