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十二因縁(十二縁起)

師と過ごした台湾での夜、私は原因、原因を探求していくブッダの十二因縁の瞑想の必要性を感じた。(前回のブログ「集」はこちら
では、「十二因縁(十二縁起)」とは一体どういうものなのか?
それは、老いや死をはじめとする一切の苦しみが起こる原因のプロセスを、根本原因である無知にまで遡っている。

無明…真実を知らず、永遠・絶対でないものを永遠・絶対だと見なす根源的な無知。
…自我意識や執着を生み出す元となる、無意識のうちにある潜在的傾向、サンスカーラ。
…自我と他者を区別し、外界を認識する意識。
名色…名前と形という、区別・差別を生み出す微妙な要素。
六処…視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚という5つの感覚機能と思いの働き。
…感覚や思いを通じた外界との接触。
…外界の対象を感じ取ること、感受。
…欲望の対象を渇望・渇愛すること。
…欲望の対象を取ろうと執着すること。
…カルマをもって輪廻する煩悩的存在。
…生まれること。
老死… 老いと死をはじめとする一切の苦しみ。

見慣れない仏教用語が並び、十二の意味を理解するだけでも難解に感じるが、この十二因縁を知的に理解している人は学者をはじめ、仏教者にも少なからずいるだろう。
ただ、どれだけの人が実際に十二因縁の瞑想を行ない、本当の意味を理解しているだろうか?
台湾での夜、師は「知的理解」と「体験的理解」の違いを次のようにおっしゃられた。

ゴーパーラ「十二因縁の公式を、心に当てはめながら見ていってもいいんですか」
ヨギ「それを単なる知的理解で終わらせてはいけない。自分の心を材料にして、自分の心はそれに対してどのような反応を示すか――自分の心がその十二因縁のリアルな体現者となったように順次、十二の原因を遡っていくというのかな」
ゴーパーラ「リアルな疑似体験というか、そういうように進めていく」
ヨギ「本当は疑似体験じゃない。自分の心を材料にするから、(強調されて)直接体験やで、これはほんまは。それを直接体験と思えるぐらい切迫した、心に切迫させていかないといけない。そうでないと知的理解という疑似体験に終わってしまう」
ゴーパーラ「それは言い聞かせのレベルとは全く違う」
ヨギ「言い聞かせじゃない。その原因をしっかり理解すること。単なる言い聞かせはいらない。(強調されて)しっかりと理解すること。それは心そのものが変わっていく。それが直接体験の効果というか結果というふうになっていくはず」

私は小さい頃からずっと執らわれている欲望があった。
台湾の夜から私は十二因縁について考えを巡らせていたのだが、瞑想中にその執らわれている欲望が湧き出てくることがあった。
するとその瞬間、名と形が形成され、そこに手が伸びてつかみにかかり、その対象を渇愛する心の動きが感じられた。
それは一瞬の出来事だった。
この十二因縁とは生死の輪廻という大きなスパンの構図だと理解していたが、一瞬の思いの中にも十二の要素すべてが詰まっているようにも感じられた。
私自身、今まで行なっていた識別瞑想では、欲望やその対象に対して、「それは永遠ではない、絶対ではない」というふうに真理をあてがっていた。
その効果として欲望への執着は薄らいでいたが、まだ完全に消えてはいなかった。
だが、この十二因縁の構図でもって欲望を分解していった時、何か咀嚼しやすい感覚があった。
それは、心の中で欲望の消化が促進されるような新たな実感であった。

そして台湾から帰国して約2週間後の4月7日、ブッダ御聖誕日の前日にサットサンガが開かれた。
私は実践した十二因縁の瞑想について師に確認した。
師は、「それは心が造り出す条件下の構造そのものを明らかにするという意味において、その十二個を辿っていくということは有意義」と言われた。
しかしながら師は、それよりも「もっと大事なことがある」と示されたのだった。
(続く)

ゴーパーラ


*老いや死のような一切の苦しみ(老死)は生まれたこと(生)に原因があり、生まれたことはカルマによって輪廻する煩悩的存在(有)に原因があり、その輪廻的存在はさまざまなものを取ろうと執着すること(取)に原因があり、執着は欲望の対象を渇望すること(愛)に原因があり、渇望は対象を感じ取ること(受)に原因があり、対象を感じ取ることは外部との接触(触)に原因があり、接触は視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚・思いの六つの感覚機能があること(六処)を原因とし、六つの感覚機能は名前と形(名色)という微妙な想念があるために起こり、名前と形は自分と他者を分けることで外界を認識する意識(識)を原因としながら、名前・形とその外界意識は相互に依存して成り立っている。また自他を区別して外に向かうその意識はサンスカーラという無意識の潜在的傾向(行)を原因とし、潜在的傾向は永遠でないものを永遠と見、自己でないものを自己と見る無知(無明)に原因する。これら十二の因果をまとめると以下のようになる。(原因<結果、で示す)
無明<行<識><名色<六処<触<受<愛<取<有<生<老死

 


集(原因)

渇望――それは、喉が渇いて水を求めるように、激しく執着すること。
仏教の教えでは十二因縁の中に含まれていて、執着の原因である。
しかし師は台北での夜、「のたうちまわるほどの切羽詰まった真理への渇望」を説かれた。(前回のブログはこちら⇒「渇望(タンハー)」

ブッダは身的苦行を棄て、瞑想によって生死の原因である欲望への執着を見つけ、またさらなる原因のサンスカーラ、そして大原因の無知を暴き出し、悟りを実現した。
後にその因果の理は「十二因縁」として体系づけられた。
では、どうしてブッダはその内的探求が可能だったのだろうか?
通常、人は原因を外に見たり、たとえ内に見たとしても、無知という大原因まで辿り着くことは到底不可能のように感じられてしまう。
事実、ブッダ以前にカルマの因果論は見つけられていたが、カルマの原因である執着とその根本原因の無知は見つけられていなかった。
私は師に問うた、「ブッダのように原因、さらなる原因を探求するには、どうしたらいいのでしょうか」
師は次のように応えられた。

「気付くこともいっぱいあると思うけれど、そこで断定しないこと」

何の変哲もない言葉かもしれない、しかし私はそれを聞いた瞬間、直観的にその教えの深みが感じられた。
「断定しないこと」、それは自分の修行や行為、どれにも当てはまると感じられた。
例えば、日常の実践について。
何年か前、私はミラバイさんから「洋平君(当時の名前)は日常が大事って言っているけれど、それってどういうこと?」と尋ねられたことがあった。
その時私は、「サットヴァ(快活)に行為していくことかな」と答えた。
自分自身この数年、日常生活で軽快に動くことを意識的に取り組んでいた。
しかしながら最近ミラバイさんと話していると、「日常の実践とは心の波を静めること、つまり内的な軽快さがそれである」と暗に教えていただくことがあった。
振り返ってみると数年前、ミラバイさんはそのことを私に教えてくれていた。
にもかかわらず、自分の実践やサットヴァの理解を疑わなかった。
つまり、「断定」していたのだ。

人は自分の心のフィルターという色眼鏡を通して物事を見て、判断して生きている。
さまざまなものを付加しているのである。

「付加条件とは、すべて。環境や性別、年齢、経験、それらをすべて外していく。眼鏡が曇っていることはヴェーダーンタで説かれていること。でもそれを実際に外さないといけない。それがヨーガ全体の実践」

師は実際に眼鏡を外すジェスチャーをして、そのように言われた。
私はこの師の一言で、ヴィヴェーカーナンダが「プラティカル・ヴェーダーンタ」という言葉を使っている意味が理解された。

「これではない、これではない……」

原因、原因を見ていきたい――私は「十二因縁」の瞑想が必要だと感じた。
窓から見える台北101のライトアップは消えていた。

(続く)

 

ゴーパーラ


渇望(タンハー)

「アッ、アイスコーヒー!」

私は台湾で開かれるサットサンガに参加するため、早朝に日本を発ち、バスと地下鉄を乗り継いで直接、会場のジョイフルリビングに向かっていた。
3月後半にもかかわらず、南国の台湾は暑く、汗が止まらなかった。
普段は夏でもアイスコーヒーはめったに飲まない。
でも私は思わず、会場近くのカフェでアイスコーヒーをオーダーした。
私の喉は、冷たいアイスコーヒーを渇望していたのだ。

サットサンガに参加し、台湾グルバイと交流した後、師の滞在している宿に着いた。
ミラバイさんが夕食のカレーを準備してくださっていて、皆でいただいた。
宿にはミラバイさんの他、ニューヨークからアーナンダマーリーさん、また前日から一緒に住んでいるラームダースも京都から来ていた。
食後は師の淹れる極上のドリップコーヒーをいただき、至福のひと時を満喫。
リラックスした中、会話は自然とサットサンガのようになっていった。
約2週間後に春の祝祭が行なわれることもあり、その内容は「ブッダ」についてであった。
ブッダが最初に説いた教えは「苦集滅道」であったといわれている。
感情を挟まず心の苦しみを観察し(苦)、その原因を瞑想によって見極め(集)、執らわれを無くし(滅)、実生活でその無執着を実行する(道)――
このブッダの苦集滅道の教えを、時代を超えて私も実践していた。
その結果、心の執着は弱まり、真理への思いが高まっていた。
しかし、どこか深まりが足りないということも感じていた。
この夜、苦集滅道の「感情を挟まずに心の苦しみを観察すること(苦)」に関して、師は次のように強くおっしゃられた。

ラームダース「瞑想を深めていく時に、まず止観というのが大切ですよね。何の思い込みも挟まずに、とにかく観察を続けていくことで、どんどん原因の部分に深く入っていくというか」
ヨギ「そうできたら。誰が止観しているのか? 一方では心やろ。もう一方では心を見るわけやろ。それは矛盾した話やん。同じ一つの心が二つのことはできない。だからそんな悠長な止観みたいなものはできない。もっと苦しみながらと言ってもおかしいけれども、のたうち回るくらいの切羽詰まった直接的な体験をしないとだめ」
ゴーパーラ「何の感情も挟まずに心を見ることが大事だと先輩から教わったのですが、そんなの無理?」
ヨギ「感情挟んだらええねん。もっと感情挟んだらええねや」
ゴーパーラ「のたうち回るぐらい」
ヨギ「そうや。感情が無くなるというのは、全部終了して初めて無くなるんやから。それまではついて回ってるんやから。心の働きそのものが思考とか感情とか、そういうものによって成り立っているわけやから、それを無くすなんていうことははっきり言って不可能や。だからもう一方では、必死になるとか言うやんか。それは、のたうち回るっていうことやで。格好もクソもないねん」

確かにそうだ、病気の正確な診断ができるのは優れた医者だけである。
患者が患者自身の病気を冷静に診断し、治療することなんてできない。
病気に絶望し、病気を治したい、健康な状態に戻りたいという強い思いが患者自身から湧き出てこない限り、医者を探すことはもちろん、治療やリハビリは不可能だ。
私は、はっきりと自分に足りないものが感じられた。
それは、のたうち回るくらい切迫感をもって真理を求めるということ!
そうでないと苦しみは完全に滅しない。
薬をちょこちょこ飲んでももう意味がないのだ!
師は、さらにこう言われた。

「のたうち回わるというのはタンハー。渇望を伴いながらもがくとかね。もがくというのは、単純な話はほら、修行者が水の中に頭をつけられて息ができひん、もがくやんか。何がしたいんやって、息がしたいだけやて。まさに水の中に頭突っ込まれたあの状況や」

(続く)

ゴーパーラ


ブッダ 梵天勧請

みなさん こんにちは

前回のブログにもありましたが、私たちの師は、台湾のグルバイの熱意に答えられ、3月22日に台湾ご訪問の旅に出られます。師の教えがどれだけ多くの人々の苦しみを救っているのか想像もつきません。こうやって世界のあちこちに真実の光が届けられている今の時代に、共に生まれてくることができたことに深く感謝し、師の台湾ご訪問をお祝いいたします。

さて、四月八日のブッダの御聖誕日を控え、そのお誕生をお祝いし、久しぶりに本願寺出版社の「ブッダ」よりご紹介したいと思います。

 

完全なる解脱に至る法を見出すまでこの坐を動かない。
そう決意して、沙門ガウタマはアシュヴァッタ樹の下に坐を組んだ。生と死、苦の根源へと思いを深め、徹底的に苦の原因をみきわめ、本質を暴き出す、沙門ガウタマ。
明け方近く、沙門は静かな瞑想の中で完全なる解脱に至る道を見出した。それからガウタマは七日間、瞑想を続けた。
これから何をすればいいのだろうか。
「速やかに涅槃に入るがいい。シャカ族の王の子よ」「お前は完全な解脱への道を得た。お前の願いは満たされた。もう娑婆にいる必要はない」マーラの声が虚空から聞こえてきた。
この法は世の中の常識からかけ離れすぎている。誤解され、かえって人を惑わし、迷いを深める原因になってしまったなら、それは本意ではない。ガウタマの心は沈黙を守ることに傾き始めていた。
このままではいけないと梵天は急いで天空から降り立った。「ブッダよ。あなたは完全な解脱への道を得られた。どうか、その法をこの世の生きとし生けるものに説いていただきたい」
ブッダはしばし沈思し、静かに現世を見回した。たしかに梵天の言うとおり、この世にはさまざまなものが生きている。法を聞いて共感し、理解するものもいるかもしれない。しかし、それは本当にわずかな人々だろう。しかも解脱に至るのは容易ではない、堅固な意志とひたむきな精進が必要だ。
「ブッダよ。ほんの少しでも望みがあるなら、あなたはこの法を説くべきだ。この世に生きるものたちは迷い、苦しんでいる。それを教えるのが、あなたの得た道ではないか。そうであるならば、ブッダよ。あなたはどんな困難があろうと法を説くべきではないか」
沈黙のあと、ブッダの口元に慈悲にあふれた微笑が浮かんだ。
私は法を説こう。ブッダの耳に歓喜の声が届いた。ブッダは座を解き、ゆっくりと立ち上がった。清浄な光が射して、ブッダの歩く道を明るく輝かせた。

梵天様の説得がなかったら、そしてブッダの慈悲の思いがなかったら、今のこの世の中はどうなっていたのでしょうか。時空を超え、私たちはブッダから、そして私たちの師から、苦を滅する道を授けられ、この暗闇の世界の中、まっすぐに光に向かって歩んでいる実感があります。この幸運をどう表現したらいいのでしょうか。このご恩を、身をもってお返ししたい、ブッダや師を見倣い、真実を見続け、実現したいと願うのです。

シュリー・ラーマクリシュナは、私たちを苦しみから救うべく顕れた神の化身についてこうおっしゃっています。

ダッタートレヤやジャダバラタのような賢者たちは、ブラッマンのヴィジョンを得た後、相対界には戻って来なかったといわれている。ある人々によるとシュカデヴァはブラッマン意識のあの大海の、たった一滴を味わっただけだそうだ。彼はあの大海の波を見、かつその轟音を聞いた。しかしその中に潜りはしなかった。高い塀の向こうに無限の原野があった。四人の友達が、塀の向こうに何があるかを見たいと思った。その中の三人は、次々と塀をよじ登り、原野を見ると大声で笑い、向こう側に転げ落ちた。この三人はまったく、その原野について情報を伝えることができなかった。第四の男だけが帰ってきて人々にその情報を話して聞かせた。彼は、他の人々を教えるためにブラッマジュニヤーナを得た後にも、自分の肉体を保持する人々に似ている。神の化身はこの類に属する人々である。

私たちのために戻ってこられた神の化身の方々、そのことを私たちはどれだけ理解できているのでしょうか。みなさんだったら塀の向こうに行ってしまいますか?自分のためではなく、他者のためだけに生きる神の化身の生き方を見倣って生きていきたいと思いました。

ダルミニー


ブッダに迫る。

早いものでもう三月。春の気配が一気に増してきて、街はどこかウキウキした感じがします。新しいことを始めるには、いい季節ですね。

私も春から新しいチャレンジを始めました。
ブッダへの瞑想です。

ブッダを全く知らない方はいないと思いますが、私は限りなくそれに近い存在でした。
悟りを開いた仏教の始祖。キリストよりも古い時代の聖者。インドの山奥で修行した人。
正直その程度しか知りませんでした。

ブッダについて学んでいくと、先ずでてくる教えが、諸行無常・一切皆苦ではないでしょうか?
それにしても、なんと身も蓋もない言葉でしょう。
漢字四文字熟語というのもあいまって、私には厳酷でもの凄く陰気な、全く絶望のようなイメージしかありませんでした。
「そんなもの俺には関係ないぜ!!」と若い頃なら息巻いていたかもしれませんが、実際にこの年齢になると身にしみて思い知らされるばかりです。

「欲望を叶えたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、彼は実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。」
「欲望を叶えたいと望み、貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、彼は矢に射られたかのように悩み苦しむ。」

「いちいち言われなくても知ってます!」です。
でも分かっているのに、どうやったって同じ事を繰り返してしまいます。

それほどまでに人間は欲深く、儚いものになおさらのこと執着してしまいます。
ついには追い求めることがロマンだなんて言ったりもして・・・・・・

覚者からすれば馬鹿で愚かな人間も、幸せになりたいと願う気持ちは常に本心からあるのです。
ただ、無知がその純粋な願いを遠ざけ、延々と繰り返し続ける因果の輪から出られないのです。

仏陀は人間の苦しみを本気で真っ正面から考え抜いた人だと思います。
苦しみの種類を見分け、成り立ちを観察し、遂にはその原因と解消法を発見したのです。
でもそれは一般にはとても理解しがたく、簡単には手に入れられない境地でした。

命を賭けて自らを痛めつけ、全てを投げ打って苦行を課してもダメ。諦めて享楽に耽っていながら神頼みだけしていてもダメ。

「慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。」

慈悲喜捨を意味するという解釈もあるようですが、私は先日のサットサンガで師が仰った、四つのヨーガの完成形の心境のように感じました。

この世の理は確かに残酷で、夢も希望もねぇ!かも知れません。でもそれを大前提として認め、受け入れる覚悟をした上で、
実はそこから離れられる術があるのですよ!と諭して廻った。
本当は誰よりも人を愛し、生涯を目の前で苦しむ人に手を差し伸べ続けた、慈悲そのものの人だったのだと感じます。

仏陀よ、私は貴方のハートを理解できていますか?
私はもっと貴方を思い、貴方に迫ります。

二千五百年前、一人の人物が人類の根源的な問題の答えを解き明かした。
しかし仏陀以前にも、幾多の覚者がこの答えを解いていたと言っています。その記しは人類の共通の記憶として現代の私達の魂にも刻まれていると言います。そして瞑想で、その記憶にアクセスすることができるとも。

来月、四月八日は仏陀の聖誕日。そしてMYMの祝祭、サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラーが開催される日です。
それまでに少しでも深く仏陀のハートに迫って行きましょう!!

Caitanya


サットサンガより ブッダの悟り

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

みなさん こんにちは
十二月になりましたね、十二月のことを「しわす」と言いますが、その意味と由来は定かではないそうです。十二月は年が果てる、年果つ、しはす、しわすになったという説もあるそうです。師も走る、師走といわれていますが、私たちの師はいつも泰然とされていますので、本当の意味はどうなのだろうと思ってしまいます。
さて前回のブログにもありましたが、十二月八日はブッダが悟りを啓かれた日でもあるというわけで、今回のサットサンガはブッダについての教えが多くありました。

質問者がブッダの説いた、弦は張りすぎても緩みすぎてもいい音は鳴らないというふうに、弦に例えられる中庸の教えについてふれた時のことです。

師「ブッダが言うところの弦の張り具合というチューニングは、当時行なわれていた一般的な修行、一方には苦行というものがあり、もう一方では犠牲供養という快楽的なものもあり、そのどちらでもない、中道の在り方がある、それは苦行のように身体を痛めつけることではなく、健康な身体と健全な心を養いながら、その中でこそ正しい瞑想が行なわれるということを諭した言葉なんです。中庸、中道といわれるところ、まさしくそれがヨーガの道でもあるわけです。
でも、悟りへのあるいは神への願望というのは強烈でなければならない。また純粋にそれを保っていかなければならない。悟りや神に心が全面的に委ねられてしまえば、四六時中、座っていようが立っていようが、何かをしていようが、いつも神への憧れや悟りへの煮えたぎるような思いがやってきます」

師「ブッダは、当時シッダールタといわれていた時代に六年間の苦行を行なっています。当時は苦行という体系が当たり前のように蔓延していたと思われるので、シッダールタもそれを試み、しかも語られるところによれば、過去にも未来にも現代にも、その当時にも、匹敵する者はないほどの苦行を行なった。
けれども悟れなかった、ということを実証したんです。それで棄てた。
伝説に語られるところによれば、衰弱して骨と皮のような状態になった身体をスジャータという娘のくれた乳粥で身体を回復していくわけです。そこに健全な心の境地というか、そういう閃きが生まれたんだと思う。そして静かに菩提樹の下に座って、そうして悟りを得たと、それが十二月八日のことであったということになります。ブッダは必死に可能な限りの苦行を自らに課せたと語られています」 

師が教えられる煮えたぎるような思いとは、例えばそれはシュリー・ラーマクリシュナが神を見ることができないのであれば、その喉をかき切って死んでしまおうとした思いと同じ。そして例えばそれは慧可が弟子入りを乞うため、達磨大師に切り落とした自分の腕を差し出した思いと同じ。例えばそれは明恵上人が世俗にまみえることなく仏道の志を貫くため、自分の耳をそぎ落とした思いと同じ。身命を顧みない、真実の実現のためへの執念と同じなのだと思いました。 

ブッダの凄まじいまでの悟りへの執念、煮えたぎるような思い、ブッダを語られた師のお言葉が、そこにいる求道者たちのハートに火を付け、燃え上がらせたのを私は感じ、胸が熱くなるのでした。

私たちの心にも、その煮えたぎるような思いがやってきますように。
来年もさらなる飛躍の年となりますように。

ダルミニー

 

 

 


スジャータの施しとブッダの悟り

ブッダは断食の苦行をやめ、村の娘スジャータから乳粥の施しを受け、瞑想の座につきました――

私は20歳の時、このスジャータ村を訪れました。
2500年前、ブッダが生きていた当時と変わっていないであろう田園風景と人々の暮らしがそこにはありました。

あれから13年経った今、私はこのスジャータのエピソードから、「人は何のために生きるのか?」ということを考えさせられます。

ブッダと同じ時代、マハーヴィーラという修行者がいました。
彼は生涯において厳格な戒律に従い、すべての生物に対して細心の注意を払って不殺生を実践し、最後は断食の修行で命を終えたといわれています。
不殺生の究極ともとれるマハーヴィーラの生き様からは、彼が命を懸けて「真理」に向き合っていた凄まじさが伝わってきます。

一方、ブッダは六年間の苦行の末、「健康な体と心を持ち合わせていなければ、悟りを啓くことは不可能だ」として、スジャータから乳粥の施しを受け、瞑想の座につきます。

ブッダとスジャータ。菩提樹の後ろに描かれている5人の修行者はブッダが苦行をやめたことを誹るも、後にサールナートでブッダから最初の説法を授かり(初転法輪)、弟子になったといわれています。

そして、その瞑想においてブッダは次の言葉を言ったといわれています。

「無知の中で100年生きるより、真理の中で1日生きる方がいい」

スジャータの施しとブッダの身体を満たした乳粥、瞑想の座についた大地、風や寒さをしのぐ大きな菩提樹、そしてブッダの大いなる覚悟――

一切が真理実現のために存在しているシーンが思い浮かびます。

12月8日はブッダが悟りを啓かれた日です。

ブッダの心境に思いを馳せ、そしてその偉大なる存在の御足に礼拝します。

ブッダが悟りを啓いた菩提樹。スジャータ村から少し歩いたところにありました。

 

ゴパーラ


理髪師と貴公子

久しぶりに本願寺出版社の「ブッダ」より、その教えをご紹介しています。

理髪師ウパーリが最後の王子の髪を剃り落とすと、七人の王子たちは互いに笑顔を見せ合い、身につけていた宝石の指輪や腕飾りを外し、きらびやかな衣服を脱いで修行者の衣を着た。

 

アーナンダやデーヴァダッタ、アニルッダら、シャカ族の王子たちは髪を剃り落とした後、出家の許しを得るために両親に挨拶をしに引き上げていった。王子たちが去った後、出家を望んでいた理髪師ウパーリは自分の髪を剃り、修行者の衣をつけて、ブッダと弟子たちが滞在している場所を目指した。

「ブッダよ、私は理髪師をしております。王族ではありませんが、どうか、私を出家させてください」
「ウパーリよ。お前が理髪師であろうと王子であろうと、このサンガではなんの意味ももたない。真摯に道を求め修行に励むものであれば、私は喜んでサンガに迎えよう」
ウパーリは長老シャーリプトラに導かれ、出家の手続きを経て正式にサンガの一員となった。 

ほどなくして、シャカ族の七人の王子たちが両親の許しを得てブッダのもとにやってきた。
「お前たちは新参者だ。サンガの先輩たちに作法通りに挨拶をしなさい。それができなければサンガに加わることは許されない」
ブッダにこう言われ、七人の王子たちが次々に挨拶をしていくと、最後にさっきまで理髪師をしていたウパーリが修行僧となって目の前にいる。王子たちは困惑し顔を見合わせた。
「どうした?なにか不都合でもあるのか」
長老が声をかけると、七人の王子たちは首を横に振った。
「なにもございません」
王子たちはウパーリに丁寧に頭を下げ挨拶をした。理髪師と軽んじていた男に礼をするのは屈辱だったが、それに耐えなければ出家はできない。
「見事だ。シャカ族の修行僧は高慢の心に打ち克った」
ブッダはいつになく弾んだ声を上げた。
こうしてシャカ族の王子だった七人の修行僧はブッダのサンガの末席に加えられた。

「ヨーガの福音」の中で、師はブッダの教えについて説かれています。

彼の教えの特徴の一つは「小さな虫も人間もすべては仏性を有した尊い存在であり、一切万物は平等である」というものです。その当時のインドはブラーフマナ(カーストの最高位である僧職階級)が力を握っていた。彼は「ブラーフマナもシュードラ(カーストの最下位の奴隷階級)も違いはない。人は皆、平等である」と最初に言った人です。

インドにはカースト制度という厳しい身分制度があります。その中で生まれ育った王子たちが、奴隷の身分の者に頭を下げるということは、その心に非常な衝撃が起こったことだろうと思いました。それまで常識だと思っていた心の観念は一瞬にして壊され、「人は皆、平等である」という真実を受け入れたのだと思いました。
ヨーガを実践し、師から真実の教えを授かると、心は何かにはっと気付き、目から鱗が落ちるような出来事がたびたび起こります。そのたびに心はこだわりや固有の観念を少しずつ手放していって、真実に目覚めようといるのだと思いました。ブッダのお弟子さんたちも同じようにそうであったに違いないと、彼らのことをとても身近に感じ、そして真実の教えを行為するということが本当に大切なことなのだと知りました。

ダルミニー


大きなエゴ

..

地球のことを思うとエゴの大きさは地球くらいになり、

宇宙を思うと宇宙大になり、

神を思うと神の大きさになります。

自分のことしか思わないと、小さなエゴしかありません。

エゴは悪いものではなく、考え方によっては必要です。

どうせなら大きい方がいい。

サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

 

ブッダは生きとし生けるものすべてのことを慈しみ、大切にしたと言われています。そうすると、そのエゴの大きさは無限大!エゴも無限大になればもはやエゴではないんだなあと、この教えを聞いた時に思いました。自分の悩みに四苦八苦しているというエゴは、本当に小さなエゴなんですね。

サーナンダ


アーナンダのさとり

みなさん、こんにちは

今日もまた本願寺出版社の「ブッダ」をお伝えしたいと思います。

悟りを啓かれてから四十年以上もの間、真実のみを語り、人々に教えを説いてこられたブッダでしたが、ヴァイシャーリーで自らの死期を悟り、アーナンダを伴って最後の旅に出たのでした。

小康状態を保っていた病状はクシナガラで一気に悪化した。「アーナンダよ、私のために床を用意してくれ」アーナンダは言いつけられた通りに沙羅双樹のもとに床を設えた。ブッダは頭を北に向け、右脇を下にして横になった。

その頃、クシナガラに住む遍歴行者のスバドラは声を聞いた。

「今夜、修行者ガウタマが亡くなるだろう」急がなければ、とスバドラは思った。「今、この時を逃せば、私はもう二度と真実の教えを聞くことはできないだろう。修行者ガウタマこそ、私に道を説くことができる唯一の修行完成者にちがいないのだから」こうしてブッダのもとに赴いたスバドラは、ブッダから真実の教えを授かり、最後の直弟子となった。

ブッダは力尽きたようにぐったりと横になっていた。すでに大勢の修行僧が噂を聞きつけて、ブッダの周囲に集まり始めていた。未熟な修行僧たちは嘆きや悲しみを声に出し、体で表していたが、熟達した修行僧は感情を抑えて、無常の真理をかみしめながらブッダを見守っていた。アーナンダはブッダとの別れが辛く、悲しく、声を殺して泣いた。

「やめなさい、アーナンダ。悲しむな、嘆くな。お前にはもう話したはずだ。愛しいもの、好きなものとも別れ、離れ、生存の場所を異にしなければならない。およそ生じたもの、作られたもの、存在するものは壊れ去る。その理から逃れるものはない」

そのあとでブッダはそっとアーナンダに耳打ちをした。

「お前は特に婦人に人気がある。よく気を付けて、慎みなさい」

アーナンダはブッダの言葉をしっかりと脳裏に刻み込んだ。長年の修行の間に聞いたブッダの言葉は、ひとつとして逃がすことなく記憶に残っていた。その言葉のどれもが金色の清浄な輝きを放っている。

ブッダ (26) 

しばらくの沈黙のあと、ブッダは集まった修行僧たちに最後の言葉を告げ、完全なる涅槃に入っていった。

修行僧たちよ、すべての営みはうつろい、過ぎ去っていく。ひとときも怠らず、修行に励みなさい。

 

ブッダの葬儀後、長老たちが集まり、今後の教団運営について話し合った。長老として長らく教団を率いてきたシャーリプトラとマウドガリヤーヤナの二人はすでに亡く、マハーカーシャパが長老のまとめ役となっていた。

「ブッダの教えと戒律がどのようなものであったのか、確認しておかなければならない。無用な混乱を避けるためにも」

教えについては、二十五年間ブッダの側にいたアーナンダにその大役が任ぜられた。悟りを啓いていないアーナンダは、その日までに悟りを啓くよう、マハーカーシャパから言い渡されたのだった。

早く悟りを啓かなければ、大事な役目を充分に果たせない。アーナンダは心を静めてブッダの言葉を思い起こす作業に没頭した。しかし結集前夜になってもアーナンダは悟りを得ることができなかった。自分は至らなかった。けれど、明日は自分ができる精一杯のことをしよう、私には力はなくとも、ブッダの言葉には力があるとアーナンダは思った。

床に就こうと目を閉じた瞬間、ブッダの声が聞こえた。

「アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた」

心に染みこんでくる懐かしい声だ。ブッダよ、アーナンダはこみ上げてくる涙を抑えてつぶやいた。ブッダは常に暖かく見守ってくださった。自分の至らなさで迷惑をかけたし、心を煩わせるばかりだった。けれど、ブッダは大いなる慈悲で包み込んでくださった。

「お前は善いことをしてくれた」

自分は善いことなどひとつもできていない。それでもなおブッダは、お前は善いことをしてくれたと声をかけてくださるのだ。私はもう迷うのはやめよう。ふっと全身から力が抜け、こわばりが取れた。自由な、軽やかな心持ちになった。翌日、アーナンダは大いなる慈悲に包み込まれている喜びを感じながら、清々しい気分で結集の場に立った。

「私はこのように聞きました。ある時、ブッダは……」

スバドラの逸話からは、本当に最後の最後まで、人々の苦を滅するためだけのために、真実を説いておられるブッダの姿が胸に迫ります。さまざまなカーストの弟子たちを平等に見て導いてこられたブッダ、雨の日も風の日も動じることなく托鉢に出られるブッダ、人々の話を真摯に聞き、誠実に教えを説かれるブッダ、いつも穏やかでにこやかに微笑まれるブッダ、二十五年間、ブッダの側にいたアーナンダでしたが、苦しむ人々のため真実を説かれ続けた、血の通った人間ブッダのお姿、いつも愛深く見守ってくださっていた師のお姿そのものが、アーナンダの心の目をひらかせ、悟りへと向かわせたのだと思いました。ブッダは偉大なヨーギーであったと私たちの師は教えてくださっています。時空を超え、ブッダは今も私たちの側にいて、優しく見守り、助けてくださっている、そんな安心感を胸に覚え、私はこの本を読み終えたのでした。

ダルミニー