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アシタ仙人の予言

残暑お見舞い申し上げます。

みなさん、こんにちは、暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。

今回もまたまた本願寺出版社の「ブッダ」をお届けいたします。だんだんブッダが大好きになってきました。今日はブッダ誕生の秘話、登場していただくのはアシタ仙人さんです。

ブッダ (20)

シッダールタがシャカ族の王子として生まれた時、大地は激しく揺れ動き、強い風が吹いて、雲一つない空からは大粒の雨が舞い落ちた。王宮内の庭からは清水が湧き出し、雨がやんだ空では太陽が輝きを増し、風は芳しく、夜になって灯した火はいつになく大きな炎を揺らめかせた。鳥は囀りを、獣は咆哮をやめ、すべての川は静かに流れた。数々の異変に王は困惑し、森に住む吉凶を占うバラモンを呼び寄せた。

「お悦びなさい。王子はご一族の光明です。王子の身に備わったもろもろのしるし、黄金の彩り、光明の輝きからすると、この方は聖者の道を歩まれるなら、大いなる悟りを啓かれるでしょう。世俗に生きられるなら、王の王たる転輪聖王となられるでしょう」

「王子は立派な転輪聖王となる」バラモンの言葉を聞いて、ようやくシュッドーダナ王の心から困惑が消えた。

それはヴァイシャーカ月の満月の夜、プシュヤ星(蟹座)に月が宿る頃、マーヤー王妃が六牙の白象が胎内に宿る夢を見てから十ヶ月後のことだった。

 

 

「どうされたのですか? こんな遅くに」扉の前に立っていたのは聖者として名高いアシタ仙人だった。

「今日は素晴らしい出来事があった」

「それはよろしゅうございました」笑顔で言いながら、聖者の甥はいぶかしく思った。アシタ仙人の顔は歓びに輝いてはいない。憂いに満ちた表情をしていた。

「今日はシャカ族の王、シュッドーダナの宮殿を尋ねたのだ。神々がそこに一人の子が生まれたと騒ぎ立てていたからだ。私はそこでついにブッダ(覚者)となるべき方にお会いした」

「赤子が覚者なのですか」

「将来、覚者になられるのだ。世の生きとし生けるものの苦を滅し、流転の生に終止符を打つ、偉大な法(ダルマ)に目覚め、説かれるであろう」大きなため息をつき、アシタ仙人は急にまた表情を曇らせた。悲しみの影が差し、今にも目から大粒の涙がこぼれそうだった。

「どうなさったのですか?どうして、そんなに悲しそうな顔をされるのですか」

「………私はもう長くは生きられない。あのお方が覚者となり、苦を滅する法を説かれても私は聞くことができない。それが残念でならないのだ。苦行に励み、一生をかけても私には得られなかった法がどんなものなのか」

アシタ仙人はうつむき、両手で顔を覆った。甥はかすかに震える仙人の肉の薄い背中をただ見守っていた。

「お前はまだ若い。お前はまだ間に合う。あのお方が覚者となられた時、しっかりと法を聞き、身につけるのだ。よいか、これは私の遺言だ」

「承知しました。ところで覚者となられる方のお名前は」

「お名前は……ガウタマ・シッダールタ」

虚空を見つめ仙人の甥ナーラカは、記憶に刻み込むようにその名を繰り返した。

ゴウタマ・シッダールタと

 ブッダの本を読んでいると、その当時の人たちが覚者の出現を待ち望んでいたような、そんな感じを受けます。それほどその当時のインドは混沌としてもいたのでしょうが、インドの精神性の高さも同時にうかがい知ることができます。そんな中にあって同じ時代に生き、縁をもって出会い、教えを授かるということがどんなに希有なことであったのかということを思わずにはいられません。師は、ブッダは偉大なヨーギーであった、ブッダの教えとラージャ・ヨーガはとてもよく似ていると教えてくださっています。ヨーガに出会うまではブッダのことを何も知りませんでしたが、アシタ仙人の甥ナーラカが遺言通り、ブッダからその教えを授かることができたということを知り、本当にめでたいことであったと心から思いました。私たちもまた時空を超えて正しいブッダの教えと巡りあい、それを行為することができる、これは本当に吉祥な縁なのだと身にしみて思うのでした。

ダルミニー


火の遣い手たち

みなさん、こんにちは

今回もまた本願寺出版社の「ブッダ」より印象に残った内容をご紹介いたします。今日登場していただく修行者はウルヴィルヴァーさんです。

夕闇の中、炎が怪しく揺らめいている。ウルヴィルヴァーが右手を差し出すと、炎はぱっと大きく燃え上がり火柱となった。あたりが明るくなり火の粉が雨のように頭上に降り注いだ。

「兄さんの力は衰えませんね」とガヤーが声をかけた。ブッダの弟子のサンガ(集まり)に加わるまで、ウルヴィルヴァー、ナディー、ガヤーのカーシャパ三兄弟はそれぞれに大勢の弟子と信者をもつ結髪の行者だった。中でも長兄のウルヴィルヴァーは強大な神通力を持ち、数々の奇跡を起こしていた。

「こんな力は何もならない」長兄は独り言のように呟き、両手を広げて炎を鎮めた。瞬く間に天に届くほどの火柱は小指の先に灯る火となった。

「ブッダはそれ以上の力をお持ちなのですか?」ブッダはウルヴィルヴァーの聖火堂で無数の奇跡を現出させた。神通力の対決で敗北した長兄は火の崇拝を止め、ブッダに帰依し、五百人の弟子もそれに続いた。

「ガヤー、お前にもよく分っているはずだ。ブッダの特別な力、人を包み込む暖かく柔らかな力を」ブッダがウルヴィルヴァーと弟子を従えて、ガヤーたちの前に姿をみせた瞬間、清らかな涼風が吹き抜けたようだった。ブッダは一言も発しないうちにその場にいた者の心をしっかりとつかんだのだ。次兄のナディーに続いて、ガヤーもブッダに帰依を申し出た。

「後悔はしておられませんね」そういうガヤーの前で、ウルヴィルヴァーは土をすくって火にかけた。灰色の煙が立ち上り、火は一瞬、赤い輝きを放って消えた。

「もちろんだ。ブッダの示された道を私は歩いていく。さあ、帰ろう、ガヤー、そろそろブッダの説法が始まる時間だ」

月明かりに照らされて闇の中ぼんやりと道が浮かび上がっている。ガヤーは歩き始めた長兄のあとを追って足を速めた。

二千五百年前のインドの深い森の中、どれくらいの苦行者たちが修行をしていたのでしょうか。その中でもカーシャバ三兄弟は、ブッダの存在を素直に認め、帰依した人たちだったのでした。中には尊者と呼ばれながら、自分の考えをなかなか改めることができず、ブッダを誹謗中傷し、陥れようとする人もいたようです。五百人もの弟子を持ち、神通力もあったウルヴィルヴァーでしたが、真実の前では謙虚にこうべを垂れ、すべてを捨ててブッダに帰依したのでした。ウルヴィルヴァーは本来の目的を忘れてはいなかった、真実に通じる確かな道をみつけたウルヴィルヴァーは、歓びをもってブッダに従ったのだと思いました。

ブッダ (22)

ダルミニー

 

 


みすぼらしい衣の修行者

毎回、本願寺出版社の「ブッダ」より、その教えをご紹介しています。今までいろいろな修行者の方に登場していただきましたが、今回の修行者はピッパリさんです。

ブッダ (20)

「ピッパリという比丘(びく)を知っているか」

「いいえ」と若い比丘は首を振った。真新しい衣を身につけ身体には汚れひとつなかった。サンガ(修行者の集まり)に入ってまだ間もないのだろう。

その時、道の向こうからぼろぼろの衣を身にまとった比丘がふらつきながら歩いてきた。何かにつまずいたのか、比丘は転び、泥にまみれていた。驚いて家から出てきた男に食べ物を乞うように器を差し出した。が、施しは受けられず、大声で罵られ足蹴にされて泥の中を転がった。

「ひどいですね。男もあんなに乱暴にすることはない。比丘もあれほどむさ苦しい格好ではなく、身綺麗にして、清らかな衣でいれば供養は受けられるものです」

「ピッパリは、バラモンの息子で上等な衣を着ていた。ある時、ピッパリは大衣をたたんでブッダのために坐を作った。柔らかな布だとブッダは褒められた。ピッパリはすぐさま自分の衣とブッダの衣を交換した。ブッダは使い捨ての布で作った古い衣を着ておられたのだ。ピッパリはその時以来、使い捨ての布で作った衣しか身に付けなくなった。古くからの出家の原則を厳しく守る頭陀行(ずだぎょう)に専念することにしたのだ」

比丘は泥を払い落とし背筋を伸ばすと、何事もなかったかのように、隣の家の戸を叩き応対に出たものに器を差し出した。

「彼こそがかつてのピッパリ、今はマハーカーシャパと呼ばれている。頭陀行第一と称される比丘だ。お前は彼に付いて学べ」

一喝された比丘は転がるようにして、みすぼらしい衣をまとった泥だらけのマハーカーシャパのあとを追った。

「頭陀」とはサンスクリット語の「ドゥータ」という言葉の音訳であり「払い落とす」という意味らしいです。何を払い落とすのかというと衣食住に対する貪欲を払いのけるため、出家者が行なう修行のひとつで、具体的には最低限必要な食べ物を托鉢して歩くことや、托鉢僧そのものを指す言葉でもあるそうです。

二千五百年前のインドと現代の日本とでは同じようにはいきませんが、その時代の修行者がどれほど真剣に真実を求めて修行を積んでいたのか、どれほど真剣にブッダの教えを生きようとしていたのか、思いを馳せるのは、私たちにとってとても刺激になり勇気を与えてくれるものです。

師は説かれます。

人生の目的は真実を実現することです。その叡智と方法がヨーガの中にあります。

真実、それが何かを学んで、しっかりと理解して行動に移すことが大切です。いわゆる世間体とか社会的通念とか常識とかいうものによって私たちの心がどんなに縛られているか、それを打ち破って真実を求めるということが、どれほど勇気のいることなのか分かりません。信念をもって、真実だけで心が満たされるように行為していくことが大切です。

ピッパリの行為からは、ブッダの教えを忠実に生きて、真実に通じる自分の道を自分で探しだし、それだけを行為した揺るぎない信念というものを感じることができます。人によって顔が違うように、心もまたさまざまな様相を呈している、今の時代には、それぞれが自分にあったヨーガの道を歩くことができます。それを正しい方向に導いてくださるのがヨーガの師です。それぞれが信念をもって、真実に通じる自分のヨーガの道を歩いていこうではありませんか。

ダルミニー


竹馬の友

みなさん、こんにちは

今日もまた本願寺出版社の「ブッダ」より、印象に残ったお話をご紹介いたします。

ブッダ (20)

 

「本気なのか、シャーリプトラ。本当にブッダのもとへ行くのか」

「もちろん本気だ。私はブッダに帰依する」

「しかし、まだ彼の弟子に会ったばかりで少し話をしただけじゃないか」

「それで充分だ。私が求めていた道はここにある。確信したよ。ブッダの教えは私の疑問を解決してくれる」

「君はどうするつもりだ?マウドガリヤーヤナ」

「聞くまでもない。おれは君と同じ道を歩むと決めている」

幼い頃からいつも一緒にいるシャーリプトラとマウドガリヤーヤナは、今、教えを受けている師では自分の疑問を解決できないと感じ、ブッダを師と仰ぎ、そのサンガへ入ろうとしていたのでした。サンガとは修行者の集まりのことですが、信頼し尊敬のできる師と巡り会えるということはなんという幸運なことなのでしょう。何を学ぶにしろ先生はとても大切だと思いませんか?例えば相撲にしても、大関にまでなった親方の部屋に入るよりも、横綱になった親方の部屋で学ぶ方が横綱になれる可能性は高いはずですよね。ヨーガにおいても「ヨーガを成就するためには絶対に師が必要である」と言われています。ヨーガを成就するための道のりを正しく指し示すことのできる師と巡り会うということ、それは聖なるガンガーの砂の中から一粒の宝石を探し出すくらい困難で、希なことであると言われています。

「縁だな」

「そう、縁だ。あらゆるもの、あらゆることが縁によって起こる。……ああ、早くブッダの教えの真髄を究めたいものだ」

「焦るな、シャーリプトラ。お前が早く歩きすぎるとおれはついていけなくなる」

「分かっている、マウドガリヤーヤナ。私たちは同じ道を歩む、多少、歩調は異なるが」

「歩調は異なっても死ぬまで一緒だ。シャーリプトラ、いいな?」

「もちろんだ、マウドガリヤーヤナ」

ありがたいことに私たちもヨーガの師と縁を結ぶことができました。私たちの師はどんな疑問にも即座に解決の糸口を指し示してくださいます。そしてその師との縁を本当に吉祥なものとするためには、真剣にヨーガを学び、その教えを誠実に行為していくことが大切なのだと思いました。そして互いに信頼し、研鑽(けんさん)し合える仲間がいれば、その歩みはさらに早くなるものなのだと思いました。

ダルミニー

 


真夜中の出城

みなさん、こんにちは

今まで私が取り上げてきたブッダの教えは、瞑想専科のクラスで薦められた本願寺出版社の「ブッダ」より紹介しています。この本はさし絵がついていて、たいへん読みやすくなっています。興味のある方は読んでみてくださいね。

ブッダ (20)

今回ご紹介するブッダの出家のシーンはとても感動的です。シャカ族の王子として生まれたシッダールタ(すべてのものが成功するという意味)は、全ての生あるものは死を迎え、また老いては若さを失い、病を得るという、この世の生滅を知り、なんとみじめで苦しみに満ちていることかと、その一生を憂い悲しみます。ある日、表情も晴れやかで清々しい出家者に出会ったシッダールタは、その生き方に心を奪われ、王子という地位も家族も何もかも捨てて出家を決意するのです。

「生死の彼岸を見ない限り、私は再びこのカピラヴァストゥの城には帰らない」

固い決意のもと、お供のチャンダカを連れて、愛馬カンタカに乗り、真夜中に城を抜けだしたシッダールタは一時も休むことなく走り続けます。太陽が昇る頃、遠く離れた荒れ野に降り立ったシッダールタは、身につけていた美しい装飾品や冠をはずし、持っていた剣で豊かな毛髪を一気に切り落とします。通りかかった狩人から自分の絹の服と交換に柿色の粗末な衣を得たシッダールタは、涙を流し引き留めるチャンダカに対して

「もう決めたのだ。私はもういないものと思って欲しい。王にもそう伝えてくれ。生死を克服できたらすぐにでも戻る。怠って目的を果たせなければ、どこかで野垂れ死ぬまでだ。チャンダカ、カンタカ、世話になった」
そう言い残して、振り返りもせず苦行の森に入って行ったのでした。

そこに、苦しみのない完全な真実の世界だけを求める、ブッダのゆるぎない求道心というものを感じます。以前、師から、真実に憧れ、真実だけを目指す一点集中という意味の「エーカーグラター」という言葉を教えていただきました。首尾一貫したブッダの言葉や行為からは、真実だけを見つめ続けた「エーカーグラター」というものを感じとることができます。六年間の苦行の末、悟りを啓かれたブッダのあり方、この本を読んでいるだけでも、心が清く洗い流されたように感じるのは私だけでしょうか。みなさんもブッダの生き様に、そしてその存在に触れてみられてはいかがでしょうか。

ダルミニー


琴の弦のように

春ですね。でも早々と満開の桜も散り始め、もう葉桜も見かける時期となりました。

さて4月8日はお釈迦様のお誕生日、花祭りとして有名ですね。この日はお釈迦様に甘茶をかけてお誕生のお祝いをします。私も子供頃お寺に行き、神々や動物たちに囲まれた清らかなお釈迦様の絵を見たり、やかんから水筒いっぱいに甘茶をもらったりして、楽しい一日を過した記憶があります。そういうわけで今日もまた本願寺出版社の「ブッダ」より、ブッダの教えをご紹介します。

若い修行者シュローナ・コーティヴィンシャは河の淵に坐り、傷ついた足の汚れを水で洗い落とした。指先で傷口に食い込んだ尖った小石を取り除くと足の痛みは少し軽くなった。

「こんな修行をいつまで続ければいいのだろう?過酷な行に励み、ひたすら体と心を鍛えてきた。けれど、その成果はまだ手にしていない。それどころか迷いは深まるばかりだ。やはり自分には真実の境地を得ることはできないのだろうか」

ゆったりと流れる河に視線を向けてシュローナ・コーティヴィンシャは溜息をついた。

「そんなふうに考えてはいけない」振り返るとブッダの姿があった。

「シュローナ・コーティヴィンシャ、傷は痛むのか」

「いいえ、もう痛みはありません」

「そうか。お前の足の皮膚は柔らかい。これからは一重の履き物をつけて歩くがいい」

「とんでもありません。私だけが履き物をつければ、サンガの仲間たちに笑われてしまいます」

「では、皆に一重の履き物を許そう」

若い修行者は恐縮して深々と頭を下げた。修行を途中で諦めてはいけないと心の中で思い直した。

「シュローナ・コーティヴィンシャ、お前は琴の名手だった。お前が弾いてくれた琴の調べがまだ耳に残っている。もう琴は弾かないのか?」

「琴を奏でる時間があれば、坐を組み瞑想したいと思います」

「熱心だな。お前ほど熱心な修行者はいない。しかし、シュローナ・コーティヴィンシャよ、琴の弦は緩すぎても強く張りすぎても良い音がしないのではないか?」

「仰せの通りです。緩すぎず強すぎず、ちょうど良い張りをもつ弦が良い音で鳴ります」

「修行も同じだと思わないか?琴の名手、若き修行者よ」

「……ありがとうございます。ブッダ。私もこれからはちょうど良い張りで良い音を響かせたいと思います」

シュローナ・コーティヴィンシャは頭を下げたまま、ブッダに言った。

 

この修行者は真剣に修行してきただけに、できない自分を責めて途中でくじけそうになったのでした。みなさんも、ある一つの出来事に心が執われて、周りを見る余裕がなくなってしまったことはありませんか?それは本当に張り詰めた弦に例えられるように、すぐにでも切れてしまいそうな状況に自分を追い込んではいけないということを意味していると思いました。この時も修行者の師であるブッダが、適切な言葉でもって修行者の心の緊張を解きほぐし、心のあり方の間違いに気づかせてくれたのでした。

心を張りすぎず緩めすぎず、波のない状態、不動の状態に保つことはなかなかできることではありません。しかしヨーガの一連の実践が、心に不動の状態をもたらす努力であることに間違いはありません。私たちの師は驚くほどいつも同じで、変わることがありません。そういう師のお姿を拝するたびに、自分たちの理想とする不動の境地が、師の中にあるということを理解するのです。

ダルミニー

天上天下唯我独尊

天上天下唯我独尊


ブッダの根本的教え

師は、ブッダは偉大なヨーギーであった、また彼の教えとラージャ・ヨーガはとてもよく似ていると教えてくださっています。今日は「ヨーガの福音」の中のその教えをご紹介しましょう。

大いなる悟りを啓かれた主ブッダの最初の教えは次の通りです。

一切は苦である。病むこと、老いること、死ぬこと、その原因である生まれること、これは誰もが避けることのできない大きな四つの苦しみである。この他に四つの苦しみがある。求めるものが得られない苦しみ、愛する人と別れる苦しみ、憎む人と一緒にいる苦しみ、この肉体と心が不浄である苦しみ。 

これらの原因は欲望であり、その原因はエゴと無知である。

それらに対し一切の苦悩を離れた真実の境地、ニルヴァーナがある。 

そしてそれに至る道が八正道である。正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定。

ブッダはこのように非常に具体的な方法を教えました。誰もが真剣にそれを行なえば、必ずニルヴァーナは実現します。

最初の正見(しょうけん)というのは、この教えの全体像を正しく理解するということです。この世の中は「一切は苦である」という言葉を最初に聞いた時は衝撃を受けましたが、本当に今までもそうであったと納得しました。それは全く厭世的な考え方ではありません。そういうふうに理解することによって、苦しみは悲観的なものではなく、人間界においては当然あるべきものとして、すんなりと受け入れることができるようになりました。最初に「一切は苦である」と言い切ったブッダはすごい方ですね。この世の有り様をそれこそ正しく見ていたのだなと思いました。最後の正定(しょうじょう)は瞑想のことです。思いも言葉も行為も生活も正しく調えていくことによって精度の高い瞑想ができるようになる、そのようにこの尊い八つの道を真剣に歩めば、必ず真実の境地を実現することができると教えてくださっています。

この尊い教えに出会い、ブッダに帰依した人は、その当時千人以上もいたといわれています。そのように具体的な道を分かりやすく説いた方は、その頃にはいなかったんでしょうね。噂が噂を呼んで、道を求める人たち、苦しみから解放されたい人たちが、花に蜜を求めて蜂が集まるように、清らかなブッダのもとにたくさん押し寄せていったことが想像できます。ブッダと巡り会い、心の迷いを取り除かれた人たちのなんと幸いなるかな。

二千五百年の時を超えて、私たちも主ブッダと巡り会いました。この尊い教えを聞き、実践できることを本当に幸せに思い、感謝し、ますます精進していきたいと思います。

ダルミニー

主ブッダ

主ブッダ

 


ヨーガの実践 「身・口・意の一致」

皆さん、こんにちは ダルミニーです。

以前、瞑想専科のクラスで薦められた、本願寺出版社の「ブッダ」を読んでいます。この本は絵本になっていて、一つ一つの教えが大変読みやすくなっています。ここで一つの教えをご紹介しましょう。

「三業(身・口・意)に悪をつくらず、諸々の有情をいためず、正念に空を感ずれば、無益の苦しみはまぬがれるべし」

難しいですね。

チューダパンタカはこの教えを覚えることができず、一緒に修行している聡明な兄から精舎を出ていくように言われて、呆然と門の脇に佇んでいます。ブッダは、悲しそうなチューダパンタカの手を取って精舎に連れて行き、「塵を払い、垢を除く」と唱えながら掃除をするようにと、箒を与えます。

それからのチューダパンタカは、ブッダの言いつけ通り、片時も休まず、「塵を払い、垢を除く」と唱えながら、掃除をするという行為を続けます。そうしているうちに、チューダパンタカは「心にも塵が積もり、垢が溜まる。塵を払い、垢を除けば、汚れた心も清浄になる。煩悩は垢、智慧は箒」と自らが気づいていくのです。

私たちも何か一つでもいい、師だけを思い、その教えを忠実に守り、心に唱え続け、その教えを生きるよう行為する。そうすれば自然と身・口・意は統一され、外側からの師の恩寵と自らの内側から輝く光によって、真実へと導かれていくのだと思いました。

師は説かれます。

常に、思いと言葉と行為を一つにしなさい。

身・口・意をもって真実に従うようにしなさい。

私たちにもすぐに実践することができますよね。

ブッダ

 

ダルミニー

 


ヨーガの実践 「三つの宝」

皆さん、こんにちは ダルミニーです。

師は折に触れ、ブッダの教えとヨーガの教えは同じであり、ブッダも偉大なヨーギーであったと説かれています。

仏教の教典にこうあります。

「人身得ること難し 佛法値うこと希れなり 今我等宿善の助くるに依りて 已に受け難き人身を受けたるのみに非ず 遭い難き佛法に値い奉れり 生死の中の善生最勝の生なるべし 最勝の善身を徒にして 露命を無常の風に任することなかれ」

「にんしんうることかたし ぶっぽうおうことまれなり いまわれらしゅくぜんのたすくるによりて すでにうけがたきにんしんをうけたるのみにあらず あいがたきぶっぽうにあいたてまつれり しょうじのなかのぜんしょうさいしょうのしょうなるべし さいしょうのぜんしんをいたずらにして ろめいをむじょうのかぜにまかすることなかれ」

ヨーガの師と出会う前には、人間として生まれたことがそんなに希であるということが、あまり理解できませんでした。幸せなんてちょっとの間で、多くの苦しみを味わうだけのようなものだと思っていたのです。

師は説かれます。

 

「人生の目的は真実を実現することです」

「悟りという完全、円満な世界に目覚めることができるのは、人間だけです」

「確かに人の心は時には天使のようになったり、または悪魔のようにもなります、でもいずれも真実ではないし、不完全なものです。ヨーガにおいては、ただ真実の存在という、そこにだけ目を向け、神々の世界を超えて、そこに目覚めるように教えられます。また実際的な修行もあります。だから人として生まれること、真理を目指す志を持つこと、その実現を施してくれるグルに出会うこと、この三つがもっとも大切なものというふうにいわれています。他でもない自らの魂の問題ですから、決して知的な知識ではないのです。それが人として生まれることの、本当にありがたい祝福です」

 

私はこのまま真実が何かも知らずに死にたくはありません。人間として生まれたことが、恵まれた生であることを十分に理解し、全うすること、それが私の唯一の願いなのです。

皆さんは、どう生きたいですか?

 ダルミニー

 

 

 

 


はるか未来を歩くブッダに我々は追いつけるのか?

——心を静めて強烈な探求を行なえば真理は自ずから現れる。
本当ですか? それが事実だと経験から言えますか?
僕は言葉を超えた事実が欲しい。

真理はどのように現れるのか。
それは(悟りという)最後の最後の瞬間にだけ訪れるものなのか。
それまではそういうことがなくても当然なのか。

「真理」という言葉を定義して、「あるべき事実(真実)に関する直観知」だと捉え直すとする。
最近気づいた直観知の経験を話したいと思います。

今年の4月に「永遠のブッダ」というお芝居を上演し、僕はその脚本を書きました。
題材にしたのは『アングリマーラ経』という仏典に描かれているブッダと一人の弟子の話です。
1000人にも及ぶ人を殺害して人々に恐れられた残忍な盗賊アングリマーラのもとに、ある日ブッダが赴き、不思議な力と教えの言葉と慈悲によって彼の心を開かせます。
ブッダの弟子となったアングリマーラは、アヒンサカ(不殺生)という名を与えられて、新しい聖なる命に生まれ変わり、ブッダから「これからは自分の命を生かし、人の命を生かすのだ」と教えられます。
アヒンサカは過去の悪業による苦難に耐えながら、ブッダの教えを守り、生来の正直さを生かし、ついに一人の妊婦とその胎児の命を救います。
それが彼がブッダの教えを実践した瞬間だったというところでフィナーレを迎えます。(実際の芝居の映像は以下)

この演劇の内容自体は、元の仏典の内容と大筋において同じですが、各部分では脚色が入っています。
脚本を書いている時は、この経典の真意は何なのか、つまりアングリマーラという人の存在の本質は何なのか、そしてブッダは何をしようとしたのかということに集中して、それを最もよく表すように、経典の構成や言葉を離れて、場面もセリフも生み出していきました。
そこではただ、この芝居が楽しく、面白く、そして何より深い真意を表すようにということにだけ集中していたのです。

しかし、最近になって気づきました。
この芝居は、4月から今までの6カ月間、それから今後数年にわたることの預言でもありました。

今の僕にはこう見えます。

アングリマーラは、自分の村の人1000人を全滅させた都の人間を恨み、被害者の生き残りとして、自らの正義(=法)のために、人々の殺害を繰り返している。
一方、都の人々は、罪もない人々が被害にあっているため、恐ろしい盗賊を無法者と見なし、アングリマーラの縄張りにブッダが近付かないように警告する。
双方とも正しいのは自分であり、正義は自分たちにあると考えています。
そして自分こそ悪の被害者だと思い、暴力に対する暴力の報復がなされている。
決して交わることのない対立です。

これに対してブッダは、アングリマーラのもとへ何も言わず進んでいく。
人々が止めるのも聞かず、平気で進んでいきます。
彼はどうするつもりだったのでしょうか。
僕が思うところでは、ブッダははっきりとすべてを見通していました。
アングリマーラという盗賊がいて、彼のせいで多くの命が奪われている。
人々は彼を無法者と決めつけており、行為においてはその通りだが、しかし、その外面的行為には微妙でかつ複雑な内面的原因があり、それが正されない限り問題は解決しない。
そしてアングリマーラの内面的苦悩は、その被害者である人々の内面の苦しみと異なるものではなく、同じものとして重なるものなのだと見た。
ブッダは、人々の実際的被害と不安、そしてアングリマーラの苦悩を取り除くために、両者を共に生かすため、自ら立ち上がり、歩を進めたのです。

ブッダは火中の栗を拾いに行ったと思う。
ブッダは出家者である。
法律や社会に対して関与せず、超然としていることが本来の姿だ。
たとえどんな問題が世の中で起こっていようとも、それに当事者として関わる必要はない。
それどころか、そうした世間の出来事に執らわれてはならないのである。
たとえ両者を哀れだと思い、あるいは殺害のむごさを見るに忍びなく、助けに入ったとしても、両者に話し合いの場を設けて仲裁に入るというような方法が取れたはずだし、今だってそれが一般的だろう。
それなのに、ブッダはアングリマーラを弟子にしに行ったのである。
犯罪者、それも極悪人を弟子にとれば、人々の世論や法や社会を敵に回すことは明らかで、犯罪者をかくまったとしてブッダの教団全体が社会の圧力によって潰されてもおかしくない。
長老弟子のアーナンダが「他の弟子たちに悪い影響がありませんか」と心配するが、常識的なのは彼であって、ブッダの方が非常識である。
面倒なことにあえて首を突っ込むようなことをしなくてもよかったはずである。
ブッダはどうしてそのようなリスクを冒す行動に出たのか。

ブッダはあえて当事者になりに行きました。
当事者になって、自分個人とは元来関係のない問題を解決に行った。
自分には害の及ばない、超然とした客観的第三者の立場でアドバイスをしたり、なだめたりするのではなく、悪と苦しみの根源を自ら引き受けに行きました。
近代の聖者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、「たった1人の人を救うために私は地獄にでも行く」と言ったが、まさに彼はブッダの心境をそのままハートに写し取ったのだと思う。
そうしてブッダは、アングリマーラとアーナンダ、そしてブッダを慕う都の人々を兄弟弟子にしてしまった。
互いに害を与え合ってきた人々を、本来愛のみで結ばれるべき兄弟にしてしまったのである。
そして彼らの親として、すべての面倒を見る責任を負ったのである。
問題とは本来、そうした自らを犠牲にするような関与がなくしては解決しない。
ブッダの無言の行動はそれを強く指し示しているように思う。

そしてもう一つ、脚本家として僕はブッダにこう語らせていた——「これからは自分の命を生かし、人の命を生かすのだ」。(とはいえ、ブッダ役としてこのセリフを語らされたのも僕なのですが)
これは、そのまま仏典にある言葉ではありません。
元の経典の本旨は、経典中に見られる詩、「悪い行ないも善によって克服されるなら、雲を離れた月のようにその人はこの世界を照らす」という一点に極まっていると思いますが、悪人が悪を償うだけでなく、この世界を照らし出す聖なる存在にもなれるということを、「人の命を生かす」というセリフにしました。

ブッダは当事者となって(同時にまったく巻き込まれることなく)、それぞれの人を生かし、またその人たちにも他の命を生かすように導いた。
脚本を書いて芝居を上演していた時にはまったく気づかなかったが、自分が書いて演じていた中に、自分のあるべき姿とそれに向かう未来が含まれていたことに最近気がついた。
「これからは自分の命を生かし、人の命を生かすのだ」と書いたのは僕であり、そのセリフを読んだのも僕だが、その過去の自分が未来に先回りして、これからのあるべき自分を示しているようにも思うのだ。
あるいは、今から2,500年前に生きたブッダが、むしろ今から2,500年先の未来に先回りして、僕に道を示しているようにも思う。

事実、4月以降の僕は、その方向に動き、感じ、決断してきた。
我々ヨーガ行者のあるべき姿、マハーヨーギー・ヨーガ・ミッションのあるべき姿を、ブッダのサンガやヴィヴェーカーナンダが作ったラーマクシュナ・ミッションに求めてきた。
それは単に形を真似るということではなく、彼らの情熱を自分の胸にも灯し、自らのミッション(使命)を自覚するということである。
過去に求めながら、同時に未来に求めることでもあった。
それと同じようなことが、たまたま手に取った経営学の本にも書いてあった。
サンガやミッションも人の集まった組織だから、組織運営のことも少しは学ぼうと思って駅の本屋で偶然手にした本だったが、たいして魅力的なタイトルでもないのに、引き付けられるようにその本を取った。
7月のことである。
そして8月には、東京に引っ越すことを決めていた。
東京でのヨーガの活動を活発にするためである。
今月10月には東京で最初のクラスを行なった。

そうした顕著な出来事だけでなく、あらゆる考えと感じ方と行動が1つの方向に向かっていた。
それはまるで、「これからは自分の命を生かし、人の命を生かすのだ」と、まったく無意識だった自分あるいはブッダ自身が、未来のあるべき姿、あるはずの事実を指し示していて、知らないうちに、この半年はまったくその通りに生きてきたようなものだと最近気づいた。
潜在意識の中にそうした願望があったのだといえばそうかもしれないが、しかし直観に基づくであろう感性と行動が、これほどまで頭脳よりも速く動いたのを経験したのは今までにはなかったのである。
自分が書いたり言ったことを、半年後の自分が解釈するなんて、いったい何が起こっているのだ!

とても長くなりましたが、これが預言とも感じられた、「あるべき事実(真実)に関する直観知」の経験でした。
劇中、ブッダがアングリマーラの縄張りに向かっていったとき、走る馬でも捕まえられたほどの脚力を持つアングリマーラが、全速で走ってもブッダに追いつけない場面があります。
彼はブッダに対して「止まれ!」と叫ぶのだが、逆にブッダに「お前こそ止まれ」と言われる。
それはアングリマーラが暴力の思いに捕らわれて心が止まっていないということを教え諭すためだったし、僕もそう理解して脚本を書いた。
しかし今になって、それだけでなく、ブッダは彼以降2,500年の間に生まれ死んでいったあらゆる人類が、最大の努力を行なっても未だに追いつけない、はるか未来に先行していることをひしひしと感じる。
それは、現在も世界各地で起こっている決して交わることのない紛争、その根源にある正義感と悪と憎しみ、そしてもう末期的とすら言われている民主主義のあり方(その真の姿としてのサンガ)……これらはみな未だ解決・解明されることなく、しかしブッダによって2,500年前に解決されていた。
ブッダ、新し過ぎる!!
我々はまだ、2,500年前のブッダに先を行かれているように感じる。
はるか未来を歩くブッダに我々は追いつくことができるのか?
しかし今それに気づいたということは、少なくとも後ろ姿ぐらいは見えているはずなのだ。