一夜にして目の覚めるような美しい桜に包まれる春。すべてが桜色一色に見える十日間ほどの時間。その格別な時に、一切万物の根源である存在へ、感謝を捧げる祝祭が行なわれた。あれは夢だったのかな…と思うような歓喜の中にいた。
祝祭の翌日もまた翌日もその次の日も、世界は何事もなかったかのように朝を迎え、道行く人々も何事もなかったかのように歩いている。なぜかそれがとても不思議に見えた。瞬く間に桜の花びらは風に舞い、大地には次々に鮮やかな花々が蕾を付け始め、木々からは黄緑色の新緑が一斉に芽吹きだし、季節はどんどん進む。私の住む地域には竹林が多く、新しい竹、竹の子も顔を出している。
祝祭から数日後の仕事の帰り、バスに乗る気分になれず竹林の道を歩くことにした。とぼとぼ歩きながら、私は誰なんだろう、と思った。何事もなかったかのように道行く人々の方でもなく、こうして生を謳歌している植物たち鳥たちの方でもない。どっちでもない自分は、なんなんだろう。急にポツンと浮いてるような、心もとない気持ちに襲われた。
仕事帰りだったからか珍しく疲れている自分がいた。疲れるということは、何かが間違っているんだと思う。そう思うと、一挙に虚しくなった。
これまで自分は、人と接する時には人を傷つけないようにと細心の注意を払い、自分の行動や言葉が真理に沿っているのかと考え、直せることは直し、ヨーガの教えに沿えるよう、やれることは全部やりたい、人からのアドヴァイスがあれば全て取り入れたいと躍起になって、自分なりに気を付けてやってきた。けれど、こんなに頭でずっと考えて、生きて、これがヨーガなんだろうかと、そんな思いがどっと押し寄せてきた。
祝祭で師のお顔を見た。声を聞いた。その優しい声を、私はずっと聞きたかった。あなたの声を、あなたの姿を、ずっと見たかったんだ、と思った。自分がそんなことを思っている自覚はなかった。けれど、あの時に分かった。師に直接お会いできるのは、かけがえのない瞬間。インドでは師を生涯かけて探すんだという。それほどの尊い稀有な存在に巡り会えたという奇跡。でも、そう思うのなら、師の教えを生きていなければ堂々とお会いすることに喜びを見いだしてはいけないように、どこかで思ってきた。ヨーガじゃなく、どんな世界でも、師匠から教えてもらったことを生徒が体現できていなければ、師匠のおられる甲斐がないじゃないかと思うから。だから、この状況になった時、今こそ教えを生きる機会を与えられている、会えなくても大丈夫なはず、と繰り返し思ってきた。でもそれは単なる稚拙な強がりで、全然そうじゃなかったのだ、私は、いつも師の声を、師の姿を、自分の見る世界の中に探していた。だからこそ、生きてこれたんだと気付いた。あの日、一日だけは、探さなくても、今は師の、その優しい声が聞こえる、お姿が見える。オンラインでも何でもどんな方法でも有り難かった、ただ、師が、お元気にされていることが見たかった。生きる歓びを教えてくださった大切な先生が、師匠が、どうされているか、ずっとお元気で幸せに、と願うのは当たり前のことだ。今、どんな声で、どんな話されかたで、どこを見られて、どんなふうにおられるか、それが私は知りたかったんだと思った。師に一度でも会えた人なら、きっとそう思うと思う。師はそういう方だ。それでじゅうぶんだと思った。それよりも大事な、知りたいことがあるのか?
だからもう、自分が考えることや行なうことなんか特に価値はない、いちいち悩むのも根本的にヨーガじゃない、問題のあることなんて本当は何もないんだと思えた。ヨーガは悩みや苦しみを解決してくれる、でも、そのためのものじゃない。そんな小さなものじゃない。「仕事や生活はなるようになります」と師がさらりとよくおっしゃっていたこと、本当にその通りだと思った。
半年ほど前、問題があり、心の中で何日も師のお姿を求めていたことがあった。道を歩いていても限界だと思えて涙が溢れてきた。涙がこぼれないよう空や木ばっかり見て、気を逸らそうとしていた。その時、道の上の垣根の草むらがザワザワと動き、虎のしっぽ⁈のような太いしっぽの先が一瞬見えた。何? 目を凝らしていると、一匹の大きな猫が姿を現した。昔、ヨーガのクラスに行く時に限っていつも会う猫がいて、師の化身(?)と勝手に思い込み「行ってきます」とよく言っていた猫にとても似ていた。もう何年も姿を見なくなっていた。その猫にそっくりの猫が、じっと私を上から見おろしていた。猫は、頷き「何も問題はないね」と師の声がした(ホントに!)。そう言うと猫(師⁈)は即座に、くるっと背中を向けてシュッと草むらの中に姿を消した、カッコいい虎みたいに。息が止まるような一瞬だった。「何も問題はないね」という声を聞き、こぼれそうな涙も感情もぜんぶ呑み込んだ。私にとってあれほど大問題だったことが、師のたった一言によって、これは問題じゃないんだ、と一変した出来事だった。
竹藪を歩きながらそれを思い出した。そうだった、もう細かいことは取りあうべきじゃない。まるでモグラたたきのゲームみたいに、自分に起こる問題をただひたすら叩き続けて消していく自分を想像すると滑稽だった。好きなことに喜び、嫌なことに苦しみ、快・不快、生きる・死ぬ、その間をさまよい続けている、こんなのが生きるということじゃない! 本当の自分はそんな存在じゃない。
足を止めて、まわりを見渡せば、どんどんと小さな生命が生まれ育まれている。空を見上げれば、雀やひばりが飛びまわり、カラスは高い街灯の上にたくましく巣を作って、よく見ると口をパクパクさせた小さな雛がいて、せっせと親鳥は忙しそうに餌を与えていた。春の風が、ぶわっと吹いた。竹林がシャラシャラ~と音をたてて揺れる。おびただしい数の命が蠢き、その真っただ中に私もいるんだと思った。
どしゃぶり雨でもカンカン照りでも、植物や動物たちは、それなりにいつも過ごし、たくましく生を謳歌している。二元性に右往左往しているのは人間の私だけだった。どうすれば二元性を克服できるのかと頭で考えすぎて、逆に執らわれている。こっちがいいか?そっちがいいか?そういうことじゃない。どっちも棄てる道、それがヨーガの道、ブッダの説かれた中庸の道。何も掴まない、執らわれない、そのニュートラルな道を歩くためには、絶対に信頼できる何か――真実への信仰がなければできないと思った。二元性を克服するなんて普通はできることじゃない。ヨーガという軸があるからこそ、できること。不可能を可能に導いてくださっている師。
真実を深めるということ。教えを体得していく。おのれの存在への純粋な信仰を深めていく。そうすれば生活や作業もその中で行なわれていく。
物事を行なう時はその時々の状況で工夫をして、それなりに対応していけばそれでいい。
そう教えてくださった師のお言葉を思った。いつも何にも執らわれない、そういう生き方がしたい。いろんな事に執らわれて、いちいち余計な思いが多すぎたな、と素直に思った。二元性を感じる原因を作っているのは、自分の心だった。
うららかな春の光の中で、こんなにも美しい世界の中で、一体何をそんなに悩むことがあるというのか。師の声が聞こえるようだった。蝶々が、ゆらゆらと戯れるように、ゆっくりと花から花へと飛んでいく。
祝祭を紹介するブログ記事に「サナータナ・ダルマの道の真っただ中にいる――」という言葉があった、それを目にした時、身体中がカッと熱くなり震えた。きっとこの言葉の意味することは物凄いこと、それが知りたいし、それを高めたい、と思っていた。そこに繋がるヒントが、その竹藪の道に散りばめられていたのかもしれない。
スッと天に突き抜けるように高く伸びる竹。真っ直ぐな線。幹はしなやかで強く、軽やかな葉は風に乗って自由に揺れ動き、雨が降ればただ雨を受け、枯れる時がくれば枯れる。いつもただ無為自然。竹を見ていると、そんなふうに、また新たな気持ちでヨーガと向き合っていこうと思った。
一本一本が独立したものと見えている竹は、実は土の中で根が繋がっていて、竹林全体で一個の生命体なんだという。一本一本の寿命が異なっていても、全体としての一個体。120年くらいに一度、花を咲かせ種を残し竹林ごと消滅するという。そして新たな種として生まれ変わって次の新しい竹林が形成されるというのだ。まるで時代時代に応じて神の化身が姿を顕し、その時には弟子たちも一緒に、と聞いた、それみたいだと思ってしまう。形や姿は違っても、同じ一つの種が、ずっと繰り返し受け継がれている。また、竹は花を咲かすまでがとても長い。ヨーガは生涯を懸けた大事業だという。竹が120年かけて竹林全体として成長する、その一生を思うと、なんだか鼓舞される。竹の生態は解明されていないことも多いらしく、ちょっと神秘的でもある。
きっと私たちも、師と一つの生命体だと私は思う。別々に見えていたとしても、根は繋がっている!はず。私は誰なのか、まだはっきりとは分からない。でもきっと、そういう、たった一(ひとつ)の存在、それに違いない!
野口美香