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『あるヨギの自叙伝を読んで』(5)――ラム・ゴパール・ムズンダー

この人生の中で誰もが一度ならず、「謙虚になりたい」と感じたことがあると思います。
特に傲慢👺になったりして、鼻を折った時などは……
しかし、打撃を受けた時には謙虚でありたいと反省するも、また同じ過ちを繰り返すこともしばしば……
では、どうすれば謙虚であり続けることができるのでしょうか?
『あるヨギの自叙伝』で紹介されているラム・ゴパール・ムズンダー、通称「眠らぬ聖者」は、驚くほどの深い謙虚さを教えてくれます。

若き日のヨーガーナンダは、人里離れた洞窟で長年クリヤー・ヨーガを行じて魂の目覚めを得たラム・ゴパール・ムズンダーという聖者に会いにいきます。
その途中、タラケシュワのヒンドゥー教の崇拝を集めている寺院に詣でるも、ヨーガーナンダはその祭壇の丸い石に頭を下げる気持ちになれず、寺院を出ます。
その後ヨーガーナンダは一人の男に道を尋ねてラム・ゴパールの家を目指すも一向に辿り着くことができす、灼熱の太陽の下、2日かけてやっとラム・ゴパールに会うことができました。
しかし、会ったばかりのラム・ゴパールは唐突にこう言います。

「ところでお前は、神はどこにおられると思っているのだね?」
「そうですね……神は私の内にもおられますし、また、すべてのものの内にも宿っておられます」
「では、どうして昨日タラケシュワの寺院で、石のシンボルに宿る神にお前はひざまずかなかったのだ? その傲慢さに対する罰として、お前はあのいたずら者から間違った道を教えられたのだ。おかげで今日もずいぶん苦しい思いをしたはずだ」

この会話の後、ラム・ゴパールはヨーガーナンダを家に招き、二人は4時間瞑想し、夕食を共にします。
この聖者は、岩屋で20年間毎日18時間、洞窟で25年間毎日20時間ずつ瞑想していましたが、それをまだ「わずかな瞑想をしただけで、はたしてどれだけ神に歓ばれているだろうか疑問に思っているのだ」と言います。
ヨーガーナンダは思わず、「先生は、そんなにも長い瞑想をなさって、それでもまだ神の愛がしっかりと確かめられないとおっしゃるのですか? それでは我々のような凡人はいったいどうしたらよいのでしょう!」とびっくりして尋ねると、ラム・ゴパールは次のように答えました。

「若者よ、神は永遠無限のものではないか。その神を、わずか四十年や五十年の瞑想で完全に知ろうなどと望むことが、そもそも無理というものだ。しかしババジは、われわれが少しでも瞑想すれば、死と死後に対する深刻な恐怖から救われる、と保証してくださった。お前の霊的修行の目標を、無限の神との合一に置きなさい。途中の小さな山々には目をくれず、ひたすらこの最高の目標に向かって努力すれば、お前は必ずそれを達成することができる」

そして毛布の上に横になって眠りに就いたヨーガーナンダに、ラム・ゴパールは次のように話しかかけます。

「まだ眠らないのか?」
「先生、どうして眠れましょう? 目を閉じても開いても、まばゆい光が私を取り囲んでいるのです」

翌日、もう一度例の寺院に詣でて、その祭壇の丸い石にひれ伏したヨーガーナンダ――

今回このエピソードを読んで私は、自分と同じ名前が付いている聖者ラム・ゴパールから、神への不断の瞑想と礼拝、それこそが謙虚さを深め、謙虚であり続ける秘訣であると学ばせていただきました。

ゴーパーラ


スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ 御聖誕日

1月12日は、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの御聖誕日ですね。

「自らを信じることができなければ、神を信じることはできない」

これはヴィヴェーカーナンダの言葉です。
この言葉には、盲信や偏狭な宗教・宗派主義はありません。
自らを信じること、それだけです。

人は誰もが、戦争のない平和な世界を願っています。
しかしながら、現実はそうではありません。
人種、宗教間の差別や争いは、絶えず起こっています。
ヴィヴェーカーナンダは幼い頃、「タバコのパイプ」から、その矛盾を感じています。
法律家の父の事務所にはカースト別にタバコのパイプが用意され、イスラーム教徒用のパイプだけ離れたところにありました。
ヴィヴェーカーナンダはすべてのパイプを吸って、次のように父に言ったそうです。

「どこに違いがあるのか分かりません」

このようにヴィヴェーカーナンダのみならず、子供や青年の頃、誰もが感じるであろう世界の矛盾――
ただ、大人になるにつれ、それらは忘れ去られていくことがほとんどです。
しかしながら、ヴィヴェーカーナンダは29歳の時、次の言葉を述べています。

「世界が自分の後をついてくるまで、インドにはもう戻らない」

そしてアメリカに渡り、世界宗教会議で「真理はただ一つ」と宣言したのです。

世界の矛盾と真っ向から対決し、行動に移したヴィヴェーカーナンダ。
では、どうしてヴィヴェーカーナンダはそれができたのでしょうか?

大きな要因の一つはやはり、「自らを信じた」からだと感じます。
アメリカ行きを決める前、彼は2年間のインド遊行遍歴の末、旅の最終地カニャークマリで次の誓願を立てます。

「幾度生まれ変わろうとも、千の不幸に苦しもうとも、自らが信じる唯一の神、あらゆる魂、とりわけ邪悪なる我が神、苦悩する我が神、あらゆる民族の貧しき我が神を礼拝せんことを!」

そしてもう一つ、大きな要因だと感じることは――

ヴィヴェーカーナンダ聖誕150周年の2013年、私はベルルマトを訪れました。
一宗一派を超えて「真理はただ一つ」というヴィヴェーカーナンダの思いは、彼が設計をしたベルルマトに表現されていると感じました。
その外観は見る角度によってヒンドゥー教、イスラーム教、キリスト教、仏教の寺院に見ることができるように作られていました。
そしてその聖堂の中には、彼の最愛の師である「シュリー・ラーマクリシュナ」だけが、存在していたのでした。

ゴーパーラ


グルと聖音オーム

今年も残すところ、1日ですね。
皆様、今年はどのような1年でしたか?

2017年のブログ「ヨーガを生きる」は、ヨーガ・ヴィハーラでの瞑想会からスタートしました。
そして先日、今年最後の瞑想会が行なわれました。
そこで私はこの1年、師からいただいた「お言葉」に瞑想しました。

今年いただいた目標である「自己実現」から始まり、「徹底的に識別を行なうこと」、また「ゴーパーラ」という聖名をいただいたことなど、この1年の師のお言葉を振り返っていました。
それは瞑想というよりは、思い返すというような心を使った作業でした。
しかしながら、それを続けていると突然、心が止まりました。
そしてその瞬間、場面が一瞬にして切り替わったかのようにして、「オーム」の音が聞こえてきました。
ヨーガダンダさんが唱えているのかなと思い、目を開けました。
しかしそれは、ヨーガダンダさんが唱えていたのではなく、ヨーガダンダさんから鳴り響き、また暖房や壁、絨毯、すべてから鳴り響いていました。
その時私は、師のお言葉を思い返していたから、オームの音が聞こえてきたのだと直観しました。

「プラナヴァ、即ち聖音オームは、無上の存在(神)であり、始原のグルであるイーシュヴァラを表す。プラナヴァ・サーラはサットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの教えの精髄(サーラ)――ヨーガの福音である」

改めてこの1年を振り返ると、毎週の直伝クラスをはじめ、4月の祝祭の開催、5月の松山特別サットサンガ、6月の京都特別サットサンガ、夏のニューヨークご訪問、また2度にわたる台湾ご訪問にと、師であるヨギさんが本当に動いてくださった1年でした。
特に直伝クラスでは、師の一押しでアーサナが深まり、師が近くを通るだけで集中が強められ、まさに師の一挙手一投足、すべてが導きでした。
また松山、京都、ニューヨークのサットサンガでは、どんな状況でも、どんな質問にも全く動じずに、誠実かつ泰然と答えられている師のお姿に、絶対の安心と信頼を感じずにはいられませんでした。
そして何より、そこには必ず「祝福」がもたらされていました。

先月のサットサンガで私は「自己実現の目標まで、あと1カ月しかありません」と言うと、師は次のように答えられました。

「まだ1カ月もある」

今年もまだ1日残っています。
目標達成、諦めません!!!


最後になりましたが、今年もブログ「ヨーガを生きる」をご拝読いただき、まことにありがとうございました。
新年からは、新体制で臨みたいと思っております。
皆様、来年もどうぞよろしくお願い致します😇🙏

 

ゴーパーラ


直伝クラスでの経験

ヨギさんの眼差し、声、長い足で颯爽と歩かれる時にそよぐ風。あまりにも魅力的で釘付けになってしまう。むっつりスケベの私にとって、ヨギさんを間近に感じながらアーサナによって内面でヨギさんに触れようとすることは、誰にも知られない神との密会のようで、とてもドキドキワクワクすることです。

私は腕が生まれつき曲がっています。10年くらいアーサナをしていますが、左右とも真っ直ぐには伸びきらず、アーサナの種類によってはできないだろう・・・と半ば諦めに近いポーズがいくつかありました。

ところが・・・ヨギさんのクラスに出始めて異変が起きたのです。
クラスが始まった頃、ヨギさんが口頭でアーサナのポイントを説明され、その言葉をもとに形を作っていきました。完成ポーズの保持時間が長く肘が曲がっていて苦手と感じるアーサナ(ヨーガ・ムドラー、チャクラ・アーサナ)のとき、心が悲鳴をあげてもがくような感じでも、ヨギさんと同じ空間にいる嬉しさの方がいつの間にか勝り、クラスに通うごとに肩関節の可動域が広がっていきました。

組んでいる手が中途半端にしか上がらずプルプルして死にそうだったヨーガ・ムドラーは、肩関節の可動域が広がったお陰で肩先を広げ、両側の肩甲骨を背中の中央に引き寄せる感覚を身につけることができ、組んでいる手が頭の方に楽に近づけるようになりました。今まで以上に深い形で呼吸に集中することができるようになり、ポーズを戻した時のプラーナの流れは激流のように感じられ、心が一気に静まり満たされる感覚を覚えました。

またチャクラ・アーサナは背中の肩口あたりに集中すると、長い保持時間の間、できる範囲で腕をしっかりと伸ばし、肩口のところに集中点をもってきてハートをヨギさんの方に向けていると、気付いたら腕で支えるのではなく、背骨で支えて保持する感覚が分かるようになってきました。

肘が曲がっているからできないという思いはいつの間にか消え、むしろするのが楽しみなアーサナになりました。

ある時、瞑想が終わりシャヴァ・アーサナをした時のこと。「はい、起きて」と言われたヨギさんの声が、ヨギさんが座られているところからも、自分の胸の中からも、両方から響き渡って聞こえてきました。びっくりしたのですが、それはとても当たり前のことのような感じがして安心しました。

『いつも私はみんなの中にいます』

ヨギさんの言葉が浮かびました。

どこにいてもヨギさんがいてくださることを胸に、もっとそれを味わえるように日々サーダナに取り組んでいきたいと思います。

 

アマラー


直伝クラスでの経験

昨年の12月から、古代から伝わるヨーガの真髄であるアーサナ・瞑想を、師シュリー・マハーヨーギーが直接にご指導くださる直伝クラスが誕生しました!弟子たちはその貴重な経験によって、多くの霊的な気付きや恩寵がもたらされています。今回は、弟子のチャイタニヤさんがの直伝クラスの学びについて記事を寄せてくれました!


師が直接アーサナを指導される直伝クラス。
私はそこで、プラーナ(根本・生命エネルギー)という気の働きを自分自身の身体の中で、そして環境の中で確かに感じる事ができました。
また、それを自分で意識的に扱うことも出来る事に驚きました。

自宅でアーサナをするときは、習慣として行なっている部分が強く、内的集中が深まっても、自分の体感に懐疑的というか、それこそ『気のせいかも?』と、ことさら取り上げて考えないようにしていました。良く出来るときはそれなりで良いけれど、今ひとつなときは、『うまくできないのはこれこれが原因だ』とか、なんだかんだと心が一瞬ですり替わって、出来ない理由を正当化する癖がありました。

しかし直伝クラスの最中には、そういった心の思いそのものが起こる事もありません。気持ちが他の事に外れる事もなく、ただ呼吸に集中するだけです。保持する間は限界まで必死でやり、うまく出来ても、出来なくても心の反応や感想が全く出てこないのです。
いわゆる一点集中しているということだと思うのですが、普段以上に集中力が極まる状態が何十人の参加者で同時に起きているというところが凄いと感じました。
師の場を支配する力に何十人もの心が引き集められ、フリーズしてるような印象を受けました。

プラーナが感じられると、ポーズをつくるタイミングやシャバ・アーサナ(屍のポーズ)に入るとき、また次のアーサナに移るときの身体の動きや心構えにとても敏感になります。少しでも動きが荒かったり、慌てたような動きになるとどこか気持ち悪いというか、収まりが悪いような、不自然さや違和感を感じるようになりました。
全体の流れや、間合いの細かな変化を確かに身体でも感じられる様になりました。

いい流れで進む時にはシャバ・アーサナからすぐに次のアーサナに流れるように移行したいと感じ、呼吸や心が調わない時は一呼吸待つ。ここ!今!という絶妙のタイミングを自分の中で大事にして、プラーナの微妙な変化をしっかりと読みとるようにしています。

全体のアーサナがこのように行なえると、頭頂部から尾てい骨まで背骨を中心に中空のトンネルが空いた様に、身体が内側からすっかり換気されたような体感があります。
直伝クラス後は、ただ静かにじっとしていたい、なるべく小声で話したい、というようなポーッとした心地よい脱力が続きます。

師が会場をゆっくり歩かれるだけでスモークのように気が動いているのを感じます。
師に手を軽く触れられると、姿勢がグーッと伸びていくように感じ、自分はこんなにも深まったポーズが出来るのかと感じました。

私達は心を神だけに向けて、世の中を無私の生き方で献身していく。そう約束した弟子達をいつも見守ってくださる師。
直伝クラスは、その働きの為に必要な身体と心をつくる手解きを、師から授かっているわけです。
アーサナのみならず、ヨーギーとしての総仕上げをグルから直接受ける大変貴重な学びの場なのです。

Caitanya


スジャータの施しとブッダの悟り

ブッダは断食の苦行をやめ、村の娘スジャータから乳粥の施しを受け、瞑想の座につきました――

私は20歳の時、このスジャータ村を訪れました。
2500年前、ブッダが生きていた当時と変わっていないであろう田園風景と人々の暮らしがそこにはありました。

あれから13年経った今、私はこのスジャータのエピソードから、「人は何のために生きるのか?」ということを考えさせられます。

ブッダと同じ時代、マハーヴィーラという修行者がいました。
彼は生涯において厳格な戒律に従い、すべての生物に対して細心の注意を払って不殺生を実践し、最後は断食の修行で命を終えたといわれています。
不殺生の究極ともとれるマハーヴィーラの生き様からは、彼が命を懸けて「真理」に向き合っていた凄まじさが伝わってきます。

一方、ブッダは六年間の苦行の末、「健康な体と心を持ち合わせていなければ、悟りを啓くことは不可能だ」として、スジャータから乳粥の施しを受け、瞑想の座につきます。

ブッダとスジャータ。菩提樹の後ろに描かれている5人の修行者はブッダが苦行をやめたことを誹るも、後にサールナートでブッダから最初の説法を授かり(初転法輪)、弟子になったといわれています。

そして、その瞑想においてブッダは次の言葉を言ったといわれています。

「無知の中で100年生きるより、真理の中で1日生きる方がいい」

スジャータの施しとブッダの身体を満たした乳粥、瞑想の座についた大地、風や寒さをしのぐ大きな菩提樹、そしてブッダの大いなる覚悟――

一切が真理実現のために存在しているシーンが思い浮かびます。

12月8日はブッダが悟りを啓かれた日です。

ブッダの心境に思いを馳せ、そしてその偉大なる存在の御足に礼拝します。

ブッダが悟りを啓いた菩提樹。スジャータ村から少し歩いたところにありました。

 

ゴパーラ


千本丸太町で朝ヨーガ・瞑想!!

ジャイ!!!ジャヤンティー!!!

先日23日は私たちの師であるヨギさんの御聖誕日でした。

ヨギさんの純粋な愛に触れると、嬉しくて嬉しくて嬉しくて、胸の奥から歓びが溢れ出す、言葉では言い表せない歓喜。その愛の深さにずっと魅せられ続け憧れ続け、私はヨーガをしてるんだ、と改めて思ったのでした。

さて、まだ興奮は冷めませんが10月から始まった金曜日午前のアーサナ・瞑想クラスについてご紹介させて頂きたいと思います。
まずは会場の様子から・・・
ヴィハーラの目印は何と言ってもジャーン!このオレンジの看板です。

朝の爽やかな空気を吸い込み、この扉をくぐり抜け階段を上がると・・・雪国!ではなく、落ち着いた緑色の絨毯が敷き詰められ、壁にはインドの神様(ドゥルガー女神、シヴァ神、クリシュナ神)の絵が飾られた美しい空間がお出迎えをしてくれます。神聖なプラーナ(氣)に包まれたこの空間でアーサナをすると集中が高まり、ポーズが家よりも深くできるから驚きです!

平日(金曜日)午前中のこのクラスは、土日や夜に外出が難しい主婦の方にぜひ来て頂きたいという思いで始めました(もちろん主婦以外の方、男性も大歓迎です)。
家事や育児、仕事に日々追われて過ごしていると自分自身のことはつい後回しになりがちですよね。このクラスの時間は静寂の中、自分自身と丁寧に向き合うことができます。
アーサナのポーズ中1つ1つのポイントを確認しながら呼吸に集中していくと、心は穏やかになり身体の疲れは癒されていきます。
例えば私自身の例でいうと、些細なことで夫と言い合いになりプンプン怒っていたりしても、クラスに来てアーサナをすると心が落ち着いて素直になれたり(仲直り)、子どもと同じ布団で寝ていて寝返りがうてず肩や腰が痛くなっていたのがすっかり解消されたり、とっても不思議なのですがこの1時間半の間に心も身体も軽やかになってクラスに来る前の状態とすっかり変わってしまうことがよくあります。

クラスに来られた方からも「すっきりしました!」という言葉や「気持ち良かった」という言葉、「普段意識しない身体の部分が動かせて良かったです」という言葉など、嬉しい感想を頂いています。ヨーガの素晴らしさをより多くの方に体感して頂けたらと思います。

これから寒くなりますがお部屋を暖めていますので、安心してご参加ください😊

オレンジの扉の向こうでお待ちしています〜!

アマラー


もうすぐ、サットグル・ジャヤンティー!!!

今はもうまっさらな状態、そこに残っているのは藁と土だけ――
水がひかれ、小さな苗が植えられ、夏の日差しを受けてすくすくと育ち、そして実り、頭を垂れる稲穂――
仕事の行き帰りに通る田んぼを見て、私はいつも「ある日」のことを思います。

もうすぐ11月23日ですね。
現在では勤労感謝の日となっていますが、以前は「新嘗祭」といって、天皇が新穀を神に捧げて自らもそれを食し、その年の収穫を感謝する祝祭日であったといわれています。
雨の日も風の日も夏の暑さも乗り越えて、耕作者の方々が丹精を込めて収穫するお米は、白米や餅米、またお酒になり、私たちの身体を維持し、また歓びを与えてくれる大切な命の恵みです。
私たちはこの食物の恵み、また太陽や雨、土といった大自然の力に生かされ、さらにはその力を司る大いなる存在によって生かされています。
古来より、その大いなる存在は「神」と呼ばれてきました。

そしてこの11月23日は、私たちの師であるヨギさんの御聖誕日です。

私は毎年1年間、この日のために生きていると言っても過言ではないと感じます。
仕事の行き帰りに田んぼを見ると、「今年も御聖誕祭に向けて師に歓んでいただけるように、がんばろう」と御聖誕日のことに思いを馳せます。
この日があるから、日々のアーサナや瞑想、カルマ・ヨーガ、ミッション・ワークスもより励むことができます。
私たちヨーガ行者にとっては、神を悟り、神そのものであられる師に生かされ、歓びを与えていただいていると心から感じるのです。

「アヴァターラ(神の化身)の出現は、生きとし生けるもの、すべてのものにとって救済と祝福が与えられたということです。それは時間に限定されるものではなく、時間を超越し、永遠に存在している、そういう吉祥な歓びとなっています。人々はそれを歓びとしてジャヤンティー(御聖誕祭)を祝う、あるいはそれに浴するということです」
――サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

今、京都や東京、松山といった日本のみならず、台湾、ニューヨークといった世界各国の弟子たちも御聖誕祭に向けての準備が大詰めを迎えています。
さて、今年は稲に例えるならどんなお米、御神酒が捧げられるのでしょうか?
玄米のような栄養価の高いものか、それとも白米のように純白で食べやすいものか、二割三分にまで磨かれた大吟醸のような美酒か、かたや、どぶろくのようなものまでも😳???

神の宴まで、あと2日です!!!

ゴパーラ


見えざる力

毎年、金木犀の香りがし始める頃から私達はソワソワとしはじめ、銀杏並木が色づきだす頃には準備に忙しく駆け回り、期待と緊張が混じり合いながら、歓びがドンドン大きくなって、皆一つの輪の中にいるように過ごします。

四年前、初めて御聖誕祭のお仕事を手伝わせていただいて、丁度今頃は毎晩のようにミーティングを繰り返し、ようやく当日の朝を迎えました。
雲一つない抜けるような秋晴れの朝、自転車でアシュラマへ向かう途中で目にする木々や道路脇の草花、ブロック塀や木の壁のシミに至るまで全てがキラキラ輝いていました。
まるで今まで曇りガラス越しに見ていたのが急に総天然色に変わるような。
聞こえる音も街の喧騒も同じように美しくクリアーでした。

全てが祝福されている。「目に見える全ての事はメッセージ」という歌がそのままに感じられる体験。集合場所へ着くなりゴーパーラーに「目に見える全てが美しい!まるでいつもと違う。感動で鳥肌が治らない!!」と興奮気味に話したのを覚えています。
あの体験が、ヨーガを自分の人生の中心に据えるようになった原点のように思っています。

師の恩寵は本当に自分の想像できる範囲を超えて与えられていると感じます。

四年前に初めて体験した、目にするもの全てが愛おしいと感じた高揚感、何ものにも変えられない満足感の元に何が有るのか?私はその正体をもっと知りたいと思っています。

11月23日は、その見えざる力の源に対して感謝と誓いを捧げる私にとって一年で一番大切な日です。
ある人はその日を「約束の日」と呼び、ある人は「修行者のピリオド」と言います。

さぁ、今年はどんな歓びの歌が響きわたるでしょう!!!

Jai Jayanti!!!!!

チャイタニヤ


ブラゴパーラ vol.4 「千本釈迦堂 大報恩寺」編

皆さん、こんにちは。
約半年ぶりのブラゴパーラです😎
今回は冬の大根焚きで有名な大報恩寺、通称「千本釈迦堂」に行って参りました。

この千本釈迦堂は自宅のシャーンティ庵の裏手にあり、前回取り上げた釘抜地蔵よりも近いかもしれません。
そんな近所のお寺ですが、実はかなりすごい所だったのです‼️
応仁の乱など幾多の戦火から難を逃れた本堂は、京洛最古の木造建築物ということで国宝に指定され、本尊の釈迦如来像(秘仏)も国宝、また霊宝殿には快慶一派作の十大弟子立像や六観音菩薩像などの重要文化財が多数所蔵され、まさに仏教美術の宝庫なのです💎✨

本堂の外壁の格子戸からは洗練された美しさと力強さが感じられ、また本堂内の太い柱は重厚で、それが支えとなってか、とても落ち着く静謐な空間でした。

本堂内からみた景色。

霊宝殿の作品は間近で拝することができ、その仏像が放つ迫力と、緻密な作りに圧倒されました。

定慶作 「六観音菩薩像」。 全国で唯一の六体一同に安置されている観音様。

本堂・仏像共にダイナミックかつ、精妙なものを感じずにはいられませんでした。
この何というか「ピシーっ」とした空気感は、良い悪いということではなく、閻魔堂や釘抜地蔵にはありませんでした。

では、この千本釈迦堂の特有の空気感は、どこから来ているのでしょうか👀?

私は仏教建築や仏像の知識はほとんど持ち合わせていませんので、個人的な見解になりますが、その一つには宮大工や仏師たちの「研ぎ澄まされた精神」が関係しているのではないかと感じます。

仏像彫刻をする仏師はもちろんのこと、宮大工もかんなやのこぎりなどの刃物を扱い、その切れ味が物作りに直結するといわれています。
「棟梁は柱も組むが、人組み」と述べたという法隆寺の解体・修復に取り組んだ宮大工棟梁の西岡常一さんは有名ですが、その西岡さんも見習いの時は「刃物研ぎ」を厳しく仕込まれたそうです。
最近、西岡さんの唯一の内弟子である小川三夫さんのインタヴューを目にしました。
師匠に弟子入りしたら、娯楽は一切禁止、仕事が終わったら刃物研ぎをするそうです。
1年くらいすれば一応は切れるものにはなるようですが、一点の曇りもない研ぎをするには「毎日一所懸命研ぐこと」と、「ちょっとしたことに気付くか気付かないか」が大事だと言っていました。
「研げた」と思えるそれは、本人にしか分からない領域のことで、師匠や先輩が削る木屑などから感じ取れるかどうか、そのちょっとした感覚が物作りに関係してくるそうで、そのようにして「研ぎ澄まされた精神」が養われると言っていました。

道具の研鑽は、心の研鑽になるのですね

ヨーガ行者の道具は何かといえば、「心」ですよね。
瞑想で心の余計な思いを削ぎ落とし、研鑽していく。
そうして心が澄み渡った時、その奥に在る真実に目覚める――

私自身、日々の研鑽に励み、「ピシーっ」となりたいと感じた今回のお散歩でした😇

 

ゴパーラ