投稿者「ゴーパーラ」のアーカイブ

クリヤヨーガ

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

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パラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』には、「クリヤヨーガ(実行のヨーガ)」という教えが際立っていることは、本を読んだ方なら誰しもが感じるところだと思います。しかしながら、その内容は「秘法」ということで、開示されてはいません。
では、なぜクリヤヨーガは秘法とされているのでしょうか?
今回のサットサンガでは、クリヤヨーガの秘法たる所以(ゆえん)が明らかにされました。

サットサンガの前半、真理の教えを実践しようとするも、日常の思いや行為がなかなか変えられないという質問が続きました。師はそれに対して、「本当に生きているという意味とは何なんだろうと。誰が生きているのか。そういう根本的なことをもっと真剣に捉えないといけない。それはすぐには理解できることではないかもしれません。それでも自分自身にそれを問いかけていくことが大事です」と述べられ、この人生の命題の答えを見つけるには「訓練」――アーサナはもちろんのこと、ヤマ・ニヤマ(禁戒・勧戒)といった日常における心の働きの訓練――それが最も大切で、その訓練によって瞑想の土台がつくられると説かれました。
会の終盤からは、ブラフマチャリヤ(純潔)の実践など、ヤマ・ニヤマに関する質問が続き、『あるヨギの自叙伝』を読み返しているというゴーパーラが、「クリヤヨーガは秘法といわれていますが、やはりヤマ・ニヤマのところが大きいですか」と質問する。

「大きいです。ヨーガは特にクリヤヨーガ――クリヤというのは実行するとか実践するとかいう意味合いです――実践的ヨーガ、実行のヨーガというふうに訳されるでしょう。そこでは毎日実行すべきものとして、聖典の学習、それから何らかの肉体をともなう修行、訓練、そして神への祈念、瞑想、その三本柱を特に取り上げてクリヤヨーガというふうにいっています。ヨガナンダが本の中でクリヤヨーガというものを初めて西洋に紹介をしたのです。ヨーガそのものを具体的に実際的に紹介したといってもいい。教えとしてはヴィヴェーカーナンダがその先駆であったけれども、それをより実践的なかたちで、つまり弟子たちを育てていくという使命を担ってアメリカに渡ったわけです。その中でヨーガというものをより実際的にしていくためにクリヤヨーガという言葉を使ったのだろうと思う。単なる知的な理解だけではなくて、ヨーガを実践していくという、実践することがヨーガですよということを、みんなに実践を求めた。それだからクリヤヨーガという教えがひと際、あの本の中で際立っている。内容はさっき言った三つの柱を中心としていますが、その毎日肉体をともなう何らかの訓練、修行という意味はアーサナやプラーナーヤーマも指しますし、それからヤマ・ニヤマにおける行為のあり方、これも含んでいるのです。それもあって実践、実際的実践になるわけですから。そして、あえて本ではつまびらかにそれらの内容を教えなかったことには理由があって、これはやはり本当に求める者でないとそれを実践できないから。単なる興味本位の知識としてそれらを知ることでは何の意味もない。だからその真実というもの、真理というものに並々ならぬ関心を抱いて、そしていわばヨガナンダの弟子となり、悟りを求める、実践を行なう者たちに初めてその内容が教えられていくという、そんな手順だったと思う」

ヨーガとは知的理解ではないクリヤ、即ち実行・実践であり、そしてそれを可能にするのは、真理を求める並々ならぬ思いである――
最後に師は、純粋な求道者の象徴ナチケータスについて説かれます。

「以前、『アムリタ――不死ーー』という聖劇をみんながやってくれたのですけれど、あの中でナチケータスという少年が死神の下に送られて、死神から真理を教えられるというくだりがありました。ナチケータスが死の国に行った時に、たまたま死神が不在で、三日三晩待っていたという逸話があります。その三日三晩というのは伝統的な習わしなのです。これは仏教の方にも伝わっていまして、禅宗なんかでは弟子入り、入門をしようと思えば、三日間門前で待っていなきゃいけない。つまり、その者の真剣さというか熱意とか本気とか、そういうものが試されるわけです。そうして三日を過ぎて初めて入門という門を入ることを許される。そんなふうにクリヤヨーガもそういうところを表しているんだと思います」

秘法とは隠されたものではない、求める者の真剣さによって開示される!
どんな状況でも、どんな誘惑がやってきても、ナチケータスが死の秘密という真理だけを求めたように、その門戸をノックし、神だけを叫び続けることができるか?
切に真理だけを求める真剣さと日々の実践、それこそがヨーガの秘法であると学んだサットサンガでした。

ゴーパーラ


『あるヨギの自叙伝』を読んで(2)――ラヒリ・マハサヤ――

皆さん、こんにちは。
ゴーパーラです。
今回は、「ラヒリ・マハサヤ」について紹介させていただきます。

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「お前の今生の役割は、市井の中で生活して、家庭人としてのヨギの理想的な模範を人々に示すことにあるのだ」

ヒマラヤの奥地に数千年にわたって現存する神人ババジは、ラヒリ・マハサヤにこのように告げ、秘法クリヤー・ヨーガ(特定の行法による神との合一)を伝授しました。
1861年、ラヒリ・マハサヤが33歳の時でした。

「ヒマラヤ奥地に数千年にわたって現存する神人ババジ!?」「クリヤー・ヨーガって何?」
「??」がついた方も多いと思いますし、何だか神話やおとぎ話のようなファンタジーに思えてなりません。
しかしながらこのエピソードがその類いのものではなく、リアリティをもっていることは、ラヒリ・マハサヤの生涯によって明らかです。
イギリス政府の陸軍技術省の会計官であり、家庭をもっていたラヒリ・マハサヤでしたが、終世、バラナシの小さな家に留まり、家庭人の勤めを果たしながらも、霊性の修行と引導を行ない、ヨギ(ヨーガ行者)の最高のお手本となったのです。
パラマハンサ・ヨーガーナンダは、ヒマラヤで修行する伝統的スタイルのヨギと比較して、ラヒリ・マハサヤを「新型のヨギ」と称しているほど、その存在は革新的だったのです。

このようにラヒリ・マハサヤは、ババジの命に従い、どちらか一方でも容易ではない聖俗両方の仕事を全うした偉大な存在ですが、ヨーガーナンダのように目立った活動が見受けられなかったためか、私にとってはどこか印象の薄い存在でした。(大変失礼なことを言っています……😅
『あるヨギの自叙伝』を読めば、ラヒリ・マハサヤの驚くべき奇跡の数々が伺え、普通の存在ではないことは分かります。
盲目の弟子に視力を与えたり、遠く離れたヨーガーナンダの父の前に光の姿で顕現してその心を一変させるなど、イエス・キリストのような奇跡の数々を残していますが、不思議と私は彼の存在に関心をもっていませんでした。

しかし今回、改めて『あるヨギの自叙伝』を読み返した時、ラヒリ・マハサヤの印象は全く異なり、私の心はその存在に大きく魅了されました。
それは、ラヒリ・マハサヤの「陰の偉業」のようなものが感じられたからです。
『あるヨギの自叙伝』では、マハトマ・ガンジーやラマナ・マハリシといった名立たる聖者と並び、あまり知られていない聖者も紹介されていますが、その多くがラヒリ・マハサヤの直弟子でした。
眠らぬ聖者ラム・ゴパール・ムズンダーのように隠遁していた弟子もいましたが、世俗に留まっていたスワミ・ケバラナンダやスワミ・プラナヴァナンダ(両者は後に出家)、またヨーガーナンダの父バカバティをはじめ、本当に多くの素晴らしいヨギを育てていました。

教えを広めることには慎重だっというラヒリ・マハサヤ――
地道に、また着実に、真理を一人一人の心に根付かせ、霊性の土壌を耕して、その種子を芽吹かせていたのでした。

このラヒリ・マハサヤの陰の行為があったからこそ、霊性の基盤が築かれ、スリ・ユクテスワ、そしてパラマハンサ・ヨーガーナンダへと、永遠の真理「サナータナ・ダルマ」が受け継がれたのだと感じました。

ゴーパーラ


ブログ新企画『ゴパーラが行く〜あるヨギのお散歩〜』    vol.1 御金神社編

皆さん、こんにちは。
ゴパーラです。
今回から、ブログ新企画『ゴパーラが行く〜あるヨギのお散歩〜』のスタートです。
第1回目は、京都中京区にある「御金神社」に行ってきました〜😎

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眩しいほどに光る、金色の鳥居と献灯。
この御金神社はおかね神社ではなく「みかね神社」といって、刀や農耕器具の鋤・鍬、金銀銅の貨幣などの御金(みかね)を護る神様をお祀りしている国内唯一の神社とのこと。
「ここ、ご利益ありますよ。仕事帰りに毎日お参りして、給料がアップしました」という方がいるなど、22時近くにもかかわらず、多くの人が参拝していました。

この神社、鳥居をくぐるとすぐ右手に、何やら巨大な物体が👀⁉️
何と驚くことにそれは、お金のご利益を祈願した絵馬の固まり、まさにお金の怪物でした〜😨

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人間のお金に対する願いというか願望に唖然……

しかし、このお金のモンスターを目の前にしても不動の男が……

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「金、女、煩悩ばっかり、必死で追いかけていた。苦しくて、虚しくて、溜息ばかり。涙ポロポロ、心ズタボロ。ボロ、ボロ、サブミラボロ(讃えよ、讃えよ、皆で神を讃えよ)!」
と昨年、自らの半生をラップしていたザ・バブル世代のチャイタニヤさん。
お金の酸いも甘いも知っている彼が最近、師であるヨギさんや先輩弟子の質素な暮らしと在り方を見て、「お金の使い方を見直している」とのことで、「お金と布施」についてヨギさんに質問していました。
以下が、その時のヨギさんのお教えです。

「心を蝕んでいるものは、カルマであり、また煩悩であり、無知であるという大枠はだいたい理解していると思う。それらの象徴的なものが、お金であったりするわけです。お金に執着があるということは、他(た)の物欲、煩悩、欲望、さまざまなものへの執着がそこに潜んでいるというふうも見えます。だからその象徴的なものであるお金を、聖なるものに喜捨する。『喜捨』――喜んで、喜びをもって布施する。ということは、自らの心の内の不要な物欲、煩悩、そういうものを減らしていく、無くしていく、そういう働きにもなります。それで、仏教なんかでも布施行というのがあったり、六波羅蜜という波羅蜜行というのがあるんですけれども、六つの段階があって、その最初に布施波羅蜜といって『布施をしなさい』ということが教えられます。それは今言ったように、心を浄化する効果がある。やはり物欲の象徴は、金銭欲、執着ということになりますから。その意味でも、布施というのは正しく実行するのが望ましいと思います」

お金への執着はその裏に煩悩や欲望が潜んでいて、そのお金を聖なるものに布施する行ないは心の浄化に繋がる――
チャイタニヤさんは、「お金について見直すことは、生活を見直すことになった」と話し、実際に外食やお酒、無駄な買い物を避けているそうで、師から「何もやめなくてもいい」とのお墨付きをいただいた彼が、自発的にお金をセーブして布施を実践しようとしている姿勢からは、何か強力なエネルギーを感じ、とてもインスパイヤされました。

お金は衣食住の確保や家族を養うためなど生活において必要な物ですが、だからこそ、この人生においてその大切なお金をどのように理解し、どう使うのか――
「お金のベクトルって、人生のベクトルなのでは👀?」
そのようなことを感じたチャイタニヤさんとの交流でした。

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「新しいアーシュラマが……」とつぶやいていました💫

ゴパーラ


『あるヨギの自叙伝』を読んで(1)――バガバティ・チャラン・ゴーシュ

皆さん、こんにちは。

最近、「無所有」に思いを巡らせているゴーパーラです。

「むっ、無所有?! ついに家や財産を放棄して、出家するのか?!」と思う方もいるかもしれませんが(いないかもしれませんが)、元よりそんな🏠💰は持っていません。

ヨーガにおいて無所有とは、単に物を持っていないことではなく、心に何の思い煩いもない「無執着」の境地を意味しています。

私の今年の目標である真実の自己「アートマン」に目覚めるためには、その実現を阻んでいる心の煩悩や執着を無くさないといけないので、今はそれらの原因に識別・瞑想しています。

そんな中、一週間ほど前から、パラマハンサ・ヨーガーナンダの『あるヨギの自叙伝』を読み返しています。

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聖典に限らず、小説や映画などを改めて見返すと、「あれ、こんなところ、あったっけ?」といった具合に、感じ方や印象が違うといったことはありますよね。
特にそれが良い作品であればあるほどに、まるで初めて触れたかのような新鮮な発見とそれに伴った喜びがありますよね。
私はこの『あるヨギの自叙伝』を読むのは3度目ですが、今回もありました、その新鮮な発見と喜びが!
それも読み始めた4ページ目で!!!

そこには、鉄道会社に勤めていたヨーガーナンダの父バガバティ・チャラン・ゴーシュについて書かれていました。

父は、子供たちが小さかった間は、厳格なしつけを施した。そして自分自身は、文字通り謹厳で質実を旨としていた。例えば、劇場へ行ったことは一度もなく、楽しみといえば、霊的な行か、バガヴァッド・ギーターを読むくらいのものであった。
父の退職後、その鉄道会社にイギリス人の会計検査官がやって来て、検査をして驚いた。「この人は三人分の仕事をしているじゃないか」――
未払いのボーナスが支給されるも、父は大して問題にしていなかったので、忘れて家族にも話さなかった。よほどたってから、私の末の弟ヴィシュヌが、銀行からの通知書にこの多額の預金があるのを見つけ、驚いて父に尋ねると、父は言った。
「物質的な利益に、どうしてそんなに有頂天になれるのだ。心の落ち着きを人生の目標にする者は、自分の持ち物が増えたからといって喜び、減ったからといって悲しんだりするものではない。人間は裸でこの世に生まれ、無一文でこの世を去るのだ」

これぞ、物の有無ではない本当に清々しいまでの無執着の境地、また結果に執らわれず自らの義務を淡々と行なうカルマ・ヨーガのお手本であると、私はとても感銘を受けました‼️
併せて、劇場などの娯楽に一切興味がなかったという心境も、見倣うべきところです。

「さすがはインド人、宗教が生活に根付いている」と一見思ってしまいますが、ヨーガーナンダの父バガバティも最初からそうではなかったそうです。
彼は霊的な修行をする以前は、鉄道員の同僚が遠く離れたグル(霊性の師)に会うために1週間の休暇を願い出た際、「君は狂信者になりたいのかね? 出世しようと思ったら、今の仕事に精を出しなさい」と言っていたほど、霊的なものに偏見がありました。
感覚的には、現代の日本人と何ら変わらないですよね(笑)。

ではなぜ、そんな彼が180度、人生観が変わることになったのでしょうか?

それは師ラヒリ・マハサヤと出会ったからです。(続く)

ゴーパーラ


ブラヨーヘイ vol.11(最終回)ハン六編

今回のブラヨーヘイは、京都伊勢丹10Fのハンコ店「ハン六」に行ってきました〜😎

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皆さんは普段、ハンコをどのくらいの頻度で使用されていますか?
僕は介護の仕事をしているのですが、仕事の終わりには必ず記録表と実績表というものにハンコを押すこともあって、毎日のように使用しています。
そのため今回、ハン六さんでは、キャップの取り外しのないキャップレスタイプのシャチハタを購入しました😁

個人差はありますが、日常的に使用しているハンコ。
でも、実はすごく重要なものでもありますよね。
一人暮らしを始める時、親からは「絶対に保証人のハンコは押すな」と言われたことを、今でも覚えています。
誰かの保証人になる時や銀行口座の開設、家の購入、婚姻届けなど、ハンコを使用する時というのは人生の大事な場面が多く、サインとはちょっと重みが違います。

ではなぜ、このようにハンコは人生の重要なシーンで使用されるのでしょうか?

以前ヨギさんは、ヨーガの教えるムドラー(印)に関連して、ハンコについて次のようにおっしゃっていました。

「ハタ・ヨーガというタントラの中での中心的な教えは、ムドラーというものがあります。ムドラーというのは印(ルビ:いん)というふうに訳すことがあります。判子の印です。判子というのは中国とか日本なんかでは、その判子そのものがその人を象徴するわけです。だからそれをもっといえば、その人そのものだというふうにいえるわけです。もうそれぐらいにムドラーというのはその本質、あるいは実体と同じものというふうに理解できます。ヨーガにおいては、特にハタ・ヨーガにおいては二十いくつのムドラーが数えられますけれども、それぞれの形は簡単なのです。アーサナよりもむしろもっと簡単。しかし内面におけるプラーナの制御とかそれから心の集中力とか、そういうものをともなっているので、ムドラーが深まれば即サマーディをもたらすと。サマーディをもたらすということは、ヨーガの究極の境地を表すわけですから、その体験に密接な関係をもっているものとして価値が認められているわけです……その他、無数にムドラーがあります。特に日本では密教系の仏像なんかは、みんないろんな手の形をもっています。それらは全部名前が付いているのです。だから仏像の手の仕草というか形は、すべて何らかのムドラーの名前が付けられているはずです。そのように本質を表すものがムドラーだということです」

ムドラー&ハンコ、恐るべし‼️「ムドラーが深まれば即サマーディをもたらす」「判子はその人そのもの」――なぜ、ハンコが人生の重要な場面で使われるのか、理解できました😁

そして最後に、皆様にご報告があります。
今年に入り、師から「ゴパーラ」という法名をいただきました。
ゴパーラとは、主クリシュナの幼少期の名前です。

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師から見たら、僕はこのような感じなのでしょうか😅

そのため、突然で申し訳ないのですが、ブラヨーヘイは今回で最終回にせさていただくことに決めました。
読者の方々、また撮影に協力してくださった方々、短い間でしたが、ご拝読いただき、本当にありがとうございました。
次の新しい企画が「ブラゴパーラ」になるか、また全く違うものになるかちょっと分かりませんが、楽しいブログになるように検討中です❗️
今後もどうぞよろしくお願い致します🙏

ゴパーラ👶


謹賀新年

皆様、明けましておめでとうございます🎍🌅
本年もどうぞよろしくお願い致します🙏
2017年最初のブログは、ヨーガ・ヴィハーラの瞑想会の様子をお届けします。
毎週月曜日、ヨーガ・ヴィハーラでは瞑想会が行なわれていますが、昨日の1月2日は月曜日ということで、お正月にもかかわず、ヨーガ・ヴィハーラの住人のヨーガダンダさんのご厚意で瞑想会を開催していただきました。

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私の今年の目標は「自己実現」ですので、私は真実の自己であるアートマンに瞑想しました。
参加者はヨーガダンダさんと私の2人でしたが、お正月ということもあって、普段よりも静かなプラーナが流れ、2時間の瞑想もいつもより早く感じられました。
このように、ヨーガの仲間と集える場所があることに深く感謝し、今年は自己実現という大いなる目標に向かって一日一日、ひいては一瞬一瞬をアートマンに留まれるように努力していきたい所存であります。
そしてその内面の充実が、ブログにも反映されたらと思っています😁
本年もブログ「ヨーガを生きる」をどうぞよろしくお願い致します🐓

飯尾洋平


インドナイト&今年の振り返り!

今年も残すところ1日ですが、皆さん年末はいかがお過ごしでしょうか?
昨日の12月30日、私たちはインドナイトというイベントに出演しました!

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昨年の年末からインド古典音楽の方たちを交えて行なっている『The Eternal Quest』のアーサナ・瞑想のデモンストレーションの再演ですが、「今年も年末にやろう!」ということになり、このイベントが実現しました。
場所は、友人が住むシェアハウス「KNOB」の屋上。
ビニールハウス型になっていて、その屋根の形や照明、見晴らしのいい景色は、インドやネパールの宿を彷彿とさせる不思議な空間!
イベントは、アーサナ・瞑想と『ウパニシャッド』の詩の朗唱、キールタン、インド古典音楽、また当日に急遽参加が決まった前職場の先輩の弾き語りがありました。以下がその時の写真です!

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アップで見ると、集中感が伝わってきますね。森岡さんの視線が凄い!

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志世ちゃんとグルダースさん。神の御名の連呼でまさに、神っていました(笑)!

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グルダースさん夫婦のお子さん真理ちゃんをパシャリ〜😁📷

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インド古典音楽のお三方。流石の演奏でした😇

昨年から再演させていただいている『The Eternal Quest』のアーサナ・瞑想のデモンストレーションですが、私自身、初めの頃はそこで朗誦される『ウパニシャッド』の詩の内容が全く理解できませんでした。
しかし、今年1年間イベントを行なっていく中、その言葉が少しずつですが、心に染み渡っていくような感覚がありました。
その前半部分をご紹介させていただきます。

この宇宙はどこから来たのかーー。
私は誰か?
どこから来て、どこに行くのだろう。
聖者たちは瞑想に没入し、自らの内に永遠なる真の自己、自ら光り輝く唯一の神を見た。
彼は唯一にして第二のものをもたない。彼は宇宙の主であり、一切万物の主である。
真実のところ、あなたは神と一つである。
あなたはこれを知らなければならない。
それ以外に知るべきことは何もない!


話は少し変わりますが、今年1年を振り返ると、本当に多くのことがありました。
新年会でのラップ、NYのグルバイとの交流、御聖誕祭の聖劇など、かなり濃密な1年でした。
ただそんな中でも、いちばんの出来事はやはり、「師の特別サットサンガ」でした。
特に愛媛での3日間の特別サットサンガに参加させていただいたことが、自分の中で大きな転換点だったように感じます。

「真の自己は、この身体でも心でもない、その奥にある永遠の存在」

愛媛の特別サットサンガで師から発せられるお言葉と恩寵によって、この真実が自らの内に芽生えたような感覚がありました。
今年最後の日、この1年を改めて振り返ると、リシ(聖仙)たちによって発せられた『ウパニシャッド』の言葉が感じられるようになったのも、師の存在があったからこそだと実感しました。

私は毎年の年末、師から1年の目標をお聞きしていますが、来年の目標を尋ねると、「そりゃ、自己実現やろ!」ということでした。
そのお言葉をいただいた瞬間、私の内からは歓びが沸き上がりました。
師の導きに心からの感謝を尽くし、来年は「真の自己」を実現できるように、精進していきたい次第であります!

最後になりましたが、ブログ「ヨーガを生きる」をご拝読いただいている皆様、今年1年間お付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。
皆様の嬉しい感想やコメントがブログの推進力になっています!

そして今年はラップで1年が始まったので(僕の中ですが…😅)、ラップで締めたいと思います。
では来年もブログ「ヨーガを生きる」を、YO・RO・SHI・KU!!!

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新年会で師に捧げたラップ。成り切っているのか、それともナルシストなのか……ちなみに真ん中はシヴァ神です✋

飯尾洋平


瞑想専科での2カ月の学び

10月20日に京都駅前に開講した瞑想専科も、スタートしてはや2カ月が経ちました〜😃
12月からは、「自分の心が思い通りにならないのはなぜ!?」「不思議!こだわりを手放せば心は軽くなる!」といったテーマで、心と真理について学んでいます。

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私自身、この瞑想専科に参加させていただいて、大袈裟ではなく、いつも新しい気付きがあります‼️
その一つが、「私は誰か?」という「アートマン・ヴィチャーラ(本当の私の探求)」の瞑想です。

真理において本当の私とは、この身体でも心でもなく、その奥にある永遠で絶対の存在だといわれています。
通常は、自分の身体や心を私だと思っていることがほとんどですが、アートマン・ヴィチャーラの瞑想は、時間や状況とともに変化する相対的な身体や心は「本当の私ではない」というふうに、私だと錯覚している自分を「これではない、これではない」と見極め、最終的に心の奥にある本当の私に目覚めていくプロセスを辿ります。

この「私は誰か?」というアートマン・ヴィチャーラの瞑想を少し難しいと感じる方も多いかもしれませんが、講師のサーナンダさんはご自身の体験から、この瞑想について次のように話されました。

「『私は誰か?』というこの問いかけは、心にとって苦しい状況の時に行なうほど、効果を発揮します。例えば疲れている時に、『疲れている私というのは誰か?』と問いかける。すると、一瞬にして疲れは吹き飛びます」

「そんなん、あり得ない!睡眠や休暇を取らないと疲れはなくならない!」と、普通の感覚なら思ってしまいますよね……😅
僕自身、この10月〜11月は御聖誕祭の聖劇の練習を毎日行なっていましたが、芝居の経験はほとんどなく、しかも人生初の主役ということで慣れないことが多い中、「ちょっと疲れているな……」と心がつぶやくことがありました。
その時、サーナンダさんの言葉を思い出し、「疲れている私というのは誰か?」と心に問いかけました。
すると胸の中央が熱くなり、一瞬にして疲れが吹き飛んでいきました😲‼️
その後も心がつぶやく時、この瞑想をすると一瞬にして疲れがなくなる体験が何度かありました。

瞑想専科でサーナンダさんは、「心の思いは雲のよう」とよくおっしゃいます。

先週の瞑想専科後、ある受講者の方が「苦手だと思っていた人に、嫌だという思いをもたずに接すると、とてもよい会話ができました」と感想を話していました。
それを聞いた他の受講者の方が、「本当によかったですね!実際的な効果ですね!」と喜んでおられて、受講された方々のこの2カ月の深まりが垣間見られ、好き嫌いや苦手意識といった心の思いは、本当は雲のようにあってないようなものだと感じました。

明日は今年最後の瞑想専科です。
今までは10分×2ほどの瞑想実習でしたが、明日は30分以上の瞑想にトライします!
お時間ある方、よろしければご参加ください😇🙏

※1/12,1/19, 1/26のみ、以下の会場にて行ないます。
ニュー末広ビル7F 京都駅烏丸中央口より徒歩1分

詳細はホームページをご覧いただけたらと思います。

飯尾洋平


台湾グルバイの滞在記

前回のブラヨーヘイで、3人の台湾グルバイ(仲間)について紹介しました。
彼女たちは京都を訪れる時には隆君と僕が住んでいるシャーンティ・クティーラという庵(いおり)に宿泊します。

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ヨギさんがデザインされ、作ってくださったシャーンティ・クティーラの表札。

今回は2泊3日と短い滞在でしたが、その時の彼女たちの様子を少しお伝えしたいと思います。

庵ではまず、早朝に30分ほど瞑想を行ないます。

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次に掃除をします。

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続いて朝食をとりながら、ヨーガ・トークスをします。
瞑想と掃除をした後は心がすっきりしていて、静かに落ち着いて話せます。
1日目の朝、その話題は「瞑想」についてでした。
台湾で映画の脚本家や小説の作家をされているエセーさんは、シヴァ神に瞑想しているとのことで、「アーサナの後、シヴァ神に瞑想すると、とても集中しやすい」と話していました。
この話を聞いた時僕は、「シヴァ神はヨーガ行者の守護者」とヨギさんがおっしゃっていたことを思い出しました。
台湾でヨーガのクラスをしているリンは、「私は誰か?」という「アートマン・ヴィチャーラ(本当の自分の探求)」の瞑想を行なっていて、その瞑想の中で、過去の経験によってつくられた自分や、変化する世界やそこで味わう幸福は本当のものではないと感じるようになり、それによって心がとても楽になったと目に涙を浮かべながら話していました。
ただ、本当の自分であるアートマンにどのようにアプローチしたらいいか分からないとも話していました。

今回の短い滞在の中、ヨギさんは彼女たちの要望に応えてプライベート・サットサンガを開かれました。
そのサットサンガの中でアートマンについて質問したリンに、ヨギさんは以下のようにお答えになられました。

ヨギ「アートマンの別の呼び名はサット・チット・アーナンダ。サットは存在、チットは意識。なぜならサットを知っている者は自ら自身だから。そしてアーナンダというのは至福と訳される。このサット・チット・アーナンダというのは絶対にして永遠の存在。この肉体は両親から生まれてきて何十年か経ったらなくなります。心もその人生の中でいろんな経験をしながら変化をしてやまないもの。だから身体も心も永遠のものではない。エゴ意識というのは心の一部分なのでこれも永遠ではないから、心を知っている、あるいは心を見ているという純粋な意識が誰もの本質にある。これが本当の自己」
リン「例えば瞑想する時、いろんな思いに気付きましたが、その思いを気付くのは心ですか、アートマンですか」
ヨギ「それはアートマンの意識によって心がそれらを認識している。そのシーンでは心の思いもいつも変化しているし、対象に応じて変化するけれど、アートマンは変わらない、いつも同じ。だから心がいろんなことを経験します――楽しかったり、悲しかったり、嬉しかったり、苦しんだり――でもそれらは常に変化をしているこの宇宙、この世界の晴れの日、曇りの日、雨の日みたいなもの。でもその五官で感じる世界より奥にある本質は、変わらないアートマンだけがある。その真理を学ぶこと、覚者の言葉を学ぶこと。そしてそれに真剣に心の耳を傾けて、そして本当のものを求める気持ちが高まってきたら、それはアートマンに近づいていっていることになる。昨日のジャヤンティーで最初にメッセージを読んだ女性は、保育園でクッキングをしている時に隣の部屋の子供たちの声や様子が感じられて、その子供たちがみんなアートマンだということを直感的に感じたという話だった。そんなふうにアートマン、アートマンと集中している時はなかなかそれをつかむことはできないかもしれないけれど、だけど普段そうやって集中しておくことによって仕事をしている時とか、あるいは何でもない風景の中にそういうものを直感的に感じることが起こります。そして何よりそのアートマンは本当の自分自身だから、それをありありと体験することができる。必ずできる。それには普段から心を軽く、空に、空っぽにしておくことね。アートマンを体験することは目覚めることと例えられる。だから目覚めるタイミングを早くするためには、心に何もないようにしておくこと。もちろんアートマンは神という別名もあります」

――普段からアートマンに集中し、心の思いに執らわれず、常に心を軽くしておくことがアートマンの目覚めにつながるーー
リンは、年に1度か2度しかヨギさんにお会いできない状況にもかかわらず、この世の楽しみへの感心が薄れて本当のものを求める気持ちがますます強くなり、アートマンに近づいているのが感じられ、僕はとても感化させられました。

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下鴨のアーサナ・瞑想クラスにて。左からエセー、ルー、リン。

彼女たちの純粋で直向きな姿は、本当に美しいです。
僕ももっとアートマンへの思いが高まるように精進していきたいと感じた今回の彼女たちの滞在でした。
またお互いに成長して会いましょう、再见(ザイジェン)!!!

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瞑想専科後に撮影。この日はヴィヴィ(薄紫のコートの女性)もいました〜😃

飯尾洋平


「ブラヨーヘイ」vol.10 京都御所編

今回のブラヨーヘイは「京都御所」です〜😎

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家々が軒を連ねて小路が多い京都ですが、京都御所は天皇の住居だったということで、敷地はとても広くて解放感があります。
また自然も多く、いちょうやもみじの紅葉もピークを迎えて、とてもきれいです🍁

そして今回はなんと台湾グルバイ(仲間)のリン、エセー、ルーが撮影に同行してくれました〜‼️

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左からリン、エセー、ルー。京都御所がブリンダーヴァンの森に(笑)

先週の11月23日は私たちの師ヨギさんの御聖誕日でした。
台湾の彼女たちはこの日のために来日し、師への溢れる感謝の思いを祝辞やキールタン(インドの歌)で伝えました。
その御聖誕祭の様子は前回のブログに掲載されています。

それで、今年の御聖誕祭で僕は聖劇に出演させていただいたのですが、人生初の主役にチャレンジしました😆🎬
といっても、ヨーヘイというそのままの名で、しかもかなりひ弱な役柄……聖劇後ヨギさんには「洋平は地(じ)やったな」と言われました……😅
まあ、それはさておき、この聖劇は『アドヴァイタの剣』というタイトルの近未来のお話で、主人公ヨーヘイがバーチャル・リアリティのブッダの仮想世界に行き、そこでマーヤーという悪党に恋人を奪われ、家族を殺されるも、女剣士ブッダと出会い弟子入りし、修行をして最後にアドヴァイタ(唯一無二)の剣を継承され、マーヤーを打ち破るというストーリーです。
このブログでは劇中の修行の1シーンをご紹介させていただきます。

ヨーヘイは女剣士ブッダに弟子入りした時、剣ではなく帚(ほうき)を渡され、掃除を命じられます。

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「掃除ばかりしていても、強くはなれません!」と反発するヨーヘイに、ブッダは次のように教えを説きます。

ブッダ「そう思うか? 激情に任せて剣を振るえば、マーヤーと同じではないか。彼らは常に愛する人を傷つけ、恐怖を抱かせ、欲望を煽ることによってお前を苦しめようとする。しかし、何が起ころうとも、心を静かに保つのだ!無知に支配されるな!」
ヨーヘイ「無知・・・とは何ですか?」
ブッダ「例えて言うなら、この枯葉が落ちないようにと願うことが無知だ。すべては生滅を繰り返しながら変化していく。マーヤーは風に舞う枯葉のように、お前の目を眩(くら)ませるだろう。心を静めて、マーヤーの正体を見破らない限り、討ち滅ぼすことはできない!だから、愚痴が出てこなくなるまで、掃除をしなさい」

ヨーヘイは長い年月に渡って掃除を続けました。
するといつの間にかヨーヘイの心は洗われて空っぽの状態になり、そこで天からの啓示――「師のなさり方を真似なさい。成り切りなさい」――がやってきます。
そしてヨーヘイは掃除をしながら師の剣さばきや日常の仕草を真似ていくのです。

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日本に留学して日本語が理解できるルーはこの1シーンを見て、自分も掃除をしていて同じような心境になったことがあると感想を語ってくれました。
大学を卒業して今年から仕事に就いたルーですが、職場で悩むことが多く、また職場のトイレはきれいではなく、それを見ていつも嫌な気分になっていたそうです。
でもルーはある時、「汚れているなら自分で掃除をしよう」と思い、職場のトイレ掃除を始め、それを続けているとブツブツと愚痴や不平を言っていた心が静かになり、軽くなっていったそうです。

実践からくる体験談で、とても感心させられました。
ヨーガの仲間で数少ない後輩のルーですが、ルーも成長しているなと感じるエピソードでした〜😏(ちょっと先輩面)

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「私たちのアモーレはヨギさん💓」とのことです(笑)

洋平