投稿者「サーナンダ」のアーカイブ

あなたはそれです

ああ

この世界を正しく理解することが必要です。つまりこの世界は絶えず変化するものだということを正しく理解するということです。

わたしもあなたも、そして様々な動物、植物も生まれては消え、また生まれては消えていきます。それは永遠の繰り返しです。

その背後に決して変わることのない唯一の意識があります。

あなたはそれです!

あなたは本当にそれなのです!!!

サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

 

これを言われたときの師の眼差しと恩寵を忘れることができません。

まるですべてのヴェールが師の光り輝く恩寵によって取り除かれたかのように、歓喜が溢れ出し、私のハートははち切れんばかりに喜びに満たされました。その〝それ〟というものが理性を超えてありありと感じられるような気がしました。その喜びの奥に〝それ〟があるっていう感じでした。

それ以来、私は自分自身が〝それ〟であることを疑うことができなくなりました。師とともにいることの恩恵とは、まさにこのようなことだと思います! 師と弟子
古代インドの師と弟子のサットサンガの様子 

しかし、疑うことはできなくなったとしても、まだ私自身がそれであることに目覚めたわけではないから、これだけでは不十分でした。師が教えられるように、この世界を正しく理解していくことが必要だったのです。最初はその必要性がよくわかりませんでした。〝それ〟を悟ることが大事なのに、なぜ〝それ〟を覆い隠す世界を理解していかなければならないんだろうと思ったのです。でも、師と共にいる時には追い払われたかのように見えたヴェールも、日常に帰ればまるで月にかかる雲のように絶えず現れました。

世界を理解する――諸行無常やカルマの法則の理を正しく理解していくことが、ヴェールを取り除き、光り輝く自らの本性に目覚めていくことにつながるということを実感していったのは、ずいぶん経ってからでした。心はあらゆる変化するものに執らわれ、その思いに翻弄され、世界を正しく見られていないことに少しずつ気付いていきました。

今この瞬間と次の瞬間の世界は違っています。自分の心も絶えず異なる思いや感情がやってきては去っていきます。この世界には変わらない確かなものは何一つありません。あらゆるものがそれぞれのやり方で瞬間瞬間変化していきます。観察してみれば、自分の心も他者の心も、恋人や友人や家族や同僚との関係も、仕事の状況や家族の状況、社会や世界の状況も、大自然も大宇宙も刻々と因果律に従って変化していっているということに気付かされます。

でも、心は連続性をもって世界を見るからそれを「変化」と捉えますが、今この瞬間しか存在しないのであれば、過ぎ去った一秒前の世界は消滅しているのですから、瞬間瞬間新たな世界が生まれているようなものかもしれません。心は世界の中に幸福を見つけようとしますが、すべてが変わっていくこの世界の中で、変わらない幸福を求めること自体が矛盾しています。手に入れた瞬間からその幸福は消滅していくのですから。にも関わらず心は、幻のような幸福を世界に追い求めます。

そんなふうに識別しながら、自らの心と経験を通して丹念に世界に向き合っていった結果、ヨーガの「何事にも執らわれない」という教えは、実に理にかなった教えだと思うに当たりました。人は常に何かに執らわれ、妄執し、苦しみを生み出して世界は狂っているというけれど、執らわれを離れ、この世界を正しくありのままに見ることができれば、世界と見ていたものはそのまま、喜びに満ちた〝それ〟であることを悟るのかもしれないと思うに至りました。

心が世界に幸福を求めれば苦しみを生み出すけれど、心が世界に幸福を求めなければ至福を実現する。実に不思議です!

一つ一つ丁寧に自分の執らわれをなくしていく作業は根気のいる作業かも知れないけれど、覆いが一枚一枚取り外されていくたびに、真実の世界が現れ、喜びが内から放たれるのはおかしなことです。

師によって最初に押された歓喜の刻印は、私のハートに消えることのない印象をもたらしました。その聖なる印象の力によって、私は根気のいる作業を続けていけるのです。傍らから見れば地味な面白みのない作業に見えるかも知れないけれど、本人から見ればそれは栄光に満ちた輝かしい仕事であり、まさにあの時師によって垣間見させていただいた、歓喜の源に回帰する歩を進めているのだと実感するのです。

サーナンダ

 

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たくさんヨーガができるようになります

..

10年前の過去も、1秒前の過去も、同じ過去であり、

くよくよと思い煩ったり、気にしたりする価値はありません。

常に今、善くあれ、善くせよ。

サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

 

本当に心って過ぎ去った出来事をクヨクヨと思い悩んだり、さらに発展して妄想の世界に行ってしまったりしませんか〜えっ、一日の大半をそうしている!?過去のことばっかり考えているとそれが習慣化してしまって、ついには性格にまでなってしまうそうです。

この教えを初めて聞いたとき、本当にその通りだと思い、目から鱗が落ちた気分でした。そして何だか心が軽やかになって、ただ今に生きればいいんだと思ってやってみました。ところが、できないんです。一枚や二枚目から鱗(ウロコ)が落ちても、まだ何枚もついているみたいです。ふと気がついたら心は昨日の出来事を気にしたりしています。

たった三行の短い教えですが、真実の言葉は奥が深いと思います。ちょっとばかし気分がよくなっても、まだまだ教えの真意までたどり着けていません。

私はわりと七面倒くさい性格のところもあって、いちいち言葉の意味を考えたりします。

  • 過去って何なんだろう
  • なんで思い煩ったり、気にしたりするんだろう
  • 価値はないってどういう意味なんだろう
  • 価値があることってなんだろう
  • 今って何なんだろう
  • 善いとはどういうことなんだろう

結構人間って、言葉の意味を曖昧に捉えているように思います。だから、真実の言葉に触れても、すごく表面的に、感覚的にしか理解できていないことに気付かされます。だから私は、言葉の深意を確かめようとじっくり考えることがあります。そうしていくと不思議なことに、例えば、過去というものを自分はどう捉えているのか、感じているのかがわかってくるし、それとともに、ヨーガの教えはどういっているのかをあてがうことで、自分の捉え方が真実に沿っているのかどうか、どのように捉えるのが正しいのかが、単なる知識ではなく具体的にわかってくると思います。

ポイントは、単に自分の感覚や経験だけで進めるのではなく、ヨーガの教えをあてがって具体的に自分がどう感じているのかを確認しながら進めていくことです。その時に、どうしてもわからないことや確認が必要なことが出てくるはずです。私は「今」を考えていった時に、どうしても「今」を捉えることができなくて、「心は今この瞬間を捉えることが果たしてできるのだろうか?」ということがわかりませんでした。考えてもわからなかったら、師に質問すればいいと思います。

そうしていけば教えが少しずつ心に浸透し、根を張っていくようになります。

次に大事なことは日常での実践です。ちょっとやそっと教えの理解が育まれても、上司に叱られたら一瞬で吹き飛んでしまいます。悶々と失敗を気にして思い煩い、ほとほと疲れ切るまで続くわけです。その時こそ最大のチャンスです。自分が熟考してきた教えを実践してみるのです。そうすれば、まだ自分が出来ない原因が見えてきます。

悶々と思い煩う方が心はむしろ楽なのですが、そこで思考ループを断ち切って、もう一度日頃理解を深めてきた真実の教えをその状況にあてがって、原因を突き止めていくわけです。それほどのしんどい状況なんだけれど、だからこそ集中感が生まれ、成功するのだと思います。でも日頃やっていないとその力は生まれません。

今はネットで何でも手軽に情報が手に入りますが、ヨーガの教えは、自分自身でしっかりと考え、実行していかない限り、ちっとも心は変わりません。でもやっていけばいつの間にか心は過去を彷徨い歩かなくなっているんだろうなと思います。

もし心が過去を彷徨い歩かなくなると、どれだけ楽になるのだろうと思いませんか。多分心はすることがなくなって、すごく時間が余ってくると思います。そしたら、たくさんヨーガができるようになって、ヨーギーになれると思います。

ヨーギニー
ヨーガに没頭するヨーギニー。1660年頃。何か凄みを感じる。

サーナンダ


愛の詩 雨の夕暮れ

..

雨雲が見える

黒い雲 黄色い雲 すべてが混ざり合い 雨が降り出す

水! 水! 私がどこに行こうとも 至る所に水がある!

乾いた大地は緑におおわれている

愛しいお方は遠く離れた土地に住む

私は独り 雨の中にびしょ濡れになる

あぁ 雨雲色の肌をした 永遠なる主よ

わが愛を満たしてください

ミーラー・バーイー

imageある日の琵琶湖の雨の夕暮れ。いろんな色の雲が混ざり合い雨が降る。日没時、その雲々は太陽に照らされ、鮮やかな彩りの見事な様相を顕す。

..

詩は、バクタのハートから零れ落ちた愛の言葉です。人それぞれで感じ取ればいいと思うのですが、この詩を読むと、いつも私のハートは甘美な愛に酔いしれ、思考と呼吸は停止し、偉大なバクタ、ミーラー・バーイのハートに浸るのです。

サーナンダ

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夕暮れの礼拝

ガネーシャ庵には、ガネーシャ神のような風貌の友人が住んでいます。

京町屋の昔ながらの長屋のような建物で、三軒がつながっていて、その真ん中にガネーシャ庵はあります。よくお邪魔してヨーガの話をしたり、打合せに使わせていただいたりしています。

imageガネーシャ庵の入り口を飾るガネーシャ神

先日、いつもバクティ・サンガムをしているミラバイとガネーシャ庵に伺った時に、少しだけキールタンを歌う機会がありました。

ゆったりとした夕暮れのひと時の中でミラバイが歌うキールタンを聴きながら、ふとずいぶん昔に訪れたエジプトを思い出しました。

夕暮れ、礼拝の時間にイスラムの音楽が朗々と街に流れるのを聴いて、あぁ、こうやって忙しい生活の中でも神への讃歌を耳にすることで心は神に戻されるのだなあと思いました。あるインドの日常の映像の中で、キールタンを歌う素朴な歌声を聴いた時にも同じ印象を持ちました。

本当に日常の中に神があり、神への信仰とともに生きているのだなあという印象です。

次の日、隣の住人の方から、「美しい歌声が聴こえていました〜突然のプレゼントに癒されました」との感想がありました。長屋ならではのプレゼントですね〜 ヾ(=^▽^=)ノ

京町屋の日常の風景の中で、普段着で歌うミラバイのキールタンを聴いていると、心は日常の喧噪から引き戻され、私たち自身の原点である神の下へ駆け寄るような気がしました。ずっと聴いていたいなあと思いました。そして、毎日夕暮れにほんのひと時でもいいから聴きたいと思いました。そうすれば、忙しい生活の中でも、心は神への愛を忘れることはないでしょう。以来、家でもキールタンをよく聴き、歌うようになりました。

来月は、大阪10月2日(金)、京都10月25日(日)にバクティ・サンガムがあるようです。キールタンを学んで、日常の中で歌い、神への愛を思い起こし、心を常に原点にリセットしたいですね。

それでは、ミラバイが弾いてくれたハルモニウムの音色をほんの少しだけお届けします。ハルモニウムって今回初めてじっくり見たのですが、素朴な作りながらもとても綺麗な楽器で、さまざまな音が重なった素敵な音色だと思いました。結構大きな音ですが、すごく瞑想的だなあという印象を持ちました。今回はハルモニウムの音色だけになりますが、ミラバイのキールタンを聴きたい方はぜひバクティ・サンガムに参加してお楽しみくださいね。

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サーナンダ

 

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ヨーギーになりたいんです

..

いつでも、

どんな場所でも、

どんな人に対しても

心は常に真理のもとになければなりません。

サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

 

ずいぶん昔(1990年頃)に師から授かった教えです。その頃の私は、日誌をつけていました。先日昔の日誌を見ていたら、印象に残った師の教えがいくつか記されていました。それをご紹介したいと思います。
その頃は、サットサンガで心に留まった教えを必死で記憶し、家に帰って書き留めていました。サットサンガ中は師の言葉に集中していたのでメモをとってなくて、サットサンガが終わると必死で教えを頭の中で繰り返して記憶に定着しようとしていたことを思い出しました。

私はこの教えが大好きです。(教えに好き嫌いがあるわけではありませんよ)どこが好きかというと、「いつでも、どんな場所でも、どんな人に対しても」という無条件、無限定なところなんです。限定付きならできるかもしれませんが、無限定という限定解除されているところがヨーギーなのです!

ところが、今回この教えをずっと見ていたら、この教え、とてつもなく深いなあと思いました。ものすごくシンプルなんですけど、今更ながらその無限定の意味を感じてしまい、姿勢を正してしまいました。これができて初めてヨーギーなんだと真剣に考え込んでしまいました。

真理をアートマン(本当の自分)や神、真の愛に言い換えてもいいかもしれませんけれど、心の側から見れば、単純に言えば、私心がなく、平静だということです。自分を振返れば、まだまだまだら模様で無条件、無限定ではないと言わざるを得ません。条件付きです。

これは生活全般、言動全般、思考全般を総点検し、調えていかんと到底無理だと思いました。思い浮かんだのは、師の御姿でした。いつでも、どんな場所でも、どんな人に対しても、無条件の行為と無限定の喜びにある御姿が浮かんできました。

やっていこう!ヨーギーになりたいから!

その昔、記録したのは何か自分の印象に残ったからなんだと思います。短い言葉ですが、私がこの教えの向こうに見たのは、真のヨーギーの御姿でした。

サーナンダ


さまらさ納涼女子会

先日、長岡京ヨーガ・瞑想クラスのさまらさ納涼女子会をしました。長岡京近隣在住の方が多いので、同じ長岡京市民である私の家に会場を設えて行ないました。もちろん料理は手作りです。

納涼会

全員で9名が参加し、さまらさパーティ・メニューを堪能しながら、ヨーガの話を楽しみました。クラスに通われている方もそんなにお互いのことはよく知らないので、自己紹介から始まったのですが、その一人一人の自己紹介からたくさんの日常でのヨーガの取り組みを伺うことができ、そしてヨーガの教えを話し合うことができて、本当に楽しかったです!

なぜヨーガのクラスに通い始めたのか・・・みんなそれぞれのその時の理由(動機)があり、それは個人的なことでもあるし、なかなか人前で積極的に話す機会もないものですが、その日はクラスでは顔なじみになってきたこともあってか、その時の自分の思いを話してくださいました。そして、今どのように仕事や生活に向き合い、その中でどのようにヨーガを取り組んでいるのかを垣間見ることができました。

私が印象的だったのは、それぞれ具体的な状況は違いますが、「この状況や苦しさを何とかしたい!」というところに共通的な動機があって、不思議な縁でヨーガ(チラシ?)に巡り会って、一筋の光明を見いだしたのだと感じました。

そして、皆さんの生活の中にヨーガの実践が根付いてきている様子を伺うことができたのが、とても嬉しかったです。特に仕事上の人間関係のトラブルの話が多かったですけど、それにどのようにヨーガの教えをもって向き合っているか、実体験を話し合って、互いにヒントになったのではないかと思います。来年からの講座でカルマ・ヨーガをやってほしいと強い要望があったことも嬉しい驚きでした!

そんなこんなで話が盛り上がり、自己紹介が終わる頃には、予定時間を大幅に過ぎていましたのでお開きになりましたが、皆さん後片付けも手伝ってくださり、あっという間に片付け終わりました。

納涼会が終わってから、何人かの方から、みんなそれぞれ違う日常を送りながら、同じように悩んだり迷ったり色々あるんだ、その中でヨーガの教えを実践していっているんだということがわかって、とてもよかったという感想をくださいました。

話に夢中になって残念ながら皆さんの写真を撮るのを忘れてしまいましたが、納涼会が始まる前の調理の様子を撮影していたので、今回はさまらさ納涼会なので、さまらさの調理の様子と完成品を掲載したいと思います。さまらさメンバーでもあるマードゥリーとサラニーが調理し、あっという間に出来上がりました。さすがさまらさという感じでした。本当に手作り感満載のさまらさらしい納涼会でした。ありがとうございました!

 

次は、男子会をやりたいなあと思いました。

サーナンダ

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私って何だろう!?

長岡京市でヨーガ・瞑想クラスをしているのですが、今年はラージャ・ヨーガを基礎から学ぶ10回コース(←クリック)をしています。

8月は6回目で日常を変える〟をテーマに、人との関わり方や自分の律し方について、ラージャ・ヨーガのヤマ、ニヤマの教えに学びました。

その中に不盗(アステーヤ)という教えがあります。

他人のものを盗まないという教えなのですが、この教えについて考えているときに、単に他人の物質的な物を盗むだけでなくて、他人の言葉や知識、アイデアや情報を、さも自分のもののように口にすることも、盗んでいることになると思いました。

そう考えていくと、一体何が自分のものなんだろう?と思いました。

この体も心も自分のもののように取り扱っているけれど、よく考えてみたら、体も自分が産み出したわけでもないし、心臓も毎日自分で動かしているわけでもなく、勝手に動いてくれているし、心も物心ついたときから知らないうちにあるし、自分のものとは言えないのではと思いました。

それで、そういうことを講座で話したのですが、クラス終了後、最近来始めた方に講座の感想を聞いてみました。すると、アステーヤのところで、この体も心も自分のものだろうか!?と言われて、「確かにそうかも!」と思ったそうです。そして、「えっ、じゃあ体も心も自分のものではないのなら、自分って一体何なんだろうと思ったんですけど・・・!???」ととても素朴に疑問を口にされました。

そのことを聞いて、何だかとても嬉しくなりました。

なぜなら、ヨーガはそこから始まったからです。「自分って何だろう?」という素朴な問いかけから始まり、それを瞑想で探求し解き明かしていったわけです。

そういう話をそのときしたら、面白そうですね!と言われました。

そういうような素朴な気づきを、少しずつ育んでいかれればいいなと思いました。

「ヤマ、ニヤマ」については、10項目すべてを話す時間がクラスではなかなかないので、この際しっかり学んでみようと思い、テキストを工夫して印象深く作成し、それを一緒に見ながら一つ一つ丁寧に勉強してみました。

少しでも印象に残って、日常で思い起こして実践してもらえれば嬉しいです!

それにしても、不貪(アパリグラハ)に関する質問が多かったですね。贈り物の習慣が割とあるからかもしれませんね。

次回は、9月16日「働きの秘訣」です。

サーナンダ

第6回レジュメ最終

第6回レジュメ最終2


瞑想を深める!

瞑想サンガに行ってきました〜!

昨年、サナータナが大阪で瞑想専科クラスをしていましたが、サナータナが東京に移住する際、瞑想専科に通われていた女性二人が、「もう少し瞑想を続けていきたい〜」という熱心な思いをもって、自分たちが幹事を務めて始まったのが瞑想サンガだそうです。瞑想専科に通われていた受講生で構成されているクローズドの自習の会です。
幹事をされているTさんとKさんのお二人のお誘いを受けて行ってきました。前日にサナータナとも話をして快諾を得ました。会場はバクティ・サンガムでもお世話になっているプリヤメーラ(下の写真)です。
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お二人にお会いするのも初めてだったので、どんな方なんだろうかとワクワクしていました。

7人ほどが集まり、瞑想についての問答になりました。
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いやぁ〜本当にたくさんの問答があり、あっという間に90分が過ぎ、終わったのは120分を過ぎた頃でした。濃厚で充実していましたね〜!すごく楽しかったです!
瞑想していくといろんな疑問が出てきますが、本で読んでもなかなか解決しないし、どう進めていけばいいのかわからなくなりますものね。皆さんの本当に熱心なご様子が印象的でした。
特に印象に残った三つの問答がありました。


バクティの対象の決め方について色々話がありました。インドラ神やラクシュミー女神なども登場し、神や神々、そしてカーリー神やシャクティー、クンダリニーの話もして楽しかったです。バクティは、ただ神を好きになって愛するという、恋にセオリーがないように、単純に進めていくのが一番。ぜひ自分のイシュタ(理想神)を見つけて、好きになって近づいていってください!インドの細密画もいいですよ〜。またインスタでアップしますね。

自分らしさの話もありました。自分らしさを追求するのはとてもいいことだと思います。自分らしさって何でしょうね。理想の自分と言い換えてもいいのかもしれません。冷静に考えてみれば、仕事やライフスタイルなど外側の状況が変わることによって自分自身がよくなったり、悪くなったりするのもおかしな話ですし、自分のやりたいことや興味も変わっていきますから、自分らしさも結構曖昧で捉えどころがないようにも感じます。でも私はこの素朴な疑問はとっても大事だと思います。なかなか答えが見つからないかもしれないけれど、適当に誤摩化さずに、瞑想で自分の心をじっと見つめていけば、自分が本当に何を求めているのかが見えてくるかもしれませんね。ぜひ本当の自分らしさ=最高の理想を追求してみてください!そういう時に、ヨーガの教えは頼りになると思います。そして「らしさ」から、さらにダイレクトに本当の自分を追求すればいいと思います。

信じるということは大切なことですね。二つのアプローチがあるかもしれません。まずは教えられたことを素直に信じて実行して体得していくということですね。もう一つは、教えられたことを妄信せず、徹底的に本当かどうかを自分で答えが出るまで考え抜くことです。最終的には同じところに行き着くと思います。いずれにしても、確かで間違いのないものを信じる必要があります。自分の好みというより、誰にとっても、いつの時代でも同じ確かで間違いのないものです。それはきっと自分の中にもある筈だし、自分の中にそれがあるなら誰もの中にあるはずです。その普遍的な真理を信じ、それについて瞑想し、また日常の中で行為していくことで、その真理が心に根付いていくと思います。そのためには、まず自分の言葉や行ないを自分が信じられるものにしていくことから始めたらいいと思います。


会が終わってからTさんにお話ししましたが、最近記憶に残った出来事で、京都でヨーガをやっている男性二人が、1年前くらいから毎週月曜日に2時間瞑想に座っているというお話をしました。自習の会ですが、特に話をするわけでもなく、二人で集まって2時間座って解散する内容です。でもそれを続けていくことによって、二人は見違えるように変わっていったと思います。ちょっと極端ですが、瞑想サンガもそんなふうに育っていけばいいですね!

瞑想を深めていく際のポイントは、会でも話が出ましたが、アーサナ学び理想だと思います。この三つについて具体的にどう実践しているのかなどを瞑想サンガの中で話しながら、瞑想に生かしていけばいいのかもしれませんね。

楽しく有意義なひと時を本当にありがとうございました。o(*⌒─⌒*)o

またお気軽にお誘いください。 (^o^)v

サーナンダ

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   ジャイ!グル・プールニマ 7/31

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グルの言葉は何と偉大だろう!

心の不安を取り除き、喜びへと導く。

幾百万人の意見よりも、

グルの一言の方が完全なる安心を心にもたらす!

その言葉は何ということは無いかもしれない。

しかし、

グルとともにあるひと時の中で授けられた言葉は、

息吹となって肉体と心に活きる力を与える!

ヨーギーの命は、

食物によって養われるのではなく、

グルの言葉によって養われるのである!

永きに渡る困苦も、

グルの一言で霧消する!

ジャイ!サットグル!

ジャイ!グル・プールニマ!!!

※毎年7月の満月の日はグル・プールニマと呼ばれ、満月がサットグル(真実の師)の完全円満な悟りの境地を表わしていることから、インドでは満月祭が行なわれるそうです。サットグルの存在を讃え、感謝を捧げる吉祥な日となります。プールは“完全な”、ニマは“月”という意味です。元々は聖者ヴィヤーサの誕生を祝うことから、ヴィヤーサ・プールニマとも呼ばれます。満月が2回ある月は後の満月をブルームーンと呼ぶようですが、今年の7月は満月が2回あり、そのブルームーンの明日7月31日にグル・プールニマが行なわれるようです!

最愛の師の存在に思いを馳せ、心からその御足下に感謝を捧げるとともに、自らのヨーガの成就を誓う日となりますように!

サーナンダ

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アムリタ10周年!

台風11号の影響で、京都は大雨が続いています。祇園祭の山鉾巡行は無事執り行うことができたようでよかったです!この大雨で大過がありませんように!

さて、10年前の2005年7月17日は、マハーヨーギー・ヨーガ・ミッション主催の公演「アムリタ―不死―」が開催された日になります。

当時関わった人には懐かしいことでもありますが、この公演では第1部で「ナチケータスの魂の旅」としてインドの古い聖典をモティーフとした聖劇を行ないました。劇は、死神ヤマ神(日本の閻魔様のルーツとなる神様です)が司る黄泉の国へ少年ナチケータスが旅をする所から始まります。

それを思い出していた時、先日ブログに「桃山御陵」をアップしましたが、よく昔のお墓の桃山御陵に行っていたサティヤーはひょっとしたらナチケータスとよく似ていたのかもなと思いました。ちなみに、彼女はアムリタの際に初めてヨギさんに出会ったのです!

今日で10年経ちます。公演アムリタとはどのような内容だったのか?!それはここで説明するより、リンクを添付しますので、ひと時の間10年前にタイムスリップして、ヤマ神が司るその黄泉の国をナチケータスとともに覗いてみましょう!お楽しみください!

 アムリタ ―不死― (←クリックしてください。当時のサイトに飛びます。サイト内に更にいろいろリンクが貼られていますので、クリックしてください)※10年前のページなのでスマートフォンでは正しく表示されないところがあるかもしれませんが、リンク先などは見られると思います。

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「ナチケータスの魂の旅」の1シーン

サーナンダ