投稿者「サティヤー」のアーカイブ

ブッダの言葉

こんにちは、サティヤーです。

2つ前の記事にアップされているブッダの聖劇、みなさんご覧になりましたか〜?!

実は私、2回とも聖劇に参加しています。一度目は亡くなった子供の亡骸をずっと抱きしめているキサゴータミーの役、二度目は妊婦の役、どちらもお母さん役です。

前回の瞑想専科では、「Story of Buddha」を鑑賞し、その中で印象に残った場面や、ブッダの言葉に瞑想をしました。久しぶりに鑑賞し、懐かしいなぁ〜(みんな若いな 😯 ……)と思いながら見ていたのですが、最後のキサゴータミーの場面、彼女の中で起こった心の変化について、この瞑想専科に通うことで分かることがありました。

キサゴータミーはやっと授かった子供が亡くなってしまい、そのことを受け入れることができず、ずっと亡骸を抱きしめながらあやし続けます。どこかではもう無理かもしれないと思う気持ちはあるのですが、きっとそれを受け入れ自分の気持ちを直視できずにいるうちに、何が現実で、何が幻想かが分からなくなってきたのだと思います。しかし、時間が経つにつれ、その矛盾は大きくなり、ついには発狂し、狂ったように「誰かこの子を生き返らせてー!!」と叫びながら町を走ります。

そこで、聖者ブッダに出会うのです。ブッダは言います。

「若いお母さん、今までに死人を出したことのない家からケシ粒をもらってきなさい。そうすれば、私がその子を生き返らせてあげましょう」

キサゴータミーは全速力で走ってありとあらゆる家に入り、ケシ粒を求めたと思います。だって、「生き返らせてくれる」そんな言葉は初めて聞いたはずです。だからこそ、何とか見つけようと、必死で求めました。

ケシ粒というのは、インドで日常的に良く使う香辛料ですので、持っていない家を探す方が難しいかもしれません。ですので、ケシ粒はすぐに見つかります。でももう一つの条件、「死人を出したことのない家」というのが、どうしても見つからないのです。どの家に行っても、「あー去年に父親が死んだ」とか「そういえば何年か前におじいさんが亡くなった」とか、もしかしたら同じように子供を失ったという家もあったと思います。自分の子供の命を生き返らせること、そのことだけで心の中がいっぱいいっぱいになっていたキサゴータミー、しかし、家を訪ねていくうちに、少しずつ落ち着きを取り戻し、自分の状況が客観視されていったのではないでしょうか。

苦 苦しみを正しく見つめる。

8月の瞑想専科で習った瞑想方法の一つ、心の仕組みを知る瞑想法には、まず、自分の心を客観的に、何の判断もせずに見る「止観」ということから始めると習いました。家々を訪ね歩く中でキサゴータミーはその状態になっていたのだと思います。

集 原因を見極める

自分の心を客観視し、現状をみたところで、きっとキサゴータミーは思ったのです。「死んだのは、私の子供だけではない。ありとあらゆる人が死んでいる。生まれたものはみんな死ぬのだ。それはどうしようもないことだ」心が動揺し、動揺の渦中にあるときには、「それでも私の子供だけは死んで欲しくない!」と受け入れられなかったはずです。心を外側からただ見ることができたときに、どうしようもない状況に対して右往左往していることが見えたのだと思います。

滅 原因を根こそぎ取る

キサゴータミーの場合は、何に動揺しているのか、その原因に気付いた後すぐに「気付き」へと心は変容していきます。亡骸の中にはもう何もない、そう認められたとき、きっと心は解放され、苦しみが取り除かれたと思います。その証拠に、今まで離すことができなかった亡骸をブッタの前でそっと置くことができたのです。

道 無執着、自由な行動や生活

ブッダ「私から見たら、その子もあなた自身も不滅の存在です。悟りとはその真理を求め実現することです」

それを聞いたキサゴータミーは、亡骸を抱き続けるという人生から、本来人として生きるべき道を教わり、ブッタ自身の境地へ導く道に入ることを決心します。

あのお芝居ではほんの何秒かの出来事ですが、キサゴータミーの心の中では「苦・集・滅・道」にそって瞑想が行われ識別された結果、人生が180度変わったのだと思います。だれの言葉も届かなかったキサゴータミーの心に、ブッダの言葉は入り込み、瞑想へと導き、彼女は心を超えた気付きによって問題を解決した。ブッダはそのような状態を引き起こし、誰も救うことができないような状況から一人の人を救ったのです。

キサゴタミーの心境は、他人事ではありません。状況はいろいろですが、何かに執われ、周りが見えなくなってしまうことは誰にでもあることです。キサゴタミーがブッダの存在や言葉によってそれを解決したように、私たちも同じことができると思います。ブッダは2500年前の聖者ですが、その存在と言葉は永遠だと思います。

最後の場面では、ブッダが教えた「苦・集・滅・道」が行われていたとは!演技をしているときには正直そこまでの理解はなかったです。(ごめんなさ-い 🙄 !)何度見ても、新たな発見がある「Story of Buddha」こんな作品がこれからも作れたらいいな〜と思いました。

ちなみに、脚本家であり、瞑想専科の先生であるサナータナさん、これであっていますか〜!


京の七夕

こんにちは、サティヤーです。京都では8月2日〜11日まで「京の七夕」というお祭りが行われ、堀川や鴨川では連日多くのイベントが行われています。そこで!4日の夜、三条鴨川の河川敷に行き、アーサナ・瞑想クラスの紹介をしてきました!三条の河川敷には竹かごの中に京焼き、清水焼の風鈴を入れ、LEDの明かりがともされた「風鈴灯」がたくさん置かれていています、お香の香りと風鈴の涼やかな音色が相まってなんとも幻想的な雰囲気で、多くの人が涼みに来られていました。

少し前にすてきなチラシを作っていただいたので、たくさんのお店に置いていますが、もう少しクラスに動きが出たらいいな〜という思いがあり、実際にアーサナがどんなものか、できるだけたくさんの人に見てもらい興味を持ってもらう機会になればと計画しました。また、NYで行われている『PROJECT SAHASRARA』http://mahayogi.org/sahasrara/ にもヒントをいただきました。

 

京の七夕

本日、7日(木)21時頃にも三条河川敷で行うつもりですので、良かったら遊びにきてくださいね〜!

サティヤー


瞑想専科 ブレない自分の本質に瞑想する

こんにちは、サティヤーです。毎週木曜日、ウイングス京都での瞑想専科に参加しています。先々週から瞑想の対象は「真我」、三週かけて一つの対象の瞑想方法を学びます。真我の瞑想は「私は誰か」という問いかけをもって瞑想をしていきます。「本当の私」って興味ありますか?ある人もいるでしょうが、私は正直よく分からないなぁと思っていました。「私は誰?って、私は私だよ」という感じ。これじゃあ全然瞑想になりそうにないですよね……。

ですが、せっかく瞑想専科に通うんだからと今までの「よく分からない」という感想は置いておいて先週の講義の後から一週間一所懸命「私は誰か」の瞑想を試みていました。一週間経った感想は……うーんやっぱり手応えはないなぁという感じ。

そして今回、真我の瞑想2回目の講義に参加しました。本当の私というのは、「第四の意識」と言われ、起きているときの意識、夢見の意識、熟眠の意識をただ知っている、見ている純粋な意識。瞑想中はそこに留まるようにと言われました。

瞑想を始めました。

「第四の意識ってどこにあるんだろう?」

「っていうかこの第四の意識を探しているのは誰なの?」

「この第四の意識を探している意識がまず本当の私ではないってこと?」

初めはこんな感じで、「???」という状態からスタートしたのですが、あるとき、上手く言えないのですが、本と本の間のような微妙な隙間にすーっと入っていくような感覚がありました。

しばらくして集中が途切れかけたとき「あ!身体や心には私のものという感覚があるけれど、意識(第四の意識)には私のものというようなものはないのだな」という感触がありました。けれど、それに気がついた心の方には「それではない!」と目を向けず、また浮上するように、見ている意識の方に集中してみました。初めて、ほんのちょっとですが真我の瞑想の一端に触れたような気がしました。

その後の講義で、第四の意識は別名「神」と言われている……ということは、本当の私は「神」なの!!!と参加者みんなで目を白黒させて驚きました。神は、どこかの雲の上にいる訳ではなく、私たちの本性、だとすれば何だかとても嬉しくなります。

瞑想によって知ることができる内なる世界は外にあるものとは格段の違いがあり、奥深く、興味深いです。瞑想専科のおかげで、少しずつ瞑想が楽しくなってきています!!あー今週も楽しみだ。

瞑想専科 京都


あるヨギの自叙伝

こんにちは〜、サティヤーです。今、何年ぶりかに『あるヨギの自叙伝』を読んでいます。

あるヨギの自叙伝

読んだのは3回目ですが、不思議と初めて読むような、何度読んでも新たな発見があります!みなさま読まれたことはありますか〜!?

あるヨギというのは、インドの聖者スワミ・ヨガナンダのことで、この本は彼の自叙伝です。彼は11歳で母親を亡くし、そのころからヒマラヤにいる聖者(ヨギ)に会いたいという思いが高まります。何度も家を飛び出しては、霊的探求を導いてくれるグル(師)を探し求め、多くの聖者の元を訪れました。インドでは、生涯をかけてグルを探すと言われるほど悟りを得るためにグルの存在は絶対に必要なのです。

17歳の頃、彼はベナレスの市場の狭い路地でキリストのような一人の聖者に出会います。彼こそが、ヨガナンダが長年探し求めていたグルである、スリ・ユクテスワだったのです。

(出会いの場面から)

スリ・ユクテスワ「お前に私の無条件の愛を贈ろう。お前も私を無条件に愛してくれるかね」彼は子供のような信頼のまなざしでヨガナンダを見つめます。

ヨガナンダ「先生!私は永遠に先生を愛します」

スリ・ユクテスワ「世の常の愛は、我欲や自己満足に根ざした利己的な愛だ。しかし、神は無条件で限りがなくいつまでも変わらない。この(神への)純粋な愛に徹したとき、人の心は初めて波乱や動揺から解放される」

グルと弟子の出会いのシーンは感動的!さてさて、まだまだお話は続くのですが、これを読んでいて、グルへの無条件の愛って何だろう……と考えました。

この対話の後に、スリ・ユクテスワはヨガナンダに実家に帰るように命じますが、家を出て修行をしたいヨガナンダは師の言うことを聞かず、自分の考えを通して帰らないと言い張ります。そこを読んでいてはっとしました!ヨガナンダは先ほど「先生!私は永遠に先生を愛します」といっているのです。でも、さっそく言われたことに聞く耳をもっていません。なんだか矛盾しているような……。

その対話を通じてグルを無条件に愛するということは、グルの言うことを素直に聞くということなんだと気づかされました。

「私はおまえの進歩だけを期待している」別のシーンでスリ・ユクテスワはヨガナンダに告げています。グルは弟子の進歩だけを考えくださっているのです。だからこそグルの言うことは素直に従うことが大切です。(この出来事の後から、ヨガナンダは師の言うことを素直にきくようになりますよ!)

私自身、グルからいただいている言葉があります。その言葉を大切に、誠実に実践していくことが、グルへの無条件の愛につながるんだなと感じました。そうだとしたら、どこにいても、いつでも愛することができるということなのです。

私が言われていることは、「神を愛すること」日常の中で、仕事の中で、瞑想の中で、常に神を愛していこうと思いました。

まだまだヨガナンダの自叙伝には続きがあります。それはまた今度、ご紹介できればと思います。


さまらさの台所・6月

先週の日曜日にさまらさの台所がありました。
今回のメニューは「なす料理いろいろ」ということで3種類のなす料理を作り、
みんなで一緒に食事をしました。

なすの揚げ浸し、なすの田楽、なすのナムル

なすの揚げ浸し、なすの田楽、なすのナムル

スーパーに並んでいるなすが日に日に大きくなり、いきいきとしています!旬ってこういうことなんだな〜と改めて感じますね。はじめになすを含め、これからの時期買うことが多い、夏野菜の選び方や保存方法をみんな学びました。

どの野菜にも共通していますが、色が濃くて、表面にハリとツヤがあることが大切。鮮度はへたを見て、みずみずしいものを選ぶと良いでしょう。同じ大きさならずっしりと重たいものを選びます。(水分が多い証拠)暑い夏に旬を迎える野菜は寒さに弱いので、保存するときは、野菜室か冷暗所に入れて3−4日で食べきる方が良いようです。

参加者がいつもより少なかったこともあり、食事の後はみんなでゆっくりと話ができました。さまらさの台所に通いだして半年ほどの参加者は、毎回参加するたびに驚きと学びがあると言われていました。今まで当たり前のようにしていた調理法は、「なぜそうしているの?」と聞かれると理由は分からず、していることがたくさんあったようです。さまらさに参加することで、「そうするものだ」と思っていたことが単なる思い込みだったのだと気が付くことがたくさんあったようです。小さなことですが、自分の勝手な思い込みに気がつくことで、思いに執われずにすみ、結果として少しずつ自由になっていくのだと思います。それは調理を通じて日常のあらゆることに応用ができると思います。

私自身も、「観念」という言葉を初めに理解したのはさまらさの台所を通じてでしたので、参加者からこのような言葉をいただいてとても嬉しかったです。

さまらさの台所6月

次回のご案内
メニュー:インドカレー
ひよこ豆のカレー(チャナマサラ)夏野菜のサブジ(カレー炒め)

日時:7月11日(金)19:00〜21:00頃
場所:大阪クレオ中央館
日時:7月27日(日)11:00〜14:00頃
場所:京都ヨーガ・ヴィハーラ
参加費:3,000円
要予約(開催日の3日前まで)
mym.samarasa@mahayogi.org
075-802-3799


ブログ始まります!

『ヨーガを生きる―ヨーギーたちのダイアリー』が始まります!

このブログは、マハーヨーギーヨーガミッションでクラスを担当しているメンバーで、クラスの紹介や日々のヨーガの実践を綴るブログです。

何千年も前にインドに生まれた「ヨーガ」、その意味は「一つになること」——何と一つになるのでしょうか??それは、本当の私であり、神であり、永遠の真理です。言葉は違いますがそれらはまったく同じもの。ヨーガはそのことを「悟る」ための道であり、その境地のことです。

昔のヨーギー(ヨーガを行ずる人たち)は、洞窟中で瞑想三昧の生活の末、真理を見出だしてきました。しかし現代、私たちは仕事や家庭生活に追われ、瞑想する時間を取ることが難しいこともあります。しかし、ヨーガの実践はそれだけではありません!ヨーガには、誰でもがどこにいても真理に目覚めることができるように、ありとあらゆる道が用意されているのです。道を歩むのはその人自身ですが、仕事、家庭、あらゆる場面でヨーガを実践することは可能です。このブログでは今、現代を生きてヨーガを日々実践している人(ヨーギー)が、どのように実生活の中でヨーガを実践しているのか、それをお伝えできればと思っています。

同じようにヨーガをしている人ならば、きっと何かヒントになることがあるはず。また、ヨーガを始めていなくても、興味がある人ならきっとその魅力を感じてもらえるのではないかと思います。

ヨーガの魅力は無限大です。その魅力に少しでも触れると、それは泉のように湧き出てその虜になるはずです。なぜなら、それが自分自身の本当の姿に近づくことだから、惹き付けられるのは当たり前なのかもしれませんね。さあ!!一緒にそのヨーガの中にとけ込みましょう〜。

今日は満月です。ヨーガでは、私たちの本性も満月のように何も欠けることのない円満な存在、至福そのものだと教えられています。そんな輝かしいヨーギーになれるように、一歩でも近づいていけますように。

満月