投稿者「サティヤー」のアーカイブ

お辞儀

先日先輩弟子から、お辞儀についてのヨギさんの教えを聞かせていただきました。

お辞儀、頭を下げる=過去を切る 頭を上げる=新たに生まれ変わる

それを聞いた時、思い出したことがありました。
私(介護士)が訪問している方には認知症の方がいます。まだ初期段階なので、記憶が曖昧なときとハッキリしている時が混同しているような状態で、日によってかなり違います。

彼女は時間の感覚が分からなくなるときがあります。彼女には彼女の世界があり、そこでは朝でも現実の世界では夜ということが起こります。そうすると「今何時?」「夜の8時です」「嘘をつくな!」「……」というような会話になるのです。

ある日も同じようなことが起こりました。私の世界と彼女の世界があまりにも違うことにだんだんイライラされ、不信感が募っていきました。
そしてとうとう「おまえはいつも嘘ばっかりつく!!!!もう帰れ!!!!」とものすごい剣幕で怒鳴られてしまいました。

どうしたものかの悩みました。私が言ったことは「嘘」ではないのです。けれど彼女の世界では「嘘」なのです。
しかし、ひとまずどちらが正しいかは置いておいて、嫌な気持ちにさせたことについて謝ろうと思いました。
そこで「嘘をつくつもりはまったくありませんでした。でも気分を害してしまって大変申し訳ありませんでした!」としっかりと頭を下げました。そして頭を上げたとき、「あ!この話は終わった」となぜか確信しました。

その後、とても不思議なのですが、彼女は何事もなかったかのように私に普通に接してこられました。いくら認知症の方でも、いつもはこんなにすぐに怒りが収まることはないのです。
しかしその時は、お辞儀によって過去は断ち切られ、私たち二人は新しい気持ちになったのだと思います。その証拠に帰り際には「また来てな〜」とニコニコして言われていました。

この経験を覚えていたので、冒頭の先輩のお話はとても納得しました。謝るとき、感謝するとき、お辞儀ってとても大切です。私のお辞儀の理想は、誰に対しても深々と頭を下げられる私の師のお辞儀です。その姿は謙虚そのもの。私も形だけでなく、心からの謙虚な気持ちでお辞儀ができるようになりたいです。


お弁当でつながっている

昨日の仕事中、持っていったお弁当を食べようとふたを開けると「何食べんの?見せて」と言われました。

 

介護の仕事で訪問しているその方は、半年前に心が折れてしまい、食事が咽を通らなくなりました。生きるか死ぬかという壮絶な期間を経て、少しずつですが食事を始めています。

 

食事をとらなくなる前、「何食べんの?見せて」「これ食べてみる?美味しいで」は勤務に入る度、何年も交わされた会話。でもある時から消えてしまい「お弁当食べたい?」と聞いても「いらん!」あるいは返事もしてくれない期間が長く、長い間尋ねることもなくなっていました。そして突然の復活!驚きと嬉しさがこみ上げました。

 

お弁当を見せると「これ欲しい」と言われ、万遍の笑みで「美味しい!」と食べてくれました。

 

何ヶ月も私のお弁当を欲しがることはなかったけれど、それでも毎回お弁当を作るとき、頭のどこかで、これ好きかな?食べたいかな?食べられるかな?と思いながら、彼女がいつでも食べられるようにお弁当を作っていたことに気がつきました。
昨日のおかずも、彼女が好きなものだったので、「美味しい」と言ってくれたのだと思いました。

 

気がついたら涙をこぼしながら笑っている私を見て、彼女も笑っていました。


さまらさの台所10月

今月のさまらさの台所は里芋いろいろ!!4種類のメニューをご紹介しました。
里芋ご飯、里芋の煮っころがし、里芋サラダ、里芋ナゲット
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まずは里芋の皮むきです。里芋はぬれたままで皮をむくと、ぬめりが出て手が滑ったり、かゆくなったりします。洗ってからしばらく置き、表面を乾かすかペーパータオルで水分を拭き取ってからむくとむきやすくなります。皮のむき方のポイントは、里芋の両サイド(頭とお尻)を少しずつ落とし、次に、里芋を横にして持ち、包丁を持った手と里芋を握った手、両方の親指の側面をくっつけながら、包丁を押すようにして皮をむきます。このようにすると、親指がストッパーの役割をするので、指を切りにくく、むきやすいです。
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里芋のぬめりにはムチンやガラクタンという成分が含まれ、胃腸の働きを活性化させたり、免疫力を高める効果があります。ぬめりを落としてしまってはもったいないのですが、ぬめりがあることで味が染み込みにくくなることがあります。そこで、里芋の煮っころがしや、里芋ご飯の時は少しだけ塩水に浸けてぬめりを落としました。

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左上:鍋に昆布だしと本返しを入れ、皮をむいた里芋を入れて中火にかける。
中上:落としぶたをしながら15分ほどコトコト煮る。
右上:里芋が柔らかくなり、水分が減ってきたら、強火にして水分を飛ばす。
下:出来上がり!!

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その他、里芋のナゲットや里芋サラダなど、調理法が違うと味わいもさまざま。
どれも美味しいと好評でした!

試作を通じて発見したこと!
煮っころがしを作っているとき、時間短縮でさっさと作ってしまえないかと思い、少し強めの火で煮ました。里芋は火が通るのにそんなに時間がかからないため、柔らかく、煮汁も飛び、出来上がったと思い、いただきました。確かに里芋は柔らかくなっているのですが何かが違う……。何かとは、味わいでした。
コトコトとじっくり火を入れていくことで、ゆっくりと(里芋のタイミング)で味が染み込み、里芋自体の美味しさが生かされるのだと思いました。反対に私のタイミングで味を染み込ませようとすると、外側に味がついただけで、味が染み込んだという感じではなかったのです。いつもの生活リズムだと、手際よくさっと料理してしまいたい所ですが、煮物を美味しくするコツは、ゆったりした心持ちで、野菜のタイミングで味を染み込ませることだと思いました。何でもそうですが、やっぱり自分本意では上手くいかず、相手に合わせなあかんねんな〜と思いました。


ヨーガの醍醐味 ギャーナ・ヨーガ

今月10日に発刊された『パラマハンサ』、みなさんは読まれましたか?久しぶりにヨーガの醍醐味シリーズが再会しましたね。ご存知ない方もおられるかもしれませんが、『パラマハンサ』では2008年〜2009年頃にも連載がありました。私がちょうど『パラマハンサ』を購入し始めたのもこの頃です。
ヨーガには、ラージャ・ヨーガ、ギャーナ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、カルマ・ヨーガと4つの特徴的な道がありますが、それぞれ連載がありました。そのころ私はヨーガの教えの理解が乏しく、4つのヨーガの特徴も理解できておらず、教えがこんがらがっているような所がありました。また、ヨーガの教えを具体的に実践するということがどういうことなのかが分かっていませんでした。
ヨーガの醍醐味を読むと、先輩方の体験とともに、どの教えを元にそれを行ったのかが具体的に書かれてあり、教えを実践するということがとても分かりやすかったのです。自分のヨーガの歩みにとても助けになり、毎回楽しみにしていました。なので、連載がスタートしてとても嬉しいのです〜!!執筆者の方、ハードルが上がったかもしれませんが頑張ってください。楽しみにしています!

さて、今回はギャーナ・ヨーガ(前半)でしたね。ギャーナ・ヨーガと言えば「私は誰か」という問いかけ。私たちが通常「私」だと思っているもの、名前とか、体とか心とか、それを含めた全体とか、そういった常に変化するものは本当の私ではないとヨーガは教えます。そして、永遠不滅の本当の私を探求するのがギャーナ・ヨーガです。でも「私は誰か」って、その質問の意味、分かります?私はまったく分かりませんでした。

でも少し前にとても面白い経験があり、「私は誰か」という問いに対してイメージが変わりました。

あるとき、日常の中で心が動揺していることがあり、その原因を考えていました。いったい何に動揺しているのか、どの点が気になっているのか、何に納得がいっていないのか……。じーっとその時の状況や心の思いに集中し、ただ黙って見ていたのです。すると突然、「このように心を見ているのは誰か!!!!?」という問いが自分の中から突然飛び出してきました!そのとき、漠然と自分が自分と思っているものが自分ではない!!!という直感があり、天と地が逆転するほどビックリし、唖然としました。

自分が何者であるのか分かっていないのに、こんなことをして何になるのか???と思った途端、今まで心に引っかかっていた思いはどうでも良くなり、「私は誰なのか」ということだけに支配されました。

その経験があって初めて「私は誰か」という質問の意味と探求する目的と、ギャーナ・ヨーギーへの憧れを感じました。次回のパラマハンサにはギャーナ・ヨーガ(後半)が掲載されますね。楽しみです!!


さまらさの台所 9月

先日の日曜日はさまらさの台所でした。今回紹介したのは麻婆豆腐。さまらさの麻婆豆腐はお肉を使わず豆腐となすを使います。秋なすを使って美味しい食べ応えのある麻婆豆腐ができあがりました。麻婆豆腐といえば、豆腐を入れるだけで作れるレトルト!というイメージがあるようです!自分で作ったことがないという方もいましたが、今回のさまらさに出て、意外と簡単なメニューだったんだと驚いておられました。
今回も京都市北青少年活動センターをお借りし、16人の参加者がありました。

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豆腐はしっかり煮ることで、水っぽさがなくなりぷりぷりとした食感になります。
崩さないように丁寧に火を通すのがポイントです。
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食器も中華用のものがありました!まるで中華料理店のよう。
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はじめにも書きましたが、麻婆豆腐といえばレトルト!というイメージがあるようですが、意外と自分で作れるものです。ヨーガにおいて、そういう驚きはとても大切だと思います。私もさまらさを学ぶ中で、こんなに簡単に美味しいものが作れるんだ!と感動したことは何度もあります。そして、それは、料理だけに留まらず、日常の中にあるちょっとしたことにも通じています。「こんなことできない」とか「これは作るものでなく、買うものだ」とか自分で無意識に決めてしまっていることも、もう少し自由にとらえてみたら、「なーんや意外とできるやん!」なんてこともあるのです。自分で勝手に決めているあらゆることを少しずつ「本当かな?」と探っていくことは、自分の固定観念を崩していける一歩になり、自分自身が少しずつ自由になっていくことになると思います。さまらさを通じてそんなことを感じてもらえたらいいな〜と思った一膳でした。


ヨーガ・ヴィハーラの瞑想会 曜日と時間について

今年の夏は去年よりはマシかな〜なんて思っていたら……そんなことはないですね。毎日めっちゃ暑いです!

さて、ヨーガ・ヴィハーラの瞑想会の日程について、変更があるのでお伝えします。

月曜日:毎週 18:30〜20:30まで (開場18:15)

土曜日:奇数週(第1、3、5)19:00〜21:00まで (開場18:45)
第5土曜日の開催が追加されました。

・どちらも2時間の瞑想になりますが、座るために軽くアーサナをしてもらっても良いです。(アーサナをメインにするのはご遠慮ください)
・途中でシャヴァ・アーサナをしてもらっても大丈夫。自分のペースで瞑想していただけます。
・途中参加もできます。(瞑想していますので静かに2Fに上がってきてください)
・ドネーション制で行っているので、良ければ階段横にかけてあるオレンジの入れ物に入れてください(値段は決まっていません)

最後にスワミ・ブラフマーナンダの言葉をご紹介します。瞑想には興味があるけれど、2時間なんてとてもじゃないと思っておられる方もいると思いますが、地道な努力によって必ず良い経験をするようですよ。今日から参加できますので、良かったらぜひお越し下さい!!

「最初、瞑想の実践は無味乾燥に思われるものだ。苦い薬を飲むのに似ている。無理矢理にでも神の思いを心に注ぎ込まなければいけない。続けているうちにやがて、心が歓びでいっぱいになるのだ。試験をパスするためには、学生はどんなに苦しい試練を経なければならないことだろう。神を悟るのはそれよりもずっと容易なことなのだよ!静かな心で真剣に彼に呼びかけたまえ」

 

 


バガヴァッド・ギーター

バガヴァッド・ギーター

地獄に到るには三つの門があり
肉欲 怒り 貪欲がそれである
これらは魂を墜落させる原因ゆえ
正気の人間はこの三つを切り捨てよ

この三つの地獄門を避け得た人は
真我実現に到る行いに励み
アルジュナよ 次第に進歩向上して
究極の目的に達するであろう

バガヴァッド・ギーター(16章21、22節)

久しぶりのギーターの紹介です。

先日仕事のとき、私がしたこと(何かを用意したり、整理したり、洗い物をしたり)すべて私がしたとたんに全部直されました。その現場に入ってからだいぶ立つので、今までと違うことをしたつもりはないのですが、何かが気に入らなかったようで右に向けたら左に向けられ、しまったら出される、とにかくそんなことがずーっと続きました。
「そんなに私のやることが気に入らないなら、全部自分でしてくれ!!」と帰り際にはついに怒りが込み上げてきたのですが、結果として怒りが込み上げてきたことで自分自身がとても嫌な気持ちになり、疲れがどっと押し寄せました。
私の仕事の仕方が悪かったかもしれない、もしかしたら相手がイライラしていただけかもしれない、でもどちらにしても怒ったことで自分自身を傷つけたと思いました。

ギーターに書かれているようにやっぱり怒りは自分自身の魂を墜落させる原因なんですね。

相手がどうだろうが、どんな時でも謙虚にいられたら、こんな気分になることはないだろうな……と思い、それ以来そのことを意識しています。


瞑想の感触

瞑想をしているとき、「あー懐かしいな〜」という気持ちが湧いてくることがあります。そうなると、身体と心はじわーっと溶けていき、何もない静かな中で心底ほっと安心する感覚があります。安心の中にすっぽりと包まれているとそれは時とともにじわじわと歓びに変わり、歓びが身体の奥底から湧き出てくるのです。

瞑想のあと、このようになる時はどうしていつも「あー懐かしいな〜」という所から始まるのかな?と思っていました。懐かしいと思うということは、過去にそれを感じたことがあるからだと思うのです。心底安心するあの感覚、いったいいつ感じたのでしょうか。大人になってからではないな〜と思い、子供の頃かな?と思い出してみても特に思い当たることはありません。いつも不思議だなと思っていました。

以前、そのことをヨギさんに尋ねたことがありました。

「そのような体験はあたかも身体の中から、中心から泉のようにやってくるものだと思います。そのほっとしたような懐かしさのような心地良さというものが感じたということは、それはもう取りも直さず自分自身の本当のふるさと――それはアートマンの存在そのものですよね。そこから万物が派生したから。本当の故郷をちょっと感じたということになる。だからまたそれを瞑想するときには、それを手がかりとしてもっていくのはかまわない。集中、瞑想は心の力を使ってやりますから、だからそれをもって行なうのはかまわない。でもそれにあまりこだわり過ぎないで、静かにそういう思いに沈潜していったときに忘れてしまったら、それは自動的にまた進んでいくことになりますから、それでいいです」

今でも瞑想に座るとき、その感触が身近に感じられる時はそれを頼りに瞑想することがあります。本当は、瞑想している時だけでなく、いつもいつもずっとあのようにいられたらな……と思ってしまいます。

夕立の後の鴨川、とても蒸し暑いけれど、川の近くは風が気持ちいい。

夕立の後の鴨川、とても蒸し暑いけれど、川の近くは風が気持ちいい。

 

 


さまらさの台所 7月

昨日は月に一度のさまらさの台所の日でした。暑くなってきたのでヨーガ・ヴィハーラを飛び出し、北区にある北青少年活動センターでの開催となりました。毎週日曜日の10時からは、下鴨で、ヨーガ・瞑想クラスが行われていますが、今回の会場がすぐ近くだったことや、台所の開始時間が15時だったこともあり、日曜日のクラスに通っている方が数名来てくださいました。全員で15名ととてもにぎやかな会になりました!

今回のメニュー!夏野菜をたっぷり使って作るのは、
夏野菜
夏野菜の南蛮漬けです!!
南蛮漬け
南蛮漬けは、あじやししゃもなど、お魚を使って作るのが一般的です。骨まで柔らかくするためにお酢がしっかり効き、味の濃いものが多いですが、さまらさでは、お野菜だけを使って作るため、昆布だしを使い、野菜の旨味を味わえるように優しい味に仕上げています。揚げた野菜を熱いうちに南蛮酢に漬け込むことで少しの時間でもしっかりと味を含ますことができます。

調理中は和気あいあいと、でも真剣に調理しました!

サラニーの班

隆史

アーナンディ

食後には、長年さまらさの台所に通ってくれているT君が日々の実践について話をしてくれました。(今期から長年クラスに通ってくれている方に日常の実践について3分間スピーチを頼んでいます)

ヨーガを始める前の食事は「めちゃくちゃだった」といういうT君。さまらさの台所に毎月通いながらこれまでのパラマハンサ(機関誌)に掲載されているメニューを作り料理を学んだと言います。共同生活を始めることで遠方から来るグルバイ(ヨーガの仲間)の食事を作る機会にも恵まれ、今まで学んできたさまらさのメニューだけでなく、相手が喜ぶものが何かを考えて作るようになったようです。一緒に住んでいる仲間とメニューについて話し合い、段取りを考え作った食事を仲間と味わう時、相手の歓びを自分の歓びと感じると話されました。そのように集中して行為していくことは、料理だけでなく、いろいろな場面で必要とされ、相手のために奉仕していくきっかけとなっていったと話してくれました。

初めて参加された方からは、料理の実践に関する質問だけに留まらず、なぜヨーガをしているのかといった質問も飛び出し、とても有意義な時間となりました。

お話のとき

日々の実践は個々人の日常の中で黙々、淡々んとされているのでなかなか聞く機会がないものです。こうして毎回いろんな人の実践体験を聞かせてもらうことで自分自身の実践の手がかりになりますね。


日常の気付き

人生は思い通りに行かないことばかりである。それは分かっているけれど、どうしても辛いとき、生きることを拒否する人がいる。

はじめは励ましたり、食べることを望んだり、いろいろと手を尽くしたけれど、本人の意志は固く、何も食べない状況は続いた。ある日、とても痩せた彼女からとてつもなく大きな力を感じた。

家に帰って聖典を手に取った。スワミ・ヨーガナンダの『あるヨギの自叙伝』たまたま開いたページには食事についてのエピソードが書かれていた。

ヨーガナンダがある僧院で生活していた時のこと、先生が2週間ぶりに僧院に帰って来る日、ヨーガナンダ達は歓迎のために食事を用意して待っていた。しかし、汽車が遅れてしまい、先生を待つために何時間も食事ができず、極度の空腹を経験したヨーガナンダは、後に先生に思い切って話をした。

「先生、もし私が自分の空腹をまったく口に出さなければ、だれも私に食べ物をくれる人はいません。それでは私は飢え死にするほかありません」

「それなら死になさい」騒然たる一言が辺りの空気を破って返ってきた。

「死ぬほかなかったら死になさい。ムクンダ(ヨーガナンダの名前)、お前は自分が食べ物の力で生きていると思っているのかね?お前は神の力で生きているのだということを忘れてはいけない。あらゆる食べ物を創造し、われわれに食欲を与えてくださっているおかたはわれわれが生命を維持していくことができるように絶えず配慮してくださっているのだ。自分の生命が米や金や人間の力で支えられているなどと決して考えてはいけない。もし神がお前の生命の息吹を引き上げてしまわれたら、そんなものは何の役に立つ?それらは単なる神の道具に過ぎないのだ。お前の胃の中の食物が消化するのはお前の持っている何らかの技術によるのかね?ムクンダ、よく考えてみなさい。目先の現象に惑わされず、根本の実体を悟りなさい」

 

私たちが神の力で生きているのなら、生きるかどうかを自分で決めることや、食べるか食べないかを決めることは自分勝手なことなのだと思った。それと同時に、どれだけ食事や治療を拒否しても生き続けている彼女は、神からまだ生きるように言われているのだと思った。

彼女はきっと神が迎えにこないことを嘆いているだろうけれど、神は彼女に生きるという恩寵を与えているのだと思った。神からの恩寵は自分が欲しいと思っている形で来るわけではない、でも恩寵はいつもあるんだと思った。ただ、気がつくか気がつかないかだけ……。彼女もまた大きな恩寵で神から守られているのだと分かった。

あるヨギの自叙伝