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ヨーガを続けてきて今、感じること——烏丸ヨーガ・瞑想クラス インタビュー①

烏丸御池で行なっている火曜日の夜クラス。参加者は今年になって来始めた方から、中には10年近く(!)熱心に学んでおられる熟練者までおられ、経験はさまざまです。今回はその中から二人の方にインタビューし、ヨーガと出会っての変化や今の心境などを聞いてみました〜!

駅近のスタジオ サンゴッホにて

まずお一人目は、仕事もしながら、銅版画の製作にも取り組んでおられるという二宮さち子さん。クラスに通うようになって3年半ほどになりますが、久しぶりに会った友人からは「人相が変わったね」と言われたとか。確かに〜〜〜!はじめてお会いした頃よりも表情がいちだんと柔らかく優しくなったように思います。いったいどんな変化があったのでしょうか。気になりますね〜。


――アーサナを続けてきた中で感じていることは何でしょうか?

呼吸が調うことで、心が穏やかになってきたことを実感しています。
またアーサナをしないと翌日身体がだるくなってぜんぜん調子が違うので、何ポーズかでも毎日続けるようにしています。今となっては生活の一部です。
それから、アーサナをすることで『ヨーガの福音』などに書かれている教えの理解が深まっていくように思います。アーサナと教えについての読書には相互作用があると思うので、この二つを続けていきたいと思っています。

――ご自身の課題や目標としているものはありますか?

近い目標としては今練習しているシールシャ・アーサナ(頭立ち)とナウリ(浄化法)ができるようになること。
それから聖者の思想から学ぶことです。今はマザー・テレサの残された言葉が載っている本を読んでいますが、聖者の方々は皆すごく謙虚で、自己犠牲の精神をもっておられますよね。爪の垢でも煎じて飲みたい気持ちです。
最終的には瞑想ができるようになりたいです。以前に瞑想では本を読むよりも、世界のことを本当に理解できると聞いて、そういった状態を体感したいと思い、憧れています。

――関心の高まっていること、もっと知りたいことは何ですか?

ニュースを見ていると、ひどい事件や、紛争が絶えないことにいたたまれない気持ちになります。幼くしてなくなる命の意味や、なぜそういうことが起こるのかを考えたりしますが、社会問題として捉えると不条理ですが、カルマという視点で捉えるとまだしも受け止めやすくなりました。

生きている意味をもっと理解したいと考えたとき、リーラー(神の遊戯)*という、ただ遊ぶということ、世間一般的な楽しみではなくて、生きていることが遊ぶということになるなら、リーラーに身を委ねる、そんな境地を知りたいと思うようになりました。


もともとはスピリチュアルなことに関心がなかったという二宮さんですが、アーサナをコツコツと続けていく中で、身体を通してどんどんヨーガの教えや聖者のスピリットが入っていったようですね。今は、ますますヨーガが楽しくなってこられているようで、何より嬉しいです。

次回はもう一人のインタビューをご紹介します。お楽しみに〜。

(マードゥリー)

シールシャ・アーサナ練習中の二宮さん

*リーラー:この世界は一なる神の遊び戯れであるという真理を表す言葉。心が主人であると誤解し、利己的な思いをもって世界に執着すれば、そこで苦を味わうことになる。しかし、その幻影(マーヤー)を破り、真我を悟った境地から見れば、この世界万物は、愛そのものである一なる神がさまざまな形を取って顕れ、純粋に自ら遊び戯れているにほかならない。(『悟り』より)

■ クラスからのご案内
9/28(金)、烏丸御池スタジオサンゴッホにて秋の特別クラスを開講します! この日はアーサナに加えて瞑想の学びと実践の時間を長めにとって行ないます(チャイ付きです!)。初めての方もこの機会にぜひご参加ください。>> 詳しくはこちら

 


誰ヨガの夏 ☀︎ ヨーガを歩む!

今年の夏はいろいろありましたけれど、少しずつ季節は移り変わるものですね。いつの間にか朝夕は秋の気配を感じるようになって来ました。

さて、誰もが実践できるヨーガ・夏の特別3回シリーズを、長岡京市で7/1, 8/5, 9/2に行ないました。各回ともに20名前後の方が参加されました。毎回アーサナをして呼吸を調え、講座や実習を行ない、ヨーガの実践的な歩み方を学びました。

  1. 心を知る(7/1)
  2. 理想を育む(8/5)
  3. 確かな道を見つける(9/2)*9/1 補講を実施

今回、1回目と3回目に参加された東京の早川さんが感想を寄せてくださいましたので、ご紹介したいと思います。早川さん、ありがとうございました。       (サーナンダ&シャチー)


この夏、 誰もが実践できるヨーガ・夏の特別3回シリーズ(通称誰ヨガ)を受講しようと思ったきっかけは、以前から伝説のように「誰ヨガで〇〇と言っていた」とか、「誰ヨガでは、、、」とか「あれは本当に良かった」と言う先輩方の話を耳にしていたからです。また、色々なヨーガの本を読むものの、言葉を覚えているだけのような気がしてなかなか実感が伴わずにいました。知識に囚われてしまって、知識に行為を当てはめて納得するような、何とも言えないつまらない苦しい感じがありました。そこで、「誰もが実践できる」と言うタイトルにすがるような思いもありました。

1回目の講座は、講師であるサーナンダさんとシャチーさんのお二人のヨーガの実践体験談を交えながら、ヨーガの教えを学び、実習しました。その中で、どのようにしてこれまでヨーガの道を歩み今日に至ったかを聞くことができ、自分と照らし合わせて考える事ができました。例えば、ヨーガに出会って3ヶ月くらいの時はこうだった、1年半後にはこうなった、と具体的なエピソードを伺うことができ「今の私はこんな感じ」と共感したり、「もう少ししたらそれを体験できるのかな」と期待をもったりしました。

中でも印象に残ったのは、ヨーガを始めてから1年半後のエピソードです。
まだまだ心と闘っていたということ。原因を考えてみると、どうやら「私」を認めてほしい、「私」を愛してほしい、と、エゴなる「私」があることで苦しむのだと気付き、「真理の教えを心に言い聞かせる」作戦をとったそうです。
「この心や肉体は私ではない。ではなぜこの私を認めてもらわないといけないのか。本当の私はすでに喜びに満ち溢れた存在だ」
最初は全く理解しなかった心も、何度も何度も言い聞かせていくことで、ある日「そうかもな」と言い始め、心は少しずつ楽になっていったそうです。
また何年か後には、他者の評価を受け取らないように意識していった、悪い評価はもちろん、良いことも受け取らないようにすることで、心は振り回されることが少なくなっていったとのこと。「ヨーガは自立」という師の教えも紹介されました。今の私はまだ、手放せない観念や頼りにしているものがあり、それらを失うことに不安を感じています。ヨーガの実践は、その頼りにしているものを怖いけれど手放して、立っていられるようになることなんだなと、深くうなづくことができました。

3回目の講座では、4つのヨーガの実際的な歩み方について学びました。実は私は、そのあたりの区別がごっちゃりとしていたのですが、それぞれについての参考図書も紹介され、分かり易く理解できました。
どのヨーガにしても、やったことがないから難しいと思うだけで、実践していけば、誰もが真実を実感できるようになると話されていました。今、目の前で、手の届く人がそう言っているのだから、これは実際のことなんだな、私も実感できるようになれるんだなと思いました。
ただし…バターができるまでヨーグルトを混ぜ続けるような(生クリームとヨーグルトで発酵バターを作る時、バターができるまで根気よく混ぜなければならないという、シュリー・ラーマクリシュナの例えから)、根気と忍耐が必要ですよ、とにこやかに話されていた顔が真剣な鋭い眼差しとなり、じっと眼が合いました。その時、「誰もが実践できる」のだけれど、それには目標をもって、根気良く歩み続ける忍耐が必要なんだと、この誰ヨガの本当の意味を知りました。
すると、ここ最近のもやもやしたつまらなさはすっきりと晴れ、簡単なことだったんだなと思うと同時に、やり続けられる忍耐はあるのかな、いや、続けるしかないだろうと思いました。

初めて参加した誰ヨガは、お笑いもたくさんあり、本当に楽しかったです!

早川千茶


『The Eternal Quest—永遠の探求—』YouTubeで初公開❗️❗️

8月8日、『The Eternal Quest—永遠の探求—』の映像がYouTubeで初公開されました!!!
この作品は、2015年11月3日に京都国際交流会館で行なわれたイベントにアーサナ・瞑想のデモンストレーションとキールタン(インドの歌)で出演した時のものです。

『The Eternal Quest—永遠の探求—』というタイトルを見ると、何だか壮大なテーマだなと感じる人も多いかもしれません。
確かに歴史を振り返ってみると、「永遠の探求」というものが人類の大きなテーマであることが窺い知れます。
秦の始皇帝が求めた不老不死の薬、死後も幸福が続くようにと作られた巨大なピラミッド、理想郷のユートピア思想やオアシス都市の建設など、世界のあらゆる国や地域で永遠に続く命や幸福を求めていたことは明らかです。
インドにおいても、それは例外ではありませんでした。
では、どこに求めたのか?
『The Eternal Quest』の冒頭、インド古代の詩『ウパニシャッド』が朗誦されます。

聖者たちは瞑想に没入し、自らの内に永遠なる真の自己、自ら光り輝く唯一の神を見た
彼は唯一にして第二のものをもたない。彼は宇宙の主であり、一切万物の主である
真実のところ、あなたは神と一つである
あなたはこれを知らなければならない
それ以外に知るべきことは何もない

インドの聖者たちは、外界に永遠のものを探したり、新たにつくり出そうとしませんでした。
瞑想によって、自らの内に「永遠なるもの」を発見したのです。
それが「真の自己」であり、また別名「神」といわれるものだったのです——

私自身、3年前に『The Eternal Quest』のアーサナ・瞑想のデモンストレーションに出演させていただき、それが一つの転機となって「真の自己」「神」を求める思いが芽生えてきました。
ただ最近、この暑さで瞑想に集中できない時がありました。
そんな時、心は涼しく快適な環境「オアシス」を求めてしまいます……
しかし瞑想の途中、『The Eternal Quest』で朗誦された詩の一節が思い出されました。

胸と頸と頭とを真っ直ぐに保って正しく坐り、外に出ようとする感覚器官を内に向けよ

私は再度、姿勢を正し、心を内側に向けて瞑想を続けました。
その後、暑さのことは忘れ去られていました。
どうやら本当のオアシスは、心の奥にあるようですね😑🎐(本当にそう思っている?!と突っ込みたくなりますが……)

最後になりましたが、『The Eternal Quest—永遠の探求—』は師シュリー・マハーヨーギーが総合監督として全面的に協力してくださって完成に至った、まさに師の息吹と恩寵が吹き込まれた貴重な作品です。
まだまだ暑い日は続きそうですが、師に感謝を捧げ、ピリッとするアーサナと瞑想、清流のように透明で美しい神の歌キールタンの映像をご覧になって、この夏を乗り切っていただけたらと思います🙏

ゴーパーラ


瞑想会後、カーリーヤントラのTシャツを着て

7月28日(土)プレーマ・アーシュラマにて瞑想会+サットサンガを開催。
京都・御室仁和寺(世界遺産)横の小道を上がっていくと、ここプレーマ・アーシュラマ(庵)があります。

ここしばらくは猛暑が続き、息をするのも厳しいほどだったけれど、この日は台風の影響もあってか夕刻になると風が強く吹き始め、庵の中を気持ちよく通り抜けていきました。

午後19時半、空が夕焼けに染まる頃、各々は祭壇に向かって座り、瞑想が始まります。静寂に包まれた45分間はあっという間に過ぎ、その後は輪になってサットサンガを行ないました。

久しぶりに来庵した人、久しぶりに顔を合わせた仲間もおり、喜び、楽しんだ1時間半でした。

そして、瞑想会後に撮影。

現在、私たちの師は渡米されています。この日は師を思い、師がデザインしてくださったミッション・オリジナルTシャツを着て集まりました。


バクティ・サンガム キールタン

Bhajamana Ma

Bhajamana Ma Ma Ma Ma   Bhajamana Ma Ma Ma Ma

Anandamayi Ma Ma    Anandamayi Ma Ma

Anandamayi Ma Ma   Anandarupa Ma Ma

 

6月から3ヶ月間バクティ・サンガムでは「Bhajamana Ma 」というキールタンを歌っています。Bhajamanaとは心から讃えよという意味、そしてMaはお母さん、母なる女神のこと、Anandamayi は至福に満ちている、Anandarupaは至福の姿をとられたという意味です。

「心よ!至福に満ちている母なる女神を讃えよ!!」

というキールタンですね。女神の優しさに包まれるようなメロディー、単純で覚えやすい歌詞、日常でもいつの間にか口ずさみ、その都度Maに思いを馳せることができます。

ところで、Maといえば、一番に思い出す聖者がいませんか?
Maへの信仰に全てを捧げた19世紀のインドの大聖者、シュリー・ラーマクリシュナです。

カーリー(女神、Ma)寺院の神職をしていたシュリー・ラーマクリシュナは毎日熱心に礼拝するうち、「生きているMaに会いたい!」という思いを募らせていきます。そしていつしか寝食を忘れ、狂ったように神を求め、ついにMaを見神するのです。

シュリー・ラーマクリシュナは生涯をかけて神を求め、愛することを教えられます。全身全霊でMaを求めた彼が、実際どのようにMaに祈っていたか、その言葉を弟子に教えておられる箇所を見つけましたのでご紹介します。

「私はいつも彼女(Ma)にこう祈った『おお母よ、おお至福に満ちたお方よ、私にお姿を見せてください。くださらなければ駄目です。おお低き者たちの主よ、おお、宇宙の主よ、私は決してあなたの宇宙の外にいるのではありません。私は知識を失っています。修行もできていません。信仰もありません。あなたはお慈悲をもって私にお姿を見せてくださらなければいけません』」

シュリー・ラーマクリシュナはいつも、神はもっとも親しい身内だと言われます。子供が母親に泣きつくように心の底から泣いて神を求めたら、神がそっぽを向いておられるわけがないと教えられます。私はこのBhajaman Maを歌うとき、いつもこのシュリー・ラーマクリシュナの祈りの言葉と、神への態度を思い起こし、心でこう叫んでいます。

「私に純粋な信仰を授けてください。くださらなければ駄目です!!」

8月のバクティ・サンガムでもBhajamana Maや、他の女神のキールタンを歌いますので、ぜひぜひご参加ください! 大阪8月10日(金) 京都8月26日(日)になります!


丹波の野菜を使った夏のご飯!! さまらさの台所

先日、さまらさの台所がありました。今回のさまらさの台所は、場所を3つに分けて行いました(各班で5人〜6人)
いつもはこちらでメニューを用意し、作り方を紹介しながらクラスを進めますが、今回は決まったメニューはなく、前日に丹波から届いた新鮮な夏野菜を見て、それぞれの班でメニューを決め、調理をし、いただくという趣旨のクラスになりました。
丹波から届いた野菜がこちら!!トマト、新じゃがいも、新玉ねぎ、万願寺、ピーマン、なす、ロロン(かぼちゃの種類)

それぞれの班によって作ったものが違いますが、どの班も丹波の夏野菜を堪能し、これから続く夏に生かせるメニューを考えたようです。今回はその一部をご紹介します。

まずは、いつもクラスをしている、ヨーガ・ヴィハーラ。丹波から届いた野菜を見て、参加者それぞれで一膳を考えてみました。そして一人ずつ発表する中、「これどうやって作るの!?」「これ食べてみたい!」など話しながら一膳を決めていきました。決定したメニュは、トマトの冷製パスタ、焼きなすのマリネ、じゃがいもの冷製ポタージュ、夏野菜のパコラ(インド風天ぷら)

この猛暑ですから、冷たく、さっぱりとしたものが欲しくなりますね。そこで一番に考えたのがトマトの冷製パスタ。でも暑いからこそエネルギーになる、パンチの効いたものも欲しくなります。「揚げ物が食べたいな〜」という意見から、インドのスパイス、豆の粉を使って作るインド風天ぷら(パコラ)を決めました。
たくさんある新じゃがいもは冷製のポタージュスープに、大きくてピカピカ輝いているなすは、焼きなすにして、マリネにしました。それでは今回作った、簡単!!トマトの冷製パスタをご紹介します。

(5人分)材料:トマト中5個、玉ねぎ中1/2個、パスタ300g (一人60g)、塩適量

1 トマト中3個をすりおろし、中2個はザク切りにし、ボウルに入れておく。

2 玉ねぎ1/2はみじん切りにし、塩もみしておく。

3 玉ねぎから水が出たら手でしっかりと絞り、1に入れて混ぜる。

4 ゆがいたパスタを氷水などで冷やし、3のソースをかけていただく。

オイルが入っていないので、サラダのようにあっさりした夏向きの味わいです。オリーブオイルは卓上に置き、お好みでかけるとまた違う味わいで2度美味しいパスタとなります。トマトの甘みと爽やかさが、体に染み渡る美味しさです。ぜひ夏のメニューに加えてくださいね!

そのほか2箇所で行われたさまらさの台所は写真とともにご紹介します!!

まずは、プレーマ・アーシュラマ。当日の天気や、みんなの体調を考慮して決めたメニューはこちらフレッシュトマトの冷製パスタ(にんじんの葉を少しそえました)、焼きなすの冷製スープ、スティックサラダ(にんじん、きゅうり、ディップはマヨネーズと味噌、酢

食事は2階のアトリエで!まるでレストランのようにテーブルセッティングも美しいです。

参加者からの感想をいただいています。
「当日のお天気と皆の体調で冷たいスープ、パスタ、スティックサラダがすんなりと決まったのが流石!!と感じました。通常とまた違ったインスピレーションあふれる楽しいさまらさでした。」

「初めてのプレーマ・アーシュラマでの調理ということで楽しみにしていました!新鮮なお野菜はそのままで美味しいけれど、それをどう生かすか?実践を重ねている人からくるアイデアは豊かで、また数人いることで、流れるように(メニュー、味付けが)決まっていく感じが生き生きとしていておもしろかったです。」

「焼きなすのポタージュ、絶品でした!本当に体と心に染み渡る感覚がありました。スティック野菜のディップもきゅうりとにんじんのみずみずしさと甘みが感じられました。」

続いて、アーシュラマこちらのメニューは、トマトご飯、茄子とピーマンの味噌炒め、焼き野菜(かぼちゃ、万願寺)、スパニッシュオムレツ(じゃがいも、玉ねぎ、ドライバジル)、にんじんサラダと生のトマト、にんじん葉のおひたし

こちらも感想をいただいています。

「旬の野菜を使って料理するということだけでなく、生活の知恵や暮らしのあり方を教えていただき、でもあるがまま、とても自然で……感激の連続でした」

「わたしが印象的だったのは ものの場所もわからず どうしようという感じだったみんなが お互いにいろんな質問をしたり、短時間の調理の行程のなかで 落ち着いて、しぜんに役割分担して調理されている様子が清々しかったです。調和、円満、喜び、 そんなことが自然に思いました。」

ライブ感のある、さまらさの台所、調理だけでなく、暮らし方の姿勢も学べたようですね。みなさんそれぞれにを楽しんでいただいたようです。またこのような企画をしていこうと思います。
次回のさまらさの台所は、通常のクラスの形となり、9月23日(日)となります。


カーリー・ヤントラに瞑想する!

今回発売されたNewTシャツとトートバッグにデザインされているカーリー・ヤントラは、瞑想に使用されるものでもあるのですが、シンプルなデザインを見て、本当に瞑想で集中しやすいと思いました。

それで、6月23日にあった松山での瞑想特別クラスでは、集中力を養っていくというテーマだったので、カーリー・ヤントラを用いて、それを凝視しながら実際に集中してみようと思いました。

ところが、人数が多いのでどうやろうかなあと思っていたところ、ヨギさんから、大きなカーリー・ヤントラを書いて前に貼ったらいいというアドヴァイスをいただき、早速松山のスタッフに依頼したところ、Tシャツのデザインを参考に、大きなカーリー・ヤントラを書いてくれました。見た瞬間、「大きいなあ〜!!!」と思いました。

当日は39名の方が参加されましたが、後ろから横からでもよく見えたようです。

今回の瞑想特別クラス3回目は、3月から三ヶ月空いたのですけれど、前回感想を寄稿してくださった若狭さんが(→前回のブログ)、続きを寄稿してくださいましたので、ご紹介したいと思います。ありがとうございました。           (サーナンダ)


毎日牛のポーズと呼吸法そして瞑想を5分でも10分でも座ろうと決めました。瞑想セミナー2回目の宿題です。

牛のポーズと呼吸法、詰まった鼻がピリッと通って呼吸が体の中を巡ります。心が静まって心地がいい!肩の力を抜いて背骨を真っ直ぐと言い聞かせます。
睡魔と戦いながら、なんとか3日坊主は乗り越えました。1週目2週目も大丈夫、雑念は浮かんできますが、捨てる捨てるとにかく捨てるを繰り返していると、少しずつですが集中が長くなります。順調だ!なんかいけそうな気がする!

ところが一ヶ月を過ぎた頃大きな変化に気づきます。
自分で努力をしている感じがしないのです。なにか大きな力が働いて私を動かしている。何かに包まれ導かれるように。気負いも緊張もなくなって、ただ毎日淡々と瞑想をするという不思議な変化です。
その大きな力に身を委ねて、気がつけば3ヶ月が過ぎていました。

「大きな力」あれはなんだったんだろう? 今はよく分からない。
でもきっと誰もの中にあるにちがいない!それは分かります。

三回目の瞑想セミナーのテーマは「集中」でした。

心は分散しているから弱い。集中すれば強くなるとサーナンダさんが教えてくれます。強くなりた~い!!!

参加者全員で大きなカーリー・ヤントラに集中します。
カーリー・ヤントラへの集中は、ただ見て、目を閉じて残像に集中します。ぼやけてきたら目を開けて見る。その繰り返しだけ。メガネをしてもよい、瞬きも気にしない。何の努力も要らな~い、超簡単~です。

二日目のアーサナクラスの瞑想の時、目を閉じたとたんカーリー・ヤントラが前にありました。どうして、なんで~と心の中で大騒ぎ。いやいや騒いでる場合じゃない集中!集中!
最後はカーリー・ヤントラと私が重なって、喜びが満ちていきました。

ヨギさんの恩寵ですね、ありがとうございます。
次の宿題はこれだと決めました!

若狭多美子

 


サットサンガより 目的と方法

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

毎日のサーダナを実践する上で、しんどいなとか面倒だなと感じる日は誰にもあると思います。

私もヨーガに出会う以前に、仕事が忙しすぎて帰って眠るだけという生活が数年間ありました。その時の自分に、サーダナをする時間と余裕があったかと考えると、できなかったと思います。

そういう環境の中では、ヨーガを中心にした暮らしは、簡単に望めそうにはありません。思い切ってガラッと生活を変えることができればいいのですが、家族や周りとの調和を大事にすると、あるいは自分自身今のこの生活を捨ててヨーガに飛び込めるか?と揺れてしまうと、何年も場合によっては何十年も我慢しなければならないかも知れません。

今の境遇は自らのカルマにしたがって有るのだとすれば、今の環境でできることをするしかありません。

日常がとても忙しく、ついサーダナができない日があります。そうすると、「今日はできなかった」とか、「さぼってしまった」という罪悪感や後悔の念が起きてしまいます。自由に軽やかになる為にヨーガをしているはずなのに、これでは反対に苦しいばかりですよね。

先日サットサンガで弟子の質問に師はこう説かれました。

質問者「状況とか場所が変わって、その中でサーダナを試みてもなかなか集中して行えない自分の弱さがあります。サーダナをやっても途中で疲れて寝ちゃったりして、罪悪感というか……。でもその気持ちをもっと前向きに望みたいんだけれども、なかなか自分で壁を作っているところがあります。そこを突破する、やれるようになるにはどのようにしていったらいいでしょうか」

ヨギ「サーダナは目的ではないんですよね。だから目的と方法というものを混同してはいけません。サーダナはあくまでも方法にすぎないわけで。それは目的ではないんですよ」

質問者「何のためにするか、ということですよね」

ヨギ「そうです。目的が真理を実現することであるならば、もちろん、このヨーガのサーダナはそのためにあるわけですから。それは結局のところは心を浄化する、きれいにするということ。サーダナというのはそのためのものですよね。じゃあ、それにはサーダナはいくつも色んな方法があります。アーサナや瞑想だけではない。信仰もそうだしね。だからもっと目的に直接的なところを踏まえて、心に持っていないとだめ。常に真理を持っている。神を思っている。そういうふうにして信仰を高めていくこと。それが大事です」

サーダナとはアーサナだけではない。日々の他者との関わりの中で積極的に奉仕を行うカルマ・ヨーガ。常に真理を物事の判断基準として生きる。そして境遇が例えどんなに荒れ狂う嵐の中にあっても、心は常に神の中に留まる境地、信仰という強いよりどころを持つこともサーダナなんですね。

人それぞれカルマにしたがって与えられた境遇は違いますが、ヨーガに出会って発心がおこり、この道を進もうと決めた。と言うことは既にヨーガの道に向いて進んでいるということだと思います。停滞や挫折を感じても、確実にカルマの道からヨーガの道に舵を切って進んでいる。だからこそ、残っている心の習性や習慣との格闘があるのだと思います。

カルマの世界で心に支配されるのが嫌なら、心の声は聞くべきでは無いですね。真理の存在を信じられないと思っているのも心だからです。本当に求めるものは何なのか?自分はこれからどう生きたいのか?目的をしっかりと見すえて、その為の方法を淡々と実践することが一番確実で早道なんだ…それ以外に道は無いと改めて思い知らされました。

器官を統御して貪欲という難敵を滅ぼす力が、自分にはないとおまえが考えるならそれは間違いだ。なぜなら肉体より器官、器官より心、心より知識、知識より魂の方が格段にすぐれ、精妙、かつ強力でもあるからだ。 『バガヴァッド・ギーター 三章 四十二』

Caitanya


さまらさの台所 手作りでご飯のお供

パラマハンサ会員向けのさまらさの台所があり、19人の参加がありました!
今回紹介したのは、ちりめん山椒、昆布の佃煮、新生姜の甘酢漬け、味噌玉の4種類。冷蔵庫にあるとご飯のお供として日々の食事に重宝するものばかり、手作りすることで、安心して食べることができます。

さて、味噌玉って何だと思います?

お湯を注いだらすぐに味噌汁ができる、あさげやゆうげというインスタント食品をご存知ですか?家にある味噌で出汁を取らずに、同じように簡単に味噌汁を作ることができるのです。
味噌(大さじ1)にかつをぶしの粉(ひとつまみ)を混ぜ、そこに乾燥わかめ、お麩などを入れてます。そこにお湯を注ぐと、出汁を取らなくても簡単にお味噌汁が出来上がります。

サランラップに包んでおくと、持ち運び便利!!お弁当に持っていくこともできます。
こんなに簡単にお味噌汁が作れると、手間が省けて本当に助かりますね。

今回のさまらさの台所では、ご飯にお味噌汁、おかずは、ちりめん山椒と昆布の佃煮、新生姜の甘酢つけという一膳をいただきました。一見すると何と質素な!メインのおかずはないの?・・・という一膳ですが、実は食べてみるとこういう食事は体も心もほっとすることに気がつきます。どうしても、メインのおかずを作らなければ!とか、あまりに簡単な食事だと、手を抜いてしまった!という印象が残ったりします。けれど、本来食事には「〇〇しなければならない」というものはないと言うことを学びました。

ヨーガの実践を中心とする生活(日々のアーサナ、瞑想を実践する生活)には、その日、そのとき、またその時期にふさわしい食事があります。

あるときは夕食を速やかに済ませてサーダナ(アーサナや瞑想)にしっかり時間を取るときもあります。あるときは、時間に余裕を持ち、旬の食材を使って、できたての料理をいただくこともあります。またあるときは、誰かと一緒に過ごす時間を大切にするときもあります。その日の状況や、自分の修行の時期に応じて、ふさわしい形で食事ができるようにするには、自分自身で判断していく力をつけていくことが必要になります。

食事は人生の目的ではなく、本当の目的(自分の理想)を実現するために必要とするこの体を調えるために取るものです。まずは、その目的をしっかり見据え、日々の食事作りをしていくことが望ましく、自分の判断に対して「今日はこれでよし!」と思う力をつけていくことも大切です。

 


サットサンガより そのとき見る者はそれ本来の状態にとどまる

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

みなさん こんにちは
前回、台湾訪問の報告がブログにもありましたが、本当に台湾のグルバイの人たちの笑顔が幸せそうでしたね。彼ら、彼女らの真剣さ、素直さ、大らかさがひしひしと伝わってきました。この世界の中で、ヨーガを求める思いは同じ、お互いに切磋琢磨して歩んでいきたいと思いました。
さて、私たちの師は台湾ご訪問に引き続き、今年もまた愛媛県松山市の地に赴かれました。師は京都に留まらず、教えを乞う求道者たちがいるところにはどこにでも足を運ばれ、尊い真実の教えを説かれ続けておられるのです。

さて、今回のサットサンガは『ヨーガ・スートラ』という教典にある「見る者」についての教えがありました。ではまず、『ヨーガ・スートラ』をご紹介いたしましょう。

  1. これよりヨーガを明細に説く。
  2. 心の作用を止滅することがヨーガである。
  3. そのとき、見る者【自己】は、それ本来の状態にとどまる。
  4. その他のときは【自己】は心のさまざまな作用に同化した形をとっている【ように見える】。

私たちはこの身体でも心でもない、その奥にある純粋な意識、それが本来の私という自己である、それを見る者という、そして心は見られる者であると教えていただいています。その見る者について、師は分かりやすく教えてくださいました。

質問者「見る者と見られる者のことなのですが、例えばそれは瞑想の中で考えていくのか、私は日常の中でそういう感じがあったりするのですけれど、そのことをもうちょっと教えてください」
師「これは『私は誰か』というね、本当の自分というのは何なんだろうというところから出発した話で、通常は心というものを私だと思ってしまっている。でも本当に心というのは私なのだろうか、その私が私といっているところの第一人称であるその存在は一体何なのだろうというものが、この探求の出発点になります。
そうして心を見つめていくと、心は常に変化をしているし、どう見ても完全円満な存在とは言いがたい。いい時もあれば良くない時もある。成功すれば失敗もする。有頂天になる時もあれば傷付くこともある。もうどうにもこうにも心というのは変化の中で動揺している確実性のないものとして理解されます。その中心にあるのが私(わたくし)という、意識付けられた思いですね。
この私という、私が指すところの私というのは何なのだろうというところを探求していくことによって、心というものはその働きの動揺が激しい時もあれば静かな時もある。静かな時というのは、心がいわばサットヴァ性になっているというふうにいえます。反対に激しく動き回っている時はラジャス性が中心になっていて、それがもっと極端な落ち込みとかになれば、タマス性ということになってしまうわけですね。この心の様子に私というものが常に引きずられてしまって影響を受けてしまっている、ということは、この私というものもそういう変化の状況に支配されている、つまりは主体性がないということになっていきます。それでも私という意識はなかなか無くならない。
そこで、ここからはヨーガ的な本当に瞑想とかいうものを行なっていくほかないんですけれども、その瞑想を進めていった時には、心というものがその静かな状態から、もっと無くなったかのような状態、つまり心が働きをしなくなる、活動をしなくなるようなところがやってきます。同時にそれはその中心である私(わたくし)意識というエゴ意識も活動しなくなっていく時があって、いわば幕間(まくま)が変わるように全く別次元の様子というか、別次元のものがそこに訪れることになるんです。
本当の私というものが顕れる、それが見るものであって、その時にはじめて心は見られているものである、見る者によって見られているものであるということが客観的に分かる。そうすると心で思っていた私というものが、いわば本当の私を騙って(かたって)いたというか錯覚をしていた、間違っていた、本当の私がその奥に在るにもかかわらず、心がそれを主張していたというふうに改められる。それが見る者と見られる者の関係になるわけです。
だから、ヨーガは徹底的に真実というものが何なのかということを探求する智慧でもあるし、その道でもあるわけですけれども、その本当の私というものが知られた時には、知られるというよりは本当の私になった時には、それは、もはや本当は私という言葉もいらない。もうあなたもいらない。なぜなら、それだけしかないんですね。それは名付けようのない存在なんです。しかし、それだけがリアリティとしてね、実存として在る。それだけが本当は在る」

心の作用を止滅することがヨーガであると『ヨーガ・スートラ』にもありますが、心の中心にあるエゴ意識が活動しなくなっていくと、本当の私が顕れてくる、それが本来の自己である「見る者」であると、師は分かりやすく教えてくださいました。

師「この世界には、さまざまな出来事、経験、見るもの、聞くもの、すべては心がつくり出した、いわば夢のような世界のように理解されることになります。それでも夢の中では、それが現実だと思ってみんな夢の中で楽しかったり苦しんだり、びっくりしたりとか、いろんな冒険をしているわけですけどね。それがこの現実の世界ということにもなるわけです。だからやっぱり本当の見る者という存在、これを知ること、それになることがとっても大事なことです。
心は見られているものであるということを瞑想の時には思い起こしてください。なぜなら今でもそうだけれども、心というものを見た時、心って見えるでしょう?心が何を思っているかとか、心を知ることができるでしょう?『誰が知っているんですか?』って、『はい、私』とは言わないけれど、その本当の私というものはそこに在るという確実な証拠なんですよ。
でもついつい習慣的に心が心を見ているとか言ってしまいがちですけれども、それは大いなる錯覚なんですよ。なぜかというと、そこには時間のずれが起こっていますから。一瞬ということは、一説によれば六百分の一秒とか、もっとミクロの時間単位のことを一瞬といいます。一秒にも満たないんです。その一瞬の心の働きを一体どうやってその心が把握することができるのか、心は自分を二つに分けることができるのかといえば、できないです。でも心は心を知っているというのは、時間のずれによって『こう考えた』とか『ああ考えた』とか『こう思った』『こう感じた』という過去の心の働きを記憶しているにすぎない。これが厳密なヨーガの心理学でもあります。だから見る者というものは常に変わらずそこに在りますし、すべてを知っているし、すべてを見ています。神と一緒でしょう?だからその存在というのは神とも呼ばれるわけです」

見る者とは、私たちのことをすべて知っている意識、私たちと共にいつも在る意識、私たちはいつも神と共にあったのだ。そして私たちは神であったのだ。師の教えは本当に私たちに平安と勇気と感謝をもたらせてくださいます。その存在こそが本当の自分である、その見る者に留まり続けること、それがヨーガである。『ヨーガ・スートラ』を深く理解することのできたサットサンガでした。

ダルミニー