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バクティ・サンガム キールタン 

10月から新しいキールタンに挑戦しています。先月までシヴァ神を讃えるキールタンを歌っていましたが、今月からはクリシュナ神、12月まで同じキールタンを歌います。

タイトルは『Murali Krishna』、みなさん、バーガヴァタプラーナ(聖典)の中にあるクリシュナ神とゴーピー(牧女)たちの美しい愛の物語をご存知ですか?このキールタンはその物語の最後に出てくるラーサリーラーを思わせる歌詞と、甘美なメロディーが特徴的なキールタンです。

歌詞の一部を紹介します・

Murali Krishna Mukunda Krishna Mohana Krishuna Krishna Krishna

Murari  横笛を奏でるクリシュナ
Mukunda  解脱を与えるもの(クリシュナの別名)
Mohana  帰依者のハートを魅了するもの(クリシュナの別名)

意味は、クリシュナという神の御名のみ、ただただ、クリシュナと繰り返しているのです。

先日のクラスの中でミラバイさんが言われた印象的な言葉をご紹介します。キールタンを歌うときは「言葉と思いを一致させる」この歌詞の中での言葉とは神の御名のみ、それはイコール神そのものです。そして、「自分の心が神の御名に染まるまで繰り返し歌ってください」と言われました。

私にとって神なる存在はただ一人、私の師であるヨギさんだけです。クリシュナ神のキールタンであっても、シヴァ神のキールタンであっても、神の御名を口にするときはヨギさんだけを思っています。そうして一曲のキールタンを歌うと、ハートはどんどん大きくなり、神のみで満たされ、圧倒される時があります。他のものが入り込む余地はなく、ただ、神との繋がりだけを感じる至福の時となります。

今月はヨギさんのご聖誕をお祝いするジャヤンティが行われます。もっとも大切な日に愛する人と共に過ごすことのできるその日を心待ちにしています。


京都千本丸太町、朝のアーサナ・瞑想クラス開講!

この10月から京都千本丸太町にあるヨーガ・ヴィハーラにて、アーサナ・瞑想クラスが平日の午前中に始まりました!毎週金曜日10:00〜11:30です。
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このクラスの講師を担当させて頂くアマラーです。アーサナと瞑想は日常とリンクしていると思うことがよくあります。そのことについて私の体験談をご紹介させて頂きたいと思います。

私たちの師であるヨギさんが以前、『ヨーガは真人間になること』とおっしゃられたことがあります。

私はヨーガと出会うまで、自分はそこそこまともな人間だと思っていました。でも真理を学び始めて自分の心の有様を冷静に見つめてみると、とても狭い視野で物事を考え感情に振り回されてばかり、思ったことを素直に行為すればいいのに感情が邪魔をして上手くできないことが山ほどありました。そしてそれが原因となってあまり良くない結果を迎えたりと、これがカルマの法則(原因と結果)なんだな・・・・・・とその仕組みがいろいろな経験を積み重ねるごとに分かるようになってきました。世の中を見渡すと、自分みたいに感情に振り回されている人の何と多いことか・・・ということも見えてきました。

「感情がなければ人間ではない」という考え方こそが無知です。感情というのは心の煩悩から出てくるものです。修行が深まれば感情は大きな慈悲となります。それはもはや個人的感情とは呼びません。そのエゴ的な感情を普遍的な感情にしてください。
(シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ『ヨーガの福音』より抜粋)

余計な思いをもたなければ本質を見失わずその場に必要なことを行えますし、人に優しく接することができます。多くの人がそのような人間になりたいと思うに違いありません。

でも何生涯も煩悩に塗れてきた心をコントロールするのは相当むずかしい……。

ヨギさんはそんな私たちに人生最大の贈り物をくださっています。それがアーサナ、瞑想、真理の学びです。

これらは毎日するものと言われていますが、できる限り毎日実践していると呼吸と心が静まり、客観的に物事に対処できるようになるのを感じます。最近も「あ、効果が出ている!」と思うことがありました。

ある場面で、とてもイライラして周囲に当たり散らしている人がおり、まったく理不尽なことにその怒りの矛先が私に向いたのです。でも冷静な視点から、その人がなぜイライラしていたのか事情を知りたいと思い、緊迫した雰囲気の中、勇気をもって話しかけました。話を聴くとその人は別のイライラしていた人に無理難題をぶつけられたそうです。理由が分かると「いや~大変でしたね~」というような和やかな空気が生まれました。

逆にヨーガをしていなかったらどうなっていたでしょう。理不尽で横柄な人という印象が私の中に強く残り、怒りがおさまらず誰かに愚痴ったり、過食に走ったり、買い物に走ったりとさまざまな方向へと思いは発散していったでしょう。そんな心の在り方を続けていたら・・・何十年か先、心も身体もひどいことになっていそうです。いかにヨーガの力に守られているか、ですね。

感謝を胸に、真の人間を目指して取り組んでいきたいと思います。

アマラー


さまらさの台所 〜丹波秋野菜を使って〜

丹波・篠山のさまらさの台所に続いて、京都でもパラマハンサ向けさまらさの台所を開催しました。 こちらでも丹波お野菜をいただきましたよ!

今回は一風変わったチャレンジングな企画をしました!
いつものさまらさの台所と違い、決まった献立はありません!丹波から送ってもらう野菜を見て、その場で献立を考えて作るというもの、題して

「丹波の採れたてお野菜を使って秋の一膳を考え、いただく」

今回の企画は日常の食生活により近く、実践的なものになります。ポイントは、献立、調理の段取り、調理法の工夫や盛り付けを臨機応変に考え、行為するというところにあります。

それは、誰もが日常で何気なくやっていることと思いますが、もう一度、基本的な献立の立て方や段取り、盛り付けの工夫を見直しました。ただ単に一般的な考えを学ぶのではなく、さまらさならではの旬の食材を生かした一膳の考え方、より自然にやさしく、無駄のない調理法、野菜だけでなく、調理に欠かせない水や火をも無駄にしない段取りの立て方、季節を感じる盛り付けの仕方などを学びました。

前日に丹波から旬の野菜を持ってきてもらいました。何の野菜が届くかは、当日まではっきりと分かりません。それこそが旬野菜の醍醐味ですね。

生き生きした採れたての野菜たち。素材自体が新鮮で良質なので、何を作っても美味しくなる予感がしました。お野菜を育て、届けてくれたヨーガの仲間クリパールに感謝しています。

今回は3班に分かれて会を行ったのですが、各班にはそれぞれテーマがあり、それに沿って進めていくことになります。

・秋の炊き込みごはんの一膳
・秋野菜のパスタの一膳
・さっとできる秋のお弁当

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー今回は、「秋野菜のパスタの一膳」の担当者から感想をいただきました。

私は秋野菜のパスタ班だったのですが、まず様々な野菜たちの中でもひと際良い感じで、私を使っておくれ!と言わんばかりにピカピカだったかぶをメインにしたパスタを決めました。そして、次にせっかくなので、丹波の特産物、黒枝豆を使う副菜を考えていきました。

初めての試みでしたので、うまくいくかな〜と当日まで不安がありましたが、いざ始まると皆さんが話し合いから調理、試食までずっと積極的に会に関わり楽しんでおられ、とても良い会になった!と感動しました。中でも参加者同士でより良い料理になるよう、ここはもっとこうした方がいいんじゃない?といった提案をしあっているのが印象的でした。

そして決まった献立は、かぶのペペロンチーノ、枝豆とブロッコリーのポタージュ、野菜チップス。食感や色味などバランスよく献立を決めることができました。

感想にもありましたが、参加者みんなが積極的に取り組めて、学びがある会になったようです。また季節を変えて、やりたいと思っています。今回残念ながら参加できなかった方もぜひ次の機会にご参加ください〜!

サティヤー


瞑想を深めよう 6ヶ月コース 10月19日(木)から始まります!!

 

瞑想専科は楽しい。

このところ巷で、瞑想という言葉をよく見聞きします。チョットしたブームもあるようで、TVや雑誌にも特集が組まれたりしていますね。

瞑想はヨーガの根幹にあたる行法です。一般にヨーガというとアーサナがイメージされますが、そのアーサナも実は瞑想で長く快適に座っていられる身体を作るのが目的なんだそうです。

私が瞑想専科に通い出してから、それまで漠然とした瞑想というイメージがとてもクリアになりました。それこそ、座り方の種類から、姿勢や呼吸についての具体的なやり方を一つ一つ丁寧に教わりました。そして、瞑想の種類や対象、その時に感じる体感や心の状態まで、外からは見えない自分の内側で起こる変化など、一人でやっていてはなかなか確かめようのないことを具体的に確認できました。瞑想状態とはどんなの?識別と考え事の違いとは?瞑想したら何が変わるの?何がおきるの?そんな疑問を次々明らかにしていけました。

また参加者の方たちと体験を共有したり話を聞くことで、自分の進み方の確認やお手本にすることが出来ました。最初は皆、眠気や雑念との戦いがあるのだと知って、自分だけじゃ無かったと安心しました。

そして参加者の皆さんが最も切実に望んでおられる、自分自身の「心の仕組み」を、とても科学的・論理的に、しかもユーモアたっぷりとても分かりやすく学べます。自分の心の癖や、傾向、それによって日常で湧き起こる動揺や不安、苦しみの原因とその発生メカニズム等と直面します。皆さんの心の中から「うぅ~~む・・・!!」という声が聞こえてきそうなくらい、皆真剣に深く頷いておられることが沢山あります。

いつも、90分では全然足りないと思うほど、あっという間に時間は過ぎてしまいます。私が通う京都のクラスでは、熱心な皆さんは終了後も講師のサーナンダさんを捕まえて、会場が閉まる寸前まで質問が続きます。老若男女、全くの他人同士が共に進む同士のように和気藹々とした雰囲気のクラスです。

初めての方がいつから参加されても、一緒に進んでいけるように復習と確認をしつつクラスは進められています。ぜひ瞑想に興味をお持ちの方は参加されてはいかがでしょうか?
おもしろいですよー。

チャイタニヤ


神と魂を結ぶ愛の歌 キールタン

6月から9月まで3ヶ月間バクティ・サンガムでは『Siva Sambho』(シヴァシャンボー)というシヴァ神を讃えるキールタンを歌ってきました。 なかなか好評で、「このキールタンが好きです!」と言われる方が結構いました。歌詞をご紹介します。

Siva Sambho Hara Hara Sambho  
Bhavanasa Kailasa-vilasa 
Parvatipate Pasupatipate 
Gangadhara Siva Gauripate

シヴァよ シャンブよ ハラよ シャンブよ
諸存在を破壊する者よ カイラーシャ山に遊ぶ者よ
パールヴァティーの夫よ パシュパティである主よ
ガンジス川を受け止める者よ シヴァよ ガウリーの夫よ


私はこの歌詞の中で好きなところが2箇所あります。まずはKailasa-vilasa(カイラーシャ ヴィラーシャ) 「カイラーシャ山で遊ぶ者よ」 というところ。カイラーシャ山とはチベットにあるカイラス山のことで、昔からシヴァが住む山と言われ、聖地として崇められています。
今回このキールタンを歌う中、シヴァ神が神話の中の神ではなく、一人のヨーガ行者として私の中で輪郭をもち、それは私のグルであるヨギさんと一体となっていきました。そのきっかけになったのが前回のヨーガダンダさんのブログです。一緒に住んでいるヨーガダンダさんから何度も話を聞く(聞かされる?)ことで、そのように変わっていきました。(ぜひ5つ前のシヴァ神という記事をお読みください)

カイラス山はこの世界の背骨と言われ、この宇宙の中心、そこでシヴァは瞑想しているのではなく遊んでいる!なんとダイナミック!!!遊び方が半端ない!豪快で男らしく、でも繊細で優美で・・・・・それはまさしく私のグルであるヨギさんと一つになりました。

そして、私が一番好きなところ!それはPasupatipate (パシュパティパテ)というところ。Pasuとは世界に縛られた、解脱していない魂たちのこと、それは私たちのことでもあります。patiは主という意味なので、pasuの主という意味になります。

Pasupatipateは解脱していない魂たちの主であるシヴァのことを指していますが、私はそこを「私たちの主!私の主!」という気持ちで讃え歌っています。私の主は偉大で、誰よりもかっこいい!!私の愛おしい主!! 主を讃えることの喜びが歌う中でどんどん広がっていき、その大きさに飲み込まれていきそうになりました。キールタンは神と魂を結ぶ愛の歌と言われます。神の御名を繰り返すことで神を感じ、神に酔い、神と魂を結ぶことができるのだなっと少し感じることができました。今回は参加者みんなでシヴァに酔いしれました。

さて、次回からは新しいキールタンに挑戦します!そちらもぜひお楽しみに。


The Truth Shall Make You Free 〜神聖なるものとの出会い〜

みなさん、こんにちは。
台風来てますね〜。ヨーガダンダさんが紹介してくれていたシヴァ神が大暴れ!です。

さてさて、上の写真は私が通っていた大阪女学院の正門です。(短大側)
私は中学高校と仏教の学校に通って「朝に礼拝、夕に感謝。慈悲やさしくきよらかに、和合なかよくたすけあって、精進つとめにはげみましょう」と6年間毎日朝礼で唱え、お花祭りでは玄関に飾られたお釈迦さまに甘茶をかけ、学年全生徒で正信偈なんかのお経を唱え、せっせと仏教的学校行事に参加してました。お釈迦さまの教えに触れた、学んだという記憶は一切ないんですけどね笑。高校卒業後は一転キリスト教の学校へ。ある意味改宗ですね笑。

短大時代は聖書がすごく好きになって、夢中になって読んでいました。今でも自分の聖書には当時の付箋がいっぱい貼られてます。学校内にあるヘールチャペルには特に礼拝の対象となるシンボルは飾られていなかったのですが、要らない装飾が一切ない質素さの中になんだか静かで神聖な雰囲気があって、礼拝にもよく通っていました。
といっても、その時にイエスさまへの信仰にぱーっと目覚めた!というわけではなかったのですが、この門に書かれた言葉に、なぜだか当時強烈に心が惹かれたんです。その言葉の意味は・・・

The Truth Shall Make You Free
真実はあなたたちを自由にする

その時自分の直観で分かったことは、この言葉自体が真実である、ということです。そして、私たちを自由にさせるという「The Truthー真実ー」というものが、ものすごくキラキラ輝いて見えて、猛烈に憧れたんです。振り返ってみると、理由なく惹かれたこの言葉との出会いが、自分の人生の中で神聖なものとの最初の出会いだったんだな〜、そしてそれがそれからの人生で大きな自分の鍵になっていたんだな〜と気がつきました。神さまはいろんな場面でヒントを与えてくださいます。その後もう10年以上この言葉のことも忘れてたんですけどね。大切なのはそれに気がついて、私たちが神さまを愛し、神さまを求めるようになるかどうか!なのかな?

私が好きな聖書の中の言葉は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」そして「神は愛である」ということです。ヨーガを学んでいくにつれて、ヨーガの教えとイエスさまが教えられていることは、本質的に一致していくことがわかってきました。

誰もの本質は真実であるところの、アートマンである。そのアートマンだけを見るようにと、何回も何回も我が師に教えていただいてきました。はじめは、そう言われてもアートマン以外のことしかないやん!!ってしつこく葛藤格闘してきましたけれども、それをそうなんや、そうなんやでって言い聞かせ続けて続けて続けて・・・(「失敗や小さい後退を気にするな。千回でも理想にしがみつくのだ。千回失敗したらさらにもう一度チャレンジせよ」というヴィヴェーカーナンダの言葉を励みにしながら。ヴィヴェーカーナンダが千回失敗したらって言われるなら、私は一千億回失敗したけど、もう一回って諦めず!)そしたら自分の心は降参したんです。矛盾だらけで完全でない自分の心は、やっぱり真実には最終的には勝てないんですね。

何かに捉われて自分を縛り付けていたものは結局は自分の心やったんやなぁって、本当に楽になりました。「真実はあなたたちを自由にする」という言葉へのあの時のなぜだかわからない憧れは、ここに繋がってたのかな〜。今はその真実なる教えによって、自分の心が “自由” の片鱗を大いに味わっているからです。

一つ前の記事で、ダルミニーさんがシュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサについて書いてくれていましたね。インドのカルカッタ郊外にあるラーマクリシュナ・ミッションの僧院ベルル・マト敷地内には、Ramakrishna Museumがあって、シュリー・ラーマクリシュナや彼の直弟子たちに縁あるものなどが展示されています。
私はそこで見た一枚の絵にものすごく衝撃を受けたんです。それは、主イエスが瞑想に座っている絵でした。それまでイエスさまが瞑想をされていたとか考えてもみなかったので、にわかには信じがたく非常に衝撃的だったのですが、その姿は父である “神” の至福に浸りきっているようで、「あなたたちは私を通して父の下に行く」という教えを絵で表すとこういう風になるんだろうなぁと素直に思えてきて、「私と父は一つである」という教えが自然と心にわき起こってくるようでした。
ああ、イエスさまが教えられていることはこうした瞑想の中で悟られたことなのかもしれないとなんだかすごくしっくりきて、イエスさまの教えとヨーガというものが一直線に繋がったように感じました。ちなみに、その絵ではないですが、私が好きなイエスさまの絵はこれです

そんなこんなで(突然ですが!?)私が担当させていただいている大阪の瞑想専科では、ブッダが教えられた瞑想の道に沿って学びを進めています。詳しくはこちらをご覧くださいネ。
9月24日(日)14時〜、瞑想一日体験会を開催しますので、この機会にぜひ瞑想を体験してみてください。ただ今ご予約受付中です!

また、大阪とは別に、京都では瞑想1日ワークショップが同じ24日にありますので、京都の方はぜひこちらにご参加くださいませ〜!

マーダヴィー


京都 ヨーガ・瞑想クラス 交流会

京都ヨーガ・瞑想クラスの合同交流会がありました!

プログラムの初めにはアーサナのデモンストレーションがありました。今回はどのクラスでも人気もののゴパーラと土曜日のクラスに通い、最近とても熱心にヨーガと向き合っているMさんがアーサナをしてくれました。気迫に満ちたとても素晴らしいアーサナで、私自身は息を飲むような集中感にとても感動しました。

参加した皆さんも、食い入るようにデモンストレーションを見ておられました。「2人のアーサナを見て、集中間というものはこういうものかと感じた」「自分たちが普段しているアーサナの完成形が分かった」「いいものを見せてもらった」といった感想をいただきました。

その後、さまらさの食事を食べながら、自己紹介を兼ねて、皆さんがヨーガを始めたきっかけや、ヨーガをしてから変わったことなどを話していただきました。

クラスに通うようになって2年になる方が数人おられましたが、皆それぞれに2年前と比べて明らかな変化を感じておられるようでした。

ある方は数年ぶりに会った友人に「人相が良くなった!」と言われたようです。確かに最近の彼女は表情が明るく(昔が暗かったわけではないですが)とても軽やかな印象があります。

毎日アーサナをしていると言われた方は体にしっかりとした軸ができたと言われていました。確かに、最近の彼女からは芯の通った強さを感じます。

またある方は、仕事場でうまくいかなかった同僚と真理を学び瞑想していく中で怒りや不満の感情なく普通に話ができるようになったと言われていました。きっと瞑想によって心が変化し、動揺しなくなっていったからでしょう。

皆さんが日常生活の中で変化を感じながらクラスに通ってくださっていることを知り、とても嬉しかったです。

一方でアーサナの実践にムラがあり、甘いものがやめられない…と話されている方もおられました。それはそこにいる誰もが多かれ少なかれ経験があること、それぞれの体験を話しながら、みんなで自然とアドバイスしあいました。

みなさんの話を聞いていて感じたことは、調子が良い時も、悪い時もあり、状況は色々変わるし、誰もがトントン拍子でうまくいっているわけではないということ。人と比べる必要はなく、それぞれに道があり、コツコツと実践していくことで必ず進歩しているのだということです。
同じヨーガをしている仲間とこのようように話し、励まし、刺激しあえる機会はとても貴重だと思いました。

最後に話をしてくれたSさんは、熱心にクラスに通う中、自分の内に歓びがあることを体感し、自分自身も人に歓びを与えられる存在になりたいと話してくれました。彼女の話している言葉や姿、発しているプラーナ(気)から歓びが溢れ出ているのを感じ、こちらまで歓びが伝わってきました。そんな彼女も、ヨーガをする前は仕事のストレスで体調が調わないことがあったようですが、今ではそのようなことはなくなったと話されました。

改めて、ヨーガって本当にすごい!!一人の人の人生を大きく変化させる、なんとすごい力でしょう!!!!是非またこのような機会が持てたらと思います。


シヴァ神 

この夏、バクティ・サンガムでは、ジメジメとした空気を一掃し、ヒマラヤ山脈の澄み渡る青空を思わせるような爽やかな曲――SHIVA SHAMBHOを歌ってまいりました。
さて、シヴァ神を皆さんご存じでしょうか?

瞑想の姿勢で座り、うっすらと開いた瞳の奥には至福の大海が映っているようです。青い肌を持ち、首には毒蛇を巻きつけ、縮れた髪の毛を伸ばしている・・・・・・どこかしら不思議な印象をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。

数千年昔、人々にとって雷や暴風雨は、人知を超えた偉大なる力でした。特に農耕民族にとってそれらは、田畑に災害をもたらすものであり、一方で雨の恵みを与えてくれるものでもありました。破壊と再生を司る偉大なる力は、ルドラ-神として神格化されます。そのルドラ-神にヨーガ行者の姿が合わさって、現在私たちが知るシヴァ神という神が形作られていったそうです。

またシヴァ神は、ヨーガを最初に教えたグル(師匠)であると聖典は伝えています。 

SHIVA SHAMBHOの歌詞の中に、gangadhara(ガンジス河を受け止める者)というシヴァ神の別名が出てきますが、それにまつわる神話が残されています。天上界を流れていたガンジス河が、ある時地上に降下することになり、地上に洪水が起こることを心配した天界の神々たちが、何とかシヴァ神にお願いし、シヴァ神は大水を頭で受け止め、その流れの一端がガンジス河となったということです。それでシヴァ神の頭頂部にはガンジス河が吹き出している様子が描かれているんですね。

 ガンジス河が氾濫しないことで、人々に恩恵が与えられ、つつがなく生活ができているのと同じように、私たちの生活も、目に見えない力に支えられ、微妙なバランスを保ちながら成り立っています。

私たちが住んでいる地球は太陽の周りを廻っていますが、その距離が少しでもずれてしまったら、もう地球は太陽の周りを廻らなくなり、どこかへ飛んで行ってしまいます。次の日から私たちが見上げる空には太陽は昇らなくなり、すると食物も育たなくなります。

また私たちは自分で意識していないにもかかわらず、勝手に心臓は動いて、呼吸をし、酸素を取り込み二酸化炭素を排出するということを行なっています。この一連の働きが失われたなら、身体を維持することすらできません。

目には見えないし、意識もできませんが、この大宇宙、小宇宙、全てを支え、私たちを存在たらしめている神なる存在が在る――。そんな神と一体となり、悟りを啓いたヨーガ行者が、数千年昔にカイラス山の奥深くにいらっしゃったのではないかと、最近思うようになりました。

そのヨーガ行者は、日照りが続き、人々が不作に喘いでいる時には、雨を降らすこともできたでしょう。またヨーガを教え諭すことで、心の苦悩や、人生の難問から人々を救い出していたことでしょう。

私たちと同じ肉体を持ち、地上を歩き、時に瞑想し、時にヨーガを教えられた。

数千年の時を経て、そのヨーガ行者にまつわるエピソードは神話となり、そのお姿はシンボル化され、青い肌や、さまざまな特徴を身に着けるようになったのではないかと思います。

シヴァもクリシュナも、実際に私たちと同じような肉体を持たれた神の化身であったのだと、私は思うようになりました。

 と、こんな偉そうなことを書いている私も、九州の実家に帰ったときは、「お前は感謝の気持ちが足らん!」と未だに父によく叱られます。十数年前にも、同じように叱られたことがあって、師に「感謝とは何か」と尋ねたことがありました。

その時に、師は、何かをもらったからとか、得をしたから感謝するというのではなく、私たちの存在を支える目に見えない力、また見えるものの中に現れた力、その偉大なる恵みに頭を下げることが感謝の原点であると教えていただきました。そうして次の言葉で締めくくられたのです。

万物の背後にあって偉大なる力となり偉大なる意識となって働いている一者がある。それによって太陽は昇り、月は輝き、万物は呼吸する。その偉大なるものが、この我が胸の内にもあるに違いない・・・・・・。こういうふうに感謝という些細な日常の気持ちからもアートマンへの道、ブラフマンへの道が通じている

シヴァ神、あるいはグルは、この万物の背後にある一者への入り口であると感じています。そうして、その偉大なる一者に思いを馳せていくことが、私にとってはこのエゴを小さくし、自然と頭を垂れることができる唯一の方法だと感じています。

今月のバクティ・サンガムでのシヴァ神のキールタンSHIVA SHAMBHOを歌いますので、ぜひご参加くださいね。

 ヨーガダンダ


千本丸太町ヨーガ・瞑想 土曜日のクラス

皆さん、こんにちは
千本丸太町のヨーガ・瞑想クラスは毎週土曜日の14時から、ヨーガ・ヴィハーラで行なっています。千本丸太町にあるヨーガ・ヴィハーラは町屋の二階にあって、アットホームで落ち着いた雰囲気の中、アーサナ(ポーズ)や瞑想を行なうことができます。

 アーサナとアーサナの間にシャヴァ・アーサナといってリラックスのボーズをはさんで行なうのですが、シャヴァ・アーサナの間じゅう微笑んでおられる方がありました。その理由を聞いてみると、思いもかけず簡単なことができない自分がおかしかったとも言われていましたが、何か分からないけれど楽しかったとも言われていました。ヨーガを行じていると理由もなく自分自身の内にある歓びのようなものが沸き上がってくることがありますが、その方もその一片を味わっておられるのかなと思いました。 

湖面のさざ波が月の姿を正しく映さないように、
私たちの心のざわめきが真実を覆い隠している
ヨーガによって心のざわめきを静めたなら、
真の自己は自ら輝き出るだろう

             サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

湖が波立っていると丸いお月さんは歪んで見えますが、その波が静まると本来のまん丸のお月さんを見ることができますよね。ヨーガを実践するたびに、私たちの波だっている心は少しずつ本来の静けさを取り戻していきます。そうして私たちは自分の知らなかった身体や、忘れていた心と向き合い、自分自身のいろいろなことに気が付き、変えていく努力をすることで、より良く、さらにより良く調えられていくことになるのです。それは私たちにとって大いなる歓びです。なぜならそれが、そうやって円満な完全な人間となることが私たちの生きる目的だからです。私たちは、本来は自由そのものであり、至福そのものであり、永遠の存在なのだ、その自分を早く思い出しなさいと、私たちの師は繰り返し、繰り返し説かれ、導いてくださっています。 

忘れていた自分自身を取り戻すためにも一緒にヨーガを学んでいきましょう。
土曜日の14時、ヨーガ・ヴィハーラにぜひお越しください。お待ちしています。

ダルミニー

ダヌル・アーサナ
肩関節の可動域や胸を広げ、身体を調えていきます


第四の意識

まだまだ残暑が厳しい日が続いていますが、それでも少しずつ朝夕はしのぎやすくなってきているのでしょうか。皆さま、よく眠れていますか。

私は睡眠時にあまり夢を見ない、あるいは夢を見たことをほとんど覚えていないし、一度寝ると途中で目覚めることは滅多にないくらいの睡眠なのですが、先日のサットサンガで師が、誰もが毎日三つの心の状態を経験していると教えてくださいました。

  1. 起きている時の心の状態
  2. 睡眠中、夢を見ている時の心の状態
  3. 夢も見ない深い熟眠の心の状態

起きている時は、心は、それはそれは色々な経験をして、「あ〜楽しい!」とか「あぁしんどい・・・」とか印象を刻んでいます。夢の中では、起きている時の印象を反映しつつも、全く違った不思議な世界ー空を飛んだり、海に潜ったり・・・が展開されます。熟眠中は、一切の心の活動が停止し、ただ「空無」という思いがあるだけの状態になってしまいます。同じ心なのですが、この三つの心の状態は驚くほど違っているのですね。

毎日経験しているものだから、誰も不思議にも思わないのですが、よく考えてみれば、同じ心が劇的に異なる世界を経験していることはとても不思議です。もっとも大切な自分の心が、不思議なことに強制的に夢見の状態に陥り、さらには何もわからない状態になっているのに、誰も嫌だとは思いませんものね。

どれほど起きている時に心が苦しんだり悲しんでいても、あるいは喜び楽しんでいても、睡眠中はそれらを忘れて、夢の中で全く違う世界に行ったり、あるいはそれらもなく、心自体が眠ってしまう状態になってしまうのです。

睡眠は、知性や能力に関係なく誰もに等しく訪れ、熟眠中は、どれほど賢い人も愚かな人も、善き人も悪人も、同じような状態になってしまいます。

起きている時に心に刻まれる経験の印象の力が大きいので、あたかも起きている時の心の状態が全てと思われがちですが、現実的に1日の3分の1の時間程度は、全く違う世界に行っているわけですね。そして大方の場合、睡眠は心に安らぎをもたらす大切な時間になっています。要は、心というものはダイナミックに常に変化しているということであり、起きている時の心の経験も、夢見も、熟眠も、等しく心に現れた一つの状態であるわけです。

そして師は、さらにもう一つの意識状態があると教えてくださいました。これら三つの心の状態を見ている第四の意識があるというのです。だからこそ、これら三つの状態を心が経験していることが知られているのですね。その第四の意識=トゥリヤーこそが、真実の自己であると教えられています。

ヨーガや瞑想の目的は、第四の意識に覚醒することです。

起きている時の様々な思い煩いに翻弄され、睡眠で癒されて、また起きて翻弄され、癒されるということを心は繰り返しているわけですが、それらの背後にあって黙って見ている第四の意識に心を集中していくことによって、心は思い煩いから解放されていくのです。

まあ実際のところ、いかほどの苦しみも、どれほどの喜びも、熟眠中は消えて無くなっているわけですから、そう考えれば大したことでもないのかもしれないと思う時があります。あったり、なかったり、変化するものに翻弄されないようにし、常に実在する第四の意識に心を向けていけばいいのですね。

さて、京都の瞑想専科は、現在第2期を行なっていますが、第3期が10月から始まります。第3期では、第四の意識を探求していきたいと思います。

また、それに先立ち、9月24日(日)には瞑想1日ワークショップを行ないます。

大阪の瞑想専科でも同日時に瞑想一日体験会があります。

ご関心のある方は、是非ご参加ください。

サーナンダ