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さまらさ 3分間クッキング

お家にいる時間が長くなったという方も多いこの頃、お家で食事をする機会も確実に増えていますよね。毎日の献立に悩む、ご飯作りに疲れた・・という声も聞こえてきます。そこで、今回は手軽に作れるさまらさのスパニッシュオムレツを動画でご紹介します。材料は、じゃがいも、玉ねぎ、卵、オリーブオイル、塩と至ってシンプル、お家にある材料ですぐに作れます。

ご紹介したものは、底の円の直径が14cm、外側の円の直径が19cmの小ぶりのフライパンで作っています。大きいフライパンで作るときは、卵の数や具材の量を調整してください。また、オムレツをひっくり返すとき、大きくて難しいときはお皿を使うなど工夫してくださいね。

ここからはアレンジ編!
①具材を変えて色々作れます。まず私がよくするのは、冷蔵庫の中で微妙な量残っている野菜を使い切り作戦。結局のところ、何の野菜を入れても作れるのです。きのこ類、根菜、葉物、トマトどれも大丈夫!!!その他、野菜だけではなくてもいいです。変わり種だと、納豆、大豆、ひじき、わかめ、などなど、野菜以外の食材も入れて焼くことができます。

②オムレツを焼くとき、とろけるチーズをフライパンに敷き、その上に卵液(具材が入ったもの)を流し込んで焼くというのもオススメです。少し強めの火で焼くと、チーズがカリッと仕上がり、美味しいですよ。とろーりしたチーズを楽しみたい方は、卵液にチースを混ぜて焼くといいでしょうね。

③もう一つは、加工した食材を使うもの。カレー、ラタトゥイユ、ポテトサラダなど、すでに出来上がっている料理を卵液と一緒に混ぜて焼くと、オムレツに大変身することができます。なかなかのアレンジで、見た目も新たに美味しくいただけますよ。味付けもいらないので、混ぜて焼くだけです。

困った時のスパニッシュオムレツ!ぜひ、各お家でいろいろなアイディアで作ってみてくださいね。さまらさでは月一回レシピを公開しています。今月はインドカレーを紹介しています。ぜひこちらもご覧ください!
https://www.mahayogi.org/classes/samarasa-web


インターネットの動画配信でヨーガを学ぶ!

古代の修行者たちから、「俺たちの時代なんて…」と説教じみた小言が聞こえてきそうなほどの恵まれた状況が、昨年の四月、私に与えられました。

ヨーガに出会ってまだ1年しか経っていなかった私は、『パラマハンサ会員限定瞑想専科 ヨーギーを目指して!12回コース』という力強いタイトルにやや尻込みしたものの、通常のクラスにはない動画受講コースがあり、何度でも繰り返し視聴できるというインターネットならではのメリットに惹かれて、結局受講することにしました。

このコースは熱心なヨーガ実践者に向けたパラマハンサ会員限定コースで、遠方の人も受講できるように、クラスの模様が1週間以内にYouTubeで動画配信されてオンライン受講できるコースも付加されているのが特徴です。レクチャーと45分の瞑想実習、そしてQ&Aの構成です。

会員限定というだけあって、おっかなびっくりの新参者に対する配慮など微塵もないディープなヨーガ愛が、全12回のクラス全てを貫いており、「動画視聴者は会場のプラーナを少しでも感じながら受講をするように」とのアドバイスを意識するまでもなく、毎回、モニター越しに熱いものを感じながら視聴させていただきました。

ある先輩から、今回の講師であるサーナンダさんについて、「サーナンダさんは、ラージャ・ヨーガ(王道ヨーガ)やギャーナ・ヨーガ(真知のヨーガ)の話をするときはとても知性的・論理的だが、バクティ・ヨーガ(神への信愛のヨーガ)の話をするときは敬虔なバクタ(神を信愛する者)のように喜びに溢れかえる。クラスなどでそういった話をすること自体も、聞いた人が少しでもヨーガを深めることができるようにという他者への思いに根ざしたカルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)そのもので、とにかく本当に凄い方だ」という講師像を聞いたことがあります。

講師のサーナンダさん

確かに、バクティやプレーマ(真の愛)について涙ながらに語られていた第7回【グルへの愛と献身】第8回【真の愛】あたりの映像や、24の宇宙原理や真我探求についての小難しい話をされていた第6回【心を知り尽くす】第9回【真我の探究】あたりの映像を思い返してみると、改めてそのギャップの大きさを実感し、「バクタ=神の愛人」や「ギャーニー=智者」といったカテゴリーにすら執らわれない『Theヨーギー』の姿を、記憶の中のサーナンダさんに垣間見るような思いです。

第8回真の愛の動画受講の一画面

第9回真我の探求の動画受講の一画面

実際の会場にいる受講者の一人からも、「ヨギさんのことが好きだと言う人はバクティ的な瞑想をする人が多い中、誰にもましてヨギさんに惚れまくっているサーナンダさんが、何故アートマン・ヴィチャーラ(真我の探究)を中心に実践されてきているのか?」という疑問が呈されていました。サーナンダさんは、「入口が違うだけで中に入ったらどちらも一緒です」という言葉で答えられていましたが、あの師が書かれた「ヨーガ・サーラ」の結びの一文、『王道、知、神への愛、献身行為の四つの大河は各々に、また重なり合って一つの大海に流れ込む――真実在という至福の海に。』を地で行くようなご自身の様子そのものが、言葉以上にその答えを体現してらっしゃるように感じました。

永遠の真理、サナータナ・ダルマが人の姿をとってこの地上に現れてくださったのがヨギさんなら、その教えを淡々と黙々と実践し続ければどうなるかを人の姿をとって示し続けてくださっているのが、サーナンダさんを始めとする諸先輩方の皆さんだと言っても過言ではないでしょう、多分。事実、ヨーガを真剣に教え真剣に学ぶ先輩方の姿が映し出された動画を見るたびに、実践に対する信頼と情熱が私の心に湧いてきたものです。

先にも述べたとおり、1年前はそれほどの覚悟を持って受講を決めたわけではありませんでした。この覚えの悪い頭に動画受講コースのメリットを生かすべく、繰り返し視聴しながら教えの部分を文字に起こしてみたものの、結局それに満足してそれっきり読み返さなかったり、何回かの瞑想実習の時間は、1クリックで簡単にスキップできる利便性がよろしくない方向に作用したりと、まったく私らしい体たらくです。
しかし、1年間の動画受講を通して、モニター越しに現代でヨーガを実践しているヨーガ行者の姿を繰り返し見続けた結果、たとえ教えの内容は覚えていなくとも、その姿自体の印象は色濃く残りました。またその印象に、こんな私をして(今のところ)一日最低一時間、瞑想の座に着かせる力があったことは、受講前には想像だにしていなかったことです。

実際のクラスでの瞑想シーン(最終回)

最終回【永遠の真理】でのサーナンダさんは、強力なカルマの中にある我々がヨーガの道を歩もうと思い立ったこと(一年前、第1回【真理】の動画内でおっしゃっていた『発心』)を奇蹟と称されました。
思い返せば、「何のために生きているのか、人生の目的は何なのか」と悩んでいた2年前の私が、インターネットを介してヨーガと出会い、そして今、『真実を悟ること』を人生の目的としてヨーガを実践しているのです。まったく、涙がちょちょ切れるほどの奇蹟です。

さらにサーナンダさんはこうおっしゃいました。「自分自身の中に真実があるということ、自分自身が真実そのものであるということの自覚が少しでも起こったなら、この世の中で何が起ころうと何ひとつ影響を受けない。外の世界に求めるものは何ひとつ無くなる」と。
この世の中で起こることに逐一影響を受け、外の世界に求めるものが百八つある私にとっては耳が痛いところもありますが、この言葉が一層身につまされるような昨今の現状に対して、一年間の動画配信クラスを学び終えた今の私は、淡々と黙々と実践し続けるという態度で応じなければなりません、ヨーギーを目指す者として。

第10回【理想を行動する】の映像で、「志は行動し、実現しなければならない」という言葉が紹介されていました。この1年間で私が最も意識したのも理想についてです。ヨーガに出会えたものの、ヨーガがなかなか深まらないという思いに執らわれていたとき、そもそも自分の理想や志が明確とは言えないことに気付きました。
無知があるからこそ真実を悟ることを目的とするのが道理なのに、その目的たる真実は、無知があるうちはどうしても漠然としたものであり続けるのもまた道理なのです。ヨーガを深めるためには理想を明確にすることが先決なのだと感じました。しかし、理想について考えてみると程なく、理想を明確にするためにはヨーガを深めなければならないとの答えが浮かんできました。…頭の中まで輪廻です。
こうして、結果堂々巡りに終わるような無力な思考に頼っていた今までの傾向は、徐々に力を失っていきました。そして、映像の向こうの現代のヨーガ行者の姿に、思考では結論の出なかった理想の片鱗を見て取り、実践をもってヨーギーを目指すという決意に至ったことが、この1年間における私の中の最も大きな変化なのかなと思います。

曰(いわ)く、この時代の特異性はインターネットとのことですが、そのおかげを蒙(こうむ)って、動画配信という形でヨーガの教えに触れ続けることができた一年間でした。
ありがとうございました。

深水晋治/松山市


春の風を受けて

新型コロナウィルス感染の影響で、うちの娘は学校が休校となって家で過ごす毎日でした。お菓子作りをしたり、集中してじっくり本を読んだり、普段なかなかできないことが出来ていたようです。非常事態の中、比較的のんびりと過ごしている娘を見て、先輩グルバイがずいぶん前に仰っていた言葉を思い出していました。

ヨーガ行者はどんな時代が来ても、影響されない

どのような話からこの言葉をお聞きしたのか、今回は割愛させて頂きますが、この言葉を聞いたとき、ヨーガ行者というのは常に内面で満たされているから自分の外側に幸福を求めようとしない、世間の動揺とはまったく無関係のところで生きるということなんだな、と思いました。気持ちが揺らいでいるということは、逆に儚いところに喜びを求めてしまっているということになりますし、そういう時こそ、いったいどこに真のリアリティがあるのかを真剣に、緻密に探求せねばならないと思ったのでした。

朝、自転車を漕いでいると、ふわっと優しい風が吹いてきました。どこからか沈丁花の甘い香りが漂ってきて、ラーマクリシュナの聖句を思いました。

葉っぱが動くのも、それも神のご意志によるもので、あのお方(神)のご意志なしには、一枚の葉も動くことは出来ない。

ああ、神のご意志がないと葉っぱを揺らす風も吹かない!目にも美しい花も咲かないのだ!と思うと神の存在がとても身近に感じられて嬉しく思いました。

もっともっと私の内面が神で充満していけば、その歓びは周りの人たちにも良い影響が与えられるのではないかと思いました。私のするべきことは明らか!神を思い続けることです。

京都では少し桜の花が開いてきました

アマラー


純粋な愛

「光陰矢の如し」と言いますが月日の経つのは早いもので、ヨーガを学び始めてから、もうずいぶんと時が経ちました。ヨーガの師と巡り会った頃、見るもの、聞くものがすべて新鮮で、心はその教えに惹きつけられ、すぐに虜になりました。それから、いろいろな問題がスムーズに解決し、めまぐるしく変わる環境の中で、心はどんどん新しい世界を受け入れ、軽やかに自由になっていったのでした。
でも月日が経ち、淡々と日々を暮らす中で、真実はいつになったら実現できるのか、思うような結果をみることができない自分は、何か進歩の証がほしいと思うようになりました。しかし、そんな悪魔のささやきには耳をかさず、自分の内にあるという真実だけを頼りに、心を正していくということも繰り返し、繰り返し行なっていました。
そういうふうに悶々としていたある日、シュリー・ラーマクリシュナの教えが再び頭の中に蘇ってきました。

「追い風は常に吹いている。自らが帆を上げるだけだ」

 最初の頃、この教えに背中を押され、勇気を出して小さな帆を広げ、師の下に飛び込んでいったのでした。その追い風は間違いなく確かに、真実の方向に私を進めてくださった、そうなんだ、私は今だって、この追い風の中で、もっと大きな帆を上げて、スピードをあげていくこともできるのだと改めて気付かされました。私はやっと、状況が困難にならないように、真実へ向かっていけるように、師がいつも影になり日向になり、どんな時も辛抱強く、私を見守り、愛をもって、支え続けてくださっていることに気がつきました。その師の純粋な愛を見つめていた時、私は自分の中の愛をも見つめることができたのでした。いつの頃からか私は師を愛し始め、そして今ではこんなにも愛しているんだと自覚し、そんな自分に自分が驚いたのでした。その純粋な愛の力を信じ、これからも淡々と精進していこうと思います。 

もっともっと師を、神を、愛することができますように。
オーム タット サット オーム

Satguru shri Mahayogi Paramahamsa
Painted by Saci

ダルミニー


ラーマクリシュナの例え話

梅の開花便りが聞かれ、日差しに春の訪れを感じますね

久しぶりに「ラーマクリシュナの福音」を手に取り、パラパラとページをめくっていると、私の好きな例え話が目に入ったので、ご紹介します。

ラーマクリシュナは、誰にでもわかるように、目に見えない真理や神を分かりやすい例え話にして教えを説かれることがあります。「どのようにしたら真理を実現できるでしょうか」と言う信者からの問いに対して、このように答えておられます。

「祈ることによってすべての魂はあの至高の霊と一体になれるのだ。どの家にもガス栓がつけてある。ガス会社からガスがくるようになっているのだ。だから、申し込め!申し込みさえすればガスをよこす手配をしてくれるだろう。部屋に明かりがつくだろう。シアールダハに事務所があるよ(一同笑う)」

おそらくシアールダハは実際にガス会社のある場所の名前ではないでしょうか。ユーモアがありますね。私はこれを読んだ時とても素直に「そうや、申し込まなあかん」と思ったのですが、それにはある経験が関係しています。

私は少しの期間ですが外国に住んだことがあります。知り合いがいなかったので、自分で住む部屋を探し、契約し、家具を揃え・・・ととても大変でしたが、屋根裏にある小さな部屋に落ち着きました。お茶でも飲むかとガス栓をひねったとき、ガスがきていないことに気が付きました。水道も電気も申し込みしなくても(おそらく大家さんがしてくれていた)そのまま使えることになっていたので、ガスについて聞くことをすっかり忘れていました。なぜかそのとき、私は備え付けのガスコンロの方に不備があると思い、大家さんに電話するも繋がらず、どうしようかと思っていると、隣に住む人が訪ねて来ました。ガスコンロに不備があると話すと、彼は、「違う!違う!申し込んでないから!今すぐ申し込め!」と言うのです。そこで、彼はすぐにガス会社に電話をかけてくれたのですが、私の語学力が追いつかず、電話でのやり取りは無理と判断され、直接事務所に行くことになりました。その日は営業時間に間に合わず、次の日の午後、仕事と仕事の合間に行ったのですが、昼休みで対応してもらえず、次の日に行くも、申し込むために必要な書類が揃っていないと帰され、書類をそろえるのにもさらに時間がかかり、土日は対応してくれない・・・・何日もかかって、やっとの思いでガスが使えるようになったことを覚えています。そんな苦労話もすっかり忘れていましたが、この例え話を読んだとき、そのことを思い出しました。

ラーマクリシュナの「申し込め!」の言葉とあの時の隣人の「申し込め!」がリンクして、なんとも忘れがたい例え話となりました。そうです、必要であれば申し込まなければならないのです。「私はガスが必要です」と同じように「私は真理が必要です、真理を実現させてください」と神に祈らなければならない。あの時、少し?(実際にはかなり・・・)手間はかかったけれど、申し込んだ途端にガスが来るようになったように、きっと申し込み続ければ、その思いは実現されるのではないかと思わせてくれました。

 


弟子たちのサットサンガ ― 聖なる思いは共鳴していく!

アーシュラマの玄関を飾る生け花

2月1日(土)、40名ほどの弟子がマハーヨーギー・アーシュラマに集い、弟子のサットサンガが開催されました!

玄関には春の訪れを感じる満開の梅の花やストックが生けられ、静謐な空間には芳しいお香が漂います。師がいつもお座りになられているムートンを囲み、サットサンガが始まりました。聖音オームが朗唱され、アーシュラマの聖なる空間を満たします。

最初に、現在ニューヨークに滞在されている師シュリー・マハーヨーギーの下で1月中旬に10日ほどヨーガを学んできた大森さんから、報告がありました。彼女はまだ師に数回しか会っていないにもかかわらず、情熱に衝き動かされて師の下へ飛び込んでいきました!ニューヨークに行く前の大森さんは、切実に真理を求め、サットサンガでは命についての真剣な質問をする姿が印象に残っていましたが、帰国して初めて会うこの日、驚いたことに、大森さんはとてつもない大きな安心感に満たされているように見えました!そしてそれが真理への信念、強さに繋がったように感じました。その変容ぶりを見て、師の存在と導きがどれほど大きいかということを思わずにはいられませんでした。

ニューヨークでの体験と学びをしっかりと話してくれた大森さん

大森さんは、ニューヨークで師にすべてをさらけ出し心は丸裸になり、ありのままの自分になれたと、何かが剥がれ落ちたように潔く、あまりにも屈託なく爽やかに笑っているので、まるで生まれたての無垢な子供を見ているような気持ちになりました。
師の強烈な光によって覆いがなくなり、彼女のありのままの命の輝きがそう思わせたのかもしれません。落ち着いて淡々とニューヨークでの経験や学びを話す大森さんを見ていると、まるで師が目の前におられるのかとさえ思えるようでした。

昨年の春の祝祭の写真スライド上映会の様子

続いて、昨年の春の祝祭「サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー」の写真スライドの上映がありました。
その中で、師のお姿が映し出されたその瞬間、一気に皆の熱が上昇しました。師が春の風とともに、ふわりと会場であるプレーマ・アーシュラマの玄関にご到着されたお姿――、その佇まいは、なんと優しく穏やかで慎み深く、慈悲深きお姿でしょう。弟子たちの元へと向かわれるため会場にお入りになる前の師のお姿に心が奪われ感動しました。このようにして師はいつの時もずっとずっと弟子たちの元へと来てくださっているのだと思いました。

みんな食い入るように見ていました。

 弟子たちを愛深い眼差しで見つめておられるお姿、満面の笑みのお姿。師の表情、座られ方、姿勢、佇まい、髪の毛一本、お顔の魅力的な皺一つに至るまで、どれもこれもが愛おしい師のお姿ばかり。何を見るよりも嬉しい、楽しい、もうそれしかないような時間でした。かのラーマクリシュナは、きっとこのようなお姿であったに違いないと思いました。
春の祝祭の会場であるプレーマ・アーシュラマは日本家屋であるのに、映像を見ているとなぜか古代インドを彷彿とさせるような感覚に陥りました。ラーマクリシュナは小さなお部屋の寝台の上にお座りになり、集まる弟子たちにお話をされたと『ラーマクリシュナの福音』にも度々そのシーンが出てきます。きっと皆はこんなふうに師の下に集い、師はそこでおおらかに高らかに真理のお話をしてくださったに違いない、それが今も繰り返されている。ヨギさんのお姿を見ているのに、ラーマクリシュナのお姿をも見ているような気がしてなりませんでした。

そして上映後、歓喜の余韻の中、今年4月5日に開催される春の祝祭に向けて弟子たちが思いを話しました。
その中で私が特に印象に残ったのは、昨年の祝祭で映像撮影を担当していた長岡さんが「撮影する時、何を撮るのかを明確にしておく必要があった」と言ったことです。「サナータナ・ダルマとは何か?を先輩に聞いたことが大きかった」と彼女は言いました。何を撮るのか? すなわち目には見えないサナータナ・ダルマということでしょうか? 人が何かに惹きつけられたり、魅了される時、その背後にあるものの根源はアートマン・神・真我であるといいます。

身振りも豊かに力のこもる長岡さん

もしもその人がその本質だけを見ているならば、その人が撮った映像を見た人にもその本質が伝わると私は思います。きっと長岡さんは撮影を通して、永遠の真理に迫っていったのだと思いました。なぜなら長岡さんの至福の笑顔がその時、皆にも伝染していったからです。
百聞は一見に如かず!真理は頭で考えるものではなく感じるものだと師から教わりました。まさに映像とその場の皆の空気がそれを物語っていました。

思いが迸るように話すサティヤー

また、これまで春の祝祭で毎回祝辞を奉納してきたサティヤーの言葉には胸が震えました。彼女は、「真理は在り続けるという自分の確信がある、そして自分の気持ち一つでそれと一(ひとつ)になっていくことができると思って来た!」と力強く話しました。その時、その思いに皆の魂が共鳴していくようでした。彼女の確固たる思い、信仰心、それらが声、表情、振動となり、その場の誰もが志を同じくして思いを高めたと思います。一人の人の思いの強さによって、何かが一瞬にして変わることもある、永遠の真理は人から人へと伝わっていくものでもある、どんな時も本当に一人一人の思いが大切なんだ!!と強く思わずにはいられませんでした!

野口美香


朱に交われば赤くなる!

ヨーガを深めるにはどうすればいいか? 深めたいと思っても、なかなか思い通りには深まらないものです。でも、時期が来れば草木も蕾をつけて花開いてくるように、ヨーガをきちんと実践していれば、やがて実っていくものです。

今回、熱心にサットサンガや様々なクラスに参加されている吉岡さんが、地道な実践の様子と自らの変化について寄稿してくださいましたので、ご紹介したいと思います。


4年前にふとしたきっかけでヨーガに出逢った頃は、とても生きるのが苦しくて辛い時だった。それでも最初は、仕事も忙しくてクラスにはあまり行けず、真理の教えももっともだけれども、それができたら誰も苦労しないと思っていた。
でも2年前、「このままじゃいけない!」と思ってサットサンガやクラスに真面目に行き始めた。とにかく、できるだけクラスに行って、朱に交わって赤くしてもらうほかない!と思って通ってきた。そして、生きていることの苦しさから逃れるには、「できないし無理」と思っていた真理の教えを実践していくしかないのだ、といつからか思うようになった。それはたぶん、休み休みでも行っていたクラスで、その教えを生きている先輩グルバイ(兄弟姉妹弟子)を見ていて感じていったのだと思う。
そして今は、正に朱の原液がヨギさんなのだと思い、サットサンガに通っている。

バクティ・サンガムのクラスでは、最初は違和感しかなかったが、「現実に生きている人のように神を愛せたら、どんなに幸せだろう!バクティをわかりたい!」と思って再びクラスに参加した時には最初の違和感はなくなっていた。人間の力を越えた神のような存在がいるとずっと思っていたけれど、私が思っていた神とバクティ・サンガムで歌われている神と、結局同じものなのだなと感じるようになった。

鴨川でのバクティ・サンガム

そして、神を悟るには瞑想が不可欠だか、最初私は座ることすらままならなかった。シッダ・アーサナ(達人坐)で座ると足にも背中にも力が入り、心を静かにするどころではなかった。とにかく瞑想ができるようになりたいと思って瞑想専科に通い始めた。でも毎週は通えなかったり、行けてもクラスが終わったらすぐに現実の忙しさに引き戻されるという状態が長く続いた。
それでも、少しずつ少しずつ、教えが私の中に染み込んでいったのだと思う。8年前に両親が亡くなり支えを失った私が、代わりの支えとしてずっと握りしめていたもの、それを昨年「それは真理ではないからいらない!」と思えるようになったのだ。そしてそれを手放したことで、自分の時間が格段に増えた。それまでは寝る前にアーサナと瞑想をしていたので座るとすぐに眠くなってしまった。だけど時間が確保できたことで、仕事が休みの日はとにかく昼間に1時間座ろうと決めた。1時間は長かった。骨が折れるんじゃないかと思うくらい足が痛かったし、心もいろんなことを喋り始めたけれど、「それでもいい!座ってなんぼや!」と思って座った。しばらくそれを続けて次は1時間半座った。それはそれは長かった。いろんなことが頭に浮かび出すのだけれど、少しの間だけど心が静かにしている時があった。私の場合それは長く座ってみたからこそ得られた感触なのだと思う。今もまだまだ瞑想というにはほど遠いけれど、今の私ができることを積み重ねていくしかないのだと思っている。

毎週木曜日の京都瞑想専科(キャンパスプラザ京都)

アーサナは、私は頸椎の異常で首から肩にかけて痺れがあり、特にシールシャ・アーサナ(逆立ちのポーズ)の練習で嫌な違和感があった。ヨギさんは、暖かくなったら練習を始めたら良いと先輩グルバイを通じてアドバイスをくださった。整形外科の先生は、他のところのアーサナで身体を痛めた人が大勢整形外科に来るからという理由でヨーガを全否定された。でも私は整形のリハビリには通わずにアーサナ・クラスに行き続けた。結果、いつの間にか違和感も痺れもなくなり、シールシャ・アーサナもできるようになった。
それから去年、睡眠時無呼吸症候群と診断されたが、アーサナと瞑想をしっかりやって心穏やかに眠りについた時は明らかに無呼吸の回数が減り(症状が改善)、アーサナが集中できていなかったり気になることを抱えていたりすると、無呼吸の回数が増えた。こうしたことから、アーサナの力を信じざるを得なくなり、たとえ時間は短くても集中してやるように心がけるようになった。

手前が吉岡さん。スタジオサンゴッホ(京都)のクラスにて。

さまらさは、先輩グルバイに誘っていただいて軽い気持ちで参加したのが最初だった。私は料理が嫌いだったし、全くしなかった。自分一人の為に料理なんかする時間がもったいないと思っていた。さまらさでは調理の他に食にまつわるお話もされるのだが、その時のふとした会話の中で、自分の料理嫌いの原因がわかり、そうしたら、それから料理が嫌いではなくなってしまった。休日は時間を忘れて料理に没頭することもあるようになった。おまけに、今までは捨てていた例えばカボチャの種なども、レシピを調べて無駄にしなくなった。なにより、そういったことを面倒くさいと思わなくなった。どうしてなのかなと考えると、食べ物はすべて命だから、その命をいただく過程を面倒くさいなんて思ったらその命に失礼だと思うようになったのかな?と思う。それは、さまらさだから感じられた学びだと思う。簡単で美味しいのは今やネットのレシピにも溢れているけど、それだけじゃない、生きていく上で大事なことをじわじわと身に染み込ませてくれるのがさまらさだと感じる。レシピだけではなく、いつも何かの気付きを持って帰ることができるのだ。

ヨーガ・ヴィハーラでのさまらさの台所。右端が吉岡さん。

掃除について。祝祭でアーシュラマのお掃除をさせてもらった時、掃除するのが嬉しかった。家の掃除は面倒くさいと思っているのに何が違うんだろうと思った。私は神様に会いたいと思っているのに、だったらアーシュラマだけでなく、自分の家も(自分の心も)綺麗にしておかないと神様は来て下さらないだろう、と思った。そうしたら大嫌いだった掃除が嫌いでなくなった。今まで面倒くさくて嫌なことだった家事全般が、服を着ることのように当たり前のことに感じるようになった。

今こうして振り返ってみると、マハーヨーギー・ミッションに出逢えたのも、掴んでいたものを手放せたのも、いつも、いつも、グルバイの助けがあった。本当にありがたいことだと感謝している。
ヨーガは体得しなければ意味がない。私はまだまだ全然だ。あ~あ(ため息)、と思うこともあるけど、ヨギさんは「感想はいらない」とおっしゃっていた。今生の時間が足りるか足りないかわからないけど、もうヨーガ以外の道がないことだけはわかってる。この身体がある間、神だけを見つめて少しでも近付けるように、生きていきます!

吉岡恭子


弟子のサットサンガ〜新春の集い〜

2020年最初の集いは、1月11日(土)17時から、マハーヨーギー・アーシュラマで弟子のサットサンガが行われました。現在師は、ニューヨークご訪問中で京都にはご不在ですが、いつものように東京、愛媛、大阪、京都からたくさんの弟子が集まりました。松、梅、葉牡丹、南天、千両のお正月のお花が玄関や部屋に生けられ、壁には、カレンダーと年賀状の原画や24年前に師が達磨をモチーフに書かれた「寿」の文字が飾られており、いつも師がお座りになられていた場所には、同じようにムートンが敷かれ、姿はないけれど、まるで師がそこにいらっしゃるかのように感じられました。ここアーシュラマに来ると、心が清々しく、穏やかになり、なんともいえない安心感に満たされます。

アーシュラマの玄関を飾る正月のお花

2階のサットサンガ会場に飾られた、師直筆の寿の書とカレンダー原画。

最初に先輩方数名でマントラを唱え、プージャ(礼拝)が行われました。そして、アーシュラマが開かれて、今年で45年目に入り、その間、この場所で絶えず真理に導いて下さったかけがえのない師の存在と導きを感じ、全員で師への感謝を捧げました。アーシュラマ開設初期に通われていた数名の方とこの年末年始にかけ交流があったことの報告に合わせ、当時の新年最初の集いの様子など聞き、思いを馳せました。また、カレンダーのモチーフとなった、師が「オームカーラアーサナ」をしている貴重な写真の話になりました。師がアーサナをなさっていた当時の写真はほとんどないとのことでしたが、この写真は師が20代の頃インドにご訪問された折、現地の人によって撮影されたものだそうです。このアーサナは、完成した形がオームの文字になっていると聞き、驚きました。師の姿が本当にそうなっていたからです。なんと美しい!きっと現地の人も、あまりの美しさに思わずシャッターを押したに違いないと思います。

ニューヨークでの体験を語る船勢さん。

そして、昨年の12月25日から1月5日まで、師の滞在しているニューヨークを訪れた船勢さんがニューヨークでの体験を話してくれました。何より驚いたのは、師が選んでくださったというカーリーレッドのパーカーを着ている彼女は、それまでとは全くの別人のように生き生きと輝いていました。師から注がれた愛が喜びとなって表情に溢れ出て、それを見ているこちらまで喜びで満たされました。そして、その変化は表情だけでなく、彼女の話し方にまで及んでおり、さらに驚かされました。「ヨーギーさんが、私の師(グル)だと確信しました。これから、何に取り組んでいくべきなのか、明確になりました。これからは、それに取り組んでいきたいと思います。」と力強く、軽快に話す彼女にそこにいた誰もが魅了されました。また、その場にいた兄弟弟子からの様々な質問にわかりやすく的確に答えるその姿勢は美しく感じました。彼女の一連の変化を通して、師の導きを目の当たりにし、そこから、過去に激変して帰国したという先輩方の様々なエピソードを聞き、大いに笑いました。アーシュラマにいる間、ずっと心はニューヨークの師を想っていたように思います。

ミッションオリジナル年賀状ークリシュナとラーダーの原画も飾られていました。

あっという間に予定の時間となり、アーシュラムを出ると、シンとした空気に寒の入りを実感し同時に、月明かりが冴えわたっていることに気づかされました。先輩と一緒に見上げるとそこには満月がありました。あぁ!ヨーギーさん!その月は美しく輝き、ヨーギーさんそのものを現すかのようでした。

オーム タット サット オーム!!

山口正美


永遠の言葉

去年の年の暮れに家の掃除をしていたとき、今までサットサンガでヨギさんのお言葉を書き留めたノートを、何気なくパラパラっとめくり眺めていました。

13年ほど前のノートを読んでいると、アーサナについてや、聖者の話、瞑想に入るための方法、日常生活をどう過ごすのか、事細かに丁寧に答えてくださっている内容が書かれていて、深遠な言葉にワクワクして、心奪われて、つい掃除を忘れサットサンガの世界に浸っていました。その中で背筋がすっと伸びる言葉がありました。

初めからヨーガの成就が前提にある。そのためだけにこの肉体は維持されなくてはならない。

ああ正にそうだ、と思いました。思い、言葉、行為はすべて根本的な動機から成り立っています。根本的なところがヨーガの成就であったなら、生活がヨーガそのものとなり、人生そのものとなるのです。ヨギさんのお答えはいつもシンプルで、的確で、瞬時に実践できる希望の光を常に与えてくださっています。弟子(質問者)の心に寄り添い、どの言葉からもヨーガの成就という目的だけを見据えた愛が、絶え間なく時空を超えて流れ続けているのを感じました。

この肉体は、ヨーガの成就のためにある。ヨーガの成就のためだけにある!!!ヨギさんの果てのない愛の中で、常に純粋なものだけを追い求めて生きていけるよう、努めたいと思います。

本年もどうぞ宜しくお願い致します。

                                                                                                                                                            アマラー


ウパコーサラの導き

11月23日。この日は師シュリー・マハーヨーギーのお生まれになった日。
私たち弟子は、永遠の真理とともに肉体をもって現れてくださり、その道を指し示してくださる師へ感謝を捧げる御聖誕祭(ジャヤンティー)を毎年開催させていただいています。
その弟子にとって1年で最も大切な集いとなるジャヤンティーでは聖劇が奉納されますが、今年私は聖劇に参加する機会を得ました。
ちょうど、松山バクティ・サンガムで「神の懐の中は、無恐怖である」という気づきがあり(過去のブログ、太鼓の導き!をご覧ください)、それがまだ、胸の中でありありと実感できた時、ウパコーサラという主役のバラモンの求道者役に抜擢されました。劇は小学校の学芸会以来でしたが、何も不安はありませんでした。それはまさに、あの時の実感からくるもので、神にお任せし、私は精一杯できることをやればいいんだという確信でした。

火の儀式をするウパコーサラ(ジャヤンティー当日)

聖劇の練習では、京都の先輩と関わらせていただく貴重な時間でした。そこでは、より良いものを作るために途切れなく集中し、その為に必要なことには惜しみなく尽力される姿を目の当たりにしました。より良くするための意見は、先輩後輩関係なく聞き入れられ、意見を出す時にも、自分の考えをはっきりと伝えるけれども、それを押し通すようなことは一切されませんでした。また、松山在住の私のために、スカイプで何度も練習してくださり、私が京都に滞在中には、聖劇に関わるすべての役割の人が時間を作って、一緒に練習してくださいました。その先輩方の姿に鼓舞され、過ごした2か月は、楽しくて仕方がありませんでした。

火の化身たち

ある時、ウパコーサラの心境がセリフや動作に表れていないということでアドバイスを頂いたことがありました。改善するべきところは理解でき、先輩の見本の真似はするけれど、できるのはその時だけで、すぐ忘れてしまう、まったく身につかない状況でした。それだけではなく、ウパコーサラの演技によって、先輩方の演技にも影響を及ぼし魅力を半減させていることを感じて、自分の至らなさに腹がたちました。同時に主役の役割とは、その劇を作る要になる存在だということに気づいて、それまでの自らの考えの甘さを反省しました。それまで、ウパコーサラを演じていたつもりでしたが、ふと「私の考えるウパコーサラ」を演じていたと思いました。「私」のわかること、理解できる心境は演技できるのですが、「私」のわからないことは演技出来ないので、セリフが本の朗読みたいになり、動作は、やるように言われたからやっている、劇のほとんどがこの状態でした。主役のウパコーサラがしっかりと演じられないとこの劇は成り立たない!そのためには何をしたらいいのか。

師サティヤカーマの導きでブラフマンの叡智を授かるウパコーサラ

技術的な面では、先輩から教わった方法を練習することで、私の話し方や息遣いの癖、本当の意味でセリフが覚えられていなかったことに気づかされました。また、内面的には、ウパコーサラの心を知る必要がありました。それには、「私」の考えを捨てて、ウパコーサラのセリフを頼りにその心情に迫り、私の身体を道具として使い現していく。先輩からのアドバイスを聞く時も「私」の考えを捨てて聞き、素直にやってみる。「私」の心が動くと途端に出来なくなる。「私」が主体となるものを徹底的に排除して、ウパコーサラになる!本番前の2週間、ただひたすらこれだけをやっていました。いつしか、ウパコーサラの憧れた、知りたかった「ブラフマン」は、「神」と同じ存在であることに気づかされ、ウパコーサラの表面的な心よりも、常にウパコーサラの中心にある「ブラフマン」を知りたいという熱意と師の教えである真理への信仰と師の導きへの感謝を感じるようになっていました。

クライマックスの一コマ。ウパコーサラの心情に迫ります!

当日、不安や「私」の心が動く原因になるものは一切ありませんでした。願いはただひとつ、師であるヨーギーさんが、喜んで楽しんでくださる劇になりますように!本番は、あっという間、無我夢中でした。

聖劇に魅入る観客

この体験から、「私」というものは、一切いらないことを実感しました。「私」があるから心の動揺を作る原因となり、「私」の考えや判断があるから真実や本質が見えない。真理というものは、「私」がなくなってはじめて、浮かび上がってくるように感じました。これから、さらに主体となる「私」を捨て、「真理」「神」「あなた」を主体としていけますように。

このような機会を与えてくださった師に感謝いたします。

オーム タット サット オーム!!

山口正美