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弟子のサットサンガ ~師を見倣う~

9月28日(土)京都アスニーにて弟子のサットサンガが開催されました。今回は、2018年5月に愛媛県松山市で開催された特別サットサンガの映像が上映されました。私は、当時そのサットサンガに参加していましたが、そこでの記憶が全くなく、映像を見ても、今の私が、映像の中のサットサンガに参加して、師であるヨギさんの教えに耳を傾けているというような感覚でした。

力強く、生き生きと実感を持って語られるヨギさんの真理のことばは、今を生きる私の胸を熱く鼓舞しました。

師:真実は物質ではないです。思いでもない。それは思いを超えたものですから。しかし、それは在ります! ただ在るとしか言えない! そしてまた、在ると言えるのは、それだけなのです。それだけが在ります!

質問者:それが本当の自分なのですね。

師:そうです。これはもう間違いなく誰もが実現できることです! 誰もがそれなのですから。

映像の中のヨギさんは、質問者に寄り添い、一人一人を大切に優しく、相手に必要なことを分かりやすく伝えられていました。その姿は当時感じていた以上に、自然にさりげなく、そしてそこには大きな愛と慈悲が溢れていたことを感じました。サットサンガという機会と時間は、なんと尊く奇跡のような時間だったのでしょうか!

私はこれまで、師の愛と慈悲からなされる行為を受け取りながら、同時に自分には到底できないと感じていました。しかし、ヨギさんがお隠れになった今、ヨギさんの教えを生きようとする時、いつでも胸に浮かぶヨギさんのお姿は、愛と慈悲に溢れていらっしゃるのです。拙いことは重々承知していますが、残りの人生を私もそのように生きたい!と決意しました。

これから諦めないで、命ある限り精進していこうと思います。

山口正美


ヨーガの魅力――松山市のヨーガ・サーラ・スタジオから

ヨーガ・サーラ・スタジオは今、熱心に定期的にクラスに来られる方が増えています。その方たちは、いったいヨーガの何に惹きつけられているのでしょうか?


この春からヨーガを始めたAさんは「自分のこだわりをなくしたい」と毎週熱心に通い続け、今の心境を教えてくださいました。
「私にとってここに来ることが心の拠り所になっています。ヨーガは気持ちの安定になっていると思います。それは強い味方です」

また、数年ぶりにクラスに来てくださり、今は定期的に参加しているBさんは以下のメッセージをくださいました。
「レッスンが終わった後はいつも心が浄化され、穏やかな気持ちを取り戻すことができました。他にも身体的な変化として、レッスン後、教室を出て駐車場まで歩く間に、フラフラせずにまっすぐ歩けていることや、歯の噛み合わせが変わっていることなども感じるようになりました。内面や外見にも良い変化が現れているので、今後も無理なく継続していきたいと思っています」

他にも熱心な皆さんの声が届いています。
「家族に優しくできるようになった」
「人の評価が前よりも気にならなくなった」
「瞑想の時、平安を感じられるようになった」


クラス参加者のみなさんの変化から、私はやっぱり「ヨーガってすごい!」と今も新鮮な驚きと共に、ヨーガの魅力を1人でも多くの方にお届けしたいと思っています。
私自身のお話をさせていただくと、私はヨーガの師に出会ったその日から、ヨーガに魅了され続けています。師に初めてお会いした時、私は人間関係の悩みについて質問しました。師はとっても優しく次のことを教えてくださいました。

「すべては尊い存在です。人や物に対して優しく接するよう努めてください」
「日常にこそヨーガの成果が表れます」

それまでの私は、嫌な気持ちになった時は相手や状況が悪いのであって、私は何も悪くない、と知らず知らずのうちに自分だけを大切にしてきました。しかし、「すべては尊い存在」と教わった日から、自分は間違っていたことに気付かされ、心から反省して態度を改めていくと、目に見えて人間関係が改善していきました。そうやって心が楽になって初めて、自分で自分を苦しめていたことに気が付かされ、私は単純に「生きるってこんなにも楽しいことだったんだ! ヨーガってすごい!」と興奮しました。
後で分かったのですが、もしも誰かのことを悪く思ったり、悪口を言ったりすると、嫌な思いが自分に返ってきて心がダメージを受けて苦しくなります。逆に、誰に対してもいつも優しい気持ちで優しい言葉をかけ、優しく接することで、良い思いが自分に返ってきて、常に穏やかで心地いい状態に満たされていきます。当たり前のことかもしれませんが、それが分からず苦しんでいたのです。
その後、1人でも多くの方とヨーガの素晴らしさを分かち合いたいという思いが抑えきれなくなって、今に至ります。

ヨーガは身体の柔軟性を競ったりするものではなく、心を穏やかに保ち、他者との調和をもたらす素晴らしいものです。ヨーガを続けていくことで、「自分ってこんな人」という思い込みがなくなり、新たな自分に出会えます。なんだかわくわくしませんか?

アーナンディー


泥棒アムジャッドの信仰とホーリー・マザーの愛

「私は徳のある者の母。そしてよこしまな者の母。悩める時にはいつでも自分に言い聞かせなさい。『私にはお母さんがいるのだ』と」。

ホーリー・マザー(シュリー・サーラダー・デーヴィー)は、全く驚くべきことに、あらゆる人々に対して平等に接していました。それを示す逸話はいくつかありますが、その一つに盗賊のアムジャッドの話があります。アムジャッドはイスラム教徒の盗賊の一人でした。ホーリー・マザーはそうした人々にもお仕事を用意し、親切にされていたのですが、周囲の人々の中には不可触民とされていた彼らをぞんざいに扱う人もいたようです。マザーは、しかし、「シャラトが私の息子であるのとまったく同じように、アムジャッドも私の息子なのです」とおっしゃり、アムジャッドに対して親身に接しました。シャラトというのは、シュリー・ラーマクリシュナの高弟の一人であるスワーミー・サーラダーナンダのことです。スワーミー・サーラダーナンダと盗賊のアムジャッドが同じというのですから、まったく驚くばかりです。

あるとき、泥棒のアムジャッドは心身ともボロボロになって、病床にあるホーリー・マザーを訪ねます。それを見て、ホーリー・マザーは「我が子のアムジャッドではありませんか」と迎え入れたのです。そして、彼に沐浴をさせ、彼の空腹を満たし、新しい布を与え、お土産もたくさん渡されて、アムジャッドはやってきた時とは別人のようになって帰っていったそうです。その後、アムジャッドはホーリー・マザーに珍しい果物を持ってきたりして、マザーに献身するようになりました。けれども、それでもアムジャッドは泥棒をやめることができず、何度も捕まって、牢獄に出たり入ったりしていました。それでも、ホーリー・マザーはそのような犯罪行為にはなんら留意されずに、常にアムジャッドに対して非常に情け深い様子で接しておられたそうです。最期の病で伏せっておられるときには、アムジャッドは強盗を犯して逮捕されていました。それを知らされて病床にあるホーリー・マザーは、「アムジャッドが古い悪癖をやめていないことはずっと知っていましたよ」と言われたと伝えられています。

悪行を止めることができない者を「我が子」と呼び、深い慈悲を与えるマザーのこの逸話を読んで、何度も涙をこぼし、「ああ、お母さん!」と叫んだのは私だけではないでしょう。ここで救われるのはアムジャッドだけではなく、全世界のあらゆる罪人たちであろうと確信するのです。

けれども、何度か読んでいるうちに、アムジャッドがマザーの深い慈悲を受け取ることができたのは、彼の中にある純粋な信仰心、ホーリー・マザーへの純粋な愛ゆえなのだろうと思い至りました。アムジャッドの犯した犯罪というものは、彼の癖であり、直すのはとても難しいけれども、本質とはかけ離れたもの。だからこそ、ホーリー・マザーは癖を相手にせず、本質だけを慈しみ、そしてアムジャッドもその純粋な信仰心を持ってその愛を受け取ることができたのでしょう。ここにはホーリー・マザーとアムジャッドの本質、魂の関係だけがあって、星がまたたく夜空のような深く広大な美しさが広がっています。

私たちは、いくらでも間違いを犯してしまいます。それが積み重なって、悪い癖もいくつも持っています。悪い癖と格闘してなんとか直そうとしますが、それは本当に苦しくて、難しく、何度も失敗して絶望します。それでも、どんな絶望の淵にあっても、ホーリー・マザーの愛を受け取ることができますよう、純粋な信仰を持ち続けたいと切望するのです。

そして、同じように悪い癖で苦しむ人々に対しては、ホーリー・マザーがアムジャッドに対して与えられた寛容さを真似していくことができるのです。ちょうど少しばかり理不尽な行為を受けたことがありました。それで、そっと「それはこの人たちの癖なのだ」と呟いてみました。するとどうでしょう。そんな理不尽なことがらに対する思いも、みるみる「窓を開けたので、風が入ってきたよね」という程度の出来事に変容していき、寸前のところで、怒りをぶちまけるという罪から逃れることができたのです。ああ、お母さん、なんとあなたの愛は大きいのでしょう!

*参考・引用・抜粋 『ホーリー・マザーの生涯』

笹沼朋子


マザーに導かれて

マザー(サーラダー・デーヴィー)に初めて出会ったのは、ヨ―ガのクラスに通い始めて間もない頃、先輩グルバイからマザーの本を勧めていただいて読んだ時でした。馴染みのないインドの風習や、時代も今から百年以上前のお話でしたが、本を読むうちに不思議に風景がリアルに感じるようで、自分がマザーのお側にいるような気持ちになりました。そしてマザーが大好きになっていきました。
クラスでシャヴァ・アーサナ(休憩の形)の時に「何も考えないで」と指導されても、目を閉じるとマザーのお姿が浮かんでくるほど、マザーのことを思うようになっていきました。
私がマザーを思う時はいつも、自分が小さな子供のようにマザーの膝に甘えているような、そんな気持ちになります。それはきっとマザーが、

「私は、善人だけでなく、悪人の母でもあります。私を母と呼ぶ人に、決して背を向けることはありません。子供が泥や埃にまみれていたら、汚れを拭って膝に抱いてやるのが母の務めではありませんか」「困った時はいつでもあなたを守っている母がいることを思い出しなさい」

と言ってくださっているからだと思います。日常で誰かにそんなふうに言われても、私はきっと素直に受け入れることはできないだろうと思うのですが、実際にお会いできなくても、マザーのお言葉は心の奥で確かに真実だと思えるのです。

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今年の春の祝祭は、大好きなマザーをお祝いする会でした。
祝祭に向けてマザーへの讃歌を練習する機会を設けていただいて、何度も練習を重ねました。優しいメロディーはマザーの愛そのもののようで、歌う度にマザーに包まれているような幸せでいっぱいになりました。
祝祭当日は、初めて京都の会場で参加させていただいたのですが、祭壇の美しさや聖劇の迫力など全てが感動的でしたが、中でも一番心に残ったのは、大きなスクリーンに映し出されたマザーのお写真の数々です。マザーの瞳は例えようが無いような輝きに満ち溢れていました。マザーの瞳の先にはシュリー・ラーマクリシュナがいらっしゃって、全てに師を見ておられるのだと思うと、マザーの強い信仰心と汚れのない純粋さに感動しました。

いつも私のことを、母なるマザーが、そして最愛なる師、ヨギさんが見守っていてくださっているから、私は勇気を出して一歩一歩歩みを進めることができます。

大好きなマザーのように、私もいつか全てにヨギさんを見れるように歩いていきたいです。

小野ちさ

 


聖典を通して聖者に近づく

私は本を読むのが得意ではありません。ほとんどの場合、文字を追うだけですぐに眠たくなってしまいます。それだから、聖典を読むことにも苦労していました。聖典の学習は通常の読書とは異なり、聖者の息吹を感じるように読むと教わっていましたが、長年の苦手意識の根は深く、本を開くことすらハードルが高かったのです。

しかし、私には心惹かれる聖者がいました。ホーリー・マザーことサーラダー・デーヴィーです。マザーのことを知りたい、近づきたい! そのためには聖典が大きな助けになります。そこで私は、聖典を声に出して読むことにしました。マザーに関する聖典を音読、録音し、それを聞きます。音読は在宅時に限らず、出勤前の車内(職場近くの海岸に停車させて)など、隙間時間を見つけては行ないました。そして、録音できたものは移動や家事の時間に繰り返し聞く、ということを続けました。

音読するときには、聖典に触れ、真理の言葉を目で見て口に出し、それが耳に届きます。五感のうちの四つが聖なるもので満たされます。眠い朝でも、音読をすると心なしか頭や体がスッキリし、軽やかな気持ちで出勤できました。そして何度も録音を聞くうちに、まるで自分がマザーと同じ空間にいるように感じ始めました。
常にマザーが直接語りかけてくれているようで、気が付くとその教えはもちろん、在り方そのものが浸透していくのを感じていました。そして音読に慣れてきた頃には、彼女の言葉をなりきって読んでいる自分がいたのです。慈しみ深い彼女が相手を想う気持ちを言葉に乗せて読み、その後に出勤すると、せわしない仕事中もその話し方の余韻が残って穏やかに話せたことがしばしばありました。

もうひとつ日常生活での変化があります。家の掃除をする時に録音を聞くようになってから掃除が各段に楽になったのです。それまでは、「今日は掃除の日か。しんどいなぁ」と思ったり、すぐに取り掛かれなかったりしていましたし、掃除の時間がやたらと長く感じてぐったりと疲れていました。ところが、聖典と一緒に掃除をするようになってからあっという間に終わるではありませんか! しかも、ずっと心と体が軽やかなんです。何度もそれを経験するうちに、掃除に対する重たい気持ちが無くなり、むしろ「今日は家をきれいにできる日だ」とさえ感じるようになっていきました。聖典を聞きながらすることで真理が心に沁みわたり、余計な思いを浄化してもらったように思っています。

このような日常でのちょっとした変化はもちろん、想像の及ばないところできっと、聖典の恩寵を受け取っているんだろうなと思います。これからもこの実践を続け、マザーのハートと私のハートがひとつになるまで、心や感覚を聖なるもので満たしていきます。もし私と同じように本を読むのが苦手だったり、聖典の学習の実践が難しいと感じたりしている人がいたら、この機会に一度試してみませんか?

大森みさと


The 75th SATGURU JAYANTI

マハーヨーギー・アーシュラマ

11月23日、サットグル・ジャヤンティー<シュリー・マハーヨーギー 御聖誕75周年祭>が開催されました。
私たちにとっては最愛の師が旅立たれるという大きな衝撃が走った年でしたが、吉祥なる日に、変わらぬ感謝と誓願を師に捧げられるよう、日本各地、ニューヨーク、台湾より100名を超える弟子たちが集い、歓びと希望に満ちた一日となりました。今回、京都は3会場に別れ、各地もそれぞれ会場に参集しつつ、それをZoomで繋げるというデュアル開催を試みました。

マーラー

師のご生家であり、師が長年にわたり道を求める多くの人々に真理を説き、導いてこられたマハーヨーギー・アーシュラマでのプージャー(礼拝の儀)から祝祭は始まりました。その後、会場から会場へ順々に繋ぎながら、祝辞やキールタン、映像などが奉納されました(一人一人の祝辞や詳細は会員サイト「Web版パラマハンサ」にて後日掲載します)。

キールタン「Panduranga Vitthale」

有志メンバーによるキールタン「Panduranga Vitthale」

台湾から奉納されたヨーガの展覧会の映像

皆の言葉や姿には、師を心から慕う溢れる想いとともに、悟りの実現に向けて、師の教えを自分たちがまさに生き、師に倣っていこうという力強い決意が現れていました。私たちは新しい幕が開けたことを自覚し、一つの方向を見てさらに前へ進むことを改めて確信することができたと思います。

生きとし生けるすべての生類、誰もの本質は尊い、永遠なる真実の存在である――この普遍的な真理を示すために、各地を駆け巡り、惜しみなくすべてを注いでくださった師に、深い感謝を捧げます。
これからの未来にわたって、師が語られた真理の言葉がこの世界に清らかに響き渡っていきますように!`

シュリー・マハーヨーギー

Jai!
Satguru Shri Mahayogi Paramahansa
ki jai!!!

 

マハーヨーギー・ミッション 


『マハーヨーギーの真理のことば』を読んで

松山で幼いお子さんの子育てをしながらも毎週ヨーガ・サーラ・スタジオに熱心に通われている井上さんから本のご感想をいただきましたので、掲載します。

この度は、『マハーヨーギーの真理のことば』を世に送り出してくださり、ありがとうございます。

これまで『ヨーガの福音』『悟り』を愛読してきました。『ヨーガの福音』は美しい詩集のようで、カバンに入れて持ち歩いています。『悟り』はもう少し深くヨギさんの言葉に触れたい時に読んでいます。そして、『マハーヨーギーの真理のことば』はヨーガをより深く探究していく上で、必携の書となりそうな予感がしています。

最初はまず表紙のインパクトに驚きましたが、眺めているうちに、完璧な写真の凄さを、徐々に感じ始めています。日々、心がぶれそうになった時に表紙を眺めると、集中力がよみがえってくるのを感じています。

内容はとても膨大なので、まだ全ては読み切れていませんが、目次から興味を惹かれたページを読んでみたり、パラパラっとめくって目に入ってきたページを読んだり、クラスで紹介されたページをもう一度家でじっくり読んだりしています。どの言葉からもヨギさんの限りないパワーを感じ、心の奥深くまで届いてきます。

私はまだ、先輩方のような所にまでは辿り着いていませんが、この本がヨーガを深めていく上での、確かな指針になると感じています。この本を通して、どんなヨギさんの言葉に出会えるかワクワクしています。

井上江理  


歓喜の渦!!!

ついに『マハーヨーギーの真理のことば』が松山にも届きました!
ブログで全目次が公開された日から内容の素晴らしさに圧倒され、『マハーヨーギーの真理のことば』を手にする日を心待ちにしていました。約20年余りの師の教えの集大成というこの特別な聖典を、私は敬愛する師そのもののように感じていたので、予定より1日早く届いた嬉しさに身も心もとろけ、歩こうとしたら腰が抜けそうになりました!(笑)
ついに多くの方にお渡しできる日が来たのです!ご予約いただいた皆さんへのお知らせや書籍の発送作業など、何をしても言葉にならない幸せが込み上げ、気が付いたら「こんなにも幸せな仕事が世の中にあるのでしょうか!?」という思いが身体中を駆け巡っていました。

購入してくださった皆さんの第一声です。
「わ~!!!美しい表紙!このオレンジも本当に素敵ですね!」
「私、この1冊があれば生きていけます!」
「ヨギさんがここにいらっしゃるように感じます」
「触り心地も最高です。一生の宝物です」
感極まって目に涙がにじむ方もおられました。

真っ先に来てくださったヨーガ・サーラ・スタジオのビルのオーナー小野さん

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何人かの方は数年ぶりにスタジオに来られました。木曜のアサンガンのクラス後に来てくださった方も多く、まるで同窓会のように盛り上がりました!
「わ~、パッと開いたら毎回実践って書いています」「俺は献身奉仕や」

「(物理的な意味だけでなく)とっても重みを感じます。1ページ1ページ大切に読みます」

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木曜の夜のクラスの皆さん。「松山特別サットサンガの写真がある!」と大喜び。

「サットサンガという文字が見えただけで感動した!鳥肌が立った!」
「幸せすぎる~~~」
「やっぱり母の分も買うわ~」

91歳の私の祖母も「読みたい!」と買ってくれました。

日曜のクラス。「目次だけでも心が良い方に向かえる感覚になりました」と目次公開後、即ご予約された方も!

様々な声も届き始めました。
「本を開くとヨギさんのお言葉が分かりやすく記されていて優しさに包まれました」
「仕事の秘訣とか人間関係、食事のところを一気に目を通しました。目次が分かりやすく細かく書かれていているので、読みたいところを短時間でも読めるのが良いです!わくわくしながら読み進めています!」

ある方がスタジオを訪れ、購入する際「この値段でいいんですか?安すぎませんか!?」と真剣な表情で仰いました。私もこの美しい装丁、内容、ボリュームで、このお値段は超良心的だと思います!『マハーヨーギーの真理のことば』を読み進めていくと清らかな思いに満たされます。ある時は鼓舞され内側からみるみる活力が湧いてきます。先日も「購入したけど、プレゼントしたいからもう1冊欲しい!」と新たなメールが届きました。本当に欲しい方にお届けできるようご縁を繋ぎ、ますます歓喜の渦が広がっていきますように!!!

アーナンディー


カーリーをもっと近くに!

初めてカーリー・マーのお姿を目にしたとき、「これが神様なの?しかも母なの?」と心の隅で思ったように記憶しています。それほど強烈なヴィジュアルの持ち主ですが、彼女を慕うようになって数年経った今感じているのは、私にとって彼女は、大きくて穏やかで、慈しみと愛情に満ちた、まさに母そのものだということです。

『あるヨギの自叙伝』の中に、パラマハンサ・ヨーガーナンダとマスター・マハサヤとのエピソードが出てきます。その章ではマスター・マハサヤが聖母様と絶えず交流されている様子が描かれています。聖母様がカーリーであるとは書かれていないのですが、そこに記された宇宙の母についての一節がとても好きで、その描写を読むと私は、カーリーのことを思い浮かべずにはいられなくなります。そして彼女の底知れぬ愛を感じて、何とも言えない安心感とあたたかい気持ちに包まれます。

「天の母に子供のような心で近づいて行った歴代の信仰者たちは、彼女が常に自分と遊んでくれていることを証言している。マスター・マハサヤの生涯においても、聖母様が、事の大小に関係なく彼と戯れておられる情景がしばしば見られた。神の目には、大事も小事もないのである。もし神が、原子をあのように精巧に造られなかったならば、大空もあの壮大な天体の構成を誇ることはできなかったであろう。神は、この宇宙が一本のねじくぎの緩みのためにくずれ去るようなことのないように、どんなささいな事にも等しく心を注いでおられるのである。」

『あるヨギの自叙伝』P84より引用

私がどんな存在であるかは全く関係なく、彼女に無条件に愛されてここに存在しているということを知りました。カーリーが常にすべての存在に対して愛情を注いでおられるから、今のこの瞬間も宇宙が保たれています。どんな存在も、等しく彼女が世話をしている子供です。母親に見守られて無邪気に遊ぶ子供のように、カーリーが展開し、維持しているこの世界で私も、生まれてきた歓び・生きる歓びを存分に味わいたいと思っています。

そして、かつての聖者たちが彼女と交流してきたように、私も彼女と本当に話してみたいと思っています。それが叶った時には、何を話そう、どんなことを聞いてみよう、どんなお声で答えてくださるのかな?なんてことを想像してはワクワクしています。最も近しい母なのだから、実現できないはずがない!と思っています。

もっともっと彼女に親しんで近づきたいと思い、あるものを作りました。それは粘土で作ったマスコットです。かなりデフォルメしているし、お見せできるほどの出来栄えでもないのですが(と言いつつ堂々と写真を載せています…!)、私にとってはかわいいカーリーです。

デリケートな素材だったため、ニスを塗って持ち歩けるようにしました。

なぜマスコットなのかというと、幼いころの自分を思い出したからです。よく、お気に入りのキーホルダーや小さな人形を肌身離さず持ち歩き、それが本当に命のある友達のように思って、心の中で話しかけたり一緒に遊んだり、いろんな経験を共有したりしていました。その時と同じように、神様とも親しみを込めてふれあい、常に一緒にいることを忘れずにいたいなぁと思い、自作してみました。

これから、この小さなカーリーがいつもそばにいてくれると思うだけで、私の心は喜びでいっぱいになります。彼女とどんな時間を過ごせるのか、とても楽しみです!

大森みさと


ナーグ・マハーシャヤ

松山でのこと、ヨギさんはある方の質問に対しておっしゃいました、「謙虚さがなければ、ヨーガは進めていくことができません」。

8月21日は、その謙虚な心で知られた、シュリー・ラーマクリシュナの弟子であるナーグ・マハーシャヤ(1846−99年)が誕生された日です。彼の生涯は『謙虚な心』という比較的小さな書籍に記されています。私たちはその本から、ナーグ・マハーシャヤという尊き家住者が、燃え上がるような情熱を持って心の中に謙虚さを築き上げていった、その生涯を知ることができます。 

「謙虚さ」とはどのようなものなのでしょうか。初めてこの本を手にした頃、私は「謙虚さ」という言葉に、静かで穏やかなイメージを持っていました。ですので、この本を読み始めて、驚愕してしまいました。ナーグ・マハーシャヤは、自分の心の中に良くない感情を見つけると、石などで自分の頭を打って血だらけになってしまうのです。そればかりか、自分のために炎天下で働く人々を見ていることができず、屋根修理の職人に対して仕事を止めるように泣き叫んで懇願し、自らを打ち始めます。いったい、これは何なのでしょう、頭を打つのが謙虚さなのでしょうか。それが最初の感想でした。

けれども、少しずつヨーガを学んでいくにつれて、常軌を逸しているように見えるこれらの行為の意味が少しだけ分かってくるようになります。本の中では、ナーグ・マハーシャヤと親交深いギリシュ・バーブがこのように言っています。

「常に打ち続けることで、ナーグ・マハーシャヤは、自我の頭を粉々に砕いた。何を持ってしても、彼の自我の仮面を蘇らせることはできなかった」

つまり、ナーグ・マハーシャヤはあらゆる方法を使って、自分の心から「私」と「私のもの」を破壊し続けていたのです。謙虚な心とは、静かで穏やかな状態なのかもしれません。けれども、その状態に至るためには、こんなにも激しく「私」を打ち砕いていかなければならないのでしょうか。

頭を打つだけではなく、ナーグ・マハーシャヤは積極的に他者に奉仕することによって、心から「私」と「私のもの」を追放します。その奉仕も尋常なものではなく、自分が飢えたり、借金することになってしまっても、当然のように、困っている人々にお金や食べ物を与えました。雨季、雨漏りのないたった一つの部屋に来訪者を泊まらせ、彼と彼の妻は、玄関で瞑想と祈りに一晩を過ごしたといいます。あるいは、やはり雨季に、彼を慕ってやってきたずぶぬれの信者のために、食事の準備に必要な燃料として自宅の棟木を切ってしまうのです。家を破壊する白アリにも愛情を注ぎ、追い出すことなく保護します。いったいどうして、ここまでして彼は、「私」と「私のもの」を破壊し、あるいは謙虚な心を持つことを選んだのでしょう。 

実は、ナーグ・マハーシャヤの献身的な性質は、シュリー・ラーマクリシュナと出会う以前から顕著だったようです。彼は、いつでも困っている人を喜んで助けたといわれています。ただ、それでも彼には大きな悩みがのしかかっていました。神に会いたい! 彼は信仰深い一生を送りたいと願っているのに、妻もいて、仕事もしています。そうした足枷から自由になり、神に会うためだけに生きたい。彼はそう悩んでいたようです。

ですから、ナーグ・マハーシャヤが初めてシュリー・ラーマクリシュナと出会ったときは、もうどんなにか感激して、興奮したことでしょう! 最初の出会いが「彼の興奮した心に献身の炎を燃え上がらせた」と、本には書かれています。そして、そのように燃え上がる心を抱えて、翌週再びシュリー・ラーマクリシュナに会いに出かけたのです! そのとき師は彼に「あなたの霊的な進歩については何一つ恐れることはない。あなたはすでに、非常に高い状態に到達している」とおっしゃいました。その後、彼の放棄の姿勢は、先に書きましたような、通常の人々には理解し難く、常軌を逸していると思われるほど強烈なものとなっていったのです。

「私」と「私のもの」を心から放逐してきたナーグ・マハーシャヤの心には、他者あるいは「あなた」しか残らないのでしょう。そして、シュリー・ラーマクリシュナとの出会いによって、そのあなたは神であり師に他ならないことを知り、そうして万物の中に神を見て、神の召使いとして生きることになったのでしょう。実際に彼は「もし彼が、『なぜ手を合わせているのか』と、尋ねられると、『あらゆる所、そしてすべての存在の中に、イシュタを認めるからです』と答えた」そうです。そのような心のあり様こそ、本当の意味で謙虚さなのだろうと思います。

 

「神はまさに願望成就の木なのです。神は、我々が望んだものは何であれ、与えます。しかし我々は、生死の輪廻へ再び引きずり込むような願望を、欲するままに求めてはなりません。人は、神の神聖な御足に対する揺るがぬ信仰と、神御自身の真の知識をお与え下さい、と主に祈願しなくてはなりません。ただそうすることによってのみ、人は世界の汚らしい枷を逃れ、神の恩寵を通して自由を獲得するのです。世俗的な目的を欲すれば、それに付随する害悪も引き受けなくてはなりません。神の瞑想と、神の信者たちとの霊的な交わりに、ときを捧げる者だけが、災難と惨めさに満ちたこの世界を越えることができるのです」

『謙虚な心――シュリー・ラーマクリシュナの弟子ナーグ・マハーシャヤの生涯』より抜粋

「私」と「私のもの」を放棄し、神だけを求めながら、真理の教えを誠実に守って慎ましく、謙虚に生きていくことができますように。そして、そのために必要な、狂わんばかりの情熱を持つことができますように。

笹沼朋子