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生きる意味を知り、この命を生きる

先日、祖母が亡くなりました。93歳、大往生と言って良い年齢だと思います。

最後に会ったのは2019年の秋。コロナ禍で会えないまま別れの時が来るかもしれないと覚悟はしていました。しかし、いざその時を迎えてみると、祖母にもう会えない寂しさが溢れてきて、葬儀にも参加して見送ることすらできないという現実を受け入れられない自分がいることに気付きました。

ヨーガで学んだ、「死とは服を着替えるように肉体を脱ぎ捨てていくこと」「死とは心の死滅であり真の自己は決して死なない」という教えを事あるごとに意識し、私なりに理解していたつもりでした。葬儀やお墓といった形式がなくても故人を偲び大切にしていくことはできると思っていました。だから死を嘆き悲しみすぎてはいけないと思っていました。しかし、今回会えないまま祖母が亡くなり、最期のお別れにも立ち会えなかったという事実は、私の心を大きく動揺させました。悲しさと寂しさと虚しさが一気に押し寄せて心を支配しようとしましたが、その勢いを止めてくれたのは記憶の中にある祖母の笑顔でした。
明るくて、雲ひとつない青空のような祖母の笑顔が、私は大好きでした。

祖母の死を受け入れようと、その人生に思いを馳せ、数々の思い出を振り返るうちに気付かされたことがあります。
それは命の偉大さと尊さです。
この世界にはたくさんの命が存在していて、人間だけではなく動物も植物もそれぞれ与えられた役割があり、それを全うするために生きています。祖母はその役割を全うしたから肉体を離れた。私にもいつかその日が来る。私が関わっている人たちにも、関わっていない人たちにも、必ずその日が訪れる。
人は様々な関わりの中で互いに影響を与え合っている訳ですが、具体的に何かしてあげたりしてもらったりということでその影響し合っているのではなく、その命が存在していること自体が大きな力を持つから他の命に影響を与えているのではないか。一つ一つの命が他に代えることのできない尊い存在だから、互いに与え合うのではないか。
そう思い至り、全ての命に対する畏敬の念と、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

今年は近場の蓮を見に行きました。早朝だったため、これから開こうとする状態。生命力を感じました。

私は今生において孫という立場で祖母に出会いました。一緒にいる時間だけではなくて、離れている時間も、祖母が生きていて存在してくれていることがいつも力を与えてくれていました。
その魂が肉体を離れることで、その力はなくなってしまうのか?
答えは否です。
私たちの本質は純粋で尊く、肉体が死を迎えても決して死ぬことがない。それが変わることのない真実だから。今回祖母との別れの辛さに心が支配されそうになっていた時、祖母の笑顔によってその勢いが止まったことも、祖母が私に与えてくれていた力の影響なのではないかと思います。

そんなことを思っていた時、Web版パラマハンサ7月配信の知らせが届きました。
「プラナヴァ・サーラ 本当の生きる意味」で、数年前のサット・サンガでの師のお言葉が、このタイミングで読んだことで、胸に染み入りました。

質問者:『プラナヴァ・サーラ』(書籍)の死に様に関しての内容で、強い信仰を持つということと、神の中で死になさいということがすごく印象的でした。信仰を持つということと神と一緒になるということで死を超えられるという、そこにはそういう意味がありますか。

あります。それからもっと実質的なところにおいては、臨終の間際の思いというものは非常に強いとされているのです。だから通常だとカルマの連続で、ある一定量のカルマによってまた来世という流れになるのですけれども、その臨終の一念発起というかその思いの強さによって、それらのカルマを飛躍的に良くするという、そういう力が生まれるというふうにもいわれています。

祖母が亡くなる前日に親族数人が面会を許可され、声をかけた時、ニコッと笑ったと聞きました。誰の声かは分からなかったかもしれないけれど、最後に祖母の耳を通して何かが伝わり笑ってくれたということは、肉体を去る前に安心して穏やかな気持ちで旅立てたのかもしれない。それが来世に良い形で繋がっていくのかもしれない。そんな風に思えました。

この日のサット・サンガの中で、師はこうも仰っています。

本当は誰もの本性という本体は神聖なもので、エゴとかそんなものは初めから本当はない。無知なんていうのも本当はない。…自分もそうだし、他人も他者も全てのものが同じ本質を持っている。二つとない同じものだから、愛おしい、尊い。そういうふうに他者に対しても優しく尊敬を持つこともできるし、全てのものを愛おしくいたわることもできます。これが生まれてきて、生きる本当の意味になると思います。

「生きる意味」を知ったからには、今生でそれだけを見て生き切ることができるはず。

誰もが真実を実現することができると、それが既に私たちの中にあるということを、師は常々おっしゃってくださっています。それを体現し、ありありと見せてくださっています。
その言葉を信じ、その姿に倣い、最期の瞬間まで諦めることなく生きていきたい!今、私史上最高に強い決意を感じています。

何度挫けそうになっても何度でも立ち上がって、私が与えられた役割を全うしていきたいです。

ハルシャニー


私はあなた

私の鍼灸院に9年前から来院されている80歳の患者さんがいます。
好奇心が旺盛でお話しするのが好きな方です。いつも私の知らない話を聞かせてもらえることが楽しかったのですが、少々気難しいところもあるので、言葉遣いには特に気を付けて接するようにしていました。
出会ってから5年ほど経った頃、それまでの気難しさとは異なった感情の起伏が見られるようになりました。物忘れや勘違いも多くなり、おそらく認知機能が低下し始めたのだろうと、これまで以上に注意して接するようにしていました。
しかし、予約時間を間違えて来院されて本来の予約の患者さんの前で自分が正しいと激昂したり、治療中の会話でも突然怒りだしてしまったり、そのようなやり取りを繰り返すうちに私はその患者さんに接するのに身構えるようになっていきました。
そこから1年以上、互いにストレスを感じるやりとりが増えました。この患者さんは一人暮らしで近くに親族の方もおらず、病院を受診していないので症状からの推測になりますが、おそらく認知症だと思われます。ただ病気によるものだと理解してはいても、面と向かって怒鳴られたりすると怖いという感情が勝ってしまい、腫れ物に触るように恐る恐る接するようになってしまいました。

この6月で開院10周年を迎えました。最初に治療院を構えた建物は、都立殿ヶ谷戸庭園のすぐそば。庭園の外からの眺めも意外に良いので、患者さんに好評でした。

この悪循環から脱したいと試行錯誤しているうちに、「私はあなた」という聖典の中の言葉をよく思い出すようになりました。
「私」も「あなた」も本来は等しく尊い一つの存在。それぞれ異なる肉体を持っているけれど、本質は同じ。

この患者さんは病気によってこれまでできていたことができなくなり、記憶することもできなくなり、不安でいっぱいになっている。これは私に起こっても不思議ではない事態。歳を重ねた私もこうなっているかもしれない。
ここまでの思考には何度も至っていましたが、そこを超えられないのは頭で考えてばかりでこの患者さんのことを真剣に思っていないからだ、と気付きました。
もう考えるのはやめた。この患者さんといる時間は何を言われてもされても、その中に変わらない本質があると信じよう。見えなくてもある。それが真実なのだから。
それからは何度失敗しても気にせずに真実だけを見るように努めました。

そうしてしばらく経ったある日、それまでできていた動作ができなくなって困っていた患者さんのお手伝いをしていた時に、「この人は私だ」と直感的に感じました。そう思おうとしたのではなく、目の前にいる患者さんが私であるとしか感じられなくなったのです。それまで見えていた景色は一変し、不安や恐れは消え去っていました。

その後、常にこの感覚に留まれている、とは言えない状況ですが、肚が据わったというか、何を言われてもほとんど動じなくなりました。
認知症の方は通常の高齢者の方よりも視野が狭いので、その方の視野にしっかりと入るためにお顔の正面からお話する必要があるのですが、それまでは怖さが先に立ってつい目を合わせるのを避けることがありました。この体験以降は、伝えたいことがある場合はしっかりと視線を合わせて話せるようになり、言葉以上に伝わることが増えたように感じています。たとえ患者さんが不穏な感じの時でも、とにかく今この瞬間にだけ集中して丁寧に接するように意識することで、私自身が動揺することはなくなり、患者さんを冷静に観察してその時々に必要なことができるようになりました。

治療院の最寄駅、国分寺駅の駅ビル屋上から見た空。梅雨の晴れ間、雲がゆったりと流れていました。

それから1年が経ち、現在。
患者さんの認知症状はさらに進行し、激昂することは全くなくなりました。表情豊かな方でしたが、ぼんやりしている表情が多くなり、怒ることが減った分、不安そうにされることが増えました。以前は饒舌に話をされていたのに思うように言葉が出なくなり、時系列でお話しされることもできなくなったので話の内容を汲み取れないこともしばしば。電話をかけると私の名前も分からなくなっていることもあります。
この患者さんはもう以前のように自分の伝えたいことを伝えることができません。一時期激昂していたのは、きっと自分に起きている変化に付いていけず強烈な不安を感じていたことも影響していると思います。そのピークは過ぎたといっても、認知機能の低下に伴う不安感がなくなったわけではありません。むしろ表情に出にくくなったことで、これまで以上に注視して行為しなければならないと感じています。
私が接している僅かな時間でさえも困っている姿を目にするということは、日常生活を一人で過ごす中で多くの困難が起きていることが容易に想像できます。
何か私にできることがあればと焦る気持ちが出てくるし、どうにもならない事態に翻弄されそうになるけれど、そんな思いにいちいち惑わされては本当に大切な「私はあなた」であることを忘れてしまう。一緒にいる時間だけはこの患者さんに楽しく過ごしてもらえるよう、私も思い切り楽しもう。この1年で少しずつですがそれを実行できるように心がけてきました。

今思えば、1年前に「この人は私だ」と感じるまでの私の行為は、自分のための行為でした。相手のことを考えているようで自分が苦しまなくて済むような逃げ腰の姿勢で、その場さえ凌げればいいというエゴ丸出しの行為でした。しかしこの患者さんと接する中で直感した「この人は私だ」という感覚は私の胸に存在し続けていて、この患者さんが喜ぶことを一つでもしたいという明確な目標を与えてくれました。患者さんがどう感じられているかは分かりません。ただ、来院された時に不安で強ばったように見えた表情が、お帰りになる時にほっとしたように和らいでいるのを見ると、それが一つの答えなのかなと思います。

治療後帰られる時に、この患者さんがにっこり笑いながら言ってくれる言葉が好きです。

「あー、生まれ変わりました!」

それを聞いた瞬間に何もかもがまっさらになります。
私もあなたもなく、全てが純粋そのもの。言葉には言い表せない歓び。
こんなにも素晴らしい体感を与えて下さってありがとう。ありったけの思いを込めて、私もにっこり笑いながらお見送りしています。

この患者さんは芍薬の花が大好き。他の花を飾っているときよりも長めに眺めてから帰られます。

記憶をなくすということは、その瞬間瞬間に生きているとも言えると思います。
それはヨーガの理想とする境地。
この瞬間に目の前にいる人のために、その人の喜ぶことを行為する。瞬間瞬間に実行することを繰り返していく。
今日も明日も明後日も、いつでもこの瞬間に生きることができますように。

ハルシャニー


WEB版パラマハンサ 配信スタート!!!

5月20日、いよいよWEB版パラマハンサの配信が始まりました!皆さん、もうご覧になられましたか?

Web版パラマハンサ画面のスマホショット

これまで私は郵便で冊子版パラマハンサを受け取っていました。ポストを開けてパラマハンサが届いていることを発見する、封筒を開けて手に取り、まず今号の表紙を堪能、その後ワクワクしながらページをめくる。それは冊子ならではの楽しみでした。手に取る実感、目の前に冊子がある安心感など慣れ親しんだものがなくなる寂しさなどなど、いろいろな思いが皆さんにもあったかもしれません。

慣れないキャッシュレス決済の登録もなんとかクリアし(東京Nさんは生まれて初めてユーザー名を考えるなど、お一人で登録作業をやりきりました!Nさん、すごいです!!)、ログインをしてWEB版パラマハンサの世界に入った方は、冊子がなくなる寂しさも吹き飛んで、スマホやパソコンの画面にくぎ付けになられたのではないでしょうか。
そこには冊子とはまた違う世界が広がっていました!!!どこに何の記事があるのかスッキリとわかりやすい画面レイアウト、カラフルで美しい写真の数々、何より師のお姿そのお声を、いまここ自分の部屋で拝見できるとは、なんて素晴らしいことでしょう!!!!!

そしてご覧になられた皆さんは、もうお気づきのはずです。そう、冊子でもWEB版でもどちらでも、パラマハンサは何も変わっていない、ということを。形は変わりましたが、その本質は何も変わっていない。サットヴァ(純粋)なプラーナ(気)を画面越しに感じ、これまで通り、私たちをインスパイア(時に叱咤激励)し、永遠の真理、師の足下へと私たちを連れていってくれる、とてもとても大切な拠り所であるということを。

師とお会いすることができない、まさに困難に満ちている今の世の中ですが、WEB版ではこの耳を使って師のお声を聴き、師の存在をハートに響かせることができるのです。それをお許しくださった師には、言葉にできぬほどの感謝で胸がいっぱいです。本当にありがとうございます!また、パラマハンサを作り続け、時代や状況に応じて良き在り方を考えてくださる先輩方のワークスには頭が下がる思いです。いつもありがとうございます!

WEB版パラマハンサは素晴らしい!ということはよくわかりました。
でもやっぱり、一日も早く師と直接お会いしたい!!何にも代え難い格別な時間、師とともに過ごす日が一日も早くきますように。そしてその時は、目が覚めてきている!とあのとびっきりの笑顔で言っていただけるよう、その日を楽しみにWEB版パラマハンサを見ながら日々精進しましょう!ハートを師でいっぱいにしておきましょう!!そうすれば、何も怖いものなどありません。その日はすぐやってきます。明けない夜はない!!のですから!!!

お昼休みの散歩コースにて。東京では、本当にオリンピックを開催するかはさておき、会場の準備は進められています。手前の山型屋根の建物が体操会場(木材でできている)、奥にはバレーボール会場の有明アリーナが見えます。

ターリカー


先輩から学ぶカルマ・ヨーガ

ヨーガの深まりは日常に現れる。

師から度々教わっているこの言葉の通り、私たちの日常生活こそがヨーガの教えを実践できているか試される場です。
ヨーガの教えに基づき日常の中で行為することを、カルマ・ヨーガ(働きのヨーガ)といいます。
今回のブログは、一人の先輩グルバイに学んだことを書こうと思います。

以前は月に1回ほど京都に行き、サットサンガ(真理の集い)に参加していましたが、終了時間が夜遅めだったこともあり、京都で暮らすグルバイ(兄弟姉妹弟子)の自宅に宿泊させてもらっていました。
毎回数人で宿泊させてもらっていましたが、ある先輩グルバイの宿泊者一人一人に対する行為に、驚かされることが度々ありました。 部屋の温度がちょうど良いかどうか、お腹は空いていないか、一人一人の様子を見て細々としたことまでさりげなく気を配ってくれるのです。 ちょっと寒いかも、と伝えたらすぐに立ち上がって羽織るものを持ってきてくれたこともありました。 食事に関しては、宿泊しているグルバイの体調や好みを考えて準備をしてくれていました。足りない食材があると話していたら、すっとその場からいなくなり、しばらくするとその食材を調達してくれることも。 気配りだけでなくその行動の速さにはいつも驚かされました。

始めは、その先輩が作り出してくれる心地良い空間にただ浸っていました。ちょうどその頃はヨーガを学ぶことで自分の中にある問題を次々と目の当たりにし、それを解決することもままならない状況だったので、母親に甘える子供のような感覚があったのだと思います。
ここにいるだけでほっとするなあ…
そんな感じですっかり甘えてしまっていたのですが、次第に感じ方が変化していきました。
私たち宿泊者の滞在中、先輩はいついかなる時も自分のことは放っておいて、他の誰かのために行為されていることに気付きました。私にはこんな気配りはできないし行動力もないな…と、実践する前から自分には到底できないと思い込んでいることにも気付きました。

井の頭公園にて。噴水の飛沫が辺りに飛んで、蒸し暑さが和らぐようでした。

なぜヨーガを学び実践するのか。
それは自らの無知をなくし真理に生きるため。自らを他者のために捧げるため。

頭で理解するだけではなく、実際に行為すること。私はその大切さを、知らず知らずのうちに先輩の行為に学び、自分の理想の姿を育んでいたのだと気付きました。
私も他の誰かに心地良いと感じてもらえるように行為したい。
自分というものが微塵も出てこない状態で他者への行為をしたい。
特に仕事をする上でこれを理想とし、無意識のうちに実践をしていたのかもしれない、と、今回文章にすることで気付きました。

きっと先輩は師のお姿に倣われて行為されてきたのだと思います。私の場合は、先輩という身近な存在を通して師の振る舞い方を垣間見ることで、他者のために行為するということがどういうことなのかを、より分かりやすく学べたような気がしています。

自分の理想を持ち、それを育んでいく。

これも繰り返し師が仰っていることですが、その意味するところがようやく実感を伴ったものになってきたように思います。

理想は雲の上にあるような遠いものではなく、ごく身近な存在の中にある。自分が一体何に惹かれているのか、惹かれている対象に気付いたのならそれをしっかり意識してそこに近づくにはどうすれば良いか考えて実行する。具体的に何も思いつかなかったとしても、そこに向かっていこうとすることで、一歩一歩確実に理想に近づくことになるのだと思います。
それはどこに行かずとも、今自分がいるこの場所でできます。

私のカルマ・ヨーガの実践の場でもある、治療院。少しでも心地良い空間になるよう心がけています。

様々な局面で活動を自粛することを求められ続けている今、この状況でいかに学びを深めて実践していくか、まさに踏ん張りどころです。私の場合は、これまで経験したちょっとした出来事の中にも、自分が感じていた以上に学ぶべきことが含まれていて、それを思い返すだけでも新たな気付きがあり、そこから改めて学べることを実感しています。
これからも弛まず日々の行為を丁寧に実践していきたいと思います。

 

ところで、5月20日から、Web会報誌「パラマハンサ」の配信が始まりました!
まだ全部読めていないのですが、カラフルで見やすいデザインが親しみやすさを感じます。そして、内容の濃い充実したコンテンツが盛り沢山で、特にWebならではの映像配信は見どころです!
ちなみに私は春の祝祭の時の師の映像を真っ先に見ました。朝出勤前に見たのですが、再び歓びで胸がいっぱいになって時が止まったように感じ、時間の感覚を取り戻すまでしばらくかかりました…
Web版パラマハンサのおかげでこれまで以上におうち時間が充実したものになりそうです。
これからも大いに学んでいきたいと思います!

草木があっという間に茂ってきました。梅雨の間により一層緑が色濃くなりそうです。

ハルシャニー


サナータナ・ダルマを生きる!

初のオンライン開催となった、春の祝祭「サナータナ・ダルマ・アヴァターラ・メーラー」。
出席された皆さんは、身体に収まり切らないほどの歓びを感じられたことと思います。

祝祭前は、初めてのオンライン開催がどんな風になるのだろうとドキドキしていましたが、いざ始まってみると、画面を通していることも忘れて没頭し、あっという間でした。
時間も空間も超えて出席者全員が共に在るということを強烈に感じました。
祝辞を献上した方々から、サナータナ・ダルマ=永遠の真理だけを見て行為してくのだという決意が伝わってきて、胸が熱くなりました。

祝祭後の土曜クラス終了後に、久しぶりに東京のグルバイ(兄弟姉妹弟子)で話す機会を持ちました。一年以上ぶりに拝見する師のお姿に感極まったのは皆同じだったようで、それぞれの表情や言葉から大きな歓びが感じられました。

東京グルバイのメンバー(後左から小菅さん、シャルミニーさん、前左ハルシャニー、マイトリーさん)

今回祝辞をされたグルバイの1人、小菅(こすげ)さんは、祝辞の文章を考えていく過程でたくさんの気づきと学びがあったと話してくれました。
名前も形もない真理について祝辞を考えるのは難しく、真理に関する知識を書き並べる感じになってしまい、「もっと自分の気持ちを出したい!」と悩んでいると、筆は自然と師であるヨギさんに向かっていました。それからはヨギさんへの想いが高まるばかりで、真理とかそういった知識ではなくバクティでいっぱいの内容になっていったそうです。
その表情からは歓びが溢れ出ていて、その場にいたみんなの歓びも一層大きくなったように感じました。

また、アーサナ・瞑想クラスの参加者のSさんは、まだ一度も師にお会いしたことはないけれど今回の祝祭に参加され、冒頭のヨギさんのプージャを拝見し、画面からでも神聖なエネルギーを感じました。 祝辞を述べられた皆さんの体験談も素晴らしく、それぞれヨギさんへの思いや、ヨギさんの言葉によって、人生に大きな変化があったんだなぁと思いました。」と感想を寄せてくださいました。 師を想い慕う気持ちはたとえお会いしたことがなくても同じなのだと感じ入りました。 

左から、ターリカーさん、マイトリーさん、シャルミニーさん。マスクをしているとわかりにくいですね。笑 いいお天気でした!千駄ヶ谷駅前にて。後ろに見えるのは新しくなった国立競技場です。

師が与えてくださるこの上ない歓び、そして自分の中にも真実があるという想いは、確かに私の胸の中に在ります。
それでも、日常の中で様々な出来事に巻き込まれてそれが覆い隠される状態になり、一人ではなかなかその覆いを取り払えない時もあります。
私はこの3月半ば以降、やむを得ず過密なスケジュールで働き続けてしまい、祝祭前日にはっと我に帰ったような状態になっていました。しかし祝祭当日、歓びしかないひと時を体験し、真理以外のことは全て吹き飛んでしまったように感じられました。そして翌日からは再び働き続ける日々が始まり、もっと余韻に浸っていたいのにともどかしい思いを感じながらも、仕事に集中するよう努めました。
そうしてグルバイで話す日を迎えたのですが、みんなで揃って会うこと自体がとても嬉しくて、慌ただしかった日々のことは一瞬で消え去り、再び歓びいっぱいになりました。1時間ほどではありましたが、交わす言葉以上に祝祭の余韻をみんなといるだけで味わえました。

かつてブッダは、「この世は美しい」とおっしゃったそうです。
私は日々の暮らしの中で、この言葉をよく思い出します。一体この世の何を美しいとおっしゃったのか…それは全ての命は等しく尊い、命そのものが美しいということではないかと思います。

ブッダの生きた時代と今とでは、環境も人々の暮らしも大きく異なりますが、「この世は美しい」ことは変わらない真実です。
人、動物、植物、それぞれの命が織りなすこの世界。その世界の中で、ずっとサナータナ・ダルマ(永遠の真理)は存在し続け、今を生きる私たちへと繋がり、これから先にも繋がっていく。
世の中がどんなに変わっていこうとも、絶対になくならないもの。

そのサナータナ・ダルマを体現してくださっている師の存在と、共にサナータナ・ダルマを生きようとするグルバイの存在がある限り、どんな世の中であろうとも必ずサナータナ・ダルマを実現できる。そう強く感じた祝祭でした。

ハルシャニー


よりよく生きるための「食」~さまらさの台所

先日、ヨーガの料理教室「さまらさの台所」のオンラインクラスに初めて参加させていただきました。これまで「さまらさの台所」には何度か参加させていただきましたが、オンラインクラスは初めてだったので、どのように進められるのかとても楽しみにしていました。
今回のメニューはクラムチャウダー、アスパラとチーズの春巻き、菜の花と新玉ねぎのマリネ。わが家は4人家族なので、日頃はつい手慣れたメニューをさっと作ることが多いのですが、動画を見ながらレシピ通り丁寧に作ることにしました。

今回は食材の一つにちょうど春が旬のアサリが使われていました。今は砂抜きのアサリもよく見かける様になり、私も普段は砂抜きのものをよく使うのですが、動画ではアサリの砂抜きの仕方も紹介されていたので、久しぶりに砂抜きから始めることにしました。
殻を閉じた状態で白いトレーにパックされスーパーで特売していたアサリは、塩水の中でだんだんと口を開き、2本の水管や舌のようなあしを出して動き始めました。時折、ピューッと勢いよく水を吐き出します。その様子をじっと見ていると、広い海でこのアサリたちが魚や他の生き物と一緒に元気に生きている光景が私の頭に浮かんできました。すると、買ってきた時は食材の一つだったアサリが、一匹一匹、今まさに生きている私と同じ、命ある生き物なのだと強く実感され、急にアサリたちが愛おしく思われました。「この子たちを食べるのか…」何だか食べたくなくなってきました。その時ふと、今と同じ気持ちになる時があることを思い出しました。私はよく、料理で使った後の大根や人参やネギなどをキッチン栽培で育てて、新しく伸びてきた葉っぱをスープやお味噌汁の具に使ったり、小さな家庭菜園でハーブやベリーなどを育てています。目の前でだんだん育っていく様子をみていると、野菜も生きているんだなぁと同じように愛おしくなり、食べるのを躊躇してしまうことがあります。けれど、野菜やハーブも美味しくいただいていることを思い出し、アサリも美味しくいただこうと決心して調理しました。

その後、別の日に行われたオンラインクラスでは、実際に調理をした感想を皆で話したり、疑問に思った事などを講師のサラニーさんとサティヤーさんに質問したりしました。普段はお母さまが料理をされているという方は、「母にとても喜んでもらえました!」と嬉しそうな笑顔で話され、「子どもが独立したので、久しぶりに自分のためだけにゆっくり楽しんでお料理をしました」という方もいらっしゃいました。やはり共通して一番多かったのは、生きているアサリをいただくことに対しての感想でした。皆さん、生きているアサリを目の当たりにして、アサリの命をいただいているということを実感し、感謝していただかなければいけないと改めて感じたと話されていました。

アサリのクラムチャウダー。殻からも出汁を取りました。

今回のお話の中で「全体食」について、サラニーさんから「動物性のものであっても野菜であっても命あるものはすべて余分なところは一切なく、丸ごと全部いただくことで、その食べ物のエネルギーを最大限いただくことができ、命を無駄にしない。またそうすることで食べ物への感謝を行為として表わすことができる」というお話がありました。
そのお話を聞いて、私たち人間も動物なので、何かを食べなければ生きていけない。命と命は繋がっている。生命全体としての命の営みの中で、“食べる”という行為を通して私たちは与えられたこの命をどう考え、どう生きるのか。日々、何のために“食べる”=“生きる”のか。“全体食が食べ物への感謝を行為として表わすことができる”ということなのだとすると、ひいては他者からいただき続けている自分のこの命を、精一杯よりよく生きるということが、すべての命に対する感謝を行為として表わすことなるのだと、思い至りました。

この日のオンラインクラスの様子。調理中の失敗談も楽しい!

現代は食に対する考え方も多様化していますが、ヨーガを生きる私たちはどんな時も“全体の生命の中で、与えられたこの命をどう生きるのか”ということを常に自分に問いながら、自分の命を真剣によりよく生きて行かなければいけないと改めて考える機会となりました。
サラニーさん、サティヤ―さん、どうもありがとうございました!また、参加させていただきたいと思います!

見本の写真と私作。家族みんな喜んでくれました!

シャルミニー


言葉を使わずとも真実は伝わる

ヨーガの学びを深めようと決めて最初に当たった壁が、いわゆるヨーガの専門用語、例えば、ギャーナ、カルマ、バクティ、ヤマ、ニヤマ、サットヴァ 等々、が分からないということでした。
それでもクラスやサットサンガの後に先輩グルバイと話をしたりするうちに、少しずつ用語の意味を理解し覚えていきました。
用語の意味が分かってくるとますます学ぶことが面白くなり、ヨーガを始めて2年経つ頃にはより熱心に学ぶようになっていました。学びを繰り返すうちに、少しずつ教えが腑に落ちていくように感じていたのですが、ちょうどその頃、それだけでは駄目なのだと気付かされる出来事がありました。

ある知人と話していた時のこと。
時間さえあれば各地域の神社にお参りをしている人で、しょっちゅう神様の話をしていました。
知人曰く、神様にも人間と同じような社会があり、ある神社の神様は優秀で素晴らしいとか、あそこの神社の神様は力が弱いとか、あの神様とこの神様はいがみ合っているとか、願い事をしたらお礼参りに行かないとかえって悪いことが起きるとか…
当時その話をされる度にモヤっとして、何度も聞かされるうちに「なんでこんな話ばかり聞かされるのだろう。神はそんな存在ではないのに!」とイライラするようになっていきました。
私は知人がその話をする度に、ヨーガの教えを話すようになりました。ヨーガでは神様は雲の上の存在ではなくて、あらゆる命の中に等しく存在している、だから上下関係もないし仲違いすることもない、願い事をしたらお礼をしなければならないという取引のようなものではないこと──など。どうしたら分かってもらえるのかと一所懸命に考えて言葉を尽くしましたが、結局知人には分かってはもらえませんでした。

東京都府中市にある東郷寺の枝垂れ桜。たくさんのメジロが花の蜜を食べにやってきていました。

伝えようと言葉にした内容は間違っていなかったと思いますが、なぜ伝わらなかったのだろうか?
その時すぐには気付けませんでしたが、その後のグルバイ(兄弟姉妹弟子)との交流する中で、伝わらなかった理由に思い当たりました。
私の話に真剣に耳を傾けてくれるグルバイたちのように、私は知人の話に耳を傾けられていたかというと、できていませんでした。最初からそれは違うと偏見を持って聞いていたことに気付きました。
また、先輩グルバイとお話する際に、私が理解できるように丁寧に話をしてくださっていること、少しずつヨーガの道を歩んでいる私の様子を見守りつつ、タイミングを見て的確な助言をもらえていたことにも気付けました。難しい言葉を用いることなく、考えを押し付けられることもなく、楽しくお話しているうちに新たに腑に落ちることがあったり、発見があったり。話し終わると心身ともに軽やかで心地よさに包まれたことも何度もありました。

きっと知人は私と話していても楽しくなかったと思うし、むしろ不快な思いをさせてしまっていたかもしれません。
私は学んでいるということで満足して、学んで知っているだけなのに体得したような錯覚を起こし、自分は正しいことを知っているという傲慢さから、知人に対して謙虚さも優しさもありませんでした。
そもそも、神様はあらゆる命の中にあると、確信を持って知人に言える状況にもなかった。
頭でっかちで、しっかりとした実践ができていなかった現実をまざまざと思い知らされたのです。

ヨーガを実践していくということは、生きることそのものでもあります。
生まれてきた以上、命が終わりを迎える瞬間まで生きていく必要があります。ヨーガに出会えてなければ漠然と生きていたのかもしれませんが、ヨーガに出会ったことでその可能性は消えました。確かに真実があることを知り、生きる目的や理想とを持つことが大切なのだということを知りました。
向かうべき方向が定まったら、その一点へと歩み続けるだけ。その過程は一人一人異なります。見える風景も味わう感覚も。それがその人の生き様であり、それを他者が見た時に語らずとも伝わるものがある。

ちょうどこの頃に師に質問した際に頂いた答えがメモに残っていました。

ヨーガの言葉を使わなくても、真実のみを話すことはできる。神様は全ての人・物の中にある、ということを、そういう考えを持っていることを伝える。それ以上は言わなくてもいい。言う必要はない。

これは知人との出来事が起こる前で、当時確執があった父のことで相談した時のものです。この時のお答えは聞いた瞬間から私の胸深く刺さり、常に大切にしていたはずだったのですが、この知人との出来事にも全く同じことが当てはまっていたのだと、このブログを書くにあたり再度読み返して初めて気付きました。

教えを学んで真理とは何かを知る。それを実践する。そうすると体感が訪れる。
ひたすらに繰り返すこと自体も生き様。

正しい智慧も悟りに至るまでの間、無知がある間だけ必要なのですよ。悟りというのは無知も智慧も超えていますから。それはちょうど痛みを与える棘をもう一本の棘で抜くようなものです。苦しみがなくなれば両方いらない。
                                                                                                     シュリー・マハーヨーギー

2つとも棘が抜けてすっかりなくなってしまったら、私の生き様が言葉以上に雄弁に語ってくれるようになるのかもしれません。
それまでは地道に着実に、学び・実践・体感を繰り返していきたいと思います。

ハルシャニー


ヨーガと心の傾向 ③真理に向かってもっと大胆に!

先輩方のお話をうかがって、ヴァーサナー(心の傾向)と闘うには「真理だけをみていく」ということを改めて理解した私は、今現在これまで以上にそのことを意識しながら日常生活の中でヨーガの実践に取り組んでいます。(前回のブログ

まず、自分のヴァーサナーについてあれこれ考え、そこにエネルギーを費やすことは止めました。空気のように掴みどころがないヴァーサナーを相手にするのではなく、ヴァーサナーの原因であるエゴや無知をなくしていくこと。そのためには、既に自覚している自分の傾向やそれに気が付いた時にはその都度ヨーガの教え、真理に心や行動を沿わせていくように改めて意識するようにしています。
これもずっと師が言われ続けている事ですが「日常生活に必要なことにおいては、その時必要なことを淡々と行う」こと。苦手意識があるものに対して「また失敗するんじゃないか」とか「嫌だなー」という感情が湧いてくると、極力その思いには意識を向けないようにして、その時必要なことに気持ちを集中するように努めています。時間もかかりますし、上手くいったり失敗したりしていますが、諦めず一歩一歩です。
また、先輩からは「苦手なことを積極的に行為していくことが、日常における最も単純で効果的な方法だと思います」とアドヴァイスもいただきました。苦手なことを積極的に行うというのはなかなか楽しく!?できることではないとは思いますが、確かに真理に好き嫌いはありません。これも実践あるのみ!です。

そして、唯一真理だけを求めていくこと─。真理、本当の自分、神、様々な呼ばれ方をしますが、それらはすべて同じ一つのものであるといわれ、ヨーガではその一つのものに向かうために、それぞれの性質(ヴァーサナー!)に合った道が用意されています。古来より真のヨーガの師は弟子の性質を見抜き、一番速やかに真理へと進める道を示されるといわれています。師は私にバクティ・ヨーガの道を示して下さり「いつもどんな時もすべての思いを神に向けるように」とおっしゃいました。その時から、私は湧き起こってくる色いろな思いを師と神に向けるようにし、心の中で話しかけるようにしています。キールタンを歌うと自然に心は神の御名で満たされます。いつからか、師と神は常に私の胸の奥に在り、忘れることはありません。ですが私は、すべての人の中に、この世界の森羅万象すべてに光り輝く神の姿を見る、その境地に憧れてやみません。それにはサンスカーラもカルマもヴァーサナーもエゴも無知も、一切を燃やし尽くすくらいの神への強い想いが必要なのだと感じています。

空に向かって真っ直ぐに咲く白木蓮

2016年に京都で行われた特別サットサンガで師が語られた教えが、以前このブログで紹介されていました。私は胸が熱くなるような感銘を受け、いまだに時折読み返しては当時とまったく同じ気持ちになる言葉があります。

ヨーガは未来志向の、自分の運命は自分でしか切り開けないという考え方なのです。過去のカルマがどうであれ、それに引きずられていたのでは運命的に縛られて生きていくということになるでしょう。でもたとえどんなカルマがあろうとも、そんなことはもう過去のこと。今、今からは違う、自分自身で変えていくという、ものすごくダイナミックな、積極的な考え方に基づいています。自分が自分を生きていくという、主体性、自立性、これを大事だと考えています。
そうして本当の私と言う自立自存、それだけがあるという、何ものにも依存していない、独立してそれだけが尊い存在である!ということを体得するわけです。誰もがそれをできます!ここに生まれてきた本当の意味があるのですよ。たとえ数え切れないほどの輪廻転生をしてきたとしても、これがゴールです!!

今回、自分のヴァーサナーへの疑問から、先輩を通じて、私にとってまた新たな発心を得ることが出来た貴重な機会となりました。
ヨーガには自分で自分を変えていく力があります。そしてヨーガとは自分の運命を自分自身で切り開いていくこと!
ヨーガの教えへの理解を深めることも、諦めず一歩一歩前進することもヨーガの実践においてとても大切なことですが、自分のヴァーサナーなどに捉われず、真理に向かってもっと大胆に進んでいきたいと思います!

シャルミニー


アヒンサー(非暴力)に徹する

新型コロナウイルス感染症は私たちの日常を大きく変えました。
私が暮らしている地域でも、医療従事者のお子さんの保育園登園拒否や、病院内駐車場の通勤車への心ない張り紙など、差別や偏見による行為を聞くことが度々あります。
過剰な不安感や間違った情報によるものがほとんどだと思われますが、決してあってはならないものです。そして、医療従事者に対してだけではなく、身近なところでも起きています。

以前にブログで少し紹介させていただきましたが、職場の鍼灸治療院に来院される患者さんにも、状況が長期化するに連れて気持ちに余裕がなくなっているように見受けられる方が少なくありません。
高齢で一人暮らしの方は、買い物に出かけることすらも怖くなり、塞ぎがちになっています。そんな気持ちを抱えて買い物に出かけた時に、家族連れが賑やかに買い物しているのを見ると、自分ばかりが我慢を強いられているようで腹立たしくなると言っていました。同じく高齢の方で日頃から警戒心が強かった方は、陽性者が出たと噂で聞いた建物には絶対に近付かないようにしている、怖くて人が歩いているのを見ると、陽性者ではないかと疑って見るようにしている、と言っているのも聞きました。 また会社勤めの方は、社内で陽性者が出た際に、その感染経路が飲み会だったと聞いて、憤りを感じて投げやりな気持ちになってしまったと言っていました。

話を聞いているとそう思ってしまう気持ちが分かるような気がして、つい感染対策に気を付けていない人達のことを一緒になって話してしまいました。でも、それを言ったところで現実は何も変わらないし、むしろ心の中がもやもやとして余計に波立つような感覚になりました。自分は感染対策に気を付けて生活しているという自負の元、会ったこともない人達に対して偏見を抱き、差別的な 発言をしてしまっていることに気付き、反省しました。
こういう何気ない会話をする中でも、互いの思いや言葉の持つ力に影響を受けているのだと痛感します。

ヨーガの教えの中に、アヒンサーがあります。非暴力の教えです。
アヒンサーは、他者(全生命)に対していかなる苦痛も与えない、という意味。それは行為はもちろんのこと、言葉で与える苦痛や心の中で思うことも含まれています。
日常生活でアヒンサーを実践していく時は、苦痛を与える言動をしないように気をつけますが、自分にはそんなつもりはなくても、言葉遣い一つで相手を傷付けてしまうこともあります。頭で分かってはいてもそう簡単にできることではありません。だから、やはり根本である思いを正しいものにしていくことが重要だと思います。

自宅近くの公園で見つけたフキノトウ。「真理は一つ」という花言葉があります。

それで、先ほど書いた通り、コロナ禍にまつわる様々な患者さんとの会話の中で、私自身がアヒンサーを実践できていないなあと感じ、改めて意識して今できる具体的なことは何かを考えました。先入観を持たない、ネガティブな話題が出ても同調しない、そういう話題に終始しないように話の方向を変える、等々。でも、何かもっと大切なことが抜けているのではと思い至りました。
それは、上辺の行為だけ調えるのではなく、「すべての生命は等しく尊い」という真理が思いの根本になければならないんだということ。
思いが正しくなれば自ずと謙虚になり、優しさに満ちた言動に繋がっていく。

ふと、昨年末のブログに書いた「愛は優しさでしか表せない」ということと、アヒンサーを実践することとは同じであるという気がして、今一度ただ他者を愛しむようにしようと決意を新たにしました。このことが根本にあれば、小さな行為でも大きな意味を持つかもしれない。最初からうまくいかなくても、謙虚さを持って訓練していこうと思い、具体的な実践を始めていきました。

  • 患者さんと会話をしながらも、その人の中にある純粋な存在をイメージして感じるようにする。
  • 話に安易に同調しないように気をつける。
  • 揺らぎそうになったら、みんな尊い存在なのだから、と心の中で繰り返す。
  • 相手の思いや言葉を否定するような発言にならないよう気を付けながら、少しでもその人の気持ちが明るい方に向かっていけるように願いながら発言することを心がける。
  • 話をしたタイミングでうまくいかなかった時は、その患者さんが玄関を出てお帰りになるその瞬間までチャンスを伺い続けて、チャンスがなかった場合は思い切り笑顔でお見送りするようにする。

今やっていることが本当にアヒンサーと言えるのかどうか分かりませんが、やり続けた先に体得されていくものだと思うので、今は自分がよいと思うことを根気強くやっていきたいと思っています。

登山中に見つけた杉の切り株から、小さな幼木の芽が芽吹いていました。

ヨーガの聖典『ヨーガ・スートラ』では、アヒンサーについてこう書かれています。

非暴力(アヒンサー)に徹した者のそばでは、すべての敵対が止む。

一人一人がアヒンサーに徹することで、少しずつでも差別や偏見をなくすことができる。穏やかな空気が流れて平安な世界に変わることができる。そうなれるよう、まずは自分自身が徹底して実践していきたいと思います。

ハルシャニー


ヨーガと心の傾向 ②ヨーガはヴァーサナーとの闘い!?

「自分のヴァーサナーを何とかしたい!!」と悶々としていたある日、長年師の下でヨーガを続けておられる京都の先輩と電話でお話をさせていただく機会がありました。そこで私は、先輩にヴァーサナーについてうかがってみることにしました。(前回のブログ

私は「ヴァーサナーについて教えて下さい。自分のヴァーサナーをどうにかしたいのですが、どうしたらいいですか?」と率直に質問しました。先輩はとても丁寧に答えて下さいました。
「そうですね。“長い間ニンニクが入っていた壺からニンニクを取り出しても、ニンニクの匂いは消えずに残っている”とよく例えられるけれども、ヴァーサナーは空気のようなもので実体がないんですよ」
そして、次のように説明して下さいました。
ヴァーサナーというのはサンスカーラ(※1)が積み重なってできる心の傾向であり、例えば、好き嫌いやその対象に対してどのような反応をするか、また様々な物事の理解の仕方の傾向や、その人がとる行動、話し方や文章の書き方など、すべてに影響を与えている。師は「風向きのようなものだ」とおっしゃられたそうで、心に入ってきたものはすべてその方向に流されることになるそうです。
真理を学び、自分がヴァーサナーの影響を受けていると頭では理解できたとしても、その理解の仕方自体も影響を受けていることになるので、ヴァーサナーを相手にしても仕方がないし、ヴァーサナーに意識を向けるとかえってそれに捕われてしまう。けれど、そのままにしておくと新たなカルマ(※2)を作り出す温床になってしまうのだそうです。(前回のブログ参照
そして、「ヨーガはヴァーサナーとの闘いなんですよ」と穏やかかつ軽やかな口調で言われました。
今まで何となく理解していたのですが、なんと厄介なものなのでしょうか…!!それにヴァーサナーを相手にせず、ヴァーサナーと闘う!?一体どうやって闘えばよいのでしょう??
「では、どうすればいいのですか?」私は更に質問を続けました。
「やはり真理だけを見ていくことしかないんですよ。唯一真理を求めていくことだけが、大元であるエゴと無知を滅ぼして、心の消滅にともなってヴァーサナーに打ち勝つことになるわけです」と先輩は言われました。

その後、しばらくして別の先輩にグルバイが質問をしている場面に居合わせることがありました。彼女は「頭では、やってはいけないそっちにいってはダメだ!と思っているのに、どうしてもそっちに行ってしまうんです。止めようとしてもなかなか止められないという時はどうしたらいいでしょうか?」と話されていました。私はヴァーサナーのことかなぁ、と思いながら聞いていました。
その先輩はご自分の経験を例に出しながらこう答えられました。
「車やバイクってある程度スピードが出ていると、ブレーキを踏んでも“惰性”の力が働いてすぐには止まれないよね。それと同じで、これまで長年続いていた習慣や性質って、すぐには改まらないことが多いよね。
昔、私がバイクに乗っていて山道のカーブにさしかかった時、曲がり切れずにガードレールにぶつかって転倒したことがあったのだけれど、その時ぶつかってはいけない!と思ってガードレールばかり見ていたら、吸い寄せられるようにそっちに向かって行ってしまったんですよ。本当はそっちではなく自分が進む道の方を見なければいけなかったんですよね。
避けたい対象を意識するのではなく、やはり自分が本当はどうしたいのか、どうなりたいのかということに意識を向けるようにした方がいいよ」と話されました。
私は、なるほど!どちらの先輩も同じことを言われているなぁ!と思いました。“ガードレール=ヴァーサナーやその対象”を見るのではなく“自分が進む道=真理”を見ること。
分かりやすい例え話や言葉を使って物事の本質を丁寧に説明されるお二人のお話を聞きながら、私は先輩方に師のお姿が重なって見え、長年師の下でヨーガを続けて来られた先輩方にまた改めて憧れと尊敬の念を深めたのでした。

職場近くの公園の白梅の花が咲き始め、風に乗って甘やかな香りが運ばれてきました。

私は、先輩が教えて下さったヴァーサナーとの闘い方「唯一真理を求めていくことだけが、大元であるエゴと無知を滅ぼして、心の消滅にともなってヴァーサナーに打ち勝つことになる」とは、『ヨーガ・スートラ』の一番最初に書かれている「ヨーガとは心の作用を止滅することである」と同じことだということにはたと気が付きました!ということは、ヴァーサナーはヨーガが成就するまでなくならないということになります。だから「ヨーガはヴァーサナーとの闘い」なのか…。なんという長期戦なのでしょう!?

「何事も一足飛びにはいきません。一歩一歩です」
私は、師に出会った頃、私が質問したことに対して師が答えて下さったことをまた思い出しました。何も前進していないのではないかと焦りを感じる時に、いつも励みにしている大切な師の教え。あぁ、やはり師のおっしゃる通りなのだなぁ…と、今さらながら心の中で師の御前に額づく思いがしました。四の五の言わず真理の教え、ヨーガを実践しよう。やはりそれしかないのだ。私は自分のヴァーサナーとの闘いに腹を括りました。
それから私は、これまで以上にそのことを意識して日常生活の中でヨーガに取り組むことにしました。
(続く)

※1 サンスカーラ/この世界で経験するあらゆる事柄は心に何らかの印象を残し、その内容に応じた結果(カルマ)をもたらす。この潜在的な残像印象をいう。
※2 カルマ/行為とそれによってもたらされる結果を意味する。利己的な悪しき行為は苦という結果生み、非利己的な善き行いは楽の結果を生む。それゆえ、本来の意味である行為とともに、その結果と、さらには作用・反作用、因果応報の真理も含んでいる。
(『悟り』/サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ著 用語解説より)

辛夷も春の準備を始めています。

シャルミニー