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アーサナへの姿勢

アーサナ(ヨーガのポーズ)は身体の柔軟性を競うものではなく呼吸の深まりと安定をもたらし、その影響を受けて心も強く穏やかな状態に変化します。今回のブログは、愛媛県松山市で熱心にヨーガを実践されている大森みさとさんのアーサナについての記事です。彼女のアーサナの真摯な取り組みによる呼吸と心の変化が紹介されています!


2年と少し前、ヨーガを学び始めた頃の私は、あまりアーサナを重要視していませんでした(!)。クラスに通い、自宅でもしていましたが、なんせその頃の私はヨーガに巡り合えた喜びで無敵のイケイケ状態だったため、この情熱さえあればオールオッケー!!と言わんばかりに舞い上がっており、アーサナは2の次3の次のような気持ちでいたように思います。
ちょうどその頃、師がNYへご布教のために約3か月渡米されることになり、幸運にも10日間ほど滞在を共にさせていただく機会に恵まれました。滞在中に私は、「アーサナは何呼吸すればいいですか?」と師にお尋ねしました。それに対する師のお答えは、

「20呼吸。」

頭が真っ白になりました。その時の私にとって20呼吸は未知の回数で、果てしなく長いように感じられたからです。に…20呼吸…この先毎回20呼吸……
私は抵抗する心のままにアーサナから逃げました。でもずっとそうしているわけにはいかないし、嫌だという思いがあることは自分に必要なことなのでは…とも感じていたので、日本に帰ってしばらくしてから腹をくくってアーサナに取り組むことにしたのです。
(※反るポーズなど、アーサナによっては20呼吸していないものもあります。また、ひとりひとりの体調や状況があるため、誰にとっても20呼吸が必要ということではないと思います。)

初めはアーサナが終わらないかのように長く感じられました。しかし、毎日続けるうちに、気が付くと20呼吸のアーサナが日常の一部になっていました。
それまでの私は、クラスではポーズが苦しくなると、「いつ解除の声がかかるんだろう」といった雑念がよく湧いていましたし、自宅でも、何となく辛くなったら保持をやめるというやり方だったので、自分に都合のいい範囲内で取り組んでいたと思います。でも20呼吸すると決めてからは、積極的にアーサナに向かっていく感覚が生まれ、それまで感じたことの無かった肉体や呼吸の苦しさに直面しても、呼吸が終わるまではじっと耐えるという状況が自然と出来上がっていました。師の教えがなければ、自分を追い込むこともなく、そこでの苦痛に耐えるということもできなかったと思います。

マッチェーンドラ・アーサナ(ねじる形)

私はこの教えをきっかけにアーサナに向き合うようになり、今、アーサナに対する姿勢の大切さを感じています。自分の意志で積極的にすること、ごまかさず誠実に行うこと、苦しくても忍耐すること、ひとつひとつきちんと終わらせることを特に心がけているのですが、どれもそっくりそのまま日常生活でも大事なことだと気が付いたからです。これらの心がけがやがて自分の性質になり、自然と日常の中にも表れるようになるよう、これからも日々実践を続けていきます!

ブジャンガ・アーサナ(コブラの形)

大森みさと


熱心に神を求める 〜瞑想専科バクティ・ヨーガ編を受講して〜

昨年10月から12月まで、瞑想専科バクティ・ヨーガ編が開講されました。毎回欠かさず参加されていた、和歌山在住の中島さんがご感想を寄せてくださいましたので、ご紹介します。

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 第1回目から、講師のミラバイさんの「バクティ・ヨーガで大切なことは、熱心に神を求めること!」という力強い言葉に刺激を受けて、やる気満々でスタートした3カ月。
私は、『ラーマクリシュナの福音』を毎日読むという課題や毎回の宿題に加えて、神の御名を唱える・常に神を想う(忘れていると気付いたらすぐに思い出す)ことから実践し始めました。 

3カ月の実践中、強く感じたのはオンラインクラスの素晴らしさです。
毎回、宿題や聖典を読んだ感想を発表する方の純粋な想いをダイレクトに受け取り、一緒に泣いたり笑ったりするうちに一体感が生まれ、皆で意欲を高め合うことができました。そして、画面に映る皆さんがキラキラと輝き出し、そこから伝わるサットヴァなプラーナに包まれて、クラスが終わる頃には充電完了! 次のクラスまで実践を続ける大きな力となりました。

また、講師のお二人の熱意あふれる講義は、ご自身の体験談などを交えた分かりやすい内容で具体的な実践への足掛かりとなり、バクティ・ヨーガの教えに対する理解も深まりました。それでも理解の深まりとは裏腹に、すぐに神から離れる心に振り回され、その状況を打破する糸口がなかなか見つかりませんでした。しかし5回目の講座は、それまでの「実践」のとらえ方や、自分の生き方を見直す大きなきっかけとなりました。

この時に紹介された、師への純粋な愛と信仰心だけを拠り所に、快楽的な生活を送る大酒飲みから神の思し召しのままに生きる聖者へと生まれ変わった、ラーマクリシュナの信者ギリシュの真っ直ぐでひたむきな生き方は、強く私の心を打ちました。そして「思し召しのままというのは、”私には何もできない”という消極的なものではなく、とても積極的な生き方。人としての本来の生き方だと感じる」というミラバイさんの言葉にも衝撃を受けた私は、自分の生き方を振り返り、自分がまだ神だけを求めて生きているとはいえないことに気付いたのです。

そこから私はまず、日常の出来事に心が執らわれる暇のないくらいに、絶え間なく神を求めることを目指しました。そして、家事をしながらキールタンを唱え、バターを見たらクリシュナを、雨が降ったらシヴァを思い、神から心が離れても「心を見ない!」というアドヴァイスを思い出してはすっぱりと切り替えて、とにかく心と身体を目いっぱい使って全身で実践し続けました。

そして、受講を終える頃には、聖典を味わえるようになったり、いろんな気付きがあったりと、参加して良かったと思いましたが、肝心なバクティの深まりはほとんど感じることがありませんでした。しかし、日々の小さな積み重ねは、自分でも気付かないところで心に変化をもたらしていました。ふとした瞬間に、胸の奥から理由のない歓びが溢れ出し、その源に神の存在を感じるようになってきたのです。

聖典の中でラーマクリシュナは、どんなにつたなくても信念を持って熱心に求め続けていれば、神は必ず応えてくださるとおっしゃっています。純粋なる歓喜ともいわれる神。この歓びの先に純粋なる歓喜、神がおられるという直感を手掛かりに、これからも毎日熱心に神を求め続けたいと思います。


~オンラインクラスを通して大きな力を下さった講師のお二人とクラスメイトの皆さん、
そして師のお導きに感謝しています~

中島尚子

 


ヨーギーから伝わる人生の「虎の巻」

京都、長岡京ヨーガクラスの新年のスタートは、112日でした。
会場の神足ふれあい町家の風情ある大きな格子窓からは、天から降りそそぐ真っ白な雪がしんしんと舞い降りてくるのが見えていました。照明が落とされた和室からは、その雪景色が絵画のように浮かび上がっていました。

長岡京ヨーガ・瞑想クラス

この日は、約150年前のインドに聖者スワミ・ヴィヴェーカーナンダがお生まれになった日であり、講師のマードゥリーさんがこの吉祥な日にクラスが行なわれることへ感謝の思いを話されました。

かつてヴィヴェーカーナンダが師の御仕事を担われて、インドの叡智を世界へ向けて伝えていかれた。その恩恵があって、今私たちが学んでいるヨーガがある。
それを聞き私は、このヨーガは実際に生きていた聖者が精魂込めて人へ伝えられたその結晶なのだと初めて意識し、それを今教わっている不思議さを思い、講師の方々、そして師に、感謝しました。

受講者たちはみんなとってもいい笑顔で、凍える外の寒さがまるで嘘のように、部屋の中は穏やかでアットホーム。あぁ、きっとヴィヴェーカーナンダも喜ばれている、彼の師であるラーマクリシュナの存在、そして私たちの師であるヨギさんの笑顔が自然と浮かび、白い雪は祝福の散華のように見え、胸の奥から込み上げるものがありました。

長岡京ヨーガ・瞑想クラス

真っすぐ背筋が伸びたみんなの後ろ姿が凛としていました。アーサナを真剣に行なう清々しい姿がありました。
受講者同士でワイワイと会話をされるようなことはないですが、いつも自然で、さりげない気遣いと優しさをそれぞれに感じ、こういうのすごくいいなぁ~と私は行くたびに思います。みんなの背景は何も知りませんが、ただヨーガで繋がっている妙な安心感があります。それぞれの思いでヨーガを拠り所にされていることを感じ、ずっと続けて通われていることを尊敬します。クラス中に質問なども特にされていないようですが(私が知らないだけかもしれませんが)みんなどうしてこのヨーガを続けられているのかな~とふと思ったことがあります。一つのことを続けるのは、結構大変だからです。

長岡京ヨーガ・瞑想クラス

クラスの最後に今年の干支である虎にまつわるお話が紹介されました。
古代のヨーガ行者たちは、虎の皮を敷物にして瞑想をしていたそうです(ヨーガ行者は決して生き物を傷付けないので、自然死した虎の皮です)。百獣の王とも呼ばれる虎の上にヨーガ行者が座っている意味は、すべてを支配するという象徴的な意味もあるとか。ヨーギーは何ものにも執らわれない、自由を私は感じました。
また、虎は千里行って千里帰る、というように、一日で千里もの距離を走り戻るような威力があり、修行者をその背に乗せて、悟りの境地へ連れて行ってくれる乗り物でもある。そして「虎の巻」といえば、由来は秘伝が書かれたもの、奥義の秘伝書という意味合いを持つそうです。まさにこのヨーガも秘伝ですね、今年もヨーガの智慧、秘儀を一緒に学んでいきましょう、とマードゥリーさんは結ばれました。

私は、みんながヨーガを続けているのは、答えはヨーガが秘伝だから、と腑に落ちました。ヨーガはまさに私たちにとって生き方の秘伝書。秘伝は、それを知った者だけに分かるもの。これは体験した人にしか分からないものがあります。ちなみに私は、クラスへ行く行かないとでは全く違う!と最初の頃から毎回同じことを思います。今はオンラインでも様々なクラスがあるので、参加しやすいと思います。

虎にあやかって、今年も私たちが積極的にヨーガの道を全力疾走できますように。虎の背に乗せてもらえますように!

 

 野口美香 


ヨーガは喜びへの道

ヨーガ・サーラ・スタジオではクラス後、自然に参加者の皆さんと円になってヨーガの話で盛り上がることがあります。皆さん、お互いをよく知っていて、ヨーガの実践についても相談しやすい環境です。最近は京都のオンラインでのバクティ瞑想専科で教わったことや「常に神の御名を唱える」についての話題が多く、誰かの実践がまた別の誰かを鼓舞するという情熱の輪が広がっています。こんな嬉しい話もありました。一人の方が「いつも自転車でクラスに来る時キールタンを歌っているけど、あれ?こんなに楽しくていいのかなって思ったんです」と。楽しくていいに決まってます! ヨーガは喜びへの道です! その朗らかな笑顔は日々の地道な実践の積み重ねによって心が変容してきたことを物語っています。

月曜の朝のクラスのみなさん

さて、昨年久々にクラスに復活してくださった子育て中の女性から新年の抱負が届きました。

・クラスに通うようになって、心も体も穏やかになっていくのを日々実感しています。わんぱく盛りの双子の男の子を育てていると、まだまだ心が巻き込まれてしまうこともあるのですが、そんな時は、ハートの奥に問いかけてこれは真理なのかどうか、徹底的に分析していきたいです。今年もクラスでアーナンディーさんやヨーガを学ぶ先輩たちにお会いできるのをとても楽しみにしてます。

さらにバクティ(信愛)・ヨーガを深めているお二人からも!

・神の御名をとなえて同時にあなたを愛することができますようにと祈ること。富、名声、および快適な生活のようなかりそめのものに対する執着が日に日に少なくなりますように、と祈ること。神が喜ばれるよう行為すること。

 ・周囲の人々に喜びと笑いをもたらすよう、お話ができる人になりたいです。そして、常に神を想い、神の御名に神を見ることができるようになりたいです。

師はおっしゃいます。「自分の中に尊い存在があるということを信じてください。神は雲の上にいるのでも、宇宙の果てにいるのでもない。あなたの胸の中にいます。それが誰もの本質です。そのことを知らないから、人々はみな苦しんでいるのです」と。「尊い存在が胸の中にある」、この言葉に胸の内側から力が湧いて瑞々しい喜びに包まれます。一人でも多くの人がこの真実を知ることが、周りの人の平安につながっていくと信じています。なぜなら「尊い存在が胸の中にある」と知ると心は満たされ、動じなくなり、その影響を受けた周りの人の心も穏やかになるからです。どうか真の喜びが広がっていきますように。

2021年最後の瞑想会の様子。みんなと座ると「長時間座れる」と好評です。

アーナンディー


マハーヨーギー・ミッション ロングTシャツが到着!!

 10月23日、待ちに待ったマハーヨーギー・ミッションのロングTシャツが届きました。写真はアーサナクラスの後にグルバイと撮影したものです。皆笑顔で喜びに満ちあふれていますね。

撮影時のみ、マスクを外しています。

 この春夏と半袖Tシャツを着られた方も多いのではないでしょうか。私も師のヨギさんがデザインされた神聖なTシャツを着て、クラス、仕事、趣味の場など色々な所に出かけました。このTシャツを着る時はいつも心強い気持ちになりましたし、幸せな気持ちで一杯でした。
 ある夏の日、職場でオレンジ色のTシャツを着ていて、「いい色ですね。よく似合いますね」と声をかけて頂き、話に花が咲きました。出張に出かけた先のホテルで何気なくTシャツを壁にかけると、夕方その部屋はアーシュラムの雰囲気になりました。クラスで皆同じTシャツを着てアーサナをした時の一体感と集中感は、まるでヨギさんの直伝クラスに出ているようでした。このTシャツにより、色々な出来事が起こりますが、それらは皆ヨギさんの恩寵だったと後で気付きました。ヨギさんはいつも、気付かぬうちに私達の人生に喜びを届けて下さり、痕跡を残さず出て行かれます。真のヨーギーの働きはこのような目に見えないものなのかもしれません。
 私は研究を生業としており、そのメカニズムについて疑問を持つのがヴァーサナー(心の傾向・性質)となっています。なぜこのTシャツにはこのような効果があるのか。何か仕掛けがあるのではないかと思い、他のTシャツとも比較しながら、その性質を調べてみました。やはり胸の中心にあるアートマンのデザインに何かあるのではないかと思います。このシンボルを見ると胸の中に何かがグーっと入り込んで集中が高まる気がします。これをデザインされたヨギさんの大切なメッセージが込められているのではないかと思いました。

「本当の主人はその(心の)奥にあるアートマン、真実の自己、あるいは神なのです」
『ヨーガの福音』36ページ

という「アートマン/すべてはそれだけのために」の教えが自然と思い出されます。
 この冬も胸のアートマンを意識しながら、アーサナ・瞑想を頑張りたいと思います。ロングTシャツの周りでどんなことが起こるのか楽しみです。

島本廉


聖典を味わう

10月から始まった瞑想専科バクティ・ヨーガ編。

誰もの中にある純粋な存在のことを、真理、アートマン、神、など、様々に言い表しますが、私は「神」という言葉に対してなかなか馴染めないままでした。しかし、ずっと抱えていた問題と向き合う中で「神」への愛を感じる出来事があり、もっとバクティを深めたくて受講を決めました。

その課題として『不滅の言葉(コタムリト)』を読み進めていますが、聖典を味わうとはこういうことか!と今更ながら実感しています。
今までも、聖典は味わうように意識して読んでいたつもりでしたが、これまでとは全く異なる感覚に驚きました。

まず、ラーマクリシュナがとても近くに居られるような感覚になりました。どのエピソードからも、ラーマクリシュナがどんなに情熱的に神を求めて、神と共に生きておられたのかが感じられ、実際にはお会いしたことがないのに、その表情や仕草まで目に浮かぶようでした。
また、弟子との交流が描かれているところでは、それぞれの弟子の性質を的確に見抜かれて導かれるご様子に胸が熱くなりました。
すでに読んで知っているはずの内容なのに、初めて触れたような新鮮さとリアリティを感じました。

同時に、著者であるMの師であるラーマクリシュナへの想いがひしひしと伝わってきました。
これまではMに対して、膨大な記述を人生をかけて書籍という形にまとめ上げたすごい人という印象を持っていました。しかし今ほどMを身近に感じたことはありませんでした。師であるラーマクリシュナに出会った瞬間から彼の虜になり、師だけを見つめて慕うバクタの姿を見たように感じました。

それから毎日ページを読み進めるにうちに気持ちがどんどん晴れやかになるようでした。

これまでは慌ただしかった日はもう読まなくていいか、と聖典を手にすることなく寝ていたことも度々でしたが、受講している他の人たちも同じように取り組んでいる、ということも大きく後押ししてくれました。一度習慣になってしまえば特に努力しなくても自動的に実行できるようになりましたし、1日の終わりに1ページでも読むことで本当に心が洗われるので、欠かせないことの一つとなりました。

今読んでいる『不滅の言葉(コタムリト)』。毎日就寝前に読んでいます。

 

なぜ急に聖典を味わえるようになったのか、自分でも不思議だったのですが、今までで1番強く神に近づきたいと願うようになっていたからなのかなと思います。

第1回目の中で、特に印象に残った言葉、
”バクティ・ヨーガで大切なことは、熱心に神を求めること!”

私はこの瞑想専科を受講することで、自分が囚われていたものから少しずつ解放されていくような感覚になっています。
もっと熱心に神を求めて、素直になって、神に全てを差し出したい。
それを目標として、さらに聖典に親しみ、今後の瞑想専科で学びを深めていきたいと思います。

高川山(山梨県)山頂からの富士山。雪化粧した姿を見るのはとても久しぶり。
いつまでも眺めていたくなるような美しさでした。

ハルシャニー


台湾瞑想専科を受講して

ヨーガを学ぶにつれ、もっと瞑想ができるようになりたい!と多くの方は思うでしょう。この度、本当に幸運なことに、サーナンダさんが台湾のグルバイのために瞑想専科を行なってくださいました。
6月4日から10月1日までの合計16回のクラスで、瞑想の基礎から、呼吸、心の仕組み、自分の理想、識別やバクティなどを学びました。みんなはヨーガの教えを学ぶことによって、あやふやな概念を明確にしたり、実習によって教えの内容をより深く理解したりしました。
今回、クラスで正しく学ぶことができて、参加者たちは本当に喜んでいて、感謝の気持ちでいっぱいです。その中の二人の感想をご紹介します。

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フェイジュン

以前からヨーガや禅に興味があり、それらに関する書籍をたくさん読んできました。しかし、次第に学びが進まなくなり、もう読みたくないと思うような状態がやってきました。

クラスでは、宇宙にはプラーナが満ちているので、人と人の間がどんなに遠く隔たっていても、繋がって触れることができると、サーナンダさんが話されました。そして瞑想する時、ヨギさんが側におられるように感じたことはありますかと聞かれました。それを聞きながら、心が揺さぶられました。プラーナは常にあり、幸福や愛というさまざまな形で空間に遍満しているように突然感じました。それと同時に、本をたくさん読んでも実感できなかった理由が分かりました。それはグルや先輩、仲間がいなかったからです。

講義ではみんなの質問や先輩の答えを聞くうちに、知識が増えたことはもちろんですが、自分のエネルギーが先輩や他の参加者のエネルギーと繋がったように感じました。教えの内容の真意が分かるようになって、瞑想も実践できるようになりました。仲間と一緒に学ぶことや、グルや先輩の言葉を聞くことが大事だと感じました。それによって、真理は書籍やスクリーンを通してありありと現れてきます。

予想以上の収穫をいただきました。参加できて本当に良かったです。とても感謝しています。

 

プラサーディニー

瞑想でよく眠くなる自分に悩んでいました。いい経験もありましたが、ほとんどが眠気との絶え間ない闘いでした。眠気がなくても、瞑想の深まりや進歩を感じることができませんでした。瞑想専科で、瞑想は努力で達せられるものではなく、信仰が必要になるということを聞いて呆然としました。私は教えに対する信仰が足りないのだろうか? 情熱が足りないのだろうか?

クラスが進んでいくに従い、幸福とは何なのか、自分がどのように生きていきたいのか、アートマン、愛や神についてなど、話が展開していく中で、私は自分の気付きに驚きました。教えを理解していると思っていましたし、至福に憧れを持っていると思っていましたが、よくよく見れば、心の奥にはこの世の幸福を強く掴みたいという思いがありました。何と、自分の中の一部はこの世の楽しみと苦痛を楽しんでいました。そのために、これまでたくさんの無駄な力を使ってきたということも。

一連のクラスは、一つの識別瞑想の過程のようでした。これまでこの世界に求めていた幸福は、もろくて価値がないものだと気付いてきました。自分がヨギさんの教えを信じ切っていなかったことが分かり、自分の内面がヨギさんから離れているということに、大きな苦しみを感じました。

でも、その後瞑想した時、自分の心がヨギさんでいっぱいに満たされたように感じて、自分の信仰はもっと堅固で確実なものになったと感じました。以前は、瞑想を学ぶ時、いつも具体的な方法を知りたがっていました。しかし、大事なのはテクニックではありませんでした。集中ができないのは、信仰が足りないからです。これからもっと信仰を深めて、瞑想も深まるように努力し続けていきたいです。

MYM台湾 MYM Taiwan


こうでないといけない、にとらわれず楽しく料理する!

ヨーガを始める前の私は、食べることが好き、というか空腹状態に不安を感じていました。ちょっとお腹が空くと何かを口にする習慣があり、お腹が空いている時間がほぼなかったのではないかと思います。
ヨーガを始めてアーサナ・クラスに通うようになってからは、まず食事に関するヨーガの考え方に衝撃を受けました。
アーサナの前後2時間は食事を摂らない方がよい、というのがそもそも無理で、クラスに通っていても最初の1年ほどは空腹感に耐えられず、クラス後割とすぐに食べていました。
しかしクラスに参加する度にこのままではいけないと思うようになり、次第に後ろめたさを感じるようになりました。
そしてある日のクラスの後、小1時間経ったし仕事の前に軽く食べておこうと思いおにぎりを食べたところ、急に激しい腹痛に見舞われました。もう二度とすぐに食べるのはやめよう!と決意し、同時に何を食べるべきかを意識するようになっていきました。

いざ食事と向き合うとなると、大きな問題が一つ。それは、料理に対する強い苦手意識です。いつも、作らなければという義務感が伴い、ストレスを感じていました。段取りを考えて作業をすることが難しく、特にレシピを見るのが苦手で、一度レシピを意識してしまうと一層手際良く作業することが出来なくなり、途中で料理することを投げ出したくなるほど疲れてしまうこともしばしばでした。
ヨーガの料理教室「さまらさの台所」のことを知っても、クラスに参加すること自体のハードルが高くて尻込みしていました。
それでも共にヨーガを学ぶ仲間が参加して楽しかったと言っているのを聞く度に気になるようになり、少しずつ前向きな気持ちになっていったので、勇気を出して参加するようになりました。
いざ参加してみると、予想通り失敗して迷惑をかけたと思われる状況にもなりましたが、フォローしてもらいながら楽しく調理に参加することができました。作った料理をみんなで食べるのは何より嬉しかったです。
ただ、参加する時は毎回緊張していたし、教わったレシピを家で作ることも気合を入れて臨まないとできない状態が続きました。さまらさのレシピだけがさまらさではないと聞いても、教わった通りにやらなければいけないという思いが常に頭の隅にあって、腰を重くしていたのだと思います。

近所の野川にて。春頃から繁殖期のためいなくなっていたカルガモが、久しぶりに戻ってきていました。

コロナ禍になり、「さまらさの台所」もオンライン受講する形になりました。
動画なので何度でも見ることができ、とても分かりやすく、見ているだけでも楽しくなるので、見る度に元気をもらえました。
食にまつわるお話も興味深いものばかりで、実際のクラスに参加しているのと同じように気付きや学びがあります。
ただ、いつでも動画を見て挑戦しやすくなるはず、と思っていたのに、気付けば「〜しなければ」にとらわれてしまっていました。教わってからしばらくはそのメニューを作るのですが、次第に作らなくなり「作らなければ」と気が重たくなってしまいました。加えて、コロナ禍になってこれまで以上に仕事が忙しくなっていたため、忙しいから動画を見たり作ったりする時間がないと自分で自分に言い訳をしていました。
せっかくのオンライン受講の良さを生かすどころか、このままでは以前よりも良くない状況になってしまうかもしれない…
もう何年も同じところをぐるぐるしていること自体にほとほと疲れてしまい、決心しました。とにかくやる!と。レシピ通りにやらなくていいから適当にやってみる。悟りへの大切な乗り物であるこの身体を良い状態に保つためにも、今度こそ真剣に向き合う。
そうして日々を過ごすようにすると、少しずつですが料理に対する力みがなくなって、適当にできるようになっていきました。
初めて料理と自然な形で向き合えるようになってきた気がしました。

それからしばらく経った今年6月。
「さまらさの台所」はパン作りでした。
レシピを見ると行程がいくつもあるのでこれは難しいかもと気構えていましたが、動画の中で講師のシャチーさんが楽しそうに軽やかな手付きでパン生地をこねているのを見ていたら、すぐにでもやってみたくなりました。
実際に挑戦してみると、これ以上は失敗出来ないだろうというくらい様々なトラブルが起きましたが、諦めず生地を大切に扱うことだけに集中。出来上がったパンは過発酵したこともあり、ちょっと硬くてそんなに膨らまなかったのですが、とにかく焼き上がったパンが可愛くて、嬉しくてたまらない気持ちになりました。

無事焼き上がり、夫に撮ってもらいました。緊張と集中がとけてホッとした顔をしてるなと思います…

苦戦しても最後までやり遂げられたのは、動画の力が大きかったのではないかと感じています。
シャチーさんにこねられている生地はどんどん艶やかに生き生きしてくるように見えてきて、手付きはすぐに真似出来なくてもこの感じをイメージしてやってみようと思えたのです。
2回目の挑戦の際には、動画にとらわれすぎないように自分のリズムで作るようにしました。1回目の時よりも作業自体を楽しむことができて、パンも少しふっくらしたのでほっとしました。

動画の中で、さまらさについての話がありました。始まった頃から関わられているシャチーさんのお話は興味深く、改めて「さまらさの台所」から学べることの多さや、ヨーガを実践していく上での料理の重要さを感じました。
何度も繰り返していくうちにいろいろなものにチャレンジしていけるようになること。繰り返しやることで慣れて身に付いていけるようになること。

お話の最後、「こうでないといけない、ということはない」という言葉には、本当にそうだと強く頷きました。「こうではないといけない」にとらわれたままでは、本当に大切なことを見失ったまま料理することになります。
教わったことだけが「さまらさ」ではなく、ベースはヨーガにある。大切なのは、自分のための料理ではなく、一緒に食べる人のことを考えて料理を作ること。みんなで歓ぶのが「さまらさ」。
何にもとらわれず自由に、食べる人たちのことを思い、食材を大切に作る。この上なくシンプルで、なんて素晴らしいのだろうと思います。

相変わらず仕事が大半の時間を占める日々ですが、以前よりも気楽に台所に立つようになりましたし、料理する楽しさを感じられるようになっています。手際良くとはまだまだいえないし、出来上がりをイメージしても作っても思っていたのとは違う料理になることも多々あります。それでもいちいち落ち込んだりするのがほぼなくなりました。
苦手なこと、できないことが上手くなるのは一筋縄ではいきませんが、その分伸びしろがあるはずと信じて料理を楽しんでいきたいです。

焼き上がったパン。手前が塩パン、奥がバターパンです。

ハルシャニー


キールタンの合唱動画ができました!

早速ですが、女神を讃えるキールタン「Bhajamana Ma (バジャマナ・マー)」の合唱動画ができました!

(フルバージョンはこちら

昨年よりバクティ・サンガムではオンラインクラスを行なっています。おかげさまで今年度は青森や東京、静岡、松山、台湾など、各地から多くの方が参加してくださるようになりました。キールタンの醍醐味の一つはみんなと一緒に歌うことにもありますが、現在のオンラインシステムでは、残念ながらそこまでの機能はなく、歌をリードする人の声を聞きながらミュートの状態でキールタンを歌っていただいています。

オンラインクラスにもやっと慣れてきた数カ月ほど前、“やっぱりみんなでキールタンを合唱している動画を作りたい!”  “きっとみんなもそれを聞いたら喜んでくださるはず!” という思いがムクムクと湧き上がってきました。いつも参加されている方の中から希望者を募り、月二回のそれぞれの会で動画を作ってみることにしました。初めてスマホで作ったのでいろいろアラが見えますが(汗)、動画が出来上がった時は、たとえ場所が離れていても、こうしてみんなで神の御名を一緒に唱える機会が与えられているということ、また神の御名を共に讃えることのできる仲間がいることを改めて感謝するとともに、みんなの弾けるほどのプラーナ(気)を感じて、感激しました。

キールタンを歌っている時は、神の御名の光を全身に浴び、参加されている方一人一人がキラキラと輝いていて、本当に美しい! そんなみんなを見ると、とても愛おしく感じます。
あぁ、このみんなの、神への熱く純真な思いが、この生き生きとした美しい笑顔が、どうか私たちの最愛の師に届きますように!

ぜひ動画を見ながら、一緒にキールタンを歌ってみてください。そしてもっと歌ってみたくなった方は、ぜひバクティ・サンガムにご参加くださいね!

ミラバイ

 


台湾の近況ーー「夜明けの来ない夜はない」

1年半の無事安穏な生活を経って、予期せず、台湾でのコロナ状況は突然に悪化して、5月中旬に第3レベルの警戒態勢に入りました。私たちは初めて在宅勤務やステイホームを経験しました。集まることができなく、しばらくアーサナクラスや読書会は休んだのですが、6月からオンラインクラスが行なわれ始めました。

台中市。自宅からの雨後の景色。

オンライン・アーサナクラスの場合、家の空間でマットを敷き、Zoomに入室し、プラサーディニーさんのリードの声を聞きながら、アーサナをします。クラスを受けるみんなは同じ場所にいませんが、同じ振動とプラーナを共有しているようで、すごく集中力があり、パワーに満ちているように感じます。

読書会も、パソコンの画面を通してもみんなの分かち合いを楽しむことができました。台北は月1回、台中は2ヶ月1回読書会を行ないます。コロナの影響にもかかわらず、みんなは同じようにオンラインで参加します。それは、ヨーガの教えが移り行く人生の中の大事な支えと感じるからでしょう。

さらに幸運なことに、このような時期にオンライン瞑想専科がスムーズに始まりました! サーナンダさんは毎回のテーマに沿って瞑想の基礎から教えてくださいます。学びながら、瞑想で生じた質問にもすぐ答えていただけるので、一歩ずつ瞑想を探究していくことができます。

揺れる世界環境の中で、私たちはヨーガの教えに則って、ヨーガ行者の揺るぎない心に少しずつ近づいていこうとしています。ヨーガは時間、空間、条件を超えることを改めて確信しました! 同時に「夜明けの来ない夜はない」と師のヨーギーさんが教えてくださった言葉を信じています! そして、みんなに会える日を楽しみにしています!

ある日の瞑想専科の前、虹がかかりました🌈

マールラー