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『マハーヨーギーの真理のことば』第八章 部分と全体を同時に見る集中力

私は三人の子どもを育てている主婦です。特に下の二人は幼稚園児の男の子で、毎日元気いっぱいです。一家五人の洗濯、掃除、炊事、幼稚園や学校との連絡など、やることはたくさんあります。家の中では、子どもたちが仲良く遊んでいる時もあれば、喧嘩をする時もあり、てんやわんやの毎日です。

『マハーヨーギーの真理のことば』にこんな質問者の問いがありました。

ー子供は凄くパワーがあって、あちこち動き回ったり、ずっとおしゃべりしています。家事などやらなくてはいけない仕事が多くて、本当は一つ一つ丁寧に仕事を熟したいのですけれども、全体も見ないといけない。ヨーガを深めていくと視野がどんどん広くなっていくということも聞いているのですが、どうすればいいのでしょうか。

この質問者が置かれている状況と、私が置かれている状況は一緒だなぁと深く共感しました。この質問に対して、マハーヨーギーはどのように答えられているのか、とても興味がわきました。

すごくヨーガ的だと思うんですね。(中略)それをどのようにしてうまく熟していけるかということは、やっぱり集中力です。
集中力というと、つい目の前のことだけに集中して、他のことが見えないというふうになりがちですけれども、そうではなくて、この両方の集中力を同時に発揮させるということ、それはヨーガの力でできるはずなのです。ヨーガの力というのは具体的に言うと、呼吸のあり方というか、呼吸の長さのことです。心がちょっと動いたり動転したり、刺激を受けたりすると、せっかく落ち着いていた心も乱れることがありますね。でも集中している時の心というのは、非常に落ち着いた深い呼吸になっていて、注意、集中力をいろいろ動かしても、あるいはまたいろんなことが起こって刺激として飛び込んできても、呼吸のリズムが乱れることなく、同じ状態でいられる。そうしたら結構うまく対処ができていくと思います。呼吸と心の集中力を養うためには、もちろんヨーガが不可欠だということにもなりますけれど、それはアーサナだけではなくて、瞑想とかヨーガ全体のことです。だから常々にそういうことをしておくことは、もちろん大事なことです。そしてもう一つは、その現場、今は日常の、子育ての一日一日の中でそれを訓練していっていると思って取り組んでいけば、きっとそのうちに見え方が違って来ると思います。

私は週一回ヨーガのクラスに通うようにしています。ヨーガを続けていくうちに、呼吸が調い、心が落ち着いていっているのを実感しています。だから、このマハーヨーギーの答えにとても納得がいきました。呼吸が調えば、心が落ち着き、おのずと集中力が養われていくーーーヨーガのおかげで、外から飛び込んでくる刺激に心が惑わされにくくなっていきました。

松山のヨーガ・サーラ・スタジオでのクラス。

例えば、子どもの兄弟喧嘩はそれぞれが感情むき出しで、怒りのエネルギーを爆発させます。その現場に居合わせて、自分の心が巻き込まれてしまうと、頭ごなしに叱ってしまいます。けれど、集中力が深まっていくと、自分のエゴを押し付ける前にブレーキがかかり、それぞれの子どもの中にある本質を同時に見極めようとするようになってきました。すると、私が余計な干渉をせずとも、子どもたちは自分に備わっている力で喧嘩を治められることに気がつきました。そして、必要な時には、後回しにせず子どもの気持ちを聞いて受け止めるようになりました。集中力が高まると、瞬間瞬間で今するべきことを判断する直感力がついてきたように思います。

ヨーガに取り組むことで図らずとも結果的に、円満に子育てをできるようになってきていると感じています。世界の見え方を変えることができるヨーガは本当に確かな道なのだと実感しています。性別、年齢、置かれた状況にかかわらず、万人にひらかれたヨーガの道に深く感謝するとともに、これからもヨーガをしながら子育ての一日一日を集中して取り組んでいきたいと思います。

 

井上江理


力を与えてくれるヴィヴェーカーナンダの言葉

インドの聖者、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、数多くの力強い言葉を残されています。

『立ち上がれ、目覚めよ』は小さな本ですが、ヴィヴェーカーナンダの力強いメッセージが凝縮されていて、私は幾度となくこの本を開いています。

まず自分を、それから神を信じよ”

日々悩みや苦しみに翻弄されている自分に自信が持てず、これでヨーガを実践しているといえるのかモヤモヤしていた時に目に飛び込んできたのが、この言葉でした。
「神」「真理」「真我」と呼ばれる、永遠に変わらない純粋そのものである存在が、誰もの中にある。
そう教わる度に心底安心して、それだけになりたいという思いが湧き起こるのですが、気持ちが落ち込むと、私にはできないという思いの方が勝ってしまう状態でした。
この堂々巡りから抜け出したくて、ネガティブな思いが湧いたらこの言葉を呟くことにしました。最初はただ呟いているだけでしたが、続けているうちに胸の奥の方に意識が集中されて熱を帯びてくるようになり、その体感しているものが、「神」と呼ばれる存在なのかもしれないと思うようになりました。気付けば自分自身を、そして神を、確かにあると信じられるようになっていました。


しかし、実践を続ける中では葛藤することや悩むことが度々起こります。そんな時、勇気を与えてくれるのがこの言葉です。

失敗を気にするな。それは自然なことだ。失敗——それは人生の美だ。失敗のない人生などありえない。もがき苦しむことがなくなれば人生に意味はない。…苦しみや間違いを気に病むな。…これらの失敗や小さな後退を気にするな。千回でも理想を掲げよ。そしてもし千回失敗したら、さらにもう一度チャレンジせよ”

失敗してしまった時にこの言葉を思い出すと、目の前にヴィヴェーカーナンダが現れて、私の手をぐっと引っ張ってくれるように感じるのです。
落ち込んだ気持ちはリセットされて冷静になり、失敗した出来事と真理の教えとを照らし合わせ、何が原因だったのかを見付けて、もう一度やってみようと思えるようになります。
たとえそれでまた失敗したとしても、この言葉の通り、千回でも理想を掲げてまた挑戦すればいい!
私にとって最も気合が入る言葉かもしれません。

先日『立ち上がれ、目覚めよ』を読み返したら、これまであまり気にならなかった言葉が目に留まりました。

愛に失敗はないのだよ、君。今日であろうと、明日であろうと、何十年後であろうと、真実は征服する! 愛は必ず勝つ。君は仲間を愛しているか?”

愛とは純粋に、ただ相手の幸せのために自らを捧げること。
そこには失敗か成功かなどということは一切なく、ただ愛があるだけ。
ハートをギュッと鷲掴みにされたような感覚になりました。 

また、初めは仲間というのは共に真理へと続く道を歩む人たちのことを指していると思っていたけれど、何度も読み返すうちに、仲間とは、全ての共に生きる人たちのことを指しているのではないかと思うようになりました。
目の前にいる人かもしれないし、遠く離れた場所にいる人かもしれない。
それぞれの人にとって大切な人たちを愛し、その幸せを願い行為することで、不可能なことも可能にする力が、きっと生まれる。
ヴィヴェーカーナンダも、そのように人々を愛し、彼に愛された人々も彼を愛し、それが大きなうねりとなり、数々の仕事を成し遂げられたのかもしれない。

今生で出会えた愛おしくて大切な仲間たちと共にいられることがどんなに吉祥なことか。私はこれまで以上にそれを実感しています。
1人でできることには限りがあるけれど、仲間がいることでできることは無限大に広がっていくと信じています。

少しでもヴィヴェーカーナンダに近付けるように、行為していきたいです

 

ハルシャニー  

 


アーサナの効果

京都に住む娘は現在28歳で、看護師として在宅の患者さんを訪問し、サポートする仕事をしています。当然ながら彼女は、私のことを28年間家族として間近で見てきたわけですから、私がヨーガに出会ってから、どのように変化してきたかを一番知る人物といえます。

娘にはこれまで、「ヨーガは良いから、やるといいよ。やったら、良さがわかるから」というような誘い文句でヨーガを勧めてきました。実際に、彼女自身もヨーガに触れる機会はありましたが、コロナ禍をきっかけに足が遠のいている状況が続いています。

そんな中、2023年5月から娘のところに泊まる機会が増え、今では月に1〜2回は必ず泊まり、その時には昔話や仕事、家族のこと、趣味や友達の話など近況を話すのですが、いつの頃からか、最後には必ずヨーガの話になって、夜遅く、時には明け方まで、笑いあり涙ありで語り合うようになりました。ある時、娘が私のことを「昔とは違って、許容範囲が広がって、どんどんキャパが大きくなっていってるのがわかるよ」と言ってくれたことがありました。その頃から、これまでとは違い、年齢や親子という枠を超えて、より親しく話せるようになったと感じています。

12月に宿泊した時のことです。仕事で患者さんと接する時のことについて

娘 「患者さんのいろんな言動や行為を見て判断していることは、私の心が判断していることだから、それは見ないで、相手に必要なことだけを見て援助するようにしているんだ」
私 「すごいね。それヨーガじゃん」
娘 (驚いた様子で)「えっ!それヨーガなの?」
私 「そうだよ。そうやって、目の前の人に行為していく。でも、そうだな・・・(一瞬考えて)できたら、アーサナをやるともっといいけどなぁ」
娘 「アーサナの効果は何?」
私 「そうだなぁ・・・(自分が体感している効果の中から、娘にいいものを、と考えて)自覚しているかどうかは別として、誰しも身体には疲労や歪み、偏りのようなものがあると思う。その状況がマイナスだとして、しばらくアーサナを続けているとそのマイナスが、アーサナしたらゼロになる、アーサナしたらゼロになるを繰り返すようになる。またしばらく続けていたら、どんな時もゼロでいられるようになって、またしばらく続けていたら、ゼロがたまに1になることがある。そうなった時、たった1だけれど、その1の分、余裕のようなものが生まれて、それが優しさや思いやりとなって行為することができる。そんなふうにアーサナが私の背後をしっかりと支えて、そうして支えられた行為は、相手に喜んでいただける行為となるよ」
娘 「はじめてアーサナの効果が分かった」

娘がすんなり納得したことに驚きました。これまで、何一つ伝えられていなかったけれど、やっと一つ伝えられたことに安堵しました。そして、体得したものでなければ伝わらないという事実でもありました。

私がこれまで行なっていたアーサナは形を真似たもので、体調を管理するために行なっていたように思います。しかし、オンラインクラス「アーサナの秘義」の受講をきっかけに、自宅でのアーサナでプラーナ(気)と背骨の関係を体感し、その日以来、アーサナの取り組み方が一変しました。
効果や変化が実感できなくても焦らないで、プラーナの働きを信じて、真摯に身体と向き合いながら、丁寧に行なうようになりました。すると、アーサナ中に必要なことが直感されるようになり、直感したことを実践すると驚くほど速やかに身体の状況が修復され、滞りがなくなり、さらにアーサナが深められるようになっていきました。

私が感じているアーサナの効果は驚くほどに広範囲です。日常の生活、仕事すべての行為が丁寧に感謝をもって行なうことができるようになります。これまでの価値観は一変し、上手くいかなかったことは、すべて自分の至らなさであると心から受け止め、自らを修正する力に注ぐことができます。が、しかしそこには多少、忍耐力が必要となります。その忍耐力さえもアーサナによって自然と培っていくことができます。

アーサナをすることによってヨーガの歩みは力強く加速し、自分の理想とする人間像を明確にし、それに向かって正しく努力できる叡知と方法が誰にでも開示されると確信しています。

私のアーサナを見守ってくれる大好きなシヴァ神。

山口正美


円満であるために 〜献身奉仕の実践〜

人懐っこくて、誰とでもすぐに仲良くなれる。
周りをよく見ていて、困っている人がいたらさっと手助けする。
ナンディニーってどんな人?と聞かれたら、そう私は答えます。

ナンディニーがMYMのクラスに初めて参加したのは、2008年。
すでにMYMのクラスやサットサンガに参加していた友人から、「夢から覚めた人に会えた」と聞き、なぜかその言葉に感動し、嬉しくて涙が出たそうです。ちょうど心身ともに不調を感じていたこともあり、体調を調えたくてヨーガ・瞑想クラスに通い始めました。

元々、神さまのことを知りたかったナンディニー。祈りや信仰が確かにあるということを誰かに肯定してもらいたい、いつか信仰について誰かに教えてもらいたい、と思っていたそうです。
師の教えをまとめた『ヨーガの福音』を読み、信仰の大切さを知ることができた時、とても安心して、京都にいる師に会ってみたいと思うようになりました。

そして、2009年10月、師と初めてお会いすることができました。
マハーヨーギー・アーシュラマで師のお姿を拝見し、嬉しくてたまらなくなってニコニコしていたナンディニーを、師はしっかりと見つめてくださいました。その瞬間身体が熱くなり、その時は見つめられて照れたことで熱くなったと思っていたけれど、後に師から祝福を与えられたのだと思いました。
その後師にお会いするうちに、誰に対してもにこやかで優しく真摯に接されている師の周りは、いつも円満であることに気付きました。その境地に憧れ、目の前にいる人に寄り添い、その人が本当に必要なことができるようになりたいと思うようになりました。

 
ナンディニーの部屋にある祭壇

そんなある日、ナンディニーは「本当の献身奉仕とは何か?」を考え始めます。
当初は、「本当の献身奉仕」をするには自分を犠牲にしなければならない、義務のようなものだと感じていました。
しかし実践する中で、あらゆるものの中にある、真理・真実・神と言い表される純粋な存在が愛しくて、自らを他者のために捧げずにはいられなくなることが、「本当の献身奉仕」ではないかと思い至りました。

自らのエゴを一切なくして空っぽになることで、神への愛、信仰でいっぱいになる。そうすれば、純粋な愛そのものである師がなされていた、「本当の献身奉仕」ができるようになる。

そうなれるように、ナンディニーは日々実践を続けています。
長年続けているヘルパーの仕事においては、利用者さんのためにできることを行ない、家族に対しては介護や看護などを積極的に行なっています。

これまで以上に多忙な日々を送っているナンディニー。
「家族であっても他人であっても、同じように他者へ奉仕したい」
そう語る彼女は、以前よりもさらに人懐っこさがパワーアップして、目の前にいる人たちへの愛で溢れているように見えます。

それは、ナンディニーが憧れている円満な境地に向かって、一歩一歩着実に進んでいっている証だと思います。

 

ハルシャニー  


「カルマ・ヨーガ」に救われて

「カルマ・ヨーガ」という言葉を聞いたことはありますか?
カルマ・ヨーガとは、働きのヨーガを意味します。日々の働きの中で利己心を無くし、他者への献身奉仕によって神に至る道のことです。19世紀のインドの聖者、ヴィヴェーカーナンダによって世界に広められました。
『カルマ・ヨーガ 働きのヨーガ』はヴィヴェーカーナンダが、1895年末頃にニューヨークで行なった講演をまとめた本になります。

ヴィヴェーカーナンダ 1895.New York.

私が初めてこの本に出会ったのは、2019年のことでした。ヨーガを始めて間もなく、研究者としてのキャリアに壁を感じ、悩んでいた時期でした。

「自分のいまの状態に対する責任は、自分にあります」

『カルマ・ヨーガ 働きのヨーガ』 21ページ(版によってページが多少異なります)

ヴィヴェーカーナンダのこの言葉は、その時の私に落雷のように響きました。この言葉によって私は、その状況を受け入れ、前を向いて進んでいくことができました。そしてその後も、仕事で悩んだ時、何度となくこの本に救われてきました。最近もこの本に救われることがありました。

一昨年、私は5年間働いた大学院での研究職を辞め、企業に転職しました。その際、ヨーガと仕事のバランスをどう取るか悩むことがありました。「働く時間を減らし、もっとヨーガに専念できないだろうか」と考え、家族にもその思いを伝えました。しかし、家族の反応は厳しく、「父親としての責任を果たさないのであれば出て行ってほしい」とまで言われました。「なぜこの気持ちを理解してもらえないのか」と悩み、すべてを投げ出してしまいたい気持ちにもなりました。そんな時、再びヴィヴェーカーナンダの言葉が道を示してくれました。

「彼(家住者)はこれらのものを獲得するために奮闘しなければなりません――第一に知識、そして第二に富、それが彼の義務です。そしてもし彼がこの義務を遂行しないのなら、彼は何者でもありません。富を得るために努力をしない家住者は、不道徳です。もし彼が無精で怠惰な生活を送って満足しているなら、彼は不道徳です。幾百人が彼を頼って生活しているのですから」

「家住者は、生活と社会の中心です。富を得てそれを高貴な形で費やすのは、彼にとっては一つの礼拝です」

『カルマ・ヨーガ 働きのヨーガ』52~53ページ(版によってページが多少異なります)

私はこの教えを胸に、仕事に向かう姿勢を変えていきました。アーサナや瞑想だけがヨーガではない、働くこともヨーガだと考えるようになりました。その際、結果に執着せず、自分の成果だと思うこともなく、すべてを神に捧げることが大切だと思っています。

また、師からかけていただいたこの言葉にも助けていただきました。お守りのようにいつも胸に留めています。

「本当のやるべきこと、生まれてきて本当にやるべきことはこれなんです。この本当の自分を実現することなんです」

「その上でこの世で培ったノウハウというか、個々人における得意な、あるいは関心の深いものは、仕事としてそれなりに従事していけばいい。あとはその仕事の内容を制御していくというか、もちろん全く手を抜いてさぼってしまうということではなくて、精度を上げて、その研究分野で集中を高めていくことによって時間の短縮も起こるでしょうし、またそれなりの成果も生まれてくると思いますし、結果、良い論文も書けていくのではないかと思いますから、その辺の整理をクリアにすれば、これから進めやすくなっていくと思います」

PARAMANHAMSA No.139 2020.5.20

この言葉は、2019年のサットサンガで、仕事の悩みを師に相談した時にいただいたお答えです。「研究こそ私の人生」と考えていた私に、人生において一番大切なことは、真理を実現することだと教えてくださいました。また、どのようにして仕事とヨーガのバランスをとるのかについても具体的に教えてくださいました。その後、6年が経ちましたが、師のお言葉通りの道を進めていることに、深く感謝しています。

私は今、企業の研究員として働きながら、家庭では父親としての役割を果たしています。家族や身近な他者に尽くすことは私にとってヨーガとなりました。自分が置かれている環境や周りの人々への感謝を忘れることなく、真理の実現に向けてヨーガを続けていきたいと思います。

昨年の6月に我が家に来てくれた、子犬のコパ君です。私も散歩係りとして頑張っています。

島本 廉


『マハーヨーギーの真理のことば』第一章「愚痴は心を汚す」

ヨーガを学ぶ前までは愚痴を言う行為に何の違和感もなく、むしろ愚痴を吐き出してストレスを発散し、その方が気分が軽くなり日常が上手くいっていると思っていました。
ヨーガを学び始めてからこの行為は新たなカルマを生むことを知ってからは、愚痴は言わない、言いたく無いと思うようになり、できるだけそれが寄ってきそうな場を避けていました。

しかしある日、私は気心知れた友人と話している時に、少しクセのある人に対する愚痴をこぼしていることに気づきました。
その友人は、よっぽど大変だったんだねと、同情するように聞いてくれました。
ところが私の心は、聞いてもらってすっきりしたとか、気分が軽くなったという感じは無く、愚痴を言ってしまったという後悔が心に残ってしまいました。

その日、『マハーヨーギーの真理のことば』を開くと、「愚痴は心を汚す」という教えが目に入ってきました。

愚痴を言うことでストレスが発散できていると思っているのは大きな錯覚です。そうではない。そういう習慣を付けることで、心はそれに染められてしまっているわけです。だからそれが癖付けられたら、しょっちゅう愚痴を言おうと心が思ってしまう。心そのものが愚痴で汚れてしまう。心の内容そのものが愚痴になってしまっている。でもそんなことを理屈で言っても、なかなか頭の理解では心は変わらないからね。心を変えようと思えば、呼吸を変えないといけない。呼吸を変えるためには、体をアーサナによって調えていくのがやりやすい。

『マハーヨーギーの真理のことば』第一章 67頁

私はいつもこの友人の前では甘えが生じて、しょっちゅう愚痴を言おうとしている心の動きが見えました。
自分の心だけではなく、愚痴を言うことで相手の心まで汚してしまっていることに気づき、その日せっかく会えた友人や愚痴を言ってしまった人に申し訳ない気持ちになり、反省しました。

頭では愚痴を言ってはいけないと分かっていても、心はある一定の条件が揃えば元の習慣に戻ろうとします。
注意深く心を観察し、踏み止まるには、日頃行なっているアーサナの力と呼吸、聖典を読むことで調えられ、心そのものが変わるのだと信じています。

口から出る言葉は真実だけを語り、真実だけに染められたい。
愚痴など寄せ付けないぐらいの情熱をもってヨギさんが導いてくださったヨーガの道を歩んでいきたいです。

玉井眸


ブジャンガ・アーサナで心身を目覚めさせる

今年は巳年。 

ブジャンガ・アーサナ=コブラの形は、ヘビを模したポーズで、鎌首をもたげるヘビのように、うつ伏せの状態から上半身を反らせて形を作ります。

 MYMのクラスに通い始めた頃、私は首を痛めており、背骨を反らせると腕に痺れが出て、息を吐くのも吸うのも苦しく、ブジャンガ・アーサナに苦手意識を持っていました。 
クラスでは、手の動かし方、手をつく位置、視線の動かし方など、一つ一つの動作を細かく教わり、焦らず丁寧に背骨を一節ずつ反らせていくように、とアドバイスを頂きました。 
できる範囲で続けるうちに、背骨を反らせても痺れが起きることはなくなり、息をしっかりと吐き切れるようになりました。形を保持するのは楽ではなかったけれど、ブジャンガ・アーサナを行うと身体がシャキッとする感じがして、アーサナをするのが楽しくなっていきました。 
昨年から始まった、パラマハンサ会員対象の講座、「アーサナの秘義」の中で、ブジャンガ・アーサナは心身を目覚めさせるというお話を聞いて、まさにそうだ!と思いました。 
 

東京・国分寺クラスでは、定期的にブジャンガ・アーサナの作り方を細かくお伝えしていますが、説明なしで行う時よりも皆さんの集中感がぐっと増すように感じます。 

先日の今年最初のクラスでも、今一度作り方を説明してからブジャンガ・アーサナをやってもらいました。皆さん一つ一つの動作を丁寧に行っていて、いつも以上に保持時間を長めにしても、最後まで集中力を保たれていました。終わった後のシャヴァ・アーサナはとてもリラックスされて、皆さんのプラーナ(気)が調い、充実しているように感じました。 

講座「アーサナの秘義」で、繰り返し教えてくださっていることがあります。 
 
時間は連続しているようだが、私たちは刹那を生きている。過去のことを悔やむ、未来を憂うのは、今という瞬間を生きていないから。 

心の様子や体の状態は時間の経過と共に変化するもの。それに囚われず淡々と集中して実践していく一つのアーサナでもいい、常に新鮮な気持ちでアーサナと向き合っていくことがとても大切。 

そうすることで、アーサナ中の一呼吸一呼吸の中に生きていけるということを、心身に覚えこませている感じになる。 

それこそが「今を生きる!」ということになり、今・今・今・・・の連続が未来を作っていく。

今年はこれまで以上に真剣にアーサナを実践していきます。
特にこのブジャンガ・アーサナをしっかり行って心身を目覚めさせ、今この瞬間を大切に生きることができるようになりたいです。

ハルシャニー  

 


2024年 アーシュラマのお掃除&振り返り

2024年も残すところ数日となりましたね。
皆さま、年の瀬をいかがお過ごしでしょうか?

先日は、師シュリー・マハーヨーギーの生家であり、私たちマハーヨーギー・ミッションの拠点でもあるマハーヨーギー・アーシュラマの掃除をさせていただきました。
8人のグルバイ(仲間)で表の格子を外して掃除を行ない、きれいになったピカピカのガラス戸を見てとても清々しい気持ちになりました✨
後で気付いたのですが、掃除の最中、身心は快活で寒さや重さを感じていなかったなと思い、比較的暖かい日中だったとはいえ、「寒い日でも動くっていいな〜」と感じられた年末のお掃除でした。


さて、2024年の私の目標は「サナータナ・ダルマ(永遠の真理)の樹立」でした。
壮大なテーマでしたが、私は春・秋にこのマハーヨーギー・アーシュラマでのワークショップや、京都・大阪での瞑想入門のクラスを担当させていただき、僅かながらサナータナ・ダルマの樹立に向かって前進することができ、自らもダルマ(真理)で満たされていく感覚がありました。
私自身、ヨーガの活動の楽しさや歓びを感じた1年であり、それはクラスなどの表に出る活動だけではなく、掃除もそうですし、さまざまな集いやミーティングも増えてヨーガの交流が活発になり、改めて目覚め・芽吹きの1年だったように感じました。

そして2024年は、マハーヨーギー・アーシュラマの開設48周年でした。
当時ヨーガがほとんど知られていない1976年に師がお一人で伝道を始められ、その地道な活動を礎(いしずえ)に、その後弟子たちが外でクラスを展開して今に至ります。
マハーヨーギー・ミッションは継続してずっとヨーガ(真理)を伝える活動をしていますし、来年はもっと活動をしていく年になっていくと思います!!
私自身もよりアクティヴに行動していきたいと思っています!!

最後になりましたが、今年もブログ「ヨーガを生きる」をお読みいただき、まことにありがとうございました。
来年はミッション活動をはじめ、師が体得し継承されたアーサナの弟子の実践談、またサナータナ・ダルマの樹立に生涯を捧げたスワーミー・ヴィヴェーカーナンダについてのブログを積極的に掲載していきたいと思っています。

では皆さま、どうぞよいお年をお迎えください😇🙏

ゴーパーラ


『マハーヨーギーの真理のことば』第一章 生きる秘訣

師シュリー・マハーヨーギーと出会って、私は生きることがとても楽になりました。
師は「生きる秘訣」を教えてくださいます。

生きていると様々な人に出会いますが、もし気の合わない人や嫌いな人がいたら、どう接しますか?
できるだけ関わらない(冷たい態度)、嫌いな点を指摘する、悪口を言う、良い所を探す、嫌いな人ほど優しくするetc
いろんな接し方や処世術があるかもしれませんが、師は秘訣として「無視すること」を教えます。
それは単に相手を無視することではなく、「相手の表面性や自らの思いを無視して、本質だけを見る」ということを説かれます。

私の秘訣はね、そういうものに取り合わないこと。無視する。気の合わない人だけを無視するのではなくて、気の合う人があったとしても無視する。両方を無視する。つまり表面的なカルマみたいな心の様子というものは気にしないこと。それでいて、どのような人であってもその本質は不異(おなじ)であるというーー魂とか本体は同じ、違いはない。違うのはその魂を包んでいるような心、これがただみんな色合いが違うだけだということを知っているから、疲れない。だからどのような人であっても、気が合うとか合わないとかいうことを感じたとしても、そのことを忘れるようにして、その人の本質だけを見るようにして接すればいいと思う。

『マハーヨーギーの真理のことば』第一章 P 51

私自身、この教えを知ってすぐに目から鱗が落ちたかと言えば、そうではありませんでした。
生きていく中で、ちょっとした誤解や嫌悪感からいざこざになり、もうこの人はあかん、合わない、嫌いだと思うことが何度かありました。
でも多くの方たちはそんな後でも、あとぐされなく私に接してくれて、私自身すごく救われた感覚が何度もありました。
そういった経験をする中で、師の教え–––決め付けや一時の好き嫌いの感情に執らわれない、つまりそれらを無視して本質だけを見ていくことが自分にとっても相手にとっても、さらには周囲の人にとっても平安や調和がもたらされると感じるようになっていきました。

好きも嫌いも、過去の未練も未来の不安も、二元的なことは全て忘れて、誰もの中に在る一なる尊い本質だけを見て、師のように強く凛として生きていきたいと願います。

ゴーパーラ


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ⑫

インドの細密画に近いイメージでずっと描いてきた中で、日本画のようなヨギさんを描いてみたい、そう思って描いたうちの1つが今回ご紹介する『Paramahamsa』No.35の表紙絵です。

ヨギさんはインドのものだけではなく、日本や欧州の美術・デザインにも造詣が深くあられました。ヨギさんからはたくさんの方のお名前をお聞きしたように思います。そして、思いついたことなど、何を質問してもお答えいただけるのがいつも驚きでした。

その当時、私はヨギさんに図書館で美術書をよくご覧になっていたとお聞きしたことがあったと記憶していました。
そこで改めてシャーンティマイーさんにお聞きしてみると、図書館から白隠禅師や俵屋宗達、またその他、多くの巨匠の美術書をシャーンティマイーさんがよく借りてきていたそうなのです。ヨギさんはそれをご覧になっていたのですね。
そして、ヨギさんがおっしゃったことを教えていただきました。
本屋に行けば手軽に買える絵画のペーパーブックもあるけれど、そのようなものは色も出ていないし、安易に買ってはダメ。でも美術書なら色目もしっかりと表されている。本物を見ないとダメ。そう教えていただいたそうで、図書館から借りてくるという流れになったということでした。また展覧会などには、お母様とよく足を運び、度々本物に触れて来られたそうです。

これまで、ヨギさんが何かを選ばれるものを数少ないながらも見せていただいて、本当に良いものをご存知だからこそ、いろんなもので埋もれている中から、本物を見つけることができるんだと思ったことがありました。何事もあまり深く物事を探究せず、本物に触れることが少なかった私でも分かるくらい、ヨギさんの物を見る目は特別に感じられました。

私が描いたものは日本画というには申し訳ないほど、程遠いものではありますが、新たなヨギさんに触れていただけたら嬉しいです。

そして、今週土曜日、23日はいよいよ師の御聖誕祭です。きっと多くの人が心待ちにされていることでしょう。当日に参加できる方も、できない方もいらっしゃいますが、ヨギさんへのみんなの愛がいっぱい詰まった祝祭になりそうな予感。とても楽しみです!

シャチー