日常のヨーガ」カテゴリーアーカイブ

師の御姿

先週10月25日(火)のプレーマ・ヨーガサークルでの特別サットサンガの様子が、赤阪さんからブログにアップされましたが、私もスタッフ(カメラマン)として参加させていただきました。

たくさんの方が参加され、ブログにあるように本当に素晴らしいサットサンガでした。その中で、私が最も印象に残ったことは、師の御姿でした。

師は、参加者の質問にお答えになる形で、ヨーガのエッセンスを詳らかにほんとうに丁寧に、誰にもわかる優しい言葉で説き明かされました。私は師に出会って28年になり、その間たくさんのサットサンガで同じように師の御姿を拝見してきましたが、この時は教えを説かれる師の御姿に感動して、一瞬撮影を忘れて魅入ってしまいました。

何と見事に真理を平易な言葉で説き明かされるのだろう!何と驚くべき!このような機会に果たして次はいつ巡り合えることか!と、目を見張り、思わず胸を打たれ、その御姿に魅入ってしまったのです。

伝説によれば、かの偉大な覚者ブッダの説法には、弟子や信者ばかりか、森中の動物たちが集ま
り、肩を寄せて耳を傾けたと伝えられていますが、かくやあらん!と家に帰ってから、何度も思い出していました。吉祥な瞬間に巡り合わせていただいたことを、師とスタッフの皆さん、そして参加者の皆さんに本当に感謝いたします。

さて、今月11月は、6日(日)には京都で特別サットサンガがあります。そして、23日(祝・水)には、師の御聖誕祭、MYM40周年祭があります。

またさらなる素晴らしい吉祥な縁が育まれることでしょう!

オーム・タット・サット オーム!!!

サーナンダ


お弁当でつながっている

昨日の仕事中、持っていったお弁当を食べようとふたを開けると「何食べんの?見せて」と言われました。

 

介護の仕事で訪問しているその方は、半年前に心が折れてしまい、食事が咽を通らなくなりました。生きるか死ぬかという壮絶な期間を経て、少しずつですが食事を始めています。

 

食事をとらなくなる前、「何食べんの?見せて」「これ食べてみる?美味しいで」は勤務に入る度、何年も交わされた会話。でもある時から消えてしまい「お弁当食べたい?」と聞いても「いらん!」あるいは返事もしてくれない期間が長く、長い間尋ねることもなくなっていました。そして突然の復活!驚きと嬉しさがこみ上げました。

 

お弁当を見せると「これ欲しい」と言われ、万遍の笑みで「美味しい!」と食べてくれました。

 

何ヶ月も私のお弁当を欲しがることはなかったけれど、それでも毎回お弁当を作るとき、頭のどこかで、これ好きかな?食べたいかな?食べられるかな?と思いながら、彼女がいつでも食べられるようにお弁当を作っていたことに気がつきました。
昨日のおかずも、彼女が好きなものだったので、「美味しい」と言ってくれたのだと思いました。

 

気がついたら涙をこぼしながら笑っている私を見て、彼女も笑っていました。


ヨーガの醍醐味 ギャーナ・ヨーガ

今月10日に発刊された『パラマハンサ』、みなさんは読まれましたか?久しぶりにヨーガの醍醐味シリーズが再会しましたね。ご存知ない方もおられるかもしれませんが、『パラマハンサ』では2008年〜2009年頃にも連載がありました。私がちょうど『パラマハンサ』を購入し始めたのもこの頃です。
ヨーガには、ラージャ・ヨーガ、ギャーナ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、カルマ・ヨーガと4つの特徴的な道がありますが、それぞれ連載がありました。そのころ私はヨーガの教えの理解が乏しく、4つのヨーガの特徴も理解できておらず、教えがこんがらがっているような所がありました。また、ヨーガの教えを具体的に実践するということがどういうことなのかが分かっていませんでした。
ヨーガの醍醐味を読むと、先輩方の体験とともに、どの教えを元にそれを行ったのかが具体的に書かれてあり、教えを実践するということがとても分かりやすかったのです。自分のヨーガの歩みにとても助けになり、毎回楽しみにしていました。なので、連載がスタートしてとても嬉しいのです〜!!執筆者の方、ハードルが上がったかもしれませんが頑張ってください。楽しみにしています!

さて、今回はギャーナ・ヨーガ(前半)でしたね。ギャーナ・ヨーガと言えば「私は誰か」という問いかけ。私たちが通常「私」だと思っているもの、名前とか、体とか心とか、それを含めた全体とか、そういった常に変化するものは本当の私ではないとヨーガは教えます。そして、永遠不滅の本当の私を探求するのがギャーナ・ヨーガです。でも「私は誰か」って、その質問の意味、分かります?私はまったく分かりませんでした。

でも少し前にとても面白い経験があり、「私は誰か」という問いに対してイメージが変わりました。

あるとき、日常の中で心が動揺していることがあり、その原因を考えていました。いったい何に動揺しているのか、どの点が気になっているのか、何に納得がいっていないのか……。じーっとその時の状況や心の思いに集中し、ただ黙って見ていたのです。すると突然、「このように心を見ているのは誰か!!!!?」という問いが自分の中から突然飛び出してきました!そのとき、漠然と自分が自分と思っているものが自分ではない!!!という直感があり、天と地が逆転するほどビックリし、唖然としました。

自分が何者であるのか分かっていないのに、こんなことをして何になるのか???と思った途端、今まで心に引っかかっていた思いはどうでも良くなり、「私は誰なのか」ということだけに支配されました。

その経験があって初めて「私は誰か」という質問の意味と探求する目的と、ギャーナ・ヨーギーへの憧れを感じました。次回のパラマハンサにはギャーナ・ヨーガ(後半)が掲載されますね。楽しみです!!


バガヴァッド・ギーター

バガヴァッド・ギーター

地獄に到るには三つの門があり
肉欲 怒り 貪欲がそれである
これらは魂を墜落させる原因ゆえ
正気の人間はこの三つを切り捨てよ

この三つの地獄門を避け得た人は
真我実現に到る行いに励み
アルジュナよ 次第に進歩向上して
究極の目的に達するであろう

バガヴァッド・ギーター(16章21、22節)

久しぶりのギーターの紹介です。

先日仕事のとき、私がしたこと(何かを用意したり、整理したり、洗い物をしたり)すべて私がしたとたんに全部直されました。その現場に入ってからだいぶ立つので、今までと違うことをしたつもりはないのですが、何かが気に入らなかったようで右に向けたら左に向けられ、しまったら出される、とにかくそんなことがずーっと続きました。
「そんなに私のやることが気に入らないなら、全部自分でしてくれ!!」と帰り際にはついに怒りが込み上げてきたのですが、結果として怒りが込み上げてきたことで自分自身がとても嫌な気持ちになり、疲れがどっと押し寄せました。
私の仕事の仕方が悪かったかもしれない、もしかしたら相手がイライラしていただけかもしれない、でもどちらにしても怒ったことで自分自身を傷つけたと思いました。

ギーターに書かれているようにやっぱり怒りは自分自身の魂を墜落させる原因なんですね。

相手がどうだろうが、どんな時でも謙虚にいられたら、こんな気分になることはないだろうな……と思い、それ以来そのことを意識しています。


ビールと宗教

皆さん、こんにちは。
梅雨も明けて、暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか?
僕は今週、仕事で屋外プールに行ったのですが、日焼けをして、全身がヒリヒリしています😣

ところで、今日のブログは「宗教」についてのお話をしたいと思います。

「えっ、宗教? こんな暑い日にそんな堅苦しいこと考えらへんて! ビールでも飲もう〜!」

と、ブログメンバーである酒豪のサ××ーさんには言われるかもしれません。
僕も学生の頃はビールが好きで、暑い夏にはグラスをキンキンに冷やして飲んでいたので、気持ちは分からないくはないのですが、
ビールと聞いたら思い出す、大学のゼミ担任だったN教授の言葉があります。

「最近、発泡酒が流行っているけど、あれはビールやない。今、世の中は偽物が増えてきている」

発泡酒はビールとは原料が違うので、泡立ちや味が似ていても別ものですよね。
「そんな当たり前のこと、分かってる!」と言われるかもしれませんが、ただ僕はちょうど学生の頃、発泡酒でも「イケるな」と思って飲んでいたし、お金もなくて「発泡酒でいいや」とビールを飲みたいけど発泡酒で誤魔化していたところもありました。
また、発泡酒もビールの一部と捉えていたようなところもあったので、ビール腹のN教授の言葉に妙に納得させられたのです。

それで話は本題に戻りますが、「宗教」ということを学ぶと、宗教も同じようなことが言えるというか、ビールと発泡酒のような状況があるなと感じるのです。

2カ月前、愛媛でサットサンガが3日間開かれましたが、その内の2日間は「宗教とは何か?」「ヨーガと宗教の関係」についての問答がありました。
ここでは、3日目の今治でのヨギさんのお言葉を紹介したいと思います。

「今日(こんにち)世界宗教と呼ばれているものはキリスト教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教、その他にさまざまあります。それらは歴史的にも千年から二千年の長きにわたって、それぞれの民族の中で発展してきたものです。世界歴史を見まわすと昔の国のあり方、そして今日(こんにち)の国のあり方は大きく変化しています。東洋と西洋がより密接に交流し、経済や文化なども互いに影響し合うような時代にもなってきました。宗教においても以前のままで進んでいるところも少なくなってきています。また、それぞれの宗教の中における形骸化といいますか、宗教の本来あるべき姿が見失われているようなこともあります。それでも人は人生の中で苦悩を抱えながらも救いを求めて、何らかの宗教にその道標(みちしるべ)を求めています。そんな時、既存の宗教ではもはや解決ができないというところまできています。これは見方を変えれば、宗教そのものが堕落してしまっている、あるいは形骸化してしまっているがゆえに、人の心を導くことができないというふうにも見えます。
もう一方で、科学というものが世界の技術や経済、あるいは生活にまで影響を及ぼしている。宗教は、一宗一派の思想だけではなかなかその他への影響を与えることはできません。つまり、宗教の本来である普遍的な真実というものに立ち返らなければならないと思います。それは科学とも矛盾することもないし、またどのような時代であれ、民族文化であれ、共有できる内容をもっていなければならない――ちょうど科学のように。
ヨーガというのは三千年以上昔からインドにおいて探求され、研鑽されてきた科学的ともいえる真実を見つける方法です。だから特に特定の宗教が唱えるようなご本尊といいますか、そういうものを必要ともしません。むしろ真実なるもの、真実の存在、それだけが絶対であり、神と呼ぶべき存在であるというふうに理解します。なお、その尊い存在はどこにあるのかといえば、雲の上ではなくて、それぞれの胸の中にある。人間だけではなくて、この草花の中にも、動物の中にも、土の中にも、空気の中にも、水の中にも、宇宙すべての中にある存在が同じ存在である。昔はそれを魂と呼んだり、あるいは神と呼んだりもしました。その真実を遠くに求めるのではなくて、自分の中にこそそれを見つけて、それを知ること。これが、すべての宗教の帰結点という究極のところに位置しています」

ヨギさんは宗教の帰結点、つまり本質は「自らの内に在る真実、神を知ること」で、それを実現する方法がヨーガであると言われました。
そして最後に次のように説かれました。

「現在あるところの宗教というものは、ほとんどが現世利益という二元的な内容だと思います。二元性の中では神と人間の間は埋まらない。けれども、ヨーガにおいては二元をなくして一元的な――(胸に手を当てて)神がもしあるのならば、それはここに在ると。誰もの中に在る、どこにでも在る、それだけが在る――二元ではないのです。それだけが真実である、そう教えています」

宗教の本質が見失われ、欠落している状態でありながら、似て非なるもの――現世利益や先祖崇拝、またオカルト的なことが宗教と称されている現状ーーこれは発泡酒がビールと称されて、混同されてしまっているようなものですよね。
この宗教の核心を突くヨギさんの教えに、僕は暑さも忘れるほど酔いしれてしまいます。    僕は大学院まで進んで仏教を学んでいましたが、このように宗教の本質――「自らの中に真実、神が在る。そして、それを実現できる」ということをここまで力強く、明確に教えてくれる人はいませんでした。

ちなみにですが、N教授の言葉で印象に残っている言葉が4つあり、1つはビールの話で、もう1つが以下の内容です。

「今の坊さんは職業に成り下がっている。坊さんて職業か? ブッダの頃のお坊さんを見ろ」

N教授、本質を突いています……(笑)
今振り返ると、大学でも宗教の本質の片鱗を教えていただいていたのだなと感じました。

飯尾洋平


日常の気付き

人生は思い通りに行かないことばかりである。それは分かっているけれど、どうしても辛いとき、生きることを拒否する人がいる。

はじめは励ましたり、食べることを望んだり、いろいろと手を尽くしたけれど、本人の意志は固く、何も食べない状況は続いた。ある日、とても痩せた彼女からとてつもなく大きな力を感じた。

家に帰って聖典を手に取った。スワミ・ヨーガナンダの『あるヨギの自叙伝』たまたま開いたページには食事についてのエピソードが書かれていた。

ヨーガナンダがある僧院で生活していた時のこと、先生が2週間ぶりに僧院に帰って来る日、ヨーガナンダ達は歓迎のために食事を用意して待っていた。しかし、汽車が遅れてしまい、先生を待つために何時間も食事ができず、極度の空腹を経験したヨーガナンダは、後に先生に思い切って話をした。

「先生、もし私が自分の空腹をまったく口に出さなければ、だれも私に食べ物をくれる人はいません。それでは私は飢え死にするほかありません」

「それなら死になさい」騒然たる一言が辺りの空気を破って返ってきた。

「死ぬほかなかったら死になさい。ムクンダ(ヨーガナンダの名前)、お前は自分が食べ物の力で生きていると思っているのかね?お前は神の力で生きているのだということを忘れてはいけない。あらゆる食べ物を創造し、われわれに食欲を与えてくださっているおかたはわれわれが生命を維持していくことができるように絶えず配慮してくださっているのだ。自分の生命が米や金や人間の力で支えられているなどと決して考えてはいけない。もし神がお前の生命の息吹を引き上げてしまわれたら、そんなものは何の役に立つ?それらは単なる神の道具に過ぎないのだ。お前の胃の中の食物が消化するのはお前の持っている何らかの技術によるのかね?ムクンダ、よく考えてみなさい。目先の現象に惑わされず、根本の実体を悟りなさい」

 

私たちが神の力で生きているのなら、生きるかどうかを自分で決めることや、食べるか食べないかを決めることは自分勝手なことなのだと思った。それと同時に、どれだけ食事や治療を拒否しても生き続けている彼女は、神からまだ生きるように言われているのだと思った。

彼女はきっと神が迎えにこないことを嘆いているだろうけれど、神は彼女に生きるという恩寵を与えているのだと思った。神からの恩寵は自分が欲しいと思っている形で来るわけではない、でも恩寵はいつもあるんだと思った。ただ、気がつくか気がつかないかだけ……。彼女もまた大きな恩寵で神から守られているのだと分かった。

あるヨギの自叙伝


十人十色

仕事場で、目の前で話をしていた人が席を外したとき、一緒に話を聞いていた隣の人に

「今の人、感じがいいですね〜」と話しかけると、

「え!?私あーいう感じの人苦手です」と言われてビックリしました。

たいした話をしていないのに相手のことを苦手だと決めつけるってどうなの?と思いながら、たいした話をしていないのに感じがいいと決めつけた私もどうなの?と思ってしまいました。

2人の人間が同時に同じ人と話をしても、ここまで違う印象を持つとは!!

「十人十色」という言葉がある通り、十人いれば十通りの意見があるのはヨーガと言わず世間でも当然のことです。でも実際に体験すると結構ビックリします。

ヨーガではそのようなことが起こる原因としてサンスカーラ(残存印象)が人によって違うからだと教えます。私はきっと、以前に同じような人に感じよく接してもらい、こういうタイプの人は感じが良いという印象を持っているのでしょう。反対に隣にいた人は同じタイプの人から何か嫌なことをされたのかもしれません。記憶として覚えているかは定かではありませんが、潜在的記憶の中でその印象は生き続け、何かに遭遇したときに出てくるのです。この人好き、この人嫌い、人でなくても好き、嫌いの原因はすべてサンスカーラです。

同じものを見てもまったく違うように見えているのであれば、私は私の基準をもって私の世界の中で生きていることになります。

気持ちを共有していると思っている家族や友達や恋人でも実は全然違う世界に生きている可能性があります。いや、可能性ではなく残念ながらそうなのでしょう。

ヨーガではサンスカーラをゼロにしていく作業をしています。ゼロになったらいったいこの世界はどのように見えるのでしょうか。そしてサンスカーラと共に生きている人のことをどんな風に思うのでしょうかね。

仕事先で咲いていたあじさい

仕事先で咲いていたあじさい


初心忘るべからず

4月1日の夜勤のとき、利用者さんや家族さんとテレビでニュースを見ていました。ちょうど世間は入社式の日、新しい門出に希望で胸いっぱいの新入社員の様子が放映されていました。インタビューでは、「ここまでこれたのは家族のおかげ、初心を忘れずにがんばっていきたいです!」と話している人が多くいました。私も利用者さんも何て初々しい姿なんだろうと見入っていました。ニュースキャスターはその様子を見て

「私にもこんな時がありましたね〜初々しい姿を見ると、自分の初心を思い出します〜」「本当にそうですね〜」と嬉しそうに話していました。

「?????」当たり前のように聞き流す会話かもしれませんが、何となく違和感がありました。

「え!初心、忘れてるんやん!」私は思わず突っ込みそうになりました。

「初心を忘れずに」と言っている新入社員を見て、ほとんどの人は自分の初心を思い出すということは、初心というのは、「忘れず」という決まり文句が付くのにも関わらず、結果的には「忘れる」ということがお決まりなのでしょうか……なんか不思議と思ったのでした。

なぜ初心を忘れるのでしょうかね。

新入社員の姿を見ていると初々しく、希望に満ちています。それは彼らはまだ何も知らない真っ白な心で会社を見ているからだと思います。でも勤務が始まると、「あれ!?思っていたのと違うな、結構大変だな、あの先輩恐いな、この仕事向いてるのかな?」もちろん悪いことばかりではないけれど、心の感想は次々に出てきます。真っ白だった心には日に日に記憶が溜まり、その印象が刻み込まれていきます。そして、仕事自体は勤務の初日と同じことをしていても、その印象を通して会社や仕事や同僚を見てしまうことが始まるのです。その時点で初心は少しずつ忘れられていくのだと思います。

では、初心はあくまで「初めの気持ち」なので、変わっていくのは当たり前なのでしょうか?ヨーガでは、その記憶やそれによって持つ印象のことを「サンスカーラ(心の残像印象)」と言います。そしてヨーガの教えにはこうあります。

「サンスカーラを消していくのは真実の知恵だけです……瞑想における真実の知恵は、心の記憶にゼロというサンスカーラを残していきます」

ヨーガをしていくと確かに物事に対する印象が弱まっていくのを感じます。今までなら仕事から帰ってきても「今日はどうだった、こうだった、あの人はどうのこうの」と心の中でずっと仕事のことを考え続け、心に印象を強く刻んでいるようなところがありました。でもヨーガをしてからは、仕事は仕事、終わったらそのことは終わったと心の切り替えができるようになったと思います。「嫌だな」と思うようなことがあっても、心を切り替えることができると、さほど気にならなくなるという不思議な変化を感じてきました。

でもこれはまだまだ、印象を持たないというのではなく、「印象を持ったけれど、それを切り替えている」という感じ。私がそのテレビを見て思ったのは、「そもそも常に初心でいるということが可能なのか」ということでした。だって毎日8時間以上働き、毎日会社での出来事や人の印象を持つたびに切り替える、この繰り返しではもう切りがない……考えただけでもめんどくさいと思ったのです。

初めから印象を持たないためにはどうしたらいいのかな……。

夜勤から帰り、その日はそんなことを考えながら瞑想に座りました。瞑想の途中でふと目を開いたとき、視界に飛び込んできたのは女神ドゥルガーの巨大な絵(ヴィハーラの2階にあります)、ドゥルガーは美しく微笑みながらライオンにまたがっています。私にはそのときたくさんの手で剣を持っているように見えました。ドゥルガーはずんずん迫ってきて、私をバッタバッタと容赦なく切っていきました。

そうか!!!もう自分の力でその印象をどうこうしようというのでは追いつかないということか!心を神に明け渡す、神のみで満たしていくことだけが印象を持たないということを可能にするのだと理解しました。

ヨギさんはいつも言われます。

「心を常に神のみで満たしなさい」

それが、ただ一つの答えでした。

ヴィハーラの2階にある女神ドゥルガーの絵

ヴィハーラの2階にある女神ドゥルガーの絵


新しい道

みなさん、こんにちは。ユクティーです。東北はやっと寒さが和らいで春の気配が感じられるようになりました。私が南相馬に移り住んで3年。今も3年前と同じ病院で看護師として働いています。

この3年間の私の功績??と言えば…この地域の人たちにちょっとだけ関西弁を広めることができたことくらいですかね。なんせ、仙台の人にしても福島の人にしても、私と接して初めて実際に関西弁を聞いたという人ばかりでしたから。福島に来る前は、関西人と東北人は正反対の性質だから合わないとか、嫌がられるから関西弁は絶対しゃべらない方がいいとか、さんざん色々言われましたけど、実際来てみたら…、何でしょう、この歓迎ムード。耳に心地いいとか、わざわざ聞きに来る人もいましたよ。それだから私も周りの期待に応えるべく関西弁を話し続け、結果私は今もこの地域の方言が全く話せません。

たしかマザーテレサは、奉仕活動していたコルカタの人たちが話すベンガル語をすぐにマスターしてとてもうまかったことから、ベンガリーシスターとも呼ばれていたそうです。すごいなあ。

私が働いている所はベッド数100床くらいの小さな病院で、職員さんも全員知っているし、職場ではもう私がここにいるのは当たり前になっています。でも私事ですが、その職場を来月いっぱいで退職することになりました。…と言っても、京都に帰るわけではないですよ。この地域には住み続けるのですが、5月からは知り合いが3年前に立ち上げた訪問看護ステーションでお世話になります。病院から追い出されるわけでも私が嫌になって辞めるわけでもないですよ。

これには被災地ならではの、そして日本の看護界ならではの事情があるんです。早く言えば看護師不足で(法律上訪問看護ステーションは2.5人の看護師がいないと開設できない)その知人の訪問看護ステーションは今閉鎖の危機に直面しています。もともと訪問看護を希望する看護師は多くないし、日本は病院に看護師を確保することが優先される傾向にあるので、全国的にも看護師が定員に満たず閉鎖していく訪問看護ステーションが少なくありません。知人のステーションが閉鎖の危機ということで所長さんも娘さんも関係者の方たちも私も必死に看護師を探したけど、なかなか見つからない。そんな中である時ふと思ったんですね。「そういえば、私がいたなあ」と。でも、今の病院だってどんどん看護師はいなくなって、ぎりぎりの人数でやっているし、私が抜けたら夜勤だって誰かが代わらなくてはいけない。それに震災後病院を辞める人が後を絶たないので、ここの人たちはもう人を送り出すことが辛くて仕方ないんです。だから、本当はあまり出て行くと言いたくなかった。でも、病院は私がいなくても今すぐ潰れるわけではない。知人の訪問看護ステーションは早ければ5月に閉鎖。この決断には京都から南相馬に来る時とは比べ物にならないくらい勇気とエネルギーが必要でした。まあ実際は2日間で決めたんですけど。

そして病院側にも何とか分かってもらい、私は知人のステーションを手伝いに行くことが決まったんですけれど、次は私の住む家がなくなるんですね。今この地域は除染や建設で多くの業者が入ってきていて、次々とその人たちが住むためのアパートが作られています。家賃も倍近くに高騰しています。いくらアパートが増えても追いつかない現状があり、吹いたら飛んでいきそうな小さな事業所には回ってこないんです。今私が住むアパートも私が南相馬に行ったその日に建った復興支援者用のものですが、病院が借りてくれていて、小さいけれど地元で力のある病院だったからこそ確保できたし、それでも一部屋借りるのも大変だったと聞いています。訪問看護の事業所から、「まず仮設住宅に移ってください」と言われました。仮設住宅は南相馬市ではなくて福島県の持ち物で、県が医療再建のための医療者用に一部確保する方針を取っています。でも、仮設は来年春から解体予定で、結局はアパートを探さないといけない。私としては当分は仮設でも良かったし、まあ何とかなるだろうくらいな感じでいたのですが、所長の娘さんは「何としてでも探します!!」と意気込んで言われ、人の信念って本当に実現させるんですね。先日アパートが見つかったそうで、私は4月下旬にそこに移ることになりました。あぁ、この1,2週間は本当に色んなことがあって、ここでは書ききれない。でもこういうことがなかったら、私は被災地の深い多岐にわたる様々な問題を知ることはなかったと思います。

…ということで、もうすぐ私は病院という囲いの中から外に飛び出して行きます。どんな人と出会うんだろう。まさか南相馬の地を自分が車を運転して仕事をするとは思いもしなかった。あー、こわ(-_-;)でもきっとこの道も、私が辿り着くべき所につながっているに違いない。

ユクティー

ユクティー


純粋であること

先週の土曜日はサットサンガ(真理の集い)がありました。東京や松山からたくさんのグルバイ(ヨーガの仲間)が集まりました。その中には久しぶりにヨギさんに会う人、初めてヨギさんに会う人もいました。ヨーガの実践について途切れることなく質問は続き、あっという間の2時間半でした。

初めてサットサンガに参加した方の質問で「純粋であることとはどういうことですか」というものがありました。

ヨーガとは心を純粋にしていくことです。そのためには完全で純粋であるものに近づき一つになることが求められます。

 

純粋であることとは、誠実であること、素直であること、計らいがないこと。真理や神は純粋な存在であるから、それに向かうことで純粋さを増すことができる」

 

サットサンガでは無努力の瞑想ができると言われます。ヨギさんの答えを聞き、理解しようとすることで、純粋である真理や神に自然に心を奪われ染められていきます。ハートに刻まれたその印象を大切に、日常で瞑想を続けようと思いました。