日常のヨーガ」カテゴリーアーカイブ

ある朝のできごと

先日仕事(私はヘルパーとして在宅障がい者の支援をしています)に行くと、利用者さんが2日間食事をしていないと言われました。「え!?なんで?」とビックリして理由を聞いてみるも、「食欲ないねん、放っておいて」という素っ気ない返事、顔も暗く、まったく元気がありません。いつも私のお弁当を覗き込んで、あれ食べたいこれ食べたいという人なので、顔の前にお弁当を持っていったのですが、「いらん!」と一言。これは相当変だなーと思いながらも放っておいてと言っているので、その夜はそのまま見守ることにしました。

翌朝、コーヒーは飲めるというので飲んでもらっている時、「このまま神様が連れて行ってくれへんかな……」と誰に言うでもなく消え入りそうな声でつぶやかれました。
その言葉を聞いた瞬間、食欲不振になっている原因がなぜか理解できました。それは具体的な細かな原因が分かったという訳ではないのですが、その人の中にある悲しみみたいなものに触れたような気がしたのです。

思わず「辛いですね……」といって黙り込む私。二人してしばらくの間黙っていました。じっと息をひそめてただ彼女の思いに寄り添いました。一瞬ですが彼女の人生の中に入ったような不思議な感覚がありました。どのぐらいの時間がたったか分かりませんが、気がつくといつもと同じ光景がそこにあり、彼女はコーヒーを飲んでいました。言葉をかけて慰めようとは思いませんでした。

帰り際、彼女は私をみて微笑んでいました。「またお弁当持ってくるし、次は食べてな」と言って帰りました。


直観

先週の土曜日の夜にサットサンガがありました。東京や松山、ニューヨークからグルバイ(ヨーガの仲間)が集まり、師であるヨギさんからヨーガを学びます。直接学べる貴重な機会なので全国、世界中から集まります。
アーシュラマの二階は満員!熱気がすごかったです。特に日本でヨギさんに会うのが最後になるニューヨークのグルバイからは気迫を感じました。(ニューヨークグルバイの滞在記事はこの記事の下にあります)
さまざまな質問があり、ヨギさんはその質問に一つずつ答えてくださいました。

直観についての質問は、前日にグルバイ同士で話していた内容だったこともあり、私にはとても印象的でした。

 

「ヤマ・ニヤマをやっていくことによって身口意が一致する。そうすることで心はサットヴァ性(清浄)になっていく。サットヴァ性の中から正しい直観が生まれる。」

「身口意を調えることで直観が得られる。最初にひらめいた直観に言葉と行為を一致させることで無駄な思いを発しなくなる。そうすると必要なときに必要な直観が思い浮かぶようになる。熱心にやれば早道になります」

ヤマ(禁戒)非暴力、正直、不盗、純潔、不貧、 
ニヤマ(勧戒)清浄、知足、苦行、聖典の学習、神的な存在への帰依
身=行動 口=言葉 意=心の思い 調える=矛盾なく同じにしていく

時として、思ったことと言っていることがバラバラだったりすることはありませんか?
大人になるとけっこう平気でこういうことをしてしまうことがあります。身口意を調えるというのは単純に思ったことをすぐに行為していくということになります。良い思いの時はもちろんですが、思いって良い思いもあれば、悪い思いもあります。「この人ムカつく!」と思ってそれを口に出すと、とんでもないことが起こることは誰でも想像がつきます。そもそもそんなことを言いたくないですよね。そんなときはその思いを良い思いに変化させるといいと教わりました。
こんな思いを持ちたくないな……と思ったらそれもすぐに行動!思いを変化させます。そして、むしろこういう思いを持てたらいいな……と思ったそれもすぐに行動!そういう習慣を付けていくことが大切だと教わります。

身口意を調えていくと無駄な思いを発しなくなると言われています。確かに何でも思ったことをすぐに行動してしまえば、「あーやらないといけないことがあるんだけど、めんどくさいな〜」とか頭の中でごちゃごちゃ考える要素はなくなっていくでしょうね。その分心がシンプルになることで正しい直観が得られるんだと思いました。

「ヤマ・ニヤマ」や「身口意の一致」はヨーガの教えの中でとても基本的な教えです。今一度私も意識して行っていこうと思いました。
ヨギさんは実践を続けていくと心に「空(くう)」の状態が訪れると言われました。「空(くう)」は「空(そら)」と書きます。これはインドの言葉で「スカ」と言われ、インドでは「楽」という意味だそうです。昔ヨギさんに「心が空っぽやと楽やで〜」と言われたことを思い出しました。

フリージア、シクラメン、蝋梅、京王桜

アーシュラマの階段に飾られたお花、フリージア、シクラメン、蝋梅、啓翁桜

サティヤー


お花の会

先月1月17日のさまらさの台所に参加しレポートしたのですけれど、その後お花の会にも初めて参加しました。参加したというより見学をさせていただいたのですが、少しその様子をレポートしてみたいと思います。

何とこの日は16名の方が参加され大にぎわいでした!

お花①

お花②

皆さん常連の方が多かったですが、松山からはさまらさの台所に続いて初参加の方もおられました。花器選びから始まって、皆さん黙々と生け始めました〜出来上がりが楽しみです!

講師のシャーンティマイーさんはいつもアーシュラマのお花を生けておられる達人ですね〜!ヨーガも達人ですが、料理もお花も何でもできるんですね。凄いですね!初めての方にも的確にとても分かりやすく教えておられました。皆楽しそうです!

松山からのお二人もシャーンティマイーさんの分かりやすい説明に納得です。

さあ、皆出来上がってきました!皆それぞれの性格がお花に現れているような、一人一人ユニークな仕上がりでとても興味深かったです。出来上がった人からシャーンティマイーさんが順番に見て回り、アドバイスされ、そして少し手直しされます。するとあら不思議、とってもよくなるようです。それぞれの人の生け方を生かしながら、少しだけ手直しされ、そしてポイントを説明されます。そのようにして皆腕を磨いていっているのですね!しかし16人ものお花を見て回るシャーンティマイーさんは大変ですね〜!

お花③

シャーンティマイーさんの手直しを皆で見学し、学んでいます。

それにしても楽しく心地よいひと時でした。お花を生ける時の皆の真剣な集中した表情が印象的でした。ヨーガの集中力が生かされているのでしょうか、それともお花の集中力がヨーガに生かされているのかもしれませんね。皆家に帰ってすぐに学んだことを思い出しながらおうちの花器に生けられるそうです!

松山のMさんも、松山に帰ってから家で生けられたお花の写真を送ってくださいました。初めてなのにとっても上手な!そして、お花の感想に次のようなことを添えられていました。

「シャーンティマイーさん、私たちが帰る時に、私とアーナンディーのお花たちをとっても丁寧に、大切に包んで下さって、その、黙々とされる横顔を見ていると、何だか感動してしまいました」

私もその姿を覚えていたのですが、何気ない行為が印象に残るものなんだなあとしみじみ思いました。その感想が私の一番印象に残ったことでした。

とても楽しい身になるお花の会にご関心がある方は、ぜひヨーガ・ヴィハーラに一声おかけください。

サーナンダ

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大切なヨーガの教え

先週の木曜日からニューヨークのグルバイ(ヨーガの仲間)3人が京都に滞在しています。シャーンティ庵に宿泊しながらサットサンガやクラスに参加されています。先日、一緒に夕食を食べてお話をする機会がありました。まだ到着して数日、時差ぼけなどで眠たかったかもしれませんが夜遅くまで一緒に話ができました。彼らは遠いニューヨークからヨーガを学ぶために京都に来られています。ヨーガに対してとても真剣で真摯な気持ちが伝わってきました。

4年前、私はヨギさんの渡米時に3ヶ月同行させていただきました。今回日本に来ているグルバイの中にはそのときにニューヨークで会ったグルバイもいて、彼らを見ていると自分がニューヨークに行った時のことを思い出しました。私もヨーガを学ぶためにニューヨークに行ったのですからとても真剣でした。しかも、3ヶ月間も集中して学ぶことができたのは本当に恵まれていたと思います。はじめは生活に慣れることで必死でした。少しずつ慣れてくると、だんだんその生活が当たり前になり、貴重な体験をさせてもらっているということを意識することもなくなっていきました。そんな時、ヨギさんに言われたことがあります。

「後悔することがないように毎日を過ごしなさい」

その言葉を聞いた時は身の引き締まる思いでした。滞在も終盤でしたし、もう一度自分自身のことを振り返り、日本に帰ったら後悔することはないか、何のために来ているのかなど必死で考え、思い残すことがないように一日一日を過ごそうと意識しました。

その言葉を聞いた時は、大切な滞在を無駄にしないためだと理解しました。でも今はその時だけのことではなく、生きている貴重な人生の一瞬一瞬のことで、場所や時間を限定した言葉ではなかったと理解しています。今でも言われた時のヨギさんの口調や表情、その時のシチュエーションを思い出します。思い出すたびに、あのとき感じたように身の引き締まる思いがします。


ヨーガの歩み方

ヨーガに縁を持ち、アーサナや瞑想を実修し、その道を歩んでいくとはどういうことなのかについて、少し記してみたいと思います。

といっても、人それぞれの道があるから、私が師から学び、今もって確かにその通りだと思う歩み方について記そうと思います。

ヨーガを始めて間もない頃、どのように歩んでいけばいいのかを師に問いました。師は次のように答えられました。(記憶を頼りに書き起したものなので、私なりに要約していると思います)

  1. この世界とは何か?それは自分の心が反映したものである。このことを正しく理解しなければならない。
  2. 次に、心を正しく理解していく。正しく理解していくということは、世界を放棄していくということである。すなわち、変化する世界や心に執着しなくなるということである。※しかし否定はせずに世界を肯定する。
  3. このとき、この世界に何の興味もなくなり、しかも未だ真理(神)を知らないことにより、心が虚ろな状態に陥ることがあるが、このような心さえも理解し放棄していく。
  4. この状態は苦行ともいえるかも知れないが、続けていくと、だんだんと神を身近に感じてくるようになる。
  5. そして、ギャーナ・ヨーガのように無形の神をアートマンとして瞑想する方法と、バクティの形ある神、例えば、クリシュナ、ラーマ、シヴァ、あるいは偉大な聖者、イエス・キリスト、ブッダなどを瞑想する方法により神を悟っていく。
  6. そして究極的には、神と世界は一つであることを悟るようにする。

この教えをお聞きしたときは、まだこの歩みがどういうものなのかよくわかりませんでした。もちろん知的には理解できるのですが、まだ茫洋とした感じでした。

ところが今は、本当にこの時師が言われた通りの歩みになるのだということを実感します。特に私は世界を否定し、1と2をすっ飛ばしていこうとする傾向があったのですが、この1と2が本当にとても大事だということに気付きました。

①世界は自分の心が反映したものだということ

②心を正しく理解していくということ

この深意を会得していくことが肝心なことだろうと思います。皆それぞれ性質が違いますから、会得の仕方はそれぞれの道があるのかもしれません。でもこの世界がどこまで行っても自分の心が反映したものだということがわかれば、心は静かになっていくことでしょう。反映する何ものもないくらい心が静まれば、世界と見ていたところに神なる存在が感じられていくのでしょう!

人それぞれの歩み方がありますから、ご参考に!

サーナンダ

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執着と無執着

..

執着とは、

心の中に理想像を作り上げ、

それと比較して異なるときに発生する心の作用です。

その理想像を作らないようにすることが、

無執着です。

サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

 

この教えに触れると、いつも「なるほど〜」って唸ってしまいます!

確かに、何かにつけて心が動揺するときは、心の中に何らかの理想像があるからです。それがある限り執着が生じ、心は揺れ動きます。

例えば、恋人、友人、成績、評価、仕事、出世、結婚、子供、娯楽、おしゃれ、旅行、スイーツ、パソコン、iPhone・・・なんと様々な自分を幸福にするだろうと思った理想像をこれまで作り上げてきたことかと思いませんか!その度に心は揺れ動いてしまう…なぜなんでしょう!?

例えば、最初にiPhoneを購入しようと思った時は、素晴しい喜びを自分に与えてくれるiPhoneは輝きを放っていて、それを手に持つ自分を想像しただけで喜びに満たされましたが、入荷待ちで手に入れられない苦しみを味わいました。

そして手に入れたら、その素晴しい先進的な機能に喜びを感じ、それを持つことの優越感に浸りますが、それからの生活というものは日々iPhoneに縛られ、常にメールのチェックやアプリの活用を迫られることは、喜びでありながら、束縛の苦しみを味わいました。

そして新機種が発売された途端に、自分が所有している機種が古びて見え、魅力を失い、新しい機種が輝いて見えるのでした。その繰り返しでiPhone3GからiPhone6plusまで来たのでした。

一事が万事で、iPhoneを恋人、仕事、結婚、人間関係、おしゃれなどに置き換えれば、似たようなものです。本当に、絶えず心はさまざまな物事に理想像(期待)を作り上げて執着してしまっています。どうもその理想像は夢のように儚く、iPhoneのようにたった1年の理想にしか過ぎず、手に入れたと思ってもあっという間に手から離れていくので、尽きることのない渇望が起こってきます。それがなければどんなに楽なことかと思うのです。あーもう十分です!

ところが、たった一つだけやってきて過ぎ去らない夢があります。真実を悟りたいという夢です。早くその夢から醒めたいと思います。本当の私は真実そのものなのですから!

サーナンダ

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バガヴァッド・ギーター

バガヴァッド・ギーター ハヌマーン

明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
今年は申年ですね、ということでハヌマーンが描かれたカードを選んでみました。ハヌマーンはしっかりと前を見据え、ラーマから大切な教えを授かっているように見えます。

 

「わたしも きみも ここにいる すべての人々も
かつて存在しなかったことはなく
将来 存在しなくなることもない
始めなく終わりなく永遠に存在しているのだ」

「永遠」も「存在」も言葉としては理解できますが、本当のところどういうことなんでしょう。やっぱりまだまだ感じることができません。自分が感じるのは変わりゆくものばかり。たとえば自分の肉体のこと、仕事や日常の諸々のこと、自分の考えや思い……。そういったころころ変わっていくものに存在を感じ、いつも永遠でないものに心が奪われているような気がします。いったいいつになったら私が私だと思っているものの化けの皮がはがれて永遠の存在だと気がつくことができるのでしょうか。この言葉を読みながらそう思わずにはいられませんでした。

ヨーガでは「神」や「真我」「真理」を永遠の存在だと教えます。まだ分からない、だけど分からないと思っている心を見ずに永遠である存在を思い続けることだけ、それだけをしていこうと思いました。教えを素直に聞く、信仰深く働き者ののハヌマーンのようにそうありたいと思いました。


New Year 2016

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い致します。

新しい年、2016年をむかえましたね〜!
大晦日は、年越し瞑想会をされた方もいると聞きましたが、本当に熱心ですね!

今年は、マハーヨーギー・アーシュラマ40周年になります。私たちの最愛の師が京都にアーシュラマを開かれてから40年になります!変わることなく、そして絶え間なく限りない愛と叡智をもって私たちを導いてくださる師に、改めて感謝を申し上げるとともに、この吉祥な年を迎えられた喜びに深く感謝いたします。
この40年という月日の間に、日本だけでなく世界中に師の存在と教えを拠り所としてヨーガに生きる真のヨーギー、ヨーギニーたちが増えてきて本当に嬉しく思います!

さて、今年はどういう年になるか、非常に楽しみです!マハーヨーギー・ヨーガ・ミッションでは今年も一層いろいろな活動を推進していきますので、このブログでもその様子をお届けできればと思っています。

そして今年は申年!ハヌマーンのように純粋な信仰をハートに抱き、弛まず邁進していきたいと思います!ハヌマーンがランカ島までひとっ飛びしたように、恐れることなく勇気をもって爆進するぞー!

最後に初日の出を写真と映像でお届けいたします。今年を占うかのような稀に見る美しい御来光でした!
2016初日の出

徳島県松原海岸での初日の出です。YouTube映像はこちらから→まさに御来光!(高画質にバージョンアップしました)

サーナンダ拝


聖人

お久しぶりです、皆さんお変わりありませんか?私は南相馬に来て3回目の冬を迎えています。私は変わりないですが、私の周りで変わったことと言えば、職場の定年がまた一年延びたことです。新しい人が入らないので、今いる人に長く働いてもらうしかないのです。去年も一年延びたので、今定年は62歳です。この地域の施設も同じような感じで、定年が65歳という所や70歳という所もあると聞きます。今の仕事を70歳までやるって…ちょっと想像できないですね。

ところで、タイトルに書いた聖人についてですが、カソリックの中でマザーテレサが聖人に認定されることになったそうですね。認定されるにはその人にまつわる2回の奇跡が必要だとか。もっとも、そういうことには本人が一番関心がないのかも知れませんけど。

そのマザーテレサですが、私は昔から彼女が好きで、ヨーガを始めてからずっと瞑想の対象にしていました。でもある時ふと疑問を持ったんです。紹介されたヨーガの聖者なら私の魂を導く確かな人だと信頼できるけれど、マザーはどうなのかと。確かに彼女は多くのシスターを導き、素晴らしい業績を残し宗教を越えて多くの人から讃えられている。私には一点の曇りもないくらい純粋に見える。でも、本当に純粋かどうかは人間の目ではなく、もっとずっと厳しい神の判断が必要だと言われます。瞑想の対象にするということは、私自身の霊性がそこに向かうということです。これはマザーテレサの問題ではなくて、私自身の魂の問題であり、私がこの世に生きる上で最大にしてたった一つの問題です。

そこで私は師であるヨギさんに聞きました。もう何年も前のことです。「私はマザーテレサを瞑想して大丈夫なんでしょうか」と。とても失礼な質問にも思えますが、私は0.01%の疑いも残したくはなかったんです。ヨギさんはすぐに「大丈夫です。彼女は本物です」と答えられました。そしてその後続けて理由を言われたのですが、それがちょっと意外に感じたのを覚えています。「なぜなら、彼女には矛盾がない」と。〝矛盾″だったか〝ぶれ″だったか〝揺るぎ″だったか忘れてしまいましたが、一本筋が通っている、変わらないそんなことだったように記憶しています。本物かどうかの基準っていうのは、そういう所にあるのかとその時思ったんですね。彼女はこれこれこういう境地にあるとか、私のような凡人には見ることも想像もできない霊的なことを言われると思ったからです。

考えてみれば、神は普遍で永遠ですから、神だけを見ていればすべて基準はそこにあり、その人は変わることもぶれることも矛盾が起こることもないんですよね。ヨギさんが今も昔もずっと同じであるように。本当にシンプルなこと。でもそれを実現している人は本当に稀。

そう言えば、もうすぐクリスマスですね。(なんだか取って付けたみたいですけど)マザーが最も愛したイエスキリストのご聖誕日だ…と私も思ってたんですが、実は12月25日は後からキリストを祝う日にと定められたもので、実際にお生まれになった日は新約聖書にも書かれていないんです。つまりいつなのか誰にも分からないと言うことです。それについて調べてみると、色々な根拠が書かれていました。「パレスチナでは12月は雨期でかなり寒く、聖母マリアの馬小屋での出産はかなり危険な行為となる。12月の誕生はありえません」ふんふん、なるほど。納得できる科学的な根拠ですね。でもイエスは奇跡の人。生まれる時からそんな奇跡を起こしていたのかも知れませんよ。

12月に毎年仙台で行われるイルミネーションイベント、「光のページェント」とっても綺麗です☆

12月に毎年仙台で行われるイルミネーションイベント、「光のページェント」とっても綺麗です☆

 ユクティー

 


生きるということ 2

「なぜミッションの仕事をするのですか?」

先日台湾のグルバイと話をしていた時、そう聞かれました。

どういった話の流れだったか、なぜそれが聞きたかったのかは思い出せないのですが、聞いている人の真剣なまなざしを覚えています。

「……なぜと言われても」

いくら考えても答えは見つかりませんでした。

「理由はないです。それだけがやりたいことだからです」と答えました。

私は日常の仕事(介護職)とミッションの仕事、2つの仕事を持っています。日常の仕事は、時々このブログにも書いている通り、障がいの方の生活援助をしています。ミッションの仕事は、さまらさの台所やアーサナ瞑想クラスのお手伝いをしています。私の答えを聞いて、他の方が聞きました。

「では、ミッションの仕事を禁止されたらどうしますか」

面白い質問だと思いました。
以前の私は、とにかくミッションの仕事をすることに燃えていました。今ももちろん燃えていますが、少し違う気がします。

ミッションの仕事をしているとき、「生きている」という充実感がありとても幸せでした。でも介護の仕事をしている時は「死んでいる?」そこまで言ったら言い過ぎかもしれませんが(相手にも失礼ですね)、充実感を求めるこはもなく、ただ生活の糧を稼ぐため、仕事の内容をこなすというように2つは完全に分かれていました。

彼女の質問を聞いたとき、その時のことを思い出すと同時に、今はそうではなくなったなぁ〜としみじみ感じました。

「結果にとらわれず、目の前のことがより良くなるように集中して、ベストを尽くす」というヨーガの教えがあります。

仕事をするとき、集中し精一杯行うという点においてはそれが介護の仕事であっても、ミッションの仕事であっても違いはありません。私を貫いているヨーガの理想の姿はどのようなことをしていようと同じ。だから行為の種類を分けることはなくなってきたのだと思います。

私は

「もちろん、ミッションの仕事を禁止されたら、とても悲しいと思うけれど、どんな仕事をしていてもヨーガを実践することができることを知っているから、それを続けるだけです」

そう答えました。

台湾のグルバイとのお食事会

台湾のグルバイとのお食事会

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