日常のヨーガ」カテゴリーアーカイブ

白衣の天使は神の声を聞いた

白衣の天使といえば、私……ではなく、ナイチンゲールですよね(すみません)。今日は彼女のことについて書きます。看護団を率いてクリミア戦争の現地に赴き、病院に運び込まれた兵士たちの死亡率をわずか3カ月で42%から5%まで引き下げた業績は伝説のように伝えられています。看護師として彼女はもちろん偉大なのですけれど、私が今日お伝えしたいのは、信仰者としての彼女の素晴らしさです。

「病人の大群がなだれ込んでくれば、24時間ぶっ続けで立ち働き、怪我人に包帯をするために8時間もひざまずいていた」と想像を絶するような記述もあり、まさに自己犠牲的精神の権化!といった感じですが、彼女自身は「白衣の天使」という優しく清らかなイメージの呼ばれ方を、あまり好んでいなかったようです。彼女は言います。

「天使とは、美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者のことだ」

苦悩する者のために戦う者は、苦悩も全てその人たちと共にするものなのですね。その通り、彼女は生涯苦しみ抜いた人でした。苦しむ人たちのために、そして神のために。

看護師は、中世ヨーロッパにおいて低い身分の女子がする仕事でした。当時の病院は、今の病院とは比べ物にならないくらい不衛生。電灯はなく薄暗く、掃除はされず、トイレの設備もないため汚れが床にべっとり滲みついていた。汚物の悪臭が強烈で病棟に入った人は吐き気を催す。患者の体は洗うことなく汚れきっており、シーツは変えられることはなかった。看護婦たちと言えば、騒音もひどく、風も通らず光も当たらない、普通の人なら到底寝ることができない木の檻のような所で寝泊まりしていた。一人の看護婦がおびただしい数の患者を受け持ち、酒を飲み、男性患者と同じ病室で寝泊まりすることもあった。などなどすごいことが書かれています。

ナイチンゲールはとても裕福な上流階級の出身でしたから、彼女が看護婦になるということは、当時は考えられないことだったのです。もちろん彼女の両親は、「恥知らずだ!」とものすごく反対したんですね。そもそも彼女が看護婦になろうとしたのは、彼女が通っていた教会の慈善活動の一つとして病院で貧しい人たちのお世話をしたのがきっかけでした。でも、それだけなら単なる経験で終わったかも知れない。彼女はもともと贅沢で煌びやかな上流階級の生活や、そこにいる自分にずっと疑問を持っていたんです。「ここは私のいる場所ではない」と。そして病院での慈善活動を通して「私のやるべきことはこういうことだ」と思い定めるようになるのです。

「何千、何万の苦しんでいる人々の存在を思う時…農民たちの小屋という小屋には同情さえも受け付けない苦しみが満ちているのを目にする時…そうしてこの世は全て相も変わらず朝ごとに同じことを繰り返している。そしてこの彷徨える地球は、永遠の沈黙を守りつつ、何事もないかのように、これまた冷徹な星々の間をその単調な軌道の上を容赦なく回り続けるのです。こんなことなら死よりも、生きている方が一層侘しいというものです」

そういえば、ヴィヴェーカーナンダやマザーテレサも、一大決心をして行動を起こすきっかけは、こういった人々の惨状だったのを思い出します。

そしてナイチンゲールは、生涯のうちで神の声を4回聞いたといいます。最初は16歳の時。「1837年2月7日、神は私に語りかけられ、『神に仕えよ』と命じられた」とメモに書いています。神の声は、初めて病院の職に就く前やクリミア戦争の前など、彼女の人生のうちで特に重要な時に語りかけてきたようです。神の声を聞いたというと、マザーテレサも同じですね。おそらく、こういった出来事の前は、自分を究極まで追い詰め、苦悩の真っ只中にあったのだと思います。ナイチンゲールは、看護の道に進むことについて、ものすごく思い悩んでいました。看護師の社会的地位の低さ、そこに飛び込む葛藤、自分のエゴ。

「私はあらゆることを他人からの賞賛を得るためにやっている」と気づき、神からの言葉に応えるには、こういった自分の気持ちに打ち勝たなくてはいけないのだと感じていたんです。純粋な人ですね。「『ああ、神様、どうしてあなたは私を見放されたのですか』という以外に言葉もありません。私の人生は真っ暗闇です。このような取るに足らないことでどうして私たちはこんなに苦しまねばならないのか」と手紙に書いています。真剣に悩み壮絶な葛藤を通してエゴが消え、心が透明になった時、神は語りかけてきたのかも知れません。

でも、徐々に自分の葛藤を手放すような記述が見られるようになります。

「今日で私は30歳、キリストが伝道を始められた年だ。もう子供っぽいことはたくさん。人を好きになることも、結婚ももう結構。主よ、どうぞ御心のみを、私への御心のみを為してください。主よ、御心を。御心を」

葛藤が消え、神の命に応える準備が整っているように思えます。

そしてある人の言葉も彼女の生き方を後押しします。上流階級の若い女性が看護の仕事に一生を捧げることについてどう思うかという彼女の質問に、その人はこう答えます。

「それは確かに異例のことです。しかし私は『進みなさい』と言いましょう。もし、そのような生き方が自分の示された生き方だ、自分の天職だと感じるのであれば、その心のひらめきに従って行動しなさい。他者の幸いのために自分の義務を行っていく限り、決してそれは間違っていないということが分かってくるでしょう。たとえ、どんな道に導かれようとも、選んだ道をひたすら進みなさい。そうすれば神はあなたと共にあるでしょう」

彼女はその後、その言葉通り生涯を生きました。ナイチンゲールは、看護という職業で世の中に貢献したことで尊敬され讃えられています。けれど、神の言葉に応え、神の命を生きるようと必死に自分と戦い続けた、その愛と信仰こそが本当に讃えられるべきものなのではないでしょうか。彼女は私にとって尊敬すべきカルマヨーギニーであり、バクタなのです。

実は、ナイチンゲールは90歳という長寿を全うし1910年8月13日に亡くなっているんですが、その13日後の8月26日にマザーテレサは生まれているんですね。神はきっと甘美な劇の続きをまだ見せたかったに違いない。
ナイチンゲール

 

ユクティー

 

 


五感を清らかに

こんにちは、サーナンダです。
カエルの声が聞こえる季節になりました!
梅雨入りしましたね〜

さて、忙しい生活の中では、
なかなかそのリズムから
抜け出せないことがあります。

心はいつも気になることばかりを考えますし、
気になることは次々変わりますが、
気になることがなくなることもなく、
仕事や人間関係や恋人やお金や食事や
服や家や健康や家族のことなど
いろ〜んなことをずーっと考えます。

そんな時、ふと眼に止まるところに、
心が止まるくらい素敵なものを
置いておくといいです。

我が家のリビングには、
だいぶん前にサティヤーからいただいた
クリシュナの絵が置いてあります。
この絵はとってもお気に入りで、
ときおりふと眼に入り、
ずっと眺めてしまいます。
すると心はクリシュナの下に駆け寄って、
じっとします。
image
眼にはいつも聖なるもの見させておけと
いいますけれど、ミーラー・バーイーは
きっといつも心の眼でクリシュナのことだけを
見続けていたのでしょうね。

サーナンダ


バガヴァッド・ギーター

今日のカードはこちら。私、初めてカードを見た時からこれがお気に入りです。

バガヴァッド・ギーター3
第7章 3節
「全き知識を求めて努力する者はおそらく幾千人の中の ただ一人 その優れた求道者たちの幾千人の中でわたしの実相を知るものは ただ一人」

成就することが如何に難しいかということが書かれているのだと思いますが、カードの絵はそのただ一人の求道者がついに神と一つになる瞬間です。

嬉しいことに神の方も手を差し伸べ、求道者に近づいていっているように見えます。(私には)

 

 


バガヴァッド・ギーター

また、バガヴァッド・ギーターのカードをめくっていました。

バガヴァッド・ギーターカード2
すごい迫力のシヴァ神のカードを見つけました。でも、気になったのは右下にいる礼拝者です。この熱心に礼拝する人の気持ちになりながら、このカードを眺めていました。後ろにはこのように書かれてありました。

第9章26節:
誰でもわたしに信と愛を込めて一枚の葉 一もとの花 一個の果物 あるいは一椀の水を供えるならば わたしは喜んでそれを受けよう

27節:何をしても 何を食べても 何を供え 誰に何を贈っても またどのような修行 苦行をしても アルッジュナよ 全てはわたしへのささげものととせよ

気になって続きを読んでみました。

28節:このようにすれば君は仕事の束縛とその結果の吉凶から解放される 欲を離れて心をわたしに固く結びつければ 君は真の自由を得てわたしの元に来る

……

34節:常にわたしを信頼し わたしを想い 私に従い 私を礼拝せよ 常にわたしに身心を捧げている者がわたしの元に来るのは当然である

なんか本当に神が自分自身に言われたような気がして泣いてしまいました。

 

 


バガヴァッド・ギーター

ギーターカード

グルバイからバガヴァッド・ギーターのカードをいただきました。いくつかの節がカードになっていて、表に教えが、裏にその教えを象徴する美しい絵が描かれています。美しいので最近よく見ています。教えは英語で書かれていてよく分からないので、日本語のバガヴァッドギーターと照らし合わせながら読んでいます。
ギーター1

この絵、とても美しいと思いませんか?

満月の夜にクリシュナとラーダーは寄り添ってブリンダーバンの森を歩いている……とっても親密そうに。澄み切った夜の空気、月明かりに照らされる小道、風に揺れる木々、二人の足音。その澄み切った喜びの中に溶けてしまいそう、想像するだけで言いようのない幸せな気持ちになります。

このカードに書かれている内容は、

「最初は毒のようで結末は甘露のような幸福、自己(アートマン)認識の清澄さから生ずる幸福、それは純質的な(サットヴァ性の)幸福と言われる」(18章37節)

絵から受ける印象通りの内容でした。


パラマハンサ109

美しいパラマハンサはみなさまの手元に届いていますか〜?(パラマハンサとは隔月に発刊されるマハーヨーギーヨーガミッションの会報誌です)
paramahamsa109

パラマハンサには、ヨギさんの教えが弟子との問答形式で載せてあります。不思議なことことですが、自分が一番気になっていること、悩んでいること、そういったタイムリーな教えが載っていて、はっとさせられることも多いのです。

私は介護の仕事をしているのですが、長年、週に何度か、長時間一緒にいる利用者さんがいます。とても気性が激しく、一旦火がつくと大変なことになる方。最近もありました。「あーいつものパターンだな……。関わらないように、空気のように過ごしておこう」と思っていたのですが、あまりにも激しいので、ついつい心はあれこれ感想を述べだします。その人に対して「もーまたそんな文句ばっかり言ってる。そんなこと言っても仕方ないのに!やりにくいな〜」などなど。

しかも今回はそんな状況が以外と長—いこと(何ヶ月も……)続き!!!「いつまでそんなことで怒ってんの!?もういい加減にして欲しい!!!」と私の心はだいぶ動揺していました。

そんなときにふと思い出したのが「諸行無常」という真理の言葉。諸行無常の意味は、言葉の通り、この世界の出来事は常に移り変わり、永遠に続くものはないということです。「当たり前じゃない!?年もとるし、若い時とは体もお肌もぜんぜん違うし」と思うこともあるのですが、それがそれが、なかなか、以外といろいろなことを変わらないと思っていることって多いのです。

今回のパラマハンサに書かれています。

 

「身近なところに、現実的にその諸行無常というのを当てはめていかないといけない。単なる知識じゃないわけだから」

 

なるほど、なるほど、では早速、身近なところに当てはめてみましょう!

私の利用者さんについて、ずっと機嫌が悪いから「この人はホンマに機嫌が悪くて付き合いづらい人」と決めつけています。この何年かでも機嫌の悪い状態は一定期間あり、また収まって、また始まって……と返されてきたのですが、最近ではその人が笑っていても「笑っていてもどうせすぐに怒りだすんじゃないかな?」と疑って見ている自分がいることさえありました。機嫌のいい時、もしくは穏やかな時って意外と印象にない。むしろ怒っている時の方が強く印象に残っている。しかし確かに機嫌が悪い時もあるけれど、いい時もある、それは波のように変わる、それこそ一瞬一瞬で変わる。

私が彼女に持っている印象って、本当にころころ変わるその一瞬を取り上げて勝手に作り上げた印象じゃないのかな?もし、たまたま穏やかな日にしか顔を会わせていなかったら、全然違う印象を持っていたはず。

そう思ったときに、この何年かで蓄積されてきた彼女の印象、それによって出来上がった私の中にある「彼女の性格」というのは、本当に偏りがあるのではないかという気がしてきたのです。諸行無常というのは目に見えることだけでなく、心の思いにもあてはまるのですから、まず「性格」というものを断定するということ自体間違っていると気がついたのです。

そして何より、そんなにころころと変わるものを勝手に限定し、自分で付き合いづらくしていることこそバカらしくなってきたのでした。と言ってもいったん作り上げた印象を無くすことはそう簡単ではないですが、やはり諸行無常を理解しないと本当に自分が苦しめられるということは痛感しました。

 

「……からくりというかそのヴェールを剥ぐことができれば、正しく物事を見ることができる。そうするとすべては諸行無常であると、そういうふうにいろんなところから材料を検討することによって、識別というのはより完全になされていきます。そしたら心はぐうの音も出ないというか、もうそれ以上屁理屈も言えないし、つぶやきもでてこない」

 

今でもその人と話すとき、いろいろなタイミングで「印象」が蘇ってきます。でも心の中で、そんなものは諸行無常のものだ、私はそれには関わらないと無視することにしました。


ヨーガの実践 「三つの宝」

皆さん、こんにちは ダルミニーです。

師は折に触れ、ブッダの教えとヨーガの教えは同じであり、ブッダも偉大なヨーギーであったと説かれています。

仏教の教典にこうあります。

「人身得ること難し 佛法値うこと希れなり 今我等宿善の助くるに依りて 已に受け難き人身を受けたるのみに非ず 遭い難き佛法に値い奉れり 生死の中の善生最勝の生なるべし 最勝の善身を徒にして 露命を無常の風に任することなかれ」

「にんしんうることかたし ぶっぽうおうことまれなり いまわれらしゅくぜんのたすくるによりて すでにうけがたきにんしんをうけたるのみにあらず あいがたきぶっぽうにあいたてまつれり しょうじのなかのぜんしょうさいしょうのしょうなるべし さいしょうのぜんしんをいたずらにして ろめいをむじょうのかぜにまかすることなかれ」

ヨーガの師と出会う前には、人間として生まれたことがそんなに希であるということが、あまり理解できませんでした。幸せなんてちょっとの間で、多くの苦しみを味わうだけのようなものだと思っていたのです。

師は説かれます。

 

「人生の目的は真実を実現することです」

「悟りという完全、円満な世界に目覚めることができるのは、人間だけです」

「確かに人の心は時には天使のようになったり、または悪魔のようにもなります、でもいずれも真実ではないし、不完全なものです。ヨーガにおいては、ただ真実の存在という、そこにだけ目を向け、神々の世界を超えて、そこに目覚めるように教えられます。また実際的な修行もあります。だから人として生まれること、真理を目指す志を持つこと、その実現を施してくれるグルに出会うこと、この三つがもっとも大切なものというふうにいわれています。他でもない自らの魂の問題ですから、決して知的な知識ではないのです。それが人として生まれることの、本当にありがたい祝福です」

 

私はこのまま真実が何かも知らずに死にたくはありません。人間として生まれたことが、恵まれた生であることを十分に理解し、全うすること、それが私の唯一の願いなのです。

皆さんは、どう生きたいですか?

 ダルミニー

 

 

 

 


筍づくし つくレポ

こんにちは。
GWも過ぎて新緑の深みも増してきましたね。
私が住んでいる京都府長岡京市は、
筍の産地で有名です。
旬の筍はとっても美味しいです!

ちょうど先日発行された新刊『さまらさの台所』にも
24頁〜27頁に筍料理が掲載されています。

昨日、マハーヨーギー・ヨーガ・ミッションの
シャーンティ庵にお邪魔しました。
素敵な若人二人が住んでいるヨーギーの住処です。

そこで思いもよらない接待を受けました〜!
image
まさに本に載っていた筍料理です!!!

本当に美味しくいただきました。
本を見ながら作ったようなのですが、
味、盛りつけ、セッティング共に
すごくよかったです!
本のレシピが抜群にいいし、
料理人もいい腕だったのでしょうね。
春の旬の味を満喫し、
清々しい気分になりました! \(^o^)/
ごちそうさまでした。

二人の立ち振る舞いや会話など、
少し前から見違えるほど
変わって来たような気がします。
流石ヨーギーですね!

またお邪魔させていただきます。

サーナンダ


ヨーガの実践 「一切は神」

春がきましたね。

でも美しい桜ももう散ってしまいました。早いですね。私はすぐに散ってしまう桜に、潔さ(ルビ:いさぎよさ)みたいなものを感じますが、皆さんは何を感じられますか?

うちの近所には桜の名所の平野神社があります。桜の時期には、本当にたくさんの人が詣でてお参りをしています。プラナヴァ・サーラの本の中で、師が神道について述べられているところがあって、日本古来の宗教は神道であるが、そこに哲学はないものの「一切は神である」という考えを持っていると書かれてありました。神社には祀られているものは何もなく、胴でできた大きな鏡だけが上に懸けられています。ある人が質問の中で、「日本人は、鏡に映った自分に手を合わせているのですね」と言った言葉が強く印象に残ったことを覚えています。

私の父は長い間、客船の船長をしていました。父は泳ぎができないので、「船が沈んで、死んだら終わり」といつも言っていました。その父からこんな話を聞いたことがあります。航行をしていると、時々海に浮かんでいる死体と出くわすことがあるそうです。いろんな理由があるのでしょうね……。

それを見つけた船乗りたちは、

「この木にすがれ」

と言いながら、その死体に向かって木や板を投げるのだそうです。
いったい誰がその木にすがるのでしょうか?私は、その話を聞いて涙が出そうになりました。

「お父さんも、死なないものがあること本当は知っているくせに、忘れているだけなんだよね」

と思いました。日本人の美しい魂に触れたような気がしました。

ヨーガではこの心も身体も自分ではない、その奥にある純粋な意識、それこそが本当の自分であると教えられます。純粋な意識とは、真理とか、真実とか、神とか、アートマンとか、いろんな言葉で表現されています。

師は説かれます。

「絶対不滅の存在、純粋意識、それがあなたの真の自己です」

「真実は一つしかありません。それこそがリアリティです。別名、神ともいう」

 この心や身体が私たちであるなら、なんとこの世は不幸で不平等なのでしょう。
この教えは、私にとって本当に生きる支えです。人間はこの真実を本当は知っているのだと思います。ただ忘れているだけなんですよね。

ヨーガは、自分の中にあるいろんな謎を解きながら、真実を明らかにしていく道です。真実を思い出していく道です。懐かしい故郷に帰るようなものですよね。

面白そうでしょう? ぜひ一緒に懐かしい故郷に帰りましょう。

ダルミニー


花嫁修業の一日!?

今日は月に一回のさまらさの台所の日、長い雨も上がり、気候も春らしい一日でしたね。今日はブロッコリーのペンネ、スパニッシュオムレツ、大根とにんじんのサラダを紹介しました。身近かな食材を使ったメニューなので、家に帰って手軽にできるととても好評でした。

さまらさペンネ

実はこのメニュー30分で作ることが出来るんですよ!そのコツもお伝えしました。

大切なことは、作る手順から出来上がりを盛りつけるお皿まで、段取りを頭の中に入れてからスタートすること。もう一つは『集中!』です。食事作りは毎日のことなので、ついつい適当に始めてしまったり、何か考え事をしながら作ったり、なかなか調理だけに集中することは難しいときもあります。でもヨーガにとって『集中』はとても大切。アーサナも瞑想も集中力が必要です。ですので、毎日の食事作りの中でしっかり集中していく訓練をしていくと、いつの間にか集中力がつくと思うのです。「集中、集中……」と思っていても、心はふわふわ〜と違うことを考えてしまったり、ぼーっとしてしまったりします。そこで30分という目標を定めると、集中せざるを得なくなると思うのです。実は私、何年もこれをしていました。いつの間にか時間を定めることはなくなりましたが、そのときの習慣は身体に染み付いた気がします。
ただ時間にとらわれすぎて、行為が雑にならないようにしてくださいね〜。せっかく毎日することなので、楽しみながら出来たらいいなぁ〜と思います。

さまらさペンネ2

さてさて、さまらさが終わってからは「生け花教室」。お料理の後はお花!!まるで花嫁修業です。近所に住むヨーガの仲間で集まり、アーシュラマでいつもお花を生けてくださっているシャーンティマイーさんに講師に来ていただきました。

お花3

なんと12人も集まったのですが、一人一人の活け方は何とも個性豊か。それぞれの生け方を見て、シャーンティマイーさんがほんの少し手直ししてくださるのですが、その瞬間、突然お花がいきいきするのです。大切なことはお花の正面をしっかり見て、向き合うこと、そして今日二回目の登場!!「集中!」も大切だと教わりました。やっぱり料理もお花も、そしてあらゆる行為の秘訣には共通点があるんだな〜と感じる一日でした。

今日のSさんのできばえ!

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情熱的なバラを活けたYさんの作品

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 サティヤー