日常のヨーガ」カテゴリーアーカイブ

ブロッコリーのペンネの思い出

4月のさまらさの台所で紹介するブロッコリーのペンネ、12日に向けて試作を重ねています。
このメニュー、実はとても思い入れ?思い出があります。各月で発刊しているパラマハンサにはさまらさのコーナーがありますが、初めて私がそのコーナーを担当した時のメニューがブロッコリーのペンネでした。そのころは紙面作りのためにメインの担当者+先輩と二人で組み、旬の食材を使ったレシピを考えていました。どのようにしてブロッコリーのペンネに決まったのかは記憶にないのですが、まずは試作してみようという流れから買い物を私が担当したことを覚えています。
ブロッコリーのペンネと言えば……。私が食べたこと、見たことがあるものは、ブロッコリーをゆがいたものにアンチョビを加えたり、ナッツ類をミキサーにかけたり、生クリームを加えたり、他の野菜を加えたり……さまらさではどうするかは分からないけれど、自分の想定している範囲でとりあえず足りなかったらいけないからといろいろ買った記憶があります。

試作の日、結局使ったのは、ブロッコリー、オリーブオイル、塩、鷹の爪、以上!!

私「これだけしか使わないんですか?けっこういろんなレシピを見ているとナッツとか生クリームとか入っていますよ」

先輩「入れなくても美味しいんじゃない?」

私「ミキサーも用意しましたけど」

先輩「ミキサー使わなくてもできるよ」

私「……」

私の想定していたものとまったく違うものが出来上がりましたが一口食べてビックリ!!めちゃくちゃ美味しかったんです。作り方といい、味といい、人って想定していることが裏切られるとこんなにもビックリするものなのですね。とにかくビックリしている間に試作は終了し、先輩達は帰っていかれました。でもこの経験が、いろんな意味で本当に学びになったのです。

まず、執らわれがないということ、そして余計なものを足さない、あるがままの良さをいかすという姿勢。それは料理を通り越し、生き方の「姿勢」を学んだと思います。

「こういうことが観念の破壊っていうんじゃないの!!」(無意識にでも執らわれている観念に縛られていると不自由なので、それを破壊していくこと)

観念ってこういうちょっとしたことにもあるんやなぁと初めて「観念」というものを感じた瞬間でした。その経験から、さまらさってめっちゃ面白い!!と思うようになり、私にとってとても良いヨーガの実践の場に変わっていきました。

そんなことを思い出しながらの試作でした。12日の台所ではその時の驚きが伝わればいいなぁと思っています。

サティヤー


出会いとお別れ

卒業・入学シーズンです。南相馬のこの地域では、小学校を最後にすべての卒業式は終わったようです。私の職場にも、辞めていく人、入ってくる人がいます。辞めていく人の方が圧倒的に多いんですけどね。嬉しいことに、今日新しい看護師さんがうちの病棟に来られました。私は夜勤明けだったので、軽く挨拶程度しかできませんでしたが、ずっと別の仕事をされていたそうで、看護師復帰は7年ぶりだとか。また来月からは、以前私が教育担当していた看護師くんが異動でうちの病棟に戻ってきます。これからまた一緒に成長したいです。

そして去って行く人。私がこの病院に面接に来て、初めて話をした人。面接の時は看護部長でしたが、翌年私が入職した時は部長の座を他の人に譲り、全体の運営や教育に関わっておられました。定年後も人不足のため引き続いて働いておられましたが、キリがないと今月で辞めることを決意されたようでした。実は、この地域には同じくらいの規模の病院がもう一つあり、3年前に面接でここに来た時電車から見えるその病院の雰囲気がとても明るくて爽やかで、逆に私の就職した病院はなんだか薄暗くて「病院の選択を誤った!!」と一瞬後悔したことを思い出します。でも、その後看護部長に会った時、原発の危険や遠くに移り住むこと、独特の地域性など私の中にあった全ての不安が消えていったんですね。穏やかでもの静かな、母親のような優しさがにじみ出てる人。この人の前にいると、自分の心の狭さが浮き彫りになり、恥ずかしくなってしまう。この人の下でなら働ける、あの時そう思わせてくださった人ですから、やっぱりそういう特別な思いがある人との別れは本当に悲しいものなのです。

先日「退職されるんですね」と声をかけると、「そうなの…」と言って、しばらく私を見ておられましたが、「一番大変な時に来てくれて…。先に辞めてごめんね」と申し訳なさそうな顔をして言われました。先に辞めてごめんね???私は最初その言葉の意味がよく分からなかった。どうして「ごめんね」なんだろうと頭の中をぐるぐるとその言葉を巡らせていました。でも、後からじわじわとその人の思いやりが感じられて、別れの寂しさがこみ上げてきました。

あの原発事故の後もここに残った人は、一人、また一人と去って行くのをこんな風に見送っていたんだろうなと思いました。事故があってもここに残った人と、それが原因で去って行った人がいる。それぞれの状況があって、それぞれが選んだ道がある。一部では残った人と去って行った人の間の確執が根強く残り、それが帰って来ることの妨げになっているとも伝えられています。私には実際のところは分からないけれど、ここは都会と違って地域住民同士の間に家族のような密接な関わり合いがある。いつの日か、そんな関係性がまた戻ってくればいいなと思います。

夏には病院のある部署が閉鎖されます。これからさらに大きな変革期を迎えます。私もこの先はどうなるか分からない。年度末のこの時期になると、私がここからそろそろ去って行くんじゃないかと、皆が入れ代わり立ち代わり、それとなく偵察してくるのが分かります。これ、結構可笑しい。ここに来て二年経った今も、関西弁しか話せない私を「すっかり原町(この地域の名前)の子になったね」と言って受け入れてくれる寛大な人たちに囲まれながら、今年も色々な役割を与えていただいて、悔いのないように、しっかりその役割を果たしていきたいと思っています。

少し車で走ったところにある癒しの森。近づくともっと眺めがいいんです。

少し車で走ったところにある癒しの森。近づくともっと眺めがいいんです。

ユクティー


次の瞬間に死んでもいいという生き方3

昨日の夜勤で、ある患者さんの家族に伝えました。「主治医も言った通り状態はとても悪く、意識がなくなってきています。今日、もしかしたら夜中にということもあります。何かあれば連絡します」。バッドニュースって、とかく遠回しに伝えがちですが、あまり伝え方に神経質になるときちんと伝わらず、死が近いことを家族が実感しにくくなってしまう。でも、うちの病棟の患者さん家族は、頻繁に足を運ばれる方も結構おられ、本人の様子から気づかれることも多いのです。今日はいつもと違うと。

本人はというと、ほとんど話すこともできないその人は、スタッフが近づくとものすごい苦痛の表情を浮かべていましたが、意識レベルの低下に伴い、それも見られなくなっていきました。一般の病院で入院している人は、とても忙しい。やれ痰の吸引だ、オムツ交換だ、床ずれの処置だ、点滴の針の差し替えだ、とスタッフが代わる代わるやってきてはそれぞれの業務をこなしていきます。その処置の多くが苦痛を伴います。患者さんはただじっと耐えるだけです。ほとんど処置のない人は別ですが、私が患者さんの表情で最もよく思い浮かべるのは苦痛に満ちた表情です。何もできない自分に対する情けなさ、さまざまな苦痛に耐え続けなければならないやり切れなさ、死ぬ事もできない苦悩が、その表情から感じられます。

理想的な死を迎えることは、どう生きるかということと深く関係しているといわれます。つまり、どう生きたかで満足感に包まれて死ねるかどうかが決まるということです。多くの研究で、その生き方に共通する結果が残されています。その一つは他者のために生きるということです。最期をそのように生き抜くことが出来た時、たとえ死が迫りくる中でも、人は生きがいを持てるといいます。では、上に書いたような患者さんはどうしたらいいのか。その人が生き続けること自体、存在そのものが家族のためになるという考えもあります。確かにそうだと思いますが、本人の苦痛を考えれば、特に入院が長期にわたると残酷な気もします。

聖書やコーランなど、多くの宗教書は死後の生命について述べられ、世界各地の埋葬礼儀も、来生を前提として行われるものがたくさんあると聞きます。死んだ後も自分の霊魂は生き続けると信じることは、その人に希望を与え死への不安が軽減されることに繋がるといわれる。でも、そこで論じられているのは、それを信じるかどうかという問題です。なぜなら、それを証明できる人がいないからです。誰も永遠の生命があるかどうかを知らないからです。たとえそれが真実ではなかったとしても、それを信じることによって希望を持ったまま死んでいけるなら、その人に不利益はないわけです。だから、信じるということに懸けるのです。

私たちのヨーガの先生は、それは真実であり、生きながらにして実現できるのだと言われます。本当の自分は滅びゆく体ではなく、移ろいやすい心でもなく、心の奥にある永遠の存在である、そのことを自分で証明することこそ、私たちが生まれた本当の目的であると。そしてヨーガはそれを実現するための方法を教えてくれます。

もし死に近づいている人が、真実を知る人に出会い、残された時間をその実現に向けてひたすら努力することができるなら、その人の最期はどうなるでしょう。もし達成されないままに命が尽きたとしても、たとえ誰にも看取られずにたった一人で死んでいったとしても、他のどんな生き方を選ぶより満足して死んでいくに違いない。もう、満足かどうかなど問題ではなくなるかもしれない。そして死ぬ間際にこう願うはずです。必ず、また次の生も出会えますようにと。

どんなに苦しい時も真実をひたすら求め、心は晴れ渡る青空のようでいたいと思います

どんなに苦しい時も真実をひたすら求め、心は晴れ渡る青空のようでいたいと思います

 そしてさらにつづく


4年が経ちました

2011年3月11日午後2時46分18秒、死者数約15800人、行方不明者数2590人、大惨事を引き起こした東日本大震災から4年が経ちました。ここ福島では帰還困難区域の整備の遅れ、東電の補償問題、被災地に住む人たちの高齢化の急激な加速、仮設住宅の孤独死、風評被害による企業の経営危機…などなど、色々な問題が山積みですが、それでも少しずつ復興に向けて進んでいることもあります。

今月の1日、常磐道自動車道が全面開通しました、常磐自動車道というのは、埼玉と仙台を結ぶ高速道路です。これによって首都圏と東北の行き来が容易になりました。この道は東日本大震災の原発事故で工事は中断し、三年遅れで計画から約50年をかけてようやく完成となりました。この道路については、人の往来が活発化し地域の活性化につながるという希望的見方がある一方、立ち入りさえ禁止されている帰還困難区域や自由に入れるが住むことができない居住制限区域を通り、最も原発に近い所では、約6キロの場所を通るため、その安全性が疑問視されています。このような区域の料金所には線量をモニタリングする電子ボードがあり、今のところその線量は国が規定する値を下回っているようですが、被爆の危険を心配し安全のためなら遠回りする方がいいという意見もあるようです。また、いずれこの道は、放射性物質に汚染された土の中間貯蔵施設予定地の双葉、大熊両町にも繋げられ、その搬入路としての大切な役割を担うだろうとされています。

私個人としては、結構喜んでいます。なぜなら、ここから東京まで一本道、車で行けるようになるからです。あとは、私の運転能力だけです…。ふふっ。東京も賑わってきたみたいですし、もっと運転頑張ります。

話は当時のことに戻ります。この二年間、一緒に働くスタッフから何度も何度も震災の時の出来事について話を聞いてきました。私はインドにいたので、当時のことはコルカタで見たテレビのニュースで知ったことがほとんどです。スタッフの話の多くは、メディアでは知ることができない個人的なことや病院のこと、この地域周辺のことです。今日はその中のほんの少しですが、ここであった当時の出来事をお伝えしたいと思います。

私の職場は原発から25キロの所にあります。震災後、次々と職員はここを離れていきました。気づけば、それまでの3分の1になっていたといいます。でも、入院患者さんはいるので、残った職員で患者さんの命を守り続けないといけない。いなくなった給食調理人さんの代わりに事務の人たちが残されたレシピを見ながら患者さんの食事を作り、看護師に代わって食事介助をしました。震災後原発事故の影響でここには一か月ほど自衛隊すら来なかったため、食材が手に入らず、日に日に給食の種類も量も減っていったといいます。いつか患者さんは飢えて死ぬんじゃないだろうか、みんなそう思ったそうです。(でも、糖尿病患者さんは逆に病気が良くなったらしい…。やっぱり現代人って食べ過ぎなんだなあ。)

師長の責任を果たすことは、とても厳しい任務を引き受けることでもあります。ある病棟の師長さんは、子どもが津波で流されました。でも、それを悲しむ暇もなく時間を問わず患者さんと病院のために働き続けました。彼女の家族も総出で病院の仕事を手伝ったといいます。

病院は3月19日、患者さんを県外の病院や施設に避難させるためバスで移動させました。それまでに患者さんそれぞれの荷物をまとめ、すぐにバスに積めるよう、少ない職員で夜勤も日勤も関係なく働き続けたそうです。でも、ずっと寝たきり状態だった患者さんが普通のバスに何時間も乗ることには耐えられません。バスの中で急変し亡くなった方もいたそうです。

行政も住民を避難させるために不眠不休で働いたといいます。バスを用意して地域住民を移動させようとしました。ある日、町の放送でこう聞かされたそうです。○月○日最後のバスが出ます。このバスに乗るかどうかは各自で決めてください。もし乗らない場合、個人の責任で避難してもらうことになりますが、その場合補償は出ませんと。でも、最後のバスが出るその日、まだ病院に患者さんはいたのです。職員は悩みました。去るべきか、止まるべきか。3月19日すべての患者さんの移動が終わると、残ったスタッフが集められ、院長から病院を一旦閉めることが伝えられました。再開は保障できないので、他で働いてもいい、でも再開した時には、できたらまた戻って来て欲しいと言われたそうです。このことを話してくれたスタッフは、その後もすぐには避難せずここに住み続けました。他の店も会社も閉まっているので、どこかで働くこともできない。放射線量が高いから外に出るなと言われる。ごみの収集もなかったため、町はゴミだらけだったといいます。

こうして守り続けてくれた人がいるから、今も病院は存続し地域の人が医療を受け続けることができる。そして私の働く場がある。今彼女たちはあの時の地震の揺れさえ笑って話してくれるけれど、多くのストレスを自分で克服してきたことがその様子から感じられます。ここの未来はおそらくまだたくさんの困難が待っているに違いない。でも私が二年ここで過ごして感じることは、たとえ現実が思いのままにいかず重く苦しかったとしても、その現実に踏みとどまり忠実に生きようとする時、それを生き抜く力が与えられるということです。

今日はそれぞれがあの震災に向き合う日です。私は仕事ですが、2時46分には職員みんなで黙とうを捧げます。震災によって犠牲となられた方々のご冥福を心からお祈りいたします。

「ここからいわき方面を走る常磐線は寸断されたままです。開通は2017年だそうです」

「ここからいわき方面を走る常磐線は寸断されたままです。開通は2017年だそうです」

ユクティー

 


もっと知りたくなったイスラーム展

今日はこの間の続きではなく、先週東京に行った時のことを書きます。東京には研修で行ったのですが、帰りに近くの東洋文庫ミュージアム(文京区)で開催していた「もっと知りたいイスラーム展」を見に行きました。ここは、アジアの歴史や文化に関する東洋文学の研究図書館(東洋学分野での日本最古・最大の研究図書館であり、世界5大東洋学研究図書館の一つ)である東洋文庫さんが開設された博物館です。建物はとてもシンプルなんですけど、中に入ると見る人が展示の世界に引き込まれ、そこに静かに浸っていられるような空間を提供してくれます。そして展示の内容も魅力的です。今回は話題のイスラームについて。イスラームの誕生から預言者の意味、歴史や宗派生活規範、イスラーム原理主義にいたるまで、様々なことが書物や絵などを用いながら説明されています。日本との関係も。日本にイスラーム世界の情報が入ってきたのは19世紀以降ですが、西アジアとの交流は600年代の書物からも断片的ではありますが見出せるそうです。室町時代には、相国寺の僧侶が中国から連れてきたアラブ人が京都に住んでいたという記録も残っているとか。

そして何と言っても今回私の心を打ったのは、イスラーム教の聖典『コーラン』です。より正確には「クルアーン」と発音するそうですが、14世紀に現在のシリアで書写されたアラビア語の『コーラン』が展示されていて、それが本当に美しい!!でも、それにも増して美しいのが(私の個人的な印象です)、ペルシャ語の『コーラン』です。ガラスにへばりついて見てしまいます。文字ってあんなに綺麗なものなんですか⁉でも、『コーラン』は預言者ムハンマドに授けられた唯一の神アッラーの言葉(啓示)をまとめたものであり、その預言はアラビア語で授けられたため、神の言葉を置き換えるなどということは許されず、『コーラン』をアラビア語以外に翻訳するということは長らく禁じられていたそうです。今ではできるようになりましたが、それでも「アラビア語以外の言語で書かれたものはコーランとはいえない」という考えは変わらず、他の言語で書かれたものは『コーラン』そのものではなく、「コーランの注釈書」とみなされているようです。『コーラン』とはアラビア語で「誦まれるべきもの」という意味であり、礼拝の時にはアラブ圏以外のイスラーム国の人々も暗記したアラビア語のものを暗誦するそうです。しかし、文字があんなに美しいと感じたのは生まれて初めてでした。きっとアラビア語やペルシャ語の文字が美しいのでしょうが、各節の区切りを示す金色の花や、発音の注意点を書き加えた赤い記号もまた、『コーラン』の美しさをより際立たせているのではないかと思えます。

イスラームとは、神に帰依するという意味のアラビア語だそうです。『コーラン』の中にはどんなことが書かれているかはよく知らないのですが、神を求めた人たちがイスラームによって神に至る道を見い出し、それを守り伝えようとした、そんな彼らのひたむきな思いに触れ、共に神に向かいたいという気持ちが掻き立てられました。

近くに行かれた際には、足を運んでみてくださいね。

イスラム展

ユクティー


ヨーガの実践「他者だけのために行為する」

皆さん、こんにちは、ダルミニーです。

先日職場で、上司から注意を受けました。

「もっと相手の立場に立って、仕事をするように」

なんということでしょう。このエゴと無知を無くすためヨーガを実践しているはずなのに、相手の立場に立って仕事をするように心掛けていたはずなのに、この言葉は私の師からいただいた教えのように私の心に響きました。

エゴとは自分中心に物事を考えることです。自分がいちばん心地良いように行為することです。無知とは以前にも言いましたが、この世の中に対する誤った見方です。永遠でないものに永遠を見ること、浄らかでないものに浄を見ること、幸福でないものに幸福を見ること、私でないものに私を見ることです。

私は素直に反省し、今後も気を付けますと伝えました。すると上司は言いました。

「これはとてもいいことなのだ。これを機会に改善できればいいことだし、これはあなただけのことではなくて、みんなの意識がもっと高くなっていってくれれば嬉しい」

なんと、これも私の師から教えられたような気がしました。それから上司は引き続き、

「あんまり相手の言うことを聞きすぎると、大変なことになることもあるから、その点は注意して」

なんとも、そのへんの境界が難しいものです。しかしインドの聖者の方々は、一切の自分というものを無くして、他者だけのために行為されています。本当に高い境地におられるのですね。自分というエゴ意識が全くない状態、それが本来の理想の人間の姿なのでしょう。

『ヨーガ・スートラ』に「心の作用を止滅することがヨーガである」とあります。心はいつも外界の刺激にさらされて、ああでもない、こうでもないと右往左往しています。そしてこの心と身体を私だと思い、その私を満足させるために心を働かせています。心の作用を止滅させるということは、そういった心の動揺を少しずつ静めていって、そうして不動の状態に留めておこうとするものです。

しかしそれは並大抵のことではありません。私たちは本当に大きな仕事に立ち向かっています。この困難な仕事を推し進めるためには、日々の実践と大いなるものへの憧れ、具体的に思い描く理想の姿への憧れが大切なのだと思いました。どうありたいのか、どうなりたいのか、自分の未来の具体的な姿をイメージし、その姿に近づいていけるよう努力することが大切なのだと思いました。

その話のあとには続きがあります。私はその日、上司から注意を受けたのでちょっと元気がありませんでした。しかしその夜、私は大いに人から感謝される夢を見たのです。

師から、「この世の出来事は夢のようなもの、早く夢から覚めなさい」と教えられています。全く真反対のその夢を見た時、本当は何が現実なのだろうと思いました。本当のこと、真実ってどこにあるのだろうと思いました。でもその時に一条の光のように差し込んでくるのが師のお言葉です。

「誰もの中に真実があります。それこそがリアリティです」

師の教え、ヨーガの教えが私の生きる支えです。今日もまたむくむくと勇気がわき起こり、本当の自分、真実のために生きて行こうと元気いっぱいになる私なのでした。

みなさん、日々お仕事大変でしょう。ご苦労様です。日常生活の中にこそ、ヨーガを実践する場所があります。ヨーガの教えにそって日々の生活を送ることこそが、この世間という大海の荒波を渡っていく大切な智慧と力になります。ヨーガという大船に乗って、みんなでこの大海を渡りきりましょう。

またクラスに来てくださいね。待っています。

 ダルミニー


次の瞬間に死んでもいいという生き方

死をなぜ、どのようにして受け入れ始めるのか。私の経験をもとに書いていきたいと思います。それは、症状が進むにつれ、死が近いことを見せつけられるからです。どれほど否定しても、心で誤魔化して死を見ることから目を逸らそうとしても、それが簡単に打ち砕かれるほどの現実を突きつけられるからです。簡単に言えば、症状の悪化を日に日に感じるようになるということであり、それに耐えきれないようになっていくということです。それは、死を自ら受け入れるというよりも、有無をいわせず、手の中に投げ込まれるという感じです。もう、どこにも逃げられない、そう思った時、絶望という鉛のように重く、黒い闇が自分の心を支配するようになります。それとともに、この状況はどんなに近しい、自分を愛してくれる家族や友人であっても、誰も助けることはできないということ、例えたくさんの人に看取られたとしても、現実に死を迎えるのは自分だけであり、孤独の中で死ぬしかないのだということを痛感させられるのです。

だから、死に抵抗しようとする無駄な心は、剥がれ落ちるように離れていきます。諦めですね。完全に諦め切れるということは、無いのかも知れませんが、少しずつ、現実の進行と共に、心もそれに付いていくようになります。まだ、自分にはやり残したことがあり、それが達成できない悔しさがあるかも知れない。自分が去ることで、この世に残していく愛する人を不憫に思う悲しみが死の受け入れを阻むかも知れない。でも、死は、そんなものはいとも簡単に打ち壊してしまいます。

そして神は、死を前にした私たちの内に、熱心な問いかけが生まれるのを待っているのです。なぜ自分がこの世に生まれたのか、なぜこうして死んでいかなければならないのか、という普遍的な問いかけを。この神秘的な、でも人として生まれてきた根本的な問題について、私たちは自分の力だけで本当の答えを見つけ出すことは難しいのです。でも、もしその探求が自分の命を捨てるほどに熱心になされるなら、死という運命すら変えてしまうかも知れない。死を前にして命を捨てるというのも不思議ですが、実は、この人間的探究がもたらす力というものは、私たちの想像をはるかに越えるものがあるのです。

それで、次の瞬間に死んでもいいという生き方ですが、この人間的探究から始まります。本当は、死が差し迫ってからそれを始めても、その生で答えを見つけるために与えられた時間は、とても短いということになります。だから、私たちは、常日頃からその探求に力を注がなければならない。

イエス・キリストはこう言っています。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」。神という言葉が出てきますが、これは、真理を、命を、生きるということの本質を探究することであり、「何よりもまず」というのは、すべてのことにおいて絶対優先ということです。イエスはさらに「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」「もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい」とまで言っている。とても極端な例えに思えますが、命を懸けて、まさに与えられた時間と力をすべてこの探究に注ぎ込みなさいと教えているのです。他に長い例え話で説教している場面もあります。彼がどれほどそのことを弟子たちに伝えようとしていたか、よく分かると思います。

そして、もう一つ必要なのは、探究するための方法です。それは、終末期にある人に対しても、死と対峙する恐怖に手を差し伸べてくれるものとなるのです。

 

またまた長くなったので続く

ユクティー


次の瞬間に死んでもいいという生き方

この間は年末のことについて書きましたが、今日は年始のことについて書きたいと思います。みなさんはお正月、家族や親戚の方たちと賑やかに過ごされたのでしょうか。私は、元旦から仕事でした。正月だからって患者さんはおられるので、休むわけにはいきません。そして、死は正月だからって遅れてきてはくれないんですよね。元旦から急死、急変、看取り、さまざまなことがありました。年末年始に亡くなる人って、結構多いんです。

その日、私はサブリーダーといって、患者さんを担当しているスタッフの補佐をする役割でした。血圧を測ったり、医師の指示を聞いて書類を作成したり(これがまた都会のようにパソコン一つですべて処理できるのと違ってやり方がアナログ!すごい面倒×××)、薬を準備したり、医師の処置の介助をしたり、やることが多くて結構スピードが問われます。

うちの病棟にMさんという高齢の男性患者さんがおられまして、朝9時過ぎに私が血圧を測りに部屋に入ると、「おぉっ!下顎呼吸になっている!」。これは、死が近い兆候です。死の間際に置かれた患者さんは、血圧が低下した後、胸郭を使った呼吸から下顎を使った呼吸に変わり、呼吸回数が極端に減少します。その後、心拍数が低下し始めます。もともとMさんの状態は良くはなかったのですが、これは明らかに家族や主治医を呼ばないといけないレベル。そんな申し送りもなかったので、慌てて大声でスタッフを呼びました。でも…、あれれ?誰も来ない…。ここにはスタッフコールとか、病院なら普通にある気の利いた設備がありません。(注:スタッフコールとは、緊急事態にスタッフが他のスタッフを呼ぶコールで、患者が押すナースコールとは別にある)。仕方なくナースコールを押してみた。うぅっ!誰も出ない…。なんでやねん!(←つっこみではない)。本当はこういう場合、患者から離れてはいけないんですが、仕方なくあたふたと部屋のドアを開けに行って、大声で人を呼びました。それで何とか、その日のMさんの担当看護師と二人で看取る体制を整えたんです。

でも結局、家族が到着する前にMさんの心臓は止まってしまったんですね。亡くなったのは、私が発見してから30分後のことでした。家族はすごく悲しまれていました。毎日病院に来ては食事介助したり優しく話しかけたりされるような熱心な家族でしたから、見ていられないくらい泣いておられました。Mさんにはとてもしっかりしたお孫さんがおられて、その方が詰所に来て言われたんですね。まったく何の準備もできていないので、しばらく置いておいて欲しいと。Mさんが亡くなることを家族は誰も想像してなかったということなんです。師長が15時までならということで許可したのですが、急死ならともかく、Mさんは長い間重症の肺炎を患っていて、ずっと治療してきたし、何度も主治医から覚悟するようにと言われてきたんですよね。なのに死ぬと思っていなかったって…とスタッフはみんな驚いていました。

でも、きっと人間って皆そうなんですね。特にMさんのように何度も肺炎にかかり、何度も死ぬような状況を乗り越えてくると、また今度も大丈夫だろうと思ってしまう。いつか医者のいうこともお決まり文句だくらいに思ってしまって、死が間近に迫っているという実感がわかなくなっていく。

Mさんの家族を見て、あぁ、私もそうなんだなと思いました。私だって明日死ぬなんて思ってもいないけど、そうならないとは限らない。いつか自分が、身近な人が死ぬという実感がない。どれほどたくさんの患者さんを看取ったとしても、その経験によって自分の死を実感することはないんです。

そんなことを感じながら思い出すのは、やはり聖者たちの言葉です。聖者たちの言葉を見ますと、一瞬一瞬を、その時その時を生きなさいというのをよく目にします。聖者たちがそのように生きたということですね。私たちのヨーガの先生も言われます。次の瞬間に死んでもいいという生き方をしなさいと。では、次の瞬間に死を感じれば、そういう生き方ができるかと言えば、そうではないです。次の瞬間に死ぬって感覚、本当に私たちは持つことができるのでしょうか。

私は過去に自分の死を予感したことがあります。私の場合は病気でしたが、症状が日に日に重くなり、死を自ら感じるというより、いくら拒んでもいやおうなく感じさせられるという言い方のほうが的確です。症状による苦痛はひどく、言葉に表せませんが、何と言っても孤独感がひどい。次の日目覚めなかったらどうしようと思って布団に入り、体は重くてくたくたなのに、怖くて眠れないんですね。でも一方で、このままずっとこの苦痛が続くのかと、苦悩し続ける自分もいる。この時、私は生まれて初めて、誰でもない自分がもうすぐ死ぬんだと感じるようになっていたんですね。毎日、恐怖と不安でビクビクしていた。だから、次の瞬間に死ぬかも知れないとは思っているけれど、死んでもいいという生き方をしていたわけではない。

しかし、やがて、ほんの少しずつ死を受け入れ始める日がやってきます。

あの時は、こんな風にコンクリートの隙間に咲き続ける花からよく勇気をもらっていました

あの時は、こんな風にコンクリートの隙間に咲き続ける花からよく勇気をもらっていました

 長くなったので、つづく
ユクティー

 


まっすぐなお客さま

新しい年があけましたね。みなさんは、年末年始をどんな風に過ごされましたか?年末、私のところには素敵なお客さまがみえました!とても愉快で安らぐ時間でした。今日は、その時のことについて書いてみたいと思います。

人が来てくれるというのは、とても幸せなことです。なぜなら、ここでは誰かが去るのを見送ることの方が多いからです。私は今年の春からここに来て三年目に入ります。この二年で何人の人が去っていくのを見送ったでしょう。近々また別れがあります。

さて、お客さまは誰かと言えば、パラマハンサの表紙を描いておられる、東京在住のグルバイ内山さんでした。出張でいわきに来たので、寄ってくれたのです。寄ってくれたといっても、バスを乗り換えて約4時間半。しかも年末、帰省客でバスは満員だったそうです。震災前はいわきまで電車が通っていたのですが、原発の関係で途中の区間がまだ開通していないので、遠回りしてもらわないといけないんですよね。

彼女とは京都ではあまりお話したことがなかったのですが、よくぞ来てくれました!地元の知り合いは時々遊びに来てくれるのですが、彼女は私にとって記念すべき初めて家に来てくれたグルバイだったので、とっても興奮しましたよ!

内山さんとは、ヨーガの先生のこと、ミッションのこと、グルバイのこと、自分のこと、いろんな話をしました。話の内容というよりも、話をする彼女から何を感じたかというと、それは神へのまっすぐな思いです。淡々と話す彼女から不安や悩みなどは聞かれませんでしたが、毎日を過ごす中できっと大変なこともあるでしょう。でも、そんなことを越えるまっすぐな思いが彼女の心の中に根付いているのを感じました。自分の意見をしっかりと持ちはっきり言葉に出す、そんな彼女のまっすぐな性格も神への思いに表れているのかもしれません。そんなことを感じながら、私はふと旧約聖書に出てくる預言者イザヤの言葉を思い出しました。旧約聖書はすべて読んだわけではないのですが、この言葉はイエス・キリストと深くかかわった人が発したことで有名なので、私も覚えているんです。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る』」

道というのは、神に向かう思いです。人間の思いは色々なものが入り混じり、まっすぐではなく凸凹です。虚栄心や妬み、捉われ、打算、コンプレックス…。それを誠実で偽りのないものにしないといけない。それがまっすぐな道であり、最も神に近く最も早く神に辿り着く道だといわれます。彼女のまっすぐな思いは私の思いのゆがみも正してくれたようで、まるで京都に行ってサンガに参加した時のようにすがすがしく、新たに神に向かおうとする力をいただいたように感じました。

彼女の滞在中は家でリラックスしながら話したり、ドライブに行ったり…。初日は震災で何にもなくなってしまった海岸に行きました。

海辺なにもない

ここら辺は民家がありましたが、全部流されてしまいました…

ここら辺は民家がありましたが、全部流されてしまいました…

 翌日は外で昼食を食べた後、私のおススメ、いわき発「木村のむヨーグルト」を買いにスーパーイオンへ。これ、すごく美味しいんですよ~。

ヨーグルト

いよっ!いい飲みっぷり!

いよっ!いい飲みっぷり!

やっぱり、楽しい時間はあっという間に過ぎるんです。二日目の夕方彼女をバス停まで見送りました。また元の生活に戻った私は、残された寂しさよりも、神に見守られている温かさと安心を感じていました。そんな良いものを彼女は残していってくれたんですね。これからますます厳しくなっていくだろう現実にきちんと向かい合っていこうと決意を新たに固めるのでした。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」

内山さんが来てくれた日からずっと、この言葉が私の心に残っています。

 ユクティー


破れた布団とミシンと私

2000年問題から早15年。
こんにちは、マーダヴィーです。

突然の告白ですが、私はお裁縫がとっても苦手。
女子であるにも関わらず、出来れば避けて通りたい分野です。

ですが、年始早々、とうとうそれに立ち向かわないといけない時がやってきました。

同じお布団を何年も使っているうちに生地が弱くなり、ふちがビリビリに裂けてしまいました。お気に入りのお布団なので、これまでは破れた部分を手で繕ってきましたが、それも手間と時間がかかる。しかも仕上がりははっきり言って、、、、、、上手くない。

私の祖母はお裁縫が大好きで、ミシンもよく使っていました。祖母が選んで買ったミシンなので大切にしなくちゃと思い、今の家にも持ってきました。案の定、ミシンは置きっぱなし状態へ突入。いい道具も使い手がいないとその本領は発揮されず、まさにこれぞ宝の持ち腐れ。

この破れたお布団をミシンで縫えば早く出来るし、私のお裁縫能力よりもはるかに綺麗に、しかも丈夫に仕上がるだろうということはよくよく分かっているのです、はい。

ミシンを出すのが面倒だ、使うのが大変だ、そんなことしてる時間がない、そもそも一人でミシンを使うことなんてできるのだろうか?中学高校の頃以来か?上手く使えないんじゃないか・・・

結局実際にミシンを出すことをしないで、色々言い訳や理由を並べ立てて、“やっぱやめとこ〜” という結果になるのです。

大変だ、きっと難しいし自分にはできないという結果(自分の未来)を、やってみることなく、事前に作り上げているワケですね。そしてそれを苦手なものとして位置づけて、避けて通ることを繰り返し、これは苦手という傾向をさらに強めていくことになり、ますます苦手という枠から脱出することができなくなる。。。

よし!お正月休みで今はちょっと時間があるし、心を空っぽにして何も思わないでとにかくやってみよう!!とミシン掛けにチャレンジしてみたのです!

そうすると、、、

あれ?意外と簡単やん!(基本的にまっすぐ縫うだけだし、ミシンはほぼほぼ全自動)
こうやって黙々と一つのことをすることは全然苦じゃないし、実は好きやったんや、自分って。
しかも、無心で何かに集中してるって楽しいやーん!
予想外に短時間で出来上がった〜!やった〜!

と、とても気持ちのよい結果に!

それにしても実際に行動に移すところまでには長い時間かかった〜〜のですが、やってみると
苦手の克服あっという間に終了!心も軽い!

そこで気がついたのが、これってアーサナと全く同じ!ということ。

アーサナの中でも、このアーサナはキツイとか苦手なものってありません?
次はあのアーサナか〜とか、キツイなぁ、今日はスキップしちゃおうかとか・・・

結局、それも、それまでの経験でキツイとか苦しいと感じたことが積み重なって、この形はキツイ苦しいもんだという観念や結果を、そのアーサナをする前に自分で勝手に作ってしまっているんですよね。

そんな思いがアーサナの前に出てきたら、まずは心を空っぽにして、何も思わずにとにかくやってみる。そうすると、意外とそのアーサナに自然と向き合えたり、苦手だと決めつけていたのは自分だったと気がつくことがあります。

もし、アーサナの最中に心が動いたら、もう一度吐く息にフォーカスし直して、心に動く隙を与えないくらいに形を作ってみる。(自分の限界を毎回超える努力をする)

アーサナの中でそのように訓練をしていくと、それまでの自分の感じ方や考えや行動の傾向を保持していた力が弱まり、心が空っぽな状態が作り出されていきます。自分を縛り付けていた束縛がなくなり、苦手もなくなり、アーサナを行なっているその最中でさえも(外見はある形としての束縛の中にあるようにも見えるのですが)、その内面においては、身体も心も消え去って宇宙空間だけが広がっているかのような自由な状態がやってきます。

アーサナには自分の心をすっかりと変えてしまう絶大な力があります。(もちろんそれには、正しい先生の導きの元、真実を学びながら実践することが必須ですけどね!)

そして、それがそのまま日常に出てきます。

心を空っぽにして行為する、やっぱこれが秘訣ですね!
アーサナにおいても、日常においても!!

お年始早々、色々な気付きのきっかけを与えてくれたミシンさん、ありがとう〜!

私たちも自分自身が宝の持ち腐れにならないよう、自分たちの中にある宝の原石磨いて、今年は開花させていきましょう〜!!

20150106

マーダヴィー