日常のヨーガ」カテゴリーアーカイブ

聖典

サティヤーです。

あけましておめでとうございます!今年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、突然ですが「聖典」読んでます?

聖典の学習というのはヨーガの実践の中でとても大切だと言われます。ニヤマ(勧戒)の中にあり、毎日実践するクリヤー・ヨーガの中にも数えられます。2012年の夏、ヤマ・ニヤマの項目を一つずつとりあげ、ヨーガの仲間と学びました。そのとき、私はニヤマの「聖典の学習」を担当しました。(参加者は、どれか自分が気になるものを担当し、学びを深めました。)その時に書き留めたメモが年末のお掃除をしていたら出てきました。

そこには、まず聖典とは読書とは違うとあります。

心を動かすための本=読書

心を止滅させるための本=聖典

自分勝手に理解しない→聞く耳を養う。素直さ謙虚さが大切。

久しぶりに自分の書いたメモを見て、なるほど〜と感心していました。私はもともと読書が好きだったので、ヨーガを始めた頃は聖典を片っ端から読みまくりました。どれも面白かったのですが、何となく「聖典ってこういう風に読んでていいのかな?」という疑問がありました。読み終えたら終わり。それで終わりでいいのかな?どこか私の知らない世界のお話を読んでいるような、どこか他人事のような……。そんな思いが募っていた時の学びの会だったことを思い出しました。

メモは続きます。どのように読めばいいのか、

「どれだけ自分に関連付けているか」

「感じ取ることが大切」

そして最後のラインには大きな字でこのように書かれていました。
(だいぶ興奮しているような大きな字でした!)

「イシュタ(理想とする聖者)に会える!!」
これは聖典の学習の結果として起こるようです。

さて、先日不思議なことがありました。お昼にこたつの中でぼんやりしていたのですが、突然あるヴィジョンが表れました。気がつけば私の心には、ある聖者との交流が残っていたのです、確実なものとして、夢でも想像でもなく、それは事実として心に残っていたのでした。不思議な経験でしたが、その聖者は私が今読んでいる聖典に出てくる聖者だったとはっきりと分かりました。

メモにあった「イシュタ(理想とする聖者)に会える」というのは、夢で会えるのでも、本の中で出会えるのでもなく、実際に会えるのだということ、彼の身体を見て、彼と会話する、それはそれはとても不思議なことですが、聖典にはそういう力があるのです。3年越しに自分の書いたメモを理解したな〜と思いました。少しぐらいは進歩してて良かった〜。

サティヤー


礼拝

2015-01-03 15.15.20

明けましておめでとうございます。今年のお正月は本当に寒いですね! 各地では元旦から雪が降り積もっていたようでしたが、皆さまはいかがお過ごしですか?

あ、ご挨拶が遅れました。年末に引き続き、またまたミラバイです。私は今日、アーシュラマ(ヨーガの道場)のすぐ近くにある、北野天満宮に初詣に行ってきました。天神さん(北野天満宮のことを、こういうふうに呼ぶんです)はとても近くのため、実はこの三が日にお参りに行ったことはこれまでなかったのですが、今日初めて行って、あまりにもの人の多さに本当にびっくりしました! 本殿から神社の入り口のある今出川通りまでずら〜っと人が並んでて、なかなか前に進めない! ゆっくりゆっくり歩いて、何十分もかかって、ようやく本殿に辿り着きました。お賽銭箱の前に来て、えいっとお賽銭を投げて、パンパンと手を叩いた次の瞬間、いったい何をお願いしたらいいのだろう……と、はたと困ってしまいました。特に、何もお願いすることがなかったからです。そして、ふと昔のことを思い出しました。

ヨーガを始める前は、年末年始の時だけお寺や神社に行ってはお参りをし、一年間の感謝をしたり、またこれから先のことを祈ったりということを普通にしていました。信仰心なんてなかったけれども、お参りは普通のことだと思っていました。でも、ヨーガを始めて数年間、実はお参りに行っても手を合わせることができなくなった時期がありました。神様は本当にここにいるのか、自分は誰に祈りを捧げようとしているのか、私が本当に信じるべきものは何なのか、祈るということはどういうことなのか、そういったことをずっと考えていたのだと思います。
そうしてそれから、はや数年……。今ではそれらの疑問も解消し、以前に抱いていた抵抗感も、もうすっかりなくなってしまいました。神は自らの中にあって、また誰もの中にもある、そして本当に祈るということは、あれが欲しい、これが欲しいと願うということではなく、心をしっかりと神に結び付けて口を閉ざし、黙って行為すること。……なのかな。今はそのように理解しています。皆さまはどうですか〜? きっといろいろ考えておられることと思います。

ともあれ、おかげさまで無事にお参りは済みました!
皆さまにとって、幸多き年になりますように。どうぞ今年もよろしくお願い致します〜。

ミラバイ

 


マーラー

こんにちは! ミラバイです。昨日からぐんと寒くなりましたね。今日の京都は朝から雪が降り積もっています〜。皆さまお変わりありませんか?
さて、今日はマーラー(数珠)について書こうかなと思います。

IMG_9060

これは私のマーラーなんですが、もう10年以上も前になるけれど、私がヨーガを始めて間もない頃、師からいただいたものです。その時のことはとっても印象的で、今でも私の心の中に強く残っているのですが、それは、ある日のサットサンガ(師から教えを請う問答の場)が終わった時のことでした。呼ばれて師の下に行くと、両手で大切に包み込むように持っておられたものを、私の目の前にすっと差し出されたのです。「ええっ! もしかしてマーラー?!」。当時先輩たちがマーラーを首に掛けているのは目にしていて、それが何を意味しているのかは分からなかったのですが、なんとなくかっこよく見えて、私も欲しいなぁ〜、でもきっと自分にはまだまだなんだろうなぁ〜と思っていたところでした。あまりにも驚きすぎたため、せっかく師が渡そうとしてくださっているのに、私はそれを受け取らないまま、ものすごい勢いで部屋の隅っこまで後ずさりして、そのまま座り込んでしまいました(笑)。
もちろんしばらくして、気持ちが落ち着いた後にいただいたのですが、その時に言われたことは「これは、信仰の印です」ということ。

信仰の印……。

その頃、私は正直、信仰心なんて全くもっていませんでしたし、信仰が何かもよく分かりませんでした。でもこのマーラーが、師と私をつなげるもの、ヨーガと私をつなげるもの、そしてこれから先、自分がヨーガの道を歩んでいく上での希望が込められているような気がして、本当に嬉しかったのを覚えています。その日の夜は首に掛けたまま眠り、次の日からも毎朝会社につけていき、肌身離さず持ち歩いていました。

そんなマーラーですが、実は一度紛失しかけた(笑)ことがあります。
ない! ない! どこを探してもない! 何日も何日も探し回り、歩き回り、いろんな人にも尋ねましたが、全く出てきません。あぁ、どうしよう〜(ToT)
あまりにも「私のマーラー」をなくして落ち込み、食事も喉を通らない様子の私を見て、心配した先輩は、「もしそれが自分のマーラーではなく、誰か他の人のものだったら、それほどにまで動揺するかな?」と、私に識別を促そうとアドヴァイスをくださったこともあります。確かにヨーガの中でよくいわれる「私」と「私のもの」という思いが自分の中にあるのか……。それが苦しみを生んでいる? もしそんな思いがなかったり、やっぱり誰か他の人のものだったらそんなに落ち込まないかも……と思い、瞑想や識別をしようとしてみましたが、そう、ご想像の通り、全くできませんでした。これまでキールタンの活動をしてくる中で、私は必ずマーラーを首に掛けてきましたが、そのときはいつも師が私の傍におられるように感じていました。きっと私はいつの間にかこのマーラーに、師とのつながりや師の存在、また自分自身の信仰の印を見いだそうとしていたのだと思います。何より、師がマーラーを手渡してくださった時、手のひらの中であたためてくださっていたその温もりをずっと感じていたのかもしれません。私の信仰はいったいどこにあるのか。主はどこにおられるのか。猿の神様ハヌマーンが自分の胸を切り裂き、主、ラーマはここにおられる!と叫んだように、私の主は私の胸の内におられるのか。
いつの頃からかはもう忘れましたが、私は自分自身の内側にもっと確かなものを見いだしたいと願うようになったと思います。

結局、マーラーは本当に思いがけない(!)ところから出てきて、おかげさまで一件落着しました(それも神のご加護としか思えない〜〜!)。この一件を通じて、私はマーラーの意味や信仰について改めて考える機会になったなぁと思います。
今は毎日身に着けることは少なくなくなりましたが、大切に部屋の祭壇に置いています。そしてサットサンガに参加する時は、できるだけ身に着けていくようにしています。ここが私の信仰の原点だと感じているのです。

ミラバイ


今日のオシゴト

今朝、なんとなく早めに職場へ行ったら、ユキオさんという患者さんの意識が早朝からなくなり、脈拍も落ちてきていると聞きました。それは、もう間もなく彼がこの世を去ろうとしているということです。3日前には元気はなかったけど、お話してたんです。私は今日彼の担当でしたから、すぐに色々と準備を始めました。家族の意向で、延命は行わず看取りと決まっていましたが、それでも、ただ見ていればいいというわけではありません。看護師には、いつもなかなかたくさんの仕事があります。死に逝く人がどんなに美しくても、ただずっと付き添ってうっとりと見ているわけにはいかないんです。家族に連絡したり、主治医を呼んだり、エンゼルケアの準備したり、書類を整えたり…。他に見ないといけない患者さんもたくさんいる。それに、主治医や家族への連絡のタイミングを計るのも結構難しいんですよね。呼吸が止まったからそれ電話だ!と思って主治医に連絡しても、ずーっと心電図の波形がフラットにならなくて、あまりにその時間が長くなると医師との間に気まずい雰囲気が流れていくんですよね…。また、家族がどういうタイミングで連絡してほしいかという家族の意向も、それまでのやり取りの中で読んでおかなくてはいけない。

うちの病院に入院している患者さんの家族は、震災前はほとんどが近くに住んでいました。でも、震災が起こって県外に避難して、家族が誰も近くにいないことも多いんです。家族の到着が間に合わず、先に心臓が止まっていても、家族が来てから立ち合いのもとに医師が死亡確認するんですけど、家族が到着するまでの時間があまりに長いと、死後硬直といって死後2~3時間で筋肉が固まり始めるので、電話で家族にお断りして先に死亡確認し、体を拭いたり着替えたりといったエンゼルケアを行ってから家族を待つことも多くなりました。

ユキオさんのご家族はかなり遠くにおられるので、到着されたのはお昼すぎでした。家族が来られるまで、なんとなく気になって何度も足を運びました。ユキオさんの心電図の波形がフラットになる瞬間、たまたま私は病室に一人で彼を見ていたんですけど、ゼロになると同時にそれまでパッと見開いて一点凝視していた目がスーッと閉じたんですね。同時に開いていた口もわずかの隙間を残したまま閉じていきました。あまりにもその閉じ方が自然で何のよどみもなくて、一瞬神秘的な世界に引き込まれました。

ユキオさんは生前はとても頑固なおじいさんで、少し認知症が入っていましたが、いつも同室者の奥さんの心配をしていました。もちろん基本的には男女同室はないのですが、このご夫婦の場合は奥さんの認知症がかなり進行しているのと、ユキオさんがとても心配性だということで、奥さんと同室にしました。でも、奥さんはユキオさんのことが誰かを、もう分かってなかったんですね。自分の夫は家にいるんだといつも言ってました。「この人は誰?」とユキオさんのことを聞いても「知らない」という返事。「ご主人、体悪いんですよ」と言っても、「あら~、そうなの~」と他人事。でも、ユキオさんは自分がいなくなったら妻はどうなるのかといつも気がかりで、今妻はどこへ行った?と常に心配していたんです。ユキオさんの呼吸が止まりそうになった時、奥さんは隣で朝ごはんを食べ、食べ終わるとさっさと背中丸出しで寝ていました…。ユキオさんが亡くなった後、死後の処置をしてくれた看護師が、奥さんをベッドサイドに連れて来て、ユキオさんの冷たくなった手を握らせました。そのせいなのか、それからしばらく奥さんの元気がなかった…ような気がしたんですけどね。気が付いたら、廊下に置いてある私たちがつけるマスク、片っ端からポケットに入れてました…。女性って、やっぱり強い…。どうしたのかと尋ねると、「だって、退屈だから」とのこと。

あれ、あれを思い出しました。あの絵ね。再び登場です。でも、カーリーの強さも、シヴァの寛大さと愛があればこそ。ユキオさん、お疲れ様でした。いってらっしゃい!

カーリー

 ユクティー


神への愛は伝染する

Love is an infectious disease. 直訳すると、愛は伝染病である。なかなか衝撃的な表現ですが、これはマザー・テレサの言葉です。

私は2011年の3月にインドのマザー・テレサの施設へ行ったのですが、その時偶然日本のイエズス会の神父さんと知り合いました。私は彼と出会って以来、キリスト教について質問をしたり、マザーについての話を聞いたり、本を紹介してもらったりと色々お世話になっているのですが、この出会いは私にとってマザーを深く知っていくことになる、とても大きな転機となりました。この出会いが無かったら、パラマハンサに連載を書くこともできなかったかも知れません。

神父さんは、震災以降福島の親子をサポートする活動をされていて福島と繋がりがあり、9月にも福島市内の大学で講演をするために来られたのですが、その時南相馬にも足を運んでくださったのです。私の家のほんの近くにカソリックのボランティアセンターがあり、そこで「苦しみを越えて」というテーマで、マザーにまつわる話をされました。ほとんどがかつて聞いたことのある話なのですが、私にとってはマザーにまつわる話は何度聞いても嬉しいものなのです。その中でも、愛は伝わっていくものなのだというこの言葉がよく表れた、私が最も好きなエピソードをこの時も話してくださったので、今日はそれを紹介したいと思います。

オーストラリアから一人の農家のご婦人がマザーに会いにやってきました。夫はアル中で、息子は非行に走って、どちらも彼女に暴力をふるっていたそうです。彼女は死のうとしていました。死ぬ前にずっと憧れていたマザー・テレサに会いに来たわけです。マザーは彼女を温かく迎えました。30分から40分間、手を握りながら彼女の話を聞いたと言います。話が終わると、そのご婦人はこう言いました。「用事は済みました。オーストラリアに帰ります。こんなにも私のことを大切に思ってくれる人が世の中に一人でもいるなら、死ぬのはもったいない。死ぬのは止めました」。彼女は喜びいっぱいに帰っていったそうです。

マザーの周りでは、このようなことがたくさん起こりました。神父さんはなぜだろうと不思議に思っていたそうなのですが、ある時、マザーの言葉を聞いて納得したそうです。

「私の所にはたくさんの人が訪ねて来ますが、その時その時で目の前にいる人がイエス・キリストであり、私にとっては全てなのです」。あのご婦人がマザーからどれほどの愛を受け取ったか計り知れません。

ところで、感染症というのは、予防するための3つの要素というのがあります。感染したくなかったら、この要素を減らしていくことが必要なのです。

一つはウイルスや細菌などの病原体に接触した物や人です。これを感染源といいます。二つ目は感染経路です。空気感染や接触感染など病原体が侵入する経路のことです。三つめは感受性で、免疫の低下など個人の感染しやすさのことを言います。

もし神の愛に感染したかったら、反対にこの条件を高めていくことが必要なのです。神の愛に接触した人は、バクタと呼ばれます。神を純粋に愛する人のことです。マザーがバクタですね。感染経路はバクタと会ったり話を聞いたりすること、バクタのことを考えるだけでも感染しやすくなります。そして感受性、神の愛を受け取れる純粋な心にするために日々怠らずアーサナしたり瞑想することですね。これで3つの条件は整うわけです。ただひたすら単純に粘り強くこれを続けるんです。そうすれば、何があってもいつも神を愛する歓びを心に持ち続けることができるのです。さあ、また今日から始めましょう。

マザー
神父さんが自分で撮ったマザーの写真で毎年作っているカレンダー。2015年版です 。

ユクティー

 


空白地は存在しない

ヨーガを始める少し前、沙漠に憧れたことがあった。
人間が作った意味や義務や正しさに埋め尽くされていない、「無意味」の空白地に行きたいと思った。
それで中国のタクラマカン沙漠にも行ってみた。
あるいはアフリカの中央部にも行ってみた。
しかしどこに行っても、自分が日本人の何某であることを証明しなくてはならない。
世界地図はどこも何色かに塗られており、誰かの(どこかの国の)土地であった。
空白地が存在しないことの絶望。
常に何者かであり、何者であるか証明し、意味のあることしかしてはならない世界にとてつもない息苦しさを感じたものである。

外界に空白地を求められないことを知るのとほぼ同時期に、内面に空白地を求め始めてもいた。
頭の中は言葉でいっぱい。
心は常に忙しい。次々に勝手に悩みを作り出す。
自縄自縛とはこのこと。
蜘蛛が吐き出した巣の網に、自分自身で引っかかっているようなものだ。
心に重い鎖をかけられ、引きずっているように感じていた。
こんなのはもう嫌だ——何の確信もなかったが、その向こうに空白地を探し始めた。

必死にヨーガをした甲斐があって、これらはすべて過去の話になった。
「意味の世界」は、原因と結果の果てしない連鎖の世界、昔の言葉で言えばカルマ(業)によるサンサーラ(輪廻)の世界だということも分かった。
今はずっと自由だ。胸いっぱいに息が吸える。
それどころか、世界はずっと広く、果てしない可能性が含まれているものに感じる。

今また空白地のことを思い出したのは、意味の世界に再び戻ってきたからである。
意味に縛られなくなってきて、再び戻ってきた。
そして気づくことは、今の我々人間の考え方が無限の空白地があることを前提に成り立っているということだ。
いくらゴミを捨てても誰も困らない土地や、いくら使ってもなくならない自然や、いくら酷使してもよい物やあるいは人、いくらでも豊かに、いくらでも獲得して消費して、いくらでも生産することを許す無限の空白地があるかのように振る舞っている。

ヨーロッパ大航海時代のメンタリティーが500年たっても変わっていないのだと思う。
むしろ歴史的には「適者生存」とか「見えざる神の手」だとか、それを正当化する理論の方が発展してきた。
人や価格どうしの衝突(競争)が最適な位置を見つけるという、人間社会内部にしか目が向いていない考えである。
それは無意識のうちに、外部には何をしてもいい無限の空白があることを前提にしている。
でも、大航海時代にも空白の新大陸などなかったし、奴隷にしてもよい人などいなかったかったように、人間(自分)の外側に無限の空白地があるわけではない。
いくらでも生産して、いくらでも消費すればいいと、その需給バランスは「見えざる手」が決めると、人間社会の内部の論理だけで考えてきたが、ついに自然がそれを許さないところまでやってきて(需給のバランスでなく、自然の限界が決定権を持ち始め、予想外の「見えざる手」となって)、やっと無限の空白地という前提が間違っていたことに、我々は気づき始めている。

人の命も、自然の命も有限。
隣には他の人がいる。動物や植物がいて、自然がある。
誰もいない場所は存在せず、世界は網の目のように構成され、自分はその一部である。
それは確かにカルマによるサンサーラ。
でも自分がその一部であることに、今は喜びを感じる。
どうして? 以前にはとてつもない苦しみだったはずなのに。
そこに積極的に身を委ねていこうと思えてくる。
そこに貢献していこうとする喜び。
奉仕の喜び、献身の喜び。
有限の命はそのために生かされてこそ輝くのだと思い始めている。
業による輪廻を生み出す幻術(マーヤー)、その力は女神として捉え直されるとき、歓喜の遊戯(リーラー)になるという。
母なる地球、大地母神、その怒りの鉄槌も悪くないのかもしれない。
もしそれによって人の目覚めが起こるのなら。
我々がそれを受け入れ、行動で応えることができるのなら。

Kali


死に逝く人は美しい

死に近づくと人の顔貌は変わります。顔色が悪くなるとか、見ていられないくらい痩せてしまうとか、そういうことではありません。意識がなくなるにつれ、焦点の合わない独特の表情になっていきます。生命力のない、弱々しい目のように映るかもしれない。ある医師は、それを「仏様の目」だと表現していました。私は、何とも言えない美しさを感じます。それは、息をするのを忘れるほど美しいのです。あまりに美しすぎて、ため息も涙も出ません。ただ、ちっぽけな自分が偉大なものの前に立ちつくし、その美しさを茫然と眺めるしかないのです。自分が手を入れられる領域ではないこと、ただ偉大な者の手に委ねるしかないことを思い知らされるのです。誰もが同じように感じているわけではないと思います。違う表現をする人もいるでしょうが、多くの人が神聖な何かを感じているはずです。

人は死を宣告された後も希望は持ち続けると言われます。希望というのは、明日にでも新薬が発明されて病気が治るかも知れないとか、パリで個展を開こうとか、こんな料理に挑戦しようとか、大小さまざまな希望です。でも、体は徐々に思うようにいかなくなる現実を見せつけられます。そうすると、希望はどんどん剥ぎ取られ、死が現実のものとして見えてきます。ある医師はその状態を「剥ぎ取られるというよりも、自ら手放していっている」と表現していました。そしてもう何かを欲したり感じたり、そんな余裕すらなくなった時、人は呼吸の一息一息がすべてになります。一瞬一瞬を生きるだけになります。心のいらないものが捨てられ人の本質に最も近くなった姿、それが死に逝く人の姿なのです。だから美しいのです。

神は、人が死に逝く時のために神秘的な体のシステムを作られたようです。それは、死に近づくに従って、人は苦痛を感じなくなっていくのではないかというものです。これはある医師が著書の中で書いていた彼自身の考えのようですが、医学的にもある程度説明がつくとされています。呼吸機能が低下すると二酸化炭素が吐き出せなくなり、体内の酸素と二酸化炭素の割合は逆転します。この状態になると、意識が朦朧として痛みが感じなくなるということが証明されています。また、脳の中で強い鎮痛作用と多幸感をもたらす脳内モルヒネと呼ばれる物質が増えるという報告もあるそうです。見た目は苦しそうに見えても、その人の中で本当に起こっていることは、計り知れないのですね。こうして人は死に向かうと共にそのための準備を進めているそうです。

しかし、肉体的な苦痛が和らいだだけでは死の恐怖からは救われません。ある癌を患った患者が死に直面してその苦悩を書いています。「死に至る病の苦しみさえなければ、と人は考える。それさえなければ死もそれほど怖いものではない、とすら思う。しかし、その考え方はまだまだである」。医学では、死に逝く人の痛みは肉体的なものだけでなく、精神的な痛み、社会的な痛み、そして魂の痛みというものがあるとされ、数年前からこの魂の痛みに対するケアが行われるようになってきました。魂の痛みは、スピリチュアルペインとも呼ばれ、生まれた意味、病気になった意味、死にゆく意味を自らに問うものです。ただ、これは外からのアプローチでは答えを見出しにくいと言われています。 医療では、長年死は敗北だとみなし、救命に力を注いできましたから、この分野は不得意なのです。

それを担うのは宗教の役割だと言われます。かつて、生老病死に寄り添うのは宗教者の役割でした。それが多くの人が病院で亡くなるようになると、医療者が担うようになってきた。しかし、現場は忙しく、また医療者自身が答えを見出すよう導く術を知りません。

宗教も医学も行きつくところは同じ問いであると言われます。それは「人の本質は何なのか」ということです。自分は一体何者なのか、この問いに自らの内に答えを見出すことができた時、生きる意味、死ぬ意味、すべての謎が解き明かされ、私たちは自分自身だけではなく、他者をも死の恐怖から救い出すことができる。そしてその時、本当の意味で生きることも死ぬこともすべてが美しいのだということができるのだと思います。

コスモス

 

                              ユクティー


ヨーガの実践「心と四つの意識」

皆さん、こんにちは、下鴨ラージャ・ヨーガクラスを担当しているダルミニーです。

『ヨーガの福音』にこうあります。

ヨーガ行者たちは四つの意識があることを発見しています。
1、起きている時の意識
2,夢見の意識
3,熟眠の意識
4,そして、その三つの意識をすべて知っている第四の意識
その証拠に今あなたの心はその意識によって観られている。通常は第四の意識が心に同化してしまって分からなくなっている。

第四の意識とは、純粋で、永遠の意識だといわれています。ではこの第四の意識とはどんなものなのでしょうか。
私は子供の頃、自分の事しか分からないということが不思議でしかたなかったのです。
なぜ私は、大好きなあの子の事を知らないのだろう。なぜ私はお父さんやお母さんのことが分からないのだろう。
こんな事、当たり前すぎて大人に聞く事ができませんでした。でもヨーガを学んで、その謎が解けたんです。私の心は第四の意識によって観られているのです。

例えばあなたはあの時、嬉しくて、嬉しくて、この世で最高の幸せ者だと飛び上がらんばかりの喜びに包まれました。私はその事を知りません。でもあなたはその事を全部知っています。それが第四の観ている意識です。
例えばあなたはあの時、悲しくて、悲しくて、御飯も食べられないくらい落ち込み、最低な気持ちを味わいました。私はその事を知りません。でもあなたはその時の心を知っています。それが第四の観ている意識です。
例えばあなたはあの時、とても怖い目に遭いました。どうしていいか分からないくらい混乱しました。私はその事を知りません。でもあなたはその時の心をよく知っています。それが第四の観ている意識です。
例えばあなたはあの時、この世で最も尊敬する素晴らしい人と出会いました。あなたは昨日とは全く別の人生を歩む事になったのです。私はその事を知りません。でもあなたはその時の心を知っています。それが第四の観ている意識です。

私はこの第四の意識にふれた時、「あー、私は一人ではなかった。この意識はずっと子供の頃から、いやもっと以前から共にあり、見守っていてくれていたのだ」と感謝の念がこみ上げました。しかしこの意識は心と同化してしまっているので、なかなかその意識に留まり続けることができません。師は本当に徹底的に目覚めるためにも、一連のヨーガの修行をやり続けることが必要だとおっしゃっています。

ヨーガの日常の行為の中で、慈悲喜捨の態度を培うことが大切であることは皆さんもご存じでしょう。慈悲喜捨とは、他の幸福を喜び、不幸を憐れみ、他の有徳を歓び、不徳を捨てる、簡単なようでなかなか難しい事かもしれません。ではなぜこのような行為が必要なのでしょうか。

『ヨーガの福音』はさらにこう続きます。

私はこの体でもなければ心でもない、それを知っている、観ている純粋な意識。この世界での経験はいわばそれを教える材料です。真実を悟ることが目的です。私たちは皆、一人ずつ神聖な存在なのです。

私たちは純粋な意識そのものだと教えられます。純粋であるということは、単純に不純ではないということですから、心を常により良く、清らかにして、静めておくことによって、その純粋な意識により目覚めやすくなれるのです。そしてそれを常に行為し続けなさいとヨーガは教えてくれます。

私たちはなぜ生まれてきたのか、そしてこの命とは何なのか。ヨーガは一つ一つの謎を解き明かしてくれる鍵です。私たちはもうこの鍵を手にしました。さぁ、この鍵でもう一つの扉を開けましょう。

ダルミニー


自業自得

こんにちは、サティヤーです!
最近、自分の周りの人の悩み事を聞く機会が多くなったような気がします。
そのほとんどが人間関係の悩み 😥 悩んでいる人は本当に苦しそうで、何とかしたい!!と思っていることが伝わります。ほとんどは相手の話をじーーーーっと聞き、相手が落ち着き、思いが整理できるのを待つというぐらいしかできないなぁといつも思います。

話を聞き終わり、一人になって思ったのは、私はヨーガを始めてから7年ほど経ちますが、こういう悩みは本当になくなってきたなぁということ。でもヨーガを始めて何が変わったんだろう、ヨーガの何によって変わったんだろうと思いを巡らしていました。

以前の私は、仕事にも、人間関係にも悩みがありました。それが大きいときもあれば気にならない程度のときもありましたが、何か問題があるときは気晴らしをしたり、気の合う友達に愚痴を聞いてもらったりして何とか苦しい状況をなくそうとしていたと思います。ヨーガを始めたからといって、それがすぐに改善されたわけではなく、しばらくの間は続いていたと思います。何がきっかけでそれが変わったのか、そこには一つの経験がありました。

ヨーガを始めたことにより、サットサンガやクラスで真理の言葉を聞いていましたが、それはまだ「聞いている」という段階で、理解しているとはいえないときだったと思います。ある人との関係性に悩んでいた私は、とにかく相手を責めていました。「こんな関係性になったのはすべて相手が悪い、私はこんなにも努力しているのに、理解できない人が悪い 😡 」と心の中で悪態をついていました。思えば思うほど、その人に会うのが嫌になり、会わないといけない状況になると憂鬱で、そのような気持ちにさせられることでまた相手への怒りが込み上げてくるという、何とも最悪の状態だったと思います。

ただ、相手を責める気持ちが強くなればなるほど、心のどこかで「嫌気」のような後味の悪い感触があることも感じていました。本当はこんなことを思いたくない、こんな気持ちを持っている自分は嫌だという思いもあったのです。

ある日、ぼんやりと座っているときに、自然とこの相手との関係性について考え始めました。結局のところ、何が原因でこんなことになってしまったのか……。始めは相手を責める気持ちが出てきました。出るだけ出し尽くした後に、そのままじーっと考えました。「で、私はどうなのだろう……」私は本当に本当に1ミリも悪くないのか?そうすると時間はかかりましたが、自分の本当の気持ちが浮かび上がって来るのを感じました。相手にも問題はあるけれど、相手だけが悪い訳ではない、この悪い関係性になった原因の一端は私にもある。少し自分に素直になったのでしょうか。

そのまま考えを続けていく中で、いつの間にか考えはこの問題を通り越していきました。すなわち今、目の前にしている問題だけではなく、あらゆる自分にかかわることの原因は「私」にあるということ。それは良いことも、そして悪いこともです。私がこうして生きているということ、すべてはそこから始まったのだと思ったのです。

しばらく経って、自分の中で浮かんできが言葉は「自業自得」

自業自得を認めた瞬間、なぜかホッとしたのを覚えています。なぜホッとしたのか?
想像すると真反対の気持ちがこみ上げてきそうな気がするかもしれませんが、私の中では道が定まった瞬間でした。

自分に起こるあらゆることの原因が自分にあるなら、裏を返せば自分自身でなんとでもしていけるということ。誰かに性格を変えてもらう必要もないし、居づらくなって仕事を変える必要もない。自分にできることは、自分自身を変えていくことだけ。ある意味覚悟というか、自分が生きているということを受け入れた瞬間でした。

その後は、ビックリするような展開がありました。その相手と会ってももう何も感じるところはありませんでした。同じ状況、同じ相手なのに、私の心が完全に変化してしまったのか、昨日のような感情は湧いてこなくなったのです。初めての経験に、何とも不思議な気がしたことを覚えています。

私たちの師は言われます。

「心は苦しみや束縛を感じ、自由になろうともがいているのです、もとより真実という自由が在るにもかかわらず。このように見ると、心は自分で一人芝居をしているかのようです。そう、自分で縛って苦しんで、そして自分で解いて自由になる、という」
(『悟り』心と至福より)

私はまさに一人芝居をしていたのだと思います。

師は言われます。

「心がその過ちに気付いた時が真実に回帰するポイントです」

この経験があった時から、私が自由になるための本当のこと(真理)を教えてくれるヨーガへの信頼は増していきました。

誰もが同じ心の構造を持っています。思いは違えど、その思いが浮かんでくる仕組みは同じ。だとすれば、私が悩みを聞いている人たちもヨーガによって、同じように悩みを解決することができるはず!何かきっかけがあれば……。その人の中に必ず解決の糸口があるはず。根気よくつきあっていこうと思いました。

 

 

 

 


ヨーガの実践 「ヨーガって何?」

皆さん、こんにちは、下鴨ラージャ・ヨーガクラスを担当しているダルミニーです。

ヨーガを志した皆さん、皆さんにとってヨーガとは何ですか?自分の人生のどんなところに位置していますか?「そんな大袈裟な、ただの習い事よ」と思っていますか?

最初は本当にこの身体を良くしたい、痛いところをなくしたいなど、自分の身体のことからヨーガと縁をもつ人も多いのではないかと思います。私もそうでした。私が最初に見たヨーガのポーズ(アーサナと呼びます)はアルダマッチェーンドラ・アーサナでした。この見たこともない捻るポーズを見て、身体によさそう、いつかやってみたいと思ったのがきっかけです。みなさんもきっかけはどうであれ、ヨーガに魅せられ、引きつけられていることでしょう。ヨーガを志すこと自体が身体にせよ心にせよ、このままの自分ではいけない、自分をより良くしたい、自分を大切にしたいという思いの表れなのだと思います。

ではこの自分とはいったい何なんでしょうか?

師は教えてくださいます。

「私たちはこの身体でも心でもない。誰もの中に本質としてある純粋な意識、それが本当の自分である」

そしてヨーガの聖典『バガヴァット・ギーター』にこうあります。

「武器で傷つくこともなく 火で焼かれることもない 風はこれを乾かさず 水はこれを濡らさない これがアートマンである」

アートマンというのは自分自身のうちにある純粋な意識のことです。真実とも言うし、神とも言うし、魂とも言います。「私たちは傷つかないんだよ。心は傷ついたと言って泣いているかもしれないけど、それは本当のことではないんだよ。そのことに早く気が付いてね」と言っているのがヨーガです。私たちは、本当はこの真実を知っているのだと思います。だから私たちはヨーガに魅せられ、引きつけられているのだと思います。

ヨーガとは、自分自身に内在する本当の自己を目覚めさせるものです。

まずヨーガを始めて気が付かされるのは、思い通りにならない、また見て見ぬふりをしていた自分の身体と心のことです。いかに自分のことを知らなかったかが良く分かります。そして次第に今の自分の問題を認識しはじめ、その問題を解決するべく努力をしていくようになります。自分自身を大切にしている皆さんであれば、それは自然に辿っていく道でありましょう。そして自分自身が変わっていくことによって、周りの人たちが変わりはじめ、互いが影響をし合い、共により良くなっていくということにも気が付かされるようになります。そうしてヨーガが、生きていくうえで自分に本当の勇気や愛や自由を与えてくれるものだということが分かってくるのです。そして師は、それらはもともと自分たちの中にあったのだということも教えてくださいます。そうするとヨーガがますますおもしろくなってくるんですよ。

大切な自分自身のことを後回しにしていてはいけません。一緒にやっていきましょう。

 ダルミニー