日常のヨーガ」カテゴリーアーカイブ

甘い物をやめた変化

こんにちは、ゴーパーラです。
秋の空はいろんな表情を見せてくれますが、先日は綿あめのような雲が空一面に広がっていて、とても美しかったです⛅️

さて、今回のブログは甘い物の制御についてです。
私は小さい頃からお菓子が大好きで、甘い物に依存した生活を送っていたのですが、ヨーガを始めてから甘い物を断つ決意をしました。それは師の前で「一生やめます」と誓いました。
それから12年経ったのですが、甘い物をやめてどんな変化や影響があったのか、最近そのことを振り返る機会があったので、ちょっとブログの方でもご紹介させていただきます。

①味覚の変化
まず、甘い物をやめてしばらく経った時、味覚の変化がありました。それはチーズやバター、牛乳などの乳製品がとっても甘く美味しく感じられ、それまではそんなこと感じたこともなかったのですが、「乳製品って嗜好品だな〜」と思ったのです。自分は根っからの甘いもの好きで味覚は変わらないものだと勝手に思い込んでいたのですが、いや、味覚って変わるんやなと。これが好きあれが嫌いなどの好き嫌いというのは習慣性のもので、習慣が変われば好みも変わるということに甘い物をやめていく中で気付かされました。

②心の変化
また甘い物をやめて心がどう変わったのかを振り返ってみると、いちばんは自信がついたということが感じられました。それは「俺、甘いものやめれたで〜」というエゴ的な自信ではなく、ヨーガへの信頼・確信が持てたということです。自分の信じる師の前で甘い物をやめると誓ったので、それは必ず守っていきたいと思い、これが自然とサティヤー(嘘をつかない、正直さ、誠実さ)の教えの実践になり、このことを続けることで実際に甘い物をやめることができ、ヨーガを続けていけば依存や執着って本当になくなるんだと思ったのです。そういうヨーガへの信頼、自信になったということです。

③アーサナへの影響
それともう一つ、甘いものをやめたことはアーサナにも影響をしていました。アーサナは12年間毎日しなければいけないということが教えられていますが、ヨーガを始めて1年くらいはやらない日もあったりしました。でも何か心にモヤモヤがあり、またヨーガに不誠実だなと感じ、アーサナも毎日しようと決意しました。その日からは今でも毎日アーサナを実践していますが、これができているのも、振り返ってみると甘い物をやめるという誓い、サティヤーの実践が派生していたのではないかと感じています。

④心の制御
一つのことを心に決めて実行することは依存や弱さを克服し、心の忍耐・制御の力が養われると感じています。ヨーガに出会っていなければ、そして師に出会っていなければ、今頃どんなふうになっていたのか……虫歯どころでは済まなかったとゾッとします😨おかげさまで虫歯はゼロですので、心もエゴで蝕ばまれぬように、心の制御の実践を弛まず続けていきたいと思っています。

仁和寺門前の吽形像。エゴや煩悩は立ち入り禁止🚫

※補足:決してヨーガを行なう人が甘い物をやめないといけないということではありません。私の場合は特に依存度が高かったので、そのようになりました。

ゴーパーラ


平等であるために

平等。
私はこの言葉が大好きです。文字を見るだけで安心することもありました。世の中は不公平だと感じることが多かったからか、この言葉そのものに憧れていたのかもしれません。

実際この世界では不平等としか思えないような出来事が起きています。
では、平等とは何なのか? 本当に存在するのか?
不平等だと感じる度に疑問が湧き起こりました。

その後ヨーガに出会い、誰もの中に等しく真実が存在していると知った時に、これこそ私が求めていた平等だと思いました。

心の目で見れば不平等な世の中も、真実の目から見れば、姿形や性質は様々でも、その中には一なる真実がある。それは一つのものである。それを体感するには、悟りの境地に至る必要があるのかもしれませんん。
しかし、道半ばであっても、平等であれるように努めることができます。

今、私は平等であるために、真実の側から見るように努められているだろうか。
振り返ると、心の側から見ていることの多さに気付きました。平等でありたいと願いながらも自ら違いを見てしまっているのです。また、特に苦手と感じる人がいると、その人の中にも真実があると意識しようと力み、何とかしようと焦って失敗したりしています。
心ではなく、真実の存在をより深く信じ、そこに全てを委ねていくようにすることが必要なのではないかと思いました。

まだひと月ほどの期間ではありますが、実践するにつれて身体の力が抜けて、平安な気持ちで過ごす時間が長くなりました。
不思議なほど次々と問題が発生する日々だったのですが、一つ一つ落ち着いて丁寧に対応することができたように思います。
苦手な人に対面しても余計なことを考えず、少しでも何らかの思いが生じたらすぐさま一なる真実に委ねるようにすることで、今行為するべきことを自動的に行なえるような感覚になることが増えてきました。
また、目の前にいる人の中に真実が存在していることに愛しさを感じて胸がいっぱいになる瞬間が何度もあったことは、これまでにない経験でした。

私の今年の抱負は、「(神に自分を明け渡して委ねるという信念をもとに)一つの物事に対して粘り強く取り組むこと」でした。
取り組む中で、熟考して行動する習慣が身に付いてきたように感じます。
今回体験したことがまた新たな積み重ねになるよう、より確実に実践をしていきたいと思います。

玉川上水沿いの遊歩道。美しい緑がまだ楽しめますが、足元にはどんぐりが落ちていて、秋を感じます。


 

ハルシャニー


つくレポ 〜ビリヤニ〜

久しぶりに暑さが戻った9月初めの日曜日、お昼ご飯に「さまらさの台所」動画クラスにアップされたビリヤニ(スパイスを使ったインド風炊き込みご飯)を作ってみました。

まずは動画のアドバイス通りスパイスをお皿に準備、必要なお野菜やお米なども最初に全て用意して、講師のサティヤーさんになった気分でお野菜を切り始めると、いつも以上に丁寧にお野菜の様子を見ながらカットする私がいました。不思議。。 今までは何気なくお料理していたことに気付くことができました。


下ごしらえがおわり、調理開始です。初めて作って気づいたこと💡

①ビリヤニはお鍋ひとつで出来るので簡単、便利!
②炊いている間は鍋から離れることができるので、暑くないし洗い物も進むのがいい!
③ヨーグルトを入れると一気にインドになる!

などなど。とにかく簡単で面白い。スパイス料理ってハードル高そう、と思っていたけれど、なんでも経験してみることが大事だなと再認識しました。

出来上がり早速試食。美味しい~~!!! 野菜だけとは思えない味わい。何より私が気に入ったのは、口に入れたときにジャガイモがほろっと崩れ甘い味わいがすること。手軽に作れるので日曜日のランチにピッタリです。
そして、ビリヤニを最後に蒸らしている時間に作ったラッシー。私はギリシャヨーグルト(ヨーグルトを水切りする)を作っているので、そこでできたホエー(水切り後に出来る液体)をヨーグルトの代わりに、さらに蜂蜜の代わりに手作り梅酵素シロップを入れてみたのですが、お、美味しい。。 まるでお店で飲むラッシーではないですか!! 口の中に広がるスパイスを最後にさっぱりさせてくれました。


毎日行なうお料理を通じてヨーガに向き合うことは、日常を何気なく過ごしてしまうことなく、目の前の一つ一つの事柄に集中し丁寧に向き合うことにつながる。そんな日常はとても軽やかで楽しい!ということを改めて教えてくださった「さまらさ動画クラス」でした。
これからも楽しみにしています!!

ターリカー


『ヨーガ・スートラ』写経

『ヨーガ・スートラ』ーーその名が示す通りヨーガの経典です。
私はこの夏、その写経をしました👳‍♀️📝

4章195節から成る『ヨーガ・スートラ』ですが、この写経をしてすぐに感じたのは「学びの一つは書く」ということです。私自身、最近はパソコンで文字を打つことがほとんどでしたが、久しぶりにじっくり書くという行為をしてみると、眠っていた「書いて学ぶ」という感覚が身体の中から蘇ってきて、学びの基本に立ち返ったように感じられました。

また、解説や注釈なしに一節一節を抜き出して書き、それを始めから終わりまで何度も読み返すことで、『ヨーガ・スートラ』の全体像や要の教えが見えてくるような感覚がありました。当然のことなのですが、『ヨーガ・スートラ』は「心の作用の止滅」、これが主題なのだと。つまり、心に執らわれや煩いが一切ない「無執着」、その心の無一物になるにはどうすればいいかについて説かれていると感じました。

「それら(心の作用)の制御は、実践(修行)と無執着とによっておこなわれる」 『ヨーガ・スートラ』1−12 

「見えたり聴こえたりする対象への渇望を棄てた人々のところにやってくる、そして、対象を支配しようと決意する、その結果は、無執着である」 『ヨーガ・スートラ』1−15 

 ーー『ラージャ・ヨーガ』P112、115より引用

私はこれらの『ヨーガ・スートラ』の教えに触れていると、ある覚者の存在が心に浮かびました。それは「ブッダ」です。ブッダは次のような教えを説いています。

「すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執着を超越して、とらわれることのない人、ーーかれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ」 『スッタニパータ』620−621

「熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、ーーこれによって〈バラモン〉となる。これが最上のバラモンの境地である」 『スッタニパータ』654−655

ーー『ブッダの人と思想』P13、15より引用

バラモンとはブラーフマナのことで「清浄無垢な真人」であります(『ヨーガの福音』P44)。清らかで純粋な心の持ち主、まさしく真のブラーフマナであるブッダの説いた無執着や熱心な修行・制御が『ヨーガ・スートラ』の要旨と一致しており、ブッダとヨーギーの同一性が感じられます。

今回の写経を通して私自身、ブッダ・ヨーギーの無執着の心境を目指していこうと気持ちを新たにしています。
写経はやってみると単純に楽しいですし、読むこととはまた違った味わいで経典・聖典に触れることができると思います。大袈裟かもしれませんが、心にブッダやヨーギーの無執着が写されるように感じます。
まだ写経をやっていない方、本当にお勧めします👳📝

ゴーパーラ


ヨーガによって辛い記憶から解放される

”サンスカーラ——心の潜在残存印象

サンスカーラを消していくのは真実の智慧だけです。だから実存だけに集中していってください。
サンスカーラは何かに依存しています。心の記憶とプラーナ、そして条件です。条件というのは煩悩、無知のことです。瞑想における真実の智慧は、心の記憶にゼロというサンスカーラを残していきます。
例えば心の記憶というフィルムにたくさんの映像(サンスカーラの記憶)があるとするでしょう。真実の智慧はその映像を消していきます。だからサンスカーラに集中する必要はありません——煩悩と無知から出たものですから。そして積極的な真理への瞑想が深まっていけば、心の中で識別が行なわれます——真理と無知の間で。サンスカーラは無知に依存するものですから、それで消えていくのです。あとは実践です。”

『ヨーガの福音』より

経験は、喜びや悲しみなどの感情と共に記憶として残ります。特に印象が強い記憶は繰り返し思い起こされ、その時の感情を何度も味わうことがあります。

私は、思い起こす度に苦しくなっていた記憶に全く影響を受けなくなった経験があります。
一つは、小、中学生の頃にいじめられていた記憶です。
当時は毎日不安で、特に辛い出来事が起きる度に絶望感に支配されていました。大人になってからも、突然記憶が蘇り辛くなったり、その頃過ごしていた場所に行くと足がすくんだり、いじめた側の人たちを見かけると息苦しくなって体が震えたりしました。
当時暮らしていた地域を離れてからはそうしたことは減りましたが、何かの拍子に思い出しては苦しくなるのを繰り返していました。
ヨーガを始めて、サンスカーラについての教えを知った時、心の記憶にゼロというサンスカーラを残せたら辛い記憶も綺麗さっぱりなくなるんだ、と淡い希望のようなものを感じました。瞑想は難しかったので、まずはアーサナを続けてみようと思い、少しずつでも毎日やるようにしました。
それから2、3年経った頃、当時暮らしていた地域に行ったところ、懐かしさだけを感じました。思い出す度に味わっていた苦しみがなくなっていたのです。おそらく、アーサナの実践によってプラーナ(気)が清浄なものへと調えられ、心身が満たされたことで、記憶に執着する力が働かなくなっていたのではないかと思います。

もう一つは、家族との間で起きた出来事の記憶です。
物心ついてからずっと囚われていて、そのことを考えると動揺するため、向き合う勇気が持てないまま月日が流れていました。しかし昨年、あることを機に何をしていてもそのことが頭から離れない状態になってしまい、向き合う覚悟を決めて識別に挑みました。
向きあうことは思っていた以上に辛くて何度も挫けそうになりましたが、原因は必ず自分の中にある、と、そこに辿り着きたい一心でもがきました。
しばらく経ったある夜。疲れ切った状態で識別瞑想していると、急に思いが噴き出してきました。次から次へと記憶に強く結び付いていた感情が溢れ出し、かつてないほどの負のエネルギーに引き摺られそうになりましたが、抗わずにただそれを見つめることに徹しました。息ができないような苦しさの中、自ずと意識が師へと集中していきました。いつの間にか湧き出ていた感情はすっかりなくなり、心は静かになりました。目を開けると師のお写真がすっと視界に入り込んできて、この上なく平安な気持ちに満たされました。
その後、その頃の出来事や感情を意識して思い出しても、動揺することがなくなりました。記憶として存在はしているけれど、ただ映像を眺めているような感覚になりました。
識別瞑想に挑んでみたものの、あまりに苦しく師にすがるしかないような状態に追い詰められ、自然に師の存在に集中する状態になり、師の純粋さに染められたことで、記憶に絡みついていた感情が消え去ったのだと思います。

「心の記憶にゼロというサンスカーラを残していく」
この「ゼロ」ってすごいなあと興味を持ったのが始まりでしたが、この2つの経験から、ヨーガの実践によって本当にそうなることを実感しました。

ヨーガによって、苦しみの原因を根こそぎ取り除くことができる。
これほど確かで心強いことは他にはないと思います。

鮮やかなオレンジ色のほおずき。毎年8月になると職場である治療院に飾ります。
オレンジ色はサンニャーシン(出家者)が身に付ける糞掃衣(ふんぞうえ)の色として、放棄の象徴とされています。

ハルシャニー


つくレポ 〜完熟トマトとナスのパスタ〜

私はこれまで料理をするという機会はほとんどなく、もっぱら食べ役でした。そんな私が、さまらさの台所(ヨーガの料理)のオンラインクラスを受講させていただいたことを機に、料理にチャレンジしています! 7月のブログ掲載記事「ヨーガの料理 さまらさの台所 動画クラス紹介!」のメニュー:完熟トマトとナスのパスタを何度か作ってみました。このブログは、料理初心者男子がさまらさレシピのパスタを作ってみた!のつくレポになります。

料理をするにあたり、さまらさのクラスで学ばせていただいたことを心がけました。「食材の選び方」「丁寧に調理をすること」「何より楽しんで料理をする!」など、教えていただいたことを心に留めて取り組んでみました。

ステップ1   食材選び!
買い物では新鮮なお野菜を選ぶために、店員さんに尋ねてみました。「新鮮で甘いトマトはどれになりますか?」というように質問すると・・・私には新情報!?トマトの特徴を教えてくださりました。「今は北海道産のトマトが甘くておすすめですよ! また少し時期が進むと南の方の熊本県産のトマトも美味しくなってきますよ」とお聞きしました。そして、沢山並んでいるトマトの中から赤くて一番美味しそうなものはどれだろ〜と食材とにらめっこしながら選びました。ナスを選ぶ時には色鮮やかで軸がしっかりしているものを見分けながら決めました。


ステップ2   いざ調理!
調理する前にもう一度動画を観て確認しながら始めました。食材の量や調味料の分量、火加減などは奥さんに教わりながら料理を進めました。まず食材を切っていく工程では、動画でされているのに倣って見様見真似で切りました。大きめのカットだったので包丁が不慣れな私でも切りやすかったです。それでも、同じ幅間隔で切っているつもりが、だんだん切る幅が小さくなったりもしました。次にお野菜を焼く工程では、ナスの火の通りや焼き加減を見ながら炒めてはいましたが、ちょっと焦げてしまいました(汗)。木べらを使って炒めるのも手の動きが何だかぎこちなく、丁寧にできているだろうかと不安に思う心もありました。それでも気にし過ぎないように気持ちを切り替えて料理を進めました。炒めたナスにトマトを加え、しっかりと煮詰めました。「美味しくできますように・・・」と心を込めながら混ぜてトマトソースが完成です。ここまで料理が仕上がってくると先ほどの弱気がどこにいったのか・・・「僕、料理できるやん!」という気持ちにもなり、嬉しくなってきました。 

ステップ3   盛り付け!
いよいよ盛り付けまでやってきました。最後の工程ということもあって、一番緊張していたように思います。額からは汗を感じ、手の感覚もいつもより硬く張りつめていました。作った料理が美味しく見えるようにゆっくりと丁寧にお皿に盛っていきたいところでしたが、パスタがグチャっとしたり、ぼたっと・・ソースが落ちたりすることもあって心はざわつき状態でした(汗涙)。必死でお皿に盛りつけて最後にバジルの葉っぱを添えて、やっとの思いで完成できました。

ステップ4   いただく!
なんとかパスタが出来上がって少しほっとしました。料理が冷めないうちにいただきます。隣で食べている奥さんの表情も横目で気になりながら一口・・・「うんっ! 美味しいやん」と心の中で一言。自分で作って言うのも何ですが(笑)、初めて作ったにしては良い味に仕上がっていると思いました。そして、食べてくれた奥さんの表情にも笑顔が溢れていて、とても嬉しい気持ちに満たされました。
作ってみたパスタの味付けはトマトの甘さと塩だけでシンプルなのにこんなに美味しくできるんだと、さまらさの料理ってすごいなと感じました。料理ができなかった私が誰かを笑顔にできる料理が作れたことはさまらさの魔法!?・・・いや、それこそがヨーガの精神なんだと思いました。
さまらさの台所のオンラインクラスで講師のシャーンティマイーさんが仰っていたお言葉「料理はうまい、へたではなく、真剣に食材に向き合い活かす。これが大事」ーー誰でもどんな人でも料理ができるということを自分が作ってみて改めて教わったように思いました。

その後も何度か作ってみました。2度目以降は準備を整えることをより意識しました。使う調理道具が必要な時にすぐに取って使えるように置き位置を考えたり、スムーズな料理ができるように準備しておくことで少し手順も良くなりました。気持ちのゆとりが少しできて、より丁寧に美味しくできるように一層の思いを込めて作ることもできました。また、作って食べることを重ねた中で感じたのは、食材そのものの味によって料理自体の味も変わってくることです。特にトマトは少し酸味を含むものなどもありました。じっくり火にかけることで食材の味わいが出てくることも繰り返し作ることでよく分かりました。

料理を作ることを通して今回、行為に対する考え方を学んだ気がします。料理は食材を選ぶところから調理する工程、調理したものをいただくまでの一連の行為の一つ一つがとても大事だと思いました。また、思いを込めて行為することで、料理の味はいかようにも変わることを知りました。さまらさの料理はシンプルで初心者の私にも優しくて作りやすいものでしたが、シンプルだからこそ純粋な気持ちが味に現れるのだと感じました。そして誰かを思い、その人のために、心を注いで料理に向き合うことで喜びや幸せにつながることを実感しています。
男子ごはん、これからも楽しんで続けていきたいと思います!!

金森淳哉


東京のグルバイ(ヨーガ仲間)をご紹介します!

こんにちは。夏真っ盛りですね!
コロナ禍となり二年以上が経ちましたが、東京は人の多さからさまざまな行動が制限される状況が続きました。
MYM東京のクラスや活動も最小限に抑えざるをえなかったのですが、感染者数の増減を考慮しながら少しずつ活動を再会し始めました。
今日はそのような中で、ずっと変わらず真摯にヨーガに取り組まれている中村さんをご紹介させていただきます!
中村さんはご家庭の事情で、以前からクラスなどに参加出来ないことも多かったのですが、最近、クラスでお会いした時にとてもイキイキとされているご様子を拝見して、お話をうかがってみました。

─中村さんは決まった時間にご自宅でアーサナをするのが難しいこともあり、オンラインクラスへの参加が出来ず、お一人でのヨーガの実践が続いていたと思うのですが、どのように過ごしていらっしゃいましたか?

中村さん)
コロナの影響で、京都に行くことはもちろん、クラスにも行けなくなりました。いろいろな予定がなくなって時間がとれるようになり、パラマハンサ(機関誌)を遡って読んだり、瞑想の時間ができたのは良いことでしたが、やはりクラスがお休みなのは寂しいことでした。
やっとスタジオでのクラスが一ヶ月に一度ですが再開して、皆さんとお会いできた時は涙がでました。

─先日、東京のメンバー数人で多摩川にキールタンを歌いに行った時、飛び入り参加されましたよね。すごく嬉しかったです!

中村さん)
河原で歌うのは初体験!キールタンをみんなで歌うのも何年ぶり!花もいっぱい咲いていて夢の中にいるようでした。
ハルモ二ウムや太鼓を持ってきてくださり本格的でした。曲は難しくないものを選んでくださっていたのですが、間違えてばかり。でもそんなことより、こんな楽しくていいのかしら?というくらい楽しくて、嬉しくて、あっという間のひとときでした。
その時歌ったManasa Bhajareはそのあとも口をついででてきてよく歌っています。

─今年の春から、松山クラスと東京クラスの有志メンバーでヨーガの教えの「ヤマ」の実践に取り組んでいますが、そちらにも参加されていかがですか?

中村さん)
シャルミニーさんから「松山の皆さんと一緒にヤマ・ニヤマ(禁戒・勧戒)の勉強会をするので参加しませんか?」とお誘いいただいた時、まず不安になったのはオンラインって、私にできるかしら?ということでした。
コロナが流行ってからインターネットを使うことが増えましたが、私は苦手でした。又、使わなくても済んでいました。ですが、ミッションでもパラマハンサがウェブ配信となり、逃げてばかりもいられないこともわかっていましたし、ヨギさんの「苦手なことこそ、したほうがよいですよ」というお言葉も心に残っていました。
オンラインで初顔合わせの時は私の音声がでず、かなり焦りましたが、その後家族と練習したりして、無事に参加することができました。ほっとしたのと同時に、「わー、遠く離れた皆さんとお会いできてる!」と嬉しくなりました。
コロナの間、ずっと味わえなかったヨーガのお話ができる楽しさ!貴重な一時間となりました。苦手なこともチャレンジだなあと思いました。
グルバイの皆様は、外に出られる時間が限られていたり、ネットの苦手な私をいつも気遣ってくださり感謝しています。今回も大変お世話になっています。ありがとうございます。

─ヤマの一つ目、アヒンサー(非暴力)の実践に取り組まれていかがでしたか?

中村さん)
家族とは仲良くしているつもりでしたが、今回、家族なら多少のことは許してもらえるという甘えから、言葉や態度で傷つけてきたことがだんだん見えてきました。ちょっとした対立から、家族にきつい言い方をしてしまい、それが止められないこともありました。
その思いはどこからくるのか考えたところ、やはり「自分は間違っていない、自分が、自分が…」というエゴそのものだと思いました。
ヨギさんだったらどうなさるだろう。又、相手がヨギさんだったら私はどうするだろう。その光景は目に浮かぶようなのに、実践となると悲しいことになかなかうまくいきません。
それでも、その瞬間にヨギさんを思い浮かべることが一番だと思いました。
そしてその時だけではなく、いつもいつもヨギさんと共にいられるように、と改めて願いました。
頭でわかっていたはずのことも、実践となるとその通りにはいきません。今回、実践したことをオンラインで皆さんとお話するという機会を与えていただいたことで真剣に取り組むことができたと思い、感謝しています。そして、私が初めてヨギさんにお会いした時に、ヨギさんみたいになりたいと願った、憧れの境地へとまた気持ちが繋がりました。
まだ始まったばかりですので、これからも努力を怠らないように精進していきたいと思います。

左手前から2人目が中村さん。大空の下でのびのびとキールタンを歌いました。気分はすっかりガンガーのほとり!? 6/18

同じ師の下で共にヨーガを学ぶ仲間の存在は、なんと心強くありがたいことでしょう!中村さんのお話をうかがいながら、私も勇気をいただきました。そして、どこにいても、どんな時でも常に師の恩寵が降り注いでいることを実感し、喜びでまた胸がいっぱいになりました。
中村さん、本当にありがとうございました!!!これからも、どうぞよろしくお願いします!

シャルミニー


タパスによって無知をなくす

以前陶芸をしていた頃、作品を乾燥させる過程でひび割れたり、成形に納得がいかなかったりすると、乾き切っていない作品を水に浸してこねて、作り直したことが何度もあります。失敗してもまた作り直せれることが嬉しくて、今度こそイメージ通りのものを作ろうと取り組んでいました。

そんな経験があったからか、ある日、コタムリトのこの一説に惹きつけられました。

乾いたツボが壊れたのは、職人は皆捨ててしまう。だが、湿り気のあるツボが壊れても、捨てないでまた小屋の中に持っていってもう少し水をくれてこね直す。そして新しくツボをつくる。捨てないんだよ。だから——と、ケーシャブに言ったんだよ。水気のあるうちは解放されないとね。つまり、智識を完全に体得したか、神に対面したか、そうしない間は何度でも新しくツボに作り直される。くり返し、くり返し、この物質世界に戻ってこなくてはならない。これはもう逃れようのないことなんだ。あの御方をつかめば、自由解脱してツボ焼き職人に捨てられて、二度とマーヤーの創造に巻き込まれなくともよくなるんだ。

『コタムリト』第4巻より引用

 

 陶芸においては水気があることで作り直せるのを嬉しく感じていたけれど、この世においては少しの水気でも残っていたら何度でも死と再生を繰り返しマーヤー(幻影)の世界から抜けられなくなる…これは全く嬉しくありません。
この水気というのはエゴや無知など、純粋ではないもののことを指しているのだと思います。
一切の水気がなくなるというのは、エゴや無知が一切なくなること。

水気をなくすためには熱が必要です。
その熱(タパス)は、その問題に真剣に向き合い実践することによって生じ、私たちの心を浄化してくれます。

まずは自分のこと、心 と向き合うこと、そして、悩みや苦しみは真理ではないと気付くことから始まるかもしれませんが、気付けて良かった、と安心していては何も変わりません。真理でないものを完全に放棄しない限り、水気はなくならず、また新しいツボに作り直されてしまいます。
それにはとにかく識別が必要です。識別はエゴや無知との戦いです。かなり手強い相手に立ち向かうので、時に大きな苦しみも生じますが、その過程も全てタパスとなります。失敗しても挑み続けることは決して無謀なことではないし、無駄なことにもなりません。見つけた問題点に対し、常に真理を突き合わせて識別していく。真剣であればあるほどタパスは大きくなり、その熱もさらに高まっていきます。
タパスによって生じた熱で焼かれると、水気は完全に蒸発してなくなり、二度と作り直されることのないツボとして完成する。

タパスという熱でエゴと無知をカラカラに乾かし切り、真理だけを掴んでいきたいです。

多摩川上流の橋の上からの眺め。
戻り梅雨の後の、久しぶりの晴天。湿っていた地面が一気に乾いていくような日差しを感じました。

ハルシャニー 


目の前の人の中に神様を見る

「純粋な信仰とは、神に奉仕すること。自らを神に捧げること」

数年前に初めて師であるヨギさんからこのお言葉を聞いた時、そこから感じる真っすぐで力強い愛にとても惹かれたのと同時に、「自分には無理だ」と感じました。でももしそれを実現できたらきっと本当の幸せに出会えるように思えて、どうしたらできるようになっていけるのかを考え始めました。そして実現していくための実践として、「目の前の人の中に神様を見ること」に取り組み始めました。

取り組み始めてすぐにいくつもの人間関係が好転し、生活全体の中に愛と喜びを感じる瞬間が増えました。ただ、優しい性格の方に神様を見ることは問題なくできても、攻撃的な性格の方に神様を見るのはとても難しく、頭では「全てのものの中に神様はいる」と分かっていても全然それを感じ取ることができない自分に疲れたりしました。

そんな中、(私は介護の仕事をしているのですが)あるご年配の方に対して、その方の中に神様を見続けるということがだんだんとぶれなくなっていきました。その方は喜怒哀楽が激しく、時にはヘルパーに八つ当たりをするし、身体的ケアがたくさん必要なので大変な力仕事なのですが、たとえ八つ当たりされても自分の体がきつくても、そこには変わらず愛と平安があります。その方の中にいる神様が物理的な困難に動かされない愛を与えてくださいます。

奉仕に取り組む時に、いつもお守りにしている師のお言葉があります。

「一つの笑顔でもいい、優しい言葉でもいい。苦しんでいる人、悲しんでいる人に彼らの喜ぶことを行ないなさい」

目の前の人の中に神様を見て、師の教えだけを頼りに、今の自分ができることを一つ一つやり続けていこうと固く決心します。

毎朝、神様(シヴァ神)に「今日1日正しく奉仕できますように導いてください」とお祈りしています。

船勢


真実の旅

あじさい ピンク

明るい陽の光

「あ!アジサイ」
楽しみに待っていた紫陽花をバスの車内から一輪、見つけ、一瞬にして紫陽花の花が胸いっぱいに広がりました。美しいものを見た瞬間、それだけになる気がします。特に自然のお花などは、無垢で純粋なそのものが、丸裸で存在しているように感じて反射的にハッとします。一体私は何にこんなに感動しているのだろう?と思うことがありますが、ヨーガでは、何かに魅せられたり惹きつけられたりする時はアートマン(真の自己、真我)に惹きつけられている、本当の魅力の持ち主はアートマンだけ、と学びました。私たちの本性がそれであり、無垢で純粋なるものだから、それに共鳴していると。

そういえば最近、ひょんなことから出会ったある女性が、マハーヨーギー・ミッションに関する創造物すべてに美を感じる、と仰いました。「神は美」という教えの言葉が浮かび、あぁこの方は神に惹きつけられておられるんだなぁ・・・と思いました。私も初めてマハーヨーギー・ミッションを知った時、しんと静まり返った世界観に美を見たからです。自然のお花などとは違って、人が作ったものにはその人の思いが注入されると思いますが、もし、その作り手にエゴ(利己的な我)がなければ、その人は神の道具となり、出来上がったものには本来の作り手である神、宇宙の創造主の完全なる美だけがあるのかもしれません。私たちは創造物を通して、その根源の光、存在をダイレクトに感じているのだと思いました。

あじさい

梅雨の晴れ間

そんな出会いがあった翌日、目を覚ますと一曲のキールタンが頭の中で鳴り始めました。特別その曲が好きなわけでもなく、昨日その人と歌ったわけでもなく、思い当たるふしがなく不思議に思い、ミッションのYouTubeにその曲がアップされているか調べました。その曲があり、説明欄にこう書かれていました。
「シヴァの街と呼ばれ、かのシュリー・ラーマクリシュナが黄金で出来ている街と表現したインドの聖地ヴァナラシ(カーシー)。
何万人もの人が巡礼に訪れるその地には、現代においても神の中に生きる人々の信仰心で満ち満ちている。
神を愛し、神を讃える喜び溢れるまさに歓喜のキールタン『Hara Hara Mahadeva』」

・・シヴァ神の祝福?! その人はシヴァが大好きな人だったからです。映像をスタートさせると、たちまちその人も皆も共に巡礼をしているイメージに包まれました、そしてそれは神の手の中でした。生き生きと人生を謳歌するような皆の姿から、生きることの意味を感性によって知らされた気がしました。ちょうど最近の瞑想専科クラスで聞いた師の教え「――本当は楽しむために生まれて来た」それが、溢れんばかりに。
そのキールタン映像もまた根源の煌めきを放っているようでした。まるで歓喜の巡礼さながらの皆の姿や神的な映像を見つめていると、師に初めてお会いした時、人との縁やつながりについて教わったお言葉を思いました。

師「心の領域も超えた、魂の領域というような、一番自分の核になっているところで見れば、おしなべて皆同等の関係であって、特別に関係が深まるというのは、その魂の目覚めをもたらすところのヨーガの仲間であるとかね、それは何生涯にも渡る深い家族関係のようにも形容されることがある。
皆、魂の旅を続けている。それぞれが経験をして、いろんなことを味わいながらその最終的な自由に目覚めるまで旅をしているのかもしれない
私「終わりはないんですか」
師「その終わりは悟りと言われている。本当の自由とか、本当の自分に目覚めるとき、その時に旅が終わると言われている――例外なくね。だから魂の旅人としては、同じ旅人同士

ヨーガをしている人もしていない人も、信仰する神様や宗教が違う人も、性別、年齢、人種関係なく、みんな魂としての最終目的地は同じ、同じ旅人同士。本当の自由、本当の自分に目覚めるための今回の旅。
旅路途中で出会う様々な人、ものを通して、私たちは楽しむために生まれてきたこと、世界は美しいに違いないこと、その真実を互いに交換し合っているような気がします。それぞれに役割があり、それぞれが真剣に生きていると思います。

Hara Hara Mahadeva』を最後まで観終え、今、聞こえてくるこの様々な音も、この見えるものすべても、シヴァ(宇宙の主)ご自身、自らが奏でて、創り出してくださっていると実感しました。すべての万物はその大いなる恩寵の中で、旅を進めさせてもらっているに違いありません。

ヨーガの守護神シヴァのご加護の下、それぞれの現在地から正しい目的地に向かって、ともに歩みを進めていくことができますように。時には気が急くこともありますが・・・「急がば回れ、コツコツと丁寧に歩んで行きましょう!」と先輩から頂いた応援メッセージとともに。

京都タワー

一人では迷いそうな大海原でも、光があれば大丈夫!

野口美香