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どうしたら瞑想はできるようになる?

 大阪府を流れる淀川から分かたれた大川は、途中二手に別れて再び合流し、一つの島を作っています。中の島と呼ばれるその場所に、大阪瞑想専科が開かれる中央公会堂が建っています。
クラスが始まる19時頃、季節によってその様相は変わりますが、瞑想専科が始まった5月から夏にかけてのこの時間は、ちょうど夕陽が沈もうとするところで、とても美しく、大きなビルが立ち並ぶ、せわしない大阪市内とは思えない静けさがあります。

さて瞑想専科は、新コースが始まってひと月が経ちました。講師はサーナンダさん。毎回 10人ほどの参加者が集います。
講座では真理の教えを学べることはもちろんですが、サーナンダさんの体験談やサーナンダさんがこれまで師にお聞きした秘蔵のお話が聞けたりします。

「瞑想といっても、何から始めたらいいか分からない、どうしたら瞑想ができるようになるの?」
疑問をもつ参加者さんたちに、まずは座り慣れていくことにまさることはないとサーナンダさんは言います。
「最初は面白くないかもしれない。けれど何度も座っていく中で、日常では経験できない静けさに気づくと思います。雑念で揺れ動く心を静めていくので、初めは闘いのようでしょう。けれど心の雑念はほおっておくとだんだんと、動き回ることに疲れて静まっていくのです!」
サーナンダさんは中学生の頃から座禅を始め、毎日座って気づいたそうです。40分も座れば心が静まり、深い集中に繋がっていくということを。
ごく身近なことを例え話に用いて話される、おもしろくて深いサーナンダさんのお話は、確実に参加されている方々を引っ張っていっているようです。皆さん、ビシッと座っておられますね。
クラス後には「今日もすごく集中できました!」と生き生きと話されるお姿もあり、また「そんなことを言われてもと思わずに、やってみようと思えるようになりました」「家でも座っています」「心が軽くなりました!」という喜びの声も届いています。

最後に、ある日の会でのこと。
瞑想に限らず、何かをしようと思ってもできなくて落ち込んだ経験は多くの人がもっているかもしれません…… 
サーナンダさんがずっと以前に師(ヨギさん)にお聞きしたお話を紹介してくださいました。

サーナンダ「できなくて落ち込んだことはありますか?」
師「落ち込んだことは一度もない」

(さすがはヨギさん、できないことなんてないんだろうな〜)
すると……

師「できなかったことはある」
(えぇっ! そうなんだ。ではどうしたの?)

師「まだ今は自分にはできないんだと素直に認めた。そうして、どうしたらできるようになるかと考えた。そしてそれをやった。そうしたらできるようになった」

もしそれでもできなければ、あとはその繰り返しだけです、とサーナンダさんは続けられました。
シンプルなお言葉の中に、私たちの本来のあり方が示されたように感じ、心に響きました。

まだまだ入門コースは続きます。
途中参加もありです。ぜひ瞑想専科に心を静めに来てください!

シャチー

*大阪瞑想専科 毎週月曜日 
 https://www.mahayogi.org/classes/meditation_osaka
 京都瞑想専科も毎週木曜日、同内容で開催しています。(JR京都駅近にて)


神の御名

 
あなたの御名のなんと美しいこと、
それは甘露のように、私たちの耳にふりそそがれ
私たちを慰めてくださる、
おぉ、わが魂の愛人よ!
あなたの御名という並びなき至宝
それだけが永遠の住処であり
それを唱えるものは不死となる。
聖なる御名が私たちの耳に聞こえるやいなや
ハートの苦悩は抹殺され、至福で満たされる。
あなたの御名は私たちの魂の魂。

 

通常私たちの心は、グナの影響を受け、サットヴァ(明るく軽快な性質)、ラジャス(落ち着きがなく動揺する性質)、タマス(暗くて鈍重な性質)という3つの状態がバランスを変えながら活動しています。仕事の時などは、「今日中にあれをして、これをして・・・!!!」と慌てて、忙しく頭を回転させています。また仕事の評価などで落ち込んだり、うまく進まないことでイライラしたり、疲れて気力を無くしたり・・・ほとんどがラジャスとタマスの状態ではないでしょうか。

先日仕事の同僚たちと活発に意見交換をしていたとき、突然心の奥から「神の御名」が響きだしました。すると、細胞の隅々まで体と心は清らかさで満たされ、疲れたと思っていたはずなのに、活力が満ち満ちていることに気がつきました。心は静まり、平安と歓びだけがありました。「神の御名」によって心からラジャスとタマスは消え去り、サットヴァだけの状態になったのだと思います。自然と意見交換は終わり、私は自分の机に戻ってその状態をしばらく楽しみました。
「神の御名」には、心の状態を一変してしまうほどの力があるということを驚きをもって感じました。

はじめに紹介した詩は『ラーマクリシュナの福音』に出てくる歌の歌詞です。
まさにこの歌詞のように、「聖なる御名が聞こえるやいなや、ハートの苦悩は抹殺され、至福で満たされた」と思ったのでした。

雨に濡れる紫陽花


心の立て直し方

ゴールデンウィークも終わり、普段の生活が戻ってきました。私事ですが、長い休み中は子供の習い事の行事があったり、親戚が泊まりに来たり、ときどき仕事に行ったりと充実した日々を過ごしていました。

しかしながら主婦(夫)は平日も休日も忙しいですね。つい「疲れた〜」と口にして、もう何にもしたくない!動きたくない!と思ったりすることもあります。そんな時、何時からか心掛けるようになったことがあります。それは「心の主張と真逆のことをする」です。

なぜそういうふうにしようと思ったのかな〜?と考えてみると、それは日々のアーサナを通して感じてきたことだと思います。きついポーズの中で味わう苦痛を無視して、愛おしい神、または呼吸に心を向けていく。毎回それを繰り返すことでいつの間にか苦痛だったポーズが心地良いものへと変容していく・・・。

日常も同じ。もう何もしたくない!と心が苦痛を訴えた時こそ、洗濯物を干す、食事作りに取り組むなど、家でのやるべきことに意識して集中するようにすると、「疲れた」という思いがいつの間にか消え満たされた気持ちになっているのです。

つくづく心の主張ほどいい加減なものはないな〜と思います。そういう経験を何度も何度も繰り返していくうちに、以前より心の扱いが上手くなったよう気がします(ウシのように寝そべっていることもありますが・・・苦笑)。

ちょっとしたことなのですが、こうして毎日心を立て直す機会を与えてもらえて有り難いなあ・・・と思います。ちなみに昨日の夕食はさまらさレシピより、我が家みんなのお気に入りスパイス入りコロッケを作りました美味しかった!

さあ、本日も頑張っていきましょう!

                                                                                                                                                            アマラー


ラーマクリシュナの導き

私はヨギになり、愛という山の洞窟に住もう。

至福の泉のそばで、ヨーガに没入しよう。

真理という果実によって知識の飢えを満たそう。

離欲という花を添えて、神の御足を礼拝しよう。

わが魂なる水瓶に平安という水を引き入れよう。

あなたの、蓮華の御足の栄光に満ちた

甘露水を飲んで、歓喜のあまり

笑って踊って泣いて歌おう。

 

これは『ラーマクリシュナの福音』の中で歌われる歌の歌詞です。これを聞いたラーマクリシュナは、「あぁ、なんとよい歌だろう」ととても喜ばれます。私もこの歌の最後の部分が特に好きです。

「あなたの、蓮華の御足の栄光に満ちた甘露水を飲んで、歓喜のあまり、笑って踊って泣いて歌おう」まるで、先日行われた祝祭を象徴しているかのように感じ、当日の歓びが蘇ってきます。

先日の祝祭では(祝祭の内容はこちら)祝辞をさせていただきました。私は『ラーマクリシュナの福音』が好きで、よく読んでいたこともあり、福音を通してラーマクリシュナの霊性と息吹を話すことになっていました。そして、その場に参加しているみんなが福音の世界に入っていければ…という目標もありました。

祝辞の原稿は歓びをもって割と早い段階で仕上げることができました。出来上がってから当日までも福音を読みながら過ごしていました。でもある日、心の中に浮かんだ思いがありました「こんな祝辞の内容でいいのかな……」

『ラーマクリシュナの福音』は直弟子であるマヘンドラナート・グプタが1882年2月にラーマクリシュナに初めて会ったその日の記録から始まり、ラーマクリシュナが亡くなる1886年8月16日まで、弟子や信者を導くために説いた教えの記録が詳細に残されています。教えはもちろん、信者との会話、日常の様子まで書かれており150年前の記録ですが、その細やかな描写により親近感を持って聖者に接することができる、真理を求めるものにとって、いや、人類にとって宝のような福音です。

そのようなものについて、いったい私が何を言えるでしょうか……急に我に返り、恐れと不安が心を占領しました。もう一度祝辞を読み返してみても、なんと稚拙な文章、とても個人的な内容、これでは普遍的なラーマクリシュナの福音について話をするというような段階ではないように感じ、ネガティブな思いでいっぱいになりました。当日まであと10日、書き直すべきかどうか悩みましたが、焦りもあり、書き直すことができるのかどうかも分からないような状態でした。

日に日に近づく祝祭、どうしよう…という思いが膨らんできた時、突然ラーマクリシュナの教えが胸に飛び込んできました。

「神がしている神の仕事 人は私がするという」

木葉一枚でも神のご意思がなければ落ちることはできない、全ては神がなされていること、神が使い手、人は単なる道具、ラーマクリシュナは常々こう教えられます。
教えが心に染み渡るにつれて不安や恐れは薄れ、消えていきました。そして安堵と歓びが心を満たしました。私に必要なことは、良い道具となるようにラーマクリシュナを愛していくことだけで、恐れを持ったり、不安から祝辞の内容を書き直したり、言葉を変えたりすることではないと分かりました。それからは、「未熟な祝辞ではありますが、どうかあなたへの愛と感謝を捧げることができますように」と祈り、ただただラーマクリシュナを見つめて当時を楽しみに待つことができたのでした。

いつでも、どんなときでも、時間と空間を超えて、常に導いてくださっていることに心から感謝しています。

 

サティヤー


神だけを見つめて! <ラーマクリシュナの導き>

桜の花が美しく咲き始め、鳥たちが喜びをさえずり、大地が春の喜びを身にまとっています!もうすぐ春の大祭サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー(4/7)です!

マハーヨーギー・ミッション主催の今年の春の祝祭では、大聖者シュリー・ラーマクリシュナの存在と導きに心から感謝を捧げ、サナータナ・ダルマを歩む吉祥な生を受けたことを喜び、お祝いします。

ラーマクリシュナといえばキールタンを歌われるシーンが『ラーマクリシュナの福音』の中でもたびたび登場しますが、私たちの周りでも日常でキールタンに親しまれている方が増えてきました。今回、松山で熱心にヨーガをされている山口正美さんがご自身の日常の実践について寄稿してくださいましたので、ご紹介したいと思います。


ヨーガを始めた頃のことですが、ヨーガをやっていこうという決意だけはあったのですが、聖典を読んでも意味がわからない、アーサナも瞑想も続かず、空回りを続けていました。そんな私が唯一興味があったのは「神」でした。思い切って師にお聞きしました。

―私は、神だけしかわかりません。それだけで、いいでしょうか。

「それだけでいい」

―聖典も読めません。聖典の勉強はしなくていいでしょうか。

「しなくていい」

―本当にいいんですか。

「あのね。登り口は人それぞれ違って、いっぱいあるんだよ。いつか、それもわかる時が来る」

それから数年が経ち、やっと「もう、私には神しかいない」という思いになってきました。ところが、そうは思いながらも、日常で神を忘れている自分につくづく嫌気がさし、少しでも「神に近づきたい」と歌い始めたのがキールタンです。

最初は、心が世間のことでおしゃべりをはじめたら、強制的に神の御名を唱えて、神に必死でしがみついていました。 それから毎日、いつでもどこでも、心の中で、声に出して、キールタンを歌って生活してきました。いつからか、神の御名は胸の奥から湧き上がるようになり、最近では、自然の中に神を感じてそれを讃えて歌うこともあります。二年近くたった今、あんなに強かった心がどんなに主張してもキールタンを歌えば、瞬く間に退散してしまうほど、神の御名が、私の日常の支えになっています。

私の憧れの聖者シュリー・ラーマクリシュナは、

「神のみが実在、他のすべては非実在である」

と教えられます。それは、師の教え

「真理、神のみが唯一のリアリティー、それ以外は幻」

と合わさって、私にとって片時も忘れられない大切な教えになっています。 幻なんかいらない、リアリティーだけが、神だけが私の求めるものだ!幾多の輪廻転生の中で感じてきたカルマを生きる虚しさから抜け出したい心の叫びかもしれません。また、本当の生きる目的を見つけた喜びかもしれません。それほどの衝動となって、私を神へと向かわせます。

神を、神だけを見て、神だけを求めて、神だけを信じ、愛し、神の道具となっているラーマクリシュナの姿は、私にとってバクティ・ヨーガの教えそのものです。師のサットサンガに通うように、『ラーマクリシュナの福音』を開いてラーマクリシュナのもとに通って、そこにある息吹を感じています。 これからも師とラーマクリシュナのもとに通い、学んでいきたいと思います。

山口さんのキールタンの原点となった細密画。MYMオリジナルカレンダーより。

山口正美


真実に導かれる <直伝クラスに参加して>

2年前に、ヨギさんのアーサナ直伝クラスが始まる!、と聞いたとき、
「このクラスに参加するからには、絶対にヨギさんにアーサナを正されることが無いようにしよう。何年もアーサナのクラスに通っているのだから、正しくできて当たり前、今さら直してもらうなんて、ヨギさんに失礼だ。」
と、思ったものです。

私は、アーサナ直伝クラスが大好きです。
ヨギさんがその美しい全身を使い、はっきりとした目的を持ち、働いていらっしゃるところを見ることができるのが、何より嬉しいことだったのです。
誰にでも、必要な人に対して丁寧に、解りやすい言葉をかけ、手を添えサポートされるヨギさんの様子を、自分でアーサナをしながら、五感をフル活動させて追いかけていました。
今思い返すと、アーサナ中は呼吸に集中するよりも、ほとんどヨギさんに集中していたような気がします。
そしてクラスの後半、瞑想に座るころにはもう時間も場所も意識することがなくなり、ただこの時がずっと続いたらいいのにと思う。この思いも雑念だと気づきながら、そう願わずにはいられない。この感覚は、いつでもどんな場所でも瞑想できるようになる、手掛かりのような感覚になってきました。

直伝クラスでの瞑想

真実が人の姿となってこの世に顕れることの有り難さ、ということをなかなか理解できずにいましたが、直伝クラスでヨギさんと共に過ごすことで、少しずつ身に染みてきたように思います。
ヨギさんと共にいるときだけではなく、どんなときも同じように、かけがえのない大切なときであるということも。

直伝クラスには大勢の仲間が参加しており、一人一人、クラスでの体感は違うでしょう。けれど、皆、間違いなく真実の存在の方へ導かれている、それが直伝クラスであるのだと感じます。
ヨギさん、この機会を与えてくださって本当にありがとうございました。

正されまいと覚悟していたアーサナでしたが、そんなに甘くはありませんでした。
いつだったか、予想外の力強さで正された逆立ちに思わず声が出そうになり、私の覚悟も必要のない拘りだったのだと気づきました。

マイトリー


如何なる場合にも平気で生きる

私が介護の仕事で訪問している方は、病気で体を一ミリも自分で動かすことができません。動くのは、目と口が少しだけ。口が動いても、言葉は話すことはできません。生きるために必要な食事や排泄は、人の手を借りてされ、もっとも生きる上で必要な呼吸は、呼吸器を使ってされています。でも彼は、少しだけ動く口を使って(あと特殊な機械を使って)パソコンで仕事をされ、驚くほど精力的に生きておられます。リフトを使って車椅子に移動され、それに乗って、どこまでも出かけて行かれます。(もちろん家族やヘルパーと一緒に)毎月の予定を見ていると、講演や会議、飲み会?などとても忙しそうです。

先日支援に入っていた時、今度テレビの撮影のためにカメラマンが来ると教えてもらいました。特殊な病気の方なので、これまでにもテレビや新聞に出られたことはあるのですが、今度の企画は、病気や介護がメインではなく、もっと違う角度から彼の生活を撮影したいということでした。メインテーマは、ちょっと意外なのですが、正岡子規。子規は23歳で結核になり、徐々に進行し、死に至るまでの2年間は疾病と患部による苦痛のため、ほとんど動くことのできない重度障害者になったようです。しかし、動けない体になってからも、口述により精力的に執筆活動を続けたそうです。そして、結核という不治の病に冒され、限られた生活空間の中で(六尺、1.8m四方の部屋の中だけにいたようです)あることを悟ったそうです。

「悟りとは、如何なる場合にも平気で生きている事である」

このような言葉を残されていることに衝撃を受けました。私など、ちょっとした思い通りにならないことで悩んだりすることがあるのに、一ミリも体が動かないような状態で生きておられる方がこのように考えておられていたとは!!なんとかっこいい!!

正岡子規が不自由な体になっても執筆活動を続けたように、私の利用者さんも同じような境遇でも充実した生活をされていることが、今回の撮影対象になったのでしょう。尋ねたことはないですが、私の利用者さんも少なからず、正岡子規が感じたようなことを感じておられるのかもしれません。本当は想像にも及ばないほどの、肉体の制限や苦痛の中で生きておられると思いますが、それを感じさせない、その生き様に改めて尊敬の念が湧きました。足元にも及びませんが、私も如何なる場合にも平気で生きていけるようになりたいと強く思いました。

通勤でいつも見る景色、冬の鴨川

 


日常が真剣勝負!

アーサナや瞑想は練習問題のようなもので、日常こそが真剣勝負だと師は教えられます。

今回、師の直伝クラスやサットサンガにも熱心に通われ、真剣にヨーガに励んでおられる藤原さんが、ご自身の体験を寄稿してくださいましたので、ご紹介したいと思います。


昨年末のサットサンガで、ヨギさんに識別についてお聞きすると、エゴに気づいたら、それが出てくる前に忍耐して制御していくように。そして、他者にはやさしく行為するようにと教えてくださいました。

ところが、年明け早々に久しぶりに夫と大喧嘩をしてしまいました。
その引き金を引いたのも、この喧嘩を招いたのも“私は正しい”というエゴ的な思いから生まれた日常の私の言動だったのです。私は今まで一体何をしてきたんだろう…と何もかもが崩れ去っていくように感じ激しく動揺しました。
その一方で、いつもと変わらず動じることもなくその様子を見ていた息子は、私の肩をやさしく撫でてそっと寄り添ってくれました。その姿にヨギさんを見たように感じました。

その時にやっと私は、ヨギさんから授かったこの教えが、自分にとってどれほど必要なことなのかを思い知るに至りました。
私はヨーガを学び実践が大切だと日常を過ごしていたつもりでした。そして、少しずつですがその日常に良い変化も感じていました。でも、いつの間にかその結果に執らわれてしまい、自分のエゴに気づかずにいたことに気づきました。

この激しい動揺をしずめてもう一度やり直さないといけないと思いました。
ヨギさんのようにいつも変わらず同じで在りたい。その為には、徹底的にエゴをなくしていかないといけない!

以前、クラスでラーマクリシュナが教えられている6匹のワニのお話があったことを思い出しました。
人の心にある怒り、嫌悪、色欲、欺き、高慢、羨望という6つの欲情をワニに、心を池に例えて、池に棲んでいる6匹のワニが時々出てきて心をざわつかせるというお話でした。
何事も自分の思いどおりにはならない、諸行無常、カルマの法則、この世の中の道理を正しく理解して、このようなネガティブな感情が湧いた時には、エゴが思いどおりにしようとして暴れているのだから、即座にその反対のポジティブな思いを起こすのがいい。怒りには寛容を、嫌悪には愛を、色欲には清浄を、欺きには誠実を、高慢には謙虚を、羨望には賞賛を。そして、その時のポイントは、条件付きではなく、いついかなる時も、誰にでも無条件に行なうことだと教えてくださっていました。

これからも何度も何度も心に言い聞かせ、忍耐強くエゴとの真剣勝負に挑み続けたいと思います。

藤原 里美

MAMA YOGA lilāは、篠山市、丹波市で活動しているヨーガのサークルです。藤原さんがアーサナをリードしています。下、写真右端が藤原さん。


思い一つですべてが変わる!

2019年が始まりましたが、どのような一年になるのでしょうか?皆さんの今年の抱負はいかがですか。熱い思いが力強い行動を生み出し、未来を作っていきますから、素晴らしい一年となる思いを抱きたいですね!
さて、マハーヨーギー・ミッションのヨーガ・瞑想クラスも今日から始まりますが、今回、師の直伝クラスや京都のクラスに熱心に参加しながら、ヨーガに励んでいる桜井さんが、クラスを通した気づきと実践、そして決意について寄稿してくださいましたので、ご紹介したいと思います。


ミッションのクラスを受講し始めて2年が経った昨年の3月、アーサナや瞑想の実践を深めていきたいという思いとは逆に、私はそれまでの職場から勤務時間が大幅に増える職場に異動が決まりました。
悩んでいた私にクラスで指導してくださっているシャーンティマイーさんが「思い一つ、社会で求められていることには応えていかなければいけない。」という言葉をかけてくださり、アーサナや瞑想は手段であり目的ではなく、仕事をする時間が前より増えてもヨーガを深めていくことはできること、また、社会で求められている役割を果たしていくことも大切だということを教えていただきました。前向きに今ある状況でやっていくしかないという気持ちに変わっていきました。

新しい人間関係、新しいルール・・・その中でも、
日々淡々とできる限りアーサナや瞑想をする
職場では、頼まれたことやしなければいけないことは余計な感情なしに、すぐに動く
結果には執らわれず終わったことは捨てていく
ふとした瞬間に自分の中の神に意識を向ける

そんなことを心がけながら、土曜日は変わらずシャーンティマイーさんのクラスに参加していました。
それから2カ月が経った6月のクラスで、以前はアーサナをしていても身体という一つの器で呼吸とアーサナの形を作っていくことは別々のものとしか感じられませんでしたが、呼吸とアーサナの形を作っていくことが身体の中で重なったという感覚があり、マットに寝られないくらい身体中が燃えるように熱くなることがありました。この時に、やっとシャーンティマイーさんが繰り返しクラスで言われていた「アーサナはプラーナによって作られる。」ということが、ありありと実感できました。
その時からそれまで以上にプラーナを身体の中で意識できるようになり、少しずつ集中感も増してきたと感じられるようになりました。

これからも、師のお導きの下、シャーンティマイーさんから言われた「アーサナは基本に始まり基本に終わる。丁寧に呼吸を見つめて今の中に生きていく。」という言葉、きっとこの先何十年アーサナをしていっても「吐く息をできるだけ長く丁寧にし吐ききること、それとともに一つ一つの段階を追って完成ポーズにもっていくこと」は変わることなく大切で、それが日常生活では今という瞬間に生きていくことに繋がるんだなと思っています。しっかり心がけこれからも精進していきたいです!

桜井みき


イベント報告 & 2018年振り返り

一昨日の12月29日、左京区のZAC BARANにて、アーサナ・瞑想のデモンストレーションを行ないました。
今回の演目のテーマは、ヨーギーの起源であるシヴァ神でした❗️


シヴァ神のルーツは、インド土着のルドラという暴風雨の神だと言われております。
演目は『The Eternal Quest—永遠の探求—』の前半部をベースに、イントロでシヴァ神を想起させる雷雲の音を鳴らし、宇宙万物を司る主であり、またヨーギーの第一人者であるシヴァ神に、アーサナと瞑想のデモンストレーションを通して近づこうと試みました。
ただ私、うっかりして写真撮影を依頼しておらず、その時の様子は写真でお伝えできませんが😓、友人からは「宇宙を感じた!アーサナ、音響、着ていたTシャツ(カーリー・ヤントラ)、すべてがマッチしていた」という嬉しい感想をいただきました。
年末の寒波の中、グルバイやクラス参加者の方々もお越しくださって、とっても嬉しかったです!
本当にありがとうございました😊🙏

それで皆さん、2018年はどんな年だったでしょうか?
私はこの1年を改めて振り返ってみると、主ブッダがその中心にあったと思いました。
今年は、ブッダがテーマであった4月の祝祭をはじめ、師は折に触れてブッダについてたくさんのことを教えてくださいました。
その中でも特に印象に残っていることは、5月の松山特別サットサンガ後の夜でした。
その時に師は、「ブッダはこの世でいちばん偉大な人物」と言われ、私は「なぜそう言えるのでしょうか?」と尋ねると、次のようにおっしゃられました。

「ブッダは聖典の権威に影響されていないから」

私は「それが偉大な理由?」とクエスチョンマークが浮かびましたが、少し考えた後、師がいちばん好きだというシュリー・ラーマクリシュナの次の言葉が思い出されました。

「私はヴェーダも六派哲学も超えている」

そしてその瞬間、師が教えてくださっている次のブッダの言葉とつながったのでした。

「たとえ古い聖典が出てきても、それを鵜呑みにする必要はない。自らで確かめ、実践せよ」

インドの地においてヴェーダをはじめとする聖典は生活やその精神性の支柱であり、最高の権威に位置するもので、「それを超えている」「鵜呑みにする必要はない」とは簡単に言えることではありません。
しかしながら聖典は、人間を悟りという偉大な完成に導く言葉であり、その言葉の意味する内実をどれだけ感じ、肉迫することができるのか、つまり「実践」と「体得」がもっとも大切なことだと私は改めて気付かされ、そして何より、師がブッダやシュリー・ラーマクリシュナが発した言葉の内実を知っていると感じ、驚愕させられたのでした。

聖典の言葉は深遠で、どんな言葉でも奥深い意味や、また修行者を悟りへと導く力が隠されていると感じます。
一昨日の演目で、アーサナを終えて瞑想に座り、『The Eternal Quest』で朗唱されたウパニシャッドの詩を流した際、期せずして次の言葉が私の胸に響いてきました。

「身体の動きを止め、呼吸を制御せよ。御者が馬を操るように、心を制御して、全身全霊で神を瞑想せよ!」

今年も残すところ1日ですが、来年と言わず今日も真剣にヨーガを実践し、もっと、もっと、もっと聖典や師の言葉の息吹を感じたいですね!!!

最後になりましたが今年も1年間、ブログ「ヨーガを生きる」を読んでくださった皆様、まことにありがとうございました‼️
来年はより精進をし、良い形でブログに反映できればと思います。
そして、いつも真理を教え、導いてくださっている師シュリー・マハーヨーギーに感謝致します。
皆様、来年もブログ「ヨーガを生きる」をどうぞよろしくお願い致します😇🙏

ゴーパーラ