ヨーガの実践」カテゴリーアーカイブ

娘との対話から

先月の話です。家で家事をしていると、友だちの家に行くと言って出かけた娘(9歳)が、すぐに帰ってきました。どうも様子がおかしかったので「どうしたの?」と尋ねると、しばらく沈黙が続いたあと、静かに話し出しました。

娘「○○ちゃんと○○ちゃん(よく遊びに来る友だち)が遊ぼうって言ってきたから家に行ったんやけど、やっぱりやめとくって言ってきた。家でマンガ読んどくわ」

私「なんで?せっかく誘ってくれたのに?一緒に遊んだ方が楽しいんちゃうの?」

娘「(涙ぐみ)だって、いつも2人で遊んで・・・・・・私ひとりぼっちになるんやもん(堰を切ったように泣き出す)」

一人っ子だからか、自分が注目されたいという思いがあることを時々感じていた私は「それは寂しい思いをするな」と気持ちに寄り添いつつ、彼女にどう声をかけたらいいのか分からなくなって、ヨギさんに集中し、直観を待ちました。そして自分の経験を交えて話しました。

母「でも、自分のことを構って欲しい、って思ってばっかりいたら苦しいで。人生思い通りにならへんことの方が多いもん。お母さんも仕事場で働いてて、何人かの人たちが仲良くしてたら寂しいな、って感じることあるよ。でも、みんなが楽しそうだったらいいな、って思うようにしたら自分も楽しくなってくる、そういう魔法(本当は真実ですが・・・)をヨギさんが教えてくれてん。そう思うようにしたら、いつの間にか寂しい思い消えるねん」

それでも泣き続ける彼女に、ストレートな言葉が出てきました。

「自分のことを見て欲しいっていう気持ちは、諦めなさい」

まだ幼い年頃の娘にはきつかったかもしれません。でもその言葉を受けて彼女は、ハッとした顔をして、やがて何か吹っ切れたような、爽やかな表情に変わりました。そのとき、たしかなヨギさんの気配を感じました。

娘は日に日に成長しています。私の元から離れていくのもそんなに先の話ではないかもしれません。母親という役割を通して、今でしか味わえない神を、味わっていたいと思いました。

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その日の夕方、心配して例の友だち2人が我が家にやってきました。

「ほら、あんたのこと大切に思ってるやん。自分、自分ってなってたら、本当のことが見えなくなってしまうよ」と声をかけると、娘は気恥ずかしそうに笑いました。そして言いました「お母さん、こないだお父さんと喧嘩してたやんな。あれは自分のことばっかり考えてたん?」

・・・・・・ああ・・・・・・鋭い。私が話すことよりも、姿そのままを見ている・・・・・・(遠い目)。

「あれはお母さん自分のことを考えてた。あかんな、反省です」

しどろもどろになって答えつつ、ヨギさんの教えを語るのではなく、彼女の前で真摯に生きることがいかに大切なのかを感じました。

Amara


信仰を持つということ。

突然ですが、貴方は信仰をお持ちですか?

熱心に神社に参るとか、毎日仏壇に手を合わせるとか、意識せずとも信仰が日常に溶け込んでいる人もおられます。また、お願いごとや困りごとの時だけは、心の底から神様仏様を信じてすがるというのもありますよね。憧れる人、尊敬する人など現存する人間に対して信仰を持つ人も、亡くなった近しい人を心に想う人もいます。

私も信仰を持っています。ですが信仰の具体的な対象というと実はこれが説明しづらいのです。

名前を呼ぶと何故だか心がギューっとなるクリシュナ。絵で見たことしかない異教の神でしたが、キルタンで御名を歌ううちに、理屈ではない“何か”に触れて、バクティ的な信仰がいつの間にか沸いてくるようになりました。それは自発的では無い作用で、突然圧倒されるような、思いも寄らずに感情が崩壊するような。それはそれでとても幸せなものです。でも、私の場合、姿形を見るだけで愛しいとか、驚くような物語を読むだけでウットリするとか、そう言う想いとは少し違うんです。何千年も昔の伝説はもはや神話の世界で、御伽噺の様です。

それよりも「晩年は何々という病を患いながらも、生涯を通して何処何処で人々に教えを示されていました。」という様なリアルで史実のはっきりした方に心を惹かれます。写真が残っているとなお良くて、そうなると自ずと近代以降の聖者・覚者により親しみを感じてしまいます。彼等を経由してクリシュナやシヴァ、カーリーに想いを巡らせる感じでしょうか。

それはきっと私の“心”が、根本的には目に見えるものしか信じていないからで、(本当は信じたいんですよ!)もし世間の常識がまるで通用しないような世界をこの目で見たなら、あるいは心底認めたなら、私も神話や魔法の世界に没入し、そこで神と一つになることだけを、焦がれるようになるのでしょう。でも、そうなるにはまだ私の“心”は理屈っぽ過ぎるし、足りない頭にもかかわらず、余計な知識が邪魔をしてしまいます。裏を返せば科学の常識がブッ飛ぶような体験を、人知れず味わいたいという思いが強くあるのかも知れません。

しかし聖者・覚者はその世界を知っているのです。

私の信仰は、愛することや憧れよりも「この人には敵わない!」と降伏の末に服従せざるを得ない、圧倒的な能力や徳、そして慈悲を持っている方に対する態度かもしれません。平伏し従い、教えを請う内に、尊敬と愛が生まれる。私の大切な師に、私自身を明け渡そうと決めたのもまさにこの通りです。

信仰の態度は人それぞれですが、全ての信仰の動機は、その御方が見たものを自分も見たい、知りたい、感じたい、だと思います。そして正しいグルはそれを認め、忍耐強く導かれます。

人間にとって信仰は大きな宝物だと思います。ただし、それを得るにはそれなりの手順が必要なようです。最後に私の大好きな師の教えをご紹介させて下さい。

「もし貴方が宝物を受け取りたいと思うなら、今手に持っているガラクタを手放しなさい。」

Caitanya


心に効くアーサナ

最近、心について考える日が続いています。

でも「心はこう考えている、感じている」と自分と心を切り離して考えることは、今までありませんでした。たいてい「自分がこんな風に考えた、感じた」と思っていました。識別という習慣が出来てからは、心を俯瞰して見れるようになってきたと感じます。

ヨーガで心の仕組みを教わって、理解して、納得して、識別して。「よし、もう大丈夫!」と思っていても、日常で予期せぬ事態に直面したら、ボロボロと出るは出るは自分の心の癖や傾向、そしてその原因の執着。ぜんぜん大丈夫じゃなかった…

調子良く前向きにみえた心は、自らを欺いて見えない形で苦しみの元になる色々なものを掴んでいたのです。あるいは過去の潜在印象(サンスカーラ)が消えていなかった。

本当に心は手強いです。

過去の自分を認められず、変わろうと決心させたのも心なら、その同じ心が頑張ってる自分を欺いて、知らぬ間に新たな執着の根を張っていました。それに気付かないということは、識別が甘かった証拠です。頑張ったという思い上がりが、頑張り足りてなかったという結果で現れたのです。

こうなるともう、自問自答することすら信用ならない。大抵そういう時は、過去か未来のどちらかをあれやこれや考えすぎているからで、これじゃどこまで行ってもキリがないなと思いました。季節によって、日によって、時間によってもコロコロ変わる心の状態。コイツを黙らせるのは簡単じゃありません。

バクティも識別も、それだけでは足りないのなら、今一度サーダナ全般を見直そう。考え尽くして出た答えは、アーサナでした。もう一度、初めてクラスに来た時の気持ちに返ってヤマ・ニヤマ、アーサナというラージャヨーガの基本に戻ろう。そう決めて、毎日のアーサナを大切に行うようにしています。みっちり、きっちり、何も考えられなくなるまでしっかりアーサナをやる。

私のアーサナは、しなやかで軽やかで美しいものではなく、カチコチの身体がギシギシ悲鳴をあげる様な、タパス(熱)そのものです。でもそれが私には一番効きます。調子に乗ってたり、ぐずぐず怠けている心を捕まえて焼きを入れる(タパス)と心は暫く黙り(マウナ)ます。

アーサナと瞑想で二時間。その余韻が続いて二時間。睡眠が七時間として合計十一時間。あとは残りの十三時間を、心が喋らないようにすればいいわけです。暇を見つけては聖典を読んで(スヴァーディヤーヤ)、好きな神の御名を唱えて想い続ける(イーシュヴァラ・プラニダーナ)。でも、日常はそればっかりはできませんよね。仕事中も、家にいる時も目の前の義務に集中。ただ集中!結果も感想も受け取らない。こうすると、心の思いに振り回されることなく、今という瞬間を生きることができるはずです。

巷ではアーサナは美容やダイエットに効果あると言われています。でも実のところ心に一番効きます!!

Caitanya


この身を捧げる

すべてのサンスカーラを取り除くには、命を引き換える献身がいる」と以前ヨギさんがおっしゃったことがあります。献身とは何か調べてみると(献身とは、身を捧げること。自分の利益をかえりみず尽くすこと)と書かれていました。

何年か前、人を不快にさせることを口にしてしまう人がいて、私の指を見て「爪が半分割れてるね(生まれつき親指の爪が半分しか生えてこないのです)。気持ち悪い」と言いました。人の気持ちを考えず自由奔放に言葉を放つその態度に、激しい怒りが湧いてしばらく嫌な思いが続きました。

その日寝る前にそのことを考えていて、何故あの人はああいう言葉を発したのだろう?言葉の奥に秘められた思いは一体何だったんだろう?と考えました。その人自身の状況を考えてみると、他の人とあまり関わることがない孤独な状況であること、コミュニケーションを取ろうとしたが、素直な性格なためにそのような言葉が出たのだと分かってきました。

自分が不快だったのは、小学生の時クラスの男子に同じようなことを言われてからかわれ、悲しい印象をもったままそのフィルターを通して物事を見ていたからだということに気が付きました。真理をあてがってみると、この肉体は自分ではなくて、神の道具である、本当の私とは一切関係ない。だから何を言われようとも私が傷付く必要はない、そう思えました。

次の日からその人と話す機会があると、この身すべてを差し出す覚悟で向かい合いました。その人の語る思いに集中していくよう毎回努めていると、いつの間にかその人の気持ちがよく理解できるようになり、自然に本音を言ってもらえるような、そんな関係が築けるようになっていきました。

それから何年か経ち、爪のことを言った人がまた同じこと(爪のこと)を言いました。けれどそこには以前感じた嫌悪感はありませんでした。その人の性格が分かってきたことに加え、肉体をただの物質と見なしている自分がいました。「爪は生まれつきやけど、あんまりない形で格好いいやろう?」と冗談を言う余裕さえありました。

後で振り返って、こういう機会がなかったら私は自らの肉体を物質として扱っただろうか?と考えました。心が反応して逃げ出したくなるときこそ、サンスカーラを取り除くチャンス。どこにいても喜びだけを感じる自分になるまで、取り組んでいこうと思います。

 

 


京都・大阪 瞑想1日ワークショップのご案内!

皆さま、こんにちは🌸
4月に入って新学期や新生活をスタートされた方も多いと思いますが、いかがお過ごしでしょうか?
京都の瞑想専科は5月10日から第4期が始まります!
詳しくはこちら⇒http://www.mahayogi.org/classes/meditation_kyoto

瞑想専科が始まってはや1年半が経ちますが、第1期から参加している野口美香さんが瞑想専科に通いながら日常の中で瞑想を続けてきた感想を寄せてくれました!
瞑想を実践している方はもちろん、新しいことを始めたり、慣れない環境で苦戦している方にも、きっと役立つ内容であると思います😁


瞑想専科では、心の機能や性質について、心がまるで一つの臓器でもあるかのように客観的に、また丁寧に教えてくださいます。
私は日常生活の中で嫌な思いをした事柄に再び関わる時、瞬時に「嫌だ」と反応してしまいます。瞑想の成果は日常に現れると教わってきたので、そういう反応が分かると瞑想ができていない証拠として、自分に落胆することが増えていきました。しかしある頃から落胆した後、「そこで落ち込むのは違う」と神の声?が聞こえるような気がして、川の流れが変わるように思考回路が変わりはじめました。
瞑想専科で、こんなお話を聞きました。

①なぜできないかを考える
②自分にはまだできないことを自覚する
③どうすればできるようになるかを考える
④できるようになるまで淡々と実行していく

自分に照らし合わせていくと、悩む時は心のどこかで「自分はできる」とうぬぼれているからで、「悩むのは優劣意識があるから」と教わったその通りだと思えました。できない自分を認めたくないという思いが邪魔をして、なぜできないかの原因を見極められずシリアスになっているだけでした。そうではなく今、できていない現実の自分を受け入れて、どうすればできるようになるのか?努力で解決できそうなら、それをひたすら行なっていくだけと学びました。

瞑想専科で学びながら生活するうちに、瞑想も日常も別に上手くいかなくてもいいと思え、もしずっと上手くいかないとしても、「最後までやり通したい、諦めずにこれを淡々としていく」と思うようになり、それが自分のヨーガへの信仰であり、信念だと思いました。そう思えたことで、瞑想で何かを得ることが目的ではなくなり、焦りの気持ちも消え、ただ毎日行なおうという祈りのような気持ちに変わりつつあります。そして、あれこれ考える心の奥にあるそれらを見ている意識、そちらが本当の自分というところに、自然に導かれているように感じています。
どうしようもない時こそ、押し黙って自分に向き合い、繰り返し瞑想を試みる――これからも瞑想の実践を続けていきたいと思います。

                                        野口美香


京都の瞑想専科は4月21日(土)、また大阪の瞑想専科は4月22日(日)にワークショップが行なわれます。
瞑想にご関心がある方、深めたい方はぜひご参加ください😇

<京都>
● 日時:2018年4月21日(土)14:00〜15:30
● 会場:京都駅近 キャンパスプラザ京都 2階和室(京都市下京区西洞院通塩小路下る東塩小路町939)
● 参加費:1回2,160円
● 内容:瞑想の実習、講座、Q&A
« 詳しくはこちら

<大阪>
● 4/22(日)14:00〜15:30
*次回ワークショップ:6/7(木)19:30〜21:00
● 会場:中之島 中央公会堂(大阪市北区中之島1-1-27)
● 参加費:2,160円
● 内容:座法(座る形)の練習、講座、瞑想体験
« 詳しくはこちら

ゴーパーラ


サナータナ・ダルマを生きる

 先日、京都アスニーで仏陀の聖劇の上映会がありました。キサゴータミーという女性が出てくるのですが、彼女は自分の子どもの死が受け入れられず、悲しみのあまりその亡骸を抱き狂ったように彷徨います。そんな彼女に仏陀は「誰も死人を出したことがない家に行き、芥子の実を分けてもらいなさい」と言われます。彼女は家々をまわり、誰もが死というものを必ず経験することを、身をもって理解し、平安を得て仏陀の中で生きる決意をするのでした。

 キサゴータミーの心の変容をスクリーンで見ながら、私も早くに父親を亡くし、生きるとは何かということについて、ずっと悩み苦しんできたことを思い出しました。ヨギさんと出会った日、世の中の息苦しさから一気に解放され、水を得た魚のように、本当に嬉しい気持ちでした。この世界にこんな方が存在するなんて!信じられない!という喜びと興奮が入り交じり、この感情をどう捉えていいかよく分からなかったことを思い出します。思えばこの時初めて、ヨギさんから発せられたサナータナ・ダルマ(永遠の真理)に魂が触れた瞬間だったのでしょう。

 あれから十数年経ち、ヨギさんのご存在から、そしてグルバイたちを通してヨギさんの教えを学び、少しずつ理解を育み、今、ヨーガの教えを下に仕事をさせて頂き、ヨーガの教えを下に子育てをし、どんな場所でもヨーガが私の指針となっている。ヨギさんによって、サナータナ・ダルマによって私は生かされている。私が、私のもの、と言えるものは何にもないかもしれないな、と思いました。

 キサゴータミーが心の変容を遂げ、「仏陀、あなたの中に私は生きます!」と高らかに宣言したように、私もヨギさんの中で生き、サナータナ・ダルマと一つになれるように命を輝かせていきたい、そう思っています。

 


瞑想特別クラス2回目 in 松山

春ですね〜桜の開花も全国で始まりました。春の祝祭まで後2週間ですね〜サーナンダです。
そして、現在師は台北を訪問されており、22日には1回目のサットサンガが開催されました。今日は2回目のサットサンガが予定されています。報告が楽しみですね!

さて、先週末に、松山瞑想特別クラスに行ってきました。今回のテーマは、身体と呼吸と心の関係でした。

瞑想は、じっと座っているだけで何かいいことが起こるのだろうと、簡単にできそうに思ってしまいますが、実際に座ってみると、雑念がとめどなく湧いてくるか、眠たくなるかのどちらかで、足も痛くなるし、ちっともいいことが起こらず、すぐに諦めてしまいがちです。

では、どう進めていけばいいのでしょうか?ヨーガではまず身体と呼吸を調えていきます。基礎編2回目の瞑想特別クラスでは、しっかりとした瞑想の土台を築くために、座法(アーサナ)の重要性を学びました。背骨を真っ直ぐにして正しく座れば、呼吸が調い、心が速やかに落ち着いてきます。日常の実践につながるように、今回は主要な座法と簡単な呼吸法の実習に時間を割きました。瞑想する際には両方の鼻が通っていることが大事なので、牛のポーズも皆で実習してみました。

2回目のクラスはどうでしたでしょうか。今回、松山ヨーガ・サークルで熱心にヨーガを実践されている若狭さんが、ご自身の瞑想の実践を記事にしてくださいましたので、ご紹介したいと思います。いつも瞑想特別クラスではスタッフとしてサポートしてくださっている若狭さん、3カ月後を楽しみにしています!


瞑想特別クラスに参加して

「自分には瞑想は無理なのではないか」と思っていた時期がありました。
心はとめどなく動き回り、集中もわずかの間だけ。
周りのグルバイ(ヨーガの仲間)がまぶしくて、自分を貶める言葉は次々に浮かびます。

5分でもいい!座る習慣をつけよう。今日出来なくてもいい、明日また行なおう。
お金の悩みの解決の仕方、理想の生き方とは何かなど、サーナンダさんは熱意を持って教えてくれます。

自分のやりやすい方法をさがしたい!
心は徐々に意欲的になっていきました。前向きになっていきました。
「苦しいのは自分が持っているからだけ。ただ手放せばいい!」と気がついた時、心がスーと軽くなりました。もう余分なものはいらない。捨てよう!自由になりたい!と心が叫びます。

入門編、実践編、特別編と続いて今年はもう一度基礎編。
一回目は瞑想のイロハを学ぶ!でした。
教えていただく言葉がスーツと体の中に染み込んでいきます。

識別の瞑想の間違いに気づきました。
それまでは、正しいか間違っているか、好きか嫌いか、やるべきか否かと行なっていました。
正しいのは「感情を見る。じーと見る。ただそれだけ」でした。
ただ見る、ただ見る、と言い聞かせながら行なってみました。
心を静めて待っていると答えが内側からふーっと浮かんできました!!そして問題は霧のように消えていきました!

この体験は自信になりました。やらなければいけないことだった瞑想がやりたいことに変わった瞬間でした。

次回は6月です。宿題が出ています。私は牛のポーズ、呼吸法、瞑想を行なおうと決めています。
まだ3日目ですが3ヶ月が経った頃自分がどう変わっているのか楽しみです。

2018.3.21 松山ヨーガサークル 若狭多美子


美しい世界が見たい

家庭を持ち、子育てをし、仕事をしていると、職場関連、子供の学校習い事関連。親戚関連など、本当にいろんな人とお付き合いする機会があります。

人と接する時、心に留めている言葉があります。

「トゥルシダスは『善い人にはこの世は善で満ちている。しかし悪い人にはこの世は悪で満ちている!』と言っている。この世は善くも悪くもない。私が善と呼ぶものをあなたは悪と呼ぶかも知れないし、その逆もあるだろう。何処に標準があるのか。標準は、人生に対するわれわれ自身の態度の中にある。各自がかれ自身の標準を持っているのだ。しかも経験と洞察力とが深まれば標準も変わって行く。残念なのは、われわれがまだ悪を認める、ということだ。われわれ自身が完全に善になったら、全世界が善として現れるであろう。われわれは自分の心の投影を見ているにすぎないのだ。常に一切万物の中に主を見よ。そうすればあなたは悪を見ないだろう。疑い深い心はあらゆる処に悪を見る、信頼の心は善だけを見る』

「だが、誰が理解しようとするか。誰もかれもが自分のエゴの中に閉じこもっている。その牢獄の中から、われわれは世界を判定する。治療法は、すべてのものの中に主を見ることである。」(スワミ・トゥリヤーナンダ)

人間関係でこじれるときは、よくよく考えると、結局どんなときも、自分の中に疑いの目があったことが分かります。神だけを見て謙ることが出来たとき、そこには美しい世界が広がります。

疲れていたり、自分を調えられていない時は、濁った目で人を判断しがち。

アーサナ・瞑想、真理の学び。地道なのだけれども、やっぱりこれらのクリアヨーガを毎日行うことが、素直に飛び込んでいける秘訣なのだと思います。

いつでも、どんなときでも、神だけしか見えない人に、なりたい。

京都のとある公園、桜の花が少し咲き始めていました。


この春、瞑想を始めよう! in 松山

先週末2月17日に松山ヨーガ・サークルにて2018年瞑想特別クラス7回シリーズが始まりました。少し暖かく春の気配を感じる気候になり、松山ヨーガ・サークルの前では、目を引く鮮やかなピンク色のチラシを覗き込むように読んでいる人を見かけました。

昨年まで3年間瞑想特別クラスを行なってきましたが、今年からは基礎編「瞑想を始めよう!」に戻り、一から瞑想を学んでいきます。

初回「瞑想のイロハを学ぶ!」では、瞑想していくとどうなるのか、瞑想とは何なのか、どうやって進めていけばいいのかなど、今年一年の土台となることを学び、実習しました。初めて参加する方や、もう一度基礎から学びたいという方など、40名の方が参加されました。

*写真:ヨーガや瞑想の教えをわかりやすく学び、Q&Aで理解を深めていっています。瞑想していくと・・・・

  • 心がとても静かになり、いろんな執われから解放されていきます。
  • 心は澄み渡り、日常が変わります。
  • 不思議なことに、喜びに満たされていきます。
  • 集中力がつき、いろんな物事に動じなくなっていきます。

*写真:瞑想の実習では、静かな気が会場を満たします。

今回、昨年まで3年間熱心に学んで来られた山口さんが、ご自身の実践と経験を寄稿してくださいました。毎日の実践の様子が伺え、とても参考になる内容だと思いましたので、ご紹介させていただきたいと思います。


松山 瞑想特別クラスへの参加は、今年で4年目になります。

3年前、家族や世間への義務を果たしながらヨーガに取り組んでいくことは、困難なことだと感じていたのですが、今回、基礎編の第1回目を受けて、瞑想をしていくとどうなる?の教えに「たしかに!そうなるよなぁ。」と思いました。そうなんです。この3年間「実践していきたい」の感想しかなかったのに⁉︎です。

瞑想特別クラスでは、この3年間、心の仕組み、瞑想の目的や方法、ヨーガの教えを聞き、自らの理想の生き方、そのためにどうすることが必要か考える機会とそれを実践していく勇気や励ましを直接的な言葉ではないのですが頂いてきました。

ヨーガを初めてから瞑想の対象は、「神」と決めています。でも、毎日座ることはできなかったし、時間も短いし、神への瞑想というよりは、心のおしゃべりを聞いて終わるばかりでした。それが変わるきっかけになったのは、私にとっての理想の生き方が明確になって、神への想いを強くしていきたいと神の御名を唱え、神を讃え歌うと決めて、昨年の5月から毎日、キールタン を歌ったことです。場所に応じて、声を出したり、声は出さないで、心の中で歌ったりしています。

最初は、意識的に、心がおしゃべりをはじめたら歌うように癖をつけることからしました。でも、しばらくすると、意識的にしなくても気がついたら歌うようになっていました。最近では、仕事中でも、することがない時は、神の御名と神への想いが身体に流れて、嬉しくてニヤニヤしている自分に驚くことがあります。

日常の中で神を想う時間が増えると、アーサナや瞑想で心がおしゃべりをすることがなく、心の静けさの中で行うことが少しずつ増えてきました。また、アーサナや瞑想を行うことが神を想う時間を増やしてくれる、相乗効果があると感じています。

まだはじまったばかりの実践ですが、この1年、瞑想特別クラスを通してさらに、バクティ・ヨーガを深めていきたいです。

山口正美  *写真は、御聖誕祭でキールタンを奉納する山口さんです。山口さんは松山ヨーガ・サークルでキールタンの会をサブリーダーとして運営されています。


神に委ねる

ここ最近のこと、ヨーガの先輩が我が家に寄ってくださり、「今日久しぶりにスーパーへ買い物に行く」とおっしゃっていて、「なんて格好いいのだ!」と思いました。

ヨーガ行者たるもの、最低限度のもので満足して生きるもの。

最近の私は、仕事帰りにスーパーに寄ることが楽しく、気が付けば必要のない食材まで買い込むことが増えていて、何かの欲求を買い物で満たそうとしていたことに気が付きました。先輩の自然な知足の在り方に、改めて自分の身を正したいと思いました。

その日からスーパーに寄ることを一旦やめ、まずは冷蔵庫を見てからメニューを考えることにしました。

冷蔵庫の中を見渡すと、わずかな種類の野菜と油揚げ、少し古くなったおじゃこ、卵、牛乳くらいしかなかったのですが、今までさまらさの台所でいろんなお料理を教えて頂いていたおかげで、いろんなメニューがふわっと頭に浮かび、おじゃこのパスタ、カボチャのスープ、カレー、かき揚げ丼、炊き込みご飯、白菜のクリームパスタなどが出来、買い物に行かなくても、こんなにもいろんなものが作れることに驚きました。

今ある食材を使って、どうしたら美味しいものが出来るだろう?と考えるのはとても楽しく、メニューを思い付いたら作る工程がまた楽しい。仕事から疲れた〜と思って帰ってきても、いつの間にか作ることに夢中になって、そのことを忘れていました。子供も夫も嬉しそうに食べてくれました。

知足という言葉と共に、私の中で浮かんだのは「神にすべてを委ねる」という教えです。今与えられている環境や状況に感謝し、その場を精一杯生きること。食材もそれと同じ、今与えて頂いているものに感謝して、その命を工夫し、生かし切ることは、具体的な実践なのだと思いました。

今夜は寒かったので、酒粕のリゾットにしましたご馳走様でした〜