ヨーガの実践」カテゴリーアーカイブ

ヨーガ・ヴィハーラの瞑想会 曜日と時間について

今年の夏は去年よりはマシかな〜なんて思っていたら……そんなことはないですね。毎日めっちゃ暑いです!

さて、ヨーガ・ヴィハーラの瞑想会の日程について、変更があるのでお伝えします。

月曜日:毎週 18:30〜20:30まで (開場18:15)

土曜日:奇数週(第1、3、5)19:00〜21:00まで (開場18:45)
第5土曜日の開催が追加されました。

・どちらも2時間の瞑想になりますが、座るために軽くアーサナをしてもらっても良いです。(アーサナをメインにするのはご遠慮ください)
・途中でシャヴァ・アーサナをしてもらっても大丈夫。自分のペースで瞑想していただけます。
・途中参加もできます。(瞑想していますので静かに2Fに上がってきてください)
・ドネーション制で行っているので、良ければ階段横にかけてあるオレンジの入れ物に入れてください(値段は決まっていません)

最後にスワミ・ブラフマーナンダの言葉をご紹介します。瞑想には興味があるけれど、2時間なんてとてもじゃないと思っておられる方もいると思いますが、地道な努力によって必ず良い経験をするようですよ。今日から参加できますので、良かったらぜひお越し下さい!!

「最初、瞑想の実践は無味乾燥に思われるものだ。苦い薬を飲むのに似ている。無理矢理にでも神の思いを心に注ぎ込まなければいけない。続けているうちにやがて、心が歓びでいっぱいになるのだ。試験をパスするためには、学生はどんなに苦しい試練を経なければならないことだろう。神を悟るのはそれよりもずっと容易なことなのだよ!静かな心で真剣に彼に呼びかけたまえ」

 

 


松山の瞑想特別クラス+サットサンガの3回シリーズ2回目!

この暑さに負けることなくヨーガへの情熱を燃やしたいと願う松山のアーナンディーです。
(なんだか暑苦しい登場ですみません!)
7月30日(土)、7月31日(日)に松山で行われたサーナンダさんの2回目の瞑想特別クラスとサットサンガをレポートします。(またまた長くなってしまってすみません!)

1日目は33名(男性6名、女性27名)の方が参加されました。1回目の6月の講座やサットサンガがよかったと口コミで聞いて新しく参加された方もおられました。6月の講座では「生きる目的」について瞑想しましたが、今回は生活を変える瞑想の力!がテーマでした。
7月講座1さあ、これから15分瞑想していきますよ~。

印象に残ったのは、昨年の4月からずっと熱心に参加してくださっているSさんが、時間は自分で作ることについて、ご自身の日常の瞑想を楽しそうに生き生きと話されたことでした。

Sさん「この瞑想特別クラスに来始めて瞑想が変わりました。前は瞑想しようとしても眠かったんですが講座を受けて自分の瞑想が間違っていたのがわかり、姿勢が良くなって瞑想が一気にできるようになりました。また食事も簡単に切り替えたんです。前は食事の支度に45分くらいかかっていたけど、今は作る時間は5分~10分にし、それでも美味しいと言って皆が食べてくれます。私も体力的にその方が助かるし、そうやって時間をつくっていきました。睡眠時間も聞くところによると3時間寝たらいいらしいので、眠れなくても瞑想でもしようかなという気になって座るようにしています。特に家族が寝静まった夜の11時くらいから瞑想すると50分くらい瞑想に入り込めるようになりました。今日のサーナンダさんの話しを聞いて、そんなに食べなくてもいいとか寝なくていいというのがすごくよく分かるんです!」

私は講座の後、改めてSさんとお話しをしたのですが、親の介護をしていて一緒に寝ている母親がお手洗いに起きたらSさんは寝られなくなるそうです。でも「今置かれた状況の中で瞑想の時間を作っていく他ないしね!でもね、昼間は横になることもあるんよ」と明るく笑うSさんの言葉を聞いて正しく学んで実践してこられたからこその信念と力強さを感じました。

瞑想22回目の瞑想は30分間!心地よい静寂に包まれながら。

講座後の感想は前向きな声を多くいただきました。

  • 瞑想と行為の両輪でやっていく大切さがわかりました。実践します。
  • とにかく実践してみようと思った。できなくても諦めないでいようと思った。
  • 少しずつ日常の中でできることを取り入れてきたつもりだったけど、まだまだ変えられることがたくさんあるということ、また自分自身に甘いなということに気付きました。楽しみながら日常の中で実践につなげていきたい。

さて、2日目のサットサンガは19名(男性4名、女性15名)の方が参加されました。皆さんの質問が途切れず50分延長の約3時間に及ぶ熱意に満ちた時間となりました。

今回はバクティとグルの導き、信仰についてのお話しが印象的でした。
最近、アーサナのおかげで心が静かになってきたという女性Iさんに対して、サーナンダさんがバクティとグルの導きについてお話しされました(要約)。
「ラージャ・ヨーガ的にはそれでいいのですが、もう一つバクティ・ヨーガというのがあります。バクティにはグル(神)の導きと恩寵があります。グルの導きは計り知れないものです。グルが与えてくれる力こそが最も頼りになります。どんなに苦しんでいてもグルが一瞬にして活力を与えてくれるのです。自分の力って知れています。グルの教えをどれだけ信仰しているのか、教えを信頼して力にしていけるのかです。ヨーガをやっていくと、まだ目標に達していないけれど世間のことに興味がないという宙ぶらりんの状態になることがあります。その時バクティがあれば楽に進むことができます」
Iさん「バクティ・ヨーガは難しいと思ってしまう。(昨年の講座で教わった)対象に恋愛の気持ちを持つというのがよく分からない」
サーナンダさん「親が子供を思う気持ちもそうだし、子どもが親を愛する気持ちもそうです。その愛の感情を神あるいは聖者に向ければいいのです。バクティ・ヨーガは本当に力があります。理屈ではなくて、聖者のハートに瞑想していけば衝動のように自分の中に既にあるバクティが目覚めるのです。喜びに溢れるのです。聖者のハートに瞑想していく醍醐味はそこにあります」

7月サットサンガ2日目のサットサンガ。質問者Tさんの素朴な本音に思わず笑いが起こります。

また、別の女性Oさんの質問で「自分が苦しむ原因を考えた時、周りの状況に依存していることに気付いた。自分の足で立っていかないと問題が変わっても苦は続く。自立したいと思った。強くなりたい。目の前の人に優しくなりたいと、そういうものが自分の中にある!強さ、優しさはヨギさんと同じものがあると思って瞑想している。日常は昨日の講座で教えていただいたものをやっていきたい。自立できるようになるためにはどうしたらいいですか?」
サーナンダさん「信仰、ヨギさんへの信仰を育んでいかれればいいと思います。心は何かに寄りかからないと自立できません。常に何かを思わないといけない。変化するものに寄りかかると動揺しますが、変化しないものに寄りかかれば動揺しなくなります。信仰を拠りどころにすればいいと思うのです。それに寄りかかっていきたいという思いは発心です。最初は弱いかもしれない。信じている時もあれば弱くなる時もある。でも続けていくことで確かな基盤ができていきます。教えは生きた聖者の口からから発せられたのですから、その存在にこそ心を寄せていけばいいと思います。心を寄せ、いつも思う。そうしていくのがバクティの基本です。聖なる存在に対する信頼、憧れ、素朴な好きという感情を大事にされたらいいです」(要約)

サーナンダさんの言葉がその場にいる皆の心に深く浸透していくのを感じました。講座もサットサンガもサーナンダさんの言葉や揺るぎない実践の一つひとつにヨギさんの溢れる恩寵を感じ、感謝で胸がいっぱいになる2日間でした。
「松山瞑想特別クラス 瞑想を深める」3回シリーズの最後は9月17日(土)「一点集中を極める!」です。翌日、9月18日(日)はサットサンガです。松山の皆さんとお互い助け合って励まし合って、でも軽やかに毎日、実践を繰り返していきたいと思います!

サーナンダさん、濃密な2日間をありがとうございます。
ヨギさん、いつも私たちを導いてくださってありがとうございます。
NYのヨギさんに感謝が届きますように!!!

アーナンディー


バガヴァッド・ギーター

バガヴァッド・ギーター

地獄に到るには三つの門があり
肉欲 怒り 貪欲がそれである
これらは魂を墜落させる原因ゆえ
正気の人間はこの三つを切り捨てよ

この三つの地獄門を避け得た人は
真我実現に到る行いに励み
アルジュナよ 次第に進歩向上して
究極の目的に達するであろう

バガヴァッド・ギーター(16章21、22節)

久しぶりのギーターの紹介です。

先日仕事のとき、私がしたこと(何かを用意したり、整理したり、洗い物をしたり)すべて私がしたとたんに全部直されました。その現場に入ってからだいぶ立つので、今までと違うことをしたつもりはないのですが、何かが気に入らなかったようで右に向けたら左に向けられ、しまったら出される、とにかくそんなことがずーっと続きました。
「そんなに私のやることが気に入らないなら、全部自分でしてくれ!!」と帰り際にはついに怒りが込み上げてきたのですが、結果として怒りが込み上げてきたことで自分自身がとても嫌な気持ちになり、疲れがどっと押し寄せました。
私の仕事の仕方が悪かったかもしれない、もしかしたら相手がイライラしていただけかもしれない、でもどちらにしても怒ったことで自分自身を傷つけたと思いました。

ギーターに書かれているようにやっぱり怒りは自分自身の魂を墜落させる原因なんですね。

相手がどうだろうが、どんな時でも謙虚にいられたら、こんな気分になることはないだろうな……と思い、それ以来そのことを意識しています。


ビールと宗教

皆さん、こんにちは。
梅雨も明けて、暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか?
僕は今週、仕事で屋外プールに行ったのですが、日焼けをして、全身がヒリヒリしています😣

ところで、今日のブログは「宗教」についてのお話をしたいと思います。

「えっ、宗教? こんな暑い日にそんな堅苦しいこと考えらへんて! ビールでも飲もう〜!」

と、ブログメンバーである酒豪のサ××ーさんには言われるかもしれません。
僕も学生の頃はビールが好きで、暑い夏にはグラスをキンキンに冷やして飲んでいたので、気持ちは分からないくはないのですが、
ビールと聞いたら思い出す、大学のゼミ担任だったN教授の言葉があります。

「最近、発泡酒が流行っているけど、あれはビールやない。今、世の中は偽物が増えてきている」

発泡酒はビールとは原料が違うので、泡立ちや味が似ていても別ものですよね。
「そんな当たり前のこと、分かってる!」と言われるかもしれませんが、ただ僕はちょうど学生の頃、発泡酒でも「イケるな」と思って飲んでいたし、お金もなくて「発泡酒でいいや」とビールを飲みたいけど発泡酒で誤魔化していたところもありました。
また、発泡酒もビールの一部と捉えていたようなところもあったので、ビール腹のN教授の言葉に妙に納得させられたのです。

それで話は本題に戻りますが、「宗教」ということを学ぶと、宗教も同じようなことが言えるというか、ビールと発泡酒のような状況があるなと感じるのです。

2カ月前、愛媛でサットサンガが3日間開かれましたが、その内の2日間は「宗教とは何か?」「ヨーガと宗教の関係」についての問答がありました。
ここでは、3日目の今治でのヨギさんのお言葉を紹介したいと思います。

「今日(こんにち)世界宗教と呼ばれているものはキリスト教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教、その他にさまざまあります。それらは歴史的にも千年から二千年の長きにわたって、それぞれの民族の中で発展してきたものです。世界歴史を見まわすと昔の国のあり方、そして今日(こんにち)の国のあり方は大きく変化しています。東洋と西洋がより密接に交流し、経済や文化なども互いに影響し合うような時代にもなってきました。宗教においても以前のままで進んでいるところも少なくなってきています。また、それぞれの宗教の中における形骸化といいますか、宗教の本来あるべき姿が見失われているようなこともあります。それでも人は人生の中で苦悩を抱えながらも救いを求めて、何らかの宗教にその道標(みちしるべ)を求めています。そんな時、既存の宗教ではもはや解決ができないというところまできています。これは見方を変えれば、宗教そのものが堕落してしまっている、あるいは形骸化してしまっているがゆえに、人の心を導くことができないというふうにも見えます。
もう一方で、科学というものが世界の技術や経済、あるいは生活にまで影響を及ぼしている。宗教は、一宗一派の思想だけではなかなかその他への影響を与えることはできません。つまり、宗教の本来である普遍的な真実というものに立ち返らなければならないと思います。それは科学とも矛盾することもないし、またどのような時代であれ、民族文化であれ、共有できる内容をもっていなければならない――ちょうど科学のように。
ヨーガというのは三千年以上昔からインドにおいて探求され、研鑽されてきた科学的ともいえる真実を見つける方法です。だから特に特定の宗教が唱えるようなご本尊といいますか、そういうものを必要ともしません。むしろ真実なるもの、真実の存在、それだけが絶対であり、神と呼ぶべき存在であるというふうに理解します。なお、その尊い存在はどこにあるのかといえば、雲の上ではなくて、それぞれの胸の中にある。人間だけではなくて、この草花の中にも、動物の中にも、土の中にも、空気の中にも、水の中にも、宇宙すべての中にある存在が同じ存在である。昔はそれを魂と呼んだり、あるいは神と呼んだりもしました。その真実を遠くに求めるのではなくて、自分の中にこそそれを見つけて、それを知ること。これが、すべての宗教の帰結点という究極のところに位置しています」

ヨギさんは宗教の帰結点、つまり本質は「自らの内に在る真実、神を知ること」で、それを実現する方法がヨーガであると言われました。
そして最後に次のように説かれました。

「現在あるところの宗教というものは、ほとんどが現世利益という二元的な内容だと思います。二元性の中では神と人間の間は埋まらない。けれども、ヨーガにおいては二元をなくして一元的な――(胸に手を当てて)神がもしあるのならば、それはここに在ると。誰もの中に在る、どこにでも在る、それだけが在る――二元ではないのです。それだけが真実である、そう教えています」

宗教の本質が見失われ、欠落している状態でありながら、似て非なるもの――現世利益や先祖崇拝、またオカルト的なことが宗教と称されている現状ーーこれは発泡酒がビールと称されて、混同されてしまっているようなものですよね。
この宗教の核心を突くヨギさんの教えに、僕は暑さも忘れるほど酔いしれてしまいます。    僕は大学院まで進んで仏教を学んでいましたが、このように宗教の本質――「自らの中に真実、神が在る。そして、それを実現できる」ということをここまで力強く、明確に教えてくれる人はいませんでした。

ちなみにですが、N教授の言葉で印象に残っている言葉が4つあり、1つはビールの話で、もう1つが以下の内容です。

「今の坊さんは職業に成り下がっている。坊さんて職業か? ブッダの頃のお坊さんを見ろ」

N教授、本質を突いています……(笑)
今振り返ると、大学でも宗教の本質の片鱗を教えていただいていたのだなと感じました。

飯尾洋平


瞑想の感触

瞑想をしているとき、「あー懐かしいな〜」という気持ちが湧いてくることがあります。そうなると、身体と心はじわーっと溶けていき、何もない静かな中で心底ほっと安心する感覚があります。安心の中にすっぽりと包まれているとそれは時とともにじわじわと歓びに変わり、歓びが身体の奥底から湧き出てくるのです。

瞑想のあと、このようになる時はどうしていつも「あー懐かしいな〜」という所から始まるのかな?と思っていました。懐かしいと思うということは、過去にそれを感じたことがあるからだと思うのです。心底安心するあの感覚、いったいいつ感じたのでしょうか。大人になってからではないな〜と思い、子供の頃かな?と思い出してみても特に思い当たることはありません。いつも不思議だなと思っていました。

以前、そのことをヨギさんに尋ねたことがありました。

「そのような体験はあたかも身体の中から、中心から泉のようにやってくるものだと思います。そのほっとしたような懐かしさのような心地良さというものが感じたということは、それはもう取りも直さず自分自身の本当のふるさと――それはアートマンの存在そのものですよね。そこから万物が派生したから。本当の故郷をちょっと感じたということになる。だからまたそれを瞑想するときには、それを手がかりとしてもっていくのはかまわない。集中、瞑想は心の力を使ってやりますから、だからそれをもって行なうのはかまわない。でもそれにあまりこだわり過ぎないで、静かにそういう思いに沈潜していったときに忘れてしまったら、それは自動的にまた進んでいくことになりますから、それでいいです」

今でも瞑想に座るとき、その感触が身近に感じられる時はそれを頼りに瞑想することがあります。本当は、瞑想している時だけでなく、いつもいつもずっとあのようにいられたらな……と思ってしまいます。

夕立の後の鴨川、とても蒸し暑いけれど、川の近くは風が気持ちいい。

夕立の後の鴨川、とても蒸し暑いけれど、川の近くは風が気持ちいい。

 

 


日常の気付き

人生は思い通りに行かないことばかりである。それは分かっているけれど、どうしても辛いとき、生きることを拒否する人がいる。

はじめは励ましたり、食べることを望んだり、いろいろと手を尽くしたけれど、本人の意志は固く、何も食べない状況は続いた。ある日、とても痩せた彼女からとてつもなく大きな力を感じた。

家に帰って聖典を手に取った。スワミ・ヨーガナンダの『あるヨギの自叙伝』たまたま開いたページには食事についてのエピソードが書かれていた。

ヨーガナンダがある僧院で生活していた時のこと、先生が2週間ぶりに僧院に帰って来る日、ヨーガナンダ達は歓迎のために食事を用意して待っていた。しかし、汽車が遅れてしまい、先生を待つために何時間も食事ができず、極度の空腹を経験したヨーガナンダは、後に先生に思い切って話をした。

「先生、もし私が自分の空腹をまったく口に出さなければ、だれも私に食べ物をくれる人はいません。それでは私は飢え死にするほかありません」

「それなら死になさい」騒然たる一言が辺りの空気を破って返ってきた。

「死ぬほかなかったら死になさい。ムクンダ(ヨーガナンダの名前)、お前は自分が食べ物の力で生きていると思っているのかね?お前は神の力で生きているのだということを忘れてはいけない。あらゆる食べ物を創造し、われわれに食欲を与えてくださっているおかたはわれわれが生命を維持していくことができるように絶えず配慮してくださっているのだ。自分の生命が米や金や人間の力で支えられているなどと決して考えてはいけない。もし神がお前の生命の息吹を引き上げてしまわれたら、そんなものは何の役に立つ?それらは単なる神の道具に過ぎないのだ。お前の胃の中の食物が消化するのはお前の持っている何らかの技術によるのかね?ムクンダ、よく考えてみなさい。目先の現象に惑わされず、根本の実体を悟りなさい」

 

私たちが神の力で生きているのなら、生きるかどうかを自分で決めることや、食べるか食べないかを決めることは自分勝手なことなのだと思った。それと同時に、どれだけ食事や治療を拒否しても生き続けている彼女は、神からまだ生きるように言われているのだと思った。

彼女はきっと神が迎えにこないことを嘆いているだろうけれど、神は彼女に生きるという恩寵を与えているのだと思った。神からの恩寵は自分が欲しいと思っている形で来るわけではない、でも恩寵はいつもあるんだと思った。ただ、気がつくか気がつかないかだけ……。彼女もまた大きな恩寵で神から守られているのだと分かった。

あるヨギの自叙伝


夏の瞑想合宿ータカフミ編

こんにちは。ブログ初投稿の國友隆史です。
京都では梅雨入りしましたが、すぐに夏がやってきますね!今年の夏は暑いそうです!そして夏といえば7月に夏の瞑想合宿があります。私も瞑想合宿に参加するのですが、今回は自分がヨーガを始めた頃の瞑想体験について寄稿したいと思います。

ヨーガを始めてから毎日1時間ぐらい座ることを続けてきて、座るということに心身ともに少しは慣れてきたのですが、瞑想の姿勢で座って静かに過ごしていると、自分の内側にある喜びを感じるようになってきました。そして忙しい日常からいったん距離をおいて、自分の思いを見つめることができるようになっていきました。

ある時期、自分はこの人生に何を求めているのか、どう生きていきていきたいのか、ひたすら瞑想したことがありました。おおよそ1年ぐらいは取り組んだのですが、そのなかで気づいたことがあります。
それは、この世界で特に何かをしたいということがないこと、自分の心の状態も毎日変わるし、当てにならないということでした。そして自分の人生を振り返ってみた時、心の奥底ではいつも絶対に壊れない至福を求めて、これまでの人生を過ごしていたのだなあと実感させられました。この思いをヨーガの実践を通じて、もっと純粋に具体的にしていけばいいのだと確認することができ、ホッとしたことを覚えています。

瞑想は心を使って行ないますので、その風景や感触は十人十色だと思いますが、その実践には心を内側に向ける集中が専ら必要になります。普段は外側のことばかりに終始しているので、その集中力を呼び覚まし開発するには、学びと訓練を継続することが必要だと言われています。
7月の瞑想合宿では、瞑想について基礎から学ぶとともに、実際に瞑想に座る実習時間も十分とって実体験を通して、瞑想の感触を体感していくようです。私は合宿は初体験ですが、もう一度一から学ぶつもりで参加したいと思っています。

瞑想が気になっている、あるいは瞑想に何かヒントがあるのでは思われている方、さらにはもっと瞑想を深めたいと思われている実践中の方も、忙しい日常からしばしの時間離れて、静かな空間の身を置いて、一から瞑想を学び、その世界をどっぷりと味わってみてはいかがでしょうか?

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近江神宮。夏の朝の清々しいプラーナの中で瞑想してみたい!

國友隆史


十人十色

仕事場で、目の前で話をしていた人が席を外したとき、一緒に話を聞いていた隣の人に

「今の人、感じがいいですね〜」と話しかけると、

「え!?私あーいう感じの人苦手です」と言われてビックリしました。

たいした話をしていないのに相手のことを苦手だと決めつけるってどうなの?と思いながら、たいした話をしていないのに感じがいいと決めつけた私もどうなの?と思ってしまいました。

2人の人間が同時に同じ人と話をしても、ここまで違う印象を持つとは!!

「十人十色」という言葉がある通り、十人いれば十通りの意見があるのはヨーガと言わず世間でも当然のことです。でも実際に体験すると結構ビックリします。

ヨーガではそのようなことが起こる原因としてサンスカーラ(残存印象)が人によって違うからだと教えます。私はきっと、以前に同じような人に感じよく接してもらい、こういうタイプの人は感じが良いという印象を持っているのでしょう。反対に隣にいた人は同じタイプの人から何か嫌なことをされたのかもしれません。記憶として覚えているかは定かではありませんが、潜在的記憶の中でその印象は生き続け、何かに遭遇したときに出てくるのです。この人好き、この人嫌い、人でなくても好き、嫌いの原因はすべてサンスカーラです。

同じものを見てもまったく違うように見えているのであれば、私は私の基準をもって私の世界の中で生きていることになります。

気持ちを共有していると思っている家族や友達や恋人でも実は全然違う世界に生きている可能性があります。いや、可能性ではなく残念ながらそうなのでしょう。

ヨーガではサンスカーラをゼロにしていく作業をしています。ゼロになったらいったいこの世界はどのように見えるのでしょうか。そしてサンスカーラと共に生きている人のことをどんな風に思うのでしょうかね。

仕事先で咲いていたあじさい

仕事先で咲いていたあじさい


京都 瞑想会 

先日、京都のヨーガ・ヴィハーラで毎週月曜日に瞑想会をしていることをこのブログで紹介しました。この4月からは月曜日に加え、奇数週の土曜日にも開催することになりました。(5月は7日、21日)時間は19時〜21時の2時間です。月曜日は平日なので仕事の都合で参加できないという人も土曜日なら参加しやすいということで、月曜日の瞑想会とは違う顔ぶれがそろい、人数も少し増え、一緒に瞑想を深めています。どなたでも参加していただけますので、ぜひ一度参加してみてください。

今回は瞑想会に欠かさず通ってくれているOさんから瞑想会への熱い思いをいただきましたので掲載します。

神さまに逢える場所

去年の夏に瞑想会に参加しませんか~と先輩に呼びかけてもらって、春まで続いてきた。
1人で座るのもいいのだけれど、やはり人と共に坐ることの力というのを改めて感じている。

自分だけの取り組みでは、様々な日中の出来事を心が自動再生したりして、肝心の瞑想の対象に辿り着くこともなく、ただ何となくぼーっとしていただけ?という時間になってることもしばしばだった。

ところが、先輩方が用意してくださってる時間や空間は、何もなくスッキリとした、落ち着きのある雰囲気で、そこに入っただけで、或は思い出すだけでもほっとして、様々の思いなど勝手に離れてしまう。
あの神聖な空間にふさわしい自分でありたい、と注意しながら生活するので、瞑想に入りやすい状態を普段から保てるようにもなってきたのだと思う。

そして、この春にはついに神々のタペストリーが壁に掲げられた。
つい先日は、ナタラージャの新しい神像も置かれた。
浄らかなものと私たちは隔てられている。或は、自分でそれらと隔たりを作ってしまっている。
神が、真理が、浄らかなものが、どこにあるのか、どのようなものなのか、見たことがなければ、想像することなどできない。

神さまはみんなのものだ。
浄らかさとは、みんなのことだ。
そしてソレは、ワタシの中にもきっとある。

私たちは師から「あなたはソレです」と教えていただいた。
本当の自分に目覚めること。ソレを目指すこと。ソレになること。

神さまと一緒になって遊びたい。
それを実現するための、神さまに逢える場所。

みんなで一緒にそれを味わえる瞑想会に一人でも多くの方と共に坐ってみたい。

ヴィハーラの2階 シヴァ神の絵

ヴィハーラの2階 シヴァ神の絵


初心忘るべからず

4月1日の夜勤のとき、利用者さんや家族さんとテレビでニュースを見ていました。ちょうど世間は入社式の日、新しい門出に希望で胸いっぱいの新入社員の様子が放映されていました。インタビューでは、「ここまでこれたのは家族のおかげ、初心を忘れずにがんばっていきたいです!」と話している人が多くいました。私も利用者さんも何て初々しい姿なんだろうと見入っていました。ニュースキャスターはその様子を見て

「私にもこんな時がありましたね〜初々しい姿を見ると、自分の初心を思い出します〜」「本当にそうですね〜」と嬉しそうに話していました。

「?????」当たり前のように聞き流す会話かもしれませんが、何となく違和感がありました。

「え!初心、忘れてるんやん!」私は思わず突っ込みそうになりました。

「初心を忘れずに」と言っている新入社員を見て、ほとんどの人は自分の初心を思い出すということは、初心というのは、「忘れず」という決まり文句が付くのにも関わらず、結果的には「忘れる」ということがお決まりなのでしょうか……なんか不思議と思ったのでした。

なぜ初心を忘れるのでしょうかね。

新入社員の姿を見ていると初々しく、希望に満ちています。それは彼らはまだ何も知らない真っ白な心で会社を見ているからだと思います。でも勤務が始まると、「あれ!?思っていたのと違うな、結構大変だな、あの先輩恐いな、この仕事向いてるのかな?」もちろん悪いことばかりではないけれど、心の感想は次々に出てきます。真っ白だった心には日に日に記憶が溜まり、その印象が刻み込まれていきます。そして、仕事自体は勤務の初日と同じことをしていても、その印象を通して会社や仕事や同僚を見てしまうことが始まるのです。その時点で初心は少しずつ忘れられていくのだと思います。

では、初心はあくまで「初めの気持ち」なので、変わっていくのは当たり前なのでしょうか?ヨーガでは、その記憶やそれによって持つ印象のことを「サンスカーラ(心の残像印象)」と言います。そしてヨーガの教えにはこうあります。

「サンスカーラを消していくのは真実の知恵だけです……瞑想における真実の知恵は、心の記憶にゼロというサンスカーラを残していきます」

ヨーガをしていくと確かに物事に対する印象が弱まっていくのを感じます。今までなら仕事から帰ってきても「今日はどうだった、こうだった、あの人はどうのこうの」と心の中でずっと仕事のことを考え続け、心に印象を強く刻んでいるようなところがありました。でもヨーガをしてからは、仕事は仕事、終わったらそのことは終わったと心の切り替えができるようになったと思います。「嫌だな」と思うようなことがあっても、心を切り替えることができると、さほど気にならなくなるという不思議な変化を感じてきました。

でもこれはまだまだ、印象を持たないというのではなく、「印象を持ったけれど、それを切り替えている」という感じ。私がそのテレビを見て思ったのは、「そもそも常に初心でいるということが可能なのか」ということでした。だって毎日8時間以上働き、毎日会社での出来事や人の印象を持つたびに切り替える、この繰り返しではもう切りがない……考えただけでもめんどくさいと思ったのです。

初めから印象を持たないためにはどうしたらいいのかな……。

夜勤から帰り、その日はそんなことを考えながら瞑想に座りました。瞑想の途中でふと目を開いたとき、視界に飛び込んできたのは女神ドゥルガーの巨大な絵(ヴィハーラの2階にあります)、ドゥルガーは美しく微笑みながらライオンにまたがっています。私にはそのときたくさんの手で剣を持っているように見えました。ドゥルガーはずんずん迫ってきて、私をバッタバッタと容赦なく切っていきました。

そうか!!!もう自分の力でその印象をどうこうしようというのでは追いつかないということか!心を神に明け渡す、神のみで満たしていくことだけが印象を持たないということを可能にするのだと理解しました。

ヨギさんはいつも言われます。

「心を常に神のみで満たしなさい」

それが、ただ一つの答えでした。

ヴィハーラの2階にある女神ドゥルガーの絵

ヴィハーラの2階にある女神ドゥルガーの絵