ヨーガの実践」カテゴリーアーカイブ

新しい道

みなさん、こんにちは。ユクティーです。東北はやっと寒さが和らいで春の気配が感じられるようになりました。私が南相馬に移り住んで3年。今も3年前と同じ病院で看護師として働いています。

この3年間の私の功績??と言えば…この地域の人たちにちょっとだけ関西弁を広めることができたことくらいですかね。なんせ、仙台の人にしても福島の人にしても、私と接して初めて実際に関西弁を聞いたという人ばかりでしたから。福島に来る前は、関西人と東北人は正反対の性質だから合わないとか、嫌がられるから関西弁は絶対しゃべらない方がいいとか、さんざん色々言われましたけど、実際来てみたら…、何でしょう、この歓迎ムード。耳に心地いいとか、わざわざ聞きに来る人もいましたよ。それだから私も周りの期待に応えるべく関西弁を話し続け、結果私は今もこの地域の方言が全く話せません。

たしかマザーテレサは、奉仕活動していたコルカタの人たちが話すベンガル語をすぐにマスターしてとてもうまかったことから、ベンガリーシスターとも呼ばれていたそうです。すごいなあ。

私が働いている所はベッド数100床くらいの小さな病院で、職員さんも全員知っているし、職場ではもう私がここにいるのは当たり前になっています。でも私事ですが、その職場を来月いっぱいで退職することになりました。…と言っても、京都に帰るわけではないですよ。この地域には住み続けるのですが、5月からは知り合いが3年前に立ち上げた訪問看護ステーションでお世話になります。病院から追い出されるわけでも私が嫌になって辞めるわけでもないですよ。

これには被災地ならではの、そして日本の看護界ならではの事情があるんです。早く言えば看護師不足で(法律上訪問看護ステーションは2.5人の看護師がいないと開設できない)その知人の訪問看護ステーションは今閉鎖の危機に直面しています。もともと訪問看護を希望する看護師は多くないし、日本は病院に看護師を確保することが優先される傾向にあるので、全国的にも看護師が定員に満たず閉鎖していく訪問看護ステーションが少なくありません。知人のステーションが閉鎖の危機ということで所長さんも娘さんも関係者の方たちも私も必死に看護師を探したけど、なかなか見つからない。そんな中である時ふと思ったんですね。「そういえば、私がいたなあ」と。でも、今の病院だってどんどん看護師はいなくなって、ぎりぎりの人数でやっているし、私が抜けたら夜勤だって誰かが代わらなくてはいけない。それに震災後病院を辞める人が後を絶たないので、ここの人たちはもう人を送り出すことが辛くて仕方ないんです。だから、本当はあまり出て行くと言いたくなかった。でも、病院は私がいなくても今すぐ潰れるわけではない。知人の訪問看護ステーションは早ければ5月に閉鎖。この決断には京都から南相馬に来る時とは比べ物にならないくらい勇気とエネルギーが必要でした。まあ実際は2日間で決めたんですけど。

そして病院側にも何とか分かってもらい、私は知人のステーションを手伝いに行くことが決まったんですけれど、次は私の住む家がなくなるんですね。今この地域は除染や建設で多くの業者が入ってきていて、次々とその人たちが住むためのアパートが作られています。家賃も倍近くに高騰しています。いくらアパートが増えても追いつかない現状があり、吹いたら飛んでいきそうな小さな事業所には回ってこないんです。今私が住むアパートも私が南相馬に行ったその日に建った復興支援者用のものですが、病院が借りてくれていて、小さいけれど地元で力のある病院だったからこそ確保できたし、それでも一部屋借りるのも大変だったと聞いています。訪問看護の事業所から、「まず仮設住宅に移ってください」と言われました。仮設住宅は南相馬市ではなくて福島県の持ち物で、県が医療再建のための医療者用に一部確保する方針を取っています。でも、仮設は来年春から解体予定で、結局はアパートを探さないといけない。私としては当分は仮設でも良かったし、まあ何とかなるだろうくらいな感じでいたのですが、所長の娘さんは「何としてでも探します!!」と意気込んで言われ、人の信念って本当に実現させるんですね。先日アパートが見つかったそうで、私は4月下旬にそこに移ることになりました。あぁ、この1,2週間は本当に色んなことがあって、ここでは書ききれない。でもこういうことがなかったら、私は被災地の深い多岐にわたる様々な問題を知ることはなかったと思います。

…ということで、もうすぐ私は病院という囲いの中から外に飛び出して行きます。どんな人と出会うんだろう。まさか南相馬の地を自分が車を運転して仕事をするとは思いもしなかった。あー、こわ(-_-;)でもきっとこの道も、私が辿り着くべき所につながっているに違いない。

ユクティー

ユクティー


四の五の言わずにやってみる!

瞑想を始めた頃は、ほんの5分間でも座るのが難しく感じるものです。座って眼を閉じた途端に心がざわめきだし、体はそわそわしだします。不思議なことです。ただ座って眼を閉じて、心を集中させるだけなのに、そんな単純なことができないなんて!

町家瞑想
長岡京クラスー神足ふれあい町家にて

心と体は動くことが仕事だから、何もせず静かに座ることには耐えられないのですね。だから瞑想は闘いになります。じっと座っていたら体はあちらこちらが痛くなり、「もうやめようよ」と不平を言い出します。心は雑念の嵐か睡魔に襲われ、「今日は調子が悪いからもう止めて、明日頑張ろう」と言い訳を始めます。

そんな体と心が黙るには少しばかり時間がかかるかもしれません。しかし思い出してください。何のために瞑想しようと思ったのか!それはこの心の動揺や不安、苦悩を無くしたいからに違いありません。そしてヨーガの境地を味わいたいからでしょう。

ずーーーーっとほったらかしにしてきた体と心が、毎日淡々と黙々と瞑想を続けていくと、次第に静まっていきます。何だか生活に役立ちそうなヨーガの教えを学んでも、頭だけの知識では一時の気休めにしかなりませんが、瞑想はその知識が指し示すところの境地ー空っぽで自由な境地に導いてくれます。それを加速させてくれるのがヤマ・ニヤマやアーサナになります。全部つながっていて、本当にヨーガは科学的なのですが、その通りやれば深まっていくことに気付くのはずいぶん経ってからかもしれません。

前回の記事でサティヤーがヨーガ・ヴィハーラでの2時間瞑想のことを書いてくれました。2時間座るのはまさに闘いですけれど、習慣になれば喜びに変わっていきます。静かな瞑想の流れが心にしっかりと刻み込まれることでしょう。もし「やってみたいな!」「すごいなあ!」と思うなら、「自分にはまだ早い」「しんどそう」など、四の五の言わず自分もやってみたらいいと思います。やってみないことには始まりませんから。週1回やるだけでも心が定まってくるなら、毎日やればもっといいに違いありません。

ヨーガを始めた頃「時間は自分でつくり出すものだ」と教わりました。長い時間座ればいいものではありませんけれど、しっかりと瞑想するなら、やっぱり1時間、できれば2時間くらい座るといいと思います。座法が瞑想に導いてくれます。過去の聖者たちの伝記を読むと、日々8時間や16時間瞑想していたと記されていて、「え〜〜!」と絶句した記憶がありますが、古のヨーギーたちは凄いものですね。でも、彼らにできて我らにできないはずはありません。5分が10分になり、10分が30分になり、さらに1時間、2時間・・・と心はもはや時間を忘れて瞑想の流れの中で自分自身に深く深く潜っていくことになるのでしょう。

MYMでは、4月から大阪で瞑想クラスが新たに始まり、東京でも瞑想専科が始まります。瞑想はヨーガの主たる修練ですから、ぜひ深めていってください。

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春から始まる大阪瞑想クラス

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東京で始まる瞑想専科

明日は春分!悟りの彼岸を象徴する日です!心機一転するにはとってもよい季節ですね。

サーナンダ


毎週月曜日 ヨーガ・ヴィハーラでの瞑想会

みなさん、毎週月曜日の夜18時半〜20時半まで、京都のヨーガ・ヴィハーラで瞑想会をしているのをご存知でしょうか?瞑想会はクラスではなく、瞑想したい人が自主的に集まり、2時間黙々と瞑想をする会です。

ヨーガ・ヴィハーラの扉、この扉を開けが2階で瞑想会は行われています。

ヨーガ・ヴィハーラの扉、この扉を開けが2階で瞑想会は行われています。

この会は2人のヨーギーの熱い気持ちによって2013年の夏から始まりました。

でも実はこの2時間の瞑想会、さかのぼること16年前の2000年から存在していました。その後、瞑想会は2008年頃から形を変えていきます。1時間の瞑想の後、参加者でヨーガの学びを深めるサットサンガをしたり、2012年頃にはヨーガ・ヴィハーラを飛び出し、外の会場を借りて瞑想を学ぶクラスが出来ていきました。黙々と2時間瞑想をする「瞑想会」というものは6年間存在していなかったのです。

2013年のある日、一緒に食事をしていたYさんとKさん、この二人は2000年から瞑想会に通っていた2人なのですが「最近、瞑想できてる?」という会話から2時間の瞑想会を懐かしむようになったようです。そして、再び2人で瞑想会を復活させることを計画しました。誰も参加しなくても構わない!2人だけでも続けていく!それはとても強い情熱でした。

Kさんは6年ぶりに2時間の瞑想会に参加した感想を「うれしくて、うれしくてたまらなかった!」と話してくれました。

瞑想会を始めた2人ヨーギーYさんとKさん

瞑想会を始めた2人ヨーギーYさんとKさん

そんなKさんに2時間瞑想の醍醐味を聞いてみました。
はじめは、一人だと5分も座ることができなかったKさん、瞑想会に参加し、先輩の中で見よう見まねで座っていたと言います。アーサナクラスと一緒で会の間は勝手に途中でやめることはできないし、みんなが一所懸命瞑想していることが励みになり、少しずつ集中できるようになったと話してくれました。今は2時間座ることに苦痛はないと言います。「座る」ということはできたけれど、瞑想は内容が大切!!毎週通うことで瞑想の流れができ、自分の軸ができてきたと言います。
そして、瞑想ができるようになりたい人はとにかく一度参加してみてくださいと話してくれました。

瞑想に興味がある方、よかったら一度参加してみませんか〜?


純粋であること

先週の土曜日はサットサンガ(真理の集い)がありました。東京や松山からたくさんのグルバイ(ヨーガの仲間)が集まりました。その中には久しぶりにヨギさんに会う人、初めてヨギさんに会う人もいました。ヨーガの実践について途切れることなく質問は続き、あっという間の2時間半でした。

初めてサットサンガに参加した方の質問で「純粋であることとはどういうことですか」というものがありました。

ヨーガとは心を純粋にしていくことです。そのためには完全で純粋であるものに近づき一つになることが求められます。

 

純粋であることとは、誠実であること、素直であること、計らいがないこと。真理や神は純粋な存在であるから、それに向かうことで純粋さを増すことができる」

 

サットサンガでは無努力の瞑想ができると言われます。ヨギさんの答えを聞き、理解しようとすることで、純粋である真理や神に自然に心を奪われ染められていきます。ハートに刻まれたその印象を大切に、日常で瞑想を続けようと思いました。


ある朝のできごと

先日仕事(私はヘルパーとして在宅障がい者の支援をしています)に行くと、利用者さんが2日間食事をしていないと言われました。「え!?なんで?」とビックリして理由を聞いてみるも、「食欲ないねん、放っておいて」という素っ気ない返事、顔も暗く、まったく元気がありません。いつも私のお弁当を覗き込んで、あれ食べたいこれ食べたいという人なので、顔の前にお弁当を持っていったのですが、「いらん!」と一言。これは相当変だなーと思いながらも放っておいてと言っているので、その夜はそのまま見守ることにしました。

翌朝、コーヒーは飲めるというので飲んでもらっている時、「このまま神様が連れて行ってくれへんかな……」と誰に言うでもなく消え入りそうな声でつぶやかれました。
その言葉を聞いた瞬間、食欲不振になっている原因がなぜか理解できました。それは具体的な細かな原因が分かったという訳ではないのですが、その人の中にある悲しみみたいなものに触れたような気がしたのです。

思わず「辛いですね……」といって黙り込む私。二人してしばらくの間黙っていました。じっと息をひそめてただ彼女の思いに寄り添いました。一瞬ですが彼女の人生の中に入ったような不思議な感覚がありました。どのぐらいの時間がたったか分かりませんが、気がつくといつもと同じ光景がそこにあり、彼女はコーヒーを飲んでいました。言葉をかけて慰めようとは思いませんでした。

帰り際、彼女は私をみて微笑んでいました。「またお弁当持ってくるし、次は食べてな」と言って帰りました。


直観

先週の土曜日の夜にサットサンガがありました。東京や松山、ニューヨークからグルバイ(ヨーガの仲間)が集まり、師であるヨギさんからヨーガを学びます。直接学べる貴重な機会なので全国、世界中から集まります。
アーシュラマの二階は満員!熱気がすごかったです。特に日本でヨギさんに会うのが最後になるニューヨークのグルバイからは気迫を感じました。(ニューヨークグルバイの滞在記事はこの記事の下にあります)
さまざまな質問があり、ヨギさんはその質問に一つずつ答えてくださいました。

直観についての質問は、前日にグルバイ同士で話していた内容だったこともあり、私にはとても印象的でした。

 

「ヤマ・ニヤマをやっていくことによって身口意が一致する。そうすることで心はサットヴァ性(清浄)になっていく。サットヴァ性の中から正しい直観が生まれる。」

「身口意を調えることで直観が得られる。最初にひらめいた直観に言葉と行為を一致させることで無駄な思いを発しなくなる。そうすると必要なときに必要な直観が思い浮かぶようになる。熱心にやれば早道になります」

ヤマ(禁戒)非暴力、正直、不盗、純潔、不貧、 
ニヤマ(勧戒)清浄、知足、苦行、聖典の学習、神的な存在への帰依
身=行動 口=言葉 意=心の思い 調える=矛盾なく同じにしていく

時として、思ったことと言っていることがバラバラだったりすることはありませんか?
大人になるとけっこう平気でこういうことをしてしまうことがあります。身口意を調えるというのは単純に思ったことをすぐに行為していくということになります。良い思いの時はもちろんですが、思いって良い思いもあれば、悪い思いもあります。「この人ムカつく!」と思ってそれを口に出すと、とんでもないことが起こることは誰でも想像がつきます。そもそもそんなことを言いたくないですよね。そんなときはその思いを良い思いに変化させるといいと教わりました。
こんな思いを持ちたくないな……と思ったらそれもすぐに行動!思いを変化させます。そして、むしろこういう思いを持てたらいいな……と思ったそれもすぐに行動!そういう習慣を付けていくことが大切だと教わります。

身口意を調えていくと無駄な思いを発しなくなると言われています。確かに何でも思ったことをすぐに行動してしまえば、「あーやらないといけないことがあるんだけど、めんどくさいな〜」とか頭の中でごちゃごちゃ考える要素はなくなっていくでしょうね。その分心がシンプルになることで正しい直観が得られるんだと思いました。

「ヤマ・ニヤマ」や「身口意の一致」はヨーガの教えの中でとても基本的な教えです。今一度私も意識して行っていこうと思いました。
ヨギさんは実践を続けていくと心に「空(くう)」の状態が訪れると言われました。「空(くう)」は「空(そら)」と書きます。これはインドの言葉で「スカ」と言われ、インドでは「楽」という意味だそうです。昔ヨギさんに「心が空っぽやと楽やで〜」と言われたことを思い出しました。

フリージア、シクラメン、蝋梅、京王桜

アーシュラマの階段に飾られたお花、フリージア、シクラメン、蝋梅、啓翁桜

サティヤー


お花の会

先月1月17日のさまらさの台所に参加しレポートしたのですけれど、その後お花の会にも初めて参加しました。参加したというより見学をさせていただいたのですが、少しその様子をレポートしてみたいと思います。

何とこの日は16名の方が参加され大にぎわいでした!

お花①

お花②

皆さん常連の方が多かったですが、松山からはさまらさの台所に続いて初参加の方もおられました。花器選びから始まって、皆さん黙々と生け始めました〜出来上がりが楽しみです!

講師のシャーンティマイーさんはいつもアーシュラマのお花を生けておられる達人ですね〜!ヨーガも達人ですが、料理もお花も何でもできるんですね。凄いですね!初めての方にも的確にとても分かりやすく教えておられました。皆楽しそうです!

松山からのお二人もシャーンティマイーさんの分かりやすい説明に納得です。

さあ、皆出来上がってきました!皆それぞれの性格がお花に現れているような、一人一人ユニークな仕上がりでとても興味深かったです。出来上がった人からシャーンティマイーさんが順番に見て回り、アドバイスされ、そして少し手直しされます。するとあら不思議、とってもよくなるようです。それぞれの人の生け方を生かしながら、少しだけ手直しされ、そしてポイントを説明されます。そのようにして皆腕を磨いていっているのですね!しかし16人ものお花を見て回るシャーンティマイーさんは大変ですね〜!

お花③

シャーンティマイーさんの手直しを皆で見学し、学んでいます。

それにしても楽しく心地よいひと時でした。お花を生ける時の皆の真剣な集中した表情が印象的でした。ヨーガの集中力が生かされているのでしょうか、それともお花の集中力がヨーガに生かされているのかもしれませんね。皆家に帰ってすぐに学んだことを思い出しながらおうちの花器に生けられるそうです!

松山のMさんも、松山に帰ってから家で生けられたお花の写真を送ってくださいました。初めてなのにとっても上手な!そして、お花の感想に次のようなことを添えられていました。

「シャーンティマイーさん、私たちが帰る時に、私とアーナンディーのお花たちをとっても丁寧に、大切に包んで下さって、その、黙々とされる横顔を見ていると、何だか感動してしまいました」

私もその姿を覚えていたのですが、何気ない行為が印象に残るものなんだなあとしみじみ思いました。その感想が私の一番印象に残ったことでした。

とても楽しい身になるお花の会にご関心がある方は、ぜひヨーガ・ヴィハーラに一声おかけください。

サーナンダ

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大切なヨーガの教え

先週の木曜日からニューヨークのグルバイ(ヨーガの仲間)3人が京都に滞在しています。シャーンティ庵に宿泊しながらサットサンガやクラスに参加されています。先日、一緒に夕食を食べてお話をする機会がありました。まだ到着して数日、時差ぼけなどで眠たかったかもしれませんが夜遅くまで一緒に話ができました。彼らは遠いニューヨークからヨーガを学ぶために京都に来られています。ヨーガに対してとても真剣で真摯な気持ちが伝わってきました。

4年前、私はヨギさんの渡米時に3ヶ月同行させていただきました。今回日本に来ているグルバイの中にはそのときにニューヨークで会ったグルバイもいて、彼らを見ていると自分がニューヨークに行った時のことを思い出しました。私もヨーガを学ぶためにニューヨークに行ったのですからとても真剣でした。しかも、3ヶ月間も集中して学ぶことができたのは本当に恵まれていたと思います。はじめは生活に慣れることで必死でした。少しずつ慣れてくると、だんだんその生活が当たり前になり、貴重な体験をさせてもらっているということを意識することもなくなっていきました。そんな時、ヨギさんに言われたことがあります。

「後悔することがないように毎日を過ごしなさい」

その言葉を聞いた時は身の引き締まる思いでした。滞在も終盤でしたし、もう一度自分自身のことを振り返り、日本に帰ったら後悔することはないか、何のために来ているのかなど必死で考え、思い残すことがないように一日一日を過ごそうと意識しました。

その言葉を聞いた時は、大切な滞在を無駄にしないためだと理解しました。でも今はその時だけのことではなく、生きている貴重な人生の一瞬一瞬のことで、場所や時間を限定した言葉ではなかったと理解しています。今でも言われた時のヨギさんの口調や表情、その時のシチュエーションを思い出します。思い出すたびに、あのとき感じたように身の引き締まる思いがします。


ヨーガの歩み方

ヨーガに縁を持ち、アーサナや瞑想を実修し、その道を歩んでいくとはどういうことなのかについて、少し記してみたいと思います。

といっても、人それぞれの道があるから、私が師から学び、今もって確かにその通りだと思う歩み方について記そうと思います。

ヨーガを始めて間もない頃、どのように歩んでいけばいいのかを師に問いました。師は次のように答えられました。(記憶を頼りに書き起したものなので、私なりに要約していると思います)

  1. この世界とは何か?それは自分の心が反映したものである。このことを正しく理解しなければならない。
  2. 次に、心を正しく理解していく。正しく理解していくということは、世界を放棄していくということである。すなわち、変化する世界や心に執着しなくなるということである。※しかし否定はせずに世界を肯定する。
  3. このとき、この世界に何の興味もなくなり、しかも未だ真理(神)を知らないことにより、心が虚ろな状態に陥ることがあるが、このような心さえも理解し放棄していく。
  4. この状態は苦行ともいえるかも知れないが、続けていくと、だんだんと神を身近に感じてくるようになる。
  5. そして、ギャーナ・ヨーガのように無形の神をアートマンとして瞑想する方法と、バクティの形ある神、例えば、クリシュナ、ラーマ、シヴァ、あるいは偉大な聖者、イエス・キリスト、ブッダなどを瞑想する方法により神を悟っていく。
  6. そして究極的には、神と世界は一つであることを悟るようにする。

この教えをお聞きしたときは、まだこの歩みがどういうものなのかよくわかりませんでした。もちろん知的には理解できるのですが、まだ茫洋とした感じでした。

ところが今は、本当にこの時師が言われた通りの歩みになるのだということを実感します。特に私は世界を否定し、1と2をすっ飛ばしていこうとする傾向があったのですが、この1と2が本当にとても大事だということに気付きました。

①世界は自分の心が反映したものだということ

②心を正しく理解していくということ

この深意を会得していくことが肝心なことだろうと思います。皆それぞれ性質が違いますから、会得の仕方はそれぞれの道があるのかもしれません。でもこの世界がどこまで行っても自分の心が反映したものだということがわかれば、心は静かになっていくことでしょう。反映する何ものもないくらい心が静まれば、世界と見ていたところに神なる存在が感じられていくのでしょう!

人それぞれの歩み方がありますから、ご参考に!

サーナンダ

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執着と無執着

..

執着とは、

心の中に理想像を作り上げ、

それと比較して異なるときに発生する心の作用です。

その理想像を作らないようにすることが、

無執着です。

サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

 

この教えに触れると、いつも「なるほど〜」って唸ってしまいます!

確かに、何かにつけて心が動揺するときは、心の中に何らかの理想像があるからです。それがある限り執着が生じ、心は揺れ動きます。

例えば、恋人、友人、成績、評価、仕事、出世、結婚、子供、娯楽、おしゃれ、旅行、スイーツ、パソコン、iPhone・・・なんと様々な自分を幸福にするだろうと思った理想像をこれまで作り上げてきたことかと思いませんか!その度に心は揺れ動いてしまう…なぜなんでしょう!?

例えば、最初にiPhoneを購入しようと思った時は、素晴しい喜びを自分に与えてくれるiPhoneは輝きを放っていて、それを手に持つ自分を想像しただけで喜びに満たされましたが、入荷待ちで手に入れられない苦しみを味わいました。

そして手に入れたら、その素晴しい先進的な機能に喜びを感じ、それを持つことの優越感に浸りますが、それからの生活というものは日々iPhoneに縛られ、常にメールのチェックやアプリの活用を迫られることは、喜びでありながら、束縛の苦しみを味わいました。

そして新機種が発売された途端に、自分が所有している機種が古びて見え、魅力を失い、新しい機種が輝いて見えるのでした。その繰り返しでiPhone3GからiPhone6plusまで来たのでした。

一事が万事で、iPhoneを恋人、仕事、結婚、人間関係、おしゃれなどに置き換えれば、似たようなものです。本当に、絶えず心はさまざまな物事に理想像(期待)を作り上げて執着してしまっています。どうもその理想像は夢のように儚く、iPhoneのようにたった1年の理想にしか過ぎず、手に入れたと思ってもあっという間に手から離れていくので、尽きることのない渇望が起こってきます。それがなければどんなに楽なことかと思うのです。あーもう十分です!

ところが、たった一つだけやってきて過ぎ去らない夢があります。真実を悟りたいという夢です。早くその夢から醒めたいと思います。本当の私は真実そのものなのですから!

サーナンダ

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