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『マハーヨーギーの真理のことば』第十四章「瞑想―実践編」


湖面のさざ波が月の姿を正しく映さないように、
私たちの心のざわめきが真実を覆い隠している。
ヨーガによって心のざわめきを静めたなら、
真の自己は自ら輝き出るだろう。

 

第十四章のページを開くと、上記の師のお言葉が目に飛び込んできます。
私は師にお会いする前に、マハーヨーギー・ミッションのホームページでこのお言葉に出会いました。まだヨーガも何も知らない頃でしたが、そのお言葉からしんと静まり返った寂静の境地を垣間見て、暗闇に光が差したような何とも言えない安堵感を覚えました。ヨーガによって心のざわめきが静まるということ、そうすれば本当の自分――真の自己が“自ら輝き出る”というところに希望を見ました。そして今も、このお言葉の示す境地に惹かれてヨーガを学んでいると思います。その状態へ至るための具体的な方法、ヨーガの本格的な中身、瞑想のその内容についての導きが第十四章にははっきりと示されています。

瞑想は人それぞれ違う景色が広がっているのかもしれないし、中身を確認し合うこともできない。だからこそ本当に瞑想を知っている方、ヨーガを成就されている方、悟りの境地におられる方、そういう方から瞑想のことを教えていただくのが、いちばんだと思ってきました。

今、師にお会いして瞑想のことをお尋ねすることはできなくなりました。でも、師は『マハーヨーギーの真理のことば』の第十四章に、とても細やかに、具体的に、瞑想についての手解きを遺してくださっているのでした。

第十四章は52ページもあり、おそらく一番ボリュームのある章です。「瞑想ーー実践編」なので、ヨーガの要の部分だと思います。とにかく一つずつ項目について記事が書けそうなほど(笑)一つの項目が濃いです。これは、一つ一つ、じっくりと自分が向き合って瞑想していく中で理解できることだと思いましたし、この章にはヨーガの秘義的な内容も含まれていると感じます。

瞑想の実践について、四つの節に分けて解かれています。

一節 「識別瞑想の実践」
二節 「死の瞑想」
三節 「真我への瞑想」
四節 「聖者・神への瞑想」

まず一節を読むと、瞑想がしたくなります。理由は、ただ読んでいるだけではそこに書かれていることを十分に理解できないからです。自分が識別瞑想に取り組まなければ、とらえることができないような微妙なところが書かれているからです。

この複雑な迷路のような心の状態のことや、心の性質や、この世の正体、世界の理(ことわり)について、ものすごく分かりやすい言葉を使われて、具体的に解き明かされ導いておられる師の存在には、今更ながら本当に驚愕しました。とても本格的な内容なので、もしかしたらすぐに分からないこともあるかもしれません。そういう場合は、「瞑想――基礎編」の第十三章に戻ってから第十四章を読むことをお勧めします。私もすぐに分からないことが多かったので何度も十三章に戻りながら十四章を読みました。二節、三節は、こんな貴重な深淵な内容を公開してもいいんだろうか・・・と思うくらいの唯一無二の内容です。

十四章の中で特に私が何度も読んでしまうところは、四節「聖者・神への瞑想」です。人によって違うとは思いますが、私は瞑想をする時は自分の理想の姿、つまり聖者や神のお姿に瞑想することがほとんどなので、四節の内容は、とても分かりやすく大きな道標、導きとなっています。

そして何といっても、四節には師ご自身がブッダに瞑想された内容が記されています。なかでも特別に感じている項目は「ブッダその人のハートに集中する」。ブッダがどういう人であったか。師のお言葉を読んでいると、もう師そのものじゃないか・・・と思えて仕方ありません。師のお言葉は本当に不思議なのですが、聞いていると自分も瞑想しているような感じになり、師のお言葉に自然と導いていただけます。

最後に「ブッダその人のハートに集中する」より、師のおことばをご紹介いたします。

 ・・・ブッダという言葉と彼が生存していたシーンに瞑想していきました。
時間と空間を超えて、昔のブッダの時代に集中していった。
そして瞑の中でブッダは本当に最低限度の布を纏(まと)っている姿で佇んでいた、座っていた。
そして朝が来たら徐(おもむろ)に起き上がり、托鉢に歩く。
そしてまた座る。
そして時には多くの弟子や信者たちに教えを授ける。
そういう姿が毎日毎日続いていた。
弟子や信者たちはいろんな質問をする。
そしてブッダはそれに相応しい助言を与え、答えを導き出す。
それを聞いた、教えを授かった弟子たちは皆、とても霊的に引き上げられた。
ブッダを思うと、ブッダの五十年近い教えの姿は何も変わらない。
ブッダそのものは五十年間近く全く同じ姿、同じ境地。
彼は本当に真実の、永遠の存在であった。
そして彼自身が様々な瞑想で得た答えが多くの人に与えられた。
それがブッダの教えというもの。
だからブッダを瞑想する時には、ブッダその人のハートに集中していけばいいと思うよ。
この世界がどんなに変化しようと、いろんな人がいろんなことを言っても、
ブッダは全く乱れることはない。
ずーっと同じ。
それこそが、それが真実の存在の至福にあったということです。
そしてブッダの教えの究極は、「あなたもそれである」ということです。
そう、あなた方一人一人の本当の姿は永遠の存在であり、至福なのだということです。


『マハーヨーギーの真理のことば』

 

ナリニー


ヨーガ・トークス in 東京

先日、東京特別バクティ・サンガムに触れたブログがアップされました。
バクティ・サンガムの後にはヨーガ・トークスも開催されたので、今回はそのことに触れたいと思います。

ヨーガ・トークスには、15名が参加。バクティ・サンガムの講師のミラバイさんを囲み、午前中に開催されたバクティ・サンガムの感想を話すことから会が始まりました。
ミラバイさんと共に座っているだけで、そのプラーナに触れて心が安定するような感じがしました。

ミラバイさんは一人一人の話を真剣に聴かれていました。

発心が揺らぐ場合はどうすればいいのかという質問に対しては、何度も立ち返ることで発心が強くなっていく、と答えられていました。
ヨーガに生きようと覚悟して実践しても、ヨーガではないことをついやってしまう、という悩みに対しては、ヨーガは〇〇をしてはいけない、と制限しているわけではないけれど、それに執着していないかどうかが大切、と話されました。
質問した人はミラバイさんの言葉を聴いてすっきりした表情になったり、笑顔になったり、それは師の元でサットサンガに参加しているのと全く同じでした。ヨーガを学び始めたばかりの人も、久しぶりにヨーガに触れた人にも、それぞれに感じるものがあったかと思います。

私が一番印象に残ったのは、師についてミラバイさんが語られたことです。

グルバイの1人が師のことを話しました。
師がお隠れになった翌月の弟子のサットサンガで、最後にストートラムを歌った時、人の姿をとられたヨギさんにストートラムを捧げることができたことが、いかに吉祥なことであったかを思い知ったと同時に、絶望感、喪失感に苛まれた。

話を聴き終えた後、ミラバイさんはこう仰いました。

師は「存在」という言葉をよく使われた。
存在とは、あったりなかったりするものではない。
目に見えていても見えなくても、確かにあるものを存在という。
師は、真実の存在そのものだった。ということは、師のお姿が見えなくなったから、師は存在しなくなった、とは言えない。
私たちはまだ本当の師を知らないと思う。いつか本当の意味で、師にお会いできるようになりたい。そして私たちが今できることは、師の存在と教えを残して、一人でも多くの方に伝えていくということ、そのために自分ができることを行為していきたい。

一言一言を丁寧に語ってくださる声は、耳から入ってきているのだけれど、直接胸の中に響いてくるようでした。
そしてその目は、真っ直ぐ師を見つめられているように感じられました。
話の内容だけでなく、ミラバイさんの身体全体から力強く伝わってくるものがあり、私もそうありたいと強く憧れる思いが溢れ出てきました。

自分の中にも確かにある真実の存在を信じ、真っ直ぐに師だけを見て、師の教えを生きていきたい、と決意を新たにしました。

 みんな良い笑顔!  

 ハルシャニー  


今やるべきこと

人は歳を重ねるにつれて、それまで普通にできていたことができなくなっていきます。
関節が動き辛くなったり、筋力や視力が低下したり、記憶力が落ちたり、老化現象として少しずつ現れることもあれば、病気を発症して、一気に大きな変化が起きることもあります。
また、認知症など脳に関する病気の場合、別人格になってしまったのではと思うほど、言動に変化が起きる場合もあります。

私の鍼灸院に来ている患者さんにも変化の時を迎えている人や、そのような状態の家族を介護している人がいます。
自らに起きている変化を受け入れられず、なんでこうなってしまうのだろうと落ち込む人。
病気によって自分が知っている家族がいなくなっていくような感じがして戸惑う人。

肉体が変化し、なくなったとしても、その人の中にある真実の存在は永遠に変わらず存在し続ける。
私はヨーガに出会い、それこそが真実だと思えるようになりました。

しかしそれを知らない人にとっては、そう聞かされても、そうですか、とすぐに納得することは難しいと思います。
そう考えると、落ち込んだり戸惑っている人に対して言うべき言葉が見つからないことがあります。

このような時、具体的な実践の手掛かりを掴むために、マザー・テレサが残した言葉を読み返します。
先日読み返したときは、この言葉が特に印象に残りました。

私たちの言葉などはどうでもいいのです。大切なのは、私たちを通して神が魂に語りかけられることだけなのです”

この言葉を私自身に当てはめると、神は師であるヨギさん、魂は誰もの中にある真実の存在、となります。
1人でも多くの人に、私を通してヨギさんに語りかけて頂けるよう、私自身が誰もの中にある真実を揺るぎなく信じ、ヨギさんへの想いでいっぱいに満たしておくこと。

それが今やるべきことなのだと、この言葉を読んで確信しました。

この写真のマザー・テレサの表情が大好きです。

 

   ハルシャニー  


師からのことば

試練を乗り越える
「努力です。あと必要なものは純粋さというものでしょうね。それがあれば必ず道は開けますよ、必ず」
「努力と言ったのは勇気と実行のことです。どんなに重そうな大きいドアでも、叩けば開きますよ、必ず」

『マハーヨーギーの真理のことば』より

 

2年ほど前から『ラーマクリシュナの福音』を毎日読み、その日、気になった教えをノートに書き留めてきました。(その記事はこちら→『ラーマクリシュナとの約束』、『ラーマクリシュナとの交換日記』)

毎日続けていくと、それはラーマクリシュナと私だけの約束事のように思えて、なくてはならない掛け替えのない時間となっていました。そんな素晴らしい時間だったので『マハーヨーギーの真理のことば』が発刊された際には、待ってましたー!とばかりに『ラーマクリシュナの福音』を読む日課の中に、『マハーヨーギーの真理のことば』も毎日読み、その教えを書き留めることを加えました。

歓びの中で喜々と始めた日課。しかしそれは予想外に変化していきました。『マハーヨーギーの真理のことば』を読み進めるにつれ、内容の深さ、重みに衝撃を受け、少し怖く感じていきました。師は本当にこれからもサットサンガ(真理の集い)をしてくださるおつもりなんだろうか・・・。それほど、すべてがここに記されていると思える内容だったからです。

さらに正直に告白すれば、コロナ禍以降サットサンガ休止はやむを得ないとは思ってきたけれど、毎日、本を読み、師のことばに触れることによって師の存在がより大きくなってきて、師に会えないのがやっぱり切ない、早くサットサンガで師の生の声を聞きたい・・・と思いが募り、余計に悶々と涙する日々でした。

そんな折、師は御入滅されました。アーサナ、瞑想、聖典の学習は、たった一日でも怠ると師との約束を破る気がしました。師のご容態のことを聞いた日も、そして御入滅された日も、ご葬儀の日も、それだけは止めたらいけないと、祈る思いで淡々とサーダナ(修練)を続けました。

日が経つごとに本を開くその時間が、師のご不在を実感することに繋がり読むのが辛くなっていきました。表紙を見ると、じっと止まってしまい、なかなか開けない・・・。しかし、一番辛い時、やっぱり自分には師の教え、ヨーガを実践することしかないと最後はそこに戻ります。それに、師はじゃあ何のためにこの聖典を私たちに遺してくださったか? そう思うと、どんな精神状態であっても・・・と本を開きます。

聖典と向き合う事自体が辛いという複雑な心境でしたが、その辛さを取り除き祝福を与えてくださるのもまた聖典の背後にあるものでした。そのようにして現実から逃げないように師が導いてくださっていました。胸の中で師へ思いを吐露したり感情的になったりしながらも、師と強烈に繋がっている絆を感じ、教えを実地で生きるようにと仕向けられていて、実は辛さによって私はドアを強く叩き、大きなドアが開かれるよう導かれていることに最近気付いてきました。

『マハーヨーギーの真理のことば』の教えを書き綴ってきたノートを読み返してみると、何度も師の同じ教えを自分が繰り返し書いていました。
生きていると、日々いろんなことに直面しますが「・・・どうしたらいいか分かりません」毎日、私は師に問いかけ求めていました。夜、パラっと開いたページを読みます。聖典を通していただく答えは、師から届く手紙のようです。


逃げずに立ち向かう

「忍耐、そして直面して努力すること。その時うまくいくかいかないかの結果は別として、どちらであったとしても一つの克服は達成できる。逃げるのは駄目だよ。
本当に私たちの心というのは、結果の良し悪しに凄く惑わされてしまっているけれど、実際はどちらでも同じことなの。どちらでもいいの、そんなのはね。その物事に真面目に向き合って、そして行為するというだけでいい。やがてそれが心を強くする、つまり克服するという偉大な結果を招くことに気が付く」

「変えなければいけないもの、そして変わることのできるものは自分自身、自分次第だということです。それに徹底すれば、たとえどんな自分の至らない面が出てこようと、その原因は自分自身の中にあるということを認めざるを得ません。全ての混乱の解決法は、やっぱり自分の中にしかありません」

「自分の能力は百パーセントかもしれない、しかし信仰によって、またこのヨーガの力によって、プラス九百パーセントがやってくる。するとそれが千パーセントになって発揮されていく、そういうふうに形容される。だから存分に百パーセントの注意を注いで対応すればいいと思う。でもその前に、やはり心を神に、または理想の真理に開け放しておくということで、その九百パーセントの通路が開かれると思います」

「本当の自分というのは、他でもないあなた自身の中に在るあなた自身です。また、神はいったいどこに在るのか。あなた自身の中に在るのです。真理はどこに―あなた自身の中に。これは明白なことです。ですから、神への瞑想が最も実用的です。そうして心が静まれば、神は独りでに顕れます。神への瞑想を続けてください、どこでも、いつでも」

『マハーヨーギーの真理のことば』『ラーマクリシュナの福音』の二冊の聖典。それぞれを書き留めるノート二冊。

本とそれぞれのノート

そう、どこでも、いつでも、心が静まれば、神はきっと顕れる。ですよね、ヨギさん!

 

ナリニー


夏の瞑想会

 
東京では毎月瞑想会を開催しています。
 
7月の瞑想会に、京都から先輩が来てくださいました。
 
酷暑の中、先輩を含め11名が参加。
コロナ禍で京都での定例サットサンガが休止となり、オンライン上での交流を続ける日々でしたが、実際に顔を合わせてゆっくり話すのは本当に久しぶりのこと。
みんなとっても嬉しそうで、それを見ているだけで胸がいっぱいになりました。
 
再会を喜び合い少し話をした後、瞑想しました。
瞑想会の会場は、都心にも関わらずほとんど物音が聞こえない静かな空間。静寂の中、同じ空間で一緒に瞑想できる喜びを感じつつ、小一時間座りました。
 
瞑想の後は先輩を囲んでのサットサンガ。
 
東京のKさんは、コロナ禍でもオンラインで各クラスを受講できたのが有り難かったこと、今後は対面で会う機会も増やしていってもらいたいと提案してくれました。
普段お会いしていてもこうした話をすることがなかったため、お話を伺えて良かったです。
 
静岡から参加されたMさんは、瞑想会に参加すると決めた時からずっと楽しかったそうで、当日も終始笑顔で過ごされていました。
みんなが優しくて嬉しかった、とのことでしたが、遠くから参加してくれたMさんの思いが私たちにも伝わってきて、嬉しくなりました。
 
 
京都から参加された先輩は、ヨーガを実践していく中での気付きや発心について話してくれました。また、長年師が行為される姿をお傍で見ておられ、印象に残っているエピソードも話してくれました。
そして、一人一人の話に真剣に耳を傾け、真摯に答えてくれる姿は、師が私たちにしてくださっていたことと全く同じだと感じました。
先輩とともにいることで歓びに満たされ、大きな安心感を得られたのは、きっと私だけではなかったと思います。
 
師がずっと見守ってくださっているような雰囲気の中、互いの熱を高め合い、これからどう行為して行くべきかを具体的に考えるきっかけとなった瞑想会でした。
 
瞑想会の後に記念撮影。みんないい笑顔。
 
 

それから3週間ほど経った先日、8月の瞑想会がありました。

7月の瞑想会の後により良い瞑想会にするために話し合いをして、今回から瞑想の後に『マハーヨーギーの真理のことば』の教えをみんなで学び合うことにしました。
各自が惹かれる教えや、気になる教えを取り上げて、理解しづらかったり疑問に感じたことがあれば質問し合い、みんなでその教えを読み、それぞれに感じたことを話す形で進めました。
人によって視点が異なるからこその気付きが幾つもあり、充実した時間になったと思います。
何となく理解していたことが話しているうちにしっかり納得できた、朗読で教えを聴くことで内容がすっと入ってきた、という感想も頂きました。
 
 
これからもより充実した瞑想会となるよう、みんなで学び深め合っていきたいです。
 

   ハルシャニー  

 

 
 

『マハーヨーギーの真理のことば』第十章 奉仕と献身の道

「人には親切でありたい」「困っている人がいたら助けたい」 一見当たり前のことですが、常にそうあり続けることはとても難しく感じます。例えば、自分の心身が疲れて余裕がなかったり、また相手が苦手なタイプの方であったり、それだけですぐに人を思いやるどころではなくなります。師シュリー・マハーヨーギーと出会う以前の私は、それは人間の性なのだからしょうがないと思っていて、そんな自分に対してもこの世の中に対してもうんざりしていました。そんなこんがらがった心模様を師は一掃し、希望の光を見せてくださいます。『マハーヨーギーの真理のことば』第十章より引用させていただきます。

エゴと無知がある限り、私たちがこの世で生きている時には他者を犠牲にしている。他者を犠牲にしながら、そして自分だけ良くあろうと、自分のために他者を犠牲にするというのが一般的なあり方です。これは今も言ったようにエゴと無知がそうさせているわけで、他者を傷つけて、あるいは犠牲を強いていても平気なのが無知。
でもヨーガを深めていった時には、他者ではなくて自分のこの体と心を犠牲にして、他者のために行為することができる。自分を犠牲にしようとか、するとか言っている間は、まだ本当の自己犠牲はできないかもしれない、それもまだ訓練中かもしれない。出来上がってしまえばもう何の計らいもなく、極めて自然なかたちで他者のための行為だけが為されていくようになる。

師の教えに触れ、生き方を変えたいと願いカルマ・ヨーガ(献身奉仕のヨーガ)に取り組むようになってから、奉仕にそぐわない自分本位な思いが心に湧くとそれに気づくようになりました。湧き出た思いを振り払い、とにかく奉仕の実践に沿った言動を行ない続けます。それは1日1日が地道な努力の連続です。それでも師のお言葉が困難を超えていこうとする力を与えてくださいます。

ただ、本当に百パーセント全身全霊でもって他者だけを見つめること。自らを顧みるとか、自らのことに気付くような一パーセントも持ち合わせていない。
奉仕におけるヨーガにおいては、他者の中に神を見ること、ただそれだけです。単純だけれど、その思いで心を満たしておかなければ、またできないことです。

師のお言葉からは、その背後にある相手を思いやる優しさや限りなく大きな愛がひしひしと伝わってきます。この本(『マハーヨーギーの真理のことば』)全体を通して全てのお言葉が、相手のために、相手の立場に立って、相手に伝わる話し方で語られていて、そこには師ご自身の自分の都合は一つも見つけられません。師が自らの身をもって本当のカルマ・ヨーガのあり方を見せてくださっているのではないでしょうか。

奉仕への取り組みはその人を自分中心のむなしい生き方から引き離し、神様だけを見つめて生きる機会を与えてくださいます。それはこの世の中で何よりも幸せなことなのだと思います。そして師のお言葉が道を指し示してくださいます。どんな状況の中でも他者の中に神様だけを見つめて、よりいっそうカルマ・ヨーガに励んでいこうと改めて決意させていただきました。

船勢洋子


ブッダから届いた宝物

木曜日と土曜日に、京都、大阪で開講されている瞑想入門のクラスでは、講師のゴーパーラさんならではのヨーガ行者としての鋭い視点で、瞑想やこの世界の理、心のしくみについての興味深いお話が聞けて参加者たちの質問も活発です。先日は、ブッダってどういう人だと思う?という投げかけからそれぞれのイメージを共有し合い、ブッダを身近に感じてよりブッダが好きになってしまいました♡ 「入門」というだけに素朴な質問がしやすい雰囲気があり、質疑応答を通じたみんなでの交流も楽しく、また、瞑想の時間はピタッとした静けさと集中があり、メリハリがあります。

そんな瞑想入門クラスに熱心に通われているNさんは、「自分はまだまだ真理やヨーガを信じられていない」と包み隠さず話されます。ある日のクラスで、「真理があるか、ないかを確かめたい」と真剣に言われました。ゴーパーラさんは、ブッダの教えにもある「たとえ古い聖典が出てきてもそれを盲目的に信じる必要はない」という言葉を紹介され、師も同じように仰っていることを話されました。

師は「まずヨーガを進めていくには、それまで経験で培った観念とか概念とかいう心の秤を無視するところから始める、あるいは疑うところから始める。またその聖典とか真理の言葉といわれるものも、鵜呑みにする必要はない。ただし、その両方についてよくよく考え、そして瞑想して、間違いのない答えが出てくるまでそれを探求しなければいけない」と説かれています。

まさに師のこの教えの通り、探求の真っ只中のNさんと私たち。ゴーパーラさんは、瞑想を山登りに例えられ、学生時代に行ったチベットの高度5000メートルの山で、高山病になったことを紹介されたことがありました。どんな山を目指すかは人それぞれ。目指している山が違ってもいいけれど、でもどんな山を目指すにしても頂上に辿り着くためには、やらないといけないことがある。それは土台作り。基礎体力が必要! その基礎作りが瞑想入門のクラスなのです。基礎は何度も繰り返し学び実践することで強固になるなぁと私は感じています。

とっても為になる実践的な瞑想入門クラスなのですが、実は参加人数が少なくて(涙)クラス宣伝のため、チラシ蒔きを兼ねて数人でインドカレーのお店に行く機会がありました。私はそこでNさんと初めてゆっくり話しました。Nさんは、すっごく正直で、真っすぐで、ある意味、師の教えの言葉を地で行く(!)絶対に何も鵜呑みにしない人(笑)なんだなということを感じ、何てヨーガ向きな人なんだ?!と思いました。真理も神ももちろん全く鵜呑みにはせず(笑)、自分自身で確かめながら、着実に道を歩んでこられたんだと分かりました。Nさんは師のサットサンガでも師に、疑心暗鬼になるんです、神という存在についても信じられないです、どうやって信仰する神を選ぶのですか?というような正直な質問をたくさんされていました。私はNさんに対して、疑心暗鬼だと言われながらも、でもこんなにも熱心にサットサンガやクラスに参加し、これだけヨーガを続けられるその理由は何なんだろう??凄いなと密かに思っていました。お話してその謎が解けました、Nさんは師の存在にただただ惹かれている! 好きになってしまっている♡

さて、そんなNさんからあるエピソードを聞きました。Nさんが書いてくださったそのエピソードをここでご紹介したいと思います。(ナリニー)

* * *

 

「まあ、なんてかわいらしい仏様!」
2019年12月8日、この絵はわたしのもとに届きました。
その1週間前、師の特別サットサンガの日、瞑想の対象を決められずにいたわたしは

師に「神様に来てくださいとお願いしてもいいですか」と尋ねました。
師は「お願いしてもいい。その中で親しみのもてた神を信仰すればいい」と
仰ってくださいました。

それから数日後、知人から「Kさんが、渡したい絵があると言われている」というお電話がありました。Kさんは長年マザーテレサの下で奉仕活動をされている方だったので、わたしは「もしかしたら、キリスト様かマリア様が家に来られるのかなぁ」と思っていました。

そして、12月8日、ブッダが悟りをひらかれたその日、この絵はわたしのもとへ。
以来、ずっと見守ってくださっています。

師のはからいによってもたらされた宝物です。

 

ブッダの版画
N 

* * *


師のお言葉の力

「ヨーガに出会う前の私と同じように苦しい思いをしている人が、本当は苦しみなどない尊い存在なのだと感じられるように、行為したいです」

サットサンガの中でそう話した時、師は笑顔で仰いました。
「そうしてくれたら私も嬉しい」

糸がぐちゃぐちゃに絡まったような状態だった私の心を、師は少しずつ解いてくださいました。
その糸の端をしっかりと師に結び付け、少しでも師に近付くために手繰り寄せるようにヨーガの道を歩めていることは、本当に幸せなことだと感じています。

ヨーガに出会う前、私は自分は不幸だと思い込み、自分と似たような悩みや苦しみを感じている人には共感し親しくするけれど、幸せそうに見える人とは距離をとって関わらないようにしていました。
ヨーガを実践するようになってから、誰しも悩んだり苦しんだりしながら生きていることを理解し、自らの中に光り輝く真実があることに気付かず生きていることこそが不幸であると思うようになりました。

 

私の仕事は悩みや苦しみを抱えた人と関わることが多く、かつての私と同じように糸が絡まったような状態だと思われる方もいます。
師のように絡まった糸を解くことはできなくても、少しでもほぐすことができたら…自分に何ができるのか考えると、師がなさっていたように、常に誰に対しても等しく、謙虚に行為することだと気付きました。

今は、目の前にいる人が、一瞬でも自らの中にある真実を感じられるように祈りながら、何か一つでもその人のために行為できるように努めています。

 「そうしてくれたら私も嬉しい」
師の言葉と笑顔が、私に力を与えてくださっています。


真っ白なクルクマの花。この花を見ると夏が来たと実感します。蓮の花のような清らかな雰囲気なので、見つめているだけで心が調います。

   ハルシャニー  

 

 

            


『マハーヨーギーの真理のことば』 自分の一生は自分で生きる

子供の頃から我が家にはいちじくの木があった。母が養女としてこの家に来た時に、庭に好きなものを植えたらいいと養父が言ったので、好物のいちじくの苗木を植えたところ、いちじくはだめだ、根が強く他の植物をダメにしてしまうと引っこ抜かれてしまったそうだ。しかし母はその苗木をこっそり家から離れた小さな畑に植えた。養父は数年後に亡くなり、母はやがて結婚し、子供を育てながら、丹精込めていちじくの世話をして、毎年夏になると鈴なりに実がなった。家族だけでは食べきれず、好きな方に差し上げているうちに、甘くて美味しい、販売して欲しいと声が上がり、軒先で売ると、毎朝買いに来られる方が増え、口コミで遠い所からも来られるほど、評判となった。

風邪も引いたことがないと健康を自慢していた母であったが、思いがけず病を得た。手術と治療を繰り返し、なんとか日常生活を送っていたが、病状が進み、最期の2年ほどは坂道を転げ落ちていくように急速に悪化した。それでも母は最後まで前向きに生きた。大切に育てた畑を見るのが何より大好きで、私は週末になると母を車椅子に乗せて畑まで行った。いちじくの世話は父と姉夫婦が受け継ぎ、親木から挿し木をして子供の木も育てた。亡くなる2ヶ月前の6月には、親木も子供の木も立派な葉をつけているのを見て喜んでいた。母がいちじくを愛でたのはそれが最後となり、8月に旅立った。
その1年後、去年の夏の終わりのこと、雨の多い夏となり、例年より少し時期が遅れ、9月の初めになって実をつけた。そんな朝、前日まで青々とした大きな葉を伸ばしていた親木のいちじくが一夜にして実だけ枝に残して、全ての葉を地に落とし、寿命を全うした。この2回の夏に私たち家族は母といちじくの、二つの魂を見送ることになった。

愛する存在の死は悲しい。この上ない苦しみである。苦しみを乗り超えるために私は言葉の通り七転八倒した。そしてやはり最後にすがるところはヨーガだけであった。
死を理解することは今の私には難しい。それなら必死に生きようと思った。そして私は今、真理のことばに支えられて生きている。

問題は、一個人として自分はどう感じるのか。
どう生きたいのかを自分自身に問うべきです。本当の自由が欲しいのではないのですか。本物の幸せを得たいのではないですか。
真実在というべきその存在が自らの中に在ると教えられながら、
どうしてそれを探そうとしないのか。
この単純な問い掛けを自分自身に真剣に為すべきです!
それ以外の想念は全て、単なる情報の影響にすぎません。
そんな影響の渦に巻き込まれて、自らを失いたくはないでしょう。
自分の一生は自分で生きるのです!

『マハーヨーギーの真理のことば』 第八章 実践の秘訣 より

母といちじくが自らの人生を見せてくれた。そのことに感謝して、私も自分の人生を生きたいと思う。それがヨーガとなったら本望だ。
そして今年も我が家のいちじくが大きな葉を広げて甘い実をつけるのが楽しみだ。

サラニー


旬の野菜を食べてサットヴァになる

今年の春は、心身の不調を訴える患者さんが多く来院されました。

フルタイムで働きながら子育てされている患者さんは、仕事も子育ても精一杯頑張っているのにうまくいかない状態が続き、無力感に苛まれているようでした。
多忙だと食生活が乱れがちかも、と思い尋ねてみると、簡単に調理ができる市販のものを利用することが多く、食べても満足できずに間食の量も増えているとのこと。
ちょうど春の野菜が次々と旬を迎えている時期だったため、旬の野菜を頂くことで身体も元気になることを話し、子供は大人以上に素材のおいしさを敏感に感じ取ることがあるから、お子さんのためにも、1種類でもいいから、素材を生かしたシンプルな味付けで食べてみたらいいかも、と提案しました。

翌日その患者さんから、メールが届きました。
その後帰り道に一つ野菜を買って帰り、蒸して食卓に並べたら、お子さんたちがおいしい!と言いながらたくさん食べたそうです。
子供は野菜だけだと食べないだろうと思っていたのに、旬が分かるのかな?とびっくりした、明日もやってみます、と書いてありました。

旬の野菜はサットヴァ(清浄)な性質を持ち、生命力に満ち溢れています。
その命を頂くことで、私たちの心身もサットヴァになり、満たされる。

現在、その患者さんは以前より表情が明るくなりました。多忙な生活に変わりはないけれど、少しずつでも旬の野菜を食事に取り入れるのを意識するようになったそうです。

近所には農家さんが多く、採れたての野菜が手に入るのでありがたいです。

    ハルシャニー