ヨーガの実践」カテゴリーアーカイブ

何でもない者であるために

今年も残すところあと数日となりました。

この一年、「一つの物事に対して粘り強く取り組むこと」を実践してきました。
神に道具として使っていただけるようになるために、目の前のことに丁寧に向き合い、じっくり考え、行為することが必要だと感じて決めた抱負でした。

実践する中で幾つか気付きや変化がありました。
・じっくり考えて物事をやり切ることが苦手だったが、取り組むうちに苦ではなくなり、習慣になりつつある。
・一つのことを精一杯やり切るように努めることで、結果がどうなっても気にならなくなった。
・困難を感じる時は、目の前のことよりも自分のことを考えている。気付いたらその都度真実へと意識を向けるようにすると、困難は感じなくなった。
・粘り強くやる中で何度も失敗しては気持ちを切り替えるうちに、力まず凹まず淡々と行為するコツが掴めてきた。
・取り組むほどに、自分が何かをしているという感覚が少なくなっている。

抱負を実践することで、神に使って頂ける道具に近付けたかは、自分では分かりません。
ただ、こうして考え行為することも含めて、全てが神から与えられたものであるということを、一層強く感じるようになっています。

あらゆる命は神の顕れ。
常に神である誰かに支えられて、力をもらい、行為し続けることができている。
この事実に感謝しかありません。


1枚の葉が赤と緑のクリスマスカラーになっていました。
赤はイエスが流した血を表し、緑は永遠の命の象徴とされています。

”何でもない者
神は、ご自分の偉大さを、何でもない者を使うことで示されました。ですから、いつでも何でもない者でいましょう。何の相談もなくても、神に自由に使っていただきましょう。”

聖なる者となりなさい マザー・テレサの生き方 より

私も何でもない者でありたい。
いつどのような状況でも、神に使っていただけるようになるために、来年も弛まず行為し続けます。

ハルシャニー


甘い物をやめた変化

こんにちは、ゴーパーラです。
秋の空はいろんな表情を見せてくれますが、先日は綿あめのような雲が空一面に広がっていて、とても美しかったです⛅️

さて、今回のブログは甘い物の制御についてです。
私は小さい頃からお菓子が大好きで、甘い物に依存した生活を送っていたのですが、ヨーガを始めてから甘い物を断つ決意をしました。それは師の前で「一生やめます」と誓いました。
それから12年経ったのですが、甘い物をやめてどんな変化や影響があったのか、最近そのことを振り返る機会があったので、ちょっとブログの方でもご紹介させていただきます。

①味覚の変化
まず、甘い物をやめてしばらく経った時、味覚の変化がありました。それはチーズやバター、牛乳などの乳製品がとっても甘く美味しく感じられ、それまではそんなこと感じたこともなかったのですが、「乳製品って嗜好品だな〜」と思ったのです。自分は根っからの甘いもの好きで味覚は変わらないものだと勝手に思い込んでいたのですが、いや、味覚って変わるんやなと。これが好きあれが嫌いなどの好き嫌いというのは習慣性のもので、習慣が変われば好みも変わるということに甘い物をやめていく中で気付かされました。

②心の変化
また甘い物をやめて心がどう変わったのかを振り返ってみると、いちばんは自信がついたということが感じられました。それは「俺、甘いものやめれたで〜」というエゴ的な自信ではなく、ヨーガへの信頼・確信が持てたということです。自分の信じる師の前で甘い物をやめると誓ったので、それは必ず守っていきたいと思い、これが自然とサティヤー(嘘をつかない、正直さ、誠実さ)の教えの実践になり、このことを続けることで実際に甘い物をやめることができ、ヨーガを続けていけば依存や執着って本当になくなるんだと思ったのです。そういうヨーガへの信頼、自信になったということです。

③アーサナへの影響
それともう一つ、甘いものをやめたことはアーサナにも影響をしていました。アーサナは12年間毎日しなければいけないということが教えられていますが、ヨーガを始めて1年くらいはやらない日もあったりしました。でも何か心にモヤモヤがあり、またヨーガに不誠実だなと感じ、アーサナも毎日しようと決意しました。その日からは今でも毎日アーサナを実践していますが、これができているのも、振り返ってみると甘い物をやめるという誓い、サティヤーの実践が派生していたのではないかと感じています。

④心の制御
一つのことを心に決めて実行することは依存や弱さを克服し、心の忍耐・制御の力が養われると感じています。ヨーガに出会っていなければ、そして師に出会っていなければ、今頃どんなふうになっていたのか……虫歯どころでは済まなかったとゾッとします😨おかげさまで虫歯はゼロですので、心もエゴで蝕ばまれぬように、心の制御の実践を弛まず続けていきたいと思っています。

仁和寺門前の吽形像。エゴや煩悩は立ち入り禁止🚫

※補足:決してヨーガを行なう人が甘い物をやめないといけないということではありません。私の場合は特に依存度が高かったので、そのようになりました。

ゴーパーラ


平等であるために

平等。
私はこの言葉が大好きです。文字を見るだけで安心することもありました。世の中は不公平だと感じることが多かったからか、この言葉そのものに憧れていたのかもしれません。

実際この世界では不平等としか思えないような出来事が起きています。
では、平等とは何なのか? 本当に存在するのか?
不平等だと感じる度に疑問が湧き起こりました。

その後ヨーガに出会い、誰もの中に等しく真実が存在していると知った時に、これこそ私が求めていた平等だと思いました。

心の目で見れば不平等な世の中も、真実の目から見れば、姿形や性質は様々でも、その中には一なる真実がある。それは一つのものである。それを体感するには、悟りの境地に至る必要があるのかもしれません。
しかし、道半ばであっても、平等であれるように努めることができます。

今、私は平等であるために、真実の側から見るように努められているだろうか。
振り返ると、心の側から見ていることの多さに気付きました。平等でありたいと願いながらも自ら違いを見てしまっているのです。また、特に苦手と感じる人がいると、その人の中にも真実があると意識しようと力み、何とかしようと焦って失敗したりしています。
心ではなく、真実の存在をより深く信じ、そこに全てを委ねていくようにすることが必要なのではないかと思いました。

まだひと月ほどの期間ではありますが、実践するにつれて身体の力が抜けて、平安な気持ちで過ごす時間が長くなりました。
不思議なほど次々と問題が発生する日々だったのですが、一つ一つ落ち着いて丁寧に対応することができたように思います。
苦手な人に対面しても余計なことを考えず、少しでも何らかの思いが生じたらすぐさま一なる真実に委ねるようにすることで、今行為するべきことを自動的に行なえるような感覚になることが増えてきました。
また、目の前にいる人の中に真実が存在していることに愛しさを感じて胸がいっぱいになる瞬間が何度もあったことは、これまでにない経験でした。

私の今年の抱負は、「(神に自分を明け渡して委ねるという信念をもとに)一つの物事に対して粘り強く取り組むこと」でした。
取り組む中で、熟考して行動する習慣が身に付いてきたように感じます。
今回体験したことがまた新たな積み重ねになるよう、より確実に実践をしていきたいと思います。

玉川上水沿いの遊歩道。美しい緑がまだ楽しめますが、足元にはどんぐりが落ちていて、秋を感じます。


 

ハルシャニー


ヨーガ・アーサナの力 その4〜自分の枠を超える

アーサナの実践を続けていくと、呼吸の変化内的なプラーナ(気)の充実とともに、少しずつ自分の限界というものが広がっていくのが感じられます。
始めの頃は身体がきつくてしんどいなと思っていても、いつの間にかその辛さはなくなり、心地よい集中感に変わっていきます。このポーズは苦手だなあと思うものがあっても、逃げずにやり続けていけば、苦手な気持ちはなくなり、不思議と得意なものとの差異がなくなっていったりもします。

アーサナの実践に慣れてきたならば、ポーズを保持して戻す前のもうあと一呼吸か二呼吸、自分の限界を超えていくように行なうことで、さらに深めていくことができるといわれます。
仕事も何事も、自分のできる範囲だけでやっていると、それ以上の進展はありませんが、ここまでしかできない、という限界を少しずつでも超えようとチャレンジすることで、キャパシティが広がっていくのだと思います(注:ただし決して無茶はしないでくださいね。力まずに呼吸を大切にしながら深めるのがポイントです)。

ある時、サマコーナ・アーサナ(開脚の形)を完成に近づけていくコツがあるかという質問に対して、師が「コツは毎日することしかないなぁ」と仰ったことがありました。あまりにシンプルなお答えに、妙に納得した記憶があります。
開脚は、私にとってとても苦手なアーサナでした。かなり内股気味だったこともあり、最初は痛すぎて、立って脚を開こうとしても思うように開かず、バランスを崩しておしりから転倒してしまうほどでした(苦笑)。また力を無理に掛けすぎて怪我をしてしまい、なかなか治らなかったこともありました。もう無理だと避けていましたが、師の言葉を聞いて、少しずつでもまた地道にやっていこうと思えました。
だんだんと刺激はある中でも呼吸が深くなり、背骨へのプラーナの集中を感じるようになっていきました。時間はかかりましたが、10年越しくらいで身体も変わってきたように思います。いつの間にか以前の恐怖心や苦手意識は消えていて、瞑想の坐法に直接繋がるようなアーサナだと感じられるようになりました。

サマーコーナ・アーサナ

神足ふれあい町家にて(長岡京)サマコーナ・アーサナを実践中

普通は、自分にとって嫌なことは避けたくなるし、好ましいものはもっと欲しいと思うものです。自分の中に「好き」「嫌い」といった心の枠があり、それに当てはまる出来事を前に、大きく心は反応し、揺れ動いてしまいます。嫌なことを避けてばかりいると、その時は逃れられたと思っても、また別のかたちで同じようなシチュエーションがやってきて、いつまでも克服できていないことに気付かされたりもします。そして、好ましいものを求めることで欲望は膨らみ、それが思い通り手に入らないと、結果的には苦悩を味わいます。

アーサナの目的は聖典にもあるように、明確です。それは二元性を超えるということです。二元性――つまり肉体が感じる暑い・寒い、空腹・満腹、あるいは様々な感覚器官の動揺、さらには心理的な好き・嫌いであるとか、好・悪も、善・悪も含めた一切合財の二元性を超えること。
(シュリー・マハーヨーギー)

体と心は常にいろいろなことを訴えてきます。しかし、心身の状態がどうであれ、ちくいち感想をはさまずに、コツコツと淡々と続けていくことで、自分の作った囲いを取り払い、様々な状況に振り回されない精神力を養っていくことができるのだと思います。忍耐力もついていきます! 
また、その実践の積み重ねは、あらゆる二元的な状況を超えた、一なる真実に向かっていく大きな熱と力となっていくに違いありません。
そうして、『アーサナ(坐法)は堅固で快適でなければいけない』という言葉の意味が達成される時、見るもの、聞くもの、触れるもの、この世界を取り巻くすべての事柄の影響を受けずに、心を完全に制御下に置くことができるのでしょう。

ふれあい町家

さあ、暑さが過ぎ去って大気のプラーナが中庸といわれるこの時分は、私たちの心身を調えるにはとってもいい季節です! 素晴らしいヨーガの智慧と力をより多くの方に体験していただけることを願って、この「ヨーガ・アーサナの力」のシリーズを終えたいと思います。
そして、古から伝わるヨーガの秘儀を伝授してくださっている師に、心から感謝を捧げます。


マードゥリー 


仲間と共に 久しぶりの瞑想会で感じたこと

東京ではコロナ禍になってからオンラインで瞑想会を定期開催しています。
2年以上経ち、いつかまた実際に集まって瞑想会ができるといいなぁと思いながら過ごしていました。

そんな折、東京のグルバイ数人でオンラインで話していた中で、こんなやり取りがありました。
シャルミニーさん「コロナが終わったらみんなと合宿がしたい」
ターリカーさん「いきなり合宿ではなく瞑想会とかいいんじゃない?」
シャルミニーさん「しよう!しよう!瞑想しよう!!」

家ではなかなかまとまった時間をとって瞑想できないから、とにかく集中して実践する時間が欲しい!足が痛いから長く座れないと思っているけれど、座る形なんてどうでもいいから、まずは集中できる環境が欲しい、そしてグルバイと一緒なら最高!という思いがあったのだそうです。
画面越しではありますが、シャルミニーさんの溢れる熱い思いがひしひしと伝わってきました。

感染状況は相変わらず落ち着かないままですが、それなら感染対策に気を付けて、まずは月に1回でも集まって瞑想会をしてみよう!ということに。
それぞれ離れた場所で暮らしているため会場探しに苦戦することが多いのですが、今回はすぐにアクセスしやすい会場が見つかり、まず第1回目を開催する運びとなりました。

迎えた当日。
会場は広い和室で、部屋に入ると都心とは思えない静けさを感じました。

参加者は7名。久しぶりに集まれたこと、そして これまでクラスに参加しづらかったグルバイとも数年ぶりに再開できたことも、嬉しく、まずは輪になって近況報告などを交えてお話ししました。

その後、各自瞑想に座る準備としてアーサナや呼吸法をしてから、座りました。

同じ空間で皆で瞑想をするのは本当に久しぶり。目を閉じればもちろんみんなの姿は見えなくなるのですが、共に座っている気配を感じながら、自然と深く集中していけました。
瞑想の終わりの合図のオームが聴こえてきて目を開けると、みんなの姿が見えて、この上なく満たされた気持ちになりました。

瞑想を終えた後に話している中で、普段は腰の痛みを感じやすいのにあまり気にならなかった、実際に同じ空間で瞑想することでより集中が高まる感じがした、との感想を頂きました。

瞑想会を始めるきっかけとなったシャルミニーさんと同じく、家族がいる環境では瞑想もアーサナもままならないグルバイもいました。
一人でもできるサーダナですが、みんなで実践できる場を設けることで、普段できないことができる。より深く瞑想することができる。
サンガの大切さを改めて実感しました。

以前のように時間を気にせず話すことは難しくても、こうした機会を少しずつでも持ち続けることで互いに高めあっていけますように。

ハルシャニー 


つくレポ 〜ビリヤニ〜

久しぶりに暑さが戻った9月初めの日曜日、お昼ご飯に「さまらさの台所」動画クラスにアップされたビリヤニ(スパイスを使ったインド風炊き込みご飯)を作ってみました。

まずは動画のアドバイス通りスパイスをお皿に準備、必要なお野菜やお米なども最初に全て用意して、講師のサティヤーさんになった気分でお野菜を切り始めると、いつも以上に丁寧にお野菜の様子を見ながらカットする私がいました。不思議。。 今までは何気なくお料理していたことに気付くことができました。


下ごしらえがおわり、調理開始です。初めて作って気づいたこと💡

①ビリヤニはお鍋ひとつで出来るので簡単、便利!
②炊いている間は鍋から離れることができるので、暑くないし洗い物も進むのがいい!
③ヨーグルトを入れると一気にインドになる!

などなど。とにかく簡単で面白い。スパイス料理ってハードル高そう、と思っていたけれど、なんでも経験してみることが大事だなと再認識しました。

出来上がり早速試食。美味しい~~!!! 野菜だけとは思えない味わい。何より私が気に入ったのは、口に入れたときにジャガイモがほろっと崩れ甘い味わいがすること。手軽に作れるので日曜日のランチにピッタリです。
そして、ビリヤニを最後に蒸らしている時間に作ったラッシー。私はギリシャヨーグルト(ヨーグルトを水切りする)を作っているので、そこでできたホエー(水切り後に出来る液体)をヨーグルトの代わりに、さらに蜂蜜の代わりに手作り梅酵素シロップを入れてみたのですが、お、美味しい。。 まるでお店で飲むラッシーではないですか!! 口の中に広がるスパイスを最後にさっぱりさせてくれました。


毎日行なうお料理を通じてヨーガに向き合うことは、日常を何気なく過ごしてしまうことなく、目の前の一つ一つの事柄に集中し丁寧に向き合うことにつながる。そんな日常はとても軽やかで楽しい!ということを改めて教えてくださった「さまらさ動画クラス」でした。
これからも楽しみにしています!!

ターリカー


『ヨーガ・スートラ』写経

『ヨーガ・スートラ』ーーその名が示す通りヨーガの経典です。
私はこの夏、その写経をしました👳‍♀️📝

4章195節から成る『ヨーガ・スートラ』ですが、この写経をしてすぐに感じたのは「学びの一つは書く」ということです。私自身、最近はパソコンで文字を打つことがほとんどでしたが、久しぶりにじっくり書くという行為をしてみると、眠っていた「書いて学ぶ」という感覚が身体の中から蘇ってきて、学びの基本に立ち返ったように感じられました。

また、解説や注釈なしに一節一節を抜き出して書き、それを始めから終わりまで何度も読み返すことで、『ヨーガ・スートラ』の全体像や要の教えが見えてくるような感覚がありました。当然のことなのですが、『ヨーガ・スートラ』は「心の作用の止滅」、これが主題なのだと。つまり、心に執らわれや煩いが一切ない「無執着」、その心の無一物になるにはどうすればいいかについて説かれていると感じました。

「それら(心の作用)の制御は、実践(修行)と無執着とによっておこなわれる」 『ヨーガ・スートラ』1−12 

「見えたり聴こえたりする対象への渇望を棄てた人々のところにやってくる、そして、対象を支配しようと決意する、その結果は、無執着である」 『ヨーガ・スートラ』1−15 

 ーー『ラージャ・ヨーガ』P112、115より引用

私はこれらの『ヨーガ・スートラ』の教えに触れていると、ある覚者の存在が心に浮かびました。それは「ブッダ」です。ブッダは次のような教えを説いています。

「すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執着を超越して、とらわれることのない人、ーーかれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ」 『スッタニパータ』620−621

「熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、ーーこれによって〈バラモン〉となる。これが最上のバラモンの境地である」 『スッタニパータ』654−655

ーー『ブッダの人と思想』P13、15より引用

バラモンとはブラーフマナのことで「清浄無垢な真人」であります(『ヨーガの福音』P44)。清らかで純粋な心の持ち主、まさしく真のブラーフマナであるブッダの説いた無執着や熱心な修行・制御が『ヨーガ・スートラ』の要旨と一致しており、ブッダとヨーギーの同一性が感じられます。

今回の写経を通して私自身、ブッダ・ヨーギーの無執着の心境を目指していこうと気持ちを新たにしています。
写経はやってみると単純に楽しいですし、読むこととはまた違った味わいで経典・聖典に触れることができると思います。大袈裟かもしれませんが、心にブッダやヨーギーの無執着が写されるように感じます。
まだ写経をやっていない方、本当にお勧めします👳📝

ゴーパーラ


ヨーガによって辛い記憶から解放される

”サンスカーラ——心の潜在残存印象

サンスカーラを消していくのは真実の智慧だけです。だから実存だけに集中していってください。
サンスカーラは何かに依存しています。心の記憶とプラーナ、そして条件です。条件というのは煩悩、無知のことです。瞑想における真実の智慧は、心の記憶にゼロというサンスカーラを残していきます。
例えば心の記憶というフィルムにたくさんの映像(サンスカーラの記憶)があるとするでしょう。真実の智慧はその映像を消していきます。だからサンスカーラに集中する必要はありません——煩悩と無知から出たものですから。そして積極的な真理への瞑想が深まっていけば、心の中で識別が行なわれます——真理と無知の間で。サンスカーラは無知に依存するものですから、それで消えていくのです。あとは実践です。”

『ヨーガの福音』より

経験は、喜びや悲しみなどの感情と共に記憶として残ります。特に印象が強い記憶は繰り返し思い起こされ、その時の感情を何度も味わうことがあります。

私は、思い起こす度に苦しくなっていた記憶に全く影響を受けなくなった経験があります。
一つは、小、中学生の頃にいじめられていた記憶です。
当時は毎日不安で、特に辛い出来事が起きる度に絶望感に支配されていました。大人になってからも、突然記憶が蘇り辛くなったり、その頃過ごしていた場所に行くと足がすくんだり、いじめた側の人たちを見かけると息苦しくなって体が震えたりしました。
当時暮らしていた地域を離れてからはそうしたことは減りましたが、何かの拍子に思い出しては苦しくなるのを繰り返していました。
ヨーガを始めて、サンスカーラについての教えを知った時、心の記憶にゼロというサンスカーラを残せたら辛い記憶も綺麗さっぱりなくなるんだ、と淡い希望のようなものを感じました。瞑想は難しかったので、まずはアーサナを続けてみようと思い、少しずつでも毎日やるようにしました。
それから2、3年経った頃、当時暮らしていた地域に行ったところ、懐かしさだけを感じました。思い出す度に味わっていた苦しみがなくなっていたのです。おそらく、アーサナの実践によってプラーナ(気)が清浄なものへと調えられ、心身が満たされたことで、記憶に執着する力が働かなくなっていたのではないかと思います。

もう一つは、家族との間で起きた出来事の記憶です。
物心ついてからずっと囚われていて、そのことを考えると動揺するため、向き合う勇気が持てないまま月日が流れていました。しかし昨年、あることを機に何をしていてもそのことが頭から離れない状態になってしまい、向き合う覚悟を決めて識別に挑みました。
向きあうことは思っていた以上に辛くて何度も挫けそうになりましたが、原因は必ず自分の中にある、と、そこに辿り着きたい一心でもがきました。
しばらく経ったある夜。疲れ切った状態で識別瞑想していると、急に思いが噴き出してきました。次から次へと記憶に強く結び付いていた感情が溢れ出し、かつてないほどの負のエネルギーに引き摺られそうになりましたが、抗わずにただそれを見つめることに徹しました。息ができないような苦しさの中、自ずと意識が師へと集中していきました。いつの間にか湧き出ていた感情はすっかりなくなり、心は静かになりました。目を開けると師のお写真がすっと視界に入り込んできて、この上なく平安な気持ちに満たされました。
その後、その頃の出来事や感情を意識して思い出しても、動揺することがなくなりました。記憶として存在はしているけれど、ただ映像を眺めているような感覚になりました。
識別瞑想に挑んでみたものの、あまりに苦しく師にすがるしかないような状態に追い詰められ、自然に師の存在に集中する状態になり、師の純粋さに染められたことで、記憶に絡みついていた感情が消え去ったのだと思います。

「心の記憶にゼロというサンスカーラを残していく」
この「ゼロ」ってすごいなあと興味を持ったのが始まりでしたが、この2つの経験から、ヨーガの実践によって本当にそうなることを実感しました。

ヨーガによって、苦しみの原因を根こそぎ取り除くことができる。
これほど確かで心強いことは他にはないと思います。

鮮やかなオレンジ色のほおずき。毎年8月になると職場である治療院に飾ります。
オレンジ色はサンニャーシン(出家者)が身に付ける糞掃衣(ふんぞうえ)の色として、放棄の象徴とされています。

ハルシャニー


ヨーガ・アーサナの力 その3〜プラーナ(気)の充実

ヨーガ・アーサナに対して、私はとっても大きな信頼を寄せています。それには前回お伝えしたように、呼吸が変化していくことで、動揺しっぱなしだった心の反応が変わってきたと感じられたこともあり、さらには「正しい食事とアーサナの実践によってほとんどの病は回復する」と教わっていますが、そのことを実感した経験があったからです。

*それには正しい師の下で学ぶことが大切であり、また場合にもよるといわれます。私自身は軽度の症状でした。

ヨーガを始めた頃は仕事に忙殺され、不規則な生活が続いていたこともあって、(20代後半でしたが)心身ともにあちこち不調のサインが出ていました。婦人科系の疾患もわかって手術するかどうかの瀬戸際という時、師や先輩からも助言を頂き、これまでの生活習慣を変えて、ヨーガに添わせていこうと思い立ちました。食事も玄米や旬の野菜を中心に、豆類、海藻類などバランスの取れたものにし、途中で寝てしまうことが多かったアーサナも、毎日基本プログラム全てを行なえるように励みました。
実践して約半年後、慢性的に感じていた疲労感はなくなり、再度受診したら、すっかり問題がなくなっていて驚きました。食事もしかり、アーサナが細胞やホルモンといった身体の内部から変革させていく力があることを、その時、身をもって感じました。

アーサナやプラーナーヤーマ(呼吸法、調気法)、瞑想によって、呼吸が変化します。それが体中の隅々の細胞にまで影響を与え、身体と心の安定をもたらします。
これらの修練によってプラーナ(気)が蓄積され、睡眠時間も減るほど身心が癒やされます。それは身体の中に通っている、普段ダメージを受けている七万二千本のナーディー(プラーナが流れる管)が浄化されるためなのです。
(『ヨーガの福音』サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ著より)

「気を使う」とよく言いますが、ふだん気=プラーナは仕事や人間関係、様々なことに使われる一方で、ストレス社会といわれる現代では、気疲れも溜まっていき、心身の不調和を感じている人も多いと思います。アーサナは内から浄化を施し、本来の調和のとれた気の状態を取り戻していきます。また、様々な生理機能(呼吸、消化、排泄、生殖など)と関連しているチャクラ(プラーナの集まるセンター、つぼのようなところ)に集中されることによって、自己治癒力が高められるといわれています。
チャクラへの集中は、柔軟性は全く関係がなく、その人ができる範囲で正しい形態をとることで、自動的に集中されます。

ダヌル・アーサナ

ダヌル・アーサナ(弓の形):足先を上に伸ばすことで上半身が起きていく。マニプーラ・チャクラ(臍部)に集中され、消化機能を高める効果がある。また胸を広げることで肺も強化する。(写真:丹波・篠山クラスにて)

師が伝授してくださっているアーサナは、完成ポーズでの力点、視線、またポーズを作る時、戻す時の動作まで、細部にわたって配慮がなされています。それは、師ご自身が体験によって目には見えない微細なプラーナやチャクラというものを実証されているからこそ、考えられたものだと感じます。最初は覚えるのに一所懸命になるかもしれませんが、やがて一連の流れが身体に染み込んでくると、全ての動作は最も自然で、理にかなっていることに気付かされます。

アーサナの実践は、ある意味自分の体を使った実験的なところがあるのではないでしょうか。本当にベストな形が作れているか、例えば手足のこのポジションとこのポジションではどちらがより集中感があるか、この身体の動かし方によってプラーナが逃げないかどうか……。意識して見直してみると、ポイントを押さえてやっていたつもりでも、まだまだ改善の余地があることに気付くこともありました。一見細かな作法もとても重要で、呼吸の深まりと共により内的な集中感、プラーナの充足感へと導かれるものだと感じます。

さて、アーサナを行なった後、食事は2時間くらい空けたほうがよいと推奨されています。それはアーサナによってプラーナが全身に行き渡ってバランスが取られているところが、そこに食べ物が入ると、消化のほうに一気にプラーナが使われてしまうからという理由があります。ずいぶん前のことを打ち明けると、アーサナ後、極力すぐに食事をしてしまったことがあり(しかもガッツリと!)、その時は感覚的に、とっても満ち足りたいい状態だったのが、一気になし崩しになり、乱れてしまったな、もったいないことをしたなというのがよ〜くわかりました(反省)。やっぱりせっかく行なうなら効果を最大限に持続させたいですよね。

広々とした空間での瞑想。皆さん集中されています。

ヨーギーたちは修練によって培った強靭な肉体をもって、プラーナのすべてを瞑想に集中させていったそうです。真実のみを求め、毎日毎日、幾年もかけて―—。
自らの内にしっかりと蓄積させたプラーナは、余計な問題のために浪費したり、欲望的な行為に使うのではなく、瞑想に、内面を磨くために集中させていきたいものですね。そうして、日常の中でいつでも良いプラーナを内側から発散させていけたらと思います。
(つづく)

マードゥリー 


つくレポ 〜完熟トマトとナスのパスタ〜

私はこれまで料理をするという機会はほとんどなく、もっぱら食べ役でした。そんな私が、さまらさの台所(ヨーガの料理)のオンラインクラスを受講させていただいたことを機に、料理にチャレンジしています! 7月のブログ掲載記事「ヨーガの料理 さまらさの台所 動画クラス紹介!」のメニュー:完熟トマトとナスのパスタを何度か作ってみました。このブログは、料理初心者男子がさまらさレシピのパスタを作ってみた!のつくレポになります。

料理をするにあたり、さまらさのクラスで学ばせていただいたことを心がけました。「食材の選び方」「丁寧に調理をすること」「何より楽しんで料理をする!」など、教えていただいたことを心に留めて取り組んでみました。

ステップ1   食材選び!
買い物では新鮮なお野菜を選ぶために、店員さんに尋ねてみました。「新鮮で甘いトマトはどれになりますか?」というように質問すると・・・私には新情報!?トマトの特徴を教えてくださりました。「今は北海道産のトマトが甘くておすすめですよ! また少し時期が進むと南の方の熊本県産のトマトも美味しくなってきますよ」とお聞きしました。そして、沢山並んでいるトマトの中から赤くて一番美味しそうなものはどれだろ〜と食材とにらめっこしながら選びました。ナスを選ぶ時には色鮮やかで軸がしっかりしているものを見分けながら決めました。


ステップ2   いざ調理!
調理する前にもう一度動画を観て確認しながら始めました。食材の量や調味料の分量、火加減などは奥さんに教わりながら料理を進めました。まず食材を切っていく工程では、動画でされているのに倣って見様見真似で切りました。大きめのカットだったので包丁が不慣れな私でも切りやすかったです。それでも、同じ幅間隔で切っているつもりが、だんだん切る幅が小さくなったりもしました。次にお野菜を焼く工程では、ナスの火の通りや焼き加減を見ながら炒めてはいましたが、ちょっと焦げてしまいました(汗)。木べらを使って炒めるのも手の動きが何だかぎこちなく、丁寧にできているだろうかと不安に思う心もありました。それでも気にし過ぎないように気持ちを切り替えて料理を進めました。炒めたナスにトマトを加え、しっかりと煮詰めました。「美味しくできますように・・・」と心を込めながら混ぜてトマトソースが完成です。ここまで料理が仕上がってくると先ほどの弱気がどこにいったのか・・・「僕、料理できるやん!」という気持ちにもなり、嬉しくなってきました。 

ステップ3   盛り付け!
いよいよ盛り付けまでやってきました。最後の工程ということもあって、一番緊張していたように思います。額からは汗を感じ、手の感覚もいつもより硬く張りつめていました。作った料理が美味しく見えるようにゆっくりと丁寧にお皿に盛っていきたいところでしたが、パスタがグチャっとしたり、ぼたっと・・ソースが落ちたりすることもあって心はざわつき状態でした(汗涙)。必死でお皿に盛りつけて最後にバジルの葉っぱを添えて、やっとの思いで完成できました。

ステップ4   いただく!
なんとかパスタが出来上がって少しほっとしました。料理が冷めないうちにいただきます。隣で食べている奥さんの表情も横目で気になりながら一口・・・「うんっ! 美味しいやん」と心の中で一言。自分で作って言うのも何ですが(笑)、初めて作ったにしては良い味に仕上がっていると思いました。そして、食べてくれた奥さんの表情にも笑顔が溢れていて、とても嬉しい気持ちに満たされました。
作ってみたパスタの味付けはトマトの甘さと塩だけでシンプルなのにこんなに美味しくできるんだと、さまらさの料理ってすごいなと感じました。料理ができなかった私が誰かを笑顔にできる料理が作れたことはさまらさの魔法!?・・・いや、それこそがヨーガの精神なんだと思いました。
さまらさの台所のオンラインクラスで講師のシャーンティマイーさんが仰っていたお言葉「料理はうまい、へたではなく、真剣に食材に向き合い活かす。これが大事」ーー誰でもどんな人でも料理ができるということを自分が作ってみて改めて教わったように思いました。

その後も何度か作ってみました。2度目以降は準備を整えることをより意識しました。使う調理道具が必要な時にすぐに取って使えるように置き位置を考えたり、スムーズな料理ができるように準備しておくことで少し手順も良くなりました。気持ちのゆとりが少しできて、より丁寧に美味しくできるように一層の思いを込めて作ることもできました。また、作って食べることを重ねた中で感じたのは、食材そのものの味によって料理自体の味も変わってくることです。特にトマトは少し酸味を含むものなどもありました。じっくり火にかけることで食材の味わいが出てくることも繰り返し作ることでよく分かりました。

料理を作ることを通して今回、行為に対する考え方を学んだ気がします。料理は食材を選ぶところから調理する工程、調理したものをいただくまでの一連の行為の一つ一つがとても大事だと思いました。また、思いを込めて行為することで、料理の味はいかようにも変わることを知りました。さまらさの料理はシンプルで初心者の私にも優しくて作りやすいものでしたが、シンプルだからこそ純粋な気持ちが味に現れるのだと感じました。そして誰かを思い、その人のために、心を注いで料理に向き合うことで喜びや幸せにつながることを実感しています。
男子ごはん、これからも楽しんで続けていきたいと思います!!

金森淳哉