ヨーガの実践」カテゴリーアーカイブ

東京のグルバイ(ヨーガ仲間)をご紹介します!

こんにちは。夏真っ盛りですね!
コロナ禍となり二年以上が経ちましたが、東京は人の多さからさまざまな行動が制限される状況が続きました。
MYM東京のクラスや活動も最小限に抑えざるをえなかったのですが、感染者数の増減を考慮しながら少しずつ活動を再会し始めました。
今日はそのような中で、ずっと変わらず真摯にヨーガに取り組まれている中村さんをご紹介させていただきます!
中村さんはご家庭の事情で、以前からクラスなどに参加出来ないことも多かったのですが、最近、クラスでお会いした時にとてもイキイキとされているご様子を拝見して、お話をうかがってみました。

─中村さんは決まった時間にご自宅でアーサナをするのが難しいこともあり、オンラインクラスへの参加が出来ず、お一人でのヨーガの実践が続いていたと思うのですが、どのように過ごしていらっしゃいましたか?

中村さん)
コロナの影響で、京都に行くことはもちろん、クラスにも行けなくなりました。いろいろな予定がなくなって時間がとれるようになり、パラマハンサ(機関誌)を遡って読んだり、瞑想の時間ができたのは良いことでしたが、やはりクラスがお休みなのは寂しいことでした。
やっとスタジオでのクラスが一ヶ月に一度ですが再開して、皆さんとお会いできた時は涙がでました。

─先日、東京のメンバー数人で多摩川にキールタンを歌いに行った時、飛び入り参加されましたよね。すごく嬉しかったです!

中村さん)
河原で歌うのは初体験!キールタンをみんなで歌うのも何年ぶり!花もいっぱい咲いていて夢の中にいるようでした。
ハルモ二ウムや太鼓を持ってきてくださり本格的でした。曲は難しくないものを選んでくださっていたのですが、間違えてばかり。でもそんなことより、こんな楽しくていいのかしら?というくらい楽しくて、嬉しくて、あっという間のひとときでした。
その時歌ったManasa Bhajareはそのあとも口をついででてきてよく歌っています。

─今年の春から、松山クラスと東京クラスの有志メンバーでヨーガの教えの「ヤマ」の実践に取り組んでいますが、そちらにも参加されていかがですか?

中村さん)
シャルミニーさんから「松山の皆さんと一緒にヤマ・ニヤマ(禁戒・勧戒)の勉強会をするので参加しませんか?」とお誘いいただいた時、まず不安になったのはオンラインって、私にできるかしら?ということでした。
コロナが流行ってからインターネットを使うことが増えましたが、私は苦手でした。又、使わなくても済んでいました。ですが、ミッションでもパラマハンサがウェブ配信となり、逃げてばかりもいられないこともわかっていましたし、ヨギさんの「苦手なことこそ、したほうがよいですよ」というお言葉も心に残っていました。
オンラインで初顔合わせの時は私の音声がでず、かなり焦りましたが、その後家族と練習したりして、無事に参加することができました。ほっとしたのと同時に、「わー、遠く離れた皆さんとお会いできてる!」と嬉しくなりました。
コロナの間、ずっと味わえなかったヨーガのお話ができる楽しさ!貴重な一時間となりました。苦手なこともチャレンジだなあと思いました。
グルバイの皆様は、外に出られる時間が限られていたり、ネットの苦手な私をいつも気遣ってくださり感謝しています。今回も大変お世話になっています。ありがとうございます。

─ヤマの一つ目、アヒンサー(非暴力)の実践に取り組まれていかがでしたか?

中村さん)
家族とは仲良くしているつもりでしたが、今回、家族なら多少のことは許してもらえるという甘えから、言葉や態度で傷つけてきたことがだんだん見えてきました。ちょっとした対立から、家族にきつい言い方をしてしまい、それが止められないこともありました。
その思いはどこからくるのか考えたところ、やはり「自分は間違っていない、自分が、自分が…」というエゴそのものだと思いました。
ヨギさんだったらどうなさるだろう。又、相手がヨギさんだったら私はどうするだろう。その光景は目に浮かぶようなのに、実践となると悲しいことになかなかうまくいきません。
それでも、その瞬間にヨギさんを思い浮かべることが一番だと思いました。
そしてその時だけではなく、いつもいつもヨギさんと共にいられるように、と改めて願いました。
頭でわかっていたはずのことも、実践となるとその通りにはいきません。今回、実践したことをオンラインで皆さんとお話するという機会を与えていただいたことで真剣に取り組むことができたと思い、感謝しています。そして、私が初めてヨギさんにお会いした時に、ヨギさんみたいになりたいと願った、憧れの境地へとまた気持ちが繋がりました。
まだ始まったばかりですので、これからも努力を怠らないように精進していきたいと思います。

左手前から2人目が中村さん。大空の下でのびのびとキールタンを歌いました。気分はすっかりガンガーのほとり!? 6/18

同じ師の下で共にヨーガを学ぶ仲間の存在は、なんと心強くありがたいことでしょう!中村さんのお話をうかがいながら、私も勇気をいただきました。そして、どこにいても、どんな時でも常に師の恩寵が降り注いでいることを実感し、喜びでまた胸がいっぱいになりました。
中村さん、本当にありがとうございました!!!これからも、どうぞよろしくお願いします!

シャルミニー


途切れない集中力

花盛りになったヒオウギ

花盛りになったヒオウギ

6月、京都市内へ出かけたお昼時のこと。コロナ禍で外食はやめていたので鴨川の河川敷で一緒に来た相手と横並びで、パンをモグモグモグ・・・。すると「バサッ!!!」二人の間を野球の球(?)が通過し何かに当たったような風圧と衝撃。「何!!」事態を飲み込めず一瞬唖然としました。あれ?でも二人ともどこも痛くない、無事。ん?・・・相手が手に持っていたはずのパンが忽然と姿を消していました。魔法・・・ではなく、正体は鷹。0・1秒くらいの一瞬のうちに、はるか上空から急降下しパンをさらっていくと同時に猛スピードで上昇していったのだと思われます。すべてが瞬間に行なわれた御業だったので人間の私たちには、まるでパンだけが消えた魔法のように見えた華麗な技でした。

ちなみに私はパンを食べ始めた時から、大空で彼らが風に乗る凧のごとく悠々と飛んでいる動きには注力しており首が痛くなるほど上を気にしていました。にもかかわらずです。鷹は、あんなに高い上空で旋回しながらも、実はじわじわと的に狙いを定め集中状態を極めつつ頂点に達した時、今だ!!と勝負に出たのでしょうか・・・見事な一点集中と正確さにシビれました。しかも側面からの攻めではなく、私たち二人の間、ド真ん中の背後からの攻めでした。決してボーっとしていたわけでも静止していたわけでもありません。なのに一ミリたりとも人間の体は傷付けることなくパンだけに的中したことがカッコよすぎました。はるか上空の鷹をポカンと見つめながら、あの集中の塊のような風をしばらく忘れることができませんでした。

7月。京都の祇園祭

7月。京都の祇園祭

そんな衝撃的な(笑)出来事から月日は経ち、今月の瞑想専科クラスのテーマは「ブッダの生き様」でした。講師のヨーガダンダさんがブッダのお話をされ、最初にまず10分程度、皆それぞれにあるブッダのイメージをもとに瞑想しました。その瞑想の後ヨーガダンダさんは、かくも穏やかで柔和なブッダが、どうして大勢の人々を導くという大きな活動をすることができたのでしょうか?と素朴な問いを投げかけてくださいました。そして、覚者や聖者のことを考えていった時、なぜこうなんだろう?と感じる気付きが起これば、そういう時こそ、それは瞑想のポイントになる、そこを深堀りして集中していけば何かしらブッダの心境に迫っていけるものがあるかもしれない、と言われました。「なぜ?」「どうして?」という疑問が大事な気付きになるのか・・・とそのお話は印象に残りました。

その後も、師がブッダに瞑想され一(ひとつ)となられた時のことや、ブッダのエピソード、臨場感に満ちたヨーガダンダさんの様々なお話によって、私たちの胸にブッダの印象がたくさん刻まれていきました。
二回目の30分程度の瞑想の時、次はそれぞれがもつブッダのイメージの、そのどこからでもいいので、とにかく素直にブッダの心境、本質に迫っていける瞑想をしていただければと思います、と言われました。「『この時のブッダの心境はどうだったのだろう?』と考えてみるとか」とヒントも。

今回クラスの前には、『ヨーガの福音』の「真理」の章を読んでおくことになっていました。私はその中の師のお言葉――「彼(ブッダ)の教えの特徴の一つは、『小さな虫も人間もすべては仏性を有した尊い存在であり、一切万物は平等である』というものです」――この一文に心を捉えられていました。もし、本当に虫と人間を全く同じように等しく見て、同一の尊さを見ることができたら・・・「一切万物は平等」という教えを完全に会得できたら・・・これはもう凄いことだな、としみじみ思ったからです。それが私の憧れる境地でもあるからです。
だから二回目の瞑想は、ヨーガダンダさんのアドバイス通り、ブッダのこの教えに素直に瞑想してみようと思いました。すると、あるブッダの姿が浮かんできました。

ブッダの前に一羽の鳩がいます、その後ろには鳩を狙っている大きな鷹がいます。鷹が猛スピードで鳩を追いかけ襲おうとしたその時、ブッダが鳩を助けるために自分の太ももの肉をナイフで切り裂いて鷹にあげました。(※後で調べたところ、このお話はシビ王というブッダの前世の菩薩のお話でした。私はブッダのお話だと思い込んでいたのでした。)私には先月の衝撃的な出来事があったので、すぐさま鷹のあの並外れたハンター能力、瞬発力、集中力が風とともに蘇り、狙われたら絶対に逃れられない!そんな鷹から鳩を助けようとするブッダが無謀だと思ってしまいました。どうしてそんな無謀なことできたのか?どうして自分の肉体を切るなんて痛いことできたのか?私には絶対にできない、できない、したいけどできない、と思えば思うほど、「どうしてブッダにはできたのか?」とそこから離れられなくなっていました。

瞑想とは言えないかもしれませんが、それでもその場面をじっと見ているうちに、ブッダが鳩のことも鷹のことも全く同じに見ているその感じが伝わってきて、ブッダは鳩だけを救おうとしたのじゃない、ブッダは鳩も鷹もみんなを救うことしか考えてなくて、お腹を空かせている鷹に、即座に食べ物をあげられる瞬時の判断がそれだった、と思いました。どうすれば目の前のすべての尊い命が助かるのか、それだけに集中されている、だから自分の太ももを切るのが痛いとか怖いとか、そんなこと一切見てない、目的だけに狙いを定めて一点集中されている、だから犠牲という思いすらない、だからそんなことができた、ブッダの中の凄まじい集中感を感じた気がしました。まるで師だと思いました。

ブッダについて考えていたはずがブッダは師のお姿に変わり、師、ブッダ、鷹、それぞれの途切れない集中感に圧倒されました。ブッダは太ももの肉を切って鳩と鷹を助けたけれど、師は目には見えないだけで全く同じようにご自身の身を削り命あるものを救済されている、師の決して途切れることのない集中によって私たちはどれほど命を生かされているだろうかと、そんな思いでいっぱいになりました。 自分の志、人生の目的、その対象への途切れない集中だけが、不可能と思えることも可能にしてくれる。信仰心も、対象への集中が途切れない状態のことだと思いました。集中が途切れた途端、恐怖や不安や余計なものに惑わされる。

的を射るには、的だけを見なければいけない」と師が仰ったことがあります。自分は何に集中して、何に突き動かされて、何のために行為するのか?
あの鷹のように真実への一点集中で生きていきたいと思いました。ブッダと鷹が教えてくれたことでした。  

神の化身・・・

神の化身・・・

野口美香 


タパスによって無知をなくす

以前陶芸をしていた頃、作品を乾燥させる過程でひび割れたり、成形に納得がいかなかったりすると、乾き切っていない作品を水に浸してこねて、作り直したことが何度もあります。失敗してもまた作り直せれることが嬉しくて、今度こそイメージ通りのものを作ろうと取り組んでいました。

そんな経験があったからか、ある日、コタムリトのこの一説に惹きつけられました。

乾いたツボが壊れたのは、職人は皆捨ててしまう。だが、湿り気のあるツボが壊れても、捨てないでまた小屋の中に持っていってもう少し水をくれてこね直す。そして新しくツボをつくる。捨てないんだよ。だから——と、ケーシャブに言ったんだよ。水気のあるうちは解放されないとね。つまり、智識を完全に体得したか、神に対面したか、そうしない間は何度でも新しくツボに作り直される。くり返し、くり返し、この物質世界に戻ってこなくてはならない。これはもう逃れようのないことなんだ。あの御方をつかめば、自由解脱してツボ焼き職人に捨てられて、二度とマーヤーの創造に巻き込まれなくともよくなるんだ。

『コタムリト』第4巻より引用

 

 陶芸においては水気があることで作り直せるのを嬉しく感じていたけれど、この世においては少しの水気でも残っていたら何度でも死と再生を繰り返しマーヤー(幻影)の世界から抜けられなくなる…これは全く嬉しくありません。
この水気というのはエゴや無知など、純粋ではないもののことを指しているのだと思います。
一切の水気がなくなるというのは、エゴや無知が一切なくなること。

水気をなくすためには熱が必要です。
その熱(タパス)は、その問題に真剣に向き合い実践することによって生じ、私たちの心を浄化してくれます。

まずは自分のこと、心 と向き合うこと、そして、悩みや苦しみは真理ではないと気付くことから始まるかもしれませんが、気付けて良かった、と安心していては何も変わりません。真理でないものを完全に放棄しない限り、水気はなくならず、また新しいツボに作り直されてしまいます。
それにはとにかく識別が必要です。識別はエゴや無知との戦いです。かなり手強い相手に立ち向かうので、時に大きな苦しみも生じますが、その過程も全てタパスとなります。失敗しても挑み続けることは決して無謀なことではないし、無駄なことにもなりません。見つけた問題点に対し、常に真理を突き合わせて識別していく。真剣であればあるほどタパスは大きくなり、その熱もさらに高まっていきます。
タパスによって生じた熱で焼かれると、水気は完全に蒸発してなくなり、二度と作り直されることのないツボとして完成する。

タパスという熱でエゴと無知をカラカラに乾かし切り、真理だけを掴んでいきたいです。

多摩川上流の橋の上からの眺め。
戻り梅雨の後の、久しぶりの晴天。湿っていた地面が一気に乾いていくような日差しを感じました。

ハルシャニー 


ヨーガ・アーサナの力 その2〜呼吸を変える!

今夜から明日にかけての満月はスーパームーンらしいですね。インドでは7月の満月の日は、グル・プールニマといわれ、師に感謝を捧げる、とても吉祥な日だそうです〜。

さて、前回はアーサナの役割や位置付けについて書かせていただきました(→「アーサナは瞑想のためにある」)。今回のテーマは「呼吸」についてです。

皆さんは普段、ご自分がどのような呼吸をしているかを感じながら過ごしておられるでしょうか? あまり認識していないというのが通常かもしれませんが、もしかしたら意識しているという方もいるかもしれませんね。

呼吸と心がとても密接な関係にあるということは、ヨーガの大きな発見だったそうです。私自身はアーサナを始めて呼吸について学ぶようになって、普段の呼吸も意識するようになりました。すると、焦ったり、イラッとしたり、気持ちが高ぶったりしたような時には、心臓の鼓動とともに呼吸も、あっ、すごく早くなっているな、反対にリラックスしている時は呼吸もゆっくりしてるな〜と、なるほど(!)確かに連動しているということがわかってきました。

現代では医学的にも、深い呼吸<腹式呼吸>によって自律神経の働きである副交感神経が優位になり、心身ともに落ち着く、また浅い呼吸<胸式呼吸>はストレス、緊張、興奮時に働く交感神経が活発になるということもいわれています。
古(いにしえ)から呼吸と心の繋がりを解き明かしてきたヨーギーたちはスゴイなあと思います!

呼吸も心も、乱れてしまった時は落ち着けようと思っても制御困難です。しかし、アーサナの実践によって制御可能になっていきます! 特定の形(ポーズ)を作り、身体を静止させた中で呼吸を調律していくことによって、深く安定した呼吸のリズムへと変化させることができるのです。「アーサナは鋳型に押し込めるようなもの」と師は言われます。日常生活の姿勢ではなかなか難しい呼吸の制御が、一見窮屈な閉じ込められた形態の中でこそ制御できていくという感じでしょうか。
そのように呼吸が変われば、心も平静に保つことができ、日々降りかかってくる、心を刺激する様々な出来事の影響を受けずにいられるようになっていきます。これは本当に、驚くべきアーサナの力だと思います! もちろん、1日、2日ではムリですが、何カ月か続けたら、法則のようにやった分、必ず効果として自分に返ってくる、ヨーガの恩恵だと感じます。

あれっ?! いつもだったらもっと動揺していたのに、巻き込まれずに冷静に対処できているな、あれっ?! 今日は腹立たないな、というふうに心の暴走にブレーキがかかる、反応がすっかり変わる、そんな変化が感じられたら嬉しくなりますよね♪

バンビオクラス会場

長岡京の会場 夜クラスの始まる前
大きな窓から見える開けた空が清々しい。

そういうわけで、アーサナの実践においては呼吸がとっても大切です。基本は「吐く息を長く伸ばして完全に吐き出す」ということ。
クラスに通い始めて間もない頃は、特に苦手なポーズは呼吸がままならず、吐く息を長くするどころか、まるで走っている時の呼吸のようにハアハアしてしまい、早く戻させて〜っと思いながらひたすら耐えていたものです(泣)。そんなスタート時を思えば、劇的に呼吸は変わっていきました。3カ月?ほどした頃に変化を感じ、1年、2年……10年……と実践を重ねていくことでまた違った体感が生まれました。

最初は身体への刺激を強く感じますが、慣れてくると呼吸に意識を向けられるようになっていきます。やがて吐く息がすーーーっと伸びていき、力まずに吐き切れていく感触が掴めてくる。さらには、だんだんと吐き切った後にしばらく呼吸が入ってこない、自然に止まったかのような状態が訪れます。そのように深まっていくと、アーサナ後、瞑想に座った時には呼吸の出入りがより微かになり、心が静まった感覚を得られるようになると思います。

気が動くと心も動く。気が動かなければ心も動かなくなる。
(『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』より)

*「気」とはプラーナの訳語であり、プラーナは生命エネルギー、宇宙エネルギーともいわれる森羅万象を支える力のこと。プラーナの最も大きな現れが呼吸といわれる。

ヨーガの修練には、プラーナーヤーマという呼吸法/調気法もあります。(指で鼻腔を押さえ)呼吸をコントロールし、呼吸すなわちプラーナ<気>の停止によって、心を不動の状態へと導くものです。
有名な映画(『グラン・ブルー』)にもなった素潜りの記録をもつジャック・マイヨールという方は、そのヨーガの呼吸法を学んでいたとか。海中を長時間潜るには、呼吸を制御することはもちろん、心の制御というものも必須だったのでしょう。

インドの伝統では、修行者はアーサナを12年、その後に呼吸法を12年、さらに瞑想を12年と、長い年月(トータル36年も?!)をかけて、真我に目覚めるというゴールへと修練を積み重ねるものだと師から伺ったことがあります。しかし、師ご自身がそれらを10代の頃から徹底的に実践し、マスターされたご経験があるからこそ、アーサナにおいては、ポーズ自体は一見同じようなものが様々あるとしても、その作法は師が発見された、たいへん革新的な内容を開示してくださっています。その一つがアーサナ中の吐く息にフォーカスしていく呼吸の方法であり、それはアーサナを行ないながらもプラーナーヤーマの領域にまで及ぶ内容になっているのです。師が伝授されるアーサナは、まさに瞑想の入り口まで運ばれる力のあるものであり、ヨーガの道のりを速やかに進めていく素晴らしい実践法だと感じます。
(つづく)

アーサナ、呼吸法、瞑想と、それぞれのプログラムで実践している様子

マードゥリー 


目の前の人の中に神様を見る

「純粋な信仰とは、神に奉仕すること。自らを神に捧げること」

数年前に初めて師であるヨギさんからこのお言葉を聞いた時、そこから感じる真っすぐで力強い愛にとても惹かれたのと同時に、「自分には無理だ」と感じました。でももしそれを実現できたらきっと本当の幸せに出会えるように思えて、どうしたらできるようになっていけるのかを考え始めました。そして実現していくための実践として、「目の前の人の中に神様を見ること」に取り組み始めました。

取り組み始めてすぐにいくつもの人間関係が好転し、生活全体の中に愛と喜びを感じる瞬間が増えました。ただ、優しい性格の方に神様を見ることは問題なくできても、攻撃的な性格の方に神様を見るのはとても難しく、頭では「全てのものの中に神様はいる」と分かっていても全然それを感じ取ることができない自分に疲れたりしました。

そんな中、(私は介護の仕事をしているのですが)あるご年配の方に対して、その方の中に神様を見続けるということがだんだんとぶれなくなっていきました。その方は喜怒哀楽が激しく、時にはヘルパーに八つ当たりをするし、身体的ケアがたくさん必要なので大変な力仕事なのですが、たとえ八つ当たりされても自分の体がきつくても、そこには変わらず愛と平安があります。その方の中にいる神様が物理的な困難に動かされない愛を与えてくださいます。

奉仕に取り組む時に、いつもお守りにしている師のお言葉があります。

「一つの笑顔でもいい、優しい言葉でもいい。苦しんでいる人、悲しんでいる人に彼らの喜ぶことを行ないなさい」

目の前の人の中に神様を見て、師の教えだけを頼りに、今の自分ができることを一つ一つやり続けていこうと固く決心します。

毎朝、神様(シヴァ神)に「今日1日正しく奉仕できますように導いてください」とお祈りしています。

船勢


真実の旅

あじさい ピンク

明るい陽の光

「あ!アジサイ」
楽しみに待っていた紫陽花をバスの車内から一輪、見つけ、一瞬にして紫陽花の花が胸いっぱいに広がりました。美しいものを見た瞬間、それだけになる気がします。特に自然のお花などは、無垢で純粋なそのものが、丸裸で存在しているように感じて反射的にハッとします。一体私は何にこんなに感動しているのだろう?と思うことがありますが、ヨーガでは、何かに魅せられたり惹きつけられたりする時はアートマン(真の自己、真我)に惹きつけられている、本当の魅力の持ち主はアートマンだけ、と学びました。私たちの本性がそれであり、無垢で純粋なるものだから、それに共鳴していると。

そういえば最近、ひょんなことから出会ったある女性が、マハーヨーギー・ミッションに関する創造物すべてに美を感じる、と仰いました。「神は美」という教えの言葉が浮かび、あぁこの方は神に惹きつけられておられるんだなぁ・・・と思いました。私も初めてマハーヨーギー・ミッションを知った時、しんと静まり返った世界観に美を見たからです。自然のお花などとは違って、人が作ったものにはその人の思いが注入されると思いますが、もし、その作り手にエゴ(利己的な我)がなければ、その人は神の道具となり、出来上がったものには本来の作り手である神、宇宙の創造主の完全なる美だけがあるのかもしれません。私たちは創造物を通して、その根源の光、存在をダイレクトに感じているのだと思いました。

あじさい

梅雨の晴れ間

そんな出会いがあった翌日、目を覚ますと一曲のキールタンが頭の中で鳴り始めました。特別その曲が好きなわけでもなく、昨日その人と歌ったわけでもなく、思い当たるふしがなく不思議に思い、ミッションのYouTubeにその曲がアップされているか調べました。その曲があり、説明欄にこう書かれていました。
「シヴァの街と呼ばれ、かのシュリー・ラーマクリシュナが黄金で出来ている街と表現したインドの聖地ヴァナラシ(カーシー)。
何万人もの人が巡礼に訪れるその地には、現代においても神の中に生きる人々の信仰心で満ち満ちている。
神を愛し、神を讃える喜び溢れるまさに歓喜のキールタン『Hara Hara Mahadeva』」

・・シヴァ神の祝福?! その人はシヴァが大好きな人だったからです。映像をスタートさせると、たちまちその人も皆も共に巡礼をしているイメージに包まれました、そしてそれは神の手の中でした。生き生きと人生を謳歌するような皆の姿から、生きることの意味を感性によって知らされた気がしました。ちょうど最近の瞑想専科クラスで聞いた師の教え「――本当は楽しむために生まれて来た」それが、溢れんばかりに。
そのキールタン映像もまた根源の煌めきを放っているようでした。まるで歓喜の巡礼さながらの皆の姿や神的な映像を見つめていると、師に初めてお会いした時、人との縁やつながりについて教わったお言葉を思いました。

師「心の領域も超えた、魂の領域というような、一番自分の核になっているところで見れば、おしなべて皆同等の関係であって、特別に関係が深まるというのは、その魂の目覚めをもたらすところのヨーガの仲間であるとかね、それは何生涯にも渡る深い家族関係のようにも形容されることがある。
皆、魂の旅を続けている。それぞれが経験をして、いろんなことを味わいながらその最終的な自由に目覚めるまで旅をしているのかもしれない
私「終わりはないんですか」
師「その終わりは悟りと言われている。本当の自由とか、本当の自分に目覚めるとき、その時に旅が終わると言われている――例外なくね。だから魂の旅人としては、同じ旅人同士

ヨーガをしている人もしていない人も、信仰する神様や宗教が違う人も、性別、年齢、人種関係なく、みんな魂としての最終目的地は同じ、同じ旅人同士。本当の自由、本当の自分に目覚めるための今回の旅。
旅路途中で出会う様々な人、ものを通して、私たちは楽しむために生まれてきたこと、世界は美しいに違いないこと、その真実を互いに交換し合っているような気がします。それぞれに役割があり、それぞれが真剣に生きていると思います。

Hara Hara Mahadeva』を最後まで観終え、今、聞こえてくるこの様々な音も、この見えるものすべても、シヴァ(宇宙の主)ご自身、自らが奏でて、創り出してくださっていると実感しました。すべての万物はその大いなる恩寵の中で、旅を進めさせてもらっているに違いありません。

ヨーガの守護神シヴァのご加護の下、それぞれの現在地から正しい目的地に向かって、ともに歩みを進めていくことができますように。時には気が急くこともありますが・・・「急がば回れ、コツコツと丁寧に歩んで行きましょう!」と先輩から頂いた応援メッセージとともに。

京都タワー

一人では迷いそうな大海原でも、光があれば大丈夫!

野口美香 


熱心に真理を求めて識別瞑想する

5月から「瞑想専科実践編 シュリーマハーヨーギーの教えと生き様に学ぶ」が始まりました。

師にお会いできない月日が重なる中で、グルバイとともに師の教えに触れられる貴重な機会となっています。

先日のテーマは「真実の存在と識別瞑想」。
講座の中で、ヨーガダンダさんご自身の識別瞑想の体験談を話されました。
ある出来事により、苦手な人の顔が何をしていても胸に張り付いたように離れなくなり、アーサナを必死でしてもなくならず、瞑想の中でもその人の顔が浮かび上がってくる状況だったそうです。それでも瞑想の対象に集中し続けていたら、突然直観が訪れ、その苦手な人も自分も本質的には同じ存在だと分かり、瞑想の対象から光がやってきて、苦手な人の顔が消えていったということでした。その後その人に対する苦手意識はなくなり、ぶつかることもなくなったそうです。常日頃からできるだけ心を乱したくない、瞑想に没頭したいという思いが強かったからこそ、その人のことが気になるようになり、真実への思いが強くあったからこそ、その障害となるものを見つけられて、心の奥底からの戦いになっていった、とも話されていました。

私はその話を何度か聞いたことがあったのですが、お話の内容だけでなく語り口が軽妙なので、いつも楽しさを感じながら、自分もそんな風に苦手な人のことが一切気にならないようになったらいいなと憧れていました。
しかし、今回はこれまでと異なる気持ちになりました。
何度か識別に取り組みそれなりに結果を得られたことはありましたが、ヨーガダンダさんのお話を改めて聞いたことで、心の表面的な部分でしかできていなかったことに気付きました。心の奥底までしっかりと潜るには、何度でも諦めずに実践するのみです。いつか、ではなく今この瞬間に。

実践するほどに難しさを感じてしまい、時折挫けそうになることもありますが、
先輩グルバイの大きな背中を見せて頂けたことで、しっかりとやる気スイッチを押してもらえました。
もっともっと熱心に真実だけを求めていきたいです。

講座の中で紹介された、講師のヨーガダンダさんが描かれたイラスト。

心は湖面に、真実は月に例えられます。
湖面のさざなみが静まれば、月ははっきりと映し出され、同じように輝きます。
心が静まれば真実のみが輝き出します。

 

ハルシャニー


ヨーガ・アーサナの力 その1〜アーサナは瞑想のためにある

こんにちは! ヨーガ・瞑想クラスを担当しているマードゥリーです。
今回から、クラスで行なっているヨーガ・アーサナ(ポーズ)について、その実践がもたらす力がどのようなものか、これまで師から教わってきたことや自分自身が感じてきたことをもとに、4回シリーズ(予定)で書いてみたいと思います。皆さまどうぞお付き合いください〜。

ブジャンガ・アーサナ

黄昏時のヨーガ・ヴィハーラのクラス(京都・千本丸太町)

ヨーガ・瞑想クラスは、マハーヨーギー・ミッション(MYM)の各クラスの中でも最もクラス数が多く、開講歴も長いレギュラークラスです。
師が京都にアーシュラマ(道場)を開設されたのが1976年。師の下で学び、ヨーガの素晴らしさに感銘を受けた先輩たちが、一人でも多くの人に提供しようとクラスを始め、それから25年以上が経ちますが、現在に到るまで、クラスはず〜っと同じスタイル(内容・プログラム)で行なわれています。

私自身、MYMのクラスに一受講生として参加したことがヨーガの始まりでした。目まぐるしく日常が過ぎる中、立ち止まって生き方を見つめるきっかけを与えてくれたのがクラスであり、アーサナは自分と向き合うヨーガの第一歩でした。軽い気持ちで足を運んだつもりが、私たちの身体の神秘や呼吸の深まり、さらには心の紐解きなど奥深い内容があることを知り、ヨーガの世界に惹きつけられていきました。

*  *  *

さて、ここからはアーサナの役割について少し触れてみたいと思います。
全クラスでは、当初から変わることなく、師が厳選された基本アーサナ十数個と瞑想を行なっています。来られる方の体調や進み具合に応じてプログラムは組まれるので、中にはプラーナーヤーマ(呼吸法)や瞑想を中心に行なっている人、より高度なアドヴァンスなアーサナに取り組んでいる人もいます。しかし、どのようなアクロバティックなアーサナであったとしても、アーサナは瞑想のための準備段階として位置付けられています。

『アーサナは堅固で快適でなくてはならない』という格言的な言葉が、聖典『ヨーガ・スートラ』にはあります。本来「アーサナ」とは瞑想の「坐法」のことを意味し、生き物の数ほどたくさんあるともいわれている全てのアーサナ(ポーズ)は、瞑想にしっかりと座るために開発されてきたのだそうです。えっ、座る方が簡単で楽じゃないの?と私も最初に聞いた時は驚きました。しかし、実はシッダ・アーサナ(達人坐)やパドマ・アーサナ(蓮華坐)で両膝が床に付いて安定し、背骨を真っ直ぐにしてどこにも力が入っていない不動の状態で長時間保つことは、とっても難しいのです。坐法の完成は、座ると自然に呼吸が静止し、それによって心も静止することだといわれます。やっぱりそれには相応の修練が必要なんだなと思います。

アーサナは、柔軟性を競うものでも、単に肉体の健康のみを求めるものでもなく、また身体表現の美しさを見せるためのものでもありません。伝統的にも、ヨーガ=「瞑想によって本当の私に目覚める」というゴールに向かっていくための霊的な修練であり、内側から強くてしなやかな身体へと改造し、深く安定した呼吸に変化させることによって心を静寂へと導く、瞑想のための土台を築いてくれるものなのです。

一連のアーサナをやりこんでいくと、プログラム最後には身体と呼吸と心が統一され、坐法がまさに定まったという感覚、研ぎ澄まされた集中感が生まれ、自ずと瞑想へと連れていってくれるのを感じることができます。

 ハタ・ヨーガは高遠なラージャ・ヨーガに登らんとするものにとって、素晴らしい階段に相当する。(『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』より)

*ハタ・ヨーガとは、アーサナや調気法などの修練を中心に行なうヨーガの道。ラージャ・ヨーガとは、瞑想によって真の自己を実現することを意味します。

また、アーサナの実践を続けていくと、毎日の食事が(欲するものがより良質で軽やかなものへ)変わっていったり、環境が調えられていったり(部屋が綺麗になったり?!)もします。不思議に思われるかもしれませんが、それらは心身が調ってきた結果、起こることでもあります。さらには真理を理解する力が養われてくるともいわれます。アーサナによって心が落ち着き、受け入れ態勢ができてくるような感じでしょうか。瞑想するには、まず真理の教えを聞いて、学び、深く考えていくことが基本にあると常々師から教わっていますが、真理の理解を育むことや日常生活を調えることも含めて、瞑想の土台となっていくのだと思います。

ある受講生の方が、クラスに通い始めて3年ほど経った頃、「アーサナをすることが今の自分にはとても大切で、教えが身体を通して入っていく感じがします」と言われたことがありました。アーサナの力は偉大だなと改めて感じました。もちろん、呼吸や心身の変化もあってのことと思いますが、身体を動かして修練を積み重ねることで、ヨーガの教えも頭だけの理解ではなく、自分のものとしてしっかりと身に付いていく、そして着実に瞑想への道筋ができていくのだと思います。
(つづく)

 

マードゥリー 


木陰の下で〜グルとサンガ〜

私は介護の仕事で車椅子の方と外出する時、休憩する小さな公園があります。暑くなり始めた先週、その公園の蔦が絡まる木陰のベンチに座ると、その場所がとても涼しく、一瞬にして癒されました。その瞬間、野口美香さんのブログで「木陰は涼しい」と書かれていたのが思い出されました。隣の車椅子の方もその涼しさに癒されたのか、笑顔で嬉しそうでした🍀


さて、そんな5月の終わり、名古屋近郊からはるばる京都のアーサナ・瞑想クラスに一人の女性の方(以下:Yさん)が見学に来られました。Yさんは私たちのブログ『ヨーガを生きる』を1年半ほどずっと読んでくださっていたようで、なんと2週間前、まだ会ったことのない私たちにブログ内でコメントを寄せてくれたのです!それがきっかけとなり、「ぜひ、お会いしてお話しましょう!!!」ということになり、コメントをくださってから1週間後、すごいスピードで交流が実現しました。
クラスの見学も含め、その前後でもたくさんのお話ができ、とっても楽しく素晴らしいひとときでした!!!

5/28(土)京都アスニーのアーサナ・瞑想クラス

Yさんはインドにグルがおられ、その教えを日本で毎日欠かすことなく一人で実践されています。
1年半ほど前にYさんは、私たちの師シュリー・マハーヨーギーのYouTubeを見つけ、そこで紹介されている教え「ヨーガの瞑想は、一生涯のその結果に留まらず、何百、何千生涯を通過するぐらいの威力をもってなされなければならない」に触れてとても感じるところがあり、それがきっかけで私たちのブログを読み始めたそうです。【師のYouTubeはこちら💁‍♂️『サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ:現代に生きる真正のヨーギー』】彼女はグルも仲間もいない日本でたった一人で実践し続けることが本当に苦しかったそうですが、ブログを通して、自分と同じようにグルへの思いをもったマハーヨーギー・ミッションの修行者の存在やその情熱に励まされながら実践を続けていたと話してくださいました。

今回の交流中、1秒たりとも真理・神以外の話をされなかったYさん。そんな大変熱心で信仰心の厚い彼女と交流して、私たちもとてもインスパイアされました!!!そして、グル(師)とサンガ(仲間)が修行者にとってどれだけ大きくかけがけのない存在なのか、改めてその有り難さを教えていただいたように思いました。本当にグルとサンガは、この世界における木陰のような避難所です!!!


私自身、木陰の一枚の葉っぱになれるようにと願い、これからその木陰の下に多くの人が集い、休足し、語らい、そして遊び戯れることを心から願った今回のYさんとの出会いでした。
Yさん、この度はご縁をいただき、たくさんのお話ができたこと、本当にありがとうございました🙏🙏🙏ぜひぜひ、また京都にいらしてください!!!一同、心よりお待ちしております😇

ゴーパーラ


「私を愛している?」

黄緑色だった若葉も濃い緑に変わり初夏の陽気を感じます。生い茂る木の下を通ると、葉と葉の間から届く満ち足りた光や空気に、気持ちがスーッと静まります。
以前よく一緒に歩いた目の不自由なおばあさんが、建物の陰と木の陰とでは心地良さが全然違うから見えなくても木の陰に入ったらすぐに分かるわ~とよく仰っていました。それまで私は木の陰よりも建物の陰の方がしっかりした陰で涼しいのでは?と思っていたのですが、意識して感じてみると本当に仰る通りで、なるほど!と一緒に喜んだものでした。また、おばあさんは整備された歩きやすいアスファルトの道よりも不安定で危なそうな河原や砂利道などを好まれる方で「土とか石のデコボコ道の方がしっかりと踏み込んで気ぃ張って歩ける。天然の足裏マッサージみたいで気持ちいい~」とも言われていました。私の固定観念を次々と壊していただき(笑)自然を感じて豊かに生きる、ということを実地で教わった方でした。自然に抗わずその時々を楽しまれ、また暮らしぶりや持ち物が驚くほどシンプル身軽で、闊達な方で憧れでした。今も木陰に入ると、あのおばあさんのクシャっとした笑顔が浮かび嬉しくなります。

大きな木陰

包み込まれるような大きな木陰

ところで、まだ福祉的な仕事とは無縁だった頃、目の不自由な方に拙い道案内をしたことがありました。その時、お相手がとても素朴であたたかい感謝を示されたため、その御恩をお返ししたくて、しばらく気持ちがずっと落ち着きませんでした。どうすればいいのかが分からなかったからです。でもその時、以前に『パラマハンサ』(機関紙)の紙面で読んだ『ホーリー・マザーの生涯』からの大好きなお話に導かれるように私はある方法を見つけられました。これからは道で出会った目の不自由な方へ、みんなへ同じようにしていこうと。
時には、さまざまな事情から会いたくても会えない人や状況があるかもしれません。人とは本当に一期一会だなと感じます。そのお相手には直接出来ないことを別の方へ、他のみんなへ、同じようにする、ということを意識するようになりました。

きっかけとなったホーリー・マザー(ラーマクリシュナの御伴侶であられたサーラダー・デーヴィー)のお話はこんなお話です。


たいへん手のかかる家庭の厄介者だったという女の子が、お母さんと一緒にホーリー・マザーをよく訪ねていました。女の子はホーリー・マザーが大好きでしたが、ある日ホーリー・マザーが別の場所へ発たれる日が来て、少女へおっしゃいます。

いい子ね、私のところに来るようになって、もう随分になりますね。私を愛している?

「はい、とっても。大好きです」

どれくらい?

女の子は思いっきり両腕を伸ばして言います。「これくらいよ」

・・・遠くなってしまっても、それでも愛してくれる?

「はい、同じように愛します。忘れることはありません」

どうしたらそれが分かるかしら

「マザーに分かってもらうには、どうしたらいいかしら」

もしあなたがお家の人をみんな愛することができれば、私を愛してくれていることもきっと分かるわ

「分かったわ。家族のみんな愛します。わがままはもうやめにします」

それはとっても良いことですよ。でもあなたが分け隔てなくみんなを平等に愛するってことが、どうしたら私に分かるかしら

「みんなを等しく愛するにはどうすればいいの」

平等に愛するには、愛する人々から何も求めないことですよ。もし求めれば、もっとたくさん与えてくれる人とそうではない人ができるでしょう。そうなれば、もっとくれる人たちを好んで、少なくしかくれない人たちは愛さないということになってしまうわ。そしてあなたのみんなへの愛は平等ではなくなってしまうでしょう。偏りなく皆を愛せなくなってしまうわ

少女は何の見返りを求めることもなく、みんなを愛することを約束したそうです。

*参考・引用:『ホーリー・マザーの生涯』


2020年にコロナが蔓延し始めサットサンガ(真理の教えを問答形式で学ぶ場)もお休みになり、マスク生活で息を潜めるように過ごした3月、コロナ禍で初めての『パラマハンサ』が郵便で届きました。サットサンガの記事に、いちばん聞きたかった師のお言葉がありました。

質問者「ヨギさんのことはとても好きですが、自分のことをもっと愛していることに気付きました。このような自分は嫌です。どうしたらいいでしょうか」

師「そうして気付いたことは良かったです。これからはそれを改めていけばいい。そして本当に私を愛しているのならば、あなたの周りにいる人たちを愛して、奉仕してください

師のお言葉は、ホーリー・マザーのあのお言葉と全く同じものに感じ、以来、大切な指針となっています。ホーリー・マザーが少女に仰った「私を愛している?」。その問いかけは、その時々の目の前の人、一(いち)なる「あなた」からの声なのかもしれません。

長岡京の花

クラスへ行く道すがらの一期一会

 

 野口美香