ヨーガの実践」カテゴリーアーカイブ

一点集中

前回のブログで「大いなる真剣さ」とは、カミソリの刃の上を渡り切るほどの強い信念を持ち、一分の隙もなく集中し続けることではないか、と書きました。 
ヨーガではこの状態のことを「一点集中」といいます。常に一点集中の状態でありたいと願うものの、日常生活の中で起きる様々な出来事や、自分の心に振り回されて、持続することができないことが多々あります。 
葛藤したり悩んだりしながらも、その境地への憧れの思いだけは強く持って実践を続けていますが、強烈な一点集中状態になっていたのだと後で気付いたことが何度かあります。 

最初にそれを体験したのは、乗り越えられると思えないような大きな問題が起きた時でした。 

あらゆることが信じられず、真理の教えも無意味に感じてしまい、ヨーガの実践を続けることが苦しくなりました。かといって元通りの生き方に戻るのは怖く、寄る辺ない思いで過ごしていました。教え導いてくださっている師に対し、心の中で申し訳ないと詫びながらも、何とかしてほしいと助けを請うような日々が続きました。 
ある日、息をするのも苦しくなり、体を動かす気力もなくなり、自分の存在を今すぐ消してしまいたい、そんな思いに支配されました。 
私自身のことも世の中のことも真理の教えも、何もかもどうでもいい! 
そう思った瞬間、私という意識や思い煩っていたこと全てが消え、ただ師の存在だけを感じました。 
大量の涙とともに抱えていたもの全てが流れ出て、久しぶりに息ができたような感覚になり、他には何もいらないから師への想いだけは失いたくない!!と必死に願いました。 

それからしばらくの間、師に意識が集中した状態が続き、不安も恐れも全くない、これまで感じたことがないほどの平安な気持ちで満たされました。 
何がそんなに苦しかったのかも思い出せなくなり、気力が戻って普通に動けるようになりました。 
問題が解決されたわけでも、状況が改善したわけでもなかったけれど、意識が師からそれることがなかったため、心が何にも反応しなくなり、やるべきことを淡々と行えるようになっていったのだと思います。

 苦しかった時、光り輝く真の自己が私の中にもあると信じたい一心で、タペストリーを見つめ続けていました。

 

その時の師の存在だけがあるという感覚は、今もずっと胸の奥にあります。 
そして、私の意識が師に集中されている時に平安な気持ちを感じたのは、師が永遠に変わることのない純粋な存在そのものだからだと思います。 
これからも、どのような状況にあっても真実に憧れ向かっていこうとする想いだけは手放さず、強く求めていきたい。それによって、私たちの中にある永遠に変わることのない純粋な存在、それだけになることができるまで。 

ハルシャニー


ヨーガ・瞑想 オンライン体験コース もうすぐスタート!

生命力溢れる木々の緑が眩しい季節になってきましたね。
さて、今日はゴールデンウィーク明け5月12日(木)から始まる「ヨーガ・瞑想 オンライン体験コース」についてPRさせてください。

初心者の方や久しぶりという方向けのこのコース。全4回でヨーガ・アーサナ(ポーズ)と瞑想の基本を学んでいきます。10程度のアーサナを行ないながら、深く安定した腹式呼吸を習得していくための呼吸法、チャクラ(気の集まるセンター)への集中やプラーナ(気)の充実から得られる効果、瞑想に大切な坐法や集中力の養い方などをお伝えする予定です。

コロナ禍が続く中、クラスへ足を運ぶのを躊躇されている方や、遠方で受講が難しいという方もおられるのではと思い、昨年からオンラインでのコースを企画しました。
前回は、10年ほど前にマハーヨーギー・ミッションのクラスに通っていた方の参加がありました。遠くに引っ越して続けられなくなったけれど、クラスでの体感が印象に残っていて、いつかまたやりたいと思っておられたとのこと。再会も懐かしく、とても嬉しかったです〜。
体験コースを受けた後に、レギュラーのオンラインクラスで継続している方もおられます。アーサナの基礎が身についてきて、よい変化を感じておられるようです。呼吸の深まりは画面越しからでも伝わってきます。

アーサナを続けることによって身体が軽やかに快適になっていくとともに、呼吸の変化に伴って現れる精神面での変化は、誰もにとって大きな贈りものとなると思います。ストレスやダメージを受けにくくなり、さまざまな出来事に反応して湧いてくる怒りやイラ立ち、不安や恐怖、焦りや緊張……といった感情の起伏をおさめていくことができていきます。
心身に調和をもたらすアーサナは、本来の私へと立ち返ろうとするヨーガの道の第一歩。少し踏み出せば、そこには大いなる恩恵と、今をより良く生きるための智慧と力があることが感じられるでしょう。一人でも多くの方にご体験いただけたら!と願っています。

オンラインってけっこう勇気がいるかも?!と思われるかもしれませんが、少人数で行ないますし、見本も見ていただきながら、ゆっくりとムリなく進めていきますので、どうぞご安心くださいね。

図解ヨーガ・アーサナ

「図解ヨーガ・アーサナ基本編」(アーサナのポイント、視線、力点、集中するチャクラが一目でわかる)をもとに、柔軟性に関わらず誰もができる内容を実践していきます。

日時:5/12, 19, 26, 6/2 木曜日 20:00〜21:00 
*最終回6/2は21:30まで
受講料:4回 6,000円(税込)
<各回のテーマ>
1回目:体と呼吸と心を調える 
2回目:自己治癒力を高める 
3回目:集中力を養う 
4回目:瞑想で静けさを味わう

詳しくはこちら

次回は秋に開講予定。今後は瞑想中心の体験コースも企画しています。

マードゥリー 


真理を実現する道〜アーサナ

「ヨーガのアーサナ(体位法)や内容は、すべて生理的にも心理的にも哲学的にも科学のように説明が可能です。いつでも簡単にできます。しかし大事なことは、それらを知的に理解するよりも、体験によって良い変化を身体と心に与えてやることです。悟りとは単に知ること(知識)ではなく、成ること(体得)なのです。これが何千年にもわたる東洋の霊的修行なのです。真理はすでにあなたの中に在ります」——『悟り』より

思い返せば、アーサナの体験によって良い変化を身体と心に、ずっと与えられ続けてきたのだと思います。

七年前、ヨーガへの信頼はすでにありましたが、ヨーガを生きるということに対して、難しいから私には無理なのでは? 何かを失うのではないか? という思いも同時に抱えていました。度々、表面的な心の動揺に心が占められてしまい、苦しくなることがありました。
そのような中、京都でのアーサナのデモンストレーションに参加する機会をいただきました。いつもより自然と集中した中、アーサナを行なっていると、「真理の道とそうでない道」という言葉が浮かんできました。その瞬間、師から伝えられたアーサナは「真理を実現する道」であると直観的に感じました。真理に反する思いがあれば、抗うような力が内にあり、もうすでに私の身体と心は真理の道を歩むためのものに大きく変化させられているということが分かったのです。私自身、本当は真理の道を歩みたいと強く思っていることにも気付かされ、涙が溢れました。

今、私はアーサナを行なうことで心が内向きになり、すでに在る真理に近づいていけることを実感しています。このような具体的な方法を教えられ実践できることは、何と恵まれていることでしょうか。そして、真理の道を歩みたいと心から願うようになりました。それだけが本当の幸せになれる道だと確信しています。
師への感謝を胸に、日々実践を続けて深めていけますように。

師が歩かれた松山の大街道。私にとっては真理の道!

りょうこ


大いなる真剣さで実践し、堅固な基礎を持つ

 

〝修習は、長い間、休みなく、大いなる真剣さをもって励まれるならば、
 堅固な基礎を持つものとなる”   
 

『ヨーガ・スートラ』第1章-14 

アーサナ・クラスに通い始めたばかりの頃、『ヨーガ・スートラ』という聖典があることを知りました。読むと、見慣れない言葉が並んでいる中で、この一節がすっと目に入ってきました。 

当時、鍼灸の技術を身に付けるための基礎訓練がうまくいかずに悩んでいたので、惹かれたのだと思います。この言葉の通りにやればしっかりと基礎的な技術が身に付くかもしれない、と、実践してみることにしました。 
諦めそうになったらこの一節を読む、それを繰り返すうちに気付いたのは、長い間休みなく続けることは比較的実践しやすいけれど、真剣さをもつのは、そう簡単ではないということです。元々あった思いをもっと強くして、退路を断つ思いでひたすら練習を続けることで、次第に訓練することが日常生活の一部となり、少しずつ技術を習得していけたように思います。
 

数ヶ月前、ふとしたことをきっかけに、この一節を思い出しました。 
今私はこの一節の通りに実践できているだろうか。アーサナ、瞑想、仕事…長い間休みなく続けてはいるけれど、大いなる真剣さをもって臨めているか? 
「大いなる真剣さ」とは何なのか? 

悟りへの道はカミソリの刃をわたるようなものだと言われますが、「大いなる真剣さ」とは、カミソリの刃の上を渡り切るほどの強い信念を持ち、一分の隙もなく集中し続けることではないかと思い至りました。 

私にとって悟りとは、師です。悟りへの道を歩むということは、師に少しでも近づいていくために一歩一歩進んでいくということ。 

師のように、ただ他者への愛ゆえに、いついかなる時も誰に対しても、優しさを持って行為できるようになるには、私も悟らなければなりません。それがどんなに難しくても、師が私にしてくださっていることを同じように誰かにするためには、悟りを目的地として進むしかないのです。 

そして、私には治療をする上での理想があります。 
師の目で見て、師の耳で聞いて、師の口で語り、師の手で触れる。 
「あなたの中にも真実がある」 
私が関わる全ての人に少しでもそれを感じてもらうために、外側から見える姿形は私であっても、内側は全て師に明け渡して、師のみがおられる状態であり続ける。 

そうなれるように、あらゆる行為に対して「大いなる真剣さ」もって励み、堅固な基礎を積み重ねて、悟りへの憧れをもっともっと高めて向かっていきたいです。 

ハルシャニー


悟りを頭で難しく考えない

沈丁花

沈丁花。ふわりと届く春の香り

3月21日は春分の日ですね。昼と夜の長さがほぼ同じになり大気のプラーナ(気)が整い、私たちもその恩恵を受けヨーガの修練も行ないやすくなるといいます。また、春分の日は、自然を称え、生物を慈しむ日だそうです。
電信柱の上にある雀の巣に、代替わりした新しい雀たちがやってきたようで、朝からチュンチュンチュンチュン・・・と可愛らしい声が聞こえてきます。私がよく通る道にはたくさんの街路樹があり、中でも多いのが桜の木。枝先の花芽が日に日に膨らんでくる様子がよく見えます。

バス停までの道すがら、その桜の枝を見て、もうすぐ春だなぁ~とホッとして嬉しくてスキップぎみで歩いていました。すると、やけにきれいさっぱりと明るい場所があり、あれ?こんなんやったかな?と立ち止まりました。下に目を落とすと、地面ギリギリに大きな切り株が幾つか残されていて、大きな木々がすべて伐採されたことに気がつきました。
でも木は、そんな姿になっても、じっと沈黙を守っているように見えました。この世界に次々と出来事が起こっても、いつも木々が同じようにただ在ることに私は安心を感じてきました。季節が巡り、鳥が歌い、虫が蠢き、木は葉を付けたり落としたりしながらも静かに佇み、変化する中にあっても一定の同じで在る何か、たった一つの絶対的なものが続いているということを教えてくれます。それがどれほど尊いものか……。切り株を見ていると、幹が無くなっても、やっぱり木は、あなたは同じだ、と思えました。姿、形が無くなっても無くならない、ずっと在る、と木が無言で教えてくれた気がしました。子供たちや生き物にはどんぐりを、鳥たちや虫たちには住処を、また真夏の暑い日には木陰を提供し、時々そこで腰かけて休憩しているおばあさんもいました。一本の木の存在に、どれほど私たちは恩恵を受けてきただろう、ありがとう!と思いました。

そんなことを考えながらバス停に着き、乗車した市バスの窓から景色をボーっと眺めていると、一軒のお家の庭に、赤と白の見事な梅がぱぁ―っと咲き誇っているのが目に飛び込んできました。あまりにも元気いっぱいに咲く力強さに圧倒され、その生命の力に感動しました。次はお葬式をする会館があり、前には黒光りした長い霊柩車が停まっています。こんなうららかな春を予感させる日にも・・・当然ながら死も生も同じようにあると思いました。すると今度は、保育園のまだ2歳か3歳くらいの子供たちがぞろぞろと先生に連れられて、子供同士で手をつなぎ合いながら、おぼつかない歩き方でニコニコ「バチュ(バス)バチュ~」と無邪気に手を振ってきます。思わず満面の笑みになりました。そしてバスが終点の駅に到着すると、少し離れた所に総合病院の送迎車が来ていて、大勢のおじいさんおばあさんたちが、ぞろぞろと送迎車に乗り込んでいくのが見えました。バスの窓を通して、自然の営みという一つの映画でも見たような気分でした。

水仙

春風に可憐にゆれる水仙

バスを降り歩きながら、これが自然の様相なんだと思いました。季節は止まることなく進み、そして世界も変化し、生まれる命があって、成長する命の育みがあり、死にゆく命もある。すべてが神の顕れ。どれも本当に同じなんだなと思いました。

最近、悲惨な出来事を目にしてから、胸の奥で騒めきが静まらないことを自覚していました。でも、そうやって感情的になることで、それで私は正しい判断や何かより良いことができるのか?と歩きながら自分に問いました。感情が際立ってしまったら肝心なものを見失ってしまう、平常心でいられない時こそ平常心で、と自然の様相を通してなぜかその時、思いました。そして万物の背後にある見えざる存在を思い、そうだ木のように不動でありたいと思いました。

師から教えていただいたことがあります。
悟りとは不安や苦悩の無い安心。平安な満ち足りたムードが壊れないようにすれば、それが悟りとも言える。だから悟りを頭で難しく考えないように

常に安らぎにあり、常に同じである存在は他者にも安心を与えることができる。木のように。
いつか師が仰っていた、ヨーガとは真人間になることーー正直で、人に優しく、慈悲深く
それこそが悟りにある人の姿であり、私にとって単純に人間としての理想です。
私たちは人間として生まれました。だから、誰もが真の人間、真人間になれると思います。正直で、人に優しく、慈悲深く。

木蓮のつぼみ

春を待つ木蓮のつぼみ。触るとふっくらフワフワしていました。

 

 野口美香 


真理を愛す

バクティ・ヨーガは「感情も五感も全てを愛する神に向け、愛そのものである神との合一を果たす」と表現されていて、ヨーガを学び始めた頃、私はこの強烈なイメージに漠然とした憧れを持っていました。何となく魅力的だなとしか思えなかったのは、瞑想の対象は神というよりも真我や真理の方が集中しやすく、神に瞑想するということがどういうことか私にはピンとこなかったからです。
もう何年も前のことになりますが、それまで誰かを好きになるとか愛するという感情に縁なく(興味なく?)生きてきて、グルバイ(仲間)が嬉しそうに「ヨギさん(私たちの師)の夢を見た」と話しているのを羨ましく思い、「あぁ、私にはバクティがないのだろうか」と不安が募り、勢い余ってヨギさんに尋ねたことがありました。この時、ヨギさんは何も仰らずに、静かに微笑んでいらっしゃるだけでした。何か答えてくださるものと期待していた私は拍子抜けして、それ以上尋ねることもできないまま、もやもやした思いが心の隅に残ったのです。
その後の数年間はキールタンを歌う機会やバクティ・サンガムに参加することで、少しずつ神に触れ学ぶ時間も持てましたが、結局それ以外の時間は神を忘れることが多くて、その存在を身近に感じるという実感はあまり持てなかったように思います。

けれど少し前からバクティ・ヨーガへの憧れが次第に強くなってきたのです。ちょうど瞑想専科のバクティ・ヨーガ編が始まり、この講座で多くの仲間と学べたことは大きな支えとなりました。日常生活で神を忘れることはしょっちゅうでしたが、そのたびに思い出すの繰り返しです。課題の聖典とともに、大好きな本である『悟り』の中のバクティ・ヨーガに関する記述も何度も読み返したりしていました。そうしていくうちに自然に神を思う時間も増えていき、いつの間にか、自分にはバクティがないのでは、という思いは消えていました。そして『悟り』の中のある箇所が目に飛び込んできました。

「クリシュナという神の化身を普遍の神に置き換えてもよろしい。アートマンでもいい。またブラフマン、真理に置き換えることも可能です」

そうか、神を愛するとは真理を愛することでもあるのだ、それならすごく分かる。今まで何回も読んでいたはずだったのに、初めて目にしたような言葉でした。
かつて質問をした時に、ヨギさんが答えてくださらなかった理由が今なら分かります。言葉で説明されたなら、きっとそれに執らわれてしまっていたでしょう。
それよりも、「バクティは既に、その胸の奥にあるよ」と伝えてくださっていると感じます。

祭壇のヨギさん。 私もいつも笑顔でいたいと思います。

マイトリー


置かれた場所で生きる

風の中の落ち葉のようにこの世に生きなさい。そのような葉はあるときは家の中に、あるときはごみの山に吹きやられる。木の葉は風の吹くままに飛んで行く…ときには良い場所に、ときには悪い場所に。いまや、神がお前をこの世におおきになったのだ。けっこうなことだ。ここにいなさい。また、彼がお前を持ち上げてもっと良い場所に置いてくださったら、今度はどうしたらよいかその時に考えても十分に間に合うことだ。

神がお前をこの世においてくださったのだ。そのことについてお前に何ができるのだ。彼に全てをお任せしなさい。彼の足下に自分をささげきりなさい。そうすればもう困ることはない。そうしたら、いっさいのことを行うのは神だ、と悟るだろう。すべては「ラーマの思召」にかかっているのだ。”

                       『ラーマクリシュナの福音』より抜粋

 

 木などの植物は自ら動くことはできませんが、生命を繋ぐために種子をつくり、その場に落下したり、鳥など動物が食べることで新たな場所に運ばれたりします。その場所で芽を出し、葉を茂らせ、時期が来ると枝から離れ、そこに留まるものもあれば、雨や風などによって遠くに飛ばされるものもあります。
天候や環境がどうであろうと身を任せ「置かれた場所で生きる」植物からは、逞しさ、あるがままに全てを委ねて生きるしなやかさを感じます。

人の場合はどうか。
風に舞い上げられた木の葉のように飛んで行った先が、良い場所であれば感謝し、悪い場所であれば不満を持つ。
置かれた場所やそこで起きる出来事によって感情が揺らいでしまう私たち人が、植物のようにあるがままに生きるには、何が必要なのでしょう?
それは謙虚さではないかと思います。
この一節を繰り返し読み、ラーマクリシュナが神を熱烈に愛し全てを任せられたのは、ご自身をより小さな存在として神に捧げきる謙虚さが必要であることを、示してくださっているように感じました。
読む毎に、ラーマクリシュナの限りない優しさと強さに圧倒され、この言葉を素直に信じて生きていきたい、強く思いました。

それにはまず、私たちが日々考え行動する力も何もかも、神から与えられたものだということを知ること。そうすれば、自ずと今その場にあることを感謝し、謙虚でしかいられなくなる。

自分のものなど一つもなく、全てが与えられたもの。
この感謝の想いを一瞬も忘れることなく、置かれた場所で神に自らを捧げきりたいと思います。

写真/侘助(ワビスケ)が咲く姿からも、謙虚さを感じます

ハルシャニー

 

 

 

 

 

 


真実という宝

松山のヨーガ・サーラ・スタジオに通う太宰さん。昨年より松山のスタジオだけではなく、MYMのオンラインクラスを最大限に活用され、誰ヨガ、瞑想専科バクティ・ヨーガ編、バクティ・サンガムなどにも熱心に参加されています。実は最近、太宰さんに大きな心境の変化があったとのこと。今回はそんな太宰さんにインタビューをしてみました。

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Q: 最近はよく日常でキールタンを歌われているそうですね。歌われていてどうですか?

太宰さん: (笑顔で)キールタンはすごいですね! 元気になる。楽しい! 今は日常生活において、掃除、洗濯、食事の用意の時もとにかくずっとキールタンを歌っていて、それが自然となっています。嫌なことがあってもキールタンを歌うようにしたら、自然と笑顔になるんです。とにかくキールタンが好きになって、めちゃくちゃ楽しいです!

 

Q: 何かきっかけがあったのですか?

太宰さん: 昨年、瞑想専科バクティ・ヨーガ編に参加しました。そこで、「信じることができればそれでいい。これ以上のものはない」というラーマクリシュナの教えが紹介されたんです。それを聞いて理解はできるけど、では自分はどうしたらいいのかなって思って。講座では実践方法や体験談も紹介されていたので、私にもできるかなと思って、二つのことを実践しようと思いました。一つは、キールタンができるかなと思いました。

Q: そうなんですね、あと一つは何を実践されているのですか?

太宰さん: 信じるということはどういうことかと思った時に、真剣さが一番だけど、信じることに対しても(自分には)謙虚さがない。そう思って、とにかく(瞑想に)座る、ということを決めました。「純粋で素直な信仰心をお与えください」ってお願いするだけなんですけど、まずそこからと思っています。最初からはできませんでしたが、回を重ねて講座の終わり近くになって、もっと真剣に頑張ろう!本当に変わりたい!変わらなければいけない!と強く思いました。

 

Q: 実践を続けてこられた中で、何か気付きや変化などはありましたか?

太宰さん: 以前、ヨギさんが松山に来られた時のサットサンガで、いろんなことに執らわれている悩みを相談した時に、「目の前に宝物があるのに、もったいない!」と言われたことがあるんです。それで、目の前の宝がどういう意味なのか分かりませんとお聞きしたら、「至福という――壊れない幸福のことを至福といいますが――そういう歓びに満ちた状態、それがその宝の山の正体なんです。それはどこに在るのかといえば、自分の中に、胸の中に在るんです」と言ってくださったんです。ただ、言葉上は理解していたんですが、本当の意味では理解できていなくて。

それで、瞑想専科の最後の方なんですが、座っていた時にやっとその宝の意味を理解できて、あぁ、これと同じことをヨギさんは教えてくださっていたのかなと思いました。宝というのは、真実であったり、真理のことです。瞑想専科で学んだ神への愛ということと自分はマッチして、同じことなのかなと捉えました。私はこれまで非実在のことでいっぱいで、たくさんの時間を費やしてきて、本当にもったいなかったなぁと思いました。
まだまだ、これまで積み重なってきたものがふつふつと出てきたりするんですが、今は「もったいないからやめよう。ここに真理があるんだ!」というふうに言い聞かせて、そのように思いを変えていくというようにしています。
やっと、スタートに立てたかなと思っています・・・こんなこと話したら、いいようにばっかり言っているように思うんですけど笑。

Q: それは本当に良かったですね! 今後の目標はありますか?

太宰さん: 今、していることを頑張って実践して、体得して、心が穏やかになりたいです。そして神を感じて、神で(身も心も)パンパンになりたいです! そして、次にヨギさんにお会いする時には、「目の前の宝、頑張ってつかんでいます!」というふうに言えるようになりたいです。

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 インタビューの間も、真剣でありながらも、終始とても楽しそうな笑顔を見せてくださった太宰さん。本当に心が軽やかになられた様子と実践の大切さが伝わってきました。

目の前にある宝を、私たちもつかんでいくことができますように!

MYM京都 


アーサナで心が変化する

師のヨギさんとお会いした2カ月後くらいから、自宅でもヨギさんの教えてくださるアーサナ(ヨーガのポーズ)をするようになりました。毎日アーサナに取り組めることが嬉しくて、生活の中にヨーガの為だけの時間があることを本当に幸せだと感じました。そして当時の私は「自分は弱い」という漠然とした思いを強く持っていたのですが、アーサナに取り組み続けることで、その思いがどんどん自分から離れていくことを体験させていただくことになりました。

初めの頃は、ポーズを維持している時間は、体のしんどさでいっぱいでしたが、同時に自分の内側が浄化されていくような安心を感じました。また、苦手なポーズに取り組むとすぐに心が折れてしまっていましたが、このままではいけないと思い、気持ちに負けてしまわないように強い意思をもって取り組むようにしました。すると、ポーズを終えてシャヴァ・アーサナ(休憩の形)をした時に頭の中がスッキリ晴れ晴れとした、という体験が何度かありました。そしてやり続けていくうちに、苦手なポーズの中でも心を乱さないように呼吸だけに集中しようと心がけることができるようになりました。

ある時にアーサナ中の呼吸が以前よりも長く吐けるようになったと実感したことがありました。そして日常生活の中に変化が現れ始めました。私は面倒ごとから逃げる癖がものすごくあったのですが、いつの間にかそれが消えて、目の前の状況に淡々と対応することができるようになっていました。また以前なら動揺していたような場面に出会っても、特に何も感じなかったということが何度もありました。以前あった「自分は弱い」という思いはただの間違った思い込みであることに気付かされました。そして生活全体の波が以前よりも少なくなり、瞑想の時に落ち着いて座れることが増えていきました。

現代はストレス社会と言われていますが、ヨーガに取り組むことで、ストレス社会の中にいながらも真実だけを見つめて生きていこうと実践することができるのだと思います。ヨーガは、ヨーガの守護神であるシヴァ神が作ってくださったと言われていますが、「ヨーガに取り組むことができる」ということそのものの中に神様の愛を感じます。そしてアーサナの実践は、身体だけでなく心にも変化を与えてくださいました。きっと神様はその人が理解できる方法で導いてくださっているのだと思います。ヨーガとの出会いに感謝し、師であるヨギさんの教えだけを見つめて、もっともっとヨーガを深めていきたいと強く願います。

船勢洋子


ラーマクリシュナとの約束

冬に向かう秋ごろから瞑想専科クラスの課題として『ラーマクリシュナの福音』を毎日読みだしましたが、心の中に春の芽生えの予感のように、新しい習慣が生まれつつあります。クラスはもう終わりましたが、そういう種を蒔いてくださっていたのだなぁ~と今になって気付きます。

私は、これまで好きな時に好きなように聖典を読んでいました。でも、必ず毎日読む、と決意してからは、ちょっと大袈裟かもしれませんが、意識して行なうことで、ある意味、儀式のような感じにもなってきて、聖典を読むことはアーサナと瞑想と同じ位置付けになってきていました。

最初は「毎日読むことがクラスに参加する上での約束事だから」「約束したから約束を破りたくない」という一心でした。しかし、だんだんとそれが、ラーマクリシュナと私の約束のように変わっていきました。大事に本棚に仕舞っていた本でしたが、ラーマクリシュナと私の約束だと思いだしてからは、絶対に約束を忘れないようにと、いちばん自分がよく見る祭壇のようなスペースに本を置きました。表紙にはラーマクリシュナのお顔が大きく描かれています。平置きするととても目立ちます。読み始める時も、読み終わった時も、ラーマクリシュナのお顔に始まりお顔に終わります。大切な本を出しっぱなしにしておくのはどうかとも思いましたが、いつもお顔が見えるので、こっちの方がいいなと今は良しとしています。

毎日行なうべきことして、アーサナ、瞑想、聖典の学習、この三つをすることをクリヤーヨーガと学んできました。ただ白状しますと私は「聖典の学習」については師から真理の教えを直接学ばせてもらっているのだから「毎日」というのはそんなに重要視しなくていいかも、ととらえていました。

ところが毎日読みだすと、例えばクラスの良さは自分が体感してみない限り、人から聞いているだけでは実際には分からないのと同じように、聖典も自分が毎日読んでみて初めて、なぜ毎日なのか?がだんだん分かってきました。

真理の言葉を毎日聴こうとすることに意味がある、と私には思えました。目で読んではいますが、頭の中では聞いている感覚になるのです。ラーマクリシュナの声を実際に聞きたいですが、今は本を通して声を聞かせてもらっていると信じています。真理の言葉は、それがたとえ文字であっても真理そのものだと私は思っています。真理に毎日触れる、聴く、という、それがなければ何も始まらないんだ、それは自分が意識しないといけない、と感じました。師から、「真理はまず聞いて、考えて、そして瞑想して」と言われているからです。また、読むための時間を捻出しようとすることで、自然と気持ちも神聖なものへと向けられました。

毎日、ラーマクリシュナとの約束で私は繋がっていられるような気がしました。約束というものによって、信仰心が芽生えるよう導いてくださっているようでした。毎日読みます、という小さな小さな誓願を、ラーマクリシュナは大切にしてくださり、じっと見守って待ってくださっている気がします。決めて、そして誓願することは、ささやかな始まりのように感じました。

師の存在がなければ、聖典をただの本ではなく聖典として、こんなリアルには感じられないと思います。聖典の教えは、師の存在と教えを理解する助けになり、真理と強く結びつけてくれます。両輪のように導かれ、支えられます。毎日読むと、自然にいろんなことが日常にもリンクしてきて、面白いなと思います。

そして今日も明日も、ラーマクリシュナとの約束はこれからも続きます……。本を開けば、ラーマクリシュナが待ってくださっています。

ラーマクリシュナ御聖誕の日に。

 

 野口美香