ラーマクリシュナの弟子たち」カテゴリーアーカイブ

永遠の伴侶 〜心の掃除〜

シュリー・ラーマクリシュナの直弟子、スワミ・ブラマーナンダの教えをご紹介しています。

ある朝、スワミ・ニャネーシュワラナンダがまだ寝床も整えず、あたりを散らかしたまま急いで部屋を飛び出した。かれはマイダン(部屋のそばの広い空き地)でスワミ・ブラマーナンダに会った。かれが敬意を表すると、驚いたことにスワミ・ブラマーナンダが、「私を君の部屋に連れて行け。君の寝る場所が見たいのだ」と言った。スワミ・ニャネーシュワラナンダは恥じて、「もう少したってからおいでくださるわけには行きませんか。あなたがお越しになるとは思わなかったので、部屋はお迎えするにふさわしい状態ではございません」と答えた。スワミ・ブラマーナンダは言った。「我が子よ。いつも私を迎えられるようにしておかなければいけないのだよ」

ヨーガを学んでいる中で、次のような問答に出会いました。
「人はなぜ愛し愛されたいのか、人はなぜ幸福になりたいのか」
「なぜなら人は、その本性が愛であり至福だからである」
師からこの教えを授かった時、「なんと明瞭な答えなんだろう」と私は大変驚き、納得したのでした。そして師は、私たちが本来の愛そのものに立ち返ることができるように、他者に愛をもって献身奉仕し、その愛の姿を実際にこの世で表していきなさいと繰り返し教えてくださっています。私はまだまだ、この献身奉仕の本当の意味は分かっていないのかもしれません。でも心の中にいろいろな無知や煩悩などの余計な不純なものをかかえたままでは、とうてい自分自身を愛で満たし、他者へ献身奉仕をすることなどできるはずもないということは分かるようになりました。

スワミ・ブラマーナンダのこのエピソードは、本当の愛に戻りたいのなら、いつもその目標を見据え、常日頃の心がけや行ないを伴わせるよう、その努力と準備を怠らないように励みなさいと教えてくださっているのだと思いました。 

ダルミニー

 


永遠の伴侶 〜心の目撃者であれ〜

今回はシュリー・ラーマクリシュナの高弟であるスワミ・ブラマーナンダの生涯と教えが書かれてある本『永遠の伴侶』より、その教えをご紹介いたします。

君たちに一つの秘訣を話してあげよう。今は君たちにはその意味が十分に分からないかもしれないが、やがては、その真理が明らかになるであろう。そしてこの真理というのは、あらゆる人の意志と心はかれを次第に善に向かって導いている、というものだ。悟りを得ている教師たちの中のある人々は、次のような修行方法があることを教えてくれている。
心も意志も行きたがる方に行かせておけ、好きなようにさまよわせるがよい。しかし常に寝ずの番をし続けよ。目撃者であれ。このように、もし求道者が本当にそれらを好きなように行かせながらも絶えず見張りをしているなら、心もしばらくの間は汚らわしいものや空しいものを追いかけているかも知れないが、やがては必ず善の方に向かって進むようになる、というものである。

 ヨーガを学び始めたばかりの頃、師より「心は精妙な物質である」ということを教えていただき、非常に驚きました。身体は粗大な物質で、心もそれと同じ物質なのだと思ったとき、少し心を客観視するようになったのでした。そんなときに出会った「目撃者であれ」というこのスワミ・ブラマーナンダの教えは、さらに心を客観的に観る訓練になったのです。
客観的に観ることができるようになってくると、例えば「今、自分は怒っている、そんなに腹を立てなくてもいいではないか。なぜそんなに腹が立つのか?そんなヨーガの教えに反することは止めよう」と冷静に心を制御できるようになっていきました。そのようにして、少しずつ、少しずつ、心は心を単純に眺められるようになり、想念に巻き込まれたり、堂々巡りしたりすることが少なくなっていったのでした。今も自分の心を常に見続けることをやり続けていますが、そうすることによって、心は心の間違いに気付き、だんだんと素直になって、真理というものに憧れをもち、理解もできるようになっていっているように思います。
スワミ・ブラマーナンダは「あらゆる人の意志と心はかれを次第に善に向かって導いている」と教えられていますが、本当は心だって純粋になりたいはずだし、いつまでも無知迷妄の中にいたくはないはず、次第に善に向かい、悟りに向かっていくものなのだと思いました。心の目撃者であることを、心自体が純粋になり、真理が現われてくるまで、真剣にやり続けようと思ったのでした。

ダルミニー


ラーマクリシュナの直弟子―トゥリヤーナンダに導かれて

先週末の日本列島に寒気が訪れた2月9日(土)、師シュリー・マハーヨーギーはNYご布教のためご不在でしたが、たくさんの熱心な弟子たちがマハーヨーギー・アーシュラマに集まり、弟子たちによるサットサンガが行なわれました。

2月9日の弟子たちによるサットサンガ

この日は、19世紀の大聖者シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサの直弟子たちに焦点を当て、4人のスピーカーがそれぞれの理想とする直弟子のエピソードや教えを紹介しながら、自分自身の実践と理想について熱く語り、皆で思いを高めていきました。

今回そのうちの一人である、野口美香さんのお話を、追記抜粋編集してご紹介したいと思います。本当に寒気を吹き飛ばすかのような迫力のある熱を感じるお話でした。


私はトゥリヤーナンダの強い信念と、神への信仰心、師への信仰心に憧れています。

トゥリヤーナンダは、すべての行為を母なる神への礼拝としなさい、母を思いなさい、ということを強調されています。生涯師の教えに従って、母なる神を思い生きていかれました。そしてご自身が実践してきたからこそ、人々にも常に母を思いなさい、母だけを頼りなさい、行為を母への礼拝としなさいというふうに伝えていかれました。

スワーミー・トゥリヤーナンダ

どのようにすれば自分の生活の中の行為を、トゥリヤーナンダのようにできるのでしょうか。花も虫も、動物も人もすべてを同じように本当の意味で大切にしていけるようになりたい!と私は思うのです。

トゥリヤーナンダの生涯が書かれている『神を求めて』の本の中で、とても印象に残っているシーンがあります。

トゥリヤーナンダが、ベルル僧院に住んでいた時、若い修行僧たちを訓練するために、常に一緒にご自分自らが、いろんな仕事をこなしていかれていました。
ある時、調理できるように処理されなければならないたくさんの野菜があったので、見習い僧たちと一緒にその仕事をされます。その仕事の途中で、朝食を知らせるベルが鳴りました。もう少しで仕事が終わるから、この仕事が終わってから朝食を摂ろうとトゥリヤーナンダは言われます。そして仕事が終わってから、食堂へ行くと食べ物は何も残っていませんでした。普通は、後から来る者たちの分はとっておかれることになっています。
それで、トゥリヤーナンダは係りの見習い僧に、「われわれの食事はどこにあるか?」と尋ねます。その見習い僧は、「皆さんにとっておいた分は、プレマーナンダが不意に来た信者に上げてしまわれました」と答えます。プレマーナンダも、ラーマクリシュナの直弟子である方です。
トゥリヤーナンダは、「なぜそれが私たちの分であることをプレマーナンダに話さなかったのか」と尋ねると、
見習い僧は「どうして、私が非常に偉いスワミにそんなことが申し上げられましょう」と言います。
トゥリヤーナンダは、「なぜできないのか。もし君が彼を本当に愛しているのなら、彼が知らないことを知らせてあげることをなぜ躊躇するのだ。愛している者に向かっては、何でも話すことができるはずだ。人を愛する時、どうしてそこに恐れなどがあり得よう」と言いました。

このエピソードを初めて読んだ時、本当にそうだと思いました。トゥリヤーナンダの一点の曇りもない、真っ正直な言葉が自分の中に広がっていきました。見習い僧のとった行動が自分の傾向と似ているように思え、「なぜできないのか?」というそのトゥリヤーナンダの言葉に、私自身の問題に対しても、「なぜできないのか?」と考えさせられ、この言葉が胸に突き刺さりました。

このエピソードがずっと私の心に刻まれていて、こういう場面に自分が出くわすと、この教えが自然に浮かび、力を与えてくれるようになりました。

もし自分の役割に徹するならば、その食事は後から来る人たちのために取ってあることを伝える必要があったし、そこに何の計らいも必要ありません。相手がどういう立場の人であっても、遠慮したり、気付いているけれどしない、というのは、どこかに自分を守ろうとしている弱さがあるからです。誠実とは真逆のことになります。そんな行為は、神に捧げられないと思います。

トゥリヤーナンダは、「礼拝の精神で行なわれる仕事は、現代に相応しいたった一つの霊性の修行である。すべてを母なる神への礼拝として、母に捧げなさい、そしてただ誠実であれ」というふうに言われています。
誠実であるためには、些細なことですが、自分の弱さや余計な計らいがたとえあったとしても、それに気付いたなら、すぐさま無視して、自分の中の真理への信念を貫くという強い意志が必要になるのだと思います。
毎日の中の小さな仕事を礼拝として行なうためには、その些細な矛盾をなくしていかないといけないと思っています。自分に与えられた役割に全注意力を向けて、少しの計らいも入らないほど集中する訓練を繰り返ししていこうと思います。
トゥリヤーナンダがラーマクリシュナの教えに従って信仰を貫いて生きていかれたように、私も師であるヨギさんからいただいた教えを貫いて生きていきたいです!!!

今の私に最も響くトゥリヤーナンダの言葉を紹介します。トゥリヤーナンダはこの言葉をたびたび繰り返されたそうです。

あなた自身であれ、強くあれ。悟りは強く、純粋で、真っ正直な者だけに与えられる。自分はアートマン(真の自己)である、ということを忘れるな。このことはあなたに最大の力と勇気を与える。勇敢であれ。マーヤー(無知)の束縛を断ち切れ。ライオンのようであれ。何事にあってもびくびくするな!スワミジ―(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ)はあなたに、あらゆる魂は内に神性をひそませている、と教えたであろう。自己の神性を悟れ。そのときにあなたは、すべての魂は神である、ということを悟るであろう

野口美香

サットサンガにて話をする野口さん。


夏休みの思い出〜神と一つになる〜

ある時、師であるヨギさんがもっと神と一つになるようにと私におっしゃられたことがありました。神と一つになる、か・・・・・・と考えていた時、インドの大聖者シュリー・ラーマクシュナが弟子であるヴィヴェーカーナンダに授けた次のような教えが心に留まりました。

「愛のネクター(甘露)がビンの中に入っているとしたら、お前はどのように楽しもうと思うか」とおたずねになり、ナレーンドラは「私はネクターの入っているビンのふちに座って、そこから吸いましょう」と答えた。師は微笑され「なぜ中に入って吸わないのか。ビンの真ん中に入って吸えばよいではないか」とおっしゃった。「いいえ、そんなことをしたら死んでしまいます」シュリー・ラーマクリシュナは「そういうものではないのだよ。人は愛に溺れてもけっして死にはしない。それはアムリタ、不死そのものなのだから」と笑いながらおっしゃった。

ひとたびこの愛の味がわかると、魂にとってこれ以上ほしいものは何にもなくなる。この歓びは無限であり、何ものによっても増やすこともできなければ滅することもできない。

この教えに触れて、私の中で「神の愛に溺れたい!神と一つになりたい!」という思いが強くなっていき、しばらくは甘美なムードに浸っていたのですが・・・・・・。そのムードは小学校4年の娘が、夏休みに入るとともに消えていきました。

夏休みに入るといきなり、「学童に行きたくない!」と娘が泣き出したのです。事情を聴くと、仲の良い友だちが一緒に行ってくれなくなり、学童で一人ずっと過ごしているようでした・・・・・・。それからは家で一日どのように過ごさせるかや、お昼ご飯の準備などで頭の中はいっぱいになり、神よりも娘に集中する時間の方が多くなっていきました。娘と友だちの関係で気をもみ、一緒に遊ばせる段取りを組んだり、娘にこういうふうに考えたらどうかなとくどくど話したり、どうしてこんな簡単なことが理解できないのだろう・・・とイライラして感情的になったり、お世辞にも娘と調和がとれたようなものではありませんでした。

これではいけないと思って考えていると、娘が生まれた時、ヨギさんから「大らかに育ててください」と言われたことをふと思い出しました。私は自分の経験や価値観という小さな枠で彼女を見ている。物差しを当てず、常に自分を空っぽにする努力をして、彼女と向き合おうと思いました。

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

そうして幾日が過ぎ、地蔵盆(※関西地域で行われる子どもたちの幸せと健康を願う行事)の日がやってきました。お布施をもって会場に行くと、先に行っていた娘が他の子どもたちと離れ、一人でポツンと寂しそうに遊んでいるのです。娘は私に気付くと(みんなで楽しく遊んでいるよ)と気遣って気丈に振る舞っているように見え、居たたまれない気持ちになりました。

その夜、娘の寝顔を見ながら、私は申し訳ない気持ちになって泣きながら謝っていました。この子の存在を自分は本当に尊んできたのだろうか、この子が友だちと楽しく過ごせるような環境を整える努力が、もっと必要だったのではないだろうか・・・・・・。・・・・・・でも・・・・・・友だちと仲良くなれるようにできるだけ努力をしてきたし、考えても、考えても、もう何をどうすればいいのか分かりませんでした。

シュリー・ラーマクリシュナの弟子であるトゥリヤーナンダは、『すべてのなやみを母(女神)のもとに持っていけ。彼女は一切の誤りを正して下さる、母を知れば、他の問題はなくなる。あなたが、自分を彼女に捧げ切ったとき、一切のものを新しい光の中で見るようになる。そして、この世の生活を問題にする必要のないことを知るのだ』と言われます。

もう神に祈るしかできない!という切羽詰まった思いで、ヨギさんとトゥリヤーナンダのお写真を前におき、瞑想に座りました。瞑想の後寝床についた時、突然聖なる力が私を押し上げ、ヨギさん、トゥリヤーナンダ、私、3つの意識が一つとなって、万物が展開していくビジョンが見えました。

意識が肉体に戻ったとき、すべては私が神から目をそらさないように神がなされていたんだ、と思いました。そして自分がすべきことは神だけを思うこと、という確信がありました。甘美なムードに浸るという漠然としたものではなく、日常としっかり向き合うことで神と一つになれるということが分かりました。

そして娘にとっての人生の目的もやはり、神と一つになること。友だちと楽しく過ごせるに越したことはないですが、友だちと一緒にいて安心することではないのです。親としてしっかりとそのことを踏まえ、関わっていきたいと思いました。

その出来事のあと、不思議と娘の状況はどんどん良くなっていきました。近所の子とまた自然に家を行き来するようになり、同級生が遊びに来たりするようになりました。また、他のお母さんたちと話すと少なからずどの子も同じようなことで悩んでいて、そういう多感な時期であることが分かりました。

こうして娘の夏休みは幕を閉じました。そして私の信仰をより強くしてくれたのでした。

amara


美しい世界が見たい

家庭を持ち、子育てをし、仕事をしていると、職場関連、子供の学校習い事関連。親戚関連など、本当にいろんな人とお付き合いする機会があります。

人と接する時、心に留めている言葉があります。

「トゥルシダスは『善い人にはこの世は善で満ちている。しかし悪い人にはこの世は悪で満ちている!』と言っている。この世は善くも悪くもない。私が善と呼ぶものをあなたは悪と呼ぶかも知れないし、その逆もあるだろう。何処に標準があるのか。標準は、人生に対するわれわれ自身の態度の中にある。各自がかれ自身の標準を持っているのだ。しかも経験と洞察力とが深まれば標準も変わって行く。残念なのは、われわれがまだ悪を認める、ということだ。われわれ自身が完全に善になったら、全世界が善として現れるであろう。われわれは自分の心の投影を見ているにすぎないのだ。常に一切万物の中に主を見よ。そうすればあなたは悪を見ないだろう。疑い深い心はあらゆる処に悪を見る、信頼の心は善だけを見る』

「だが、誰が理解しようとするか。誰もかれもが自分のエゴの中に閉じこもっている。その牢獄の中から、われわれは世界を判定する。治療法は、すべてのものの中に主を見ることである。」(スワミ・トゥリヤーナンダ)

人間関係でこじれるときは、よくよく考えると、結局どんなときも、自分の中に疑いの目があったことが分かります。神だけを見て謙ることが出来たとき、そこには美しい世界が広がります。

疲れていたり、自分を調えられていない時は、濁った目で人を判断しがち。

アーサナ・瞑想、真理の学び。地道なのだけれども、やっぱりこれらのクリアヨーガを毎日行うことが、素直に飛び込んでいける秘訣なのだと思います。

いつでも、どんなときでも、神だけしか見えない人に、なりたい。

京都のとある公園、桜の花が少し咲き始めていました。


ラーマクリシュナの福音

みなさん こんにちは
もうすぐシュリー・ラーマクリシュナの御聖誕日です。

近代のインド最大の聖者と仰がれる、シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサは1836年2月18日に、インド西ベンガル地方のカーマールプクルにお生まれになりました。幼い頃より、高い霊的ムードに没入していた彼は、やがて最愛の聖母神カーリーを見神します。その後すべてのヨーガを実践、不二一元を大悟し、イスラム教やキリスト教も悟り、「万教は一なる真理への多様な道である」ことを説かれました。慈愛に満ちた神の化身によって顕わされた永遠普遍の真理は、愛弟子ヴィヴェーカーナンダによって世界中に福音となっていったのです。


シュリー・ラーマクリシュナ

シュリー・ラーマクリシュナは福音の中で、微笑しながら、少しどもってお話しになったり、若い男の子たちと友達のように大はしゃぎされたり、腹を抱えるほど爆笑されたり、歌を歌いつつサマーディーにお入りになったり、分かりやすい例え話を挟んで、さまざまなグルの面を弟子たちや訪問者にお見せになりながら、神の話をなさっています。

そしてシュリー・ラーマクリシュナはグルの恩寵について、こう説かれています。
「人には八つの足かせがある。しかしそれが何だというのだ。これらの足かせは神の恩寵によって一瞬のうちに落ちてしまうのだよ。それがどういうものか分かるか。ある部屋が一千年の間、真っ暗だったとする。誰かが灯火を持ち込んだら、その瞬間に闇は消えるのだ。少しずつではない。お前、魔法の早業を見たことはないか。彼はたくさんの結び目のあるひもを手にしている。その一方の端をなにかに結びつけ、他の一方を自分が持つ。そして二、三回そのひもを振り回す。するとたちまちすべての結び目は解けてしまうのだ。しかし別の男がどんなに試みても、それらの結び目を解くことはできない。無知というすべての結び目はグルの恩寵によって瞬く間に解けるのだ」

インドでは生涯をかけてグルを探し出すといわれています。グルと巡り会うことは本当に希有な吉祥な縁ゆえだといわれています。『ラーマクリシュナの福音』の筆者であるM(マヘンドラナート・グプタ)は、初めて自分のグルであるシュリー・ラーマクリシュナに出会った時のことをこう書いています。

「なんという美しいところだろう! なんという魅力のある人だろう! なんという素晴らしいことを言うのだろう! もうここから動きたくない!」

聖者との出会いは、人がその意味を知ろうと知るまいと、その人の心に神聖な印象を残します。
みなさんも師との出会いの時を思い出されましたか?
『ラーマクリシュナの福音』の中には、師と弟子の美しい物語もまた繰り広げられていると思います。ここでシュリー・ラーマクリシュナの弟子の中でも、そしてラーマクリシュナ僧団の中でも、スワミ・ヴィヴェーカーナンダと双璧をなした人物、スワミ・ブラマーナンダが残した祈りの言葉をご紹介いたします。

「私は主に、物質界の意識から完全に解放してくださいと祈ります。グルの蓮華の御足の中に浸りきりでいられますよう、どうぞお恵みください。これが心中の、たった一つの願いです」

 グルこそすべて!

ジャイ シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサ キー ジャイ

ダルミニー

 


ヨーガはライフワーク

シュリー・マハーヨーギーは昨日台湾からご帰国されました!初めての師の台湾ご訪問でしたが、実にたくさんの道を求める台湾の人々が真実の師に巡り会えたことに歓喜し、師の存在と教えに魅了され、ヨーガの道に一歩足を踏み出そうとしているようです!彼の地に新しいたくさんの仲間が増えることを、心から嬉しく思いますし、これからが本当に楽しみですね!師との吉祥な縁によってヨーガが一層台湾に根付いていくことでしょう!すぐにブログでもご紹介できればと思います。

そして、師は今週末は松山での特別サットサンガに向かわれます。松山ヨーガ・サークルにて、5月20日(土)14:00〜16:00、5月21日(日)14:00〜16:00の2回行なわれます。とても貴重な機会ですので、皆さん、ぜひご参加ください!

さて、その松山に17年前に師と共に初めて訪問した際、師から「ヨーガはライフワークです」と言われたことを鮮明に覚えています。実はその時はよくわからなかったのですが、最近はその意味を実感します。今日はそのことについて書いてみたいと思います。

ライフワークとは、生涯をかけて成し遂げる仕事という意味です。畢生(ひっせい)の事業です。師はヨーガを成そうとすることは大事業だと言われます。

この社会のどんな事業も人の心が欲して成し遂げられ、人々に影響を与えますが、その心そのものを浄化し、人間を完成させるヨーガは、時を越えて多くの人々に恩恵をもたらす大事業になるということです。ブッダが成し遂げられたことは2500年経った今なお人々に恩恵をもたらし続けています。

それに気づいたのは、ナーグ・マハーシャヤというシュリー・ラーマクリシュナの直弟子の生涯を記した伝記『謙虚な心』を読んでいる時でした。ナーグ・マハーシャヤの生涯は、神への信仰とはどういうものなのか、そして謙虚さとはどういうことなのかを、人々に伝えるために捧げられたものだと思いました。神への純粋な信仰に生き切ったナーグ・マハーシャヤの生涯は、不滅の力をもって、私たちに真理を伝える力を持っています。その力は衰えることなく、未来に渡って道を求める多くの人間の魂を呼び起こし、心を変容させる力を持ちます。


ナーグ・マハーシャヤ

誰でもが、神への信仰や謙虚さを語ることはできるし、パートタイム的に行動することもできるけれど、その本当の意味は、生涯をかけて生きることで初めて伝えられることなのだと思いました。思いや言葉、行動の全てが100%それになって初めて、存在そのものが純粋な信仰となり、謙虚さそのものとなり得るのでしょう。それは生涯を捧げることによってしか成し遂げられないことなのだと思いました。それまではどれほど言葉巧みに語ろうと、単なる戯言に過ぎないのかもしれません。

ナーグ・マハーシャヤの生涯は、どこまでも神の僕であり、謙虚さが人の姿をとって顕れた存在だったのです。何の説明がなくとも、人は彼に会っただけでそれを感じざるを得なかったのです。

聖者と呼ばれる方々の生涯は、まさに真理の中に、神の中に生きた生涯であり、その尊い足跡は、永遠に輝き続けるのだろうと思います。ヨーガとはそのようなものであり、ライフワークとして、生涯をかけてやり遂げる理想と志を持つことがとても大切なことだと思いました。

サーナンダ