聖者と教え」カテゴリーアーカイブ

タパスと沈黙

新型コロナウィルスの感染拡大のため、不安な日々が続きますが、皆様、元気にお過ごしでしょうか?
私は介護職ですが、移動支援はほぼ中止になり、利用者の方も外出自粛を余儀なくされ、また職場の嵐山は外国人観光客も減って、いつもの賑わいは陰りを見せています。
世界的に活動規制がなされてきているため、いかに人とこの世の中が動的な性質を帯びているかを肌で感じずにはいられないほどです。
そんな状況下の中、自宅で過ごす時間が増えた方も多いかと思います。
私自身も自宅での時間が増えたため、改めてヨーガの基礎であるヤマ・ニヤマ(禁戒・勧戒)について考え、その教えが掲載されている過去の『パラマハンサ』を読み返したりしていました。

『パラマハンサ』(No.94)では「タパス(苦行・熱)」についての問答があり、それを読み返すと新たな学びがありました。
タパスとは「苦行」「浄化の熱」、それによって「快不快、暑寒などのあらゆる心身の二元性を克服する」という意味がありますが、師はその言葉のさらなる意味を明確に説かれていました。

「二元性を超えるということは、感覚や心の制御が自動的に達成された一種の悟りの心境でもある。心の統一性、サットヴァ性、そういう心のきれいな鏡の状態。ウパニシャッドの言葉では、『タパスによってブラフマンを知れ』、『タパスはブラフマンなり』という言葉もある。それはタパスによって二元性を超えるから、すなわちブラフマンの領域になる」

「二元性をつくっている大きな原因の一つはアハンカーラというエゴ意識です。これが自と他を区別し、二元性の大きな象徴でもある。この二元性がなくなっていけば、自と他の観念が壊れ、エゴ性に替わってアートマン、神という一つの存在が正しい位置を占めるようになる」

ーーシュリー・マハーヨーギー

これは私がヨーガを始めた頃の2012年の教えですが、二元性の根源を説き明かし、タパスのさらに奥深い意味を教えてくださっていた師に、私は改めて心より感服致しました。
また最近私が惹かれている20世紀インドの覚者ラマナ・マハリシは、「内面において静寂を保つという行為は、心のすべてをもって行なわれる激しい活動であり、中断されることはない。他のどのような方法によっても打ち壊すことのできない無知は、『沈黙(マウナ)』と呼ばれている激しい活動によって完璧に打ち壊される」と述べていますが、この「沈黙の激しい活動」とは「タパス」と同義だと感じました。

活動自粛で自宅で過ごす静かな時間は増えましたが、私自身、内面はヨーガの激しい活動でその情熱を燃やしていきたいと思っている次第です。

ゴーパーラ


ラーマクリシュナの例え話

梅の開花便りが聞かれ、日差しに春の訪れを感じますね

久しぶりに「ラーマクリシュナの福音」を手に取り、パラパラとページをめくっていると、私の好きな例え話が目に入ったので、ご紹介します。

ラーマクリシュナは、誰にでもわかるように、目に見えない真理や神を分かりやすい例え話にして教えを説かれることがあります。「どのようにしたら真理を実現できるでしょうか」と言う信者からの問いに対して、このように答えておられます。

「祈ることによってすべての魂はあの至高の霊と一体になれるのだ。どの家にもガス栓がつけてある。ガス会社からガスがくるようになっているのだ。だから、申し込め!申し込みさえすればガスをよこす手配をしてくれるだろう。部屋に明かりがつくだろう。シアールダハに事務所があるよ(一同笑う)」

おそらくシアールダハは実際にガス会社のある場所の名前ではないでしょうか。ユーモアがありますね。私はこれを読んだ時とても素直に「そうや、申し込まなあかん」と思ったのですが、それにはある経験が関係しています。

私は少しの期間ですが外国に住んだことがあります。知り合いがいなかったので、自分で住む部屋を探し、契約し、家具を揃え・・・ととても大変でしたが、屋根裏にある小さな部屋に落ち着きました。お茶でも飲むかとガス栓をひねったとき、ガスがきていないことに気が付きました。水道も電気も申し込みしなくても(おそらく大家さんがしてくれていた)そのまま使えることになっていたので、ガスについて聞くことをすっかり忘れていました。なぜかそのとき、私は備え付けのガスコンロの方に不備があると思い、大家さんに電話するも繋がらず、どうしようかと思っていると、隣に住む人が訪ねて来ました。ガスコンロに不備があると話すと、彼は、「違う!違う!申し込んでないから!今すぐ申し込め!」と言うのです。そこで、彼はすぐにガス会社に電話をかけてくれたのですが、私の語学力が追いつかず、電話でのやり取りは無理と判断され、直接事務所に行くことになりました。その日は営業時間に間に合わず、次の日の午後、仕事と仕事の合間に行ったのですが、昼休みで対応してもらえず、次の日に行くも、申し込むために必要な書類が揃っていないと帰され、書類をそろえるのにもさらに時間がかかり、土日は対応してくれない・・・・何日もかかって、やっとの思いでガスが使えるようになったことを覚えています。そんな苦労話もすっかり忘れていましたが、この例え話を読んだとき、そのことを思い出しました。

ラーマクリシュナの「申し込め!」の言葉とあの時の隣人の「申し込め!」がリンクして、なんとも忘れがたい例え話となりました。そうです、必要であれば申し込まなければならないのです。「私はガスが必要です」と同じように「私は真理が必要です、真理を実現させてください」と神に祈らなければならない。あの時、少し?(実際にはかなり・・・)手間はかかったけれど、申し込んだ途端にガスが来るようになったように、きっと申し込み続ければ、その思いは実現されるのではないかと思わせてくれました。

 


ラマナ・マハリシの純粋な衝動

「そこにエベレストがあるから」

これは、ある有名な登山家がエベレストに登る理由を聞かれて答えた言葉ですが、多くの方が一度は聞いたことがある名言ではないかと思います。
この登山家の言葉の動機背景については詳しく知りませんが、理由なく、ただただその対象に魅了され、すべてをなげうつほどの「純粋な衝動」のようなものが訪れると、その人の人生は変わると感じます。

約一カ月前に掲載したブログ「ラマナ・マハリシの祈り」では、ラマナ・マハリシが高校生の頃、真我の体験をした後、神への渇仰心が湧いてきたことに触れました。
ラマナ・マハリシはこの体験をした六週間後、家族も友も学校もすべて棄て、シヴァ神そのものである聖なる山「アルナーチャラ」へと旅立ちます。
そして生涯、そこから離れることはありませんでした。

ーーなぜ真我の体験後、ラマナ・マハリシはアルナーチャラへ旅立ったのか?
ーー真我に目覚めていながら、神への渇仰心が起きたり、アルナーチャラに行く必要があったのだろうか?

当然そんな疑問もよぎりますが、出家後にラマナ・マハリシを訪ねてきた友人が「どうして私に家を出ることを教えてくれなかったのか?」と問うと、ラマナ・マハリシは次のように答えたそうです。

「自分自身にも分からなかったことを、どうしてお前に教えることができただろうか」

ラマナ・マハリシは子供の頃から不思議と「アルナーチャラ」という名前に興奮を感じ、それが本当に実在する山だと知った時は叫び、歓喜したそうです。
そしてすべてを棄ててアルナーチャラへ旅立つ時、彼は「まるで大きな洪水に運び去られるかのようだった」とも言っています。

このラマナ・マハリシの出家のエピソードに触れると、「世俗の放棄」というのが、現実逃避という弱々しいものではなく、どれだけ「強烈な力」であったのかということを感じずにはいられません。
青春真っ只中の高校時代、自分が完全に世俗を放棄しようと思えただろうか?
ラマナ・マハリシに起きた真我の体験も、アルナーチャラへの旅立ちも、世間的常識や心の範疇を遥かに超えた「神の力」、それが働いたとしか思えません。

そしてこのエピソードは、ブッダが真理を求めて家族や王子という地位を棄て出家したこと、シュリー・ラーマクリシュナのカーリー神への狂気的バクティ、また我が師シュリー・マハーヨーギーが高校時代に誰とも話さずに独りこの世界や心の理について徹底識別をされていたこと、それらアヴァターラ(神の化身)たちの「純粋な衝動」、それを思い起こさずにはいられないのでした。

一修行者として、真理、真我、神だけを求めてすべてを放棄する純粋さ、120%それになれるよう、日々精進していきたいと願います。

ゴーパーラ


ラマナ・マハリシの祈り

皆さま、こんにちは。
新年が始まり1週間経ちましたが、お正月はいかがお過ごしでしたか?
初詣に行かれた方も多いのではと思いますが、今回のブログは「寺院に詣でる」ことに関してです。

昨年末から私は、20世紀のインドの覚者であるラマナ・マハリシの『沈黙の聖者』を読んでいます。
ラマナ・マハリシは高校生の時、突然襲ってきた死の体験後、「真我(本当の私)」に目覚めました。

この覚醒後、ラマナ・マハリシは世俗のことに関心がなくなると同時に、高校に行く途中に通るミーナークシ寺院の参詣が一変したというのです。

「以前は友人たちと時々参拝して、ご神体を見学したり、恭しく聖灰と朱を額につけたりして、そこを辞去する時にもほとんど心を動かされることはなかった。しかし覚醒の後は、ほとんど朝夕ミーナークシ寺院に参拝するようになった。
『私は肉体である』という考えを放棄したとき、魂は肉体にすがることを諦めた。魂は新しい拠り所を得ようと必死であった。私は寺院を訪れ、涙に暮れることもしばしばあった。これは、神が魂と戯れているのであった。私は時々、全知全能にして世界とすべての生きとし生けるものの運命の統制者であるイーシュワラ(主宰神)の前に立ち、六十三聖者の魂のように私の信仰心が増し、それが永続的になるように神の加護を祈った。私は祈ることはほとんどなかったが、内なる意識の深奥から湧き出て、それを越えた深奥へ流れ込んでいくものを静かに見守っていた」

ーーラマナ・マハリシ

形式や慣習、現世利益ではなく、神への渇仰から寺院を参詣するラマナ・マハリシのハート!
真我の体験後、ラマナ・マハリシの中で神に祈るほどの強烈な信仰心が同時に起こったのかと私は初めて知り、心打たれました。

ミーナークシ寺院(沐浴場と塔門)

六十三人のシヴァ派の聖者の像

今年私は初詣には行っていませんが、今年の目標である「ヨーギーで在ること」に向かって、真我への瞑想をスタートしています。
2020年、目標が達成できるように、祈り、瞑想し、日々の暮らしの中でヨーガを行為として実践していきたいと願います!

ゴーパーラ


識別とヴィヴェーカーナンダ(最終回 )& 今年の締め括り

2019年も残すところ、あと2日になりましたね。
皆さま、年末をいかがお過ごしでしょうか?

さて、今年の私の目標は「徹底識別」ということで、この「識別とヴィヴェーカーナンダ」の連載をスタートさせ、ヴィヴェーカーナンダ、おもにその著作『ギャーナ・ヨーガ』を通して、識別を学んでいきました。
また同時に、私自身の心が執着している世界の対象と、それに対する心の動機というものにも「常浄楽我」という真理を当てがって識別を行ない、世界と心の働きにリアリティという実在性がないことを見極めていきました。
しかし依然として、心には「私」と主張するエゴ意識があり、どのようにしてエゴ意識がなくなるのか分からず、識別も難航していました。
そんな時、10月のサットサンガで師にその打開について尋ねると、師は大きなヒントを与えてくださいました。
それがサーンキヤ哲学が説く二十四の原理ーーエゴ意識が発生する前段階の「ブッディ(認識)」ーーその教えです。

「アハンカーラ(エゴ意識)のもう一つ始まりにあるブッディ(認識)というものだけれど、このブッディがすべてのナーマ・ルーパ(名前・形)をつくり出す原因になっている。だから必然的に私意識の源にいけば、そのナーマ・ルーパというものの正体というか、それの根源の方に行き着くことになって、ナーマ・ルーパというものもこの世界が展開するときに発生したものだから、それらは消えていくことができます。消えていくというのは、プラクリティという根源にそれを引き戻すという、実際には消えていくという関係です」

この教えを聞いて、「ブッディ(認識)があるから自分と他者、世界の区別ができ、エゴが成り立ってくるのか」と感じ、目から鱗でした。
そこで私は、エゴ意識に常浄楽我を当てがうということから、エゴが出てくる源のブッディ、そしてプラクリティを辿っていく二十四の原理の瞑想を行なっていきました。それと同時に、二十四の原理の教えと類似している十二因縁の瞑想も行ないました。
その瞑想を続けていくうちに、心にゼロがかけられていく感覚が起こったり、また心を辿っていくと最後に残るのはプラクリティの根源であるカーリー、オーム、師のお姿という感触がありました。
そして忙しい合間、ただ階段に腰掛けて休憩していた時、この識別瞑想を行なうと、心そのものが解体されていく実感がありました。それは家が崩れていくようなものでした。
それからは不思議と、心自身がリアリティという実在性を失い、心の思いに執らわれることが一気になくなっていきました。
そして『ヨーガの福音』の師の教えの一節が自然と思い出されました。

「『複合物』はすべて生まれ、変化し、消滅するということです。『単体』なるものは初めから生まれもしないし、なくなりも変化もしない。それのみが実存しています。実体は永遠なのです。それが私たちの本当の自己であり、神、真理です。それだけを求めなさい。そして実現しなさい。あなた自身なのですから」

人生の主人公は解体されるような心ではない、その奥に在る壊れることない本当の自分、アートマンであります!
心に実在性がないと分かった今、私の心はアートマンに向かっています!!
2019年、この年も師の大いなる導きに誘っていただいたと確信した1年でした。
最高の師シュリー・マハーヨーギーに感謝致します。

ゴーパーラ


The Eternal Quest Essence ― 永遠の探求 ―!!!

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この宇宙はどこから来たのかー。

私は誰か?

どこから来て、どこに行くのだろう。

ー永遠の探求 The Eternal Questよりー

 

The Eternal Quest Essence ―永遠の探求― が12/4にリリースされました。12/1のダイジェスト版に続いての公開です。

Essence(エッセンス)の名の通り、公演「The Eternal Quest」の真髄を凝縮したディレクターズカット版です!!!

ウパニシャッドの珠玉の言葉、息を呑むほどのアーサナの集中感、キールタンの溢れる神への愛!深淵なるヨーガの真髄が具現した、非常にシャープな映像に引き込まれます!

公演、映像ともにデザインされた、師シュリー・マハーヨーギーの祝福とお力に感服いたしました!心より感謝を申し上げます!

さてー

私は誰か?

その答えを私たちは果たして見出したのでしょうか!?

人生は一瞬のうちに過ぎ去る!

それ以外に知るべきものは何もない!

神に恋い焦がれ、狂い、一つになれ!

古来のヨーギー、ヨーギニーたちの魂の問いかけが、私たちの魂を揺るがせます!

 

今日12月8日は、かの偉大な主ブッダが悟りを啓かれた聖なる日です。

「私は古道を見つけ、それに従った」と主ブッダは言われましたが、この吉祥なる日に、古代より継承される永遠の真理とそれを実現する偉大なる道ーヨーガに思いを馳せながら、その精髄をとくとご覧あれ!

オーム・タット・サット オーム!

サーナンダ


もうすぐ、サットグル・ジャヤンティー!!

真実はグルに優ることなく
タパスはグルに優ることはない
真実の悟りより優れたものはない
その聖なるグルに礼拝いたします

我が主は聖なる宇宙の主
我がグルは聖なる宇宙の師
我がアートマンはあらゆるもののアートマン
その聖なるグルに礼拝いたします

グルは始原であり無始の存在
グルは最高の神格
グルより優れたものはない
その聖なるグルに礼拝いたします

ーー『グル・ストートラム』ーー

11月23日は、私たちのグル(師)であるシュリー・マハーヨーギーの御聖誕日です。
年に一度のこの吉祥なる日を祝う祭典「サットグル・ジャヤンティー」まで、あと5日と迫ってきました!!!
この日に向けて、日本のみならず台湾やニューヨークの弟子たちは、最愛のグルの御聖誕とその導きへの感謝を込めて、準備を進めています!
プージャー(礼拝の儀)で捧げるマントラ(真言)もその一つ。グルを讃える上記のマントラを男性五人で朗唱させていただきます。
このマントラはサンスクリット語で唱えるのですが、その一つ一つの言葉の意味を学び、言葉と思いが一致するようにしていきます。
私はこのマントラを唱えていると自然と胸の内側から、「グルがどれだけ優れているか、グルより偉大な存在はない」と感じ、師への思いが高ってきます!

かの偉大なる主ブッダが御聖誕した日、ブッダは天と地を指さして、

「天上天下唯我独尊」

と言ったと伝えられています。
私は感じます、師と出会ったことで、グルのマントラとこのブッダの伝説が同じものだとーー

真実を悟った私のグルは、この全宇宙でナンバーワン!
グルよりも優れた人に会ったことはなく、誰がなんと言おうと、唯一無二の存在でオンリーワン!!
この天にも地にもあなたの存在ほど尊いものはない!!!

我らの偉大なグル、その御聖誕を祝わせていただく格別なる日まで、あと少しです!!!

ゴーパーラ


識別とヴィヴェーカーナンダ(8)

九月に入りましたが、この夏は雨がよく降りましたね。
私の職場は景勝地の嵐山ですが、ここは天候や季節でさまざまな表情を見せ、多くのことを語りかけてくれます。
 
八月のある日、私は電車に乗って、ヴィヴェーカーナンダ著『ギャーナ・ヨーガ』を読みながら、通勤しました。
嵐山駅に着くとなぜか突然、自分の内側から「シヴァ」の御名が聴こえてきました。
そのすぐ後、凄まじい大雨に襲われ、かなり濡れました。
ただ、シヴァの御名が心の中でループし続けていたので、雨に濡れても全く気になりませんでした。
仕事中は雷が鳴っていましたが、仕事が終わる頃には雨はやみ、外は静かになっていました。
 
帰り道、いつも通る嵐山の橋を渡ると、聴こえてきたのは川の音でした。
普段は気にならない川の音ですが、大雨のあとだったため、その音はとても大きくてダイナミックで、一瞬にして私の心は奪われました。
その瞬間、川の流れが聖音「オーム」に聴こえました。
 
 
『ギャーナ・ヨーガ』「多様の中の単一」には、次のことが書かれていました。
 
「どのようにして一者(神・真我)を見るのか? この心、これほど迷いが深く、これほど弱く、これほどやすやすと誘惑されるこの心でさえも、強くなることができ、われわれを繰り返し繰り返し死ぬことから救済する知識、その一者を垣間見ることができるのです。
山頂に降る雨がさまざまな流れになって山腹を流れ下るように、あなたがここに見るすべてのエネルギーは、その一者からきます。それがマーヤーの上に落ちて、多数となったのです。多数の後を追いかけてはなりません。一者の方においでなさい。
『彼はすべての動くものの中にいる。彼は宇宙を満たす。彼は犠牲の中にいる。彼は家を訪れる客人である。彼は人の中、水の中、けものの中、真理の中にいる。彼は偉大なる者である』」
 
雨や川、雷は凄まじいエネルギーをもっているように見えますが、それは背後にある一者「偉大なる存在」を根源とし、すべての万物、私自身の中にも「それが在る」というのです。
 
八月の仕事の帰り道、私の心は「シヴァとオーム」で満たされました。
そして常に、「彼」だけで満たされるようにと願います。
多数の後を追いかけずに「一者」だけを見る識別、その実践あるのみです!
 
「オーム タット サット オーム 神は真実在なり」
 
 
 ゴーパーラ

ラーマクリシュナの愛した歌

あなたは私のすべてのすべて、おお主よ。
私の命の命、髄の髄。
あなたの他にわが身内と呼べる者はいない。

あなたは私の平安、私の歓び、私の希望、
あなたは私の支え、私の富、私の栄光、
あなたは私の智恵、そして私の力。
あなたは私の家族、私の慰安、私の最愛の友、
私の最も近い身内。

現在の私であり、私の未来でもあるあなた、
私の天国、そして私の救い、
あなたは私の聖典、私のおきて、
あなたは私の慈悲そのものであるグル。
あなたは私の限りない至福の泉です。
あなたは道、そしてあなたは目標。

あなた、崇拝する御方、おお主よ!
あなたは優しい母であり、父である。
創造者で保護者であるあなたは、
人生なる海をよぎる私の船の舵をとる舵手

あなた、あなた、あなた、あなた・・・
最近つくづく思うのですが、「私」に関することを考え出すと「私はこれをしないといけない」「私の意見はこうなのに」「私のもの」「私だったらこうするけど」などなど私に関しての思いがどんどん展開し、心は「私」に占領され、ちっとも黙ろうとせず、自分にはやることが山積みで問題だらけのような気がしてくる。心はすぐに物事を大げさにする。

けれど「あなた」(神や真理)のことを思う、そして思い続けていると、心はだんだんと静まる。「私」は小さく見えなくなる。そしていつの間にか「あなた」でいっぱいになるとき、そこには平安と歓びだけがあり、問題などそもそもなかったと分かる。見える世界は突然変わる。
キーワードは「私」(エゴ)ではなく「あなた」(神や真理)。
そう!あなたは私の限りない至福の泉なのです。


識別とヴィヴェーカーナンダ(7)

「理想」とは何でしょうか?
世界平和、愛、自由、目標の達成、つつがなく人生を送ること……
人それぞれ、思い描く理想の姿や形はさまざまかもしれませんが、そこには共通して「幸せ」を求めるはたらきがあるように思います。
では、ヴィヴェーカーナンダは「理想」というものをどう捉えているのでしょうか?

まず、理想の対義語が何かといえば、それは「現実」です。
ヴィヴェーカーナンダはこの現実のありのままを、いくつもの例を挙げて説明しています。
ーー希望に満ちた若者は明日の老兵になり、知識獲得への欲求はその限界に直面し、物質的繁栄の影には不幸があり、快楽を得れば等量に割り当てられている苦痛を伴い、どんな偉大な王も美女も死という破壊に向かって進んでいる事実ーー
人は生きていくと、誰もが大なり小なり現実の壁、矛盾、二元性に直面し、この世界で自分の思い描く理想に完全に近づけないことを実感します。
2500年前、ブッダは説かれました。

「この肉体と心、世界は無常である」

思い通りにならない世界と、まぬがれることができない老いや病、そして死ーー
幸福を得るやいなや不幸が襲いかかり、この世に生を受ければ必ず死がやってきます。
それでも私たちはこの世界において永続する完全な幸福を求めるです。

では、私たちはどうすればいいのでしょうか?
死を直視することをやめ、理想をもたず、享楽的な人生、または世に迎合する人生を送ればいいのでしょうか?
その突破口としてヴィヴェーカーナンダは、「死を絶滅させるためには、生も絶滅させなければならない」と言うのです。
それは、短絡的にこの人生を諦めよということではありません。

「小さな生命を生きることは死です。小さな幸福、小さな自分を棄てよ」

と言うのです。

「われわれは誰でも、自分たちは非常に幸福であるだろうと考えて、この肉体をいつまでも保っておきたいと思います。しかし人々が過去とか未来とかを思うのをやめるとき、彼らが肉体という観念を棄てるときーー肉体は去来する、限定されたものなのですからーーそのとき、彼らはもっと高い理想にまで登ったのです。肉体は真の人ではありません。心もそうです。心は大きくなったり、小さくなったりするのですから。独り永遠に生きることができるのは、超越した霊です」ーー『ギャーナ・ヨーガ』

誰もが永遠で完全な幸福という理想を求めています。
過去の覚者たちは、それは肉体や感覚、心では得られない、「放棄」によって得られると悟りました。
ブッダは「四諦(苦集滅道)」という放棄によるニルヴァーナ(涅槃)への道を示し、イエス・キリストも「私のために自分の生命を失う者は、それを得るであろう」という諦めの放棄の道を説いているのです。

そしてヴィヴェーカーナンダは、理想はどこかにあるのではなく、最も近いところにあると言います。

「あなたが見た理想は正しかった。しかし、あなたは理想をあなた自身の外にあると見た、それが間違いでした。それをもっともっと近くにもっていらっしゃい。それは常にあなたの内にあったのだ、それはあなた自身の自己であったのだ、ということがあなたに分かるまで」

理想とは、永遠で完全なる幸福、自らの内にある真の自己、その目覚めである悟り、そうでなければ意味がありません。
そして、「最高の理想で頭脳と思いを満たし、朝夕それらを自分の前におきなさい。そこから偉大な働きは生まれるのです」とヴィヴェーカーナンダは力強く説いているのです。

ゴーパーラ