聖者と教え」カテゴリーアーカイブ

日常が真剣勝負!

アーサナや瞑想は練習問題のようなもので、日常こそが真剣勝負だと師は教えられます。

今回、師の直伝クラスやサットサンガにも熱心に通われ、真剣にヨーガに励んでおられる藤原さんが、ご自身の体験を寄稿してくださいましたので、ご紹介したいと思います。


昨年末のサットサンガで、ヨギさんに識別についてお聞きすると、エゴに気づいたら、それが出てくる前に忍耐して制御していくように。そして、他者にはやさしく行為するようにと教えてくださいました。

ところが、年明け早々に久しぶりに夫と大喧嘩をしてしまいました。
その引き金を引いたのも、この喧嘩を招いたのも“私は正しい”というエゴ的な思いから生まれた日常の私の言動だったのです。私は今まで一体何をしてきたんだろう…と何もかもが崩れ去っていくように感じ激しく動揺しました。
その一方で、いつもと変わらず動じることもなくその様子を見ていた息子は、私の肩をやさしく撫でてそっと寄り添ってくれました。その姿にヨギさんを見たように感じました。

その時にやっと私は、ヨギさんから授かったこの教えが、自分にとってどれほど必要なことなのかを思い知るに至りました。
私はヨーガを学び実践が大切だと日常を過ごしていたつもりでした。そして、少しずつですがその日常に良い変化も感じていました。でも、いつの間にかその結果に執らわれてしまい、自分のエゴに気づかずにいたことに気づきました。

この激しい動揺をしずめてもう一度やり直さないといけないと思いました。
ヨギさんのようにいつも変わらず同じで在りたい。その為には、徹底的にエゴをなくしていかないといけない!

以前、クラスでラーマクリシュナが教えられている6匹のワニのお話があったことを思い出しました。
人の心にある怒り、嫌悪、色欲、欺き、高慢、羨望という6つの欲情をワニに、心を池に例えて、池に棲んでいる6匹のワニが時々出てきて心をざわつかせるというお話でした。
何事も自分の思いどおりにはならない、諸行無常、カルマの法則、この世の中の道理を正しく理解して、このようなネガティブな感情が湧いた時には、エゴが思いどおりにしようとして暴れているのだから、即座にその反対のポジティブな思いを起こすのがいい。怒りには寛容を、嫌悪には愛を、色欲には清浄を、欺きには誠実を、高慢には謙虚を、羨望には賞賛を。そして、その時のポイントは、条件付きではなく、いついかなる時も、誰にでも無条件に行なうことだと教えてくださっていました。

これからも何度も何度も心に言い聞かせ、忍耐強くエゴとの真剣勝負に挑み続けたいと思います。

藤原 里美

MAMA YOGA lilāは、篠山市、丹波市で活動しているヨーガのサークルです。藤原さんがアーサナをリードしています。下、写真右端が藤原さん。


識別とヴィヴェーカーナンダ(1)

今日から2月ですね。暖冬とはいえ、大寒の節気。皆さま、暖かくしてお過ごしでしょうか?

ところで新年から1カ月が経ちましたが、今年の目標を立てられた皆さん、その歩みは順調でしょうか?  私は「徹底識別」が目標ですので、この1カ月は識別の大家ヴィヴェーカーナンダの著作を熟読したり、識別瞑想を行なって過ごしていました。

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ

また、今年4月の春の祝祭「サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー—神性示現大祭—」では、ヴィヴェーカーナンダの師シュリー・ラーマクリシュナにフォーカスされることもあり、『ラーマクリシュナの生涯』『ラーマクリシュナの福音』も読んでおりました📖

そこで4月の祝祭に向けて、またこの1年を通して、ブログメンバーを中心にして、ラーマクリシュナとその弟子たちについて学んだり感じたりしたことを、ブログ全体で載せていきたいと思っています‼️

私は1年を通して「識別とヴィヴェーカーナンダ」と第して、識別とヴィヴェーカーナンダについての理解と実践を深めていきたいと思います。以下が、その1回目の内容となっております。今回はヴィヴェーカーナンダには触れていませんが、それは2回目以降になります。では1年間、お付き合いいただけたら幸いです😊🙏


「識別って何だろう?」

ヨーガを学び、実践していこうとすると、誰もがこの疑問をもったことがあるのではないだろうか。
ヨーガを始める以前に大学で仏教を学んでいた私は、「識別」という言葉は知っていた。だがそんな言葉上の理解にあっては、「修行の中途段階にあるもの」ぐらいにしか捉えていなかった。実際、悟りの境地にあっては識別は放棄される。しかし、私の師シュリー・マハーヨーギーは十代の頃、この世界の理や心の仕組みを隈無く識別された。そしてよく、「徹底した識別をしなさい」とおっしゃられる。

「識別は、自分の思いや行動が真実に沿っているかどうか、矛盾していないかどうかを吟味する。聖典を学んでいったり、正しい真理の言葉を聞いておくことによって、自らの心の中にある思いが正しいかそうでないかということが識別されていきます」

これは『悟り』の本に書かれている識別の説明であるが、ヨーガを始めた頃は実際にそれが何なのか、またどのように行なっていったらいいのか、全く分からなかった。
だが9年前にニューヨークで師と生活をともにした時、「識別とは何ですか?」と尋ねると、師は次のようにおっしゃられた。

「識別とは『ヴィヴェーカー』、『弁別』ともいって、法律家が法律を基準に物事を判別するように、ヨーギーは真理でもって物事や思いを判別する。そして識別ができたかどうかは瞑想の中ではなく、日常において試される」

とても分かりやすいと思った。これを聞き、識別のイメージのようなものはつかめた。だが正直なところ、その内身はよく分からないままであった。

それから約2年が経ったある時、私は師に次のことを話した。
「昔から雑誌を立ち読みする習慣があったのですが、ニューヨークから戻ってそれをすることに違和感を覚えました。雑誌って『雑な誌』と書き、精妙な瞑想とは反対なものだと思ったので、それからは雑誌の立ち読みをやめました」
すると師は次のように言われた。

「識別、できてるやんけ」

自分ではそれが識別だとはあまり意識していなかったが、師は物事の本質に迫る際に「言葉」―—「名前」と「形」から辿っていると感じた時があり、それを雑誌にあてがってみたのであった。
ニューヨークに滞在中、私は瞑想をしていると十字架のようなものが見えた時があった。神聖なヴィジョンだろうと思って師にそれを話すと、師はいつになく強い口調で次のように言われた。

「十字架、あれは磔台、つまり処刑台。手足をあの十字の形にできるのは人間の肉体だけ。肉体は変化するものだから真理ではない。だから十字架は神聖なものではなく、肉体を象徴している無知なんや」

十字架=神聖な象徴という既存の概念に縛られず、師はその本質を見抜いていると感じた。私はただただ、師の物事の本質の迫り方に圧倒されたのだった。(続く)

ゴーパーラ


ラーマクリシュナの福音 〜聖き御名〜

武器を取れ!武器を取れ!おお人よ!死が戦列をなして、お前の家を襲うぞ!
知識の矢筒を負い、信仰の戦車に乗り、愛の弦を張ったお前の舌なる弓に、
母カーリーの聖き御名なる矢をつがえて、彼に向かって放て。
この戦いに一つの策略がある、それには戦車も御者もいらない。
ガンガーの堤に立って敵を迎えよ。彼はたちまち殺される。

神の御名という種子には偉大な力があるのだよ。それは無知を破壊する。種子はか弱いものだ。芽も柔らかなものだ。それでもそれは固い土を突き破る。土が割れて芽を出させてやるのだ。

カーリー マー

私はラーマ神(インドの神様)が大好きで、日常的にラーマの御名を唱えています。ですので、神の御名が武器となるということがとてもよく分かるのです。
この世界には、いろんな争いが蔓延していて、世界でも紛争は絶えないですし、社会でも理不尽なことがたくさん起こります。その原因は人の心にエゴや無知があるからだとヨーガでは教えられています。自分さえよければいいというエゴ意識!自分の中にも周りにもいっぱいあります。このエゴ意識と戦うときに、ラーマ神の御名が武器になるのです!!
身近な社会の中で人間関係がぎくしゃくした時に、ラーマ神の御名を唱えたり、聖者のお姿に思いを馳せたりすると、すぐに平安を取り戻すことができます。

それはなぜかと考えてみますと、「人の本性はこの身体でも心もなく、その奥にある純粋な意識、(存在、アートマン、魂、神ともいう)である」という真実の教えをヨーガの師から授かり、私はこの教えに絶大なる信頼を寄せていますので、神の御名を唱えることによって、自然に心が純粋な神なる意識の方にシフトして、エゴ意識や無知が簡単に消えていってしまうのだと思いました。不思議に思うこの現象も、ごく当然なことなのでしょう。

この無敵の武器を手にして、長きに渡る戦いに勝利したいと思います!

ダルミニー


新年のご挨拶

皆さま、明けましておめでとうございます🌅🎍
今日から仕事始めの方も多いかと思いますが、お正月の三が日はいかがお過ごしでしたか?
私は実家の愛媛に帰省して家族や親戚と団らんのひと時を過ごしましたが、空いた時間はヴィヴェーカーナンダの『わが師』を再読していました。


この聖典は、ヴィヴェーカーナンダが師シュリー・ラーマクリシュナについて紹介した講演『わが師』をはじめ、アメリカやイギリス、インドで行なわれたヴィヴェーカーナンダの講演が収録されています。
久しぶりに触れるヴィヴェーカーナンダの力強い言葉に、新年から私の心は痺れました!

さて、皆さんの今年の目標は何でしょうか?
私の今年の目標は「徹底識別」です!

「放棄なしに何一つ成し遂げられることはできない。もしあなたが他者を助けようと思うなら、あなたの小さな自己はなくならなければならない。ヴァイラーギャ(離欲)を持て。立て、目覚めよ、そしてゴールに達するまで止まるな!」——スワミー・ヴィヴェーカーナンダ——

2019年、目標に向かって突き進んでいきたいですね!
本年もブログ「ヨーガを生きる」をどうぞよろしくお願い致します。

ゴーパーラ


イベント報告 & 2018年振り返り

一昨日の12月29日、左京区のZAC BARANにて、アーサナ・瞑想のデモンストレーションを行ないました。
今回の演目のテーマは、ヨーギーの起源であるシヴァ神でした❗️


シヴァ神のルーツは、インド土着のルドラという暴風雨の神だと言われております。
演目は『The Eternal Quest—永遠の探求—』の前半部をベースに、イントロでシヴァ神を想起させる雷雲の音を鳴らし、宇宙万物を司る主であり、またヨーギーの第一人者であるシヴァ神に、アーサナと瞑想のデモンストレーションを通して近づこうと試みました。
ただ私、うっかりして写真撮影を依頼しておらず、その時の様子は写真でお伝えできませんが😓、友人からは「宇宙を感じた!アーサナ、音響、着ていたTシャツ(カーリー・ヤントラ)、すべてがマッチしていた」という嬉しい感想をいただきました。
年末の寒波の中、グルバイやクラス参加者の方々もお越しくださって、とっても嬉しかったです!
本当にありがとうございました😊🙏

それで皆さん、2018年はどんな年だったでしょうか?
私はこの1年を改めて振り返ってみると、主ブッダがその中心にあったと思いました。
今年は、ブッダがテーマであった4月の祝祭をはじめ、師は折に触れてブッダについてたくさんのことを教えてくださいました。
その中でも特に印象に残っていることは、5月の松山特別サットサンガ後の夜でした。
その時に師は、「ブッダはこの世でいちばん偉大な人物」と言われ、私は「なぜそう言えるのでしょうか?」と尋ねると、次のようにおっしゃられました。

「ブッダは聖典の権威に影響されていないから」

私は「それが偉大な理由?」とクエスチョンマークが浮かびましたが、少し考えた後、師がいちばん好きだというシュリー・ラーマクリシュナの次の言葉が思い出されました。

「私はヴェーダも六派哲学も超えている」

そしてその瞬間、師が教えてくださっている次のブッダの言葉とつながったのでした。

「たとえ古い聖典が出てきても、それを鵜呑みにする必要はない。自らで確かめ、実践せよ」

インドの地においてヴェーダをはじめとする聖典は生活やその精神性の支柱であり、最高の権威に位置するもので、「それを超えている」「鵜呑みにする必要はない」とは簡単に言えることではありません。
しかしながら聖典は、人間を悟りという偉大な完成に導く言葉であり、その言葉の意味する内実をどれだけ感じ、肉迫することができるのか、つまり「実践」と「体得」がもっとも大切なことだと私は改めて気付かされ、そして何より、師がブッダやシュリー・ラーマクリシュナが発した言葉の内実を知っていると感じ、驚愕させられたのでした。

聖典の言葉は深遠で、どんな言葉でも奥深い意味や、また修行者を悟りへと導く力が隠されていると感じます。
一昨日の演目で、アーサナを終えて瞑想に座り、『The Eternal Quest』で朗唱されたウパニシャッドの詩を流した際、期せずして次の言葉が私の胸に響いてきました。

「身体の動きを止め、呼吸を制御せよ。御者が馬を操るように、心を制御して、全身全霊で神を瞑想せよ!」

今年も残すところ1日ですが、来年と言わず今日も真剣にヨーガを実践し、もっと、もっと、もっと聖典や師の言葉の息吹を感じたいですね!!!

最後になりましたが今年も1年間、ブログ「ヨーガを生きる」を読んでくださった皆様、まことにありがとうございました‼️
来年はより精進をし、良い形でブログに反映できればと思います。
そして、いつも真理を教え、導いてくださっている師シュリー・マハーヨーギーに感謝致します。
皆様、来年もブログ「ヨーガを生きる」をどうぞよろしくお願い致します😇🙏

ゴーパーラ


神への態度 バクティ・サンがム キールタン

先日の日曜日は今年最後のバクティ・サンガムでした。10月から3ヶ月間歌い込んできたキールタン、「ゴーヴィンダ・ハレ・ゴパーラ」をみんなで歌いました。ゴーヴィンダもゴパーラもクリシュナ神の幼少期のお名前。このキールタンでは、その御名を、何度も何度も繰り返します。愛らしい幼子ゴパーラが、森の中で無邪気に遊び戯れている様子を見て、母親は愛おしい我が子の名前を叫ばずにはいられなくなる。そんな印象がこのキールタンにはあります。

バクティ・ヨーガの中では、バクタ(神を愛するもの)の神への態度が5つ教えられていますが、その5つの中には、ヴァーツァリアという、神を子供と見立て、母親のように愛するという態度があります。まさにこのキールタンは、ヴァーツァリアの態度がぴったりだと思いました。ちなみに、他の態度には、神を平安な気持ちで愛するシャーンタ、召使いの態度のダースィヤー、親友の態度のサキヤ、そして愛人の態度、マドゥーラがあります。

私は、このバクタの態度の話を聞くたび、自分は一体どの態度なのだろうか…という疑問が生まれます。以前そのことをヨギさんにお尋ねしたとき、「それぞれの人の素直な態度というか、ふさわしい態度というのが自ずと生まれてくる」と教えてもらったことがあります。

「ふさわしい態度が自ずと生まれる」

では、生まれるまでは何をしたらいいのでしょうか。そんなことを考えていたとき『ラーマクリシュナの福音』の中である物語を見つけました。

ある娘が幼いときに夫を失って寡婦となった。彼女は自分の夫に会ったことがなかった。他の少女たちの夫を見て、ある日父親に「私の夫はどこにいるのですか?」と尋ねた。父親は「ゴーヴィンダがお前の夫だ、もしお前が呼べば、彼は来るだろう」と答えた。これを聞いて少女は自室に入り、扉をしめてゴーヴィンダに向かって「おお!ゴーヴィンダ、私のところに来てください、なぜ来てくださらないのですか!」と叫んだ。神は少女の哀れな叫びに抵抗することができず、彼女の前に現れた。人は子供のような信仰と子供が母親を見たいと感じるときの強烈な憧れとを持たなければならない。その憧れは、暁の東の空の紅のようなものだ。空が紅くなれば、必ず太陽が昇る。その憧れの直後に人は神を見る

このお話を読み、「ふさわしい態度が自ずと生まれる」までは、この少女のように、ただ純粋に神を求め続けることだと思いました。神への態度が先にあるのではなく、まずは素直さと熱心さが何よりも大切なのだと思います。

12月でいったん歌い納めした「ゴーヴィンダ・ハレ・ゴパーラ」ですが、1月のバクティ・サンガムでは2018年の振り返りをするので、もう一度歌います!ぜひ、ゴーヴィンダ!!ゴパーラ!!!と叫びにきてください。


ラーマクリシュナがうたわれたキールタン 至福のお酒

さて、年末のシーズンになり、忘年会などお酒を飲む機会が増えてくる時期ですね。そこで今回は「ラーマクリシュナの福音」に出てくる詩のなかで、お酒にまつわるものをご紹介します。

私は並の酒は飲まない
永遠の至福の酒を飲む
母カーリーの御名を繰り返しながら。
それは私の心を深く酔わせるので
人々は私が酔っ払ったと思う。
まずグルがその酒をつくるための糖蜜をくださる。
わが渇仰の心は、それ酒を変容させる酵母。
知識という作り手が、私のために酒を醸す。
酒ができたとき、私の心はそれを
マントラというびんから飲む。
それを浄めるために母の御名をとなえながら。
この酒を飲め、とラームプラサードは言う、
そうすれば人生の四つの果実はお前のもの

私はお酒を飲むことが割と好きなので、これまでの人生でそれなりにお酒を飲んできたと思いますが、この詩に出会ったとき、私が飲みたかったのは、この「永遠の至福の酒」だ!!!とはっきりと分かりました。そして、私はもう並の酒は飲みたくない!と思ったのでした。

ではその永遠の至福の酒はどうしたら飲めるのか!?それをつくる方法が詩の中に書かれています。まず、グルがその酒をつくるための原料となる糖蜜をくださるのです。糖蜜とはサトウキビの絞りかすで、お酒の原料になるもの、日本酒ならお米のことです。まずはグルの恩寵が必要なのですね。そして、お酒作りに酵母が必要なように神への渇仰の心、信仰心は欠かせないものです。そして作り手として、真理の知識(真知)が醸造してくれるのです。

あーそのようなお酒を心が飲むとき、どれほどに甘美なのでしょうか!!この詩を読むたび、私は永遠にその至福のお酒に酔いしれたいと思うのです。最後に書かれてある四つの果実は、ダルマ(正義)アルタ(富)カーマ(欲望の達成)モクシャ(解脱)のことを指します、憧れは増すばかりです。

さて、収穫が秋のお米を原料に作る日本酒は、冬に仕込むことが多いようです。それは雑菌が少なく温度調整がしやすいためと言われています。ぜひ仕込みやすいこの寒い時期に、みなさんも永遠の至福の酒を仕込んではいかがでしょうか。


ラーマクリシュナの福音 〜目標は神、それがヨガ〜

十二月のある日、シュリー・ラーマクリシュナはお芝居を観るためにスター劇場に行かれた。聖者プララーダのお芝居を見終わられたあと、劇場経営者のギリシュの部屋で信者に向かって神のお話をなさっている。

「心のすべてを神に向けないで、彼を知ることなどできるものか。バーガヴァタはシュカデヴァのことを語っている。彼は歩く時、拳銃をかまえた兵士に見えたという。視線はさまようことがなかった。それはたった一つの目標を持っており、その目標は神だった。これがヨガというものだ。
チャータク鳥は雨水しか飲まない。ガンガーやジャムナーやゴダヴァリ河をはじめとしてすべての河には満々と水が流れており、七つの海には淵まで水がたたえられているのだが、チャータク鳥はそれらにはふれようともしない。雲から落ちてくる水しか飲まないのだ。このようなヨガを開発した人は、神を見ることができる。劇場で観客は、幕が開くまで家庭のことや勤め先のことや学校のことなど、あらゆる種類の会話にふけっているだろう。だが幕が上がるやいなや、すべての会話は止み、人々は一心に芝居を見守る。長いことたって、誰かが一言か二言しゃべるとしても、それは芝居のことだ。大酒飲みが酒を飲むと、酔う楽しみについてしか話さない」

「目標は神だ。これがヨガというものだ」
神だけ見続けておられるシュリー・ラーマクリシュナの言葉には、強力な力が宿っていますね。
私たちはさまざまな理由でヨーガと出会いました。私は子供の頃、テレビでマッチェーンドラ・アーサナ(捻りの形)を見て、身体によさそう、やってみたいと思ったのがきっかけです。時間に余裕ができて、やっとヨーガのクラスに通えるようになりましたが、しだいに「ヨーガって、心のことも教えてくれるんだ」と驚き、さらに「ヨーガって、本当の自分を知ることなんだ」と、だんだんとヨーガの教えの深淵さに惹きつけられていったのでした。
ヨーガの語源はユジュ、心を本当の自分と結びつけるという意味だそうです。本当の自分とは、真理、存在、純粋な意識、アートマン、魂、神とも呼ばれているものです。シュリー・ラーマクリシュナは「目標を定めて、ヨーガの道をまっすぐに進みなさい」と教えてくださっているのだと思いました。
そして私たちは師の導きによって、甘い真理の水をちょっぴり舐めさせていただいたのでしょうか。いろんな水がある中でも真理の水だけがほしいと願っていることに気が付かされました。チャータク鳥とは、どんな鳥なのかなと思っていたのですが、それは私たち、求道者のこと、「求道者は真理の水だけを求めなさい、そうすれば真理を実現することができる、神を見ることができるのだ」とシュリー・ラーマクリシュナは教えてくださっているのだと思いました。

私たちがチャータク鳥のように、どんなに喉がカラカラになって死にそうになっても、真理の水だけを求めて生きていくことができますように。

降ってくる雨水しか飲まないチャータク鳥

ダルミニー


無知の中で百年生きるより、真理の中で一日生きる方がよい

八年前、私は師に同行させていただいたニューヨーク滞在の後半、「瞑想が深まらないのですが、どうしたらいいのでしょうか」と質問し、師は次のことを言われました。

「どう生きていきたいのか?」

先週のアーサナ・瞑想クラスで姉弟子のシャーンティマイーさんから「瞬間、瞬間を生きる」ということが話されました。
「アーサナを形づくる中、ポイント、ポイントを押さえ、呼吸を吐き切ることで、アーサナが完成へと導かれる。それをしっかりと意識してアーサナを行なうことが身口意(形・呼吸・意識)の一致になり、それが瞬間、瞬間を生きるということになる」

ニューヨークで師は「どう生きていきたいのか?」と言われる前、瞑想を深めるために、もう一つの教えをおっしゃっていたことを思い出しました。

「日常の身口意を一致させなさい」

十二月八日はブッダが悟りを啓かれた日です。
「ラージャ・ヨーガの八支分とブッダの八正道は共通している」と師はおっしゃられ、それら一つ一つをニューヨーク滞在時に教えていただきましたが、あれから八年経ち、私は改めて師からいただいた教えの深遠さを感じさせられます。

今、私の思いは「真理に生きる」、それだけです。
しかし、未だ悟れていない。余計な思いや雑念、本能の制御ができていない。
本当の意味で真理に生きる、「無知の中で百年生きるより、真理の中で一日生きる方がよい」と言ったブッダのこの心境を切に願うのなら、もう一度改めて、基礎である八支分のヤマ(禁戒)・ニヤマ(勧戒)、八正道の正見・正思・正語・正業の教えの意味を考え、瞑想して心に刻み込み、日常の身口意を一致させていきたい。
そしてただ一つの的、アートマン(真我)だけを見て!!!

ゴーパーラ


もうすぐ師の御聖誕日!!!

最近ふとした時、親への感謝の気持ちが湧いてきました。
自分がこうして生きているのも親が一所懸命に育ててくれたからだと感じました。
それと同時に、次の師の言葉が蘇りました。

「最大の親孝行は、悟ることです」

言葉上では知っていた教えでしたが、本当はどういう意味なのか疑問に思い、師に尋ねてみました。
師は、次のようにおっしゃられました。

「それはブッダの生涯が物語っている。
ブッダは出家し、のちにブッダの親子は彼の弟子になっている。
親は誰もが子供の幸せを願っている。
親は親で人生の幸不幸を経験する中、悟りを実現したブッダに本当の幸せを感じたのだと思う」

私はこの言葉を聞いた瞬間、まるで師がブッダの生涯のすべてを見たかのようなリアリティを感じ、驚きました。
諸行無常や涅槃という仏教用語を使わずとも、聖なる存在として生きたブッダの息吹に触れたかのようでした。

師は知らないことや知りたいことは何でも教えてくれます。
私にとっては父のようであり、兄のようであり、また光り輝くスターのような憧れの存在です。
師と少しでも会ったり話したりするだけで、私の心は踊り、歓びに満たされます。

その師の御聖誕日がもうすぐです!!!

私は親から生まれ、親に育ててもらい、成長することができました。
大人になった今、師と出会い、師に身も心も改めて育てていただき、生かされていると感じます。
11月23日、私たちを本当の幸せに導いてくださる師の存在とその御聖誕に、最大の感謝を捧げたい。

ゴーパーラ