聖者と教え」カテゴリーアーカイブ

ラーマクリシュナの福音

みなさん、こんにちは

今回の地震で被害を被った方々にお見舞いを申し上げます。
京都は比較的、台風とか災害もよけて通るようなところなのですが、今回の地震は、さすがに京都のみなさんも驚かれたと思います。天変地異に際しても、さまざまな場面でも正しい判断ができる自分でありたいと改めて思いました。

 さて今回も『ラーマクリシュナの福音』からご紹介いたします。
今日もまた、シュリー・ラーマクリシュナは神を愛することについてお話になっています。

シュリー・ラーマクリシュナは自室の小さい寝台の上に、東を向いて座っておられる。信者たちは床に座っている。Mがここに着いて師に礼拝をした後、席についたのは昼頃だった。次第に他の信者も集まりはじめた。
ラーマクリシュナ「もし、人が神を愛するなら、ごく細やかなことが彼の霊的感情に火をつける。そのときにラーマの御名をたった一度唱えれば、彼は一千万回のサーディヤー(上位三階級の聖糸を受けた男子が毎日行なうことになっている礼拝)と同じ効果を得るのだ。一片の雲を見ると孔雀の感情が目覚める。彼は尾を広げて踊る。ラーダーは同じ経験をした。雲を見ただけでクリシュナを思い出したのだ。チャイタニヤデヴァがある村を通り過ぎた。彼はその土地の土からドラムが作られるということを聞いた。たちまち彼は恍惚感に圧倒された。ドラムはキルタンに使われるからだ。だが、誰がこのような霊の目覚めを感じ取ることができるのか。世俗の物ごとの執着を放棄した人だけだ。もし執着という液が、ある人の内部で完全に干上がれば、ほんのわずかのヒントが彼の霊的感情に火をつける。湿ったマッチを千回こすっても火花ひとつ出はしない。だが、乾いていれば、ちょっとこすっても燃え上がるだろう」

 シュリー・ラーマクリシュナは神を愛することができる人は、この世の中の物ごとの一切を放棄した人だけだとおっしゃっています。
私たちの師もまた、心が何かを掴んでいる、所有しているという、心の執着をなくした状態でないと、悟りという真実の智慧は生まれないと教えてくださっています。ヨーガを学んでいくにつれ、心は、神を真実を思いながら過すことが多くなってきましたが、なかなか神を真実を愛することができない自分に気がつかされました。聖典を読むと、神を愛すること、一切の執着を放棄することは、主にグルの導きや神の恩寵によって得られると書かれてあります。私たちの師は恩寵についてこのように説かれています。

「恩寵は、その真実、もしくは神と魂との間に生まれる贈り物です。それが生じるのは、魂たち、つまり人間としての純粋な信仰が生まれた時、その真実の存在は恩寵をもたらします。具体的には祝福、そして霊感、正しい智慧、真実の愛、そのようなこの人間の世界では得られないものがやってきます」

ヨーガを学び、純粋な信仰を育んでいくことが、私たちに必要なことなのだと思いました。純粋な信仰とは、神や真実を信頼し、その教えを誠実に生きていくこと、そして見返りを求めず、ただ愛していくことなのだと思いました。しかしみなさん、私たちは、この人間の世界では得られない、祝福というものをもういただいていますよね。師の教えを守り、誠実に、このヨーガの道を歩んでいけば、真実の愛に辿り着けるのだということを確信し、嬉しくなりました。湿ったマッチのままじゃ嫌だ、諦めず歩んでいこう、そういう覚悟を今回さらに固めたのでした。

 ダルミニー


集(原因)

渇望――それは、喉が渇いて水を求めるように、激しく執着すること。
仏教の教えでは十二因縁の中に含まれていて、執着の原因である。
しかし師は台北での夜、「のたうちまわるほどの切羽詰まった真理への渇望」を説かれた。(前回のブログはこちら⇒「渇望(タンハー)」

ブッダは身的苦行を棄て、瞑想によって生死の原因である欲望への執着を見つけ、またさらなる原因のサンスカーラ、そして大原因の無知を暴き出し、悟りを実現した。
後にその因果の理は「十二因縁」として体系づけられた。
では、どうしてブッダはその内的探求が可能だったのだろうか?
通常、人は原因を外に見たり、たとえ内に見たとしても、無知という大原因まで辿り着くことは到底不可能のように感じられてしまう。
事実、ブッダ以前にカルマの因果論は見つけられていたが、カルマの原因である執着とその根本原因の無知は見つけられていなかった。
私は師に問うた、「ブッダのように原因、さらなる原因を探求するには、どうしたらいいのでしょうか」
師は次のように応えられた。

「気付くこともいっぱいあると思うけれど、そこで断定しないこと」

何の変哲もない言葉かもしれない、しかし私はそれを聞いた瞬間、直観的にその教えの深みが感じられた。
「断定しないこと」、それは自分の修行や行為、どれにも当てはまると感じられた。
例えば、日常の実践について。
何年か前、私はミラバイさんから「洋平君(当時の名前)は日常が大事って言っているけれど、それってどういうこと?」と尋ねられたことがあった。
その時私は、「サットヴァ(快活)に行為していくことかな」と答えた。
自分自身この数年、日常生活で軽快に動くことを意識的に取り組んでいた。
しかしながら最近ミラバイさんと話していると、「日常の実践とは心の波を静めること、つまり内的な軽快さがそれである」と暗に教えていただくことがあった。
振り返ってみると数年前、ミラバイさんはそのことを私に教えてくれていた。
にもかかわらず、自分の実践やサットヴァの理解を疑わなかった。
つまり、「断定」していたのだ。

人は自分の心のフィルターという色眼鏡を通して物事を見て、判断して生きている。
さまざまなものを付加しているのである。

「付加条件とは、すべて。環境や性別、年齢、経験、それらをすべて外していく。眼鏡が曇っていることはヴェーダーンタで説かれていること。でもそれを実際に外さないといけない。それがヨーガ全体の実践」

師は実際に眼鏡を外すジェスチャーをして、そのように言われた。
私はこの師の一言で、ヴィヴェーカーナンダが「プラティカル・ヴェーダーンタ」という言葉を使っている意味が理解された。

「これではない、これではない……」

原因、原因を見ていきたい――私は「十二因縁」の瞑想が必要だと感じた。
窓から見える台北101のライトアップは消えていた。

(続く)

 

ゴーパーラ


渇望(タンハー)

「アッ、アイスコーヒー!」

私は台湾で開かれるサットサンガに参加するため、早朝に日本を発ち、バスと地下鉄を乗り継いで直接、会場のジョイフルリビングに向かっていた。
3月後半にもかかわらず、南国の台湾は暑く、汗が止まらなかった。
普段は夏でもアイスコーヒーはめったに飲まない。
でも私は思わず、会場近くのカフェでアイスコーヒーをオーダーした。
私の喉は、冷たいアイスコーヒーを渇望していたのだ。

サットサンガに参加し、台湾グルバイと交流した後、師の滞在している宿に着いた。
ミラバイさんが夕食のカレーを準備してくださっていて、皆でいただいた。
宿にはミラバイさんの他、ニューヨークからアーナンダマーリーさん、また前日から一緒に住んでいるラームダースも京都から来ていた。
食後は師の淹れる極上のドリップコーヒーをいただき、至福のひと時を満喫。
リラックスした中、会話は自然とサットサンガのようになっていった。
約2週間後に春の祝祭が行なわれることもあり、その内容は「ブッダ」についてであった。
ブッダが最初に説いた教えは「苦集滅道」であったといわれている。
感情を挟まず心の苦しみを観察し(苦)、その原因を瞑想によって見極め(集)、執らわれを無くし(滅)、実生活でその無執着を実行する(道)――
このブッダの苦集滅道の教えを、時代を超えて私も実践していた。
その結果、心の執着は弱まり、真理への思いが高まっていた。
しかし、どこか深まりが足りないということも感じていた。
この夜、苦集滅道の「感情を挟まずに心の苦しみを観察すること(苦)」に関して、師は次のように強くおっしゃられた。

ラームダース「瞑想を深めていく時に、まず止観というのが大切ですよね。何の思い込みも挟まずに、とにかく観察を続けていくことで、どんどん原因の部分に深く入っていくというか」
ヨギ「そうできたら。誰が止観しているのか? 一方では心やろ。もう一方では心を見るわけやろ。それは矛盾した話やん。同じ一つの心が二つのことはできない。だからそんな悠長な止観みたいなものはできない。もっと苦しみながらと言ってもおかしいけれども、のたうち回るくらいの切羽詰まった直接的な体験をしないとだめ」
ゴーパーラ「何の感情も挟まずに心を見ることが大事だと先輩から教わったのですが、そんなの無理?」
ヨギ「感情挟んだらええねん。もっと感情挟んだらええねや」
ゴーパーラ「のたうち回るぐらい」
ヨギ「そうや。感情が無くなるというのは、全部終了して初めて無くなるんやから。それまではついて回ってるんやから。心の働きそのものが思考とか感情とか、そういうものによって成り立っているわけやから、それを無くすなんていうことははっきり言って不可能や。だからもう一方では、必死になるとか言うやんか。それは、のたうち回るっていうことやで。格好もクソもないねん」

確かにそうだ、病気の正確な診断ができるのは優れた医者だけである。
患者が患者自身の病気を冷静に診断し、治療することなんてできない。
病気に絶望し、病気を治したい、健康な状態に戻りたいという強い思いが患者自身から湧き出てこない限り、医者を探すことはもちろん、治療やリハビリは不可能だ。
私は、はっきりと自分に足りないものが感じられた。
それは、のたうち回るくらい切迫感をもって真理を求めるということ!
そうでないと苦しみは完全に滅しない。
薬をちょこちょこ飲んでももう意味がないのだ!
師は、さらにこう言われた。

「のたうち回わるというのはタンハー。渇望を伴いながらもがくとかね。もがくというのは、単純な話はほら、修行者が水の中に頭をつけられて息ができひん、もがくやんか。何がしたいんやって、息がしたいだけやて。まさに水の中に頭突っ込まれたあの状況や」

(続く)

ゴーパーラ


ブッダ 梵天勧請

みなさん こんにちは

前回のブログにもありましたが、私たちの師は、台湾のグルバイの熱意に答えられ、3月22日に台湾ご訪問の旅に出られます。師の教えがどれだけ多くの人々の苦しみを救っているのか想像もつきません。こうやって世界のあちこちに真実の光が届けられている今の時代に、共に生まれてくることができたことに深く感謝し、師の台湾ご訪問をお祝いいたします。

さて、四月八日のブッダの御聖誕日を控え、そのお誕生をお祝いし、久しぶりに本願寺出版社の「ブッダ」よりご紹介したいと思います。

 

完全なる解脱に至る法を見出すまでこの坐を動かない。
そう決意して、沙門ガウタマはアシュヴァッタ樹の下に坐を組んだ。生と死、苦の根源へと思いを深め、徹底的に苦の原因をみきわめ、本質を暴き出す、沙門ガウタマ。
明け方近く、沙門は静かな瞑想の中で完全なる解脱に至る道を見出した。それからガウタマは七日間、瞑想を続けた。
これから何をすればいいのだろうか。
「速やかに涅槃に入るがいい。シャカ族の王の子よ」「お前は完全な解脱への道を得た。お前の願いは満たされた。もう娑婆にいる必要はない」マーラの声が虚空から聞こえてきた。
この法は世の中の常識からかけ離れすぎている。誤解され、かえって人を惑わし、迷いを深める原因になってしまったなら、それは本意ではない。ガウタマの心は沈黙を守ることに傾き始めていた。
このままではいけないと梵天は急いで天空から降り立った。「ブッダよ。あなたは完全な解脱への道を得られた。どうか、その法をこの世の生きとし生けるものに説いていただきたい」
ブッダはしばし沈思し、静かに現世を見回した。たしかに梵天の言うとおり、この世にはさまざまなものが生きている。法を聞いて共感し、理解するものもいるかもしれない。しかし、それは本当にわずかな人々だろう。しかも解脱に至るのは容易ではない、堅固な意志とひたむきな精進が必要だ。
「ブッダよ。ほんの少しでも望みがあるなら、あなたはこの法を説くべきだ。この世に生きるものたちは迷い、苦しんでいる。それを教えるのが、あなたの得た道ではないか。そうであるならば、ブッダよ。あなたはどんな困難があろうと法を説くべきではないか」
沈黙のあと、ブッダの口元に慈悲にあふれた微笑が浮かんだ。
私は法を説こう。ブッダの耳に歓喜の声が届いた。ブッダは座を解き、ゆっくりと立ち上がった。清浄な光が射して、ブッダの歩く道を明るく輝かせた。

梵天様の説得がなかったら、そしてブッダの慈悲の思いがなかったら、今のこの世の中はどうなっていたのでしょうか。時空を超え、私たちはブッダから、そして私たちの師から、苦を滅する道を授けられ、この暗闇の世界の中、まっすぐに光に向かって歩んでいる実感があります。この幸運をどう表現したらいいのでしょうか。このご恩を、身をもってお返ししたい、ブッダや師を見倣い、真実を見続け、実現したいと願うのです。

シュリー・ラーマクリシュナは、私たちを苦しみから救うべく顕れた神の化身についてこうおっしゃっています。

ダッタートレヤやジャダバラタのような賢者たちは、ブラッマンのヴィジョンを得た後、相対界には戻って来なかったといわれている。ある人々によるとシュカデヴァはブラッマン意識のあの大海の、たった一滴を味わっただけだそうだ。彼はあの大海の波を見、かつその轟音を聞いた。しかしその中に潜りはしなかった。高い塀の向こうに無限の原野があった。四人の友達が、塀の向こうに何があるかを見たいと思った。その中の三人は、次々と塀をよじ登り、原野を見ると大声で笑い、向こう側に転げ落ちた。この三人はまったく、その原野について情報を伝えることができなかった。第四の男だけが帰ってきて人々にその情報を話して聞かせた。彼は、他の人々を教えるためにブラッマジュニヤーナを得た後にも、自分の肉体を保持する人々に似ている。神の化身はこの類に属する人々である。

私たちのために戻ってこられた神の化身の方々、そのことを私たちはどれだけ理解できているのでしょうか。みなさんだったら塀の向こうに行ってしまいますか?自分のためではなく、他者のためだけに生きる神の化身の生き方を見倣って生きていきたいと思いました。

ダルミニー


ラーマクリシュナの福音

みなさん、こんにちは
もうすぐ桜の季節ですね。桜といえば、「花祭り」、四月八日はブッダの御聖誕日です。ブッダはインド北部のルンビニ園でお生まれになりました。そこはたくさんの花に囲まれた美しいところであったということで、御聖誕日にお花をお供えするようになり「花祭り」と呼ばれるようになったといわれています。そしてその日は、「サナータナ・ダルマ アヴァターラ・メーラー 神性示現大祭」がプレーマ・アーシュラマで開催されます。アヴァターラとは神の化身、神人であります。この世で苦しんでいる私たちの救世主として、慈悲深くもこの世に顕れてくださいました。その時代時代に顕れた神の化身の方々の顕れをお祝いする大祭です。このお歓びの日が待ち遠しいですね。

 

さて今日も「ラーマクリシュナの福音」からご紹介いたします。

ある日の土曜日、Mがダクシネシュワルに着いたのは朝八時ごろだった。シュリー・ラーマクリシュナは自室の小さい寝台の上に座っておられた。床に数人の信者が坐っている。
ラーマクリシュナ「お前は巡礼に出るつもりなのか」
ゴパール「はい、少し遍歴してまいりたいと思います」
ラーム「師は、人はさまざまな聖地を訪れるサドゥーであった後に、旅への願望が十分に満たされると、一カ所に坐っているサドゥーになるのだとおっしゃっています」
ラーマクリシュナ「神は『そこに』おいでだと感じるあいだは、その人は無知だ。しかし神は『ここに』おいでだと感じると知識を得るのだ。ある男がタバコを吸いたいと思った。炭に火を付けてもらおうと隣の家を訪れた。真夜中のことで家人はもう眠っていた。さんざん戸を叩いた後、誰かが出てきて扉を開けた。そして、『おや、どうしたのか』と尋ねた。『分からないかね、私のタバコ好きは君も知っているだろう。火をもらいにきたのだよ』と男が言うと、隣人は『ハハハ!君はまったくりっぱな御仁だ。わざわざここまでやってきて、戸を叩いて。まぁ、自分の手に火のついたランプをさげているではないか』と言ったという。(みな笑う)人が探し求めるものは彼のすぐそばにあるのだ。それでも彼は、ここかしこさまよい歩くのだよ」 

現代でも「自分探しの旅に出る」という人の話をよく聞きます。そして私たちも長い心の旅を続けてきました。旅に出て、どこまで本当の自分を知ることができたのでしょうか。本当の幸せや自由はそれによって得ることができたのでしょうか。旅の終わりに私たちはヨーガと生涯の師に出会うのだと思いました。ヨーガは真実を実現させるもの、自分自身に内在する本当の自己を目覚めさせるものであると師から教えていただいています。 

真実を知った存在がインドには連綿と顕れてきました。そして彼らの達した、あるいは彼らが目覚めた真実の証言はこうです。『かつて、この全宇宙の背後にあって、偉大なる存在として昔から求められていたものと、この体の中にあって、私という真実の存在とは同じである』。その真実は言葉も届きませんし、形もありません。神という言葉さえ届きません。言えることは、それは『ただ在る』というものです。それだけがリアリティです。それがあなたです。真実は既に私たちの中に在ります。ただちょっと心がそれを覆い隠して邪魔をしているようなものです。無知という暗闇を払い除けなければいけない。そうすれば、もう既に在る真実は独りでに輝くでしょう。

               サット・グル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

本当の自分、本当の幸せや自由はここかしこを探さなくても、もう既に自分の中にある。それを思い出すために私たちは生まれてきたのだ。この教えがどれだけ、私たちを勇気づけ、前に進ませてくれていることでしょう。

時空を超え、真実の教えに触れる、このありがたさ。
人間の魂を揺さぶり、目覚めさせる、神の化身(アヴァターラ)に勝利あれ! 

ダルミニー


ブッダに迫る。

早いものでもう三月。春の気配が一気に増してきて、街はどこかウキウキした感じがします。新しいことを始めるには、いい季節ですね。

私も春から新しいチャレンジを始めました。
ブッダへの瞑想です。

ブッダを全く知らない方はいないと思いますが、私は限りなくそれに近い存在でした。
悟りを開いた仏教の始祖。キリストよりも古い時代の聖者。インドの山奥で修行した人。
正直その程度しか知りませんでした。

ブッダについて学んでいくと、先ずでてくる教えが、諸行無常・一切皆苦ではないでしょうか?
それにしても、なんと身も蓋もない言葉でしょう。
漢字四文字熟語というのもあいまって、私には厳酷でもの凄く陰気な、全く絶望のようなイメージしかありませんでした。
「そんなもの俺には関係ないぜ!!」と若い頃なら息巻いていたかもしれませんが、実際にこの年齢になると身にしみて思い知らされるばかりです。

「欲望を叶えたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、彼は実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。」
「欲望を叶えたいと望み、貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、彼は矢に射られたかのように悩み苦しむ。」

「いちいち言われなくても知ってます!」です。
でも分かっているのに、どうやったって同じ事を繰り返してしまいます。

それほどまでに人間は欲深く、儚いものになおさらのこと執着してしまいます。
ついには追い求めることがロマンだなんて言ったりもして・・・・・・

覚者からすれば馬鹿で愚かな人間も、幸せになりたいと願う気持ちは常に本心からあるのです。
ただ、無知がその純粋な願いを遠ざけ、延々と繰り返し続ける因果の輪から出られないのです。

仏陀は人間の苦しみを本気で真っ正面から考え抜いた人だと思います。
苦しみの種類を見分け、成り立ちを観察し、遂にはその原因と解消法を発見したのです。
でもそれは一般にはとても理解しがたく、簡単には手に入れられない境地でした。

命を賭けて自らを痛めつけ、全てを投げ打って苦行を課してもダメ。諦めて享楽に耽っていながら神頼みだけしていてもダメ。

「慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。」

慈悲喜捨を意味するという解釈もあるようですが、私は先日のサットサンガで師が仰った、四つのヨーガの完成形の心境のように感じました。

この世の理は確かに残酷で、夢も希望もねぇ!かも知れません。でもそれを大前提として認め、受け入れる覚悟をした上で、
実はそこから離れられる術があるのですよ!と諭して廻った。
本当は誰よりも人を愛し、生涯を目の前で苦しむ人に手を差し伸べ続けた、慈悲そのものの人だったのだと感じます。

仏陀よ、私は貴方のハートを理解できていますか?
私はもっと貴方を思い、貴方に迫ります。

二千五百年前、一人の人物が人類の根源的な問題の答えを解き明かした。
しかし仏陀以前にも、幾多の覚者がこの答えを解いていたと言っています。その記しは人類の共通の記憶として現代の私達の魂にも刻まれていると言います。そして瞑想で、その記憶にアクセスすることができるとも。

来月、四月八日は仏陀の聖誕日。そしてMYMの祝祭、サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラーが開催される日です。
それまでに少しでも深く仏陀のハートに迫って行きましょう!!

Caitanya


美しい世界が見たい

家庭を持ち、子育てをし、仕事をしていると、職場関連、子供の学校習い事関連。親戚関連など、本当にいろんな人とお付き合いする機会があります。

人と接する時、心に留めている言葉があります。

「トゥルシダスは『善い人にはこの世は善で満ちている。しかし悪い人にはこの世は悪で満ちている!』と言っている。この世は善くも悪くもない。私が善と呼ぶものをあなたは悪と呼ぶかも知れないし、その逆もあるだろう。何処に標準があるのか。標準は、人生に対するわれわれ自身の態度の中にある。各自がかれ自身の標準を持っているのだ。しかも経験と洞察力とが深まれば標準も変わって行く。残念なのは、われわれがまだ悪を認める、ということだ。われわれ自身が完全に善になったら、全世界が善として現れるであろう。われわれは自分の心の投影を見ているにすぎないのだ。常に一切万物の中に主を見よ。そうすればあなたは悪を見ないだろう。疑い深い心はあらゆる処に悪を見る、信頼の心は善だけを見る』

「だが、誰が理解しようとするか。誰もかれもが自分のエゴの中に閉じこもっている。その牢獄の中から、われわれは世界を判定する。治療法は、すべてのものの中に主を見ることである。」(スワミ・トゥリヤーナンダ)

人間関係でこじれるときは、よくよく考えると、結局どんなときも、自分の中に疑いの目があったことが分かります。神だけを見て謙ることが出来たとき、そこには美しい世界が広がります。

疲れていたり、自分を調えられていない時は、濁った目で人を判断しがち。

アーサナ・瞑想、真理の学び。地道なのだけれども、やっぱりこれらのクリアヨーガを毎日行うことが、素直に飛び込んでいける秘訣なのだと思います。

いつでも、どんなときでも、神だけしか見えない人に、なりたい。

京都のとある公園、桜の花が少し咲き始めていました。


ラーマクリシュナの福音

みなさん こんにちは
もうすぐシュリー・ラーマクリシュナの御聖誕日です。

近代のインド最大の聖者と仰がれる、シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサは1836年2月18日に、インド西ベンガル地方のカーマールプクルにお生まれになりました。幼い頃より、高い霊的ムードに没入していた彼は、やがて最愛の聖母神カーリーを見神します。その後すべてのヨーガを実践、不二一元を大悟し、イスラム教やキリスト教も悟り、「万教は一なる真理への多様な道である」ことを説かれました。慈愛に満ちた神の化身によって顕わされた永遠普遍の真理は、愛弟子ヴィヴェーカーナンダによって世界中に福音となっていったのです。


シュリー・ラーマクリシュナ

シュリー・ラーマクリシュナは福音の中で、微笑しながら、少しどもってお話しになったり、若い男の子たちと友達のように大はしゃぎされたり、腹を抱えるほど爆笑されたり、歌を歌いつつサマーディーにお入りになったり、分かりやすい例え話を挟んで、さまざまなグルの面を弟子たちや訪問者にお見せになりながら、神の話をなさっています。

そしてシュリー・ラーマクリシュナはグルの恩寵について、こう説かれています。
「人には八つの足かせがある。しかしそれが何だというのだ。これらの足かせは神の恩寵によって一瞬のうちに落ちてしまうのだよ。それがどういうものか分かるか。ある部屋が一千年の間、真っ暗だったとする。誰かが灯火を持ち込んだら、その瞬間に闇は消えるのだ。少しずつではない。お前、魔法の早業を見たことはないか。彼はたくさんの結び目のあるひもを手にしている。その一方の端をなにかに結びつけ、他の一方を自分が持つ。そして二、三回そのひもを振り回す。するとたちまちすべての結び目は解けてしまうのだ。しかし別の男がどんなに試みても、それらの結び目を解くことはできない。無知というすべての結び目はグルの恩寵によって瞬く間に解けるのだ」

インドでは生涯をかけてグルを探し出すといわれています。グルと巡り会うことは本当に希有な吉祥な縁ゆえだといわれています。『ラーマクリシュナの福音』の筆者であるM(マヘンドラナート・グプタ)は、初めて自分のグルであるシュリー・ラーマクリシュナに出会った時のことをこう書いています。

「なんという美しいところだろう! なんという魅力のある人だろう! なんという素晴らしいことを言うのだろう! もうここから動きたくない!」

聖者との出会いは、人がその意味を知ろうと知るまいと、その人の心に神聖な印象を残します。
みなさんも師との出会いの時を思い出されましたか?
『ラーマクリシュナの福音』の中には、師と弟子の美しい物語もまた繰り広げられていると思います。ここでシュリー・ラーマクリシュナの弟子の中でも、そしてラーマクリシュナ僧団の中でも、スワミ・ヴィヴェーカーナンダと双璧をなした人物、スワミ・ブラマーナンダが残した祈りの言葉をご紹介いたします。

「私は主に、物質界の意識から完全に解放してくださいと祈ります。グルの蓮華の御足の中に浸りきりでいられますよう、どうぞお恵みください。これが心中の、たった一つの願いです」

 グルこそすべて!

ジャイ シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサ キー ジャイ

ダルミニー

 


『あるヨギの自叙伝を読んで』(5)――ラム・ゴパール・ムズンダー

この人生の中で誰もが一度ならず、「謙虚になりたい」と感じたことがあると思います。
特に傲慢👺になったりして、鼻を折った時などは……
しかし、打撃を受けた時には謙虚でありたいと反省するも、また同じ過ちを繰り返すこともしばしば……
では、どうすれば謙虚であり続けることができるのでしょうか?
『あるヨギの自叙伝』で紹介されているラム・ゴパール・ムズンダー、通称「眠らぬ聖者」は、驚くほどの深い謙虚さを教えてくれます。

若き日のヨーガーナンダは、人里離れた洞窟で長年クリヤー・ヨーガを行じて魂の目覚めを得たラム・ゴパール・ムズンダーという聖者に会いにいきます。
その途中、タラケシュワのヒンドゥー教の崇拝を集めている寺院に詣でるも、ヨーガーナンダはその祭壇の丸い石に頭を下げる気持ちになれず、寺院を出ます。
その後ヨーガーナンダは一人の男に道を尋ねてラム・ゴパールの家を目指すも一向に辿り着くことができす、灼熱の太陽の下、2日かけてやっとラム・ゴパールに会うことができました。
しかし、会ったばかりのラム・ゴパールは唐突にこう言います。

「ところでお前は、神はどこにおられると思っているのだね?」
「そうですね……神は私の内にもおられますし、また、すべてのものの内にも宿っておられます」
「では、どうして昨日タラケシュワの寺院で、石のシンボルに宿る神にお前はひざまずかなかったのだ? その傲慢さに対する罰として、お前はあのいたずら者から間違った道を教えられたのだ。おかげで今日もずいぶん苦しい思いをしたはずだ」

この会話の後、ラム・ゴパールはヨーガーナンダを家に招き、二人は4時間瞑想し、夕食を共にします。
この聖者は、岩屋で20年間毎日18時間、洞窟で25年間毎日20時間ずつ瞑想していましたが、それをまだ「わずかな瞑想をしただけで、はたしてどれだけ神に歓ばれているだろうか疑問に思っているのだ」と言います。
ヨーガーナンダは思わず、「先生は、そんなにも長い瞑想をなさって、それでもまだ神の愛がしっかりと確かめられないとおっしゃるのですか? それでは我々のような凡人はいったいどうしたらよいのでしょう!」とびっくりして尋ねると、ラム・ゴパールは次のように答えました。

「若者よ、神は永遠無限のものではないか。その神を、わずか四十年や五十年の瞑想で完全に知ろうなどと望むことが、そもそも無理というものだ。しかしババジは、われわれが少しでも瞑想すれば、死と死後に対する深刻な恐怖から救われる、と保証してくださった。お前の霊的修行の目標を、無限の神との合一に置きなさい。途中の小さな山々には目をくれず、ひたすらこの最高の目標に向かって努力すれば、お前は必ずそれを達成することができる」

そして毛布の上に横になって眠りに就いたヨーガーナンダに、ラム・ゴパールは次のように話しかかけます。

「まだ眠らないのか?」
「先生、どうして眠れましょう? 目を閉じても開いても、まばゆい光が私を取り囲んでいるのです」

翌日、もう一度例の寺院に詣でて、その祭壇の丸い石にひれ伏したヨーガーナンダ――

今回このエピソードを読んで私は、自分と同じ名前が付いている聖者ラム・ゴパールから、神への不断の瞑想と礼拝、それこそが謙虚さを深め、謙虚であり続ける秘訣であると学ばせていただきました。

ゴーパーラ


ラーマクリシュナの福音

みなさん、こんにちは
今年はいつにも増して寒さが厳しいように思いますが、いかがお過ごしでしょうか。
もう一月も終わりですね。一月は睦月といいますが、これはお正月に家族とか親類が集まり、睦み合う、親しくする、仲良するという意味で「睦み月」が「むつき」になったという謂われがあるそうです。なんともいい響きで優しい心持ちになりますね。

さて、今日も「ラーマクリシュナの福音」よりご紹介いたします。

冬であった。太陽は昇ったばかりで、河は上げ潮で北に流れていた。朝八時、シュリー・ラーマクリシュナとM(マヘンドラナート・グプタ)は境内北端の松林で話し合っていた。
ラーマクリシュナ「ナングターがトラとヤギの話をしてくれた。ある時、雌のトラがヤギの一群を襲った。漁師が遠くからそれを見て、彼女を撃ち殺した。トラは妊娠していて、いまわの際に子トラを産み落とした。子トラはヤギの仲間に入って成長した。最初は雌ヤギの乳を飲み、メエメエと鳴いた。徐々に子トラは大きなトラになったのだが、相変わらず草を食い、メエメエと鳴いていた。ある日、恐ろしいトラがこの群れを襲った。群れの中に、トラが一匹、草を食い、自分が近づくとヤギたちと一緒に逃げるのを見て驚いた。このトラは草を食べているトラを捕まえ、水辺まで引っ張っていき『さあ、水に映っている自分の顔を見てごらん。ね、お前も私と全く同じ丸いトラの顔をもっているだろう』と言った。次に、一片の肉をその口に押し込んだ、草を食ってきたトラは肉を食うことを拒んだが、やがてそれをうまいと思った。恐ろしいトラは『なんと恥ずかしいことだ、ヤギと一緒に草を食べていたとは』と言った。するとそのトラも本当にそれを恥ずかしいことだと思ったという。
草を食い、メエメエと鳴くというのは、『女と金』を楽しみ、普通の人間のように振る舞うということだ。新しいトラと共にそこを去るのは、自分の霊意識を目覚めさせてくれるグルと共に避難し、彼のみを我が身内と見るというのに似ている。自分の顔を正しく見るというのは、自分の真の自己を知ることである」

 シュリー・ラーマクリシュナの例え話はとても分かりやすいですね。ついつい話に引き込まれてしまいます。私たちは自分のことをこの身体や心だと思っています。ヤギだと思っているんですよね。でも、私たちはこの身体でも心でもない、その奥にある純粋な意識、絶対不滅の存在だと、師はいつも私たちを励まし、導いてくださっています。

心は常に動揺し、それによってまた心はかき乱されます。真理を学ぶことによって、真理への熱望によって心の波を静めてください。その状態が堅固に持続するなら、その時あなたは真実の自己に目が覚めるでしょう。
                                                            サット・グル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

真理を学び、ヤギではなく、トラとして一緒に生きていこうではありませんか。

ダルミニー