聖者と教え」カテゴリーアーカイブ

クリヤヨーガ

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

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パラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』には、「クリヤヨーガ(実行のヨーガ)」という教えが際立っていることは、本を読んだ方なら誰しもが感じるところだと思います。しかしながら、その内容は「秘法」ということで、開示されてはいません。
では、なぜクリヤヨーガは秘法とされているのでしょうか?
今回のサットサンガでは、クリヤヨーガの秘法たる所以(ゆえん)が明らかにされました。

サットサンガの前半、真理の教えを実践しようとするも、日常の思いや行為がなかなか変えられないという質問が続きました。師はそれに対して、「本当に生きているという意味とは何なんだろうと。誰が生きているのか。そういう根本的なことをもっと真剣に捉えないといけない。それはすぐには理解できることではないかもしれません。それでも自分自身にそれを問いかけていくことが大事です」と述べられ、この人生の命題の答えを見つけるには「訓練」――アーサナはもちろんのこと、ヤマ・ニヤマ(禁戒・勧戒)といった日常における心の働きの訓練――それが最も大切で、その訓練によって瞑想の土台がつくられると説かれました。
会の終盤からは、ブラフマチャリヤ(純潔)の実践など、ヤマ・ニヤマに関する質問が続き、『あるヨギの自叙伝』を読み返しているというゴーパーラが、「クリヤヨーガは秘法といわれていますが、やはりヤマ・ニヤマのところが大きいですか」と質問する。

「大きいです。ヨーガは特にクリヤヨーガ――クリヤというのは実行するとか実践するとかいう意味合いです――実践的ヨーガ、実行のヨーガというふうに訳されるでしょう。そこでは毎日実行すべきものとして、聖典の学習、それから何らかの肉体をともなう修行、訓練、そして神への祈念、瞑想、その三本柱を特に取り上げてクリヤヨーガというふうにいっています。ヨガナンダが本の中でクリヤヨーガというものを初めて西洋に紹介をしたのです。ヨーガそのものを具体的に実際的に紹介したといってもいい。教えとしてはヴィヴェーカーナンダがその先駆であったけれども、それをより実践的なかたちで、つまり弟子たちを育てていくという使命を担ってアメリカに渡ったわけです。その中でヨーガというものをより実際的にしていくためにクリヤヨーガという言葉を使ったのだろうと思う。単なる知的な理解だけではなくて、ヨーガを実践していくという、実践することがヨーガですよということを、みんなに実践を求めた。それだからクリヤヨーガという教えがひと際、あの本の中で際立っている。内容はさっき言った三つの柱を中心としていますが、その毎日肉体をともなう何らかの訓練、修行という意味はアーサナやプラーナーヤーマも指しますし、それからヤマ・ニヤマにおける行為のあり方、これも含んでいるのです。それもあって実践、実際的実践になるわけですから。そして、あえて本ではつまびらかにそれらの内容を教えなかったことには理由があって、これはやはり本当に求める者でないとそれを実践できないから。単なる興味本位の知識としてそれらを知ることでは何の意味もない。だからその真実というもの、真理というものに並々ならぬ関心を抱いて、そしていわばヨガナンダの弟子となり、悟りを求める、実践を行なう者たちに初めてその内容が教えられていくという、そんな手順だったと思う」

ヨーガとは知的理解ではないクリヤ、即ち実行・実践であり、そしてそれを可能にするのは、真理を求める並々ならぬ思いである――
最後に師は、純粋な求道者の象徴ナチケータスについて説かれます。

「以前、『アムリタ――不死ーー』という聖劇をみんながやってくれたのですけれど、あの中でナチケータスという少年が死神の下に送られて、死神から真理を教えられるというくだりがありました。ナチケータスが死の国に行った時に、たまたま死神が不在で、三日三晩待っていたという逸話があります。その三日三晩というのは伝統的な習わしなのです。これは仏教の方にも伝わっていまして、禅宗なんかでは弟子入り、入門をしようと思えば、三日間門前で待っていなきゃいけない。つまり、その者の真剣さというか熱意とか本気とか、そういうものが試されるわけです。そうして三日を過ぎて初めて入門という門を入ることを許される。そんなふうにクリヤヨーガもそういうところを表しているんだと思います」

秘法とは隠されたものではない、求める者の真剣さによって開示される!
どんな状況でも、どんな誘惑がやってきても、ナチケータスが死の秘密という真理だけを求めたように、その門戸をノックし、神だけを叫び続けることができるか?
切に真理だけを求める真剣さと日々の実践、それこそがヨーガの秘法であると学んだサットサンガでした。

ゴーパーラ


大きなエゴ

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地球のことを思うとエゴの大きさは地球くらいになり、

宇宙を思うと宇宙大になり、

神を思うと神の大きさになります。

自分のことしか思わないと、小さなエゴしかありません。

エゴは悪いものではなく、考え方によっては必要です。

どうせなら大きい方がいい。

サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

 

ブッダは生きとし生けるものすべてのことを慈しみ、大切にしたと言われています。そうすると、そのエゴの大きさは無限大!エゴも無限大になればもはやエゴではないんだなあと、この教えを聞いた時に思いました。自分の悩みに四苦八苦しているというエゴは、本当に小さなエゴなんですね。

サーナンダ


平和にあるということ

在るのは平和である。
私たちに必要なのはただ静謐(せいひつ)だけだ。
平和が私たちの真の性質なのだ。
                       ラマナ・マハリシ

ヨーガを学び始めた頃、心は、身体のように目に見える物質ではないけれど、微妙な物質であると聞いてびっくりした覚えがあります。物質なのだと思ったとたん、心が自分から少し離れていったように感じました。心はいつも何かを考え、片時も静かにしていません。そのように客観的に「心」を眺めたことは今までにはなかったことでした。

師は心についてこう説かれています。

「心は自立できません。そのために常に何かを所有したがっている。『私は何々である、誰々である』『これを持っている、あれを持っている』『これができる、あれができる』『知恵がある、力がある』。何であれ心はそういうものであってしか成立しないのです」

師は、心は常に何かに依存しているものであると教えてくださいました。そしてそういう一切の依存関係、執着関係を離れた状態に心があるとき、それが静謐というものであり、その静謐を得る方法がヨーガにあると教えてくださっています。

ある時の問答で、この地球上での戦争や環境破壊、さまざまな理不尽なこととどう向き合っていけばいいのかという質問に、師は、人として苦しんでいる人たちにできることをしていくべきだとも教えてくださいましたが、それよりも自分自身をより良くしてくことが先決だと教えてくださいました。

「第一には自分自身の器、心とか身体とか状況とか、そういうものをより良くしていく。これは心が作り出す間違った欲望とか執着をなくしていくということに他ならないと思いますし、そうして普遍的な愛や慈悲あるいは平和を望む心、そういうものを培って、それを具体的な行為に移していくことができればいいと思います。ともあれ、まずすべきは自分自身の中の平和を確立すること、真実を確立すること、それによって外への働きは有意義に行なわれると思います」

自分自身をまずより良くしていくこと、それがこの世界をより良くしていく第一歩となる、この意味はヨーガの教えを学び、実践していくと実に良く分かります。なぜならヨーガを実践していくと家庭や職場の中で、次第に自分と人と人との間に調和というものが生まれてくるのを感じることができるからです。平和が私たちの真の性質であるからこそ、私たちは平和を強く望んでいるのだと思います。
ヨーガを実践し、もともとの性質である平和な自分自身に戻ろうではありませんか。
それが、世界の平和に貢献することになるのですから。

ダルミニー

シュリー ラナマ マハリシ

シュリー ラマナ マハリシ

 


『あるヨギの自叙伝』を読んで(2)――ラヒリ・マハサヤ――

皆さん、こんにちは。
ゴーパーラです。
今回は、「ラヒリ・マハサヤ」について紹介させていただきます。

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「お前の今生の役割は、市井の中で生活して、家庭人としてのヨギの理想的な模範を人々に示すことにあるのだ」

ヒマラヤの奥地に数千年にわたって現存する神人ババジは、ラヒリ・マハサヤにこのように告げ、秘法クリヤー・ヨーガ(特定の行法による神との合一)を伝授しました。
1861年、ラヒリ・マハサヤが33歳の時でした。

「ヒマラヤ奥地に数千年にわたって現存する神人ババジ!?」「クリヤー・ヨーガって何?」
「??」がついた方も多いと思いますし、何だか神話やおとぎ話のようなファンタジーに思えてなりません。
しかしながらこのエピソードがその類いのものではなく、リアリティをもっていることは、ラヒリ・マハサヤの生涯によって明らかです。
イギリス政府の陸軍技術省の会計官であり、家庭をもっていたラヒリ・マハサヤでしたが、終世、バラナシの小さな家に留まり、家庭人の勤めを果たしながらも、霊性の修行と引導を行ない、ヨギ(ヨーガ行者)の最高のお手本となったのです。
パラマハンサ・ヨーガーナンダは、ヒマラヤで修行する伝統的スタイルのヨギと比較して、ラヒリ・マハサヤを「新型のヨギ」と称しているほど、その存在は革新的だったのです。

このようにラヒリ・マハサヤは、ババジの命に従い、どちらか一方でも容易ではない聖俗両方の仕事を全うした偉大な存在ですが、ヨーガーナンダのように目立った活動が見受けられなかったためか、私にとってはどこか印象の薄い存在でした。(大変失礼なことを言っています……😅)
『あるヨギの自叙伝』を読めば、ラヒリ・マハサヤの驚くべき奇跡の数々が伺え、普通の存在ではないことは分かります。
盲目の弟子に視力を与えたり、遠く離れたヨーガーナンダの父の前に光の姿で顕現してその心を一変させるなど、イエス・キリストのような奇跡の数々を残していますが、不思議と私は彼の存在に関心をもっていませんでした。

しかし今回、改めて『あるヨギの自叙伝』を読み返した時、ラヒリ・マハサヤの印象は全く異なり、私の心はその存在に大きく魅了されました。
それは、ラヒリ・マハサヤの「陰の偉業」のようなものが感じられたからです。
『あるヨギの自叙伝』では、マハトマ・ガンジーやラマナ・マハリシといった名立たる聖者と並び、あまり知られていない聖者も紹介されていますが、その多くがラヒリ・マハサヤの直弟子でした。
眠らぬ聖者ラム・ゴパール・ムズンダーのように隠遁していた弟子もいましたが、世俗に留まっていたスワミ・ケバラナンダやスワミ・プラナヴァナンダ(両者は後に出家)、またヨーガーナンダの父バカバティをはじめ、本当に多くの素晴らしいヨギを育てていました。

教えを広めることには慎重だっというラヒリ・マハサヤ――
地道に、また着実に、真理を一人一人の心に根付かせ、霊性の土壌を耕して、その種子を芽吹かせていたのでした。

このラヒリ・マハサヤの陰の行為があったからこそ、霊性の基盤が築かれ、スリ・ユクテスワ、そしてパラマハンサ・ヨーガーナンダへと、永遠の真理「サナータナ・ダルマ」が受け継がれたのだと感じました。

ゴーパーラ


『あるヨギの自叙伝』を読んで(1)――バガバティ・チャラン・ゴーシュ

皆さん、こんにちは。

最近、「無所有」に思いを巡らせているゴーパーラです。

「むっ、無所有?! ついに家や財産を放棄して、出家するのか?!」と思う方もいるかもしれませんが(いないかもしれませんが)、元よりそんな🏠💰は持っていません。

ヨーガにおいて無所有とは、単に物を持っていないことではなく、心に何の思い煩いもない「無執着」の境地を意味しています。

私の今年の目標である真実の自己「アートマン」に目覚めるためには、その実現を阻んでいる心の煩悩や執着を無くさないといけないので、今はそれらの原因に識別・瞑想しています。

そんな中、一週間ほど前から、パラマハンサ・ヨーガーナンダの『あるヨギの自叙伝』を読み返しています。

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聖典に限らず、小説や映画などを改めて見返すと、「あれ、こんなところ、あったっけ?」といった具合に、感じ方や印象が違うといったことはありますよね。
特にそれが良い作品であればあるほどに、まるで初めて触れたかのような新鮮な発見とそれに伴った喜びがありますよね。
私はこの『あるヨギの自叙伝』を読むのは3度目ですが、今回もありました、その新鮮な発見と喜びが!
それも読み始めた4ページ目で!!!

そこには、鉄道会社に勤めていたヨーガーナンダの父バガバティ・チャラン・ゴーシュについて書かれていました。

父は、子供たちが小さかった間は、厳格なしつけを施した。そして自分自身は、文字通り謹厳で質実を旨としていた。例えば、劇場へ行ったことは一度もなく、楽しみといえば、霊的な行か、バガヴァッド・ギーターを読むくらいのものであった。
父の退職後、その鉄道会社にイギリス人の会計検査官がやって来て、検査をして驚いた。「この人は三人分の仕事をしているじゃないか」――
未払いのボーナスが支給されるも、父は大して問題にしていなかったので、忘れて家族にも話さなかった。よほどたってから、私の末の弟ヴィシュヌが、銀行からの通知書にこの多額の預金があるのを見つけ、驚いて父に尋ねると、父は言った。
「物質的な利益に、どうしてそんなに有頂天になれるのだ。心の落ち着きを人生の目標にする者は、自分の持ち物が増えたからといって喜び、減ったからといって悲しんだりするものではない。人間は裸でこの世に生まれ、無一文でこの世を去るのだ」

これぞ、物の有無ではない本当に清々しいまでの無執着の境地、また結果に執らわれず自らの義務を淡々と行なうカルマ・ヨーガのお手本であると、私はとても感銘を受けました‼️
併せて、劇場などの娯楽に一切興味がなかったという心境も、見倣うべきところです。

「さすがはインド人、宗教が生活に根付いている」と一見思ってしまいますが、ヨーガーナンダの父バガバティも最初からそうではなかったそうです。
彼は霊的な修行をする以前は、鉄道員の同僚が遠く離れたグル(霊性の師)に会うために1週間の休暇を願い出た際、「君は狂信者になりたいのかね? 出世しようと思ったら、今の仕事に精を出しなさい」と言っていたほど、霊的なものに偏見がありました。
感覚的には、現代の日本人と何ら変わらないですよね(笑)。

ではなぜ、そんな彼が180度、人生観が変わることになったのでしょうか?

それは師ラヒリ・マハサヤと出会ったからです。(続く)

ゴーパーラ


年の瀬

2016年もあと少しとなりました。みなさまにとって今年はどのような年でしたか?
今年も一年、私は理想とする聖者に近づこうと一歩ずつ努力してきました。到底近づいたと言えない程その歩みは遅いのですが、年が変わってもそれを続けていくことに変化はありません。

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新しい年に向けて、もう一度読み直そうと思います。
ナーグマハーシャヤの生涯は取り立てて大きな業績に彩られたものではありません。多くを語らない素朴さと慈悲に溢れた生涯は田舎でひっそりと送られたからです。ただ、彼の真理・神への信仰は徹底され、いくつかの驚愕するエピソードが残されています。(気になる方はぜひ本を読んでみてください)私は彼の純粋さと素直さがとても好きです。そしてとても憧れるのです。

この一年の中でも日常生活の中でおこるさまざまな事柄において、ナーグマハーシャヤならどのようにされるかなと思うことは多々ありました。自分の傲慢さが大きくなったときはナーグマハーシャヤの顔が見れない……(元々写真はないのですが)と恥ずかしくなるときもありました。

彼がどのように一日一日を生きたか、どんなふうに話し、どんなふうに歩き、どのようにグルを愛したのか、彼の息吹を感じるまで、私が彼に近づくまで精進は続きます。

タイトルにある、謙虚さについて、どのように実践していくべきなのか、ヨギさんはこのように教えてくださいます。

「本当に謙虚さをもつことは大事です。それにはすべてのものには優劣はないと、目上だの目下だの、肩書きがどうのこうのと世間ではいろいろあるけれど、何にもそんなものはない、その本質としての尊さにおいては、みんな同じ、一つであるという真理を踏まえることで、謙虚さは身についていきます」

年は変わっても実践することに変わりはありません。一瞬一瞬を大切に来年も実践していこうと思います。


アーナンダのさとり

みなさん、こんにちは

今日もまた本願寺出版社の「ブッダ」をお伝えしたいと思います。

悟りを啓かれてから四十年以上もの間、真実のみを語り、人々に教えを説いてこられたブッダでしたが、ヴァイシャーリーで自らの死期を悟り、アーナンダを伴って最後の旅に出たのでした。

小康状態を保っていた病状はクシナガラで一気に悪化した。「アーナンダよ、私のために床を用意してくれ」アーナンダは言いつけられた通りに沙羅双樹のもとに床を設えた。ブッダは頭を北に向け、右脇を下にして横になった。

その頃、クシナガラに住む遍歴行者のスバドラは声を聞いた。

「今夜、修行者ガウタマが亡くなるだろう」急がなければ、とスバドラは思った。「今、この時を逃せば、私はもう二度と真実の教えを聞くことはできないだろう。修行者ガウタマこそ、私に道を説くことができる唯一の修行完成者にちがいないのだから」こうしてブッダのもとに赴いたスバドラは、ブッダから真実の教えを授かり、最後の直弟子となった。

ブッダは力尽きたようにぐったりと横になっていた。すでに大勢の修行僧が噂を聞きつけて、ブッダの周囲に集まり始めていた。未熟な修行僧たちは嘆きや悲しみを声に出し、体で表していたが、熟達した修行僧は感情を抑えて、無常の真理をかみしめながらブッダを見守っていた。アーナンダはブッダとの別れが辛く、悲しく、声を殺して泣いた。

「やめなさい、アーナンダ。悲しむな、嘆くな。お前にはもう話したはずだ。愛しいもの、好きなものとも別れ、離れ、生存の場所を異にしなければならない。およそ生じたもの、作られたもの、存在するものは壊れ去る。その理から逃れるものはない」

そのあとでブッダはそっとアーナンダに耳打ちをした。

「お前は特に婦人に人気がある。よく気を付けて、慎みなさい」

アーナンダはブッダの言葉をしっかりと脳裏に刻み込んだ。長年の修行の間に聞いたブッダの言葉は、ひとつとして逃がすことなく記憶に残っていた。その言葉のどれもが金色の清浄な輝きを放っている。

ブッダ (26) 

しばらくの沈黙のあと、ブッダは集まった修行僧たちに最後の言葉を告げ、完全なる涅槃に入っていった。

修行僧たちよ、すべての営みはうつろい、過ぎ去っていく。ひとときも怠らず、修行に励みなさい。

 

ブッダの葬儀後、長老たちが集まり、今後の教団運営について話し合った。長老として長らく教団を率いてきたシャーリプトラとマウドガリヤーヤナの二人はすでに亡く、マハーカーシャパが長老のまとめ役となっていた。

「ブッダの教えと戒律がどのようなものであったのか、確認しておかなければならない。無用な混乱を避けるためにも」

教えについては、二十五年間ブッダの側にいたアーナンダにその大役が任ぜられた。悟りを啓いていないアーナンダは、その日までに悟りを啓くよう、マハーカーシャパから言い渡されたのだった。

早く悟りを啓かなければ、大事な役目を充分に果たせない。アーナンダは心を静めてブッダの言葉を思い起こす作業に没頭した。しかし結集前夜になってもアーナンダは悟りを得ることができなかった。自分は至らなかった。けれど、明日は自分ができる精一杯のことをしよう、私には力はなくとも、ブッダの言葉には力があるとアーナンダは思った。

床に就こうと目を閉じた瞬間、ブッダの声が聞こえた。

「アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた」

心に染みこんでくる懐かしい声だ。ブッダよ、アーナンダはこみ上げてくる涙を抑えてつぶやいた。ブッダは常に暖かく見守ってくださった。自分の至らなさで迷惑をかけたし、心を煩わせるばかりだった。けれど、ブッダは大いなる慈悲で包み込んでくださった。

「お前は善いことをしてくれた」

自分は善いことなどひとつもできていない。それでもなおブッダは、お前は善いことをしてくれたと声をかけてくださるのだ。私はもう迷うのはやめよう。ふっと全身から力が抜け、こわばりが取れた。自由な、軽やかな心持ちになった。翌日、アーナンダは大いなる慈悲に包み込まれている喜びを感じながら、清々しい気分で結集の場に立った。

「私はこのように聞きました。ある時、ブッダは……」

スバドラの逸話からは、本当に最後の最後まで、人々の苦を滅するためだけのために、真実を説いておられるブッダの姿が胸に迫ります。さまざまなカーストの弟子たちを平等に見て導いてこられたブッダ、雨の日も風の日も動じることなく托鉢に出られるブッダ、人々の話を真摯に聞き、誠実に教えを説かれるブッダ、いつも穏やかでにこやかに微笑まれるブッダ、二十五年間、ブッダの側にいたアーナンダでしたが、苦しむ人々のため真実を説かれ続けた、血の通った人間ブッダのお姿、いつも愛深く見守ってくださっていた師のお姿そのものが、アーナンダの心の目をひらかせ、悟りへと向かわせたのだと思いました。ブッダは偉大なヨーギーであったと私たちの師は教えてくださっています。時空を超え、ブッダは今も私たちの側にいて、優しく見守り、助けてくださっている、そんな安心感を胸に覚え、私はこの本を読み終えたのでした。

ダルミニー

 


愛の苦悩!

世界の主よ! 帰ってきて!
肉体は極度の疲労にあります
どうかこの渇きを癒してください
一晩中叫び続けながら過ごしています
空腹は消滅し、睡眠も訪れなくなった
でもこの罪深き命に死は訪れてくれない
あなたのヴィジョンを与えてください!
そしてこの不幸な人間を幸福にしてください!
ミーラーは別離の激痛の中にいます!
どうか遅れないで!
今すぐ!

ミーラー・バーイー

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バクティ・ヨーガには、分かたれた愛の十態という、最愛の主と別離にあるバクタに現れる10の状態を表すものがあります。段階的に深まっていくバクティの様子がよくわかります。

愛の始まりは、愛する人に会いたいという切望から始まり、その次はどうやって会えるか、会って愛を勝ち取るかと心を悩ます状態がやってきます。そしてますます愛の感情が高まり、すべての仕事は忘れ去られ、愛する人だけが心にある状態になり、常に愛人の姿や仕草などの特徴を思い起こしては愛の渇望が高まる状態がやってきます。しかし、逢えない状態が続くと、心は揺れ動き、非常な苦痛を味わうようになり、うわ言を言い出すようにもなります。そして、愛人への思いに夢中になり、涙を流して狂乱したかのような状態がやってきて、ついには体は病み心の激痛は最大限になってしまいます。この細密画はちょうどそのような状態を表しているのです。やがて、すべての意識が失われて昏睡状態に陥り、最期には、別離が続きおよそいかなる方法でも合一がもたらされない時、愛の充満の中に死が訪れるのです!

ラージャ・ヨーガでは識別を通して心を空っぽにしていきますが、バクティ・ヨーガはただただ、愛によって進み、愛の中に溶け去り、純粋な愛だけが残されるのです!ミーラー・バーイーはまさにその体現者だったのですね!

サーナンダ


アシタ仙人の予言

残暑お見舞い申し上げます。

みなさん、こんにちは、暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。

今回もまたまた本願寺出版社の「ブッダ」をお届けいたします。だんだんブッダが大好きになってきました。今日はブッダ誕生の秘話、登場していただくのはアシタ仙人さんです。

ブッダ (20)

シッダールタがシャカ族の王子として生まれた時、大地は激しく揺れ動き、強い風が吹いて、雲一つない空からは大粒の雨が舞い落ちた。王宮内の庭からは清水が湧き出し、雨がやんだ空では太陽が輝きを増し、風は芳しく、夜になって灯した火はいつになく大きな炎を揺らめかせた。鳥は囀りを、獣は咆哮をやめ、すべての川は静かに流れた。数々の異変に王は困惑し、森に住む吉凶を占うバラモンを呼び寄せた。

「お悦びなさい。王子はご一族の光明です。王子の身に備わったもろもろのしるし、黄金の彩り、光明の輝きからすると、この方は聖者の道を歩まれるなら、大いなる悟りを啓かれるでしょう。世俗に生きられるなら、王の王たる転輪聖王となられるでしょう」

「王子は立派な転輪聖王となる」バラモンの言葉を聞いて、ようやくシュッドーダナ王の心から困惑が消えた。

それはヴァイシャーカ月の満月の夜、プシュヤ星(蟹座)に月が宿る頃、マーヤー王妃が六牙の白象が胎内に宿る夢を見てから十ヶ月後のことだった。

 

 

「どうされたのですか? こんな遅くに」扉の前に立っていたのは聖者として名高いアシタ仙人だった。

「今日は素晴らしい出来事があった」

「それはよろしゅうございました」笑顔で言いながら、聖者の甥はいぶかしく思った。アシタ仙人の顔は歓びに輝いてはいない。憂いに満ちた表情をしていた。

「今日はシャカ族の王、シュッドーダナの宮殿を尋ねたのだ。神々がそこに一人の子が生まれたと騒ぎ立てていたからだ。私はそこでついにブッダ(覚者)となるべき方にお会いした」

「赤子が覚者なのですか」

「将来、覚者になられるのだ。世の生きとし生けるものの苦を滅し、流転の生に終止符を打つ、偉大な法(ダルマ)に目覚め、説かれるであろう」大きなため息をつき、アシタ仙人は急にまた表情を曇らせた。悲しみの影が差し、今にも目から大粒の涙がこぼれそうだった。

「どうなさったのですか?どうして、そんなに悲しそうな顔をされるのですか」

「………私はもう長くは生きられない。あのお方が覚者となり、苦を滅する法を説かれても私は聞くことができない。それが残念でならないのだ。苦行に励み、一生をかけても私には得られなかった法がどんなものなのか」

アシタ仙人はうつむき、両手で顔を覆った。甥はかすかに震える仙人の肉の薄い背中をただ見守っていた。

「お前はまだ若い。お前はまだ間に合う。あのお方が覚者となられた時、しっかりと法を聞き、身につけるのだ。よいか、これは私の遺言だ」

「承知しました。ところで覚者となられる方のお名前は」

「お名前は……ガウタマ・シッダールタ」

虚空を見つめ仙人の甥ナーラカは、記憶に刻み込むようにその名を繰り返した。

ゴウタマ・シッダールタと

 ブッダの本を読んでいると、その当時の人たちが覚者の出現を待ち望んでいたような、そんな感じを受けます。それほどその当時のインドは混沌としてもいたのでしょうが、インドの精神性の高さも同時にうかがい知ることができます。そんな中にあって同じ時代に生き、縁をもって出会い、教えを授かるということがどんなに希有なことであったのかということを思わずにはいられません。師は、ブッダは偉大なヨーギーであった、ブッダの教えとラージャ・ヨーガはとてもよく似ていると教えてくださっています。ヨーガに出会うまではブッダのことを何も知りませんでしたが、アシタ仙人の甥ナーラカが遺言通り、ブッダからその教えを授かることができたということを知り、本当にめでたいことであったと心から思いました。私たちもまた時空を超えて正しいブッダの教えと巡りあい、それを行為することができる、これは本当に吉祥な縁なのだと身にしみて思うのでした。

ダルミニー


雷雲

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ナンダの息子クリシュナは、私をずっと放っておいている

雲が集まってきた
そこかしこに雷鳴が轟き、電撃が煌く
東の風が吹き、冷たいシャワーをもたらす
蛙、孔雀、雀が鳴き
カッコウが甘くさえずる
ミーラーの主は山を持ち上げる神、ギリダラ
彼女の心は、主の御足から離れることなどない!

ミーラー・バーイー

 

雨の季節、遠く離れた愛する夫の帰りをひたすら待つ女性が描かれている細密画です。暗い雨雲に覆われた空には雷が光っています。その黒い雲を背景に真っ白な鷺が飛翔しています。とても美しいコントラストです!インド細密画でよく描かれるシーンですが、それはまさに青黒い体に白いネックレスをしたクリシュナを表しています。バクタたちはこの構図を見ただけで、ただちに愛するクリシュナを思い浮かべるのです!

宮廷からそのシーンを見つめる夫人の胸には、「あの人は便りも寄越さないけれど何をしているのだろう」「いつあの人は帰ってきて私を抱きしめてくれるのか」「早く帰って来て!」と、愛する夫を想う気持ちだけがあるのでしょうか。屋根にはつがいの孔雀が羨ましくも仲良くいます。召使たちは音楽を奏で、飲み物を用意しています。愛の病に懊悩する夫人を団扇で仰いでいますが、その熱は冷める様子もありません。

湖の対岸の丘には羊の群れや村があり、牧歌的な景観が美しく描かれています。見事な構図です。すべてが彼女の心情を見事に表しているのです。まさにミーラー・バーイーのこの歌の様子が描かれているようです。

サーナンダ