聖者と教え」カテゴリーアーカイブ

年の瀬

2016年もあと少しとなりました。みなさまにとって今年はどのような年でしたか?
今年も一年、私は理想とする聖者に近づこうと一歩ずつ努力してきました。到底近づいたと言えない程その歩みは遅いのですが、年が変わってもそれを続けていくことに変化はありません。

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新しい年に向けて、もう一度読み直そうと思います。
ナーグマハーシャヤの生涯は取り立てて大きな業績に彩られたものではありません。多くを語らない素朴さと慈悲に溢れた生涯は田舎でひっそりと送られたからです。ただ、彼の真理・神への信仰は徹底され、いくつかの驚愕するエピソードが残されています。(気になる方はぜひ本を読んでみてください)私は彼の純粋さと素直さがとても好きです。そしてとても憧れるのです。

この一年の中でも日常生活の中でおこるさまざまな事柄において、ナーグマハーシャヤならどのようにされるかなと思うことは多々ありました。自分の傲慢さが大きくなったときはナーグマハーシャヤの顔が見れない……(元々写真はないのですが)と恥ずかしくなるときもありました。

彼がどのように一日一日を生きたか、どんなふうに話し、どんなふうに歩き、どのようにグルを愛したのか、彼の息吹を感じるまで、私が彼に近づくまで精進は続きます。

タイトルにある、謙虚さについて、どのように実践していくべきなのか、ヨギさんはこのように教えてくださいます。

「本当に謙虚さをもつことは大事です。それにはすべてのものには優劣はないと、目上だの目下だの、肩書きがどうのこうのと世間ではいろいろあるけれど、何にもそんなものはない、その本質としての尊さにおいては、みんな同じ、一つであるという真理を踏まえることで、謙虚さは身についていきます」

年は変わっても実践することに変わりはありません。一瞬一瞬を大切に来年も実践していこうと思います。


アーナンダのさとり

みなさん、こんにちは

今日もまた本願寺出版社の「ブッダ」をお伝えしたいと思います。

悟りを啓かれてから四十年以上もの間、真実のみを語り、人々に教えを説いてこられたブッダでしたが、ヴァイシャーリーで自らの死期を悟り、アーナンダを伴って最後の旅に出たのでした。

小康状態を保っていた病状はクシナガラで一気に悪化した。「アーナンダよ、私のために床を用意してくれ」アーナンダは言いつけられた通りに沙羅双樹のもとに床を設えた。ブッダは頭を北に向け、右脇を下にして横になった。

その頃、クシナガラに住む遍歴行者のスバドラは声を聞いた。

「今夜、修行者ガウタマが亡くなるだろう」急がなければ、とスバドラは思った。「今、この時を逃せば、私はもう二度と真実の教えを聞くことはできないだろう。修行者ガウタマこそ、私に道を説くことができる唯一の修行完成者にちがいないのだから」こうしてブッダのもとに赴いたスバドラは、ブッダから真実の教えを授かり、最後の直弟子となった。

ブッダは力尽きたようにぐったりと横になっていた。すでに大勢の修行僧が噂を聞きつけて、ブッダの周囲に集まり始めていた。未熟な修行僧たちは嘆きや悲しみを声に出し、体で表していたが、熟達した修行僧は感情を抑えて、無常の真理をかみしめながらブッダを見守っていた。アーナンダはブッダとの別れが辛く、悲しく、声を殺して泣いた。

「やめなさい、アーナンダ。悲しむな、嘆くな。お前にはもう話したはずだ。愛しいもの、好きなものとも別れ、離れ、生存の場所を異にしなければならない。およそ生じたもの、作られたもの、存在するものは壊れ去る。その理から逃れるものはない」

そのあとでブッダはそっとアーナンダに耳打ちをした。

「お前は特に婦人に人気がある。よく気を付けて、慎みなさい」

アーナンダはブッダの言葉をしっかりと脳裏に刻み込んだ。長年の修行の間に聞いたブッダの言葉は、ひとつとして逃がすことなく記憶に残っていた。その言葉のどれもが金色の清浄な輝きを放っている。

ブッダ (26) 

しばらくの沈黙のあと、ブッダは集まった修行僧たちに最後の言葉を告げ、完全なる涅槃に入っていった。

修行僧たちよ、すべての営みはうつろい、過ぎ去っていく。ひとときも怠らず、修行に励みなさい。

 

ブッダの葬儀後、長老たちが集まり、今後の教団運営について話し合った。長老として長らく教団を率いてきたシャーリプトラとマウドガリヤーヤナの二人はすでに亡く、マハーカーシャパが長老のまとめ役となっていた。

「ブッダの教えと戒律がどのようなものであったのか、確認しておかなければならない。無用な混乱を避けるためにも」

教えについては、二十五年間ブッダの側にいたアーナンダにその大役が任ぜられた。悟りを啓いていないアーナンダは、その日までに悟りを啓くよう、マハーカーシャパから言い渡されたのだった。

早く悟りを啓かなければ、大事な役目を充分に果たせない。アーナンダは心を静めてブッダの言葉を思い起こす作業に没頭した。しかし結集前夜になってもアーナンダは悟りを得ることができなかった。自分は至らなかった。けれど、明日は自分ができる精一杯のことをしよう、私には力はなくとも、ブッダの言葉には力があるとアーナンダは思った。

床に就こうと目を閉じた瞬間、ブッダの声が聞こえた。

「アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた」

心に染みこんでくる懐かしい声だ。ブッダよ、アーナンダはこみ上げてくる涙を抑えてつぶやいた。ブッダは常に暖かく見守ってくださった。自分の至らなさで迷惑をかけたし、心を煩わせるばかりだった。けれど、ブッダは大いなる慈悲で包み込んでくださった。

「お前は善いことをしてくれた」

自分は善いことなどひとつもできていない。それでもなおブッダは、お前は善いことをしてくれたと声をかけてくださるのだ。私はもう迷うのはやめよう。ふっと全身から力が抜け、こわばりが取れた。自由な、軽やかな心持ちになった。翌日、アーナンダは大いなる慈悲に包み込まれている喜びを感じながら、清々しい気分で結集の場に立った。

「私はこのように聞きました。ある時、ブッダは……」

スバドラの逸話からは、本当に最後の最後まで、人々の苦を滅するためだけのために、真実を説いておられるブッダの姿が胸に迫ります。さまざまなカーストの弟子たちを平等に見て導いてこられたブッダ、雨の日も風の日も動じることなく托鉢に出られるブッダ、人々の話を真摯に聞き、誠実に教えを説かれるブッダ、いつも穏やかでにこやかに微笑まれるブッダ、二十五年間、ブッダの側にいたアーナンダでしたが、苦しむ人々のため真実を説かれ続けた、血の通った人間ブッダのお姿、いつも愛深く見守ってくださっていた師のお姿そのものが、アーナンダの心の目をひらかせ、悟りへと向かわせたのだと思いました。ブッダは偉大なヨーギーであったと私たちの師は教えてくださっています。時空を超え、ブッダは今も私たちの側にいて、優しく見守り、助けてくださっている、そんな安心感を胸に覚え、私はこの本を読み終えたのでした。

ダルミニー

 


愛の苦悩!

世界の主よ! 帰ってきて!
肉体は極度の疲労にあります
どうかこの渇きを癒してください
一晩中叫び続けながら過ごしています
空腹は消滅し、睡眠も訪れなくなった
でもこの罪深き命に死は訪れてくれない
あなたのヴィジョンを与えてください!
そしてこの不幸な人間を幸福にしてください!
ミーラーは別離の激痛の中にいます!
どうか遅れないで!
今すぐ!

ミーラー・バーイー

Valley21

バクティ・ヨーガには、分かたれた愛の十態という、最愛の主と別離にあるバクタに現れる10の状態を表すものがあります。段階的に深まっていくバクティの様子がよくわかります。

愛の始まりは、愛する人に会いたいという切望から始まり、その次はどうやって会えるか、会って愛を勝ち取るかと心を悩ます状態がやってきます。そしてますます愛の感情が高まり、すべての仕事は忘れ去られ、愛する人だけが心にある状態になり、常に愛人の姿や仕草などの特徴を思い起こしては愛の渇望が高まる状態がやってきます。しかし、逢えない状態が続くと、心は揺れ動き、非常な苦痛を味わうようになり、うわ言を言い出すようにもなります。そして、愛人への思いに夢中になり、涙を流して狂乱したかのような状態がやってきて、ついには体は病み心の激痛は最大限になってしまいます。この細密画はちょうどそのような状態を表しているのです。やがて、すべての意識が失われて昏睡状態に陥り、最期には、別離が続きおよそいかなる方法でも合一がもたらされない時、愛の充満の中に死が訪れるのです!

ラージャ・ヨーガでは識別を通して心を空っぽにしていきますが、バクティ・ヨーガはただただ、愛によって進み、愛の中に溶け去り、純粋な愛だけが残されるのです!ミーラー・バーイーはまさにその体現者だったのですね!

サーナンダ


アシタ仙人の予言

残暑お見舞い申し上げます。

みなさん、こんにちは、暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。

今回もまたまた本願寺出版社の「ブッダ」をお届けいたします。だんだんブッダが大好きになってきました。今日はブッダ誕生の秘話、登場していただくのはアシタ仙人さんです。

ブッダ (20)

シッダールタがシャカ族の王子として生まれた時、大地は激しく揺れ動き、強い風が吹いて、雲一つない空からは大粒の雨が舞い落ちた。王宮内の庭からは清水が湧き出し、雨がやんだ空では太陽が輝きを増し、風は芳しく、夜になって灯した火はいつになく大きな炎を揺らめかせた。鳥は囀りを、獣は咆哮をやめ、すべての川は静かに流れた。数々の異変に王は困惑し、森に住む吉凶を占うバラモンを呼び寄せた。

「お悦びなさい。王子はご一族の光明です。王子の身に備わったもろもろのしるし、黄金の彩り、光明の輝きからすると、この方は聖者の道を歩まれるなら、大いなる悟りを啓かれるでしょう。世俗に生きられるなら、王の王たる転輪聖王となられるでしょう」

「王子は立派な転輪聖王となる」バラモンの言葉を聞いて、ようやくシュッドーダナ王の心から困惑が消えた。

それはヴァイシャーカ月の満月の夜、プシュヤ星(蟹座)に月が宿る頃、マーヤー王妃が六牙の白象が胎内に宿る夢を見てから十ヶ月後のことだった。

 

 

「どうされたのですか? こんな遅くに」扉の前に立っていたのは聖者として名高いアシタ仙人だった。

「今日は素晴らしい出来事があった」

「それはよろしゅうございました」笑顔で言いながら、聖者の甥はいぶかしく思った。アシタ仙人の顔は歓びに輝いてはいない。憂いに満ちた表情をしていた。

「今日はシャカ族の王、シュッドーダナの宮殿を尋ねたのだ。神々がそこに一人の子が生まれたと騒ぎ立てていたからだ。私はそこでついにブッダ(覚者)となるべき方にお会いした」

「赤子が覚者なのですか」

「将来、覚者になられるのだ。世の生きとし生けるものの苦を滅し、流転の生に終止符を打つ、偉大な法(ダルマ)に目覚め、説かれるであろう」大きなため息をつき、アシタ仙人は急にまた表情を曇らせた。悲しみの影が差し、今にも目から大粒の涙がこぼれそうだった。

「どうなさったのですか?どうして、そんなに悲しそうな顔をされるのですか」

「………私はもう長くは生きられない。あのお方が覚者となり、苦を滅する法を説かれても私は聞くことができない。それが残念でならないのだ。苦行に励み、一生をかけても私には得られなかった法がどんなものなのか」

アシタ仙人はうつむき、両手で顔を覆った。甥はかすかに震える仙人の肉の薄い背中をただ見守っていた。

「お前はまだ若い。お前はまだ間に合う。あのお方が覚者となられた時、しっかりと法を聞き、身につけるのだ。よいか、これは私の遺言だ」

「承知しました。ところで覚者となられる方のお名前は」

「お名前は……ガウタマ・シッダールタ」

虚空を見つめ仙人の甥ナーラカは、記憶に刻み込むようにその名を繰り返した。

ゴウタマ・シッダールタと

 ブッダの本を読んでいると、その当時の人たちが覚者の出現を待ち望んでいたような、そんな感じを受けます。それほどその当時のインドは混沌としてもいたのでしょうが、インドの精神性の高さも同時にうかがい知ることができます。そんな中にあって同じ時代に生き、縁をもって出会い、教えを授かるということがどんなに希有なことであったのかということを思わずにはいられません。師は、ブッダは偉大なヨーギーであった、ブッダの教えとラージャ・ヨーガはとてもよく似ていると教えてくださっています。ヨーガに出会うまではブッダのことを何も知りませんでしたが、アシタ仙人の甥ナーラカが遺言通り、ブッダからその教えを授かることができたということを知り、本当にめでたいことであったと心から思いました。私たちもまた時空を超えて正しいブッダの教えと巡りあい、それを行為することができる、これは本当に吉祥な縁なのだと身にしみて思うのでした。

ダルミニー


雷雲

雷-001

..

ナンダの息子クリシュナは、私をずっと放っておいている

雲が集まってきた
そこかしこに雷鳴が轟き、電撃が煌く
東の風が吹き、冷たいシャワーをもたらす
蛙、孔雀、雀が鳴き
カッコウが甘くさえずる
ミーラーの主は山を持ち上げる神、ギリダラ
彼女の心は、主の御足から離れることなどない!

ミーラー・バーイー

 

雨の季節、遠く離れた愛する夫の帰りをひたすら待つ女性が描かれている細密画です。暗い雨雲に覆われた空には雷が光っています。その黒い雲を背景に真っ白な鷺が飛翔しています。とても美しいコントラストです!インド細密画でよく描かれるシーンですが、それはまさに青黒い体に白いネックレスをしたクリシュナを表しています。バクタたちはこの構図を見ただけで、ただちに愛するクリシュナを思い浮かべるのです!

宮廷からそのシーンを見つめる夫人の胸には、「あの人は便りも寄越さないけれど何をしているのだろう」「いつあの人は帰ってきて私を抱きしめてくれるのか」「早く帰って来て!」と、愛する夫を想う気持ちだけがあるのでしょうか。屋根にはつがいの孔雀が羨ましくも仲良くいます。召使たちは音楽を奏で、飲み物を用意しています。愛の病に懊悩する夫人を団扇で仰いでいますが、その熱は冷める様子もありません。

湖の対岸の丘には羊の群れや村があり、牧歌的な景観が美しく描かれています。見事な構図です。すべてが彼女の心情を見事に表しているのです。まさにミーラー・バーイーのこの歌の様子が描かれているようです。

サーナンダ

 


火の遣い手たち

みなさん、こんにちは

今回もまた本願寺出版社の「ブッダ」より印象に残った内容をご紹介いたします。今日登場していただく修行者はウルヴィルヴァーさんです。

夕闇の中、炎が怪しく揺らめいている。ウルヴィルヴァーが右手を差し出すと、炎はぱっと大きく燃え上がり火柱となった。あたりが明るくなり火の粉が雨のように頭上に降り注いだ。

「兄さんの力は衰えませんね」とガヤーが声をかけた。ブッダの弟子のサンガ(集まり)に加わるまで、ウルヴィルヴァー、ナディー、ガヤーのカーシャパ三兄弟はそれぞれに大勢の弟子と信者をもつ結髪の行者だった。中でも長兄のウルヴィルヴァーは強大な神通力を持ち、数々の奇跡を起こしていた。

「こんな力は何もならない」長兄は独り言のように呟き、両手を広げて炎を鎮めた。瞬く間に天に届くほどの火柱は小指の先に灯る火となった。

「ブッダはそれ以上の力をお持ちなのですか?」ブッダはウルヴィルヴァーの聖火堂で無数の奇跡を現出させた。神通力の対決で敗北した長兄は火の崇拝を止め、ブッダに帰依し、五百人の弟子もそれに続いた。

「ガヤー、お前にもよく分っているはずだ。ブッダの特別な力、人を包み込む暖かく柔らかな力を」ブッダがウルヴィルヴァーと弟子を従えて、ガヤーたちの前に姿をみせた瞬間、清らかな涼風が吹き抜けたようだった。ブッダは一言も発しないうちにその場にいた者の心をしっかりとつかんだのだ。次兄のナディーに続いて、ガヤーもブッダに帰依を申し出た。

「後悔はしておられませんね」そういうガヤーの前で、ウルヴィルヴァーは土をすくって火にかけた。灰色の煙が立ち上り、火は一瞬、赤い輝きを放って消えた。

「もちろんだ。ブッダの示された道を私は歩いていく。さあ、帰ろう、ガヤー、そろそろブッダの説法が始まる時間だ」

月明かりに照らされて闇の中ぼんやりと道が浮かび上がっている。ガヤーは歩き始めた長兄のあとを追って足を速めた。

二千五百年前のインドの深い森の中、どれくらいの苦行者たちが修行をしていたのでしょうか。その中でもカーシャバ三兄弟は、ブッダの存在を素直に認め、帰依した人たちだったのでした。中には尊者と呼ばれながら、自分の考えをなかなか改めることができず、ブッダを誹謗中傷し、陥れようとする人もいたようです。五百人もの弟子を持ち、神通力もあったウルヴィルヴァーでしたが、真実の前では謙虚にこうべを垂れ、すべてを捨ててブッダに帰依したのでした。ウルヴィルヴァーは本来の目的を忘れてはいなかった、真実に通じる確かな道をみつけたウルヴィルヴァーは、歓びをもってブッダに従ったのだと思いました。

ブッダ (22)

ダルミニー

 

 


みすぼらしい衣の修行者

毎回、本願寺出版社の「ブッダ」より、その教えをご紹介しています。今までいろいろな修行者の方に登場していただきましたが、今回の修行者はピッパリさんです。

ブッダ (20)

「ピッパリという比丘(びく)を知っているか」

「いいえ」と若い比丘は首を振った。真新しい衣を身につけ身体には汚れひとつなかった。サンガ(修行者の集まり)に入ってまだ間もないのだろう。

その時、道の向こうからぼろぼろの衣を身にまとった比丘がふらつきながら歩いてきた。何かにつまずいたのか、比丘は転び、泥にまみれていた。驚いて家から出てきた男に食べ物を乞うように器を差し出した。が、施しは受けられず、大声で罵られ足蹴にされて泥の中を転がった。

「ひどいですね。男もあんなに乱暴にすることはない。比丘もあれほどむさ苦しい格好ではなく、身綺麗にして、清らかな衣でいれば供養は受けられるものです」

「ピッパリは、バラモンの息子で上等な衣を着ていた。ある時、ピッパリは大衣をたたんでブッダのために坐を作った。柔らかな布だとブッダは褒められた。ピッパリはすぐさま自分の衣とブッダの衣を交換した。ブッダは使い捨ての布で作った古い衣を着ておられたのだ。ピッパリはその時以来、使い捨ての布で作った衣しか身に付けなくなった。古くからの出家の原則を厳しく守る頭陀行(ずだぎょう)に専念することにしたのだ」

比丘は泥を払い落とし背筋を伸ばすと、何事もなかったかのように、隣の家の戸を叩き応対に出たものに器を差し出した。

「彼こそがかつてのピッパリ、今はマハーカーシャパと呼ばれている。頭陀行第一と称される比丘だ。お前は彼に付いて学べ」

一喝された比丘は転がるようにして、みすぼらしい衣をまとった泥だらけのマハーカーシャパのあとを追った。

「頭陀」とはサンスクリット語の「ドゥータ」という言葉の音訳であり「払い落とす」という意味らしいです。何を払い落とすのかというと衣食住に対する貪欲を払いのけるため、出家者が行なう修行のひとつで、具体的には最低限必要な食べ物を托鉢して歩くことや、托鉢僧そのものを指す言葉でもあるそうです。

二千五百年前のインドと現代の日本とでは同じようにはいきませんが、その時代の修行者がどれほど真剣に真実を求めて修行を積んでいたのか、どれほど真剣にブッダの教えを生きようとしていたのか、思いを馳せるのは、私たちにとってとても刺激になり勇気を与えてくれるものです。

師は説かれます。

人生の目的は真実を実現することです。その叡智と方法がヨーガの中にあります。

真実、それが何かを学んで、しっかりと理解して行動に移すことが大切です。いわゆる世間体とか社会的通念とか常識とかいうものによって私たちの心がどんなに縛られているか、それを打ち破って真実を求めるということが、どれほど勇気のいることなのか分かりません。信念をもって、真実だけで心が満たされるように行為していくことが大切です。

ピッパリの行為からは、ブッダの教えを忠実に生きて、真実に通じる自分の道を自分で探しだし、それだけを行為した揺るぎない信念というものを感じることができます。人によって顔が違うように、心もまたさまざまな様相を呈している、今の時代には、それぞれが自分にあったヨーガの道を歩くことができます。それを正しい方向に導いてくださるのがヨーガの師です。それぞれが信念をもって、真実に通じる自分のヨーガの道を歩いていこうではありませんか。

ダルミニー


竹馬の友

みなさん、こんにちは

今日もまた本願寺出版社の「ブッダ」より、印象に残ったお話をご紹介いたします。

ブッダ (20)

 

「本気なのか、シャーリプトラ。本当にブッダのもとへ行くのか」

「もちろん本気だ。私はブッダに帰依する」

「しかし、まだ彼の弟子に会ったばかりで少し話をしただけじゃないか」

「それで充分だ。私が求めていた道はここにある。確信したよ。ブッダの教えは私の疑問を解決してくれる」

「君はどうするつもりだ?マウドガリヤーヤナ」

「聞くまでもない。おれは君と同じ道を歩むと決めている」

幼い頃からいつも一緒にいるシャーリプトラとマウドガリヤーヤナは、今、教えを受けている師では自分の疑問を解決できないと感じ、ブッダを師と仰ぎ、そのサンガへ入ろうとしていたのでした。サンガとは修行者の集まりのことですが、信頼し尊敬のできる師と巡り会えるということはなんという幸運なことなのでしょう。何を学ぶにしろ先生はとても大切だと思いませんか?例えば相撲にしても、大関にまでなった親方の部屋に入るよりも、横綱になった親方の部屋で学ぶ方が横綱になれる可能性は高いはずですよね。ヨーガにおいても「ヨーガを成就するためには絶対に師が必要である」と言われています。ヨーガを成就するための道のりを正しく指し示すことのできる師と巡り会うということ、それは聖なるガンガーの砂の中から一粒の宝石を探し出すくらい困難で、希なことであると言われています。

「縁だな」

「そう、縁だ。あらゆるもの、あらゆることが縁によって起こる。……ああ、早くブッダの教えの真髄を究めたいものだ」

「焦るな、シャーリプトラ。お前が早く歩きすぎるとおれはついていけなくなる」

「分かっている、マウドガリヤーヤナ。私たちは同じ道を歩む、多少、歩調は異なるが」

「歩調は異なっても死ぬまで一緒だ。シャーリプトラ、いいな?」

「もちろんだ、マウドガリヤーヤナ」

ありがたいことに私たちもヨーガの師と縁を結ぶことができました。私たちの師はどんな疑問にも即座に解決の糸口を指し示してくださいます。そしてその師との縁を本当に吉祥なものとするためには、真剣にヨーガを学び、その教えを誠実に行為していくことが大切なのだと思いました。そして互いに信頼し、研鑽(けんさん)し合える仲間がいれば、その歩みはさらに早くなるものなのだと思いました。

ダルミニー

 


真夜中の出城

みなさん、こんにちは

今まで私が取り上げてきたブッダの教えは、瞑想専科のクラスで薦められた本願寺出版社の「ブッダ」より紹介しています。この本はさし絵がついていて、たいへん読みやすくなっています。興味のある方は読んでみてくださいね。

ブッダ (20)

今回ご紹介するブッダの出家のシーンはとても感動的です。シャカ族の王子として生まれたシッダールタ(すべてのものが成功するという意味)は、全ての生あるものは死を迎え、また老いては若さを失い、病を得るという、この世の生滅を知り、なんとみじめで苦しみに満ちていることかと、その一生を憂い悲しみます。ある日、表情も晴れやかで清々しい出家者に出会ったシッダールタは、その生き方に心を奪われ、王子という地位も家族も何もかも捨てて出家を決意するのです。

「生死の彼岸を見ない限り、私は再びこのカピラヴァストゥの城には帰らない」

固い決意のもと、お供のチャンダカを連れて、愛馬カンタカに乗り、真夜中に城を抜けだしたシッダールタは一時も休むことなく走り続けます。太陽が昇る頃、遠く離れた荒れ野に降り立ったシッダールタは、身につけていた美しい装飾品や冠をはずし、持っていた剣で豊かな毛髪を一気に切り落とします。通りかかった狩人から自分の絹の服と交換に柿色の粗末な衣を得たシッダールタは、涙を流し引き留めるチャンダカに対して

「もう決めたのだ。私はもういないものと思って欲しい。王にもそう伝えてくれ。生死を克服できたらすぐにでも戻る。怠って目的を果たせなければ、どこかで野垂れ死ぬまでだ。チャンダカ、カンタカ、世話になった」
そう言い残して、振り返りもせず苦行の森に入って行ったのでした。

そこに、苦しみのない完全な真実の世界だけを求める、ブッダのゆるぎない求道心というものを感じます。以前、師から、真実に憧れ、真実だけを目指す一点集中という意味の「エーカーグラター」という言葉を教えていただきました。首尾一貫したブッダの言葉や行為からは、真実だけを見つめ続けた「エーカーグラター」というものを感じとることができます。六年間の苦行の末、悟りを啓かれたブッダのあり方、この本を読んでいるだけでも、心が清く洗い流されたように感じるのは私だけでしょうか。みなさんもブッダの生き様に、そしてその存在に触れてみられてはいかがでしょうか。

ダルミニー


琴の弦のように

春ですね。でも早々と満開の桜も散り始め、もう葉桜も見かける時期となりました。

さて4月8日はお釈迦様のお誕生日、花祭りとして有名ですね。この日はお釈迦様に甘茶をかけてお誕生のお祝いをします。私も子供頃お寺に行き、神々や動物たちに囲まれた清らかなお釈迦様の絵を見たり、やかんから水筒いっぱいに甘茶をもらったりして、楽しい一日を過した記憶があります。そういうわけで今日もまた本願寺出版社の「ブッダ」より、ブッダの教えをご紹介します。

若い修行者シュローナ・コーティヴィンシャは河の淵に坐り、傷ついた足の汚れを水で洗い落とした。指先で傷口に食い込んだ尖った小石を取り除くと足の痛みは少し軽くなった。

「こんな修行をいつまで続ければいいのだろう?過酷な行に励み、ひたすら体と心を鍛えてきた。けれど、その成果はまだ手にしていない。それどころか迷いは深まるばかりだ。やはり自分には真実の境地を得ることはできないのだろうか」

ゆったりと流れる河に視線を向けてシュローナ・コーティヴィンシャは溜息をついた。

「そんなふうに考えてはいけない」振り返るとブッダの姿があった。

「シュローナ・コーティヴィンシャ、傷は痛むのか」

「いいえ、もう痛みはありません」

「そうか。お前の足の皮膚は柔らかい。これからは一重の履き物をつけて歩くがいい」

「とんでもありません。私だけが履き物をつければ、サンガの仲間たちに笑われてしまいます」

「では、皆に一重の履き物を許そう」

若い修行者は恐縮して深々と頭を下げた。修行を途中で諦めてはいけないと心の中で思い直した。

「シュローナ・コーティヴィンシャ、お前は琴の名手だった。お前が弾いてくれた琴の調べがまだ耳に残っている。もう琴は弾かないのか?」

「琴を奏でる時間があれば、坐を組み瞑想したいと思います」

「熱心だな。お前ほど熱心な修行者はいない。しかし、シュローナ・コーティヴィンシャよ、琴の弦は緩すぎても強く張りすぎても良い音がしないのではないか?」

「仰せの通りです。緩すぎず強すぎず、ちょうど良い張りをもつ弦が良い音で鳴ります」

「修行も同じだと思わないか?琴の名手、若き修行者よ」

「……ありがとうございます。ブッダ。私もこれからはちょうど良い張りで良い音を響かせたいと思います」

シュローナ・コーティヴィンシャは頭を下げたまま、ブッダに言った。

 

この修行者は真剣に修行してきただけに、できない自分を責めて途中でくじけそうになったのでした。みなさんも、ある一つの出来事に心が執われて、周りを見る余裕がなくなってしまったことはありませんか?それは本当に張り詰めた弦に例えられるように、すぐにでも切れてしまいそうな状況に自分を追い込んではいけないということを意味していると思いました。この時も修行者の師であるブッダが、適切な言葉でもって修行者の心の緊張を解きほぐし、心のあり方の間違いに気づかせてくれたのでした。

心を張りすぎず緩めすぎず、波のない状態、不動の状態に保つことはなかなかできることではありません。しかしヨーガの一連の実践が、心に不動の状態をもたらす努力であることに間違いはありません。私たちの師は驚くほどいつも同じで、変わることがありません。そういう師のお姿を拝するたびに、自分たちの理想とする不動の境地が、師の中にあるということを理解するのです。

ダルミニー

天上天下唯我独尊

天上天下唯我独尊