聖者と教え」カテゴリーアーカイブ

わが師

1896年2月24日、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダはニューヨークで「わが師」という講演をされています。
この講演の中でヴィヴェーカーナンダは、師であるシュリー・ラーマクリシュナに出会った時のことを語られています。

「初めて、私は、自分は神を見ると言い切る人を、宗教は感じることができるところの、われわれがこの世界を感じるより遥かにもっと強烈な形で感じることができるところの、実在である、と言い切る人を見出したのです。(中略)そして実際に、宗教は与えられ得るものであることを見たのです。ひと触れ、一べつが、全生涯を変えることができるのです」

シュリー・ラーマクリシュナと触れ合い、その真実を感じた人から発せられた言葉は、どれほどのリアリティを持って聴衆に響いたことでしょうか。その場で話の内容の全てを理解はできなくても、心の奥深くに強烈な印象を残したに違いありません。
シュリー・ラーマクリシュナの生涯は他の本でも読むことができますが、ヴィヴェーカーナンダが講演されたその光景を想像しながら読むと、その力強い姿、輝く姿が想起され、心が湧き立ちます。きっと瞳は輝き、声は美しく響いたのだと想像します。

サルヴァーニー


幸福と不幸は裏表?

「幸福と不幸は裏表」という言葉をよく聞きます。
「少々辛いことがあっても、きっとまたいいことがあるよ!」という励ましの意味や、「いいことが続いたからといって、あまり油断するとよくないよ!」という戒めの意味の、両方があるそうですね。また「人間万事塞翁が馬」ーーー人生における幸不幸は予測できない、とか、「幸福より不幸の方が良い教師である」・・・などなど、昔から幸福と不幸に関しては様々な処世訓があります。

それではヨーガでは、幸福と不幸についてどのように教えているのでしょうか? 
マハーヨーギー・ミッションの会報誌『Paramahamsa』のコンテンツの一つ、まずはこちらをご覧ください!

「幸福と不幸の女神」より

この物語は古くからインドで伝わっている小話の一つなのですが、私たちの師であるヨギさんは、時折こういった例え話を豊かに織り交ぜながら、いつも本当に楽しくヨーガの神髄を教えてくださいます。そんな時はまるで童心に帰ったかのようにワクワクしながら、その物語の世界に引き込まれて、「なるほど!」と唸ったり、自分自身を省みたりすることがたくさんあります。

そのように、様々あるヨーガの教えや例え話を、ワクワクして絵を通して感覚的に掴んだり親しんだりしながら、教えの理解やヨーガへの思いを育んでいけたらいいなぁと思い、『Paramahamsa 』で、このコンテンツを企画してみることになりました。ヨーガを始めて間もない方や子供さんなど、誰もが見て楽しめるような、絵本動画のイメージです。
まだ作品はたくさんできていませんが、これから皆さまに楽しんでいただけるよう、少しずつ増やしていきたいなぁと思っています。

ということで・・・さてさて、動画をご覧くださった皆様へ。
幸不幸の交錯するこの人生、どのように生きていけばいいのかーーーそのお答えは出ましたでしょうか?

ミラバイ

追伸:絶賛発売中の新刊『マハーヨーギーの真理のことば』の中に、上記の教えも掲載されています!

 

 


パラマハンサ・ヨーガーナンダ 御聖誕日

皆様、明けましておめでとうございます🌅
このお正月はいかがお過ごしでしたか?
私は3年ぶりに帰省して、久しぶりに家族や親戚と楽しい時間を過ごし、慶びをもって新年を迎えることができました🎍

さてこの2023年ですが、『あるヨギの自叙伝』で有名なパラマハンサ・ヨーガーナンダ(1893年ー1952年)の御聖誕130周年にあたります!!


『あるヨギの自叙伝』は私も大好きな聖典で、読む度に新しい発見と驚きがあり、時には全身が歓びで満たされます。
この本の中では、ヨーガーナンダがサマーディを初めて体験するシーンがあり、その境地が次の言葉でもって記されています。

「神の霊は尽きることのない至福だ!」

この至福のサマーディを愛弟子に与えた師スリ・ユクテスワは、「神は常に新鮮なよろこびだ。それはたえず湧き出る泉のように、常に新しく尽きることがない」と述べ、この永遠の至福を体験することはかけがえのないことで、神を知ったことに他ならないことをヨーガーナンダに伝えています。

そして本日の1月5日はヨーガーナンダの御聖誕日です!!
新春の慶びとともに、この吉祥なる日に「常に新鮮なよろこび」で満たされる1年にしたいと私自身感じております!!

私たちマハーヨーギー・ミッションでは、4月に開催予定の春の祝祭でヨーガーナンダを取り上げ、「古から続く永遠の道」をテーマに、グルの存在の尊さや稀有さを今一度思い起こし、またヨーガーナンダの行動の源にあった熱情・覚悟に迫っていきます。
ブログの方でも、今年は『あるヨギの自叙伝』、そして昨年11月に出版された『マハーヨーギーの真理のことば』、その素晴らしい聖典について積極的に発信していきたいと思っています。

真理のことばに浴し、実践して、神の歓びを全身に感じ発散する1年にしていきましょう!!
皆様、今年1年もどうぞよろしくお願い致します🙏

ゴーパーラ


何でもない者であるために

今年も残すところあと数日となりました。

この一年、「一つの物事に対して粘り強く取り組むこと」を実践してきました。
神に道具として使っていただけるようになるために、目の前のことに丁寧に向き合い、じっくり考え、行為することが必要だと感じて決めた抱負でした。

実践する中で幾つか気付きや変化がありました。
・じっくり考えて物事をやり切ることが苦手だったが、取り組むうちに苦ではなくなり、習慣になりつつある。
・一つのことを精一杯やり切るように努めることで、結果がどうなっても気にならなくなった。
・困難を感じる時は、目の前のことよりも自分のことを考えている。気付いたらその都度真実へと意識を向けるようにすると、困難は感じなくなった。
・粘り強くやる中で何度も失敗しては気持ちを切り替えるうちに、力まず凹まず淡々と行為するコツが掴めてきた。
・取り組むほどに、自分が何かをしているという感覚が少なくなっている。

抱負を実践することで、神に使って頂ける道具に近付けたかは、自分では分かりません。
ただ、こうして考え行為することも含めて、全てが神から与えられたものであるということを、一層強く感じるようになっています。

あらゆる命は神の顕れ。
常に神である誰かに支えられて、力をもらい、行為し続けることができている。
この事実に感謝しかありません。


1枚の葉が赤と緑のクリスマスカラーになっていました。
赤はイエスが流した血を表し、緑は永遠の命の象徴とされています。

”何でもない者
神は、ご自分の偉大さを、何でもない者を使うことで示されました。ですから、いつでも何でもない者でいましょう。何の相談もなくても、神に自由に使っていただきましょう。”

聖なる者となりなさい マザー・テレサの生き方 より

私も何でもない者でありたい。
いつどのような状況でも、神に使っていただけるようになるために、来年も弛まず行為し続けます。

ハルシャニー


ブッダの悟りと教え

12月8日はブッダが悟りを啓いた日です。
ブッダが最初に説いた教え「四諦(苦集滅道)」は次の通りです。

苦……世の中には誰も避けることのできない、生、病、老、死の四つの苦しみと、愛する人との別れ、憎しむ人との会合、求めるものが得られない、心自体が葛藤する苦しみがある。(四苦八苦)
集……これらの原因は欲望であり、その原因はエゴと無知である。
滅……これに対し、一切の苦悩を離れた真実の境地、ニルヴァーナがある。
道……そして、それに至る道が八正道である。

私はヨーガを始めてからブッダの教えを学び、四苦八苦についてまさにその通りだと思いました。それらの苦しみの原因が欲望であり、さらなる原因はエゴと無知であるということも理解ができました。ですがそれは知的な理解で、現実に思いがけないことが起こり苦しみを突きつけられると、心は動揺し冷静さを失ってしまうということがありました。その時の原因を探ると、自分自身も世の中も変化をしていくものなのに、そこに自分が望む形の永遠を見てしまっているという無知があることが分かりました。体も心も世の中も永遠ではないことを受け入れるよう努力してみましたが難しく、どうしたらいいか分からなくなりました。神を思っても気持ちが入らず、以前は心が震えた聖典を読んでも入ってこないような状態でした。
そんな時、『ヨーガの福音』でブッダの教えを読みました。

「ブッダの説く八つの道の最初は、苦しみとその原因とニルヴァーナ——真理——を正しく理解し、悟りを目指さなければならないというものです。その心構え(正見)をまず必要とします」

 師シュリー・マハーヨーギー

この教えを読んだ私は、永遠でないものを考えることによる無力さで放心して立ち止まっている状態だと認識し、永遠でないものを考えるのではなく、「永遠の存在を正しく理解すること」、それがすべきことだと分かり、意識を向ける先がはっきりして、ようやく心が解きほぐれて動き出すのを感じました。

2500年前にブッダが悟り、最初に説いた四諦は、昔も今も変わらず苦しむ者、道を歩む者に光を指し示してくださっています。永遠に人々を導いてくださっているブッダに感謝を捧げます。

松山の瞑想クラスの挿絵で描いたブッダ

サルヴァーニー

 


師シュリー・マハーヨーギーが語られた全記録から編纂したヨーガの決定版、全16章『マハーヨーギーの真理のことば』がついに発刊!!!

ヨーガの全てが網羅されたボリューム豊かな内容となっています。生き方や自分の理想を模索している人、困難な状況や苦悩に直面している人、確かなもの、本当の答えを探している人、瞑想やヨーガを学びたいという人、神を求めている人、真我の探求をしている人・・・一人でも多くの方に、師シュリー・マハーヨーギーが語られた真理の言葉が届きますように。

詳細やご購入はこちらから➡️『マハーヨーギーの真理のことば』


もうすぐジャヤンティー!

見上げれば天高い青空に真っ赤に染まった葉や眩しいほどの黄色い葉。真っ黒な土からは常緑の艶やかな緑が。朝降ったばかりの透明な雨の雫。外の世界を織り成す色彩が一斉にカラフルな光を放ち、秋の空気の中でしっとり調和し静けさを醸し出す特別なこの季節。自然の背後にある大いなる存在を感じてため息が出ます。

いろんな色の葉

いろんな色の葉

『ラーマクリシュナの福音』の中で、ラーマクリシュナがこんなことを仰っていました、
神はさまざまの形を持ち、さまざまのやり方でお遊びになる。
彼はイーシュワラ(人格神)として、デーヴァ(神)として、人として、そして宇宙としてお遊びになる。
あらゆる時代に、彼は人びとに愛と信仰とを教えるために、人の姿をとって化身として地上に下りていらっしゃる」。

これを読んで思うのは・・・やっぱり師のこと・・・。
もうすぐ!最愛の師が御聖誕された11月23日、サットグル・ジャヤンティーがやってきます!!!大切な師がこの世に御誕生された日です。
そしてその日、ついに師の教えの新しい書籍『マハーヨーギーの真理のことば』が出版されるということなのです。さらにまた、長く親しまれてきた書籍『ヨーガの福音』が台湾でも出版されるということ。一刻も早く読みたい!!という自分の思いは抑えつつ……冷静に考えると、師のお言葉が本になるということは、本物の真のヨーガの普遍的な教えが多くの方に届けられるということ。師と弟子の一対一の間で交わされた霊的な問答のその中身がその場にいなかった人々にも公開されるということ。私はこのホームページで紹介された本の目次を読んだ時、師は師の一切すべてを出し惜しみなく、これほどまでにここで出し尽くされるのか・・・と驚愕しました。こんなにも師は、この本という形をも通してご自身を捧げられたのだと呆然としました。人々への愛の本だと思いました。真剣に生きることと向き合っている人に必ず届いてほしいです。

私はある時、先輩から師であるヨギさんについて「ヨギさんは弟子を導くために存在されている」とはっきりと言われました。「弟子」とは、今、師に直接お会いできた者たちだけではないと私は思います。師は、ブッダの教えにある「私の肉身を見る者が弟子ではなく、私の教えを知る者が私の弟子である」と仰られているからです。
だからもし、今あなたがこのページを真摯に読まれているのなら、あなたも弟子なのだと思います。また未来に師の教えの書籍を読まれてヨーガの教えを生きようとする人も弟子なのだと思います。ヨーガという道を知り、真剣に自分のこの人生を歩もうとする者は、みんな同じ一つの根源から繋がる弟子だと私は思います。

真理はまず聞いて、考えて、そして瞑想して」と師は仰っています。まず聞く、それがなければ次の「考える」に進めないので、今すぐ師にお会いできない場合のためにも教えが記されている書籍、聖典が必要です。
聖典について、過去の『パラマハンサ』(会報誌)のある記事にこう書かれていました、「インドにおいて聖典とは、書かれた書物ではなく、口伝されてきた聖者の言葉、すなわち真実の悟りを啓いた人の言葉である」。
ということは・・・『マハーヨーギーの真理のことば』は聖典中の聖典。師の口から語られたその時その瞬間のお言葉が記録されてきて、それが脚色なくそのまま活字となった本だからです。真実の悟りを啓かれた聖者は、他者のためだけに言葉を発してくださっています。そんな言葉がこの地球上にあるのかなと思います。純度100パーセントの清らかなそんな言葉が。

『ラーマクリシュナの福音』の中でラーマクリシュナがこのようにも仰っていました。
イーシュワラ・コーティ(この世に特別の使命を持って生まれてくるすでに完成された魂)以外の者は、誰一人、サマーディに達したあとに相対意識の段階に戻って来ることはできない。普通の人々の若干は、霊性の修行によってサマーディに到達するが、彼らはそこから戻ってはこない。しかし神みずからが人として、一個の化身として、他者の解脱の鍵を握って生まれてこられる場合には、人類の福祉のために、その化身はサマーディからこの世の意識に戻って来るのだ

かのラーマクリシュナがこう仰っているということは、本当に他者のためだけにこの世にお生まれになり、肉体を保ち、留まってくださり、人々に愛と信仰を教えてくださる慈悲深き御方、神の化身がおられるということ。

・・・ジャヤンティーまで、あと三日。出席される方も出席されない方も、それぞれのところから最大の感謝を最愛の師にお捧げすることができますように!!!

*参考『ラーマクリシュナの福音』

一(ひとつ)の存在

一(ひとつ)の存在

 

野口美香 


カーリーをもっと近くに!

初めてカーリー・マーのお姿を目にしたとき、「これが神様なの?しかも母なの?」と心の隅で思ったように記憶しています。それほど強烈なヴィジュアルの持ち主ですが、彼女を慕うようになって数年経った今感じているのは、私にとって彼女は、大きくて穏やかで、慈しみと愛情に満ちた、まさに母そのものだということです。

『あるヨギの自叙伝』の中に、パラマハンサ・ヨーガーナンダとマスター・マハサヤとのエピソードが出てきます。その章ではマスター・マハサヤが聖母様と絶えず交流されている様子が描かれています。聖母様がカーリーであるとは書かれていないのですが、そこに記された宇宙の母についての一節がとても好きで、その描写を読むと私は、カーリーのことを思い浮かべずにはいられなくなります。そして彼女の底知れぬ愛を感じて、何とも言えない安心感とあたたかい気持ちに包まれます。

「天の母に子供のような心で近づいて行った歴代の信仰者たちは、彼女が常に自分と遊んでくれていることを証言している。マスター・マハサヤの生涯においても、聖母様が、事の大小に関係なく彼と戯れておられる情景がしばしば見られた。神の目には、大事も小事もないのである。もし神が、原子をあのように精巧に造られなかったならば、大空もあの壮大な天体の構成を誇ることはできなかったであろう。神は、この宇宙が一本のねじくぎの緩みのためにくずれ去るようなことのないように、どんなささいな事にも等しく心を注いでおられるのである。」

『あるヨギの自叙伝』P84より引用

私がどんな存在であるかは全く関係なく、彼女に無条件に愛されてここに存在しているということを知りました。カーリーが常にすべての存在に対して愛情を注いでおられるから、今のこの瞬間も宇宙が保たれています。どんな存在も、等しく彼女が世話をしている子供です。母親に見守られて無邪気に遊ぶ子供のように、カーリーが展開し、維持しているこの世界で私も、生まれてきた歓び・生きる歓びを存分に味わいたいと思っています。

そして、かつての聖者たちが彼女と交流してきたように、私も彼女と本当に話してみたいと思っています。それが叶った時には、何を話そう、どんなことを聞いてみよう、どんなお声で答えてくださるのかな?なんてことを想像してはワクワクしています。最も近しい母なのだから、実現できないはずがない!と思っています。

もっともっと彼女に親しんで近づきたいと思い、あるものを作りました。それは粘土で作ったマスコットです。かなりデフォルメしているし、お見せできるほどの出来栄えでもないのですが(と言いつつ堂々と写真を載せています…!)、私にとってはかわいいカーリーです。

デリケートな素材だったため、ニスを塗って持ち歩けるようにしました。

なぜマスコットなのかというと、幼いころの自分を思い出したからです。よく、お気に入りのキーホルダーや小さな人形を肌身離さず持ち歩き、それが本当に命のある友達のように思って、心の中で話しかけたり一緒に遊んだり、いろんな経験を共有したりしていました。その時と同じように、神様とも親しみを込めてふれあい、常に一緒にいることを忘れずにいたいなぁと思い、自作してみました。

これから、この小さなカーリーがいつもそばにいてくれると思うだけで、私の心は喜びでいっぱいになります。彼女とどんな時間を過ごせるのか、とても楽しみです!

大森みさと


アベダーナンダからのメッセージ

主に対して確固たる、ゆるぎない信仰と強い信仰心を持つことを望むのであれば、あなたはタパッスヤーつまり厳しい苦行も習慣にすべきだ。タパッスヤーとは、当てもなくあちこちをさまよい歩くことではない。その言葉が実際に意味しているのは、規則正しく変わることなくジャパや瞑想を実践し、自制心を養うことである

10月2日は、シュリー・ラーマクリシュナの直弟子スワーミー・アベダ―ナンダの御聖誕された日です。私はアベダ―ナンダのことをほぼ何も知らない時に彼の単刀直入なその言葉に出会い衝撃を受けました。彼の口を通して届けられたその真理のメッセージに耳を澄ませました・・・

Abhedananda

彼の出家前の名前はカーリープラサード。知性に恵まれ宗教的で哲学的思索に優れていた彼は、真理を求める中で「哲学者になりたい」と思っていました。ギーターを熟読し、霊的な叡智を渇望し、ヨーガを実践したいと切望しますが、友人から適切な指導者なしにヨーガ・スートラを実践してはならないと言われ、真に悟りへ導いてくれる師を求めます。その時ラーマクリシュナとの出会いがありました。
師の没後は僧院の一部屋が「カーリー・タパスウィの部屋」と呼ばれたほど一日中その部屋で厳格な霊性修行とヴェーダーンタ(究極的真理)の研究に没頭し、後には遍歴の旅に出て厳しい修行生活を約10年間送ります・・・しかし転機が訪れます。

リーダーであるヴィヴェーカーナンダは、自分たちは個人の解脱を望むのではなく、他者に奉仕し、師の教え、永遠の真理を世界に広めるために喜んで一生を捧げることが使命だと考え、兄弟弟子たちへ痛切にそれを感じさせました。ヴィヴェーカーナンダがアメリカそしてロンドンへ渡った頃、彼はアベダーナンダに共に加わって師の思想を一緒に広めるようにと頼みます。ヴィヴェーカーナンダの言葉は師の言葉だと確信していたアベダーナンダはロンドンへ行きます。ヴィヴェーカーナンダは事前にロンドン市民へ「インドから到着したばかりの学識ある兄弟僧が、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)に関する講演を行なう」と先に発表し、それは新聞でも速報されました。演説など全くしたことがなかったアベダーナンダは、それを知ってひどく困惑してヴィヴェーカーナンダの無分別なやり方に強く抗議します。しかし、ヴィヴェーカーナンダは言いました「私の人生のあらゆる苦難の時に、いつも強さと勇気をお与えくださった、あの御方にお任せしたまえ」。
・・・アベダーナンダは師の限りない恩寵に頼り、当日、姿を現します。ホールは超満員、彼の講演は素晴らしい成功をおさめました。ヴィヴェーカーナンダのイギリス人の弟子によると「ヴィヴェーカーナンダは『仮に私がこの次元で死んだとしても、私のメッセージはこの愛すべき者たちの口を通して伝えられ、そして世界はそれに耳を傾けるだろう』と考えておられたようだった」。
ヴィヴェーカーナンダは、アベダーナンダに仕事を引き継ぎインドへ戻ります。ロンドン、ニューヨークと、アベダーナンダは、さらに師の教えを伝えるため多種多様な活動を続けました。その間には数々の困難や、彼の成功を嫉妬したある宗教者たちからの陰口を受けることもありましたが、アベダーナンダはいつもの活力と落ち着きを決して失わず仕事を続け、多くの人々が彼のメッセージに耳を傾けました。異なる文化の重要な国々に、彼は師の教えを広め続けました。25年間も。

彼がほとんどの講演で話されたことは、思いの清らかさと、身分や宗教や国籍に関係なくすべての人を愛する精神を養う、ということ。
神を信じるか信じないかに関係なく、自制心、集中力、正直さ、すべての人に対する無私の愛があれば、我々は霊的完成への途上にあるのです」。その四つが欠けているなら、その人の信仰は言葉だけのものだということ。彼自身はそのすべてを体現されていたからこそ、様々な困難があっても25年間もの間、異国の地に留まって人々のために師の教えを伝え届けるという真の宗教者の仕事に喜んで一生を捧げ、その使命を果たされたのだと思います。

Vivekananda Avhedarnanda

ヴィヴェーカーナンダと、二度目のヴィヴェーカーナンダの渡米に同行したトゥリヤーナンダと、ニューヨークのヴェーダーンタ協会を任されていたアベダ―ナンダ。彼らは共に師の教えを人々に伝えた。
ニューヨークにて、左からヴィヴェーカーナンダ、トゥリヤーナンダ、アベダ―ナンダ。

また、博識多才だった彼は多作な書き手でもあり、著作は非常に分かりやすい文体で豊かな情報と深い哲学を含んでいたことから、彼の語った言葉を直接聞けなくとも様々な国のもっと広い範囲の人々へ、その活字となった思想が影響を与えました。57歳の頃にインドへ戻った彼は、人々に霊的恩恵をもたらすため休むことなくエネルギーの最後の一滴まで使いました。

私はアベダーナンダの言葉から、困難な状況があっても状況のせいにしたり、また状況そのものを変えようとする必要はないことを学びました。神から与えられたその状況に留まって、そこで自分の内面を変えることによって、好ましくない状況を自分にとっての好ましい状況として受け入れることができると。それは毎日の規則正しいヨーガの実践によって。
良くするも悪くするも、何事も自分次第!」と師であるヨギさんから教わったことと一致します。アベダーナンダからのメッセージに耳を傾けると、自分にとってはマイナスだと感じている状況さえもがヨーガを生きるための不可欠な材料である!と私たちを鼓舞してくださっているように感じます。
聖者からの言葉は特別であり、それが活字であっても翻訳された言語であっても、時空を超えて直接届くのだと思います。その聖なる振動は消えません・・・

「内面の安らぎと充足感がなければ、人はどこへ行っても落ち着きのなさと苦痛を感じるだろう。あなたの識別能力を使って自分の心の周りに壁を張り巡らすことだ。外部の事情という邪魔ものがあなたの心に入り込むのを許さないように。これがサーダナ―(霊的修行)であることを知ることだ。あなたは俗世に心にかなう場所を見つけられない。好ましくない状況を好ましい状況に変えることを学ぶように。自分の心を耳から引き離すと、馬車のゴロゴロという音が聞こえなくなる。自分の持ち場を守り、主に祈るように。神は我々の助け手、そして大黒柱であられる

当面のあなたの務めは、神の御心に完全に服従することである。あなたの取るに足らない願望は実現されない以上、それはきっぱり諦め、完全に神の御意志にお任せして漂うが良い

世間の束縛を感じていて、平安を見い出していないという状況自体、精神世界においては向上の手段である。
あなたが着手した仕事は礼拝することであると自覚しつつ、あなたは神に仕えているという考えを肝に銘じて、労働の成果を神に捧げよ

アベダーナンダ!この世に生まれてきてくださって、師の教えを多くの人々に届けてくださって、本当にありがとうございます!!!今もこうして私たちに伝わっています!!!

*参考・引用・抜粋『真実の愛と勇気 ラーマクリシュナの弟子たちの足跡

野口美香 


ラーマクリシュナとの交換日記

鱗雲

辺り一面、青の世界・・・

夜になる直前の時間。海の底みたいなインディゴブルーの空に、宝石のような秋の鱗雲が広がっていました。

9月23日は秋分の日でしたね。この日を境に、日の出は遅く、日の入りは早くなっていくとか。そんな秋の夜長には、じっくりと読書もできそうな気がします。師の教えの新刊が待ち遠しいです。

昨年秋のバクティ瞑想専科のクラスをきっかけに『ラーマクリシュナの福音』を毎日読みだし、もうすぐ一年。私は文字を読むのが割と好きなため読む時は没頭して一気に読み終えることが多いですが、聖典、特に聖者の生涯になるとそうはいきません。なんというか・・・終わってほしくないのです。
だから『ラーマクリシュナの福音』も後半ぐらいから、できるだけ終わりに近づかないように、ゆっくりゆっくりとスピードを落として読みました。それでもやっぱり終わりはくるもので、遂に最後の行を読み終えてしまい、寂しい感情に襲われる前にすぐさま1ページ目に戻り、何事もなかったかのように最初から読み始めて事なきを得ました。今は、最初の段階からゆっくりと読むことを学習したので超スローペースで読んでいます(笑)

バクティ瞑想専科で「『ラーマクリシュナの福音』には当時の日付も記録されているから、例えばその日付ごとに気になるところをノートに書き留めたりするのもいいよ」と教えていただきました。受講していた時はそれを出来ていませんでしたが、クラス終了後にすぐきっかけがあり毎日ノートに書き留めるようになりました。 一カ月ほどたった頃、ふとノートを読み返しました。そこには自分にとっての特別な言葉だけが宝石のように散りばめられていました。どこを読んでもラーマクリシュナから直接いただいているかのような、とっておきのお言葉ばかり。その日記はだんだんとラーマクリシュナと私だけの特別な交換日記のようになっていきました。

毎日、本を読むことが、私の中ではラーマクリシュナとの約束ごとになっていたので、いつも待ってくださっているように感じていましたが、さらにお言葉を書き留めていくと、それはもっともっと特別な意味合いを持っていきました。 時にはその時間がなかなか取れずに日をまたいで0時を過ぎてしまって焦ることもありましたが、一日の終わりにようやく落ち着いて一対一で向き合えるひとときは貴重な瞬間でした。 
繰り返す中で感じたのは、私はこのことに間違いなく支えられているということ。よりそれを感じたのは、仕事や用事などで目まぐるしい日がしばらく続いた時。アーサナや瞑想、聖典を読む時間をどこで取るかに苦労し、でもどんなに時間がなくても自分にとっては大切なことだから忙しいからといってその時間を雑な感じにしたくないなと思っていました。そしてそういう忙しい時こそ、それが拠り所にもなっていました。深夜、静かになった部屋でラーマクリシュナのお言葉と向き合う、その時間だけは日常から切り離されてぽっかり浮かんでいるような断絶感があり、ある一定の変わらない何かがありました。修行とか実践とかそういう類いでもなくて、ただただ神のお言葉を聞く、それだけ、それだけがある、という感じでした。

そんな日々が淡々と過ぎていった時、ああ、私には師の恩寵によってこの時間が与えられ、だから毎日こうして元気に生かしてもらってるんだなと思えました。日記に書き留めたお言葉は、読み返してみると無意識に何度も同じような意味合いのお言葉を選んでいることに気付きます。ラーマクリシュナが、それだけ何度も何度も愛をもって同じ一つのことを繰り返し伝えてくださっているからだと思いました。私たちの師ヨギさんのように。 

一つの理想を忠実に守りなさい。それで初めて神を悟ることができるのだ」 

お前たちは一つの理想を固く守らなければいけない。深く潜りなさい。そうしなければ大海の底にある宝石を手に入れることはできない。表面に浮かんでいるだけでは、宝石を拾い上げることはできないよ

 「深く潜れ、おお、心よ、神の美の大海に。もしお前が底の底までおりるなら、そこに愛の宝石を見いだすだろう……」 

*参考・引用 『ラーマクリシュナの福音』

野口美香 


『ヨーガ・スートラ』写経

『ヨーガ・スートラ』ーーその名が示す通りヨーガの経典です。
私はこの夏、その写経をしました👳‍♀️📝

4章195節から成る『ヨーガ・スートラ』ですが、この写経をしてすぐに感じたのは「学びの一つは書く」ということです。私自身、最近はパソコンで文字を打つことがほとんどでしたが、久しぶりにじっくり書くという行為をしてみると、眠っていた「書いて学ぶ」という感覚が身体の中から蘇ってきて、学びの基本に立ち返ったように感じられました。

また、解説や注釈なしに一節一節を抜き出して書き、それを始めから終わりまで何度も読み返すことで、『ヨーガ・スートラ』の全体像や要の教えが見えてくるような感覚がありました。当然のことなのですが、『ヨーガ・スートラ』は「心の作用の止滅」、これが主題なのだと。つまり、心に執らわれや煩いが一切ない「無執着」、その心の無一物になるにはどうすればいいかについて説かれていると感じました。

「それら(心の作用)の制御は、実践(修行)と無執着とによっておこなわれる」 『ヨーガ・スートラ』1−12 

「見えたり聴こえたりする対象への渇望を棄てた人々のところにやってくる、そして、対象を支配しようと決意する、その結果は、無執着である」 『ヨーガ・スートラ』1−15 

 ーー『ラージャ・ヨーガ』P112、115より引用

私はこれらの『ヨーガ・スートラ』の教えに触れていると、ある覚者の存在が心に浮かびました。それは「ブッダ」です。ブッダは次のような教えを説いています。

「すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執着を超越して、とらわれることのない人、ーーかれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ」 『スッタニパータ』620−621

「熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、ーーこれによって〈バラモン〉となる。これが最上のバラモンの境地である」 『スッタニパータ』654−655

ーー『ブッダの人と思想』P13、15より引用

バラモンとはブラーフマナのことで「清浄無垢な真人」であります(『ヨーガの福音』P44)。清らかで純粋な心の持ち主、まさしく真のブラーフマナであるブッダの説いた無執着や熱心な修行・制御が『ヨーガ・スートラ』の要旨と一致しており、ブッダとヨーギーの同一性が感じられます。

今回の写経を通して私自身、ブッダ・ヨーギーの無執着の心境を目指していこうと気持ちを新たにしています。
写経はやってみると単純に楽しいですし、読むこととはまた違った味わいで経典・聖典に触れることができると思います。大袈裟かもしれませんが、心にブッダやヨーギーの無執着が写されるように感じます。
まだ写経をやっていない方、本当にお勧めします👳📝

ゴーパーラ