聖者と教え」カテゴリーアーカイブ

マザーに憧れて

キールタンの中に、Bhajamana Ma(バジャマナ・マー)という曲があります。

おお 心よ 母を讃えよ 
母よ 母よ 母よ 母よ 
歓喜に溢れる母よ 至福に満ちている母よ 
至福の姿をとられた母よ

この曲を歌っていたある時、ラーマクリシュナはマーのことをこの曲のように思われていたのではないかなと思うことがありました。そして、今はこの曲を歌うと、自然とサーラダ・デーヴィーのことを思います。

バクティ・サンガムでサーラダ・デーヴィーのことを教えていただいてから、その存在にとても惹かれ、二冊の書籍を購入しました。ラーマクリシュナの聖なる妻であられたサーラダ・デーヴィーは、師の弟子や信者から愛情と尊敬を込めてホーリー・マザー(聖母)と呼ばれておられました。私も密かに「マザー」とお呼びしています。そして、ラーマクリシュナご自身もサーラダ・デーヴィーの汚れのない純粋さを確信され、聖なる母として正式に礼拝を捧げられたことも記されていました。

マザーがどれほど強い信仰をお持ちだったか。どれほど深く大きな愛をお持ちだったか。私には到底計り知ることはできません。けれど、私はマザーにとても憧れます。ラーマクリシュナもお認めになられたような存在でありながら、マザーは生涯変わらず慎ましやかであられました。ラーマクリシュナの男性の弟子が増えてお側に仕えるようになった頃、彼らの前に出られないほどはにかみ屋で控え目であられたマザーは、ニ、三十メートル程のところにお住まいになりながら、ラーマクリシュナにお会いできない日が時には二カ月も続きました。マザーはラーマクリシュナにお会いしたい気持ちを堪え、ポーチの仕切りの小さな穴の後ろにたたずみ、ラーマクリシュナの歌声に耳を澄ませられました。そうして何時間も立ちっぱなしになられたためにリューマチを患われたこともありました。

また、ラーマクリシュナを愛し、常に拠り所にしておられました。どのような状況にあっても師の教えに誠実であられました。そしてマザーは教えてくださっています。

”平安を望むのなら、誰の欠点も探らないことです。
自分の欠点を調べなさい。
世界を自分のものとすることを身に付けなさい。
子供よ、誰ひとり他人はいません。
全世界があなたのものです”

日常でその教えを思い起こすと私の中の高慢な思いはすぐさま力を失います。ヨギさんは、マザーのことを「泥池に咲く蓮の花のような人」とおっしゃったそうです。
今いる場所で、マザーを見倣い、熱心に実践を続けたいと思います。

いつでもマザーを思うことができますように。
携帯の待ち受け画面もマザーのお写真にしています。

藤原里美  


成道会

12月8日はお釈迦様が悟りを啓かれた日、成道会(じょうどうえ)です。
生老病死や八正道の教えなど、日頃頼りにされている方も多いのではないかと思います。2500年の時を超えて伝わるお釈迦様の教えの原点がこの日にあるのかと思うと、しみじみと、お釈迦様が悟られて良かったと思いますし、感謝の想いが溢れてきます。
私はヨーガを知り、師匠のヨギさんとお会いするまで、悟りという言葉の意味をよく知りませんでした。しかし、ヨギさんから、悟りとは瞑想の中で体験する心が完全に静まった境地であり、それは確かにあることを教えて頂きました。約2年前にヨギさんと10日間ニューヨークのケーヴで生活を共にする希有な機会を頂きましたが、これ程までに静寂に包まれた方にはお会いしたことがありませんでした。

ニューヨーク修行の時に師匠に選んで頂いた仏陀像。「これを見ながら瞑想したらいいよ」と教えてもらいました。

この2年間ヨギさんの下でヨーガを学び、アーサナと瞑想を繰り返すことで、私の心も少しずつ静まっているのを感じます。そういった経験を通して、私は今、心が完全に静まった状態というのは存在するだろうと考えています。しかし、そのためには、そこに向かう情熱と努力が必要であり、簡単ではありません。
お釈迦様が悟りを啓かれた時、そこに梵天様が現れ、教えを人々に説くことを勧めたそうです。その後亡くなる最後の最後までインド中を旅し、教えを説き続けました。それが世界中に広がり、時代を超えて私達まで伝わってきているのです。
この教えには反対する者もいたのではないかと思います。執着をなくし、煩悩を消し去れという教えは、煩悩のままに生きる者には疎ましいものであったはずです。また他の考え方を持つ者も多くいたでしょう。そのような困難にも負けず、教えを広めるのは決死の覚悟であったと思います。身をなげうってまで真理の教えを伝えて頂き、本当にありがたいことです。

私には共に暮らす家族がおり、ヨーガの実践において、家族との間に摩擦が生じることが多くありました。例えば、生きとし生けるものは皆幸せを求めて生きているのだから、生き物を傷つけるのを少なくしようという意味でアヒムサー(非暴力)の教えが腑に落ち、肉食を減らそうと思いましたが、家族にそれを受け入れてもらうのに長く時間がかかりました。この経験で学んだのは、言葉の説明以上に自分がそれ相応の人間である必要があるということです。非暴力を実践したいと言っているのに、それによって家族を悩ますのは矛盾になってしまいます。このような意味で、お釈迦様が人々に、苦を取り除くために煩悩を消しなさいと説かれた時、質問は当然お釈迦様自身にも及んだはずですが、結局人々はお釈迦様の人柄を見て納得したのではないかと思います。そのお言葉は慈悲に満ちていたのでしょうし、愛に溢れたやさしいお方だったからこそ人々は納得したのではないでしょうか。
それが伺える私も大好きなエピソードがあります。お釈迦様は晩年故郷に向けて旅をしながら、人々に教えを説いていたそうです。その際、途中で泊まった町において、弟子のチュンダから供養された際、食べ物が何かの誤りで腐っており、食中毒にかかりました。そしてそれが直接の原因となって亡くなっています。その際、チュンダのことを気遣い、彼が悩まぬよう、「私はこの供養により、悟りを実現し、涅槃に入ることができたのだからそれは最高の功徳であったと伝えてほしい」と他の弟子に伝えたそうです(中村元著『ブッダ伝』)。食中毒にかかり瀕死の状態であるにも関わらず弟子のことを気にかけておられます。身をもって慈悲の心を示されています。
今日は成道会、お釈迦様が悟られて本当によかったです。

島本 廉


世界をよく見ること。それは感じること。

私は障がい者の方の生活をサポートする福祉事業所に勤めています。
ご自宅を訪問して生活介助をしたり、外出のお手伝いをする、いわゆるヘルパーが私の仕事です。

仕事場に向かう途中に通った桂川。雲一つない青空!!(10/3)

また、昨年からは現場以外の事務的な仕事もするようになりました。
先日まで続いていた緊急事態宣言下では、障がい者の方が今どんな生活をしていたり、どんな生活を求めているのか、そういった当事者の方々の現状や需要を調べてまとめる業務をしていました。
現代はとても便利な時代です。
例えば、インターネットで「障がい者 一人暮らし」で検索すると、いろんな情報が出てきます。
最近では20代の車椅子の方たちがTikTokやYouTubeで自分たちの一人暮らしの様子や思いを発信していて、楽しく見れる動画が多くありました。
またTV局や厚生労働省もYouTubeチャンネルで障がい者の方やその親御さんを取材した特集を配信していて、これはまたしっかりと編集されていて見応えがありました。
そうやってたくさんの動画や記事を興味深く見ていたのですが、突然私の心に一つの問いがやってきました。

「そこから何を感じるのか?」

その瞬間、私は約9年前、「ヴィヴェーカーナンダのハートになるためにはどうしたらいいですか?」と師に質問し、それに対して師がおっしゃった言葉が思い出されました。

「世界をよく見ること。それは感じること。……
そうして胸の奥からどんな衝動が起こるのか、それに気付いていく作業が必要」

そして私は、たくさんの動画や記事を見る中、「自立」のために努力している方々に気持ちが動いていることに気付かされました。
障がいがあっても生活訓練所に通って社会生活を営む準備を何年もかけてしていたり、作業所で就労して立派に勤めを果たしている方、事故の後遺症があってもリハビリをして自分でできることを最大限行なっている方、また知的障がいのある息子さんの将来を考えて息子さんと離れた生活を葛藤を抱えながらも決断されたご両親、さらにそういった経験を誰かの助けになればという思いで自らYouTube配信をしている方、そんな方達の自立に向かって行動している姿に私の心は動かされていました。

今回、仕事上の小さな気付きでしたが、師の教えが自分の心の深いところでも働いていることを実感し、とても嬉しく思いました。
師は弟子の自立のため、陰ながらいつも助けてくださっているのですね……‼️
感謝を胸に、仕事もサーダナも前進させていきたいです。

「立て!目覚めよ!そしてゴールに達するまで止まるな!」  スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ

ゴーパーラ


自由への道(呼吸の制御)

先日、私は東寺の近くに用事があり、出掛けました。(急を要する用事でした)
ただ目的地を勘違いして、その周辺を彷徨ったのですが💦、歩道橋から見えた東寺の五重塔の景色がとても綺麗だったので、迷ったことも「まぁ、これが見れてよかったか」と思えました。

さて、今回のブログでは「塔」の話も出てきます。
お付き合いいただけたら幸いです😊🗼


人は普通に生きていると、イライラやドキドキ、ムラムラやモヤモヤなどの感情の波が大なり小なり起こってきます。
しかし、そのような感情や心の思いの波に巻き込まれずに、それらを制御して、すでに私たちの中に在る絶対の存在ーー「本当の自分」「神」「自由」ーーその真実に目覚めることをヨーガは目的としています。
ただ私自身、ヨーガを実践していても、時折その波に巻き込まれそうになります。
最近もそのようなことがあり、識別をしたり神を思ったりしていたのですが、上手くいかず、どうしようかと数日間苦しみました。
そんな時ふと「呼吸を吐き切ろう」と思い、お腹から呼吸をぐっーと吐き切った瞬間、その波が嘘のように一瞬で収まりました。

呼吸が止まれば心の静止につながることは理解していましたが、理屈抜きの出来事にとても驚かされ、緊張したり動揺した時は「深呼吸」というのは本当だったんだと実感しました。

その後、呼吸の制御に関心が出てきた私は、ヴィヴェーカーナンダの『ラージャ・ヨーガ』を読み返しました。
呼吸はプラーナ(気)の大きな現れです。プラーナはこの宇宙万象を動かす根源的な力で、私たちの身体のさまざまな活動も、心の働きも、全てプラーナの力によって起こります。
この呼吸とプラーナの密接な関係と制御について、ヴィヴェーカーナンダはとても分かりやすい喩えで説いていますので、紹介させていただきます。

ある時、ある王様に仕える大臣がいました。彼は王の不興を被りました。王は罰として彼を非常に高い塔の頂に閉じ込めるよう命じました。大臣はそこで、死ぬのを待つことになりました。
しかし彼は忠実な妻をもっており、彼女が夜、塔の下に来て夫を呼び、助ける方法を尋ねました。彼は彼女に、次の夜、一本の長いロープと、丈夫な糸と、荷造り用の糸と、絹糸と、一匹のカブト虫と、そして少しばかりのハチ蜜とを持ってこい、と命じました。たいそう不思議に思いながら、善良な妻は夫の命じるままに、これらの品を持って塔の下に来ました。夫は彼女に、カブト虫に絹糸の端をしっかりと結び付け、それのツノに一滴のハチ蜜を塗り付け、それを塔の壁に沿って上を向けて離せ、と命じました。
彼女はこれらすべての指示に従い、カブト虫は長い旅に出発しました。それはハチ蜜の匂いを追ってひたすら登り続け、ついに塔の頂に達しました。大臣はそれを捕え、絹糸の端を手にしました。彼は妻に、糸の別の端を荷造り糸に結び付けるよう命じ、それを引き上げて手にすると、強い糸で、次にロープで同じ動作を繰り返させ、ついにロープの端を手にしました。そのあとは楽なものでした。大臣はロープをつたって下に降り、逃亡しました。
我々のこの身体の中で、呼吸運動は「絹糸」です。それをつかみ、それを制御する方法を学ぶことによって、我々は神経の流れをいう荷造り糸をつかみ、これから我々の思いという丈夫なより糸を、そして最後にプラーナというロープをつかみます。それを制御することによって、我々は自由を得るのです。

呼吸の制御を第一として、神経、心の感情や思い、そしてその原因であるプラーナ(気)を制御する階梯を見事な比喩でヴィヴィーカーナンダは説いています。
またこの物語は、ヨーガの実践において大切な要素が含まれていると私は感じます。
妻の夫に対する忠実さは真理への忠実さを示し、真理の教えを一つずつ確実に行なうことによって心の檻(塔)から自由になるという、まさに王道のヨーガの実践、そして境地を象徴しているように思います。

私は前回のブログ『失われることのない自由』で、「私たちの本性は自由である」ということを書きました。
今回、その自由への道は、呼吸の制御からも繋がっていることを実感しました。
数千年の歴史をもつヨーガは、私たち人類に自由へと導くさまざまなルートや方法を提供してくれていて、その懐の深さには本当に驚かされます。

お彼岸を迎え、明日の9月23日は昼夜の長さがほぼ同じになる秋分で、大気のプラーナが中庸になる日です。
この力を借りて、プラーナの制御の実践をしていきたいですね!!

姉弟子から彼岸花をいただきました。彼岸という言葉はパーラミター(到彼岸)を略したもので、悟りの境地を意味しているそうです。

ゴーパーラ


失われることのない自由

9月になりましたね。
大学生はまだ夏休みかもしれませんが、小中高生は夏休みも終わって授業もスタートしていると思います。

夏の思い出。この夏、訪れた京都御所(写真上)、清滝(左下)、東山動物園横のかき氷屋さん(右下)。すべて仕事で訪れたところです。

ところで皆さんは、「あぁ、夏休み終わった……もう僕(私)の自由は無くなった……」と思ったこと、ないですか?
私はあります、特に小学生の頃は田舎の優しい祖父母の家でコーラを飲みながら野球中継を観ているのが幸せで、この自由気ままな夏休みが永遠に続けばいいのにと思っていました。
でも、現実はそうはさせてくれない……
そこで今回のブログのテーマは、「自由」についてです。


この夏、私はヴィヴェーカーナンダ著『ギャーナ・ヨーガ』を熟読していました。
もう何度読んだか分からないほど読んでいるのですが、また新しい発見があったのです💡
それが何かと言いますと、

『ギャーナ・ヨーガ』の主要なテーマの一つは、もしかして「自由」なのではないのか?

ということです。
「そんな当たり前のこと……」と思われる方もいるかもしれませんが、私は初めてそう感じました。
『ギャーナ・ヨーガ』はヴィヴェーカーナンダが西洋で行なった18講演が収録されているのですが、その題名には「自由」がいくつか使われており、何より自由が「アートマン」「神」「魂」「不二一元」「自立」と同義で説かれ、「私たちの本性は自由」であると述べられています。

「あなたはすでに自由なのです。もしあなたが自分は自由であると思うなら、あなたはこの瞬間に自由です。もしあなたが、自分は束縛されていると思うなら、あなたは束縛されるでしょう」

「もし自由があなたの本性でないのなら、どんな方法をもってしても、あなたは自由になれるはずはありません。もしあなたが自由であったが、何らかの理由でその自由を失った、とおっしゃるなら、それはもう初めから自由ではなかった、ということになります。もしあなたが自由であられたのなら、誰がそれを失わせることができましょう。自立している者を従属的にすることは決してできないのです。もしそれが本当に従属的であるなら、そのものの独立性は初めから幻想だったのです」

『ギャーナ・ヨーガ』〜魂の自由〜

かなりというか、度肝を抜かれる大胆な発言です。
私自身、とても衝撃的でした。
自由は失われたり、何かに依拠しているものではない、すでに私の中に自由はあり、私は自由だというのです……!!!

また、自分は不自由と思った時点で、束縛される。
自分は弱いと思った時点で、弱くなる。
それらの思い込みは、心の思いがつくり出した単なる「幻想」だということーー

では、夏休みが終わって学校や仕事に戻り、田舎の祖父母の家やバカンス先と同じ気持ちで「私は自由だ」と思えるのか?
また安直な宗教のように、もう我々は自由なのだから修行や努力はしなくていいと解釈して生きていくのか?
否、心がつかんでいる「こだわりや執着」を手放さないといけないのです。
私の師シュリー・マハーヨーギーは自由について、こうおっしゃっています。

「心は、何かを持っている手のように常に何かをつかんでいる。一つのものを離してもすぐまた違うものをつかんでしまうーーテニスラケットやゴルフクラブのように。所有というのは常に不自由です。自由というのは何も持っていないこと。そうすればいつでもラケットやクラブをつかめる。だからこだわりや執着をなくして所有しないということーーこれが遊びということです。空の手は自由を象徴している」

『ヨーガの福音』 シュリー・マハーヨーギー

最近、私はあるグルバイ(仲間)と電話で話していたら、今自分が考えていることとシンクロするかのように、次のことを言っていました。

「ヨーガは自由になるためにある」

ヨーガを始めると、最初は今まで自分が感じていた自由が奪われるように思うかもしれません。
厳しそうに見えるヤマ・ニヤマの戒律的教え、食事制限、苦しいアーサナ、じっと座り続ける瞑想など、私自身、「もっとご飯食べたい」「ちょっとこの戒律、厳しい」「アーサナ・瞑想、毎日するのもしんどいぞ」と思っていました。
でも、師のヨーガの教えを拠り所に続けていけば、心身は確実に軽やかになります。
まだ12年ほどですが、これは実践を続けた私が体感し確信していることです。
そして、心のこだわりや執着を手放すこと、つまり放棄の徹底ができれば幻想は消え、自由を体得できると感じてきています。

さて、私の37歳の夏休みは儚くも3日で終わり、うち2日は夏休みの課題のDIYをしていました。
しかし、夏休みの「自由研究」は続いています。
幼い頃、願っていた永遠に続く夏休みは祖父母の家ではなく、もうすでに私の中に在ることは納得しました。
あとは実験(実践)、そして証明です。

夏の思い出⚽️こちらも仕事で、京都サンガFCの試合を観戦しました(8/9)。ホームグラウンドが西京極から亀岡に移り、そこでの試合でした。とても観やすいスタジアムで、FC町田に2–1で勝利。9月4日現在、J2で1位です。空の手で拍手👏

ゴーパーラ


揺るがない信頼

暑さがまだまだ厳しく、口を開けばついつい暑いと言ってしまいがちですが、そんな中でも季節の楽しみ方がありますよね。私は、暑い中、道を歩いている時何処かの家から聞こえてくる風鈴のさわやかな音が耳に入って来た時や、夏の昼間に飲むアイスコーヒー、夕日の沈む美しい空のグラデーションを見たり、夕方ひぐらしの鳴き声を聞くと、さっきまでの暑さを忘れ心がホッとし落ち着きます。

愛媛松前町にある高忍日賣(たかおしひめ)神社の風鈴回廊。ここは全国唯一、産婆、乳母の祖神である高忍日賣大神をおまつりする神社だそうです。風鈴のさわやかな音色が夏の暑さを緩ませてくれます。

こんな風に日々心穏やかに過ごしたい。しかし、一日の大半の時間を過ごす職場では、なぜこんなにも心が動揺しその場の状況に翻弄されていくのでしょうか…。

その日も仕事中に周りの人の会話が耳に入ってきました。周りから聞くと威圧感があるような、その言葉は、本当にその相手の事を真剣に考えて発している言葉なのか?
傷つける行為ではないのか?
私の心は、その言葉を発した人にピッタリとくっつき、心は大きく動揺し、その人に対するどうにもならない思いを募らせていくという出来事がありました。
悶々とした日々が続く中、以前ゴーパーラさんのブログでも紹介されていた、ブラザー・ローレンスの『敬虔な生涯』を昼休みに開けてみると、ある一節が目に飛び込んで来て、はっ!としました。

ある日、私(修道院長のヨセフ・ド・ボーフォール)は深い考えもなく、ある重大な問題を彼(ブラザー・ローレンス)に話しました。それは、彼が深く心にかけていたことで、長い間、その為に労してきたことでした。それが成就せず、提案に反対する決議がされたのです。この事に対して、彼は淡々と答えてました。「このように決めた人には、それなりの理由があるのでしょうから受け入れなければなりません。後はただ、それを遂行するだけです。もう何も言うべきではありません。」実際に彼はその通りにしました。実に完全に。それ以降、それを取り上げる機会はいくらでもあったにも、かかわらず、彼はひとことも口にしませんでした。

『敬虔な生涯』より

私の場合、その人が発した言葉にもそれなりの理由がある事など全く考えず、それでいてどうにもならない自分の感情に何の意味があるのか…。
この状況で自分に出来る事は、お互いが良い方向に向かいますようにと祈る事。それしか見つからず気持ちを切り替えるようにしました。
と、同時にブラザー・ローレンスの、感情に流されず決めた事を貫く意思の強さ、そこに近づきたい。そう感じました。

愛媛県伊予市 伊予五色浜海岸

会社では人それぞれの立場が違います。その為自分の意見や考えが正当だとは限りません。
自分というあやふやな目線から見るのをやめてみるように心掛けてみました。
また、その方から心を離すようにしてみました。
心が言葉や態度に反応して、行こうとする度に引き戻す。

これは、今現在も実践中ですが、心を執着している事から離していくと、留まる事が身についてきたように思います。
今までの心の習慣を変える事は上手くいったりいかなかったりの日々ですが、ここで働く時間どう過ごしていくかを考えたとき、師がいつも私たちをそう見てくださっているように、どんな状況であってもその人の中にある尊い存在だけを見ていきたい。と強く思うようになってきました。

また師は松山特別サットサンガでこうおっしゃっていました。

一人で部屋の中でアーサナや瞑想をしているのは、まだ練習にすぎない。やはり、さまざまな自然界の中で、人の中での出来事の中で、自分の心がどれほど落ち着いていられるか、そこでヨーガが試されている。

シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

苦しい時、実践が思うように進まず行き詰まった時、師のお言葉や聖典の教えは、その苦しみが瞬時に取り除かれるよう導いてくださいます。ヨーガを学び始めてこの10年、何度もそのような体験をさせて頂きました。
その度にヨーガに対する揺るがない信頼、それが培われてきたように思います。
心の動揺に振り回される事を恐れずに、日常は本番だと思い、どんな場面でも心を落ち着かせヨーガを深めていきたいです!

地元伊予灘サービスエリアから見る夕日。松山市界隈がとても綺麗に一望出来る場所です。

玉井眸


晴れの日も雨の日も主クリシュナ ─ミーラー・バジャンによせて

先日とても暑かった日に、家の近くを歩いているとアスファルトの上にゆらゆらと陽炎(かげろう)が立ち上っているのが見えました。真夏の強い日射しの下で私はふと「ミーラー・バーイーが生きたラージャスターンはもっと暑かったのかなぁ…」と、五百年前の遠い異国の地を思い浮かべました。

インドの聖女ミーラー・バーイー(1498~1546)が生まれたインド北西部のラージャスターンは、砂漠や険しい山々が連なった厳しい土地柄で、暑い時期は日中の気温が40℃にもなるそうです。また一年のうち6~7ヶ月間が乾季という、とても乾燥した地域なのだそうです。
現代のようにエアコンなど当然なく、おそらく水道なども整っていなかったであろう五百年前、ミーラーやその土地で暮らす人々はどのような生活を送っていたのでしょう・・・。

別の日、職場から帰宅する途中、急に空が曇ってきたなと思ったら雨が降り始めました。雨はしばらく降ってすぐに止み、その後サァーッと涼しい風が吹いてきました。その日も朝から暑かったので、立ち止まってしばらく爽やかな風を全身で心地よく感じていると、ミーラー・バーイーの詩の一つを思い出しました。

雨がふるふる 楽しきサヴァン
心は サヴァンを待ちわびて

サヴァンに 胸はときめきて
噂を聞きて ハリ来ると
湧いて集まる 黒雲に
下着まで すっかり濡らされて
雨粒が 風に運ばれて
涼しき風も 心地よく
ミーラの神様 ギリダラナーガル
幸せ喜び 歌わんや

          ※サヴァン/雨季
          ※ハリ、ギリダラナーガル/クリシュナ神の異名
          ※下着/サリーの下に着るスカート

          出典/美莉亜訳『ミラバイ訳詩集』

暑い季節が長く続き、乾燥しきったラージャスターンに暮らす人々にとって、雨季の到来はすべてを潤し生命を蘇らせる喜ばしいものだったことでしょう。この詩からは待ちに待った“サヴァン“を喜び迎える心情が伝わってきます。
ですが、ミーラーがこの詩に込めた本当の思い、それは一心に信仰していたクリシュナ神への深いバクティ(信愛)です。
クリシュナ神の肌は青や黒で表されることが多いのですが、クリシュナという名前には「濃い青」「暗い」「黒い」という意味があり、黒雲はクリシュナ神の象徴でもあります。
頭から足の先まで全身をすっかり雨に濡らされたミーラーは、きっと愛するクリシュナに命も魂もすべてが溶け込んでいくような、甘美な歓びに浸されたのではないでしょうか…。

楽しそうな笑い声が聞こえできそうですね。ブランコの勢いで愛するクリシュナ(黒雲)のところまで飛んでいこうとしているのでしょうか?

ちなみに”ハリ”には「太陽の光のような色」という意味もあるそうです。

晴れの日も雨の日も主クリシュナ。
朝の光も夜の闇もすべてが主クリシュナ。
寝ても覚めても神しか見えない。
ミーラー・バーイーのようにそんな日が来るのを私も待ち続けています。

シャルミニー


ちょっとしたグル(師)の行為 ⑴

私にとってなすべき義務は何もない
しかし、私は行為する
人が私を見倣うように

ーー『バガヴァッド・ギーター』ーー

この世に何の義務や欲望のないクリシュナ(神の化身)が行為するのは、「人が私を見倣うように」という真理の行為の模範を人々に示し、真理に導くためです。

人は聖典を読むことで、真理を学び、実践することができます。しかし聖典の学びだけでは、真理を正しく実践し、体得することが容易ではないことは、霊的実践をしている人なら誰もが感じることです。

何事も人は、直接的に人から学ぶ方がダイレクトです。なぜなら、そこには生きた熱、息吹があるからです。その道のマスターなら尚更です。覚者・聖者、つまりグル(師)の行為が与える影響力というのは、聖典の何千倍もの威力があると私自身感じています。
それは「ちょっとした行為」でもそうです。

「見て覚える」「見て盗む」という習慣がなくなりつつある昨今、グル(師)に出会うまでの26年間、私自身もそういうことをしないで育ってきました。
ちょっと前ふりが長くなりましたが、そんな私がヨーガを実践していく中で、「ちょっとしたグル(師)の行為」を目の当たりにして驚き、学んだことをシリーズでご紹介したいと思います〜!


11年前の7月、私はニューヨークのケーヴ(NYミッションの拠点)に師と滞在していました。
まず師の行為に驚かされたのは、抹茶塩を天麩羅にかける時でした。師は小さい匙に抹茶塩をのせ、匙の肢をトントントンとして、美しく均等にふりかけておられました。その時、私はとてもエレガントだなぁと思ったのですが、すかさずアーナンダマーリーさん(ケーヴのホスト)が褒めていました。私も真似てみたのですが、無惨にもガサッと散乱。。

11年前のケーヴからの景色。(2010.7)

また師の行為はエレガントさだけでなく、大胆さも持ち合わせていました。
師は普段、料理をされないようですが、料理ができない私にケーヴでは時折、料理を作ってくださいました。素麺、天麩羅、お好み焼き、焼きそばなど、料理をしていない人とは思えないほど師が作る料理は美味しいのですが、ある時チャーハンを作ってくださいました。
私は補助をしながら、そばで見ていました。野菜を切る時は普通のご様子でしたが、いざ中華鍋をセットしてガスのレバーを「カチッ」と回した途端、師のスイッチも点火、烈火の如くチャーハンを炒めていました。。🔥
とても美味しくいただいた後、私は師に「チャーハンを炒めている時、火のように燃えて見えました」と伝えると、師は次のようにおっしゃいました。

「日本では聖者のことを『聖(ひじり)』って言うやろ? その語源は火(ひ)を知(し)っている者。つまり火をコントロール(制御)できるということなんや」

行為に裏打ちされたその教えに、私はただただ感嘆しました。真理を体現されたまさに「聖(ひじり)の行為」を間近で見た瞬間でした。

11年経った今、私はチャーハンを作っている時、「自分は火のように燃えているのかな?」とふと思ったのですが、そんなに燃えている気がしませんでした。。それもそのはず、そう思った時点で「私の思い」があり、「火そのもの」にはなっていないのですから。。

ゴールは遠し、しかし理想のみを見るべし!!!


7月24日の満月の日は「グル・プールニマ」です。
完全円満なグルの存在を讃え、感謝の思いを捧げましょう!!!

グル・プールニマについては、ここをクリックして読んでみてください👈🌝

ゴーパーラ


誰もが実践できる働きの秘訣

みなさんは学校の授業は好きでしたか? 私はというと……(お察しください)。
けれど今、楽しみにしている授業があります。それは誰ヨガ(誰もが実践できるヨーガ)です。自分自身の人生や心、幸せといった誰もが身近に感じ、時に思い悩んだりする事柄をテーマに、ヨーガではどう教えているのか、自身の生活でどう実践できるのかを学べるオンラインクラスです。
4月に開講し、月に一回、半年間をかけて学んでいきます。その期間は同じ顔ぶれのグルバイとZOOMで顔を合わせます。初回のクラスでは自己紹介をし、さながらクラス替え後の教室みたいだなぁと感じていました。担任の先生は先輩グルバイのサーナンダさんです。2時間のクラスの中では、「どうなったら本当に幸せですか?」、「なぜ働かないといけないのですか?」といった問いかけに向き合う時間があるため、講義の内容をより自分のこととして捉えやすいように感じます。

出勤途中に咲いている朝顔。目の覚めるような鮮やかな色で、気持ちよく仕事に向かうことができます。

5月に行われた2回目のクラスでは、「働きの秘訣」と題して私たちが働く理由、そしてどう働けばいいのかを教えていただきました。「生活のためだから」と、私は心のどこかで仕方なく働いているように思っていました。しかし、今の仕事を選んだのは自分です。選ばざるを得なかったのだとしたら、その原因を作ったのも自分です。私の場合ばっちり思い当たることがありますが、自覚していない過去世からの原因も作用しています。いずれにしても自業自得、つまりカルマということになります。新たなカルマを作ることなく、カルマを果たしていくような働き方ができれば、より良い自分になっていくことができるとこのクラスで教えていただきました。
一日の中で働いている時間は大半を占めています。(社会の中で勤めるといった意味合いに限らず、親などの役割や家事も含まれます。)しかも毎日のことです。ということは、そこでの行為次第で、多くの時間が自分をより良くするチャンスに変わるということになります。毎日がチャンス…?!何それ最高!!と私の瞳はきらめきました。本当に重要なのは何の仕事をするかではなく、「どう働くか」だったんです。
では、肝心の「働きの秘訣」はと言いますと…

・好き嫌い、不平不満を言わない。
・結果や他人の評価に執らわれない。
・目の前の仕事の目的を明確にし、余計なことを考えずに集中する。
・自分の思いばかりを見るのではなく、他者の喜びを自分の喜びとする。

どれもシンプルで、仕事の種類を問いません。そして、誰でも今すぐ実践できることです。「そうはいっても難しい…」と言い訳したがる心に負けてたまるかと、「ただやるのみ!できなかったとしても次の瞬間にもう一度チャレンジするのみ!!」そう言って日々自分と闘っています。少しでもこの秘訣を実践できれば、まず自分が楽(心身ともに軽やかに)になることを実感します。そうすれば周囲に気を配る余裕も生まれます。何より発散する空気が違うのではないでしょうか。入り口は自分のためのようであっても、自然と他者のためにもなっている、素晴らしい秘訣です。仕事の効率化や成果を上げる方法は多く説かれていても、こんな大切なことを教えてもらえる機会にはそうそう出会えないように思います。ヨーガを学んでいる、いないに関わらず、多くの人の助けとなる教えだと思いました。

海へ流れる川。奥は瀬戸内海です。身近な風景ですが自然の壮大さを感じ、大いなる存在に想いを馳せずにいられません。車の窓を開けて走ると様々な鳥の声が聞こえてきます。

私はこの誰ヨガの授業を受けているとワクワクしてきます。「秘訣」という言葉を辞書で調べると、“人に知られていない特別な良い方法。おくのて。”と出てきます。まさにそんなことを教えていただけて、知りたかったことはこれなんだ!!と体中から力が湧いてきます。最初にこのクラスを学校の授業のように例えましたが、この授業ではテストもなければ成績もつきません。その代わり、日常がテストです。参考書を頼りにするように、この強力な秘訣を頼りにして、私はカルマ(業)からの卒業を目指したいと思います!

このカードの裏面には、『バガヴァッド・ギーター』第2章48節の教えが記されています。 「アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地であると言われる。」 働きの結果に執われそうになった時、思い出す教えのひとつです。

 

大森みさと


ブラザー・ローレンスの教え〜神との対話〜

最近、複雑な問題に直面し、その答えを求められることがありました。
いろんな人の立場が絡まる問題であったので、答えを出すのが難しいと感じ、どうしようかと考えていました。
そんな時、私はブラザー・ローレンスに出会い、彼の信仰心にとても感銘を受けていました。
彼の実践の特徴の一つが「神との対話」です。

「私たちは何をするにも、すべてのことを主に相談する習慣を作らねばなりません。そのために、神と絶えず語り、自分の心を神に向ける努力をしなければなりません」

私は彼に倣い、瞑想の時にその問題を神へ相談しました。
そうすると突然「光」が見え、「光あれ」という言葉が自分の内側から出てきました。
その時私は、「そうか、自分が答えを出すのではなく、ただ光のようにあれば答えが照らし出される!」と感じ、自分のするべきことが示されたように思いました。
その直後、期せずして次から次へとその問題に関する出来事が起こりました。
私はただ光のようにあることを心掛け、淡々とその事象に対応し、そうすることで複雑に見えていた問題の答えが自然と照らし出され、無事に解決に至りました。

ブラザー・ローレンスはおっしゃいます。

「神は決して私たちに大きなことを望んでおられるのではなく、私たちがすべての時の瞬間瞬間をわずかでも神をおぼえ、神をあがめ、神の恵みを求めて祈り、私たちの苦しみを打ち明けて語り、神がすでに与えてくださった恵みや、今、試みの中に与えてくださっている恵みをおぼえて感謝するのが大切なことだと思います。神が求めておられるのは、あなたができるだけ多くの時に、神を自分の慰めとすることなのです」

私は、ブラザー・ローレンスを通して問題の解決に至ったことを、神に感謝しました。
でも改めてこの教えを読んだ時、もっと大切なのは「結果に執らわれず、どんな時も神をおぼえ、あがめ、祈り、神の恵みに感謝すること」であると、さらにまたブラザー・ローレンスから教わったように感じました。

「世の光」であられたイエス・キリスト。

ゴーパーラ