聖者と教え」カテゴリーアーカイブ

失われることのない自由

9月になりましたね。
大学生はまだ夏休みかもしれませんが、小中高生は夏休みも終わって授業もスタートしていると思います。

夏の思い出。この夏、訪れた京都御所(写真上)、清滝(左下)、東山動物園横のかき氷屋さん(右下)。すべて仕事で訪れたところです。

ところで皆さんは、「あぁ、夏休み終わった……もう僕(私)の自由は無くなった……」と思ったこと、ないですか?
私はあります、特に小学生の頃は田舎の優しい祖父母の家でコーラを飲みながら野球中継を観ているのが幸せで、この自由気ままな夏休みが永遠に続けばいいのにと思っていました。
でも、現実はそうはさせてくれない……
そこで今回のブログのテーマは、「自由」についてです。


この夏、私はヴィヴェーカーナンダ著『ギャーナ・ヨーガ』を熟読していました。
もう何度読んだか分からないほど読んでいるのですが、また新しい発見があったのです💡
それが何かと言いますと、

『ギャーナ・ヨーガ』の主要なテーマの一つは、もしかして「自由」なのではないのか?

ということです。
「そんな当たり前のこと……」と思われる方もいるかもしれませんが、私は初めてそう感じました。
『ギャーナ・ヨーガ』はヴィヴェーカーナンダが西洋で行なった18講演が収録されているのですが、その題名には「自由」がいくつか使われており、何より自由が「アートマン」「神」「魂」「不二一元」「自立」と同義で説かれ、「私たちの本性は自由」であると述べられています。

「あなたはすでに自由なのです。もしあなたが自分は自由であると思うなら、あなたはこの瞬間に自由です。もしあなたが、自分は束縛されていると思うなら、あなたは束縛されるでしょう」

「もし自由があなたの本性でないのなら、どんな方法をもってしても、あなたは自由になれるはずはありません。もしあなたが自由であったが、何らかの理由でその自由を失った、とおっしゃるなら、それはもう初めから自由ではなかった、ということになります。もしあなたが自由であられたのなら、誰がそれを失わせることができましょう。自立している者を従属的にすることは決してできないのです。もしそれが本当に従属的であるなら、そのものの独立性は初めから幻想だったのです」

『ギャーナ・ヨーガ』〜魂の自由〜

かなりというか、度肝を抜かれる大胆な発言です。
私自身、とても衝撃的でした。
自由は失われたり、何かに依拠しているものではない、すでに私の中に自由はあり、私は自由だというのです……!!!

また、自分は不自由と思った時点で、束縛される。
自分は弱いと思った時点で、弱くなる。
それらの思い込みは、心の思いがつくり出した単なる「幻想」だということーー

では、夏休みが終わって学校や仕事に戻り、田舎の祖父母の家やバカンス先と同じ気持ちで「私は自由だ」と思えるのか?
また安直な宗教のように、もう我々は自由なのだから修行や努力はしなくていいと解釈して生きていくのか?
否、心がつかんでいる「こだわりや執着」を手放さないといけないのです。
私の師シュリー・マハーヨーギーは自由について、こうおっしゃっています。

「心は、何かを持っている手のように常に何かをつかんでいる。一つのものを離してもすぐまた違うものをつかんでしまうーーテニスラケットやゴルフクラブのように。所有というのは常に不自由です。自由というのは何も持っていないこと。そうすればいつでもラケットやクラブをつかめる。だからこだわりや執着をなくして所有しないということーーこれが遊びということです。空の手は自由を象徴している」

『ヨーガの福音』 シュリー・マハーヨーギー

最近、私はあるグルバイ(仲間)と電話で話していたら、今自分が考えていることとシンクロするかのように、次のことを言っていました。

「ヨーガは自由になるためにある」

ヨーガを始めると、最初は今まで自分が感じていた自由が奪われるように思うかもしれません。
厳しそうに見えるヤマ・ニヤマの戒律的教え、食事制限、苦しいアーサナ、じっと座り続ける瞑想など、私自身、「もっとご飯食べたい」「ちょっとこの戒律、厳しい」「アーサナ・瞑想、毎日するのもしんどいぞ」と思っていました。
でも、師のヨーガの教えを拠り所に続けていけば、心身は確実に軽やかになります。
まだ12年ほどですが、これは実践を続けた私が体感し確信していることです。
そして、心のこだわりや執着を手放すこと、つまり放棄の徹底ができれば幻想は消え、自由を体得できると感じてきています。

さて、私の37歳の夏休みは儚くも3日で終わり、うち2日は夏休みの課題のDIYをしていました。
しかし、夏休みの「自由研究」は続いています。
幼い頃、願っていた永遠に続く夏休みは祖父母の家ではなく、もうすでに私の中に在ることは納得しました。
あとは実験(実践)、そして証明です。

夏の思い出⚽️こちらも仕事で、京都サンガFCの試合を観戦しました(8/9)。ホームグラウンドが西京極から亀岡に移り、そこでの試合でした。とても観やすいスタジアムで、FC町田に2–1で勝利。9月4日現在、J2で1位です。空の手で拍手👏

ゴーパーラ


揺るがない信頼

暑さがまだまだ厳しく、口を開けばついつい暑いと言ってしまいがちですが、そんな中でも季節の楽しみ方がありますよね。私は、暑い中、道を歩いている時何処かの家から聞こえてくる風鈴のさわやかな音が耳に入って来た時や、夏の昼間に飲むアイスコーヒー、夕日の沈む美しい空のグラデーションを見たり、夕方ひぐらしの鳴き声を聞くと、さっきまでの暑さを忘れ心がホッとし落ち着きます。

愛媛松前町にある高忍日賣(たかおしひめ)神社の風鈴回廊。ここは全国唯一、産婆、乳母の祖神である高忍日賣大神をおまつりする神社だそうです。風鈴のさわやかな音色が夏の暑さを緩ませてくれます。

こんな風に日々心穏やかに過ごしたい。しかし、一日の大半の時間を過ごす職場では、なぜこんなにも心が動揺しその場の状況に翻弄されていくのでしょうか…。

その日も仕事中に周りの人の会話が耳に入ってきました。周りから聞くと威圧感があるような、その言葉は、本当にその相手の事を真剣に考えて発している言葉なのか?
傷つける行為ではないのか?
私の心は、その言葉を発した人にピッタリとくっつき、心は大きく動揺し、その人に対するどうにもならない思いを募らせていくという出来事がありました。
悶々とした日々が続く中、以前ゴーパーラさんのブログでも紹介されていた、ブラザー・ローレンスの『敬虔な生涯』を昼休みに開けてみると、ある一節が目に飛び込んで来て、はっ!としました。

ある日、私(修道院長のヨセフ・ド・ボーフォール)は深い考えもなく、ある重大な問題を彼(ブラザー・ローレンス)に話しました。それは、彼が深く心にかけていたことで、長い間、その為に労してきたことでした。それが成就せず、提案に反対する決議がされたのです。この事に対して、彼は淡々と答えてました。「このように決めた人には、それなりの理由があるのでしょうから受け入れなければなりません。後はただ、それを遂行するだけです。もう何も言うべきではありません。」実際に彼はその通りにしました。実に完全に。それ以降、それを取り上げる機会はいくらでもあったにも、かかわらず、彼はひとことも口にしませんでした。

『敬虔な生涯』より

私の場合、その人が発した言葉にもそれなりの理由がある事など全く考えず、それでいてどうにもならない自分の感情に何の意味があるのか…。
この状況で自分に出来る事は、お互いが良い方向に向かいますようにと祈る事。それしか見つからず気持ちを切り替えるようにしました。
と、同時にブラザー・ローレンスの、感情に流されず決めた事を貫く意思の強さ、そこに近づきたい。そう感じました。

愛媛県伊予市 伊予五色浜海岸

会社では人それぞれの立場が違います。その為自分の意見や考えが正当だとは限りません。
自分というあやふやな目線から見るのをやめてみるように心掛けてみました。
また、その方から心を離すようにしてみました。
心が言葉や態度に反応して、行こうとする度に引き戻す。

これは、今現在も実践中ですが、心を執着している事から離していくと、留まる事が身についてきたように思います。
今までの心の習慣を変える事は上手くいったりいかなかったりの日々ですが、ここで働く時間どう過ごしていくかを考えたとき、師がいつも私たちをそう見てくださっているように、どんな状況であってもその人の中にある尊い存在だけを見ていきたい。と強く思うようになってきました。

また師は松山特別サットサンガでこうおっしゃっていました。

一人で部屋の中でアーサナや瞑想をしているのは、まだ練習にすぎない。やはり、さまざまな自然界の中で、人の中での出来事の中で、自分の心がどれほど落ち着いていられるか、そこでヨーガが試されている。

シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

苦しい時、実践が思うように進まず行き詰まった時、師のお言葉や聖典の教えは、その苦しみが瞬時に取り除かれるよう導いてくださいます。ヨーガを学び始めてこの10年、何度もそのような体験をさせて頂きました。
その度にヨーガに対する揺るがない信頼、それが培われてきたように思います。
心の動揺に振り回される事を恐れずに、日常は本番だと思い、どんな場面でも心を落ち着かせヨーガを深めていきたいです!

地元伊予灘サービスエリアから見る夕日。松山市界隈がとても綺麗に一望出来る場所です。

玉井眸


晴れの日も雨の日も主クリシュナ ─ミーラー・バジャンによせて

先日とても暑かった日に、家の近くを歩いているとアスファルトの上にゆらゆらと陽炎(かげろう)が立ち上っているのが見えました。真夏の強い日射しの下で私はふと「ミーラー・バーイーが生きたラージャスターンはもっと暑かったのかなぁ…」と、五百年前の遠い異国の地を思い浮かべました。

インドの聖女ミーラー・バーイー(1498~1546)が生まれたインド北西部のラージャスターンは、砂漠や険しい山々が連なった厳しい土地柄で、暑い時期は日中の気温が40℃にもなるそうです。また一年のうち6~7ヶ月間が乾季という、とても乾燥した地域なのだそうです。
現代のようにエアコンなど当然なく、おそらく水道なども整っていなかったであろう五百年前、ミーラーやその土地で暮らす人々はどのような生活を送っていたのでしょう・・・。

別の日、職場から帰宅する途中、急に空が曇ってきたなと思ったら雨が降り始めました。雨はしばらく降ってすぐに止み、その後サァーッと涼しい風が吹いてきました。その日も朝から暑かったので、立ち止まってしばらく爽やかな風を全身で心地よく感じていると、ミーラー・バーイーの詩の一つを思い出しました。

雨がふるふる 楽しきサヴァン
心は サヴァンを待ちわびて

サヴァンに 胸はときめきて
噂を聞きて ハリ来ると
湧いて集まる 黒雲に
下着まで すっかり濡らされて
雨粒が 風に運ばれて
涼しき風も 心地よく
ミーラの神様 ギリダラナーガル
幸せ喜び 歌わんや

          ※サヴァン/雨季
          ※ハリ、ギリダラナーガル/クリシュナ神の異名
          ※下着/サリーの下に着るスカート

          出典/美莉亜訳『ミラバイ訳詩集』

暑い季節が長く続き、乾燥しきったラージャスターンに暮らす人々にとって、雨季の到来はすべてを潤し生命を蘇らせる喜ばしいものだったことでしょう。この詩からは待ちに待った“サヴァン“を喜び迎える心情が伝わってきます。
ですが、ミーラーがこの詩に込めた本当の思い、それは一心に信仰していたクリシュナ神への深いバクティ(信愛)です。
クリシュナ神の肌は青や黒で表されることが多いのですが、クリシュナという名前には「濃い青」「暗い」「黒い」という意味があり、黒雲はクリシュナ神の象徴でもあります。
頭から足の先まで全身をすっかり雨に濡らされたミーラーは、きっと愛するクリシュナに命も魂もすべてが溶け込んでいくような、甘美な歓びに浸されたのではないでしょうか…。

楽しそうな笑い声が聞こえできそうですね。ブランコの勢いで愛するクリシュナ(黒雲)のところまで飛んでいこうとしているのでしょうか?

ちなみに”ハリ”には「太陽の光のような色」という意味もあるそうです。

晴れの日も雨の日も主クリシュナ。
朝の光も夜の闇もすべてが主クリシュナ。
寝ても覚めても神しか見えない。
ミーラー・バーイーのようにそんな日が来るのを私も待ち続けています。

シャルミニー


ちょっとしたグル(師)の行為 ⑴

私にとってなすべき義務は何もない
しかし、私は行為する
人が私を見倣うように

ーー『バガヴァッド・ギーター』ーー

この世に何の義務や欲望のないクリシュナ(神の化身)が行為するのは、「人が私を見倣うように」という真理の行為の模範を人々に示し、真理に導くためです。

人は聖典を読むことで、真理を学び、実践することができます。しかし聖典の学びだけでは、真理を正しく実践し、体得することが容易ではないことは、霊的実践をしている人なら誰もが感じることです。

何事も人は、直接的に人から学ぶ方がダイレクトです。なぜなら、そこには生きた熱、息吹があるからです。その道のマスターなら尚更です。覚者・聖者、つまりグル(師)の行為が与える影響力というのは、聖典の何千倍もの威力があると私自身感じています。
それは「ちょっとした行為」でもそうです。

「見て覚える」「見て盗む」という習慣がなくなりつつある昨今、グル(師)に出会うまでの26年間、私自身もそういうことをしないで育ってきました。
ちょっと前ふりが長くなりましたが、そんな私がヨーガを実践していく中で、「ちょっとしたグル(師)の行為」を目の当たりにして驚き、学んだことをシリーズでご紹介したいと思います〜!


11年前の7月、私はニューヨークのケーヴ(NYミッションの拠点)に師と滞在していました。
まず師の行為に驚かされたのは、抹茶塩を天麩羅にかける時でした。師は小さい匙に抹茶塩をのせ、匙の肢をトントントンとして、美しく均等にふりかけておられました。その時、私はとてもエレガントだなぁと思ったのですが、すかさずアーナンダマーリーさん(ケーヴのホスト)が褒めていました。私も真似てみたのですが、無惨にもガサッと散乱。。

11年前のケーヴからの景色。(2010.7)

また師の行為はエレガントさだけでなく、大胆さも持ち合わせていました。
師は普段、料理をされないようですが、料理ができない私にケーヴでは時折、料理を作ってくださいました。素麺、天麩羅、お好み焼き、焼きそばなど、料理をしていない人とは思えないほど師が作る料理は美味しいのですが、ある時チャーハンを作ってくださいました。
私は補助をしながら、そばで見ていました。野菜を切る時は普通のご様子でしたが、いざ中華鍋をセットしてガスのレバーを「カチッ」と回した途端、師のスイッチも点火、烈火の如くチャーハンを炒めていました。。🔥
とても美味しくいただいた後、私は師に「チャーハンを炒めている時、火のように燃えて見えました」と伝えると、師は次のようにおっしゃいました。

「日本では聖者のことを『聖(ひじり)』って言うやろ? その語源は火(ひ)を知(し)っている者。つまり火をコントロール(制御)できるということなんや」

行為に裏打ちされたその教えに、私はただただ感嘆しました。真理を体現されたまさに「聖(ひじり)の行為」を間近で見た瞬間でした。

11年経った今、私はチャーハンを作っている時、「自分は火のように燃えているのかな?」とふと思ったのですが、そんなに燃えている気がしませんでした。。それもそのはず、そう思った時点で「私の思い」があり、「火そのもの」にはなっていないのですから。。

ゴールは遠し、しかし理想のみを見るべし!!!


7月24日の満月の日は「グル・プールニマ」です。
完全円満なグルの存在を讃え、感謝の思いを捧げましょう!!!

グル・プールニマについては、ここをクリックして読んでみてください👈🌝

ゴーパーラ


誰もが実践できる働きの秘訣

みなさんは学校の授業は好きでしたか? 私はというと……(お察しください)。
けれど今、楽しみにしている授業があります。それは誰ヨガ(誰もが実践できるヨーガ)です。自分自身の人生や心、幸せといった誰もが身近に感じ、時に思い悩んだりする事柄をテーマに、ヨーガではどう教えているのか、自身の生活でどう実践できるのかを学べるオンラインクラスです。
4月に開講し、月に一回、半年間をかけて学んでいきます。その期間は同じ顔ぶれのグルバイとZOOMで顔を合わせます。初回のクラスでは自己紹介をし、さながらクラス替え後の教室みたいだなぁと感じていました。担任の先生は先輩グルバイのサーナンダさんです。2時間のクラスの中では、「どうなったら本当に幸せですか?」、「なぜ働かないといけないのですか?」といった問いかけに向き合う時間があるため、講義の内容をより自分のこととして捉えやすいように感じます。

出勤途中に咲いている朝顔。目の覚めるような鮮やかな色で、気持ちよく仕事に向かうことができます。

5月に行われた2回目のクラスでは、「働きの秘訣」と題して私たちが働く理由、そしてどう働けばいいのかを教えていただきました。「生活のためだから」と、私は心のどこかで仕方なく働いているように思っていました。しかし、今の仕事を選んだのは自分です。選ばざるを得なかったのだとしたら、その原因を作ったのも自分です。私の場合ばっちり思い当たることがありますが、自覚していない過去世からの原因も作用しています。いずれにしても自業自得、つまりカルマということになります。新たなカルマを作ることなく、カルマを果たしていくような働き方ができれば、より良い自分になっていくことができるとこのクラスで教えていただきました。
一日の中で働いている時間は大半を占めています。(社会の中で勤めるといった意味合いに限らず、親などの役割や家事も含まれます。)しかも毎日のことです。ということは、そこでの行為次第で、多くの時間が自分をより良くするチャンスに変わるということになります。毎日がチャンス…?!何それ最高!!と私の瞳はきらめきました。本当に重要なのは何の仕事をするかではなく、「どう働くか」だったんです。
では、肝心の「働きの秘訣」はと言いますと…

・好き嫌い、不平不満を言わない。
・結果や他人の評価に執らわれない。
・目の前の仕事の目的を明確にし、余計なことを考えずに集中する。
・自分の思いばかりを見るのではなく、他者の喜びを自分の喜びとする。

どれもシンプルで、仕事の種類を問いません。そして、誰でも今すぐ実践できることです。「そうはいっても難しい…」と言い訳したがる心に負けてたまるかと、「ただやるのみ!できなかったとしても次の瞬間にもう一度チャレンジするのみ!!」そう言って日々自分と闘っています。少しでもこの秘訣を実践できれば、まず自分が楽(心身ともに軽やかに)になることを実感します。そうすれば周囲に気を配る余裕も生まれます。何より発散する空気が違うのではないでしょうか。入り口は自分のためのようであっても、自然と他者のためにもなっている、素晴らしい秘訣です。仕事の効率化や成果を上げる方法は多く説かれていても、こんな大切なことを教えてもらえる機会にはそうそう出会えないように思います。ヨーガを学んでいる、いないに関わらず、多くの人の助けとなる教えだと思いました。

海へ流れる川。奥は瀬戸内海です。身近な風景ですが自然の壮大さを感じ、大いなる存在に想いを馳せずにいられません。車の窓を開けて走ると様々な鳥の声が聞こえてきます。

私はこの誰ヨガの授業を受けているとワクワクしてきます。「秘訣」という言葉を辞書で調べると、“人に知られていない特別な良い方法。おくのて。”と出てきます。まさにそんなことを教えていただけて、知りたかったことはこれなんだ!!と体中から力が湧いてきます。最初にこのクラスを学校の授業のように例えましたが、この授業ではテストもなければ成績もつきません。その代わり、日常がテストです。参考書を頼りにするように、この強力な秘訣を頼りにして、私はカルマ(業)からの卒業を目指したいと思います!

このカードの裏面には、『バガヴァッド・ギーター』第2章48節の教えが記されています。 「アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地であると言われる。」 働きの結果に執われそうになった時、思い出す教えのひとつです。

 

大森みさと


ブラザー・ローレンスの教え〜神との対話〜

最近、複雑な問題に直面し、その答えを求められることがありました。
いろんな人の立場が絡まる問題であったので、答えを出すのが難しいと感じ、どうしようかと考えていました。
そんな時、私はブラザー・ローレンスに出会い、彼の信仰心にとても感銘を受けていました。
彼の実践の特徴の一つが「神との対話」です。

「私たちは何をするにも、すべてのことを主に相談する習慣を作らねばなりません。そのために、神と絶えず語り、自分の心を神に向ける努力をしなければなりません」

私は彼に倣い、瞑想の時にその問題を神へ相談しました。
そうすると突然「光」が見え、「光あれ」という言葉が自分の内側から出てきました。
その時私は、「そうか、自分が答えを出すのではなく、ただ光のようにあれば答えが照らし出される!」と感じ、自分のするべきことが示されたように思いました。
その直後、期せずして次から次へとその問題に関する出来事が起こりました。
私はただ光のようにあることを心掛け、淡々とその事象に対応し、そうすることで複雑に見えていた問題の答えが自然と照らし出され、無事に解決に至りました。

ブラザー・ローレンスはおっしゃいます。

「神は決して私たちに大きなことを望んでおられるのではなく、私たちがすべての時の瞬間瞬間をわずかでも神をおぼえ、神をあがめ、神の恵みを求めて祈り、私たちの苦しみを打ち明けて語り、神がすでに与えてくださった恵みや、今、試みの中に与えてくださっている恵みをおぼえて感謝するのが大切なことだと思います。神が求めておられるのは、あなたができるだけ多くの時に、神を自分の慰めとすることなのです」

私は、ブラザー・ローレンスを通して問題の解決に至ったことを、神に感謝しました。
でも改めてこの教えを読んだ時、もっと大切なのは「結果に執らわれず、どんな時も神をおぼえ、あがめ、祈り、神の恵みに感謝すること」であると、さらにまたブラザー・ローレンスから教わったように感じました。

「世の光」であられたイエス・キリスト。

ゴーパーラ


オンラインで「理想の聖者」について語らう!

6月に入りましたが、皆さま、いかがお過ごしですか?
こちら京都は緊急事態宣言が再々延長され、私の住む嵐山は観光客も少ない状況です。
そんな中ですが、5月は多くのグルバイ(仲間)とオンライン交流をしました!

「フォカッチャの会」では愛媛、金沢、和歌山、また台北のグルバイと楽しく有意義な時間を共有しました。

また、ニューヨーク・ミッションで行なわれている「Study In Practice (SIP)」にも3回続けて参加させていただきました。

「学ぶことを学ぶ」がテーマのSIPは、余談なしの真剣な勉強会で、終始ヨーガの話が展開されます。
「ヨーガは知識ではなく実践、そして体得」
そう師は教えられますが、「どうしたら知識ではない学びができるのか?」「自分の偏った考えに陥らずに学べるのか?」「どのようにヨーガの教えを日常に結び付けられるのか?」といったことを話していきます。
会に参加する中で、私自身改めて感じたのは、やはり「学ぶ」には「理想の存在」が必要不可欠だということです。
「こうなりたい」「こう生きたい」「こうすればいいんだ」という気付きや道標が、理想の存在を見つけることでより明確になるーー
つまり、理想の存在を持つことで、学び、見倣うことがより実際的になされ、修行者の大いなる助けになると思ったのです。

SIPに参加した数日後、フォカッチャの会のヨーガ・トークスの時間には、皆さんと理想について話をしました。

参加したグルバイたちは、それぞれ理想の聖者をもっておられ、そこに近づく努力をされていました。
以下、要約したものをご紹介します!

神に対してひたむきで真っすぐなスワーミー・アドブターナンダが大好きで理想としていますが、私は以前、人間関係に悩み、部屋で声を押し殺してよく泣いていました。そんな時、アドブターナンダのエピソードを読みました。「人気のないところに行き、泣いて神に祈らなければならない。その時に初めて、彼はご自身をお示しくださるだろう」というシュリー・ラーマクリシュナの教えを実践していたこと、「彼はこの世の何事にも頓着せず、人生の唯一つの関心ごとは師にどのように忠実にお仕えするかということだった」、これらに衝撃を受けました。「私は自分のことばかり考えて自分のために泣いている。こんなばかばかしいことは、もうしたくない!神を求めて泣きたい!神に対して誠実に真摯に生きたアドブターナンダのようになりたい!」苦しい時だったからこそ、真逆の生き方をしていたことに気付き、より深く心に響き、理想に生きたいと心底思うことができました。

・昔から闘う女性に憧れている自分がいて、その性質を棄てるのではなく、ある時から生かそうと思い、闘う女性の究極に女神カーリーを見出しました。また理想の聖者は、煉瓦に頭をぶつけるぐらい狂っているナーグ・マハーシャヤ、それしかないと思っています。

・以前、理想(の聖者)を決めかねていた時、先輩弟子から「気楽に決めていいよ」とアドヴァイスをもらいました。理想って気楽に決めてええの?と戸惑いつつ再考……スワーミー・プレーマーナンダの伝記の一節「彼は骨の髄まで清らかだった」に触れた時、「私には無理だ」とすぐに自分でもびっくりするほどの拒否反応が出た事を思い出しました。そして、なぜそれほどまでに拒否したのだろうとその原因を探っていく中で、逆に清らかさに憧れをもっている自分に気付き、プレーマーナンダを理想としました。彼に近づきたいけれど近づけない。壁を感じていたのですが、つい最近、どうにかしたいと七転八倒していると、「プレーマーナンダ」という「名前と姿」を超えた言葉では表せない『何か』が理想であり、更にその先に師のヨギさんがおられるのを感じました。
プレーマーナンダの言葉、「まずはじめに全身全霊でひるむことなく誠実であるように試みることだ。過去、現在、未来におけるいかなる時も、真理は必ず勝利する」が大好きです。

・最近、ブラザー・ローレンスの『敬虔な生涯』を読んで、とても感銘を受けました。この人生を彼のように神への礼拝に生きたいです!

理想について話すのは、本当にいいですね。
とってもポジティブになれます!!

最後に、私の理想の聖者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの最高に力強い言葉を紹介させていただきます。

皆さん自身の心にむかって、「私は彼である、私は彼である」とおっしゃい。歌のように、それを昼夜、心の中に響かせなさい。そして死の時には、「私は彼である」と宣言しなさい。それが真理です。世界の無限の力は皆さんのものです。皆さんの心を覆っている迷信を追い払いなさい。勇敢になろうではありませんか。真理を知り、真理を実践せよ。ゴールは遠いかもしれない、しかし目覚め、立ち上がり、ゴールに達するまで止まるな!

今こそ、内面へのヨーガを深める時ーー理想を見つけ、学び、近づき、一つになる時だと感じます!!

誰かが間違ったボタンを押したら、こんな画面になりました。

ゴーパーラ


『あるヨギの自叙伝』を読んで(9)ーーブラザー・ローレンス

ブラザー・ローレンスという聖者をご存知でしょうか?
『あるヨギの自叙伝』に、彼のことがほんの少しだけ紹介されています。

「17世紀のキリスト教徒の神秘家であったブラザー・ローレンスは、自分が初めて神の直接認識の境地をかいま見たのは一本の木を眺めているときであったと語っている。人はみな木を見ているが、木を見て木の造り主まで見た人はまれであろう」

たったこれだけの紹介でしたが、私は不思議とこの聖者に惹かれて、彼について調べてみました。
すると、「修道院の調理場や靴修理という身分の低い仕事をしながら、常に神と共にあった」ということが書かれていました。
私はそれを知った時、「私も仕事をしながらどんな時でもヨーガ(神)の境地に留まりたいのだ! 彼がどのような実践をして生涯を送ったのか、もっと知りたい!」と強く感じ、彼の談話と書簡が収められた聖典『敬虔な生涯』をすぐに購入しました。


100ページほどの聖典でしたが、ブラザー・ローレンスの素朴な言葉で語られる神への純粋な信仰に、私はただただ胸を打たれました。
以下、その彼の言葉を抜粋して紹介します。

「私たちが疑いの中にあるときにも、私たちが神をあがめ、神への愛をもって行動するという以外に何の野心も持っていないなら、神は必ず光を与えて下さいます。私たちの聖化は、私たちがすることを変えることによるのではなく、ふつう私たちが自分のためにしていることを、神のためにすることによるのです。多くの人々が、ある特定のことをしなければならないという思いに駆られつつも、さまざまな思い込みによってなすために、結局は不完全なことしかできず、それも、きまって手段を目的ととりちがえているのは悲しむべきことです。私の発見した神に近づく最上の方法は、神に従う生活の中で与えられた普通の仕事を、私たちのうちにひそむ人間的な要素から遠ざけつつ、できる限りを尽くして純粋に神を愛するために行なうことです」

「私たちの務めはただ神を知ることです。神を深く知れば知るほど、ますます神を知りたいという飢え渇きを覚えるものです」

「もし神が私を一瞬たりとも見放されるなら、私ほど哀れな者はありません。でも神は決して私を見放されないお方であることをよく知っています。私には信仰によって肌に感じるほどに強い確信があります。それは、私たちが神を捨てないかぎり、神が私たちをお見捨てになることは決してないということです。私たちは神と共にある者となりましょう。神と共に生き、また死ぬ者でありましょう」

神のご臨在と確信に満ちたブラザー・ローレンスの信仰心がありありと感じられる、なんと力強い言葉でしょうか!
私はこの『敬虔な生涯』を何度も読みましたが、その度に新しい発見と新鮮な歓びに満たされるのです。

では、ブラザー・ローレンスがどんな生涯を送ったのか、彼の言葉を軸に少し紹介したいと思います。

ブラザー・ローレンスは1614年にフランスで生まれ、キリスト教信者であった両親に育てられます。軍職に身を投じたローレンスでしたが21歳の時に負傷し、その時から神に身を捧げることを考えるようになります。正確な年代は不明ですが、おそらくこの頃に神の直接認識の境地を体験したようです。彼自身はこの体験を次のように振り返っています。

「ある冬の日、私は落葉して見るかげもない一本の木を見ながら、やがて春が来ると、その木に芽が出て、花が咲き、実を結ぶ……、と思いめぐらしているうちに、いと高き神の摂理と力とを魂にはっきりと映され、深く刻みつけられました。そしてこの世のことはすっかり心から消え去りました。この恵みを受けてから、もう40年たちますが、その時ほど、神への愛を強く感じたことはないと言えるかもしれません」

26歳の時、パリのカルメル会に助修士として入会し、その2年後に修道誓願を立てます。ローレンスは「自らを全く神に捧げ、神への愛ゆえに、神とかかわりのないものはすべて捨てる決意を固めた」のです。ただ、最初の10年は辛い時期を過ごします。苦手な台所の仕事を与えられ、仲間が彼を修道院から追い出そうとしたり、また内的な葛藤が彼を苦しめます。「自分が願っているように神のものとなっていないかという心配」、「いつでも目の前をちらちらする過去の罪」、また「神のいつくしみ」までもが嘆きの源であり(※神が与えてくれるもの、それは神そのものではないと拒んでしまう)、人間も理性も神すらも対抗しているように感じられるのでした。しかし、ローレンスはつまずき倒れてはすぐにまた立ち上がるという、「一度も神から離れたことのない者のように神の臨在を思う訓練」を繰り返し続けます。神への信仰だけが彼の側にあり、苦しめば苦しむほどますますその信仰が増し加わっていき、ついにその魂は神と結ばれる日がやってきます。

「私はさまざまな悩みと思い煩いで一生を終えるしかないと考えていた時、突如として私は、自分が変えられたことに気づきました。その時までずっと悩みの淵におかれていた私の魂は、奥深くに内なる安らぎを味わいました。それからは、単純に信仰により、謙遜と愛をもって神の御前に働くことができるようになり、神を悲しませるようなことは一つとして考えたり、言ったりしないようにしています」

ローレンスがこのように聖化されたのは神の愛はもちろんのこと、神以外のことを放棄する決意と不断の実践、その賜物だということは明らかです。
その後ローレンスは常に神のご臨在の中で生きることになりますが、彼の言葉を借りれば、それは「王よりも幸福な気持ち」であったそうです。

「私は神への愛ゆえに、フライパンの小さなオムレツをうらがえします。それが終わって、何もすることがなければ、私は床にふして私の神を礼拝し、オムレツを作る恵みを与えて下さったことを感謝し、それから、王よりも幸福な気持ちで立ち上がります。他に何もすることができない時、神への愛のためには、一本のわらを拾い上げることでも十分です。人々はどのようにして神を愛するかと学ぶ方法をさがしています。その人たちは、私の知らないいろいろな実際的方法を実行することによって、神への愛を得たいと願っています。さまざまな手段によって神の臨在の下に留まろうと苦労しています。それよりも、すべてのことを神を愛する愛のためになし、生活の必要の中ですべき自分のあらゆる務めを通して、その愛を神に示し、神と心を通わせることによって自分の内に神の臨在を保つことの方がもっと近道ではないでしょうか。複雑なことは何もありません。率直に、単純に、それに向かって行きさえすればいいのです」

さらに驚くことに、ローレンスは病の苦痛が最も烈しいときでさえ、一瞬たりとも辛そうな様子は見せず、喜びに溢れていたそうです。「痛みはないのですか?」と見舞いに来た修道会のメンバーが思わず尋ねると、「すいません。痛みはあるのです。わきが痛いのです。でも魂は満たされています」と答えるのでした。
そして最後に次の言葉を残し、ローレンスは神の身許へ召されたのでした。

「私は今、永遠になしつづけることをしています。神を誉め、賛美し、礼拝し、心を尽くして神を愛しています。他の何ものにも心を煩わされないで、神を礼拝し、神を愛すること、これが私たちのなすべき仕事のすべてですよ。兄弟たち」

私は今回、『あるヨギの自叙伝』を通して本当に素晴らしい聖者にお会いできたと実感しています。
宗教的偏見などは全くありませんでしたが、ブラザー・ローレンスによって初めて、私はキリスト教の信仰がすごく身近に感じられました。
またバクティ・ヨーガでは「神の御名を唱え、ただ神を愛する」ということが説かれていますが、バクティ(神への信愛)の思いもまた同時に身近に感じられました。

私の師であるシュリー・マハーヨーギーはよく次の言葉を言われます。

「愛とは捧げること、自らを他者の幸せのために与えることです」

ブラザー・ローレンスのように日々の生活の中で常に神を礼拝し、愛し、そして他者に奉仕することをしていきたいと私は今、強く思っています。

ローレンスの死後、霊的低迷期の時代にあって宝石のように光を放つ彼の生き方に深い感銘を受けていた修道院長のヨセフ・ド・ボーフォールが彼の談話と書簡を集め、本にまとめます。彼の存在はフランスでは忘れ去られますが、イギリスの地で本の出版が少しずつ重ねられ、世に知られることになったそうです。そして、ヒンドゥ教の多くの修行者もローレンスの本を読んで非常に感嘆しているという報告もあるそうです。こちらの本には、そのことが触れられています。

ゴーパーラ


スワミ・ヴィヴェーカーナンダからのインスパイア

『ヴィヴェーカーナンダの生涯』は何年も前に一度読んだことがあるのですが、断片的な記憶しかありません。しかし、あまりにも有名な聖者ヴィヴェーカーナンダのことは、サットサンガやパラマハンサ、ブログでもよく登場するので有名なエピソードは知っています。久しぶりに読み返してみると、とにかく心臓がえぐられるぐらい感動し、言葉をなくし、ただただ泣いてしまいました。なんと濃密な人生でしょうか。今回は、その感想を少し書かせていただきました。


(ヴィヴェーカーナンダの略歴などは今回省かせていただきます。まだ読んだことがないかた、あまり知らない方は私の説明を聞くよりは実際に読んでもらった方が良いと思います。)

今、私がヴィヴェーカーナンダとはどういう人か?と聞かれたら、こう答えます。

「人間の中にある神性を最も信じ、それをありありと見た人。自分自身がそれであるということも、それを他の人の中に見ることも、誰にでも可能だと断言し、それは、人に奉仕することによって実現する、ということを自らの命を削って世界に発信した人」

読んでいると、本を飛び出してヴィヴェーカーナンダが、今この世界に向けて同じように「全てが神の表れである、だから万人に仕えなさい」と語りかけてくるようで正直圧倒されました。それは彼のあまりにも濃厚な人生全体が、そのメッセージを含んでいると思ったし、一瞬たりともその想いから外れていない彼の一つ一つの行動が、彼の獅子の如く力強い言葉とともに証明しているように感じました。彼は、メッセージを世界に送っただけに留まらず、実際に一人でも多くの人間を目覚めさせるために、具体的に行動を起こし、そのために命を使ったのです。

多くの言葉に感銘を受けましたが、その中で自分自身が時代を超えてヴィヴェーカーナンダの恩寵をいただいていると感じた言葉を一つ紹介させてください。

「ヒンドゥ思想を英訳し、無味乾燥な哲学と難解な神話、奇妙で驚くような心理学をわかりやすく簡潔な一般向けの宗教にして、同時に最高の知性の要求にも答えることは、実際に試みた人にしかわからない大役だ。難解なアドヴァイタが日常生活の中で生命を持った詩的なものとならねばならない。煩わしいヨーガの学説が極めて科学的で実践的な心理学が引き出されなくてはならない。そしてすべての子供にも把握できるような形にすること、それが私の仕事だ。どこまで完成するかは、神のみがご存知だ。働く権利はあっても、その結果に対する権利は持たないのだから」

インドの歴史背景については詳しくありませんが、ヴィヴェーカーナンダの時代(そのもっともっと前から)インドには宗教の地盤はしっかりとあったと思います。しかし、難解で誰にでも分かるようなものではなく、おそらくブラーミンと呼ばれる僧侶階級にある人が理解できるものとなっていたのかもしれません。彼はヒンドゥ思想がもつ、その霊性の宝石をもっと日常生活の中で生命を持つよう、子供でも分かるような形にする必要性を感じていたのではないでしょうか。インド人に対してはもちろんのこと、新しくヒンドゥ思想に触れた世界中の人、特にアメリカ人に対して理解できるようにという思いがあったと思います。ヴィヴェーカーナンダは、インドの貴重な霊性の宝石は、宝石箱がないために汚物の山に埋もれている、反対に西洋は、健全な社会という形で宝石箱を作り上げたが、宝石を持ってはいなかったと言われています。そのため宝石箱を持つ国に、宝石を伝える必要性を感じていました。

そして実際に試みられた彼のいう「大役」の一つが、私たちが手にすることができる代表的な四冊「カルマ・ヨーガ」「バクティ・ヨーガ」「ラージャ・ヨーガ」「ギャーナ・ヨーガ」ではないでしょうか。


クラスに通いだしてまず始めて読んだ本は、「カルマ・ヨーガ」だったと思います。働くということの意味が理解できない、生きるためにお金を稼ぐ必要があることは頭で理解できるが、それをすることが生きることなのかと混乱していた私にとって、働くときの正しい考え方を教えてくれました。「利己心を捨てて働くこと、働きの結果、果実は私のものではないこと、そこに重要性はないということ。結果ではなく、働くという行為によって束縛から解き放たれ、ついには自由になること」自分自身の人生の方向性を知り、安心と喜びを得たことを覚えています。

「キャーナ・ヨーガ」を読んだときは、人間の本性について、私の中に神聖なものがあるのだということを知り、そのものすごく力強い言葉に圧倒されてしばらく動けなくなったことを覚えています。また、神、宗教というこれまで漠然としていた言葉、それでもその言葉の中に「神聖なものがあってほしい」と心のどこかで願っていたことに対して、「それでよかったのだ」と思うことができ、喜びで満たされたことを覚えています。

どちらの本にしても、それを読んで終わりではなく、実際の仕事や家族と関わりの中で、その考えを根付かせようと努力するすべを教えてくれたように思います。これこそが、ヴィヴェーカーナンダが願っていた「アドヴァイタが日常生活の中で生命を持ったもの」となったのだと思います。彼の働きは、時代を超えて、国境を超えて、ひとりのまだヒンドゥの思想を知らない日本人の中に根付き、理想を持たせてくれたと思います。

そして何より、インパクトがあったのが、「誰がこれを言っているのか!」ということでした。これを書いた人が実際に存在していた人間であるということ、それが何よりの励ましでした。人間の可能性をどこまでも広く大きくし、理想的な姿を現してくれました。同じ人間としてこのような人がいる・・・それだけで私は希望を持ち興奮したことを覚えています。

ヴィヴェーカーナンダと自分との関わりについて思いを馳せていたとき、ふと思い出されるエピソードがありました。それは、ヴィヴェーカーナンダのグルであるラーマクリシュナが、修行時代、自らの内にある驕りを無くすため、パリヤと言われる不可触民のトイレを自分の髪の毛を使って掃除をしたというエピソードです。ラーマクリシュナの中に不平等さや驕りが実際にあったのかどうかは分かりませんが、これは弟子に、教えを行為で示すためになされたように思います。誰もの中に神聖がある、すべてが同じ存在であると口で言うだけでなく、実際の行為で見せる。ヴィヴェーカーナンダがアドヴァイタ(不二一元論)を日常生活に根ざしたものとするために奮闘したことは、師であるラーマクリシュナの教え、そのものだったのだと思いました。ラーマクリシュナが実際に生き、それを見たヴィヴェーカーナンダが、それを同じように生き、さらに方法を駆使して世界に広めた、すべての根っこは師であるラーマクリシュナにあるし、こうして生きざまとして師と一つである、その姿にとてもとても憧れを感じました。

ひとつひとつのヴィヴェーカーナンダの行為は、あまりにも大きく、自分の生きている生活とかけ離れていて、彼を理想として何をすればいいのか一瞬わからなくなることがあります。でもそうではなく、彼が信じた人間の本性、神聖さ、純粋さは、すでに誰もの中にあるのだから、それを自らの中に実現していくこと、そして、目の前の人もその神聖な存在なのだから、自分の目の前の人に奉仕していくこと、それだけなのだと気付かされます。

最後にヴィヴェーカーナンダの力強い言葉を紹介して終わりにします。

「私は死ぬまで弛まずに働くだろう。そして死後も世界のために働くだろう。非真理に比して、真理は無限の力を秘めているのだ。それは人格、純粋さ、そして真理の力、人としての力だ。私にこうした力がある限り、あなた方は安心してよい。誰一人として私の髪の毛一本とて痛めることはできない。やっても失敗に終わるだろう、主がそうおっしゃったのだから」

彼は今も働いているのです。私たちもそれに続こうではありませんか。


「私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」

季節は春になり、厚着していた洋服もだんだんと薄くなって身軽になっていきますね🌸🌿
先週の日曜は日差しが強くて私は日中、半袖で過ごしました💦

私は春の身軽になっていく感じがとても好きなのですが、少し前まで心はちょっと重〜い感じがありました😓
識別しても解決されず、どうしようかと思っていた時、瞑想の中で神にそのことを相談してみました。
もうただ、その起こっている事実を神に聞いてもらいました。

するとその瞑想中、2つのリュックサックのヴィジョンが見えました。
一つは重いリュックサック、もう一つは空っぽのリュックサックでした。

瞑想から覚めた時、「あぁ、私は余計な荷物を背負い込んで、思い煩わされていただけなんだ」と思い、それに気付かされたら自然と気持ちが軽くなりました。
そして、次のイエス・キリストのお言葉が思い起こされました。

「疲れた者、荷物を背負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」

その翌日、期せずしてその煩っていた物事に大きな進展があり、とても驚きました。
その後、上記のイエスのお言葉について調べてみると、続けて次のことが書かれてありました。

「私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷物は軽いからである」ーーマタイによる福音書11章

このイエスのお言葉に「軛(くびき)」とあります。
軛とは「牛馬の首の後ろにかける横木」のことで、牛馬を制御する道具のことです。
私は軛と聞いてすぐに連想するのが「ヨーガ」という言葉です。
ヨーガの語源は「ユジュ(軛をかける)」だといわれ、ヨーガは「心を制御して真理(神)を実現すること」を説いています。
上記のイエス・キリストのお言葉「私の軛を負い、私に学びなさい」は、「神の教えである心の制御を実践し、神を見倣いなさい」と読むことができると思います。

心に背負うリュックサックは、やっぱり神のリュックサック(軛)がいいですね。
それはとっても軽く、空っぽだと感じるからです。
そしてその中身は至福のプラーナで満ち満ちていると感じます😇🎒

新緑の嵐山

ゴーパーラ